待ち喰らい
自己満足で書いた作品なので及ばぬ所も多々あるかと思いますが、楽しんで頂けたら幸いです。誤字・脱字があるかも知れないので、その時は馬鹿にしないで流してあげて下さいね? 稚拙な表現ばかりですが、どうぞお楽しみ下さいませ。※現在第5章まで更新。
——無知は罪なり、知は空虚なり——
遠い昔の顔も知らない偉人が言うにはそうらしい。
今でも思い出すのは、鬱陶しくまとわりつくべとべと感と、生き血を吸ったかのようにぶくぶくと膨れ上がった柘榴だった。
古臭い書物の匂いに紛れて、辺りを彷徨く黒い塊が不気味に光っていた。
Ⅰ
公園のベンチでくつろいでいると、片手にブルーやらピンクやらの入ったビニール袋を掲げて、笑顔で駆け寄ってくる男が目に入る。
「お待たせ、真希」
満面に屈託のない笑みを浮かべているこの男は私、真希のいわゆる彼氏である。といっても、どちらから告白したとか、何かしらのきっかけがあったというわけでもなく、ただ一緒にいて気楽だからという理由で、日常を共有しているにすぎない。なにより、私も彼もお互いに付き合っているという感覚はない。一方的に周りの人間がそういった噂を信じ込んでいるだけで、当の本人である私たちは、訂正するのも面倒なので、事実だろうがそうでなかろうがあえてそこに触れないようにしているだけである。
「悪いね、いつもいつも」
ごめん、と右手を立てて余った左手でアイスクリームを受け取る。それ、新発売なんだって、と言って渡してきたピンクのパッケージのアイスクリームは、この夏発売の無花果味なんだそうだ。カップの蓋を無理矢理こじ開けて中のアイスクリームと対面する。パッケージはピンク色なのに、中身はどちらかというと赤紫に見える無花果のアイスに少し釈然としない。
「祐樹のは何味?」
アイスクリームに付属してある木で出来た茶色いスプーンで、無花果の果肉を口に運びながら顔を彼に向ける。
「ラムネ味だよー、夏と言えばさっぱり系だよね」
正直夏と言えばラムネという感覚はいまいちぴんと来ないが、それでも満足そうにアイスクリームを頬張る彼を見ていると、指摘するだけ無意味だという感覚になる。
高校生宜しく並んでアイスクリームを掬っては運ぶ行為を繰り返しながら、祐樹と言葉のキャッチボールに精を出す。無言の時間が特別気まずいというわけではないが、公園のベンチに座って黙々とアイスを食べるだけというのも、なんだか寂しい気がしたからだ。
「こないだテレビで蜘蛛の生態調査の番組やってたんだけど、国外には集団をつくる個体もあるんだって」
「蜘蛛の話とかアイス食べてるのにやめてよ」
いくら生物系の専門だからといって食事中にする話ではないと思う、という出かけた愚痴を喉で一時停止させて代わりに暑さで溶け始めた無花果アイスを飲み込む。
「食事中に蜘蛛の話はしちゃ駄目なんだ、可愛いと思うんだけどなあ、クモ」
心でも読んだのではないかと思うほど的確な意見と、常人では行き着かないようなとんでもない意見を発して、彼はアイスクリームの最後の一口を口に運ぶ。
私と祐樹は生体関係を専攻する大学に通っている。そのため普段の他愛無い会話にもこういった話題が出ることがある。職業病と言えばそうなのかも知れないが、どちらにせよ午後の陽気に包まれた公園で、あまり薄気味悪い話題を出して欲しくはないものだ。
「こんなに晴れたのは久しぶりね」
少し遅れて食べ終えたアイスクリームのカップを、ビニール袋に乱雑に放り込みながら呟く。昨日まで雨が三日三晩と降り続けたので、お天道様を拝めるのも久々である。とは言っても梅雨明けまではまだ数日かかりそうだと、日が替わる時間帯にいつも見る清楚系美人ニュースキャスターが報道していた。
「梅雨が明けたら夏になっちゃうからやだよ」
「梅雨も夏だと思うけど。なんで嫌なの?」
夏は汗をかくから服がべた付いてしんどいらしい。確かに汗は嫌だ、匂いとかも気にしなきゃいけないし、洗濯も増える。放置しておくと服に体臭がこびりついてしまうから、後でまとめてという訳にもいかない。それでも梅雨の方が乾きが遅くて嫌じゃないか、と思う。
アイスクリームのカップの入ったビニール袋をゴミ箱に捨てるため、地面を蹴ってベンチから立ち上がる。ビニール袋を幼稚に振り回しながら、捨ててくるね、と言って歩き出すと、後ろから漏れ聞こえる声に耳が反応する。
「夏は」
ビニール袋を振り回した手を止めて振り向くと、後に続く言葉を呑み込んで、手で日光を妨げながら空を仰ぐ姿が目に入る。一瞬別人に見えたが、私が振り向いたのに気が付くと、にこっと駆け寄ってきたときの笑顔で、祐樹が手を振ってくる。
「いってらっしゃい」
公園のゴミ箱までは大した距離ではないので、手を振り返してから小走りで向かった。ここ、しじま公園は市内では有名な公園である。真ん中に大きな噴水を構え、その周りには円を描くように花壇が置かれている。花壇に植えられたコスモスは秋になると色鮮やかに花を咲かせ、中央の噴水と相まって見事な眺めだ。私は噴水の横を通り抜け、ベンチと反対側に位置する子供の遊具、ブランコやジャングルジムを避けて、公衆トイレの端に備えられたもえるゴミと書かれたゴミ箱に、アイスクリームのカップの入ったビニール袋を捨てた。小走りしてる様子をジャングルジムに登っていた幼稚園児に、あのおねえさんあしおそいねー、とかなんとか言われて少し恥ずかしかった。帰りは子供達の目に付かないように、公園を囲むように作られた外周を通ってベンチに向かった。外周には、広葉樹が某アニメ映画宜しくアーチ状に並べられており、それらの木々が青々とした葉に、昨日まで降り続いた雨露を光らせていて、そのせいで時折降ってくる雫に気を配りながらベンチまでの道を歩くことになった。
ベンチの横に設置された水道が視界に入ると、そこに座っているはずの祐樹を探しつつ足を速めた。
「あれ、いない」
目的地のベンチには人っ子一人いなかった。さっきまで座ってたのに、と文句を零しながら辺りに注意を払う。彼はその天真爛漫な性格のためか、目を離した隙に活きの良い魚のようにするりとどこかへ行ってしまう。おそらく公園の敷地外には行っていないと思うので、公園の外周を巡って祐樹を探そうと思ったが、再びあの水滴を躱さなければならないと思うと気分が滅入ってきたので、諦めて公園の中心から外側へと探していくことにした。
祐樹ー、と名前を呼ぶのは気恥ずかしいので、優秀な視力を持つ自慢の目を駆使して彼を捜索する。公園をほぼ一周してベンチまで戻ってくると、ベンチと外周との境目にある叢に少年が隠れているのを発見した。どうやらかくれんぼをしているらしく、ちらちらとこちらの様子を窺っているが、そもそも、「ひまわり組 かすがちあき」と書かれた可愛らしいズックが丸見えである。
「ちあきちゃん、みーつけた」
やっぱり見つかったか、と嘆息まじりに振り向くとそこにはよく見知った男が立っていた。
「——祐樹、なにしてんの?」
「かくれんぼの鬼」
彼曰く、目の前で遊んでる幼稚園児達を眺めていたら居ても立ってもいられず、つい遊びに混ざってしまった、ということらしい。しかもその条件として鬼をやれと、たかが5年程度の人生を歩んだだけの子供に良いように使われ今に至るという。祐樹らしい振る舞いであったが、それはすなわち、私は隠れんぼの鬼を追いかける鬼で、祐樹の行動と相まって、隠れんぼをしながら鬼ごっこも同時にするというよくわからない構図を作り出していた。
「私、なにしてんだろ——」
頭の上にクエスチョンマークを浮かべた祐樹が訝しげにこちらを見ている。取り敢えず、いつもの様に祐樹のことは放って置くとして、短時間で見つかってしまったであろうちあきちゃんに声を掛ける。私の所為で見つかってしまったのかも知れないし、何より一瞬でも少年と思ってしまったことに罪悪感を覚えたからだ。
「ごめんね、ちあきちゃん。私の所為で見つかっちゃったね」
腰を屈めてちあきちゃんに目線を合わせるも、なんで謝っているのか分からないといった様子で、小首を傾げて私の顔をじっと見つめてくる。短パンにTシャツという格好で男の子だと思ってしまったが、よく見ると顔の出で立ちはどことなく女の子を思わせる。将来美人さんになるんだろうなー、と根拠のない想像をしていると、突然思い出したかのようにちあきちゃんが叢から飛び出した。
「ゆうきおにいちゃん、けんくんとしょうくんをさがしにいこ」
そう言って私の横を通り抜けて、祐樹の手を力任せに引っ張る。駄々を捏ねるちあきちゃんが可愛くてつい笑みが零れる。今の今まで私の発言に悶々としていた祐樹が、今度は3人で残りの子を探しに行こうと言い出した。切り替えの速さに内心疑問を抱くも、特に異論がある訳ではないので、隠れんぼに参戦することにした。
探索の最中に、ちあきちゃんは近くの幼稚園の園児で、一緒に遊んでいるけんくんとしょうくんも同じ幼稚園のお友達だということを教えてくれた。この辺りは電車も頻繁には通らないような田舎だからか、小学校や幼稚園も少なく、所謂お受験といった習慣もないそうだ。そのため、ちあきちゃん達はみんな揃って同じ小学校に行くことが決まっていると言う。
そういえばこちらに越して来てからあまり考えたことがなかったが、この辺りは都会の雰囲気とは全く違っていた。交通の便も発達していないし、移動には車や自転車を使うのが一般的とされている。しかし量販店や住居などは充実しているので、交通の不便さを除けば、田舎とはいえ生活に不満はない。人口もそれなり多く、昼過ぎ、特に今くらいの時間帯になると街は買い物客などでごった返す。
私達は周囲を見渡しつつ、公園を突っ切るように公衆トイレに向かう。トイレに隠れていれば見つからないと思っているだろうと、ちあきちゃんが言うからだ。
「ここか!」
幼稚園児と大差ないのではないか、心の中でそんなことを思い祐樹の視線の先に目をやる。勢い良く開け放たれた障害者用の男女共用トイレのドアの奥では、いかにもやんちゃっぽい男の子が扉の勢いに気圧されて後ずさりしている。
「しょうくんみっけ」
ちあきちゃんが声を弾ませて宣言すると、ちぇっ、と舌打ちをして不貞腐れたしょうくんが外に出てくる。先に見つかったくせにだとか、トイレに隠れるのはずるいだとか、軽い口喧嘩をしているちあきちゃんとしょうくんは、見ていてとても微笑ましい。私にもこんな時期があったなあと物思いに耽るも、祐樹達はそそくさと次の標的であるけんくんを探すためすでに歩き出していたので、慌てて後を追う羽目になってしまった。
「けんくんいないね」
私達はそれからけんくんを探そうと二手に分かれて公園内を歩き回った。しかし探せど探せどけんくんの姿が見当たらないのである。時刻はもう5時を回っていてすでに隠れんぼを始めて1時間が経過したことになる。日も傾いて来たので、近くにあるしょうくんの自宅を訪ねて、2人を一旦しょうくんの親御さんに預けることにした。
「私たちはもう少し公園付近を探してみますね」
しょうくんの母親に一応親御さんに連絡を取ってもらうことにして、私達は再びけんくんの捜索を続ける。公園の外側にも範囲を広げてみるが、手がかりもなにも出てこない。
「なにか良くないことでも起きたのかな」
不吉なこと言っちゃ駄目だよ、と釘を刺され、何も言えず私は遣る瀬無い気持ちのまま、刻々と時間だけが過ぎていった。
警察に行った方がいいという結論に行き着いたのはそれから暫くのことだった。私達は一先ずしょうくんの母親に状況の報告をするため、足を公園の真南に位置するしょうくんの家に向ける。子供達を放っておく訳にいかないという理由で、外に出れなかったと言う母親から、けんくんの自宅への電話の末、今は留守にしているようで連絡が取れないということが判明した。
絵美さん——しょうくんの母親である——はけんくんの両親と連絡が付き次第私達に伝えてくれるというので、祐樹と私は警察に行って事情を説明することにした。もちろん警察が実際に動いて子供の捜索をしてくれるとは思えないが、それでも何もしないよりは幾分か増しだろうと判断したからである。
「無事だといいね——」
自分に言い聞かせるように呟いて、口数少なく夜の闇に呑まれ出した街を歩く。空を見上げると東の山の向こうから濃紫色の雲が這い出てくるようだ。急ごうと足を速めた時、目の前を赤と白のコントラストが異色な音色を引っ提げて走り去っていった——。
*****
「あー、だりぃ」
投げ打った両足を水泳選手ばりにばたつかせながら、仰け反る形で扇風機に顔を突っ込む。誰に文句を言われる訳でもないがクーラーの温度は控えめにしてある。我ながら素晴らしく親孝行だと思う。時間は午後2時を過ぎた頃で、俺の胃袋が空腹に文句を並べ立て始めたので、昼食を摂ろうと重たい腰を起こす。数年前に亡くなった父親と玉の輿に乗った姉はいないので、家には俺と母親しか住んでいない。母親はパートに出ているのでこの時間は自宅を自由に行き来出来る。
たっちゃんと書かれたプレートが引っ掛けられた扉を押して、階段を乱暴に降りる。毎度のことながら、この階段は俺のことを殺そうとしているんじゃないかと思う。運動しない足腰では階段の上り下りですら覚束ない。やっとのこと我が家のリビングまで辿り着くと、これまたたっちゃんと書かれた付箋と一緒に、白米やらフライやらみそ汁やらがテーブルの上にずらりと並べられている。たっちゃん付箋はそのままにして、丁寧に被せられたラップを外して、すぐさま料理に齧り付く。
「みそ汁しょっぺぇ」
母親はそんなに料理に秀でている訳ではないので、美味しいかどうかと言われると怪しい。味付けが今日のみそ汁の如く強すぎることも間々ある。50年以上生きてこれはないだろ、と思いながら皿の上の食材達を胃に流し込む。物の数分で間食すると、たっちゃん付箋と使用済みラップをゴミ箱に放り込み、食器を台所のシンクに積んで殺人階段を駆け上がる。駆け上がった際に左足の一号線、もとい弁慶の泣き所をぶつけてその場に踞る。軋む左足をなんとか引き摺って、たっちゃんこと、達也くんの自室に身体を滑り込ませる。
部屋に入るなりちょうど1年程前に自作したデスクトップパソコンの電源ボタンを指で押し込むと、起動音と共にファンの回転による雑音が小耳を翳める。昨晩食べたカップ麺が60cm四方の小さなテーブルに置かれたままだったので、パソコンが立ち上がるまでの間を使って、部屋の隅に収まっているゴミ箱に叩き付ける。勢い余って見事弾き飛ばされたカップ麺が、宙を舞いながらシーフードの汁をフローリングに降り注ぐ。くそっ、と自分に苛立ちを覚えながら、飛び散った汁をティッシュで軽く拭き取り、結局テーブルの下まで戻って来たカップ麺に詰め込んで一緒に捨てた。カップ麺に踊らされて時間を浪費したおかげか、パソコンのディスプレイにはログイン画面が映し出されていた。
ぎしぎしと音を立てる使い古された椅子に腰掛け、慣れた手付きでパスワードを入力していく。新しいキーボードを買ってもらう方法を思案しながら、インターネットブラウザのアイコンをクリックする。
「まじ死ねよ」
ははは、と嘲笑まじりにディスプレイに向かって暴言を吐いて、見慣れたネット掲示板にざっと目を通す。某官僚の汚職の記事だったり、某人気アイドルの恥ずかしい画像だったり、ネット掲示板はくだらない情報が転がっている。嫉妬やら侮辱やらで荒れ放題の書き込みに便乗して、達也も面白半分で中傷する。
お気に入りの動画サイトや海外の明らかに法外なサイトをいつものように徘徊して、ネット上の神にでもなった気分で荒し回る。それが達也の日課だった。
「あー、つまんね」
言うが早いか開いていたページを閉じて、押し入れにしまってある家庭用ゲーム機のソフトを取り出す。ゲームソフトのパッケージには、剣や盾を持った美女が激しく剣戟を繰り広げている様子が描かれている。最近巷で話題のオンライン対戦型格闘ゲームで、自分好みのキャラクターを作成して、全国のプレイヤーとリアルタイムで対戦が出来るというアクションゲームだ。
お気に入りのアーティストの楽曲を、違法アップロードしたどこかの誰かからダウンロードした音楽データの再生ボタンをクリックして、ゲーム機の電源を入れる。備え付けのスピーカーから8ビートのリズムが聞こえてくるのに続いて、パソコンの隣に設置してあるテレビの液晶画面にゲームソフトの起動画面が映し出される。
今日の初戦は——と対戦相手のアカウント名を確認する。初めて戦う相手だがレートは俺より少し上、軽くコントローラーを握りしめ、得意のコンボを頭の中で反芻する。 FIGHT の文字が表示されると同時に読み合いが始まる。この格闘ゲームでは最初の一撃をどちらが当てるかというのが重要で、運が悪いと成す術も無く無惨に体力を持って行かれてしまうこともある。所々でフェイントを混ぜ込みつつ、敵の様子を窺う。相手が読み違えたのか、大振りな技を外した隙に得意のコンボを叩き込む。何日も掛けて錬磨したコンボには絶対の自信があった。光線の効果が画面にちらつき、相手の体力がみるみる削られて、あっという間に勝利することが出来た。続く第2ラウンドはレートが高いだけあって、先ほどのようなコンボを当てることは出来なかったものの、見事初戦は栄冠を飾ることに成功した。
「っしゃあ!」
その後勝ったり負けたりを繰り返して、結果的にレートを少し上昇させることが出来たので、満足したように背伸びをしてゲーム機の電源を切った。
気付けばもう辺りは暗くなって、母親の帰宅の時間が近づいていた。部屋の鍵を掛け忘れているのに気付いて慌ててドアのつまみを捻る。カチャ、という音と共に部屋が密閉されたのを確認すると再び椅子に戻る。
スピーカーをヘッドホンに切り替え、周囲の騒音から隔絶された空間に閉じ篭る。窓の外にオオヒメグモの巣が逆さまの照る照る坊主の様に、禍々しくぶら下がっている。駆除するのも面倒なので放置していたが、あそこまで大きくなると考え物である。クモの退治方法を調べようと検索ワードに「クモ 駆除」と打ち込んで、検索結果に十人十色だとでも言うかの如く、クモの画像が所狭しと並んでいるのを見て、調べる気力が萎えた。
テレビのチャンネルを回してお気に入りの女の子が映し出されるのを待ちながら、扇風機の前に行き、汗ばんだシャツを指で摘む。地肌と衣服の隙間に大して気持ち良くもない風を送り込んで、涼を得ようとする。湿気の所為で送られてくる人工風は、どちらかと言えば温風だった。テレビ画面に番組のオープニングが流れ、そのメロディに釣られて身体を180度回転させる。
「今日はシリアス回かよ」
最近は深刻な状況に陥るタイプの話は見るのが飽きるようになった。面白可笑しくギャグを繰り広げているだけの方が、見ているだけで時間を使えるから楽なのだ。制作側も俺達のニーズをもっと考えてほしい、と偉そうに口にする。
「たっちゃん——」
母親の声が聞こえる。いつの間に帰って来たのだろう。声の方向から察するにおそらく扉の前にいるが、ドアを開ける気など毛頭ない。
「——ご飯下で食べてるから」
そう言ってスリッパを引き摺りながら階段を降りる音が耳に届く。
「あとで取りに行くっつの」
毎度のことながら苛々する。大体作られた夕食を母親が寝静まった後に取りに行って食べてるのに、態々報告しに来られても迷惑だと、いい加減気付いて欲しい。
静寂を破るように降り出した雨が益々不快感に拍車を掛ける。不貞腐れた様にどかっと椅子に座ると、ヘッドホンを付けて通販サイトの購入ボタンを連打する。部屋の一角に積み上げられた本やら紙切れやらを一瞥して、嘆息混じりに鼠の左耳をカチカチする。
「耳じゃねえし」
自分で自分に突っ込みを入れつつ、鼠の耳、もといお尻から指を放してベッドに横になる。目の前に現れた金髪碧眼の美女が描かれた紙切れを睨みつけて、荒々しく寝返りを打つ。雨脚は強まる一方で、密閉された部屋には屋根に叩き付けられた雨粒の音が反響する。鎮魂歌とはほど遠い音色に、夢心地を得ながらゆっくりと瞼を閉じた。
Ⅱ
朦朧とする意識の中、霞の向こうから赤い光が視界に飛び込む。よく見ると1つや2つではない。金縛りにでも遭ったかのように固まった身体を無理に動かそうとするも微動だにしない。唯一動かせる頭部を使って周囲を見渡すと、そこには真っ暗な空間に点いたり消えたりする赤い点しかないことが分かった。
「なんなんだよ、これ」
振り絞った声は自分の耳にすら届いたか分からないほどの音しか出ない。蚊が鳴く様な声で必死に助けてと叫び続ける。深い深い闇に覆われて、身体も心も声も耳も感覚の何もかもが遠のいて行く。
赤い点達はみるみる増えて行き、気付いたときにはもう一面真っ赤になっていた。ほとんど気力も体力も使い切って、意識を手放してしまおうと思ったときに、不規則に漂っていた赤い点が一斉にこちらを睨みつける。と同時に目映い閃光に照らし出された自分の姿に愕然とする。
「——こ、こんなこと」
ぷつり、と意識が途絶える。消えかける意識の中、最後に認識したのは、奴らは生き物だということだった——。
*****
点けっ放しにしていたディスプレイの明かりに、睡眠の邪魔をされて目を覚ます。どうやら知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。気怠い体をくの字に曲げて上半身を起こすと、べっとりと汗を流していることに気が付く。時刻は夜の11時。テレビの番組表で視聴する局番と時間を確認して、シャワーを浴びるために部屋を出る。1階のリビングからテレビの音が聞こえないことと、廊下の電気が消えていることから、母親は寝たであろうと勝手に結論付ける。
途中で一度直角に曲がるいつもの階段を、音を立てない様に注意を払って降りて行く。無事に下まで辿り着いたら、左手にあるリビングの対称に位置する脱衣所まで移動する。そういえば、リビングに俺の夕飯が置いてあるはずなので、シャワーの後に自室に持って行くことにした。
脱衣所で自分専用のバスタオルを臙脂色のカラーボックスから取り出し、洗剤の匂いとは対照的な香りを漂わせる布を、最近買い替えたらしいドラム式の洗濯機に乱雑に放り込んで、浴室の扉をスライドさせて中に入る。
汗を洗い流すためだけに来たので、浴槽の蓋はそのままに水道の蛇口を捻る。暫く冷水を垂れ流していると、程なくして体温より少し高めのお湯が、もわっと湯気を立てる。カランを指し示しているノズルを反時計回りに回転させて、温水をシャワーに流し込む。母親が安売りで買って来るシャンプーを頭に、ボディソープを全身に塗りたくって、スポンジやナイロンタオルを使わずに手で擦る。届かない背中は適当にシャワーのヘッドを押し付けて汚れを落とす。同様に髪の毛に付いたシャンプーを濯いで、早々に浴室を後にする。そろそろ髪の毛を切らないと乾かすのが面倒だ。
体に付いた水滴をタオルで簡単に拭き取って、下着を穿いてから据え付けの洗面台で歯を磨く。頭に巻き付けたタオルの隙間から、丁々と響く音が鼓膜を振動させる。シャワーの音で気が付かなかったが、今も雨が降り続いているようだ。
この雨に打たれて窓の外に居たオオヒメグモも死んでしまえば良いのに、とおそらく起こらないであろう未来を想像しながら、口の中の磨き粉を唾液と一緒に吐き出す。水道水で嗽をし、リビングに置いてあるたっちゃんの夕食を持って、部屋に戻る。
たっちゃんのプレートの掛かった扉の向かいには、母親の眠る寝室があるので、物音を立てない様にそっと部屋の敷居を潜ってドアの鍵を締める。寝る前にいつもドアをノックする母親が、今日は何もしなかった所を見ると、仕事で疲れたか、単に俺が寝ていて気付かなかっただけだろう。
部屋の真ん中に陣取っているテーブルに、御盆ごと夕飯を乗せて、そこから茶碗や皿だけを取り出してパソコンの前まで持って行く。パソコンのキーボードに食べ物を零さない様に、犬食いを駆使して母親の手料理を口に運ぶ。いっそ豪快にぶちまけて、新しいキーボードを買わせようかと考えるが、新しいキーボードが手に入るまでの間は、パソコンが使えないことを思うと、堪え難い苦痛を味わう羽目になりそうなので断念する。
食べ終えた食器類は取り敢えずテーブルの上に並べ立て、放置していたパソコンを操作して、スリープモードのために青白い光を放っている画面を切り替える。
「——なんか出てる」
機械的に指を弾いてスリープモードを解除すると、先刻開いたページが消えてなかったのか、将又どこかの違法サイトで出現したポップアップか、見知らぬページがスクリーンを占領していた。
「消し忘れとか初心者かよ」
自分に向かって突っ込みを入れつつ、カーソルポインタを右端のバツ印に合わせる。ふと視線をページに移すと、そこには紫色の文字で「真実の扉」と書かれている。今時在り来たりなキャッチコピーで釣ろうなんて、運営は相当頭湧いてやがる、などと侮蔑の言葉を吐いて右手の人差し指に力を込める。
「あれ?」
画面を消そうと鼠のお尻を叩く。しかし、表示されたページは一向に閉じる気配がない。
「まさか、ウィルス?」
俺の徘徊行為に抜かりは無かったはずだが、完全に固まったようで、他の作業も一切出来ない。軽く舌打ちをしながら強制終了すべく電源に手を伸ばす。
そう言えばそろそろ深夜の娯楽番組の時間だと思い、右手でパソコンの電源ボタン、左手でテレビの電源ボタンをそれぞれ押し込み、片方に静寂を齎すと同時に、もう一方から軽快なBGMが鳴り響く。テレビではすでにお目当てのプログラムが放送されており、パソコンを再起動しながら、歌って踊る平面アイドル達を眺める。特に左から2番目の娘が達也のお気に入りで、各種グッズも取り揃えてある。齢27にもなって明らかに中高生向けの玩具に心奪われるなど、正直羞恥心が黙っていないが、愛してしまったのだから仕方がないのだ。中学、高校、大学と、さらには大学院にまで通って得た株式上場の大手に勤めることになったものの、社内の雰囲気やプレッシャーに耐え切れず、地球が太陽の周りを公転し終えるか終えないかの内に、のこのこと実家に帰って来た俺にとって、この空間と部屋の片隅に積まれた本や紙切れは、唯一無二の慰み物であった。俗物に捉われて意気揚々と人生を楽しんでいるような輩には分からないだろうが——。
パソコンが無事復旧しているのを確認して、テレビ鑑賞に時間を費やした後、日課である掲示板巡りを再開させた。ウィルスに感染していないことを確かめながら、今回の話のレビューを大雑把に書き込む。
インターネット上を縦横無尽に駆け回り、曙の頃に漸く床に就いた。
雨の中を一体どうやって飛んで来たのか、部屋の明かりに誘き寄せられた小さな羽虫が、オオヒメグモの巣で息絶えていた。
*****
私と祐樹は環境生態学と呼ばれる大学の講義で偶然知り合った。教授の話を聞き流す癖のある私が、運悪く中間試験の範囲を聞きそびれてしまった、というのがそもそもの始まりだった。
普段から周りとあまり接点を持とうとしないでいる私は、友人に話を聞いてなかったという事実を言うに言えないでいた。1人で教室の机と睨めっこしていると、彼が、丸々と太らされた子豚のような字で書き下したメモを、睨めっこしている私の鼻先に滑り込ませて来た。メモには先ほど私が聞き逃したであろう中間試験の範囲の詳細がきっちり書かれていた。ありがとう、と一言お礼を添えてメモを受け取った。
「よかったら一緒に勉強しない?」
講義が終わると彼が、友達いなくて、と言葉を付け足しながらぺろっと舌を出して声をかけてきた。私は迷惑をかけると思い、断りの台詞を考える。勉強するにしても、大して学力が達者ではない私はいつも気を遣って誘いを断り続けたことで、今では図書館に籠ってお気に入りのチョコレートを貪りながら、黙々と課題や試験勉強を消化していく日々を送っていた。
「じゃあ昼過ぎに図書館に来てねー」
誘いは遠慮しようと口を開くか開かないかのうちに、勝手に約束を取り付けた上、気にも留めない様子でつかつかと教室を出て行ってしまった。状況を理解出来ぬまま立ち尽くす私を余所に知人たちは、がんばれ、などと訳の分からないことを口々に投げつけるだけ投げつけて放置。正気に戻った頃には、数人の男子学生を除いて教室に残っていたのは私だけだった。
溜め息を一つその場に置いて、億劫な足を大学図書館へと向ける。途中購買で安くなっていたメロンパンとパックジュース、それからいつものチョコレートを買って、図書館の重たい扉をくぐる。ドアは急げと言わんばかりに初冬の風を巻き込んで、ばたんと音を立てる。階段を上っていつもの自習スペースへ行くと、中間試験が近い所為か館内は普段よりも騒然としていた。先ほどの開放的な態度の彼を探すべく、辺りを注視しながら自習のために設けられたテーブルの合間を縫っていくと、意外にも簡単に彼の姿が目に入った。
「さっきはどうも」
私の特等席——といっても自分で勝手に思っているだけだが——に座している彼を一瞥して、内心少し苛々しながら彼の隣の席に陣取る。購買で買ったメロンパンとパックジュースを取り出しながら、断るタイミングを見計らう。
「困った時はお互い様だよ。という訳で早速なんだけどここの演習問題教えて」
なんというか、この強引さに根負けして結局一緒に勉強することになったり、意気投合したり、加えて彼は前から私が図書館で1人で自称特等席にいることまで知っていたらしい。断る積りで来たのに、寧ろ誘いに乗ってしまっている辺り、案外私は意志が弱いのかもしれない。
「この問題は確か——」
午後の時間は私も祐樹も講義がないということなので、書物と幾人かの学生に囲まれたまま、ノートにペンを走らせた。メロンパンを千切って口に運び、購買のおばちゃんにもらったストローでパックジュースを啜る。甘い香りで一杯になった口の中で、贔屓にしているチョコレートを転がしながら、試験勉強を進める。
壁に埋め込まれた正方形の窓から、西日が差し込んで来る頃には、身支度を整えて帰る準備を始める。大学は夜の間出入りが出来なくなるので、少し早いけど夕飯でも食べて家に帰ろう、ということになったからだ。
席を立って、果物のイラストが印刷された手提げ鞄を肩に掛ける。出来るだけ自習中の他の学生の邪魔にならないように、踵からつま先への重心移動を意識して歩く。歩き易さを重視した底の低いパンプスがこういう時は役に立つ。普段からお洒落に気を使うタイプではないので、腫れぼったいベージュのロングコートの下から顔を覗かせるデニムのパンツが、杏色のパンプスと合わさって異彩を放っている。我ながらなんと残念な格好だろうと、自己嫌悪に陥りながら、螺旋状に作られた図書館の階段を降りて行く。世間的には珍稀だと思われる男性司書に小さく会釈をして、重たい扉の取手を握りしめる。腕に力を込めると、日が落ちて温度の下がった冷気が、首筋をなぞって通り過ぎる。
「うわっ、寒い」
私に続いて外に出た祐樹が肩を竦ませて身震いした。ここ数日で気温がぐんと下がり、部屋の中に居ても暖房が必要なくらいだ。
大学の正門から入って右手にある通路を進んで行くと、私達環境生物学科の生徒が所属する研究室があり、そこから更に正門から東西に伸びる中央の通路に並行する様に、大学構内の奥に向かうと、今私達のいる大学図書館の正面に出る。私達は大学図書館の南東に位置する門——正門と図書館を繋いだ直線上にある——から出て、近くにあるファミレスに行くことにした。
セルフで好きな野菜を好きなだけ取って来れるサラダバーが売りのファミレスで、大学の女の子達も屡々利用すると聞く。目的地に向かう道すがらお互いの身の上話に花を咲かせる。学校のこと、友達のこと、それから家族のこと。生物の道を志した時期が一緒だとか、友人は余り多くないだとか、意外にも似通った点ばかりだということが判った。家族のことは上手く躱されてしまったが、それでも自由奔放で素直な彼と、暮れぬ先の提灯で天の邪鬼な私との共通点が見つかっただけなのに、良好な関係を築けるという確信を得る私がいた。
街道沿いの木々が葉を落とし終えて、あられもない姿で立ち尽くしていた。
「何名様ですか?」
「2人です」
店員に促されるまま禁煙のテーブル席に向かい合う形で腰を下ろし、カロリーを気にして控え目に注文する。お腹空かない? と見るからに重力とは無縁の存在である祐樹が、無神経に訊ねてきたので、あなたの方こそ足りないんじゃない? とやや厭味を込めて返す。
「僕は小食だからねー」
はあ、と私の意図を全く汲み取らない形の発言に、半ば呆れ顔で溜め息を漏らす。もっと太れよ、馬鹿野郎。
「おまたせ致しました」
運ばれて来た料理を見るなり満面の笑みを浮かべる祐樹が、不覚にも私の頬の筋肉を緩めてしまう。綻びた表情を悟られまいと身体を翻して、女子大生一押しのサラダを盛り付けようと席を立つ。
後になって知った事実だが、大学の生徒が頻繁に出入りしているこの店舗で、私達を見たというのが、噂が広まる元々の原因だったらしい。誰からの誘いも断っていた私と、誰にも誘いを切り出さないと言われていた祐樹が、一緒にいる状況はよほど知人達には珍しいことだったらしい。
それからの月日は毎日では無いにしろ、一日の半分以上を共に過ごすようになっていった。大学の中庭に植えられた柘榴の残った実が、無惨に地面に転がる季節のことだった。
Ⅲ
お天気お姉さんが、今年の梅雨は例年よりも長引くことが予想されます、などと営業スマイル全開で発言していた通り、雨はこれでもかと言うほど降り続いた。おかげでただでさえ少ない着替えがなかなか乾かず、汗に塗れた状態で、俺の体を覆っているのが日常と化している。不快感と闘う生活を続けるのも、いい加減うんざりしてきたというのに、御天道様は一向に姿を現さない。
「じゃあ行ってくるから」
明日から母親が仕事の都合で暫く地方の営業所に勤務するそうだ。期間はおよそ三ヶ月ほどで、秋の果物が市場に出回る頃には戻ってこれるという話だった。
小言のように繰り返す、たっちゃん、を五月蝿いと感じることから開放される代わりに、身の回りの世話をしてくれる他人がいないという事実を突き付けられて、結局以前よりも鬱積した思いが強くなっていた。
母親が置いていった僅かばかりの紙幣と、冷蔵庫に残された肉や野菜を確認すると、誰も居ないことが現実として意識の上に降りて来た。仕送りするからと言っていたが、正直当てになる保証はどこにもない。
「買い物に行かなきゃなんねえのか」
外に出て人とコミュニケーションを取るなんて、当たり前の行動が今となっては酷く重荷である。陰鬱な空までもが俺を嘲笑っているようだ。
立ちはだかる大きな障害に反発する様に、見慣れた液晶から放たれる光に顔を埋める。掲示板を巡って、落ち込んだ気分を晴らそうとするが、そうしようとすればするほど、絡まった糸の如く、自分自身の心を強硬に締め付けて行く。目に飛び込んだ情報を脳で処理するより早く遮断して、右手を這わせるだけの無意味な時間を作り出している今の俺の姿は、知能の無い蟲達にすら滑稽に見えることだろう。哀れな姿を見せつける様に窓の外のクモの巣を覗き込むと、小さな羽虫に混じって指の先くらいの蝶々が、網にかかって餌食となっていた。自分の食事が何もせずとも用意されるのだから、我が家に住み着いたクモは随分と気楽なものである。
知識欲だけが先走って、次々とデジタルな頁を繰っていく。掲示板の中は相変わらず、例の政治家の話や芸能人のスキャンダルで溢れかえっている。
「近年、我が国の経済事情は——」
テレビから流れる声が左耳を刺激する。どこかに明るい話題でもないものかと、ディスプレイに目を凝らす。
「——なんもねえし」
更新された記事の一つ一つを確認していくが、少なくとも普段利用している掲示板には、これといって目新しい記事はなかった。どこも詰まらない話ばかりで、それに未だに噛み付いているネットユーザー共も存外詰まらないものだ。在り来りのペンネームを使って、煩いほどに不平不満を並べ立て、散々掲示板を荒らしまわった後、一眠りするため床に就いた。
翌朝——といっても既に時計の短針は空に向かって伸びているが——明らかに睡眠過剰で不明瞭な脳内に眩しいという感覚が現れて目を覚ます。昨日までの豪雨が嘘であったかのように窓から揚々と日光が差し込んでいる。
大学時代に戻った様な奇妙な感覚に包まれながら、階段を降りてキッチンへと向かう。作り置きなどはある筈も無いので、炊飯器に無洗米を突っ込んで、母親の残していった玉葱や人参を適当に炒めていく。有り合わせで作った割には、案外普通の料理が出来た。リビングの真ん中に置いてあるテーブルで、そそくさと食事を済ませ、食べ終わった食器はシンクに乱暴に積んで、自室へと戻っていく。生まれて初めて下等な蟲に羨望の念を抱いた。
部屋の中は久々の太陽のお陰で、夏日宜しく熱気で蒸し返していた。電源が入ったままで放置されていた電子式汎用計算機が、音を立てて苦痛を露わにしていた。いや寧ろ、慌しく回転するファンが、まるで俺のことを叱責しているかのようだ。
「暇だな」
いつもよりも早く起きた所為で、昼過ぎに何もすることがない。今からパソコンに向かうとすると、夕方になる前に飽きてしまうだろうし、ともすれば、何かしら用事を準備せねばならない。世話人がいなくなったことで、幾つか必要なものが出てくる筈だが——。
「ん?」
ふと部屋の中の違和感に気付く。起きた時は俺と同じ様に睡眠状態だったパソコンのディスプレイに、記憶の片隅に追い遣られていた紫色の物体が鎮座している。
「真実の扉——」
紛れも無く画面に映しだされた4文字は、以前俺の命の次に大事な機械に影響を及ぼしたと思われる、悪性のウィルスに似た紛い物だった。
今度こそ危険な匂いを察知した年季入りの鼻が、反射的に四肢に伝令を送る。消さなければ、という思いでベアリングの軋む椅子に腰掛けて、キーボードを指で叩く。伸び切った爪がかつかつと音を立てる。鍵盤の上で飛び跳ねる杏色に滲む汗が垂れて、糸を引いていた。
「くそっ、動かない」
僅か数分程度の時間だったにも関わらず、日付が変わったような錯覚に見舞われる。遂に諦めてパソコンの電源を落とそうと、腕を本体に向かわせた時にふと脳裏に閃電が走る。
「人を呼ぶ、部屋——」
雷雨が一際激しく荒ぶっていた先日、掲示板上で見かけた「人を呼ぶチャットルーム」の記事。投稿者曰く、突如出現したチャットルームでは、巷では話題にすら成り得ない裏の情報がやり取りされているらしい。そこで得た情報を公の場で口外したところ、口封じにあったという人物の末路までもが、克明に記されていた。いずれも無惨な死に様を衆目に晒しておきながら、警察やマスコミでも大きな報道にはなっていないらしい。このチャットルームには見たこともないドメインが使われており、何故か毎日更新されるため外からのアクセスが自由に行えないということだった。一体どういう設備で実現しているのか分からないが、馬鹿馬鹿しいと必要以上に暴言を吐いた記事だった。
ようこそという文字の下に、部屋に入ると書かれたリンクが埋め込まれていて、そこだけクリックが出来るようになっていた。
ごくり、と生唾を飲み込んで、催眠術に掛かったかの様に自然と、右手の置かれた尾の繋がった鼠を這わせる。
震える人差し指を躊躇いもなく押しこむと、画面が真っ白に光ってから新たなウェブページが表示される。
「毎度ありがとう御座います。管理人の群脚です。おや、あなたは初めての方ですね。そうですか、たっちゃんさんというのですね。宜しくお願いします。当サイトでは日常から隔離された人知を超えた案件を扱っております。ここで見られたことは一切の他言を禁止しております。ルールに同意出来ない場合は、今すぐパソコンの初期化を行なって下さい。ルールに同意され当サイトを利用なさるなら、以下に表示されるリンクをクリックして下さい。そうした場合、規約に同意したと見做し、たっちゃんさんのコンピュータ上に幾つかのプログラムを埋め込ませて頂きます。たっちゃんさんの訪問を心よりお待ちしております」
長々と書き下された文章には悪意しか感じなかった。確かに先の投稿者の言う通り、口外した時点でこのサイトの管理人に発見され、何かしらの制裁を受けることになりそうだ。しかし、だからといって俺の楽園を荒れ放題の更地にするわけにはいかない。なぜクリックしてしまったのかと自己嫌悪に陥った頭で、取り敢えず状況を先送りにしようとパソコンの再起動を試みる。
ブチッ、という音と一緒に表示されていた画面が黒に染まる。それと同時に冷や汗が背中を伝い落ちる。
「俺、電源ボタン、押してない——」
突如消えたディスプレイを呆然と見つめ返すと、再起動したコンソール画面に文字が浮かび上がる。
「ドウモ、 グンキャク デス。 アナタノ パソコンノ エンカクソウサニ セイコウ シマシタ。 センタクシハ ショキカカ アクセスシカ アリマセン」
達也は己が戦慄するのを全身で感じ取った。この群脚という奴は、着実に、計画的に、確実に俺のことを貶めようとしていたのだ。
奴の指示によれば、サイトにアクセスする場合はEnterキー、ここで初期化の場合はF2キーを押せとのことだった。放心した脳味噌に身体を動かす電気信号を出させて、左の指の一本をキーボードに近づける。
——この世の真実を知りたくありませんか?——
初期化しようと伸ばした指は、鍵盤上の右端にある大きなキーを力一杯押し込んでいた。太陽光に照らされたクモの巣は、もはやどこにカレがいるかも解らないほどに肥大化していた。
*****
けたたましく鳴り響くサイレンの音に引き摺られる様に、私達は舗装路を突っ走っていた。はあはあ、と乱れた呼吸を整えながら、額に滲んだ汗をお気に入りの果物のハンカチで拭う。待ってよー、と後を追って来る祐樹が、私のすぐ後ろで地面に腰を下ろす。
「行儀悪いから止めなよ」
冗談交じりに祐樹の愚行を注意することで、焦燥感を抑え込もうとする。先程の救急車に嫌な予感がするからだ。
「おいおい、聞いたか」
「コンビニの裏の通りだってよ」
鼻や耳に金属片をぶら下げた、見るからに柄の悪い高校生が密々と話す声が聞こえてくる。やはり何かあったに違いない、そう思った私は祐樹のことなど忘れて、公園を迂回するように、高校生の向かった先に足を運ぶ。方向から察するに、公園の北西に位置する、全国でも有名なコンビニエンスストアだろう。大通りを抜けて、近道の積もりで細い路地を進んで行くと、ほんの5分もしない内に目的地に到着した。結構な速度で走ってきたらしい。
コンビニ周辺には、事件の様相を一目見ようとたくさんの野次馬が集まっていた。人の不幸は蜜の味と言うが、本当に蜜を吸えているのは極少数のようだ。実際にご馳走にありついたであろう男性が、人垣を掻き分けて帰路に着いたところを視界の隅で捉えるや否や、汗をそのままにジャージ姿の男性に突撃した。
「何があったんですか?」
「あ、ああ、人が殺されたらしい。お譲ちゃん、悪いことは言わないから早く家に帰った方がいい」
あの——と被害者の容姿を尋ねようとしたが、男性はふらふらと夜の街に消えてしまった。殺人が行われたという事実に驚くより先に、殺人に遭ったのは誰なのか、ということに私の頭は意識が向いていた。
人と人の合間に身体を滑り込ませながら、前へ前へと雑踏を押し分ける。押し返される度に全身から吹き出た水滴が地面に染みを作る。私の周りだけゲリラ豪雨みたいだ。
やっとのことで一番前に辿り着くと、救急隊員が、警察はまだか、と話している最中だった。足元には大きめの麻袋が転がっていて、所々に黒い斑点が刻まれている。よく見ると麻袋のある辺りに小さな水たまりが出来ている。
——血だ。
余りにも非日常な出来事に、思考が追い付かないでいるのに、はっきりとそう認識出来たのは、救急隊員の靴に跳ねた液体が、野次馬達のカメラやら携帯やらのフラッシュで、鮮明になったからだ。白い長靴の上に乗ったあれは、紛れもなく人の血液だった。
「酷い」
声にならない声で漏らした言葉が遅れて自分の耳に還って来る。半分以下に低下した判断力で目の前の現実を受け入れていく。
「殺されたの女だってよ」
「刺された様な痕があるんだけど」
周囲の人々が口々に被害に遭った人の様子を話している。中にはその惨たらしさに耐え切れず、人混みを後にする者も見当たる。私も便乗して人の居ない場所まで移動する。
お、美味しい、果物、ぼ、僕の——
ばっ、と酷く気味の悪い声に振り返ると、瑠璃色の合羽に身を包んだ背の低い人影が横切ったのが目に映る。汗ばんだ背中を一瞬で寒気が襲う。今日晴れてたよね、と合羽姿を怪訝に思ったと同時に、ぽつり、と汗とは違う水滴が鼻先を濡らす。
「——もう降ってきた」
予報では明日まで晴れると豪語していたのに、と慌てて近くの軒下に逃げ込む。気付けば一面濃紫色の暗雲に覆われていた。降り始めた雨に反応した衆庶が我先にと近くの建物に駆け込む。騒然とした路地に人々と入れ替わる様に警察官を載せたパトカーが到着した。
警察官に促されるまま民衆が現場から追い出されると、雨脚の自己主張もピークに達していた。ふぅ、と溜め息ついでに曖昧な感覚を吐き出すなり、鞄の中から携帯電話の振動が肩に伝わって来た。
着信画面を見遣ると電話は祐樹からだった。もしもし、と言って電話に出ると、今どこ? 雨降って来たけど大丈夫? と心配そうな声色を滲ませていたので、今の状況と落合う場所を決めて、大丈夫だよ、と言って通話を切った。
鞄の中に常備されている折畳式の傘を開いて、待ち合わせのスーパーマーケットに向かって歩き出す。傘を買えずに諦めて走り出す群衆を尻目に、急な大雨で冷えた体を温めようと、混雑しててんやわんやのコンビニで缶コーヒーを買って行くことにした。
右手にコーヒー、左手に傘を携えて、夕飯時の住宅街を南に抜ける。しじま公園の丁度西にある大型スーパーは、ここいらの大学生にとって、生活を支える大事な施設の一つである。大学の西側を南北に伸びた大通りを、しじま公園に向かって進むと、この通りを挟んでしじま公園の向かいに広々と店を構えている。
来た道を戻る様にして歩き、目的のスーパーに着くと、据え付けられた自動販売機の前で、祐樹が不安そうに携帯電話の開閉作業を繰り返していた。
「どこ行ってたの? 心配したんだからね」
女の子かよ、とぷりぷりしている祐樹を余所に呟いて、事件のあらましを祐樹に報告する。
「怖いけど、なんだかその人が気になるね」
独断と偏見であの時擦れ違った合羽姿の男性のことを話すと、興味津々といった様子で無邪気に目を輝かせる祐樹に、忘れていた笑顔を取り戻す。事件に関係しているのかも知れないと、不安になっている私に、僕が守るから大丈夫、などと根拠の無い台詞を吐いてくれる祐樹を、正直とても頼もしく感じたのは内緒の話だ。
「そういえばさっきけんくんが見つかったって、しょうくんのお母さんから連絡があったよ」
近いうちに事の顛末を説明したいということだったので、明日明後日の内に伺います、と簡単に連絡を済ませて、今日は家に帰ることにした。
悪い子はいねがー、とか言いつつやたら吠えまくる残念な男子に送られて、玄関の鍵を開けた頃には、既に時間は夜の8時を過ぎていた。送ってくれてありがとう、とお礼を言って、祐樹の姿を見送ってから、玄関を閉めて部屋着に着替える。夕飯の支度をするためにキッチンに向かうとき、鞄に描かれた果物のイラストが、雨に濡れて変色したのに少しショックを受けた。
Ⅳ
「じゃあ二人は良い子だからお家で遊びましょうねー」
二十歳前後のカップル——本当にカップルなのかしら——が、玄関の前に立っていたときには驚いた。翔の声がしたからドアを開けたものの、正直いきなり子供を押し付けるなんてどうかしてるんじゃないかしら。
「翔、千秋ちゃんと仲良くするのよ」
謙くんが隠れんぼの最中にいなくなったと聞いた時、子供は意外と隠れるのが上手だと知っていた私は、本当の所公園内のどこかに上手く隠れているに違いないと思った。確かにあの娘達の言う通り何かあってからでは遅いが、別にそこまで大げさにならなくてもいいのではないだろうか。
真希さん達が謙君を探しに行ってから一人、リビングで遊ぶ翔と千秋ちゃんを見つめてそんなことを思う。もし本当に事件になったりしたら、私の監督責任ということにも成り兼ねない。謙くんの母親とはプライベートでの面識がないから、いきなり裁判沙汰という場合もあるかもしれない。最近近所のママ友との間で、物騒な噂を聞くこともあるので、翔が巻き込まれたりしないか心配だ。
「そこじゃないよー」
へへーん、と胸を張っているうちの翔は賢い。トランプの神経衰弱をしているようだが、さっきから一枚も取られていない。つい見取れてしまうが、今は保護者としての私でなくてはならない、と自分に言い聞かせて、健気な子供達を監視する。翔だけならともかく、千秋ちゃんまでいるのだから、その責任は重大である。
真希さん達に言われて謙くんの親御さんに、連絡を取らなければいけないのを思い出して、慌てて据え置きの固定電話機に駆け寄る。リビングの片隅に置かれた親機の上方には、幼稚園の連絡網がコルクボードに画鋲で打ち付けられている。3LDKの我が家には寝室とキッチンにも子機を配置してある。
受話器を取ってから、連絡網に書かれた謙くんの自宅の電話番号を探し出して、受話器を持つ手と反対の手でダイヤルする。数回の着信音の後に、がちゃっ、と受話器を電話機から取り上げる音が鳴って、女性の声が耳元に響く。
「ただいま留守にしております。御用の方はピーっという発信音のあ——」
話が終わる前にそっと電話を切る。
「あら、留守なのかしら」
もしかしたら、働きに出ているのかも知れない。留守なのは仕方が無いので、一旦真希さんに報告をしようと思って、玄関先に移動する。靴を履こうとして、子供達を留守番させる訳にはいかないと踏み留まる。ちょっとした焦燥感に苛まれながら、玄関先の通路の左右にある洗面所とキッチンを過ぎ去って、正面のリビングにいる翔と千秋ちゃんの様子を窺う。
「やったー、取れたあ」
「そんなのたまたまだもんね」
運良く開いたカードの柄が一致したらしく、負けっ放しだった千秋ちゃんの手元に、一組のカードが置かれる。悔しがる翔も可愛い。南からの黄昏色の陽光がフローリングに反射して、思わず目を瞑る。もうすぐ日が落ちそうだ。
気分転換がてら寝室に仕舞ってあるノートパソコンを取りに、リビングの西に位置するスライド式のドアに力を込める。半年ほど前に主人に頼み込んで買って貰った趣味の一つだ。今時小学生でもパソコンを使うらしく、幼稚園繋がりの友人が、小学生の息子にパソコンの使い方を教えている、と聞いたのがきっかけだ。なんでも、教えるつもりで始めたパソコンに、子供以上に嵌ってしまって、今では毎日の様に画面と睨めっこしているらしい。かく言う私も、今の内に覚えておく積もりだったのが、案の定虜になってしまっている。
寝室に置かれた親子で横になれる程の大きなベッドの横に、年末大特価で購入したセピア色の引き出しの取っ手を引っ張る。商品のロゴのデザインされた黒いノートパソコンが顔を覗かせると、それをコードごと抜き出して引き出しを閉める。足元に視線を落とすと、小さな黒影がベットの下へと這って行くのが見えた。大きさで判断する限り、蜚蠊ではないだろうと、放って置くことにする。
部屋に戻って子供達が変わり無いのを確認してから、リビングの一角に置かれた4人掛のテーブル席に腰を下ろした。電源プラグを差し込み忘れたのを思い出し、キッチンに面した壁に設置されたコンセントに、2本の角を突き刺す。パソコンを開いて起動している間に、キッチンからインスタントコーヒーを持って来て、息を吹き付けつつ啜った。
ホーム画面が表示されると同時に右下に、ひょっこりと文字だけの画像が現れる。画像に表示された「入室しますか?」の文字を習慣的にクリックすると、サイトのトップページが最大化されて画面を覆う。
早速本日のダイジェストを確認する。政治家筒下庸一朗の献金問題、女優加納美鈴の不倫疑惑、人気ユニットBrazのドラムはデキ婚だった、などなどテレビのニュースでもまだ話題にすら上がってない様な、悪戯と言っても大差ないタイトルが並んでいる。それらの一番上に更新の点滅文字と一緒に、制裁部屋と書かれたリンクが貼ってある。
「最近多いわね――」
最も更新頻度の高いのがこの制裁部屋である。どうもサイトの規約を破ったものの文字通り制裁の様子を、事細かく掲載しているようだ。本当にルールを破った本人かどうかは怪しいものだが。
今日はどんな人かしら、とノートパソコンのタッチパッドを指で擦って、カーソルを制裁部屋の上に運ぶ。
ピンポーン、とリビングに電子音が響き渡ったのに反応して、身体がびくっと震える。どうやらさっきの真希さん達が戻ってきたようだ。インターフォン越しに外の様子を確認してから、玄関の扉を開ける。
「何度もすみません」
「あらあら、気にしなくていいのよ」
見つからないと私が困るので、という言葉を呑み込んで、謙くんがやはり見つからないという報告を受ける。警察に行ったほうがいいのではないか、というので正直迷惑だとも思ったが、捜索願を出せる訳じゃないので、連絡先だけ交換して真希さん達を警察に向かわせる。私は私で千秋ちゃんを家に帰すべきだと思い、千秋ちゃんの自宅に電話を掛ける。千秋ちゃんの母親の聖子さんとは、懇意にしているので比較的安心だ。
「けんくんいないの?」
うん、なんでか見つからないんだって、と愛しの翔に伝えると、千秋ちゃんと一緒に不安そうに表情を曇らせるので、きっとお母さんと一緒なのよ、と適当な嘘をついて落ち着かせようと試みる。
「千秋ちゃんは暗くなってきたから、帰りましょうね」
わかった、と素直に頷く千秋ちゃんを一瞥してから、聖子さんの家に電話を掛ける。電話に直接出た聖子さんに、千秋ちゃんの迎えを頼む。すると、聖子さんから予想外の言葉が飛び出した。
「さっき道端で泣いてる謙くんに会ったのよ、なんでもお母さんと逸れちゃったらしくって、今私の家に置いているんだけど、あーちゃんとも連絡が取れないのよ」
あーちゃんとは謙くんの母親のことだ。本名は知らないが、あつことかなんかだろうと勝手に思っている。
聖子さんのおかげで幾つかの問題が解決した。取り敢えず千秋ちゃんの迎えのついでに、謙くんのことを宜しく頼んで、ほっと胸を撫で下ろしながら受話器を置く。千秋ちゃんに、お母さんが迎えに来るからもう少し待っててね、と言ってから、謙くんが見つかったことを簡単に説明する。子供達に笑顔が戻ったので一安心した私は、真希さんに電話を掛ける。しかし、取り込み中なのか一向に出る様子がないので、代わりに祐樹くん——と言ったかしら——に電話を掛けることにした。一回目のコールが鳴り終わるか鳴り終わらないかのタイミングで、男の人の声が響く。よほど携帯を気にしていたのだろうか。祐樹くんですか? と自信なげに問いかけると、はい、という元気の良い声が返ってきたので、謙くんが見つかったことを報告して、社交辞令も兼ねて、後日訪ねて欲しいと告げる。
電話が終わって少しすると、インターフォンが鳴った。まっすぐ東にある幼稚園との間に位置する、聖子さんの自宅からここまでは僅かな距離なので、歩いてもものの数分で着いてしまう。
玄関先の聖子さんと軽い挨拶を交わして、千秋ちゃんを引き渡す。詰まらない物ですが、といって渡してきた紙袋を快く受け取って、玄関の戸をぱたんと閉める。
寝室で見掛けた黒い生き物が並べられた靴の合間を縫っていた。玄関の光に照らされてそのカラダは杏色に輝いていた。
*****
例の事件の翌日、テレビのニュース欄に目を配りながら、支度を済ませて大学へと向かった。大学の北西に建設された大講堂で、生物進化論の講義を受けながら、昨日の事件のニュースを携帯で探す。隣に座った祐樹も先ほどから悶々と、探偵気取りで事件の全容に憶測を膨らませている。
壇上でスライドの前に立つ教授が、生物には環境に適応しようとする意志があり、長い年月の間に進化して、生息範囲を広げた個体も存在する、などと説明している。もしかしたら、近い未来環境の変化に伴って、海外でしか生息が確認されなかった個体が、日本でもたくさん見つかるようになるかもしれない。
「例えば——」
教授が見たこともない生物の画像を表示したと同時に、堂内がざわっとして思わず頭を上げる。スライドには全身褐色で、太い足を獲物に這わせる生き物の集団が映し出されている。
「これはムレアシブトヒメグモと言って、主に中南米に生息する蜘蛛です」
意気揚々と説明する教授は、いつもより熱が篭っているように見える。最近はこの種類の蜘蛛も、日本で見掛けるようになったという。人に対して害のある類ではなく、社会性を備えた非常に珍しい個体らしい。
一時騒然とした学生らは再び各々の行動を再開する。私もまた携帯電話に齧り付いて、情報を集めようと指でキーを弾く。
「やっぱりレインマンじゃない?」
は? と明らかな不満感を浮かべながら、突然の祐樹の発言に振り向く。
「レインマンって?」
合羽を着てたからレインマンだよ、と恰も当然であるかのように言う祐樹に、堪らず溜め息が漏れる。確かにあの男性は怪しかったけれど、何と言っていたかも要領を得ないのに、事件に関与してると決め付けるのは尚早だと思う。
適当に講義を終わらせて、祐樹といつもの様に図書館で課題に取り組む。梅雨もそろそろ終わってくれればいいのに、と思いながら窓の外を見遣る。ここの窓から望める大学の中庭では、赤々とした柘榴の花が所々咲き始めていた——。
それからの数日間、晴れたのはあの事件の昼間だけだったようで、梅雨の時期特有の霧のような雨が降り続いた。晴れたら行こうと決めていた、しょうくんの家への訪問は何だ彼んだで、7月に入ってからになってしまった。梅雨も明けて夏の気温に頭を悩ませながら、祐樹と二人で大学東の大通りを下った先の絵美さんの元を訪れた。一週間経ったのにテレビにもインターネット上にも、例の殺人事件は取り上げられなかった。
「いらっしゃい、あんまり遅いから忘れちゃってるのかと思ったわ」
ふふふ、と微笑を零している絵美さんに迎えられる。家には絵美さんしかいないらしく、今はまだ幼稚園が終わっていないのだそうだ。この後迎えに行かなきゃいけないんだけど、一緒に行く? と言うので、少し躊躇いもあったが、ご一緒させて頂くことにした。リビングに通されて、インスタントコーヒーを淹れてもらう。
リビングの南側はガラス戸になっていて、向かって右隣とキッチン側の隅に扉が付いている。簡単な作りの部屋はとても良く掃除されていた。部屋の東の一角に虫籠が置いてあり、中にはキラキラ光る白いラインが所狭しと張り巡らされていた。
「蜘蛛飼ってるんですか?」
先日の生物進化論の講義で目にした蜘蛛に、よく似た蜘蛛が虫籠の中にぶら下がっている。それにしても乱雑な形の網だな。
「そうなの、こないだ家の中で偶然見つけちゃって」
案外飼ってみると可愛いものよ、という絵美さんは本当に楽しそうだ。まさかしょうくんじゃなくてお母さんの方とは——。
手渡されたコーヒーを受け取りながら、けんくんの見つかった経緯を尋ねるため口を開く。
「僕はこの蜘蛛嫌いです!」
けんくんのことを質問しようとした矢先、透明なケースの中を覗き込んでいた祐樹が、突然そんなことを言い出した。余りにも衝撃的だったので、開いた口が塞がらないとは正にこの事だな、と自分で納得する。どうしてかしら? と言を発する絵美さんの声は、心許り震えているように聞こえる。一触即発の事態を防ごうと、愛想笑いを浮かべて絵美さんを見てから、祐樹を睨み付ける。お互いに目から火花を散らしているのに耐え切れず、多少強引にしょうくんの迎えに行こうと切り出す。
何とか二人を外に連れ出すと、番犬のように唸っている祐樹は放っといて、絵美さんに今度こそけんくんのことを聞きながら、幼稚園までの道程を並んで歩く。絵美さんが言うには、あの後ちあきちゃんを家に帰すため、ちあきちゃんの母親——聖子さんと言うらしい——に電話をしたところ、ここから北東に数キロ行った先にある駅前のデパートの前で、泣きじゃくっていたそうだ。母親に連れられてデパートまで来たのに、肝心の母親と逸れてしまったということらしい。そんなけんくんを聖子さんが見つけて、家まで連れて帰って来たという話だった。
「じゃあ一件落着ですね」
安堵の気持ちを込めてそう答えると、実はそうでもないのよ、と表情を陰らせた絵美さんが言う。なんでも突如姿を消したけんくんの母親が、まだ見つかっていないという話らしい。絵美さん自身、余り仲良くしていないので、詳しい話はこれ以上解らないということだった。街路樹の下に出来た小さな水溜まりが、泥で濁って夏の太陽を飲み込んでいるようだ。
幼稚園に着くと、待ってましたと言わんばかりに、勢い良くしょうくんが飛び出してくる。絵美さんの後ろに立っていた私達に気付くと、怯んで足を止めた後、こんにちは、と言って頭を下げてから、絵美さんの足に抱き付いた。ちゃんと挨拶出来て偉いわねー、と頭を撫でられるしょうくんは、とても満足そうな笑みを浮かべていた。
人数が増えて一気に騒々しくなった一行は、来た道を戻るように街路樹の脇を歩いて行く。色違いのタイルをけんけんぱーの要領で、上手に飛び跳ねるしょうくんを尻目に、祐樹は未だに、がるるる、と言っていた。
「お久しぶりです」
横断歩道を渡ろうと信号の前で止まっていた私達に、真横から別の横断歩道を渡って来た女性が声を掛ける。
「あら、先週以来ね」
頭を下げた見知らぬ女性に続いて、絵美さんも挨拶を交わす。この女性が話に出て来た聖子さんで、絵美さん同様、ちあきちゃんの迎えに来たらしい。
「先日はうちのちぃがお世話になりました」
「いえいえ、こちらこそお陰様で。楽しい時間をありがとうございました」
二人のお母さんが互いにお礼を言い合っている間に、信号は赤から青、また赤に変わってしまった。いい加減にしろ、と祐樹の頭を叩いて会話の様子をなんとなく眺める。
「謙くんのお母さんはどうなりました?」
「それがまだ見つかってないみたいなのよ、警察は何をしているのかしら」
「謙くんは今どうしているのかしら」
「けんちゃんの叔父様が近くに住んでいて、そこで厄介になってるって話よ」
「私達のことなんか言ってたりするのかしら」
「そんなことはないと思うけど——。あーちゃんってシングルマザーだから、けんちゃん何とも無ければいいんだけど」
聖子さんは絵美さんよりもけんくんのことに詳しいらしい。会話の中から必要な情報を取り出して頭のなかで整理していく。コンビニ事件と言い、この辺りも物騒になった気がする。しおらしくなった祐樹も流石に心配になったのか、一所懸命私に向かって、僕がついてるよ、という視線を送ってくる。揶揄う積もりで軽く目を逸らすと、目線の先で街路樹の木に頭を押し付ける男性の姿が見えた。車からだと分かりづらいが、額から血が滲んでいるように感じる。怪訝な表情に気付いた祐樹が、私と同じ点を見つめる。
「あの人、何してんだろう」
祐樹の声に反応して、絵美さんと聖子さんも皆で一斉に、木と小突き合っている男性を捉える。ひっ、と聖子さんが小さく悲鳴を上げると、それに気付いた男性が慌てて走り去る。道路を挟んだ向かいの歩道を、西に向かって不恰好に走って行く。
「あれ、あの後ろ姿——」
私が見覚えのある後ろ姿だな、と認識して声を出すとほぼ同時に、私の声に反応した祐樹が、男に向かって駆け出した。間違いない、レインマンだ。
「すいません、ちょっと野暮用が出来たのでここで失礼します!」
絵美さん達に会釈をして、先に走り出した祐樹に続いて、横断歩道を使って道路を横切る。
反対側の通路から分岐した細い脇道に入って祐樹と男を追いかける。後ろの方から夏にそぐわない冷たい風が、身体の体温を一気に奪い取っていった。
*****
群脚とか言う明らかな犯罪者に、唯々諾々と利用させられた真実の扉だったが、気付くと俺もかなりの頻度で利用する様になっていた。このサイトは定期的にアドレスが変化するため、外部からのアクセスはそう簡単に出来ない。加えて、群脚の裁量によって、ユーザーの管理が徹底されているため、安々と入ることは出来ない。
真実の扉は、選ばれたヒトが各々の得意分野に於いて、世間ではまだ公表すらされていない様な内容を、好き勝手に書き込むチャット形式のコミュニケーションツールだ。分野は多岐にわたり、政治、経済、犯罪、スキャンダルなど、誰もが興味を持ちそうなジャンルを集めて、それぞれに部屋を用意してある。そして何より最も恐ろしいシステムが、制裁である。このサイトを利用するに当って、規約の中に一切の他言を禁ずるというものがあり、これを破った者は、制裁部屋というチャットルームで晒し者にされる。晒し者と言っても、禁則事項を破った瞬間から、文字通り制裁を受けるまでの様子を、逐一アップロードしていくというシステムだ。アップロードしているのが誰かは分からないが、少なくとも制裁と称して、人間を殺し回る連中がいることは確からしかった。
「——にしても酷いよな」
制裁には様々なやり口があるが、どれもまともな殺し方じゃない。俺が真実の扉に初めて入ったあの晴れた日の夜、更新マークの付いたリンクを何の気なしにクリックすると、一人の女性の姿がカメラに収められていた。頁を下へと動かして行くと、徐々に女性の追い詰められていく様子が、露になっていった。どこかの店から出て来た所を捕まって、最終的には人気のない路地裏で袋に詰め込まれたまま、ナイフで数十回に渡って刺されていた。刺された後に制裁の証を刻むなどと言って、襲った犯人が血を吸い上げているのには虫酸が走った。女性はそのまま放置され、チャットの終わりに、制裁完了、の文字が打ち込まれていた。
以来、数件の制裁が行われたがいずれも無惨な物だった。わざわざ危険を犯すこともないので、他言無用の言い付けを忠実に守って、この非人道的なサイトを利用している。選ばれたヒト達による書き込みは、正直一般のネット掲示板等とは比べ物にならない程、俺の心を踊らせた。そのため半月以上経った今日も、本格的な夏の暑さと闘いながら、パソコンに向かう日々を送っているのだった。
「あぢぃ」
気温は摂氏35度を超え、真夏日を記録する毎日が、否応無しに身体を怠けさせる。身体に悪いと分かっていながら飲む黒い炭酸飲料が、喉の渇きを潤していく。空になったペットボトルをゴミ箱に放り投げて、次のペットボトルを取りに下へ降りる。ダイニングキッチンとなっている我が家の、キッチンの北側にある白いボックスを開けて、次のペットボトルを取り出す。
「切れてる——」
冷蔵庫の中にお目当ての飲み物は入ってなかった。夕飯の材料も切れかけていたいたので、買い物に出ることにする。自室に戻る前に、リビングに繋がる通路の、反対側の突き当りに置かれた洗濯機に、溜まった洗濯物を纏めて詰め込んで、洗剤を入れて洗濯機のスタートボタンを押す。部屋でジャージに着替えて、つば付き帽子を深々と被って、窓の鍵を閉める。目の前の大きく育ったクモの巣の糸が銀色に光って見える。相変わらずカレの姿は見えないが、巣が大きくなっている所を見ると、きっと元気にしてやがるんだろう。
階段を降りて、廊下をそのまま真っ直ぐ進んで家を出る。玄関の鍵を閉めて、南東に位置するたっちゃんの部屋を一瞥すると、例のクモの巣が微かに揺れたように見えた。日光の跳ね返ったアスファルトで目を眩ませながら、正面の通りを左折して北のスーパーへと向かう。目的地へは通りを真っ直ぐ北上するだけで着けるので、人と出来る限り接触しない様に、足早に歩道を進んでいく。
ふぅ、と吐息を漏らして、到着した店内に入る。冷房の効いたフロアが乾涸びた身体に命を吹き込んでくれる。
誰にも見つからない様に、目深に被ったキャップ帽を指で抑えながら、必要な物を買い物籠に積んでいく。炭酸飲料を忘れずにダースで拾って、有料のレジ袋と一緒にレジのお姉さんに渡す。会計を済ませてから、袋に食材や日用品を詰めて手に持ち、ダンボールは腕に抱えて店を出る。通りを南に下って行き、西側の道路沿いにある自宅へと体を滑り込ませる。本日の最高気温の時間帯は過ぎたようで、僅かばかり涼しくなった気がしないでもない屋内に入る。冷蔵庫に買って来た食材や飲料水を仕舞って、クーラーを点けっ放しにしといた自室に転がり込む。
「あー、生き返るー」
炭酸水を喉に通しながら、パソコンの電源を入れる。新たな日課になった、真実の扉への書き込みを行い、その反応を見て悦に浸る。
「お、更新されてるじゃん」
制裁部屋に更新の文字が出ているのに反応して中を覗く。殺された人物は男性で、今回は内蔵を引き摺り出されている。
「ていうか、ここって——」
映された場所は出掛けるときは必ず利用する、最寄りの駅のトイレだった。壁に落書きされた下手くそな絵が、紛れもなく頭の中の記憶を揺さぶった。見に行こう、と思って駆け出した瞬間、テレビの横に置かれた携帯電話が鳴った。着信は母からで、苛立ちを隠し切れないまま電話に出る。
「もしもし、お母さんだけど——」
「今は無理、後でかけ直す」
母親の言葉を聞かずに電源ボタンを押し込んで、南西の駅に向かって全力で走った。今なら殺された人を、目の前で見れるかも知れないという好奇心と、殺人を犯した奴の顔を拝めるかも知れない期待感に、心も足も脳味噌も弾んだ。身体が信じられない程軽い。
「急げ」
自分に端を切りながら、夕暮れの街の風を切り裂いていく。駅が見えて来ると足を速めて映像にあったトイレに駆け込む。
男が3人いた。1人はカメラに映っていた男性、引き摺り出された内蔵が、蚯蚓のように地面に投げ打ってある。もう1人はカメラを片手に被害者の様子を傍観している。そして最後の1人は今将に殺した男性の身体に、制裁の証を刻んでいる最中で、顔の回りを赤い液体で染め上げている。
「ほ、ほんとうに——」
目の前の光景を処理出来る範囲にまで落とし込もうと、口を開いた瞬間に視界一杯に赤黒いフィルターが広がる。視覚の次に働いた嗅覚が、酸化した鉄のような匂いを受容する。これは血だ、と認識するや否や唇に柔らかい感触が伝わる。
「!?」
声にならない悲鳴を上げて、口の中に広がる金属の味に意識が遠のいて行く。舌に絡みついた、さらさらした液体とねばねばした粘液に、全ての感覚を持って行かれる。
「カメラ止めて、これでこのヒトもこちら側よ」
雌の声が耳元で囁かれた様な感覚だけを残して、俺の意識は完全に居場所を失った。
Ⅴ
目を開けると蠢いていた無数の赤い光が、何故か一箇所に群がっていた。
「一体何をしている」
放った声は空中で音の塊となって、赤い光の一つにゆっくりと呑み込まれて行く。呑み込まれた鳴き声は、鮮明に呑み込んだモノの姿を写し出し、自分へと還って来る。
「あなたもここへおいで」
小さな音色に導かれるまま、カラダを徐々に赤い光の下に近づけて行く。
ここに顔を——。
促される通りに顔をヒカリの中へと埋める。温かい毛皮が全身を包む様な感覚に陥る。
クチを開けてご覧なさい——。
左右に目一杯引っ張った顎の隙間から、輝く液体が溢れ零れて、全身をみるみる満たしていく。
「なんて気分がイイんだろう」
悦ぶカラダに反比例するかの如く、頭の神経が消失していく。
——ゼンブオレノ モノダ。
*****
息を荒げて必死に祐樹の後を追う。舗装されていない畦道は体力を奪うのに十分な効果を発揮している。街中にいたはずなのに気付くと周りは田圃ばかりで、田舎なんだな、と思い出させる。泥濘に絡め取られたサンダルの網目から、冷たい泥が皮膚を侵食していく。用水路と水門の間で息を引き取った孑孑の成体が、糸で紡がれたクッションの上で乾涸びていた。
田圃道には視界を遮る物が何も無いため、前方を走る祐樹もその先を逃亡するレインマンも、視界の中に収まっている。
「ま、待って」
肩で呼吸しながら、前を行く祐樹に届くように、渾身の力で声を上げる。女にしては少し低めの雄々しい声が、宙を舞って霧散する。開けたこの場所で発する音は、届くはずの距離にいても、相手の背中を見送って落っこちる。
声を張るだけで体力の消耗に拍車を掛ける。朦朧とする頭を振って、無理やり自我を保ちながら、全力で男子の足に喰らい付く。
田圃道を抜けて、また元の街並みに戻って来た頃に、頭上を駅を発車した電車が横切って行った。住宅街に入り込んだ彼らを見失って、闇雲に辺りを徘徊する。
「祐樹——」
肺に溜めた空気を押し出して彼の名前を呼ぶ。建ち並ぶ住宅がちっぽけな私を見下ろして、嘲笑っているかのようだ。灰色の壁に邪魔をされた音が自分へと跳ね返ってくる。その声にはっとして冷静さを取り戻す。
「どっちに行ったんだろう」
四方に伸びた十字の交差点の真ん中から、注意深く辺りを見渡す。今来た道すらもどこだか分からなくなる様な、形の似通った建物が立ち並んでいる。夕方前だというのにどこの家もカーテンまで閉めている。まるで何かに怯えているかのようだ。道行く道は相当入り組んでいるらしく、ここからだと殆ど数メートル先までしか目が届かない。下手に動き回ると道に迷いそうだが、かと言ってここでじっとしていては祐樹の身が心配だ。
「よし」
私は意を決して3択となった道の一つを選んで走り出す。太陽に背を向ける形になった私の影が、行先を教えてくれている気がする。
文字通り右往左往するように、右折と左折を繰り返して、勘だけを頼りに歩を進めて行くと、誰もいないと思っていた住宅街の電柱の裏に人影が見えた。私は幸運を逃すまいと、腕を頭の前まで振り上げて、視界に捉えた人物の横に影を並ばせる。
「あの、こっちに男の人が走って来ませんでしたか?」
荒げた息のリズムに抗うようにして言葉を吐き出す。
「男の人? さあ、見なかったと思うけど」
声を掛けられた髪の長い女性が応える。こっちじゃないのか、と心に落胆の色を浮かべて、女性にお礼を言って体を翻す。見てきた風景を巻き戻そうとした瞬間に、今度は逆に女性が声を掛けてきた。
「ここで人探しをするのは止めた方がいいわよ」
驚いて振り向くと、女性がこっちに来て、と言うように手招きしていた。所々銀の混じった髪の毛が風に靡いて美しかった。女性に誘われるがまま太陽から遠ざかって行く。祐樹のことが心配だったので一瞬躊躇うが、女性が有無を言わせない空気を醸し出していた所為か、気付くと後に付いて行っていた。目的の場所は女性に出会った場所から少しばかり、北東に行った所にある西洋の看板が印象的な喫茶店だった。道中、女性はこの辺りのことと自分のことを幾つか教えてくれた。
彼女は奏恵さんと言って、今はこの地区で一人暮らしをしているらしい。年齢は見たところ40代だが、若々しく見えるので実際はもっとあるかも知れない。越して来てからまだ日が浅いので、知り合い等は少ないという。会社の営業回りで今いるこの地域を任せられている様で、今も仕事の途中だったのだそうだ。
「びっくりしたでしょう?」
ここいら辺の人たちはなんでも昔から、街の人たちとは独立した生活を送っているらしいの、と注文したコーヒーを待ちながら奏恵さんが話を進める。丁度駅の通りを少し東に出た田畑は所謂国境の様なもので、住人が勝手に街からの干渉を拒んでいるそうだ。市の官僚達はここの住民の作る作物を欲しがっているらしいが、それ以外の街の人達はむやみに近付かない。暗黙の了解としてお互い関わらない様にしているという。
「街の人は別生区と呼んでいるわ」
別々の生活基準を持つ区域という意味らしいのよ、と奏恵さんが言うや否や、頼んでいたコーヒーが運ばれて来た。クーラーの効いた涼しい店内で、冷たいアイスコーヒーで喉を潤しながら、先に行ってしまった祐樹のことを考える。冷静に考えれば電話を掛ければ済む話ではないだろうか。そう思った私は、鞄に仕舞ってある美味しそうな果実のストラップが付いた、光沢のあるピンク色の携帯電話を取り出す。アドレス帳から祐樹の名前を探し出して、通話ボタンに指を当てると、携帯電話が圏外になっていることに気付く。
「電波入らないのよねー、おばさんも営業するとき困ってるのよ」
やーねー、という奏恵さんは口で言うほど嫌がってはいないようだ。
「祐——探してる人が危ないかも知れないんです」
携帯電話が使えないのは絶望的だが、それでも祐樹を探さないと何かあってからでは遅い。
「今からその人を探して、見つけて帰るのは絶対無理よ」
え? と素頓狂な声を上げて、ストローから手を放す。隈なく探せば少なくとも見つからないということは無いはずだ。なんで無理だと言えるのか奏恵さんに尋ねると、衝撃の回答が返ってきた。
「この地区の夜は危険過ぎるのよ」
唇を僅かに震わせながらそう言う奏恵さんは、全身から恐怖を吐き出していた。どうやら別生区の治安維持は、私達の街の様に警察の様な組織があるわけではなく、またその警察もこの地区には介入して来ないというのだ。まるで恰も別の国家であるかの様に、ここの住人も街の住人も皆が認識している。そのため犯罪などに対する対処の仕方も独特である。
「別生区の長達が独断と偏見で裁いている——」
事実を知った私は驚愕すると同時に、だったら尚の事祐樹を探さなければならないのでは、と言うと、必要以上に出歩くこと、特に夜間の出入りに関しては厳しく罰しているというのだ。まだ区の住民と面識の無い私はこれ以上この辺りに居ない方がいいという話だった。祐樹のことは心配だろうが、今日の所はとりあえず帰った方がいいということになった。
奏恵さんがさっと会計を済ませて、ご馳走様でした、と店員さんに言うのを聞いてから、私も奏恵さんにお礼を言う。
「ありがとうございました」
気を付けてね、と手を振る奏恵さんに見送られて、大学近くの自宅に向けて歩き出す。傾き始めた太陽が私の影を巨大化させて、まるで膨らんだ私の不安と恐怖の様だ。後ろから付いて来る自分の影を横目に帰路を急ぐ。
「まずい、迷った」
喫茶店を出てから数十分、日が落ちてきた住宅街でぽつり呟く。祐樹を見つけることも出来ず、家に帰ることも出来ないとなるといよいよ本当に危険だ。とは言ってもなんとかしてこの区域を出なければならないので、取り敢えず通ってないと思われる道を注意深く進んで行く。その際忘れずに周囲の建物——殆ど同じ様な家ばかりだが——を記憶しながら出口を探す。
しかし探せど探せど、出口どころか別生区の住人の一人も見当たらない。完全に気力も体力も底を尽きかけた頃には、既に周囲は暗黒に包まれていた。暗い闇の中ぼんやり光る紅い花の咲いた木が不気味さを増長させていた。
この区域に足を踏み込む時に感じたものと同じ冷気が、静まり返った住宅の合間に吹き付ける。妙な悪寒を肌で感じながら、壁に凭れ掛かる。
——!?
呻き声の様な音に反応して振り向くと、電柱の影からヒトが歩いてくる。影になって誰だかわからないが、嫌な気配を感じて一歩後ろに下がる。
電柱を過ぎて私との距離があと数メートルとなった時、設置された外灯に照らし出された顔を視界の中に捉える。灯りに釣られて群がった羽虫が、慄き戸惑ったかのように縦横無尽に飛び廻る。
「祐樹?」
そこに立っていたのは、意識がはっきりしていないのか、焦点の歪んた眼球をぐらぐらさせて、全身を赤黒い血で染めた私のよく知るヒトだった。
*****
突然駆け出した祐樹くんと真希さんを、唖然と見つめて私は隣の聖子さんと顔を合わせる。
「いったいどうしたのかしら」
聖子さんが怪訝そうな顔をして発した言葉に、誰かを追って行ったみたいね、と答える。それにしても本当にどうしたというのだろうか。
「ねえねえ、お姉ちゃんたちどうしたの?」
聖子さんのズボンを小さな手でちょこちょこ引っ張りながら、千秋ちゃんが騒ぎ出す。それに触発されたのか、私の翔までもが騒ぎ始めた。取り敢えず真希さん達はもう大人だから大丈夫だろうと、勝手に解釈を加えて、今この場にいる子供達を宥めるために、聖子さんと一緒に自宅に向かって横断歩道を渡る。この後どうします? と聖子さんが言うので、お互い特に用事がある訳ではないこともあり、子供達を遊ばせることにした。
いつもの様にお互いの家を通り過ぎて、しじま公園まで4人で足を運ぶ。公園に着くと翔に千秋ちゃんと遊ばせて、私は聖子さんとベンチに座って会話を楽しんだ。話す内容と言っても、幼稚園でああだとかどこどこの奥さんがこうだとか、他愛もないことばかりだ。変わっている点と言えば、今日の会話には知り合ったばかりの大学生の話が混じっていることだ。
「彼女達、大丈夫だと思います? 走って行った方向って確か、別生区の方じゃなかった?」
聖子さんの言う彼女というのは真希さんのことで、そういえばまだ名前すら教えていないことに気付く。さすがに大丈夫だと思いますよ、と希望的観測で答えるついでに、真希さん達のことを簡単に説明する。先日の謙くん失踪事件の時にお世話になったのだ、ということにする。
「じゃあ今度お礼も言わないといけないわね」
こっちとしては正直迷惑だったのだけど、という反論は心の中に仕舞い込んで、そうですね、と賛成の意を唱える。
——暫く話している内に時間も遅くなってきたので、聖子さん達とお別れをして、翔と手を繋いで自宅に帰る。途中散歩中の犬に吠えられて少しむっとしてしまった。
自宅の鍵を開けて翔と自分の身体を屋内に入れて、夫が帰って来るまで用心のため玄関をロックする。翔に寝室の隣にある勉強部屋で、遊んでいるように言い付け、リビングにある箪笥の引き出しから蜘蛛の餌を取り出して、虫籠に放る。いつもより少し早いが、夕食の支度を始めることにした。夫の帰りはいつも8時を過ぎるので、大抵の場合先に翔と二人で夕飯を食べて、余った料理を帰って来た夫に与えている。
ふふん、と鼻歌混じりに包丁を小気味良く上下させて、野菜を切り刻んでいく。時間もあることなので、カレーでも作ることにする。玉葱や大蒜を簡単にスライスしてから、幼稚園児でも食べやすいサイズに馬鈴薯等を切って、ついでに面取りもして、予め火を掛けた鍋に入れる。ことことと音を立てる野菜達が、ほんのり甘い香りを醸し出す頃に、水を投入して炒める作業から煮る作業へ移す。
ふと翔の様子を見に部屋のドアを開けてみると、寝息を立てて床に突っ伏している姿が目に入った。周りに散らばったおもちゃを一瞥して、後で片さないとな、と独り言を呟いてからキッチンに戻る。煮詰まった具材の入った鍋の火をとろ火にして、カレールウを少しずつ溶かし込んでいく。
鍋を火に焼べたまま、適当に野菜や海藻を皿に盛り付けて、寝室からノートパソコンを取って来る。パソコンを起動して、慣れた手付きで真実の扉へ入場する。更新情報をチェックしつつ、気になる記事を眺めていく。私は書き込みはしないので、単に情報収集を行なっているだけだ。もちろん、制裁部屋の閲覧も欠かさず行い、口外しないというルールを深く自分の意識に縫い付ける。
本日の標的は30代後半の成人男性で、会社の飲みの席でうっかり、このサイトでしか知り得ないニュースを友人に話してしまったらしい。いつもの様に独り身の生活臭漂う自宅から、朝早くに会社に出勤し、いつに無く機嫌の良い上司に、お前もう帰っていいぞ、と言われて普段より早くに帰路に着いたところ、駅のトイレで制裁を受けたみたいだ。
「あら?」
最後の書き込みの埋め込み動画を見てみると、男性が息絶えた直ぐ後に、先の内容を切り取られた様に動画が終わっていた。いつもなら制裁の証を刻む様子が映されているはずなのに、と多少物足りなさを感じながらページを閉じる。姫——飼っている蜘蛛の名前である——が、与えた餌にまだ手を出していないので、少し不安感を抱く。
ガチャ、という音が響いて眠っていた翔がリビングに出て来たので、反射的にパソコンを折りたたむ。時刻は既に7時を回っていた。
「今日カレー?」
翔が匂いで判断したのか、今晩のメニューを言い当てる。
「そうよ、今日は翔の大好きなカレーにし——」
あっ、と声を上げて慌ててキッチンに駆け出す。失念の思いで鍋に入ったカレーを掻き回すも、放置していた所為で底の方が少し焦げてしまっていた。パソコンなんか弄らなければ良かった、とショックの色を隠せないが、仕方が無いので寝惚け半分の翔と一緒に、部屋の片付けをすることにする。勉強部屋と称して、翔の部屋として使っているこの空間には、クローゼット等の家具と勉強机、そして物置と化している収納スペースが存在している。機関車やら新幹線やらの床の上を転がせる玩具を、玩具箱の中に隙間無く嵌め込んで、収納スペースの一番下に滑り込ませる。片付けを終えた私達は、部屋を出てリビングの食卓に就く。ちょっと焦がし気味のカレーと、見繕って置いた海藻サラダをテーブルに並べて、頂きますを言ってから食事を始める。
「ただいまー」
カレーを口に頬張って翔に幼稚園での様子を聞き出していると、玄関の扉を開いて夫が帰って来た。
「今日は早いのね」
ビジネスバッグ片手にリビングまでやってきた夫、照彦の上着やらを受け取りながら労をねぎらう。普段より早めの帰宅なのは、思っていたよりも会議が早く終わったためだ。照彦はこの辺りでは比較的大きい製薬会社に勤めていて、開発の業務に携わっている。
「こないだ話した薬品の面白い実験結果が出たよ」
意気揚々と語る照彦の言葉に、受け取った上着にハンガーを通してから耳を傾ける。なんでも、去年新たに開発された薬品というのが、実用化に向け試行錯誤が繰り返されていて、最近になってやっと、努力の報われる所まで進んで来たらしい。薬品の詳細は企業秘密だそうだが、この薬が完成すれば世の中の認知症やアルツハイマー症への効果が期待されるという話だ。
その後家族3人で食卓を囲んで、食事と団欒を楽しんでから、風呂や水仕事等を済ませ、各々が適当に平和な時間を過ごして、日が変わる前には全員就寝した。闇に包まれたリビングで、ノートパソコンの排気音と姫の捕食音だけが、素人の現代音楽を思わせる奇妙奇天烈な旋律を奏でていた。
翌朝、何事も無く普段通りの行動を予め決定された時刻に実行して、午前中の業務を全て消化する。ふと昨日閉じたままにしてあった折畳式機械のことを思い出し、酷暑が猛威を振るい始めた部屋の中で、一人悠々自適に視覚の神経を酷使する。画面には管理人からのダイレクトメッセージ——極希に個人宛てに送られてくるウェブメール——が煌々と液晶の中を占領していた。日付は昨日の夜分遅くになっている。恐る恐る開いてみると、いつもご利用有難う御座います、の題目の下に、細やかなプレゼントをお送りいたしますの文字、それと実際に伺う旨とその時刻が明記されていた。
え? もう時間になるじゃない、と思った矢先、インターホンが鳴って玄関の扉が開く。返事も何もしていないのに一体——。
「絵美様へ群脚様よりお荷物です。こちらに置いておきますので煮るなり焼くなり好きにして下さい」
配達員は日本語に慣れていない様な拙い強弱で、抑揚の無い無機質な台詞を吐いて、私が玄関に向かうよりも早く跡形も無く消えてしまった。やがて玄関の閉まる音がして、取り残された小包が下から私を見上げる。
「一体何なの」
軽く嫌悪感を抱きつつも、ここでこの小包を無視したら制裁されるかも知れない、という不安が脳裏を過って、慎重にかつ周到に箱の中身を確認する。
「ジャ、ジャム?」
綺麗な立方体の中心に納められていた瓶には、臙脂色の見たこともない果実で作られたジャムだった。包装ごと台所まで持って行き、危険なものではないか、ゆっくり蓋を開けて中身を確認する。もわっと甘味で蕩ける香気が立ち昇って、鼻腔全体を刺激する。頭の中が麻痺した様な錯覚と全身を駆け巡る電気信号が、否応無しに目の前の加熱濃縮物を惹き寄せる。
ぺろ、と指で掬ったジャムを舌で舐め取る。私の行為に反応したのか、虫籠に捕らえられた姫が、閉鎖的な空間を乱暴に動き回っていた。
*****
川端康成の有名な一節に、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」という日本人なら誰しもが知っている一文がある。今の俺の状況はそれを地球の裏側から見た様な光景だった。
「な、んだこれ」
目の前に広がるのは赤黒い地面とそこに無造作に放り出された黒い影、外側から圧迫されて最小サイズにまで貶められた部屋。四角い箱の中で俺は人間の死体を俯瞰していた。栄養の行き届いていない青白い肌が、引き裂かれたワンピースの隙間から、夜空に浮かぶ輝石のように輝いていた。女性だった。まだ若い容姿に身を包んで、全身を自身の血液で染め上げた、おそらく大学生であろう彼女の下半身は、ワンピースの隙間からも望めない。
おえぇ、と自らの臓物から出た吐瀉物を、血で埋め尽くされたアスファルトに吐き零して、胴体と離れた位置にある臍より下の部位から目を逸らす。腹の辺りで二等分された女性の切断面を見ると、今も臓器と臓器の間から赤い溶液が流れ出ていた。
はあはあ、と荒げた息を地面に吹き付けて、冷静かどうかも分からない頭で、どうすべきかを考える。何故此処にいるのか、一体誰が殺したのか、そもそも此処は何処なのか。無意味な思考が頭の中をぐるぐると巡る。
「に、逃げないと」
本能的に逃走を決意して正面に見えるドアに飛び付く。取っ手を捻って外に出ると左に上下に続く階段、右にはコンクリート塗りの壁があった。正面にも今開けた扉と同じ物が嵌め込んである。アスファルトに暖められた熱風が身体から吹き出した汗を蒸発させ、上下に伸びた階段の隙間から赤熱した陽光が差し込む。時刻は昼過ぎくらいだろうと推測出来た。
高まった鼓動を押さえ付けて、左手の階段を一段飛ばしで駆け下りる。建物の敷地を出て振り返ると、今居た場所は廃屋となったアパートのようだった。
「きゃーー!」
女性の悲鳴が聞こえた方向を振り向く。ブラウスにスカートという会社員らしき女性が俺のことを瞳を震わせて見つめている。理解の追い付かない脳が、自分の体を見てみろ、という司令を出すので、頭を下げて目線を女性から自身の胸に移す。太陽の光に照らされて赤々とした血液が、俺の全身をべっとりと覆っていた。
「——っ」
声にならずに喉で止まった呼気の塊を肺に押し戻して、女性の悲鳴が終わる前に駆け出す。見たこともない街並みから、出来るだけ人気のない場所を探して、ビルの合間をジグザグ状に走り抜ける。
現実世界にして数分、体感では小一時間ほどの全力疾走の後、辿り着いた袋小路で足を止める。精神的にも物理的にも行き詰まった所で、血と汗に塗れた体を地べたに投げ打つ。火照り切った四肢の力を抜いて辺りを見回す。
「なんでこんなことに——」
覚えているのは駅のトイレで起きた制裁と、制裁を行ったと思われる犯人の鉄の味の接吻だけだ。その後のことは全く記憶にない。気付いたら見知らぬ死体の前で、まるで瞬間移動でも起きたかのようだ。
状況を整理すると、殺された女性の返り血を浴びているということは、少なからず殺害の現場に居合わせていたということだ。そして、返り血を浴びた俺の姿は赤の他人に見られている。
「万事休すじゃねえか」
どう考えても殺人を起こした犯人にしか見えない自分に絶望していると、不法に捨てられたゴミ袋の中から、数枚の衣類が顔を覗かせているのが目に入る。しかも運の良い事に洗濯でもするためか、水道の蛇口とホースが壁面の傍に生えている。逸り立つ思いを押し殺して、纏わり付いた汚れを水で濯ぎ落とし、ゴミ袋の中の衣服に腕を通す。着ていた服と入れ替える形で着替えを済ませ、袋の中に血の滴る布を放り込む。
すっかり別人と化した姿で街中に戻るため歩き出す。出来るだけ平静を装いつつ、人の行き交う大通りに出て行く。挙動不審にならないように周囲に目配せしながら、今何処にいるのか、という疑問の解消に乗り出す。すれ違う人々と目が合う度に心臓が高鳴る。怖い怖い怖い。本当はバレているんじゃないか、と不安で潰されそうになる。
「思ったより元気そうね」
背後から飛んで来た言葉に振り向くと、見慣れない顔立ちの女性が立っていた。
「こっちのあなたは私のことを知らないだろうから、一応挨拶させてもらうわね」
はじめまして、と丁寧に頭を下げてから女性は自分の名前を名乗る。
「姫と呼ばれているからあなたもそう呼んでくれていいわ」
女性はそう言って、ここにいると目立つから、という理由で近くの喫茶店まで俺を強引に連れて行く。俺のことを知っているってことは今の状況も分かるはずだ。喫茶店に向けて歩く俺達を誘うように、夏の太陽が都会の喧騒を掻き消していた。
喫茶店に着いて、奥の陽の当たらない席に向かい合って腰掛け、分からないことを手当たり次第に質問する。
「此処は何処だ?」
「あんたは一体誰だ?」
「なんで俺のことを知ってる?」
「あそこで俺は何をしていた?」
「俺は一体——」
思いつく限りの疑問を姫と名乗る女性に殴り付け、半ば無理矢理に回答を聞き出す。
「全くこんな綺麗な女性に対して乱暴過ぎるわよ」
これだから引き籠りは、と小言を付け加えて彼女は溜め息を一つ吐く。それからゆっくりと威圧的な口調で俺の懐疑の念を解消していく。
「ここはあなたの家から数キロ西に行った辺りで、いわゆる隣町のことよ。そして、私はさっきも名乗ったけど、姫って言うの。本名は訳あって言えないから気軽に姫って呼んで頂戴。それとあなたが居た廃屋ではつい先程殺人が行われて、あなたはそこに居合わせた、唯それだけのことよ」
虎視眈々と事実だけを述べていき、店員の持って来たコーヒーを砂糖もミルクも入れずに、躊躇すること無く口へと運ぶ。口紅が光沢を帯びていてとても綺麗だ。
「ちょっと待て、殺人なんてそんなこと——」
「事実よ、受け入れなさい。警察沙汰にはならないわ」
俺の言を遮って、姫が求めていた回答を並べる。警察には知られないということは俺は安全なのか? という疑問を含んで更に質問を重ねる。
「今俺の周りで何が起きてる? あんたと俺はどういう関係なんだ?」
すると、姫はコーヒーを持つ手をぴたっと止めて、真っ直ぐに俺の目を見つめて艶美な声色で囁く。
「あなたは真実の扉の鍵を手に入れたのよ。そして——」
ふわっ、と甘い香りが鼻先を掠めて、呼吸をすると同時に頭の中にある雑念が尽く吹き飛ぶ。目の前に座っていた姫はいつの間にか立ち上がって、俺の視界一杯に黒い糸の様な髪の毛が広がる。何かを察知した脳味噌が、反射的に離れろという命令を下すより速く、姫は光り輝く唇を俺の唇に押し当てていた。
「私たちはこういう関係よ」
短すぎるキスの後に耳元で姫はそう言うと、頬をほんのり紅く染めて自分の席に戻る。店内に流れる少し野暮ったい音楽が、低速再生されて余計に煩わしく感じるように、俺の見る世界は完全に時間という概念をぶち壊していた。今日初めて逢った女性に唇を奪われた俺は、呆然と彼女の紅潮した顔を見ることしか出来ない。不本意に作り出した沈黙を破るように姫が続けて声を発する。
「あなたの記憶が無いのはまだ慣れてないだけ。暫くは私と一緒に行動してもらうから」
何も無かったかの様に淡々と理解の及ばぬ発言をして、一気にコーヒーを飲み干す。今にも立ち上がって出て行くような感覚を得たので、慌てて飲み残しのコーヒーを口に含んで席を立つ。タイミングを合わせるように姫も立ち上がって、会計を済ませてから二人で外に出る。
「これからよろしく、達也くん」
腕を引き摺られ情けなく姫にぶら下がって、沈み行く太陽と反対方向に向かって歩き出す。
「何処に行くんだ?」
「あなたの家よ」
えっ、と愕然とした表情を浮かべて足を止める。ゴミとか散乱してるのに女の子を部屋に呼ぶとか一体どうしたらいいんだよ、と心の中で悶々とするも、姫がもう行ったことあるから気にしないで、と言うので一層困惑する。俺は記憶の無い内に何をしたんだろう。置いてけぼりを喰らった気分で二人仲良く、というより温度差を感じながら、自宅への帰路を進んで行く。
家に着く頃にはもう陽は完全に傾いていて、ビルの隙間から頭を半分程覗かせているのが見えるだけだ。部屋の外にぶら下がったクモの巣には、小さな雀が飛び込んでおり、糸で雁字搦めにされた雀の周りに、無数のクモが覆い被さっていた。
待ち喰らい
つづく。現在執筆中。