テンイヤーズ・レイター
トンネルの暗闇で、目を閉じたかのような錯覚をし、少し朦朧としながら、だんだんと目が慣れてきて、対面の窓枠に写る自らの顔をぼーっと眺めながら考えた。
月日が流れるのは本当に早い。
目の前には、ネクタイを緩め、脂ぎった顔で苦しそうに頭を上下させ、叫び声とも、泣き声とも聞き取れる呻きを搾り出しながら、缶チューハイ片手に1日を終えようとする中年男性。
あぁはなりたくない。
僕にはプライドがある。
しかし、20年後の自分が、目の前の中年男性のようにならないと確信を持っていえるのか。
暗闇に、車内の電球が閃光状に淡く伸びながら反射して、火照った頬の熱を感じながら、僕は瞼が重くなるのを感じた。
10年前なら言えた。
そう思う。
将来に対する不安は漠然と頭を過ることはあっても、それは10代の感性にはあまりにもマッチしない。
10代はあまりに輝いていて、世間知らずに起因する能天気な明るさは、まるで風船のように、「好き」って言葉を空気のように吐き出させた。
ずっと、好きだった。
これは嘘だと思う。
六本木のクラブで徹夜して、なんともなしに一緒になった50代位のゲイと、未明にふたりで牛丼を食べた。
「女は一瞬で色褪せる。だから私は食べるだけ。」
彼(彼女)はそう言った。
僕は真理だと思った。
ひとは食べて、寝て、老いて、死んでゆく。ただそれだけ。
初恋の彼女は、結婚して、5歳になる子どもがいた。
連絡先も知らなかったが、仕事先でひょんなことから、彼女と同郷だという男と会った。
彼女、〝すごく〟綺麗なひとでしょう。
すらっとして、モデルみたいで、そして遊び人。
僕も何回か相手して貰ったかな。よくは覚えてないんです。
彼女もきっとそうでしょうけど。
男は言った。
そうですね。〝なかなか〟綺麗なひとですね。
しかし、旦那がひどいんです。広告マンなんですが、家庭を省みない。
外で飲み歩いてばかりいますよ。
奥さんと子どもに手を挙げることもあるようです。
でもね、奥さん全然怒らないんです。献身的に旦那に尽くしてますよ。
僕は、〝なかなか〟、いうコトバが気に入らなかった。
嘘でしょう!
いや、すみません。
つっかかるつもりはないのですが、
彼女は〝すごく〟綺麗なひとですよ。みんな彼女が好きだったけど、ひとりに振り向くことは決してなかった。
男は口元をきゅっと結び、目をぎょろりと反転させて眉毛を気持ち下げながら、少しイライラしたように早口になった。
本当に、献身的で、誠実な女性ですよ。失礼に当たらなければ申し上げると、どちらかというと地味なひとです。
一度お会いしてみてはどうですか。今は千葉にいます。海辺に近い、新築の真っ白な家に住んでいますよ。
金曜日の夜7時。
池袋駅は、たくさんのひとを次から次に吐き出して、ネオンやら、タクシーのクラクションやら、女子高生の笑い声やらが、次から次に交錯して、僕は吐き気がした。
全身から、〝恥ずかしい〟といった感情が、足元から頭のてっぺんを突き抜けて、僕は一瞬、目の前が真っ白になった。
7時半。
彼女は来ない。
8時。
彼女は来ない。
ここ数日で、東京はめっきり寒くなった。吐く息が白い。
空を見上げても、星はよく見えなかった。
8時半。
慣れないスマートフォンのタッチパネルをまさぐった。
新着メールあり。
・・・。
旦那が、急に早く帰ってくることになってしまいました。
ごめんなさい。今日は行けません。
ふと、予備校生のとき、一緒にふたりで海に出かけたのを思い出しました。
ずっと、好きでした。
今度、ゆっくり。ね。
メールの受信時刻は午後5時。
僕のスマートフォンは最近特に電波が悪い。
午後5時が18歳で、
午後7時が28歳。
そして、午後9時には38歳。
決して時計の針は戻らない。
あぁ、18歳のころは良かったなぁ。
この事実は認めたくない。
今の生活が苦しければ苦しいほど、昔にすがることだけはしたくない。
彼女はもう、僕の知らないひとだ。
なんだか、泣きたいような気持ちになって、胸がぐっと締め付けられて、吐きそうだった。
僕の理想の彼女はもういない。
昔、確かに自分の中にあった大切な感情は綺麗さっぱり消え失せて、今はすっかりなくなってしまったことに気づいて、それを、すんなり受け入れて、途方にくれている自分自身に、少し驚いた。
僕は自分自身なにも変わっていないようで、大事なものは確かに失っている。
失った代償に、何か得たものはあるのだろうか。
とりあえず、携帯だけは代えよう。
僕は、そう思いながら埼京線のホームへ飛び込んだ。
テンイヤーズ・レイター