無題

未完小説です。



あの朝の事を思い出したところで、私はキッチンに向かった。
胃腸薬を探す。すぐにそれは見つかった。当たり前だ。置き場所は変えていないのだから。瓶を手に取り注意事項を読む。何度見ても、今までに見た事と違う事がいきなり書いてある、なんて事は起こらないのについ読んでしまう。もう、クセだ。今すぐにでも飲みたいのだけれど、一応「食後」という事になっている。ヨーグルトでも何かないかと思い、冷蔵庫を開けた。
でもそこには、何もなかった。
冷蔵庫の中の、薄いオレンジ色のような、優しい光が虚しかった。照らす物など、そこには何もないのに。その、何も入っていない中を、ずっと冷やし続けていた冷蔵庫の事を思うと、更に虚しくなった。
そして母の死後、まともな食事をとっていなかった事に気付く。食料を買いに行くのが、母の役目で、食事を作るのが私の役目だった。その他の事は、どちらからともなくやっていた。
結局そのまま冷蔵庫の扉をぱたりと閉め、一回の服用量の三錠を手に取り、飲んだ。
苦かった。

その後、何もする気になれず今度こそベッドの上へいった。おもいっきり飛び込んだら、少し跳ね返されて、また少しだけ泣きたくなった。
部屋の中がお酒臭い。小さい頃は、この匂いがすごく嫌いだったのを覚えている。でも今は、その、濁ったような空間にいる事で安心できる。匂いも何もない、清潔なところにいたら、きっと私は狂ってしまうだろう。
あいつから貰った、ちっちゃぃダイヤがついたピンキーリングをはめたままだった事に気付いて、急いで指から抜き取り、窓から放り投げた。その時、下でそれをキャッチした人がいた。あいつだった。目と目があったけれど、私はそのままがらがらと勢いよく窓を閉め、カーテンをひいた。
また、右手が震えた。昨日あいつを叩いた、右手。今、あいつからのリングを投げた、右手。ぎゅっと、左手で押え込む。
自分で、勝手に苦しがっているのはわかってる、けど、それを人のせいにしなきゃやっていけなくて。
だから、私がこうなったのも、全部、あいつのせいだ。
ベッドに行き、頭まですっぽりと掛布団をかけた。少しずつ、暗さが増していく。さっきカーテンをひいたのと、今、掛布団の中にもぐったのと、今度は目をつむったから。
私は、もう、光の中で生きられない。
悪い事をした子供のように、その中で丸くなって少し震えていた。私は怯えていたのだろうか。
でも、何に?
階段をリズミカルに昇ってくる音の後、すぐにチャイムの音がして、私を呼ぶ声がしたけれど、そんなのおかまいなしに私は眠った。
逃避だって事、わかっています。でも、お願いだから、ほっといて。そう言うくせに、ホントはほっとかれるのが一番嫌なのも、私は自分でちゃんとわかっていますから。
だから今だけは。
だから今だけは。
またくるからな、って声が聞こえた気がしたけれど、私はもう、深い眠りについていた。
夢なんて見なかった。
それほど深い眠りだった。
逃避でした。遮断でした。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

―――抱きしめてもらいたかったし、涙も拭ってほしかったょ。

私が目覚めると、もう夜だった。
ベッドから出て、カーテンの隙間からちらりと外を覗く。雨が、降っていた。傘をささずにいれそうなんだけど、そのままだと気付いた頃には結構濡れちゃってる、って感じの雨。すごく微妙だった。
中途半端はやめてもらいたい。でもそれを一番しているのは私。そのくせうまく「中間」が作れない。生きるのが不器用な私。
その時、フローリングに置かれていたケータィが、あいつからの着信音を鳴らしたけれど、私は出なかった。着信拒否をするわけでもなく、ただ、眺めていた。ちかちかしている着信ランプと、サブ画面に表示されているあいつの名前を、眺めていた。カーテンを背にして、立ったまま。ふ、と音が消え、画面も部屋も真っ暗になった時、私はどうしようもない気持ちになった。
寂しい、と心がいっていた。
ケータィに走りより、ぱっと握り締めた時、またさっきの着信音が鳴った。私はとっさに出てしまった。
「もしもしっ?」
一瞬の沈黙があった。
「…ぁー。びっくりした。もうでてくれないかと思った。」
聞き慣れたあいつの声が耳元で聞こえた時、私は泣いた。
「ごめん、ごめんねっ。」
あいつが何を言おうと、ずっと謝っていた気がする。何で謝ってるのかも、わからなくなるほど。
気がつくと、部屋にあいつがいて。私カギかけてなかったのかぁ、不用心だなぁーなんて呑気に思いながらも、体はそんな考えよりも早く、あいつを抱きしめていた。あいつは私の事を抱きしめてはくれなかったけれど、頭を撫でてくれた。ごめんね、いつもみたくさらさらじゃなくって。なんて、その時私はまたバカな事を思っていた。

ちゅん、ちゅんという、小鳥の鳴き声で目が覚めた時私はベッドの中で。最近一日が過ぎるのが早いなぁ、なんて思ったりもした。
あいつはもういなかった。
あいつが昨日―正確には今日の早朝くらいまで―此処にいたなんていう痕跡はこれっぽっちも残っていなかった。メモも何もなかった。
もしかしたら、私に何か言って出て行ったのかも知れない。でも、寝ている私に言われたってわかりっこない。私の寝起きの悪さはあいつが母の次によく知っていたはずだから、起こそうとしたわけでもないのだろう。
ベッドの中の私は服を着ていなくて、何となく昨日の事は想像できたけれど、何も覚えてはいなかった。
私何してるんだろぉなー、って、軽く頭を掻きながら、とりあえず起きて下着をつける事にした。脱ぎ捨てられている衣類の中から下着を見つけ、とりあげる。その時目にしたテーブルの端に、私が投げたリングがちょこんと置いてあった。少しヤな気分になったけど、今度はまた窓を開けて投げ捨てる気にはなれなかった。
どうもしっくりこないブラに苛立っていた時、ようやくそのわけがわかった。全身が写る、大きなカガミの中に写っていた私は、ものすごく痩せていた。カガミの中で目が合った「ワタシ」にあんた誰?と問い掛けた。
どうせ、誰もいない。そう思い、そのまま下着姿で洗面所にある体重計の所へ行った。
前にはかった時よりも、五キロ以上減っていた。何で今まで気付かなかったんだろう。よくよく見ると、体のそこら中の骨が、その存在を強めていた。「ごつごつ」、と言うのには、ちょっと遠いのだけれど。今までの脂肪は何処へ消えたんだ?
痩せてかわいく、よりは、大丈夫?と声を掛けられそうなその姿に、また泣けた。

そういえば、バイトもずっと無断欠勤をしていた。
最後に行ったのは…いつだっけ。確か、バイト先に向かう途中で誰からか遊びの電話が来た気がする。それが誰かとかは覚えてないけれど、そのまま方向転換して私はそっちに向かった。もうバイト先がすぐ近くに見えていたのに。
「これから遊ぼう」っていうメールも電話も、別に私宛てじゃなくってもいいんだろうけど、こんな機会逃してたまるかって感じで。私がその中に加われるのが嬉しかった。
そのうち皆の中で、あいつは誘えば絶対くる、みたいなのが出来たみたいで。一気に誘われる回数が増えた。
私の知らない子からもメルやら何やらくるようになった。その度に二つ返事で、行く!と答えた。例えそれが何時だろうが、そうやって答えた。寝ようとしていた時だって、クローゼットから服をひっぱりだして、ソッコーでメイクして、夜の街へ飛び出していった。
心も体もぼろぼろになっていっているのはどこかでわかっていたのに、止めれなかった。
一人で部屋にいると、何をしたらいいかわからなくて。でも、そんな私を止めてくれる「誰か」もいなかった。
こんな風になったのも、もちろん母が死んでから。
だから、私はたった一ヶ月で、すごく変わってしまった事になる。一ヶ月なんていうと、そんなモノか。みたく思うけど、一日一日、色々な事をして生きていると、すごく長い。実際睡眠時間なんてほとんどなかったし。

すごく変わってしまったのはこの一ヶ月の間だけど、私はその前からも、自分を保つのがすごく苦手な子だった。一ヶ月前よりもっと前から、左手首に傷はあった。
普通なら、嫌な事があればカラヲケとかで騒いでパーっと忘れたりするんだろうけど、出来なかった。したとしても、その後一人になるとダメだった。虚しさだけが残った。取り残されたような、感じ。
抱え込んでしまうくせがついた。何かあれば自分のせいにした。私のせいなんだと。こうなったのは全て私のせいなんだと。
一度、「死にたい」と母の前でぽつりと言った時、怒りながらも、半分泣いていた母を見て、また自分を責めた。
その四文字は、そんなに重いものだったのか、と。
同じ四文字でも、「しあわせ」と言うのとでは違いすぎる。
ボーッとしながら自分の部屋に戻り、つい剃刀を握り締め、左手首すれすれまで持っていった。けれどこれをして、何になるんだろうと思って、閉まっている窓に向かって剃刀を投げつけた。
ガツッ、という音の後、かしゃりという音。
一瞬の静けさ。
もしここで手首を切りつけていたのなら、新しく出来たその傷を母が見た時、母はまた泣くのだろう、怒るのだろう。
そんな母を見たくない。悲しませたくない。
私は窓際の剃刀をそのままにして、泣いた。最初は、涙がぱたぱたとこぼれていただけだったのに、そのうち、それだけではおさまらなくなっていた。声をあげ、泣いている自分がいた。
きっと、その声は母にも聞こえていたんだろう。
母は、どんな気持ちで、いたんだろうか。
結局私は、母に迷惑をかけてしまったんだろうか。
罪悪感をうけたのは、私だけじゃなかったのかもしれない。
光を浴びた剃刀の刃が、一瞬だけきらめいた。

自分のせいにしすぎているのに気付いて、今度は全部相手のせいにした。
そう、『全部』。
私はどうして、極端な事しか出来なかったんだろう。
恋人だった人に、自分の事をわかってくれないという理由で、別れを切り出した。そいつは五個上のサラリーマンで、いつも会うのは土日か、夜中だった。
もちろん私の言葉に相手は納得しなかった。原因は私にあるのだと、言われた。それなのにどうして、おまえから別れを切り出すのかと。こんな私に理解が出来ないらしかった。
原因が私にある、と言われて、それでも私はあんたと付き合うのがもう嫌なんだ、と叫んだら、即座に腹にそいつの握りこぶしが飛んできた。一瞬息が詰まり、その後、痛さやら何やらが、一遍に溢れ出てきて、ぼたぼた涙をこぼし、泣いた。
立っていられなくて、お腹を両手で抱えながら、道端によろよろとしゃがみこんだ。
周りには普通に人が通っていたが、私が殴られたのを見ていた人も、誰も声を掛けてはくれなかった。皆、厄介事にはかかわりたくないんだろう。私だって逆の立場なら素通りしている。そう思っても実際誰も助けてくれなかった事には、結構傷付いた。
そいつは、「ウザィよ、お前。」とだけ言って、泣きじゃくっている私をそのままに、去っていった。
後ろ姿が、遠かった。今まで「愛し合っていた」相手とは思えなかった。
きっと、私たちの間にあったのは、「愛」なんかじゃなかったんだ。
その後私は、ふらふらと駅に向かった。こんな姿の私を、周りは変な好奇心の目で見ていたが、気にしなかった。気にしてなんていられなかった。「早く家に帰らなくては。」それだけを思っていた。
家に着いても、どうして私が殴られなければいけなかったのかと思い、悔しくて悔しくて、泣いた。その理由がわからなかった。悔しさと、腹の痛みだけがなかなか消えなくて、確かその日も私はお酒を飲んで、むりやり寝た。
きっと部屋の電気が消えていたから、母はもう寝ていたのだろう。

だるい体をむりやり起こして、ベッドからでる。もう母は仕事に行っている時間だった。
お腹を軽く撫でながら、奴は本気では私の事を殴らなかったんだなぁ、と思っていた。大の男に、本気で殴られたなら、私は一人で家まで帰ってくる事が出来なかったかも知れない。
どうしても、力の面では男に勝てない自分が、「女」だと言う事を、痛切に感じた。
「あんな奴に、手加減してもらったのか。」
そうぽつりとつぶやいて、やっぱり別れて正解だ、と思った。殴るにしろ、何処かでまだ私の事を「女」として見ていたのかと思うと、何だか気持ち悪い。
女の事を殴る男は許せない。という考えが私の中にある。それは女の方が弱いという、前提でだけれど。そう思ってしまうのは、弱いものいじめは最低だ、というのが、小さい頃から頭にすり込まれていたせいかも知れない。
何だかんだ言って、私は「女」である事を理由に得してきた事もあるわけだ。世間が何故か、そうなっている。女がちやほやされたり、レディースデーなんてあったり。多少顔が悪い女でも、きっと男達の中に、ただ一人でいたら、可愛がられるんだろう。まぁ色々と例外はあるだろうが。
でも私は後々、やっぱり女は損なんじゃないかって、思う事になる。

あいつから、メールが入っていた。私は六時間もの間、それに気付かずにいた。
何してたんだっけ、とか思ったけど、私はずっと自分の過去に耽っていたんだった。
内容は、くだらなかった。くだらなすぎて、笑う事もできなかった。
「やりなおそう。」
だってさ。一体何を?そもそも、私は、いつこいつとの関係を終わりにしたんだっけ?それよりまず、どんな関係だったんだっけ?はて。
もう、私の方が冷めていた。「やりなおそう。」と言われたって、あの夜私が抱きついて、その後した事を思い出したって、(実際は覚えてないんだけど。)何も感じなかった。
だから、
「ばいばぃ。」
とだけ返した。
日も沈み、辺りがぼんやり暗くなった頃、私は家を出た。
泣き虫な私が困らないように、ハンドタオルだけはしっかり持って、玄関にカギを掛けた。
あいつから返信がくるかも知れないけーたぃは、ベッドに寝かせた。
私の全財産が入ったお財布は、ベッドの下に蹴飛ばした。
母の残した通帳は、まだ、駅のコインロッカーの中にある。
あー。せめて原付の免許でも取っておけばよかった。って思ったけどとりあえず、久々に自転車にまたがり、そのペダルを漕ぎ始めた。
何処へ行こうかなぁ。なんて、無計画に家を出てきたみたいだけど、そんな事を考えつつも、私はもう行き場所を決めているのだ。そうでなかったら、出掛けたりはしない。でも、そこへはチャリなんかで行った事はなかった。
行けるかなぁ、って思ったけど、行けない事はないだろう。いつかは着くだろう。そんなテキトーな考えのままチャリを漕いだ。
別に自転車じゃなくて電車で行けばいいんだけど、この、自分の自由がきく「チャリ」という物が、私は好きだった。車やバイクで道路を走っていたら、速度も、周りも、色々と気にしなくちゃいけないけれど、自転車で脇の歩道を走っていたら、ほぼ自分の好きな速度で走れる。いきなり止まったって、後ろに誰もいなかったら迷惑にはならないだろう。
というわけで、とろとろと、景色を見ながら私は走った。
ついこの前まで、春だなぁ、なんて思っていたのに、もう辺りはすっかり夏だった。桜の花でいっぱいだった、この通りも、今ではもう、葉ばかりだ。咲き終えて、下に落ちたチューリップの残骸も消え始めていた。
もう、日は落ちていた。
学校帰りの学生や、仕事帰りのサラリーマンもちらほら見えた。皆、家に帰る所だというのに、私は、そこからどんどん遠ざかっていっている。
サメのように、私は自転車をひたすら漕ぎ続けた。赤信号にぶちあたる度、他の道を行った。だって、止まってしまったら、全て終わる気がして。
最初のまま、ずっとスローペースできたのだけれど、やっぱり、ずっと何かをするという事は、体力を消耗するのだとわかった。
自転車の動きを止めないように色々な道を行った結果、かなり無駄な時間を過ごしていた事になる。距離的にも。一体何キロ走ったのだろう。きっとこんなに自転車で走った事は、ない。
休みたい。サドルではなく何処か別の場所に座りたい。延々と同じ動作を続けている足の動きを止めてあげたい。
そう思うのだけれど、私の足は止まらなかった。今にも止まりそうになりながらも、ゆっくりゆっくり、ペダルを漕いでいた。
目的地にはまだ着きそうにない。後どれくらいだろう。目的地に着いたら、私は足を止める事が出来るのだろうか。そこでなら、全て終わっても良いと思えるのだろうか。
通り過ぎていく景色や人を見ながら、私は何処か別の世界にきてしまった気がしていた。「現実」ではない感じ。「夢」とも違う。「現実」だという事はわかっていても、それを信じれない。現実という世界の周りにある境界線を越えてしまったような感じ。
やりなおそうと言ったあいつも、私を殴った奴も、その他大勢の遊び友達やら、過去の人達も、存在しない気がした。此処には。むしろそっちの方が夢だったんじゃないか、って思った。私の頭の中で作り出された、架空の人物達だったんじゃないか?私は寂しさゆえに、あれ程多くの人達を無意識に作り出してしまった…。なーんて。
そんな事を思えても、どうしても変えようのない「事実」は一つだけある。
それは母が死んだ事。
それが夢であれば良いと思う。でも、目が覚めてもそこに母はいないのだ。毎朝「もしかしたら」「もしかしたら」と思いながら目覚める。母を呼ぶ。返ってくる事のない声。その度「これが現実なのだ」と自分に言い聞かせる。それでもまた、私は翌朝母を呼び、その一方通行な声が消え去った後、一瞬、しん、とする度悲しみにくれるのだ。
ちゃんとに受け止めている自分もいる、でもまだそれを受け止めきれていない自分もいる。
「お母さん」「お母さん」「お母さん」。
あなたに抱きしめられた事は、いくら記憶を辿っても見つからないけれど、あなたの愛はずっと感じていたよ。不器用なトコ、そっくりだね。「お父さん」がいなくても、私はあなたが居てくれたから、それで充分でした。どんな時でも私を突き放す事などなかったあなたが居てくれたから…。あなたの笑顔が、声が、優しさが、ぬくもりが、どうしても消えません。あなたはもういないのに。消せたなら、少しは、私の気持ちも軽くなると思う?楽になるのかなぁ。ねぇ、答えてよ…。
涙が、こぼれた。
あの夜のように、泣いている顔を見られたくなくて、下を向いた。頑張って漕ぎ続けている私の足が見える。地面が、動いてゆく。
その時いきなりクラクションが、長く鳴り響いた。それと同時に鋭いブレーキ音も。驚いて顔を上げ、すぐさま音のする方に顔を向けた。すぐ近くに、真っ赤な車があった。腕をめいっぱい伸ばしたら、届きそうだった。
両手を強く握って、ききっという音とともに自転車を止めた。私の足は四時間ぶりに地面についた。
「余所見してんじゃねーよ! このクソ餓鬼!」
運転手は窓から顔を乗り出し、ドスの利いた声でそう言って、一旦バックし、半分ほど車道に飛び出ている私の自転車を避けるようにカーブをえがいたのち、猛スピードで走り去っていった。
横断歩道の信号は、赤だった。私のハンドルを握る手には、じっとりと汗がにじみ出していた。心臓が、ばくばくと激しく鼓動をうつのをやめない。身体の中から、指先、爪先まで、一気に何かが通り抜けていったような、あのぞくりとした感覚が抜けない。他の車の邪魔にならないよう、地面についた足をつかい、そろそろと自転車をバックさせた。目の前では色々な種類の車が、行き交っていた。
信号が青に変わり、信号待ちをしていた何人かが一斉に動き出したが、私はそこから動けなかった。
恐かった。
「死」というものが、ものすごく近くにあったあの時、「死にたい」なんて口にした事がある私の頭をよぎったのは、「死にたくない」だった。涙はもう止まっていた。
自転車から降りて、その自転車を両手でひきながら、とぼとぼ歩いた。横断歩道を渡らずに、また別の道を。
どうしようか。どうしようか。今、私は、ヒトリだ。

いつか、逃げだしたくて。知らない駅で降りてみた時があった。自分の事を誰も知らない場所で、やり直したかったんだ。でも、お金さえあれば何とかなる、って思っていた自分がバカみたいだった。ケータィも電池切れで使えなくなってた。コンビニを探そうと思ったけれど、店すら見つからない。周りは田んぼだらけ。帰りたくても終電はとっくに終わっていて(私が乗ってきたのが終電だった)、始発まで何処かで待つしかない。しかも暗い中見知らぬ土地を歩いてたせいか、駅がどっちにあったのかさえわからない。此処には仲間の声もない。そう考えたらムショーに虚無感が襲ってきて、途方にくれていた時、バイクに乗った男友達が偶然通りかかった。そして家までつれてってくれた。

でも、今回は誰も通りかかりそうにない。あの時だって、ホント運が良かった。それだけ。
「ケータィも、財布も、置いてきちゃったもんなぁ。」
ぽつりとつぶやき空を仰ぐ。曇り空。此処じゃ晴れていても星なんか見えない。
星…好きだったなぁ。小さい頃は、夜空ばっか見てた。ちっちゃくきらめく星たちが、私の宝物だった。
ド田舎のおじーちゃん家で見る夜空が一番好きだった。辺りは真っ暗で、いつもより何倍もの星が見えた。いつも行くのは夏休みだったから、ホタルも飛んでいて、私は必死になって追いかけた。
そしてそれを後ろの縁台に座って見ているおじーちゃんがいた。スイカを切って持ってくるおばーちゃんに、真っ先にそのスイカに手を伸ばすおかーさん。
「スイカなくなっちゃうわよー。」
と笑いながら言う。
「残しといてーっ」
と私は叫びながらも目はまだホタルを追っていた。それがつゆ草の上にそっととまった。私はそれを両手でゆっくりと覆うようにする。手の中でちかちかとホタルが光る。これも宝物。少しだけ私のモノにして、優越感に浸る。でも私の手の中よりも、自然の中の方がその光は際立つのを知っているから、すぐ離してやる。
振り返ると皆笑顔で楽しそうだ。
「ほら、スイカ。食べるでしょ?」
ひょいと持ち上げながらそう言う。
「うんっ。」
ぱたぱたと走ってゆく私。その目の前でそのスイカにぱくっと噛み付く母。
「ぁっ!食べたーーーー!」
「早い者勝ちなのでーす。」
Vサインを作りながらにたりと笑う。
「バーカッ。」
その食べかけのスイカをぱっと奪う私。だってもうお盆の上には皮と種しか残ってないんだもの。最後のスイカを母に食べられた!残しといてと言ったのに。段々涙が出てきた。
「ぁあぁあ、また泣かしてー。」
祖母に注意される母。
「ぁっ…。ごめんね?ごめん~~…。」
頭をぽんぽんってされる。そうされると何故だか余計泣きたくなるものなんだ。私はとうとうぼたぼたと大粒の涙をこぼし始めた。まだ一口もスイカを食べていないまま。
かなりおどおどした母が、
「実は…。」
と後ろから何かを取り出した。それは半分に割っただけのおっきなスイカだった。私はびっくりして泣くのをやめた。
「?」
「全部食べていいんだょ。」
にっこり笑う。
「!ホントに?!」
私はすっかり機嫌を直して、母が食べたスイカを「はぃっおかーさんっ。」と渡し、
「スプーンなぃ?スプーン!」
と言って、早速そのスイカに取り掛かった。
「あまーーーぃ!」
私の幸せそうな笑顔に、皆が顔を見合わせ笑った。

「……懐かしいなぁ。」
もう、四人で会う事なんか、有り得ないんだ。最後に行ったのは、いつだったんだろう。
あれ。そう言えば母の死は、伝えたんだろうか。葬儀とか。私はどうしたんだっけ。葬儀?いつやった?やってない?母の遺骨は?
どうしたっけ。どうしたっけ。どうしたっけ!
恐い。
思い出せなかった。自転車から手を放して、耳を覆った。がしゃん、と倒れた自転車の音で、何人かがこっちをむく。
「見ないで!」
そう金切り声をあげ、地面にしゃがみこんだ。頭がぐらぐらした。手足が震えだした。歯ががちがちいってる。じわじわと汗もにじみだしてきた。心臓はさっきみたくばくばくいい始めた。
ヤバィ。ヤバィやばぃヤバイやバい。
どうしよう。どうしよう。
やめて。
私のこんな様子を見て、誰かが近づいてきているみたいだ。足音が聞こえる。
やめて。
こないで。
誰。
誰がきているの。
見たいのに顔があげられない。恐い。
どうしよう。
足音がぴたりと止んだ。視界にスニーカーが入った。男物の。黒い。スニーカー。
どうしよう。私どうしたらいいんだろう。黒いスニーカーは止まったままだ。
何、何、何。
私が動かずにいたら、ふと、スニーカーが消えた。そして、がしゃん、と自転車が起こされた。
私はお礼も言えない。また視界にスニーカーが入る。どうやらしゃがんだみたいだ。どういうつもりなんだろう。そう思っていたら突然抱き寄せられた。驚いて、更に私は動けなくなった。心臓がさっきとは違う音でばくばくいってる。
ど、どうしたらいいんだろう。
 私じゃない匂いと、

無題

あの頃の私はもういないので、続きは書けません。ご想像にお任せします。

無題

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-03-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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