夜の薫り

希死念慮と自殺のおはなし

あの時あのバスですれ違った思い出ごと、夜の匂いと混ざってうっすら花の香りがする

死のうと思った。だが俺は死ぬことに対していままでそんなに興味もないし、調べるほど熱意が有るわけじゃないので衝動的に樹海にきてしまった。樹海は俺の浅はかな知識の中で一番自殺と強く結びついているように思えたのが樹海だったのだ。
仕事が終わり今日も給料が出ない時間の労働で上司に圧を掛けられ、ならばいっそのこと死んでやろうと思ったのだ。酷く衝動的なもので一泊二日の旅行用のカバンにロープやら着替えやら水やらガムテープを詰めている間は修学旅行に行くかのように感情が高ぶっていたのだが、いざ、バスに乗り込んで暗い林道を進んで行く中俺の気持ちは嘘のように急降下し、水を口にするたび頭が刻一刻と冴えていくのがわかった。しまいには家に忘れ物をして出社したような気分になり最終的には泣きたくなっていた。実際、遺書を書くようなものも持ってきていないし携帯の充電はすでに電池マークが残り一個の表示である。それに明後日は俺がプレゼンをしなくてはならない。もうか細い心がぱきりと折れてしまいそうである。
思わずじわっと涙があふれてきそうになり窓のそとにやっていた視線を足元に落とす。買いに行く暇もなく塗装がはげかけている靴はすでにつま先がぼろぼろで、紐はゆるみ左側に至ってはほつれて切れかけている。足の親指が既につかえている。親が上京祝いにこの靴を買ってくれた事を思い出すと更に鼻の奥がつーんとした。
だがバスの行先がそうさせているのかそんな俺を気に掛ける人などいない。乗客といえば一番左の真ん前の席に茶色のパーマをかけた頭の女、水商売独特のくどい香水をさせてブランドもののボストンバックを持っている。真っ赤なコートに似合う位派手な化粧だった。停留所で堅気らしからぬスーツの男に見送られて彼女はどこへ行こうというのだろうか。さっきからタバコを吸いたいのかバックをしきりにあさっては細身のタバコとこれまたブランド物のガスライターを取り出し逡巡して結局コンパクトを取り出し化粧をこまめに直している。このバスは湿気が高いのだ。化粧を直したところで誰に会いに行くわけでもないのだろうに、そこは女性独特の感性なのだろうか。
もうひとりはホームレス風の老人である。暗い公園の前からぼろぼろの小銭入れとカップ酒を持って乗ってきた。ボア付のジャケットと虎模様にふちどられた長靴は泥汚れがついており、ジャケットの中身は汚れた白のランニング一枚である。寒くはないのだろうか。カップ酒とぼろぼろの小銭入れの他に透明のビニール袋を持っていて、中には拾ったのであろう、タバコの吸い殻と亀裂がはいりかけている100円ライターが入っていた。こちらは車内ということを多少気にしているのか窓を少し開け、運転手から見えないようにさっきから吸い殻に再び火をつけてはすぱすぱと吸い、吸い殻を窓から放り投げている。水商売風の女がさっきからタバコを吸おうか逡巡している原因はほぼこれかと思われる。だが女が決してタバコに火をつけて吸おうとしないのは席が運転手に近いことを気にしているのか、それとも常識があるかなのかは俺にはわからない。きっと一生かかわらないで終わるような人間だ。そこまで深く考える必要もない。ホームレス風のオヤジは何もしゃべらない代わりにときどき嗚咽をもらす。うっ、だとか、うあ、だとか。それが自分の人生を悲観しているのかそれともカップ酒に酔ってしゃくりあげているだけなのか俺は知るすべがない。
さあ、樹海につく、そろそろだという二つほど前の停留所でオヤジは急にたちあがったと思うと慌ててくしゃくしゃの金を払い、元来た方向に走り出してしまっていた。こんな状況なのに運転手はひとこと、降りるオヤジに「ありがとうございました」と機械のように温度のこもっていない声で言っただけであった。

人間観察をしている間に焦っていたこころがまたふたたびおちついてきて、それはもう諦めに近いものだった。刹那的にすべてがどうでもよくなって、ふしぎとこころが据わってきた。死にゆく人間の心境とはこういう物なのかと変に納得さえしていた。
もうどうにでもなってしまえ。いや、どうでもよかった。前にあいかわらず座っている水商売風の女が逃亡中の連続殺人犯でボストンバックの中身は札束と包丁であっても、無感情すぎる運転手が昔見たアニメのように人ではなくったって、どうでもいいような気がした。
そんな感情の後にやってくるのは肉体的疲労と精神的な疲労だけで、はやく家に帰りたくなってきた。家に帰って、粗末でもいいからなにか食べて、ゆっくり寝て、起きたらひさびさに久しくやっていなかったゲームをするのもいいかもしれない。そんな気さえしてきた。そうしてそんな感情のあと膝においたバックの重量と中身を思ってもう後戻りができないのを知ると、ふたたび陰鬱な気持ちにうちのめされるのであった。

そんな俺の気持ちの逡巡を知ってか知らずか、バスはゆっくりと、しっかりと、目的地に向かっていった。
最後の停留所、俺と女は降りる。女は指輪のついた指でお札を投げ込むとおつりはいい、と言い、運転手はそれに対してありがとうございました、とこれまた無機質に言うだけだった。俺も続いて降りる。きちんと表示金額通りにお金をいれる自分の几帳面さがいやになる。死ぬ間際くらい水商売の女みたくふるまってみたかったが、それを思ったのは既に料金をきちんと支払って停留所に降り立ったあとだった。
停留所につくやいなや女はこちらを一瞥するとすぐにタバコに火をつけ吸い始めた。よほど我慢していたのだろう、大きくすって、吐いてを繰り返している。
降り立ったものはいいがぼうっとしているとふいに女に声をかけられた。
「あんたも」
「あんたも吸う?最後なんだし、少しあげるよ」
ああ、やっぱりこの女はここに死に来ているんだな。そう思った。疑惑が確信へと近づく。
いや、と言いかけた。俺はタバコを一度も吸ったことがなかった。最後ぐらい経験程度にすってみようと思った。
「いや、もらうよ」
どっちなんだよ、と訝しげな目をされた後、女は細身のタバコの箱からこれまた細身のタバコを取り出し一本くれた。俺がとりあえず、と口にくわえるときづかないほどの速さで女は自然にライターで火を付けてくれた。
「ああ、ごめんなさい、職業柄、つい」
女が派手な化粧をほころばせそう言う。この人、笑っていればかわいいのに。派手な化粧が無邪気な笑顔を邪魔している。
「あなた、ここに何しにきたんですか」
どちらともなくふいにぽつりと俺の口から言葉が漏れた。女はすいなれていない俺の一服姿をみていて微笑みをうかべていたのに、その瞬間、女の顔に影が落ちた。
「わたしは、終わらせに」
「終わらせにきたのよ、わたしは死ななくちゃあいけない人間だから」
死にたいから、死ぬ。ならわかる。死ななくてはいけない、とはどういうことだろうか。女は見るかぎりちょっと派手な普通の水商売風の女であって、どうしても極悪人になんか見えなかった。あの無邪気な笑顔をみた後だからかもしれないが。
「どうして、そんな死ななくちゃいけないなんて」火をつけてもらってうまく吸えないタバコがじっくり焦げていく。
「どうして、ってどうしてもよ。それよりあんたは?」この女のあんた、は舌たらずなだけで、ほんとうはあなたと言っているらしかった。
「俺は、嫌になったんだ。」繰り返される単調な毎日、一人の部屋、きまった休日のすごし方。そういったものが、もうたまらなく嫌になってしまった。落ち着くはずの自分の家がひどく遠いものに感じてしまって、寝るためだけの空間になって、成長するための職場が時間までにどうやって仕事をできるかの効率重視になったのはいつからだったか。多分ずっと前だろう。それすら思い出せないのだから。
そんな俺の身の上話を女は黙ってきいてくれた。死ぬ間際に理解者が現れるというのはひどい皮肉だと思った。これだから、本当に。
「わたしの話はここでするのもなんだから道すがら話すわ」
そういって女はヒールの足で道しるべのスズランテープを木に巻きつけながらざくざくと樹海に進んでいくのであった。
俺もなんとなく女の話を聞かなければいけない気がして、ざっ、ざっと樹海をまるでハイキングにでも行くように歩いていく女の話に耳を傾けていた。
「最初に死のうと思ったのは二十歳の時。」
「うちお金なくてさぁ、高校は公立だからなんとかギリギリ出してもらえたんだけどなんせ田舎でおまけに就職難でさあ、そして極め付けに私学校行くお金以外全部自分で出すためにバイトばっかりしてたのよね。んでなんの資格も持ってなくって、でも年金とか保険料とかとにかく生きるのにお金かかるじゃない?でもそんなお金どこにもないじゃない?だからもう働くのも生きるのも全部面倒臭くなっちゃって、死のうとしたんだけどさあ」
「朝おきたら病院なわけ。ツメが甘かったのよ結局。お父さんもお母さんも病院でそりゃ泣いていたけど治った途端入院代払えっていわれてねぇ。ああこれは駄目だ、っておもって実家飛び出したわけよ」
女は足と口を休めない。
「フーゾクでもなんでもやってやろうと思ったわ、生きるためにね。お金が欲しかったのよ。なんせ一度自殺未遂しちゃってるわけだから普通に正社員になんかなれるわけないじゃない?最近は保険証しらべてそういう前科がある人を落とすとこも多いみたいだし。そんな中まわりの友達は結婚やら就職やらでまあ煌びやかでさ、いたたまれなくなっちゃって。本当は正社員にでもなってやりたかったわ。でもまあ、無理なのよね。それでも薬漬けでなんとか二年はやっていたのよ。あ、薬っていっても向精神薬ね。でもそれも無理になっちゃった。会社が倒産しちゃって。んで放り出されたんだけど転職先がまぁ見つからない見つからない。」
「貯金全部おろしてどこへでも消えてやろうと思っていた先にさっきの黒服に拾われて、まあいい待遇でキャバやってたのよ。あれ最高。夕方出勤して休み自由で喋って愛想よくしてたらさぁ、いつの間にか地位も結構高くなってお金だけが溜まっていって」
女がネイルを施した手で木をやすやすとよけ、どんどんスズランテープを付けていく。まるでそれが仕事だといわんばかりに慣れきった手際の良さだった。
「いざお金が溜まるとさぁ、途方に暮れちゃって。なんの為に生きてるんだろう。なんの為にお金貯めてるんだろうって」
「んでここにいるわけよ」
そういって振り返った女の顔はひどく晴れやかでまるで慈愛に満ちた菩薩のようなほほえみをたたえていた。まるでこんな場所には似つかわしくないように思えたし、逆にこの場になじんでいるようにも思えた。
そうして少しまあるく開けた樹海のその場所はまるで小さい舞台のようで、星の光と月の光が差し込んできている様はスポットライトのようだった。
「わたし、ここがいいな」
女の顔は無垢な少女のようで、それは生きることで縛られるすべての事柄からやっと解放されたからかもしれなかった。
「あなたはどうするの?ここはやめてね。ここはわたしの場所よ」
女は晴れやかにそういった。嬉しそうにみえた。見てられなかった。見てられなかったのに、俺はこの女に何も言ってやれなかった。言ってもこの女がもう心を固く決めているのはわかっていたし、俺はこの女のこれからの人生を変えてやるような甲斐性も根性もなかった。
 もし、俺が全力でこの女を止めて、この場で女が死ななかったとしても、女は近いうちにまた死ぬことになる。俺の言葉を信じてくれたとしてもだんだんと見る影もなくなり、こころがやせ細ってしんでしまう。晴れやかで無垢な少女のような笑みを浮かべる女がだんだんと絶望していく様など、想像したくなかった。
俺は無力だった。無気力だった。生きるための努力も放り出していた。俺には、彼女を止める理由もなければ力もなかった。ただただ無力だった。
「あれ、なんで泣いているの」
手頃な木にすでに綺麗に首吊り用の縄をくくりつけた女が言う。
女に言われて気づいたが、俺の両頬には生暖かいなみだがさらさら流れていた。気づいたらもう止まらなかった。嗚咽まで出てきて、本格的に泣き始めてしまったものだから困ってしまった。泣きながら困った。
「もしかして悲しんでくれてるの?だとしたらうれしいな」
女はそういって笑いながら俺の頬に綺麗なハンカチをあててくれた。ハンカチからほのかに柔軟剤の香りがして、それがいっそう俺の涙腺を刺激した。
「おれ…なにも、なにもできなくて、きみは、がんばっていたのに、おれはなんにもできなくて、ごめん、ごめんなさい」
「いいのよ、うれしいの。十分うれしい。わたしが死のうとしているのを悲しんで泣いてくれるひとがいるなんてうれしい。ありがとう」
女はそういって優しく俺をだきしめた。きつい香水の匂いは樹海の濃い夜の匂いと混ざって中和されていて、ほんのりと何かの花の匂いがしていた。その香りはなんだか優しくて、懐かしくて、なんだか落ち着く香りなのに涙が止まらなかった。その匂いは、夜の香りがした。さむい夜の透き通った空気の匂いと、水商売の女の香水の花の匂いが混ざって、やさしい夜の香りがしていた。俺はおそるおそる女のコートの背中にそっと、ほんとうにそっと気づかれないように手をのばした。女は何も言わずに泣きじゃくる大人の俺を優しく母親が子供にするようにだきしめてくれていた。

どのくらいの時間がたっていたのだろう。すっかり安心してしまって、ここに来るまでの気持ちがリセットされたような気分だった。まるで子供に戻ったような、ふしぎな気分だった。


「よかったわ。傑作よ。私の人生傑作。」
なんの事かわからなかった。もはや当然俺と女は朝までバスを待ってくだらない話をしながら帰れたら、と思っていたのだった。泣いたあとで少し思考が追い付かなかった。ああ、そうだ、このひとは。
「本当にありがとうね。最後に、こうして誰かといられて本当によかったわ」
そういって俺を見上げた女はまたわらっていた。そのほほえみは確かに満足げでやさしそうなのに、目はやつれきっていて、絶望さえしていた。そうしてその暗い瞳から綺麗な涙を流していた。
「わたしが本当に死のうとした理由はもうひとつあってね、お腹の子を殺しちゃったのよ、わたし。大好きなひとの子だったのに。その大好きな人が死んじゃって、そのストレスで病院通っていたら、もう産めないって、おろすしかないって」
「わたしがころしたの」女から微笑みは消えていた。
「だからいつしか死ななきゃとばかり思っていた」
「どうして…そんな」思わず俺の口から言葉がすべってでてしまったときにはもう遅かった。
「ながれちゃったのよね」
「でも殺す判断をしたのはわたしだわ。どうぞ軽蔑して」
そんなつもりはなかった。女を責めるつもりなんてなかった。ショックで流産したのだ。そんな彼女を責めるつもりなんてなかったのに、俺の口から出た言葉のタイミングは最悪だった。
「ちがう」
ちがう、ちがうんだ。そんなつもりで言ったんじゃない。
むなしく俺の弁解が響く。ああ、もっと上手に言葉だけじゃなく人に感情を伝える方法があったら。
「真実よ」
貴方が誤解をときたいのはわかっているわ。でも、真実よ。
女は続けてこう言う。
「私は人殺し」
ああ、もうどんな言葉も届かない。
「どうして…どうして君は…」
「君みたいな人は、僕なんかより生きるべきだ」
「いいえ、もう、だめだわ」
「私はもう、いっぱいいっぱいなのよ」
いっぱいなの。生きているだけで罪の意識に潰されそうなのよ。
女はもう泣いていなかった。けれどいっそのこと泣いてくれたほうがいいくらい、辛くて苦しそうな顔をしていた。
「それに、あなたのほうが生きるべきよ」
そうやって女は俺にハンカチを、渡した。
「それあげるわ。たいして高くないけど。わたしのくだらない話を聞いてくれたお礼。あんまり泣いてばかりいるとせっかくの男前が台無しよ」
女はまた笑った。綺麗な笑顔だったが、そこに純粋さはなく、すべてを諦めて達観した人の顔で笑っていた。
「いきなさい。」
「わたしのぶんまで」
「スズランテープ、本当はあれ、必要なかったのよ。でもね、あなたおっちょこちょいそうだったから、迷っちゃうんじゃないかなって。正解ね。あれを辿れば帰れるわ」
また鼻の奥がつーんとする。なんとも言えない気分になる。本当はぐしゃぐしゃに泣きたかった。必死に歯をくいしばって耐える。
「そう、えらいわね。やっぱり笑っているほうがかっこいいわ」
俺は彼女に笑顔を向ける。やけくその笑顔だ。たぶんこんな顔もう二度としないだろう。
「あなたみたいなお人よしさんこそ、生きるべき世界だわ」
「君だって」
ふふふ、と彼女が力なくわらう。
「じゃあね、たのしかったわ」
「…また会いに来るよ」
「その頃には無残に死んでるわ。きっと腐ってるし、きたないわよ」
「それでも、」
「それでも会いに来る」
「…ありがとう」
最後に彼女は俺にとびきりの笑顔を見せた。それと同時に俺は走り出した。スズランテープをひきちぎり、かわりにその木の根元に彼女にわからないようにすこしずつガムテープを貼っていった。まるで機械みたいにはやく、正確に。仕事のように。
途中で彼女が後ろですこし笑った気がした。それを聞いた瞬間せきをきったようにぼろぼろ涙が落ちて行った。走りながら泣くもんだから喘鳴のような声が口から漏れていた。目もこころもからだも熱くて苦しかった。それでも走って行った。

元のバス停につくと、いろいろめちゃめちゃだった。靴は来る前よりぼろぼろだったしどこでひっかけたかスーツはほころんで、シャツは汗でどろどろしていて、顔は涙がとまらなくて目の奥と頭が熱を持ってじんじん痛んでいた。
俺はたまらず座り込んでしまった。座り込んだ足元に女がくれたタバコの吸い殻があって、また少し泣いてしまった。

疲れてすこしそのまま眠っていると、朝が来た。
俺はずっとタバコの吸い殻を手に持ったまま寝ていたようだ。すこし悩んで、持ってきたビニール袋にタバコの吸い殻をいれて丁寧にカバンのすみにしまっておいた。そうして何も考えられなくなってぼおっとしているとバスが来た。酷い身なりの俺に運転手はなにも言わなかった。そうしてくれたほうがありがたかった。バスに乗っていると夜が明けて行って、なんだか大仕事をやりとげたような現実味のなさに襲われながら、ゆめうつつ、バスに揺られ帰っていった。彼女との会話を一字一句忘れないように反芻しながら寝てしまっていた。



「いきなさい。」
あの時の彼女のあの言葉は果たしてどっちの意味だったのだろう。
夏が終わるときの夜の香りは彼女の最後の抱擁の香りにどことなく似ている。あれからいくつもの夜が過ぎ、明け、季節も年も変わっていった。俺もずいぶん歳をとってしまって、もう完全なおっさんだった。
あれからもう何年たっただろう。いろいろなことがあった。考え直す暇もないほど、目まぐるしい日々だった。転職して、そこの職場で知り合った嫁と人並みの恋愛をし、結婚をし、子供はもう自分で働いて食えるような歳になっていた。嫁が死んだのは最近だった気がするがそれも定かではない。あの日から必死で生きてきて、それなりに充実した人生を送ってきたように思えた。振り返ってみれば俺はずっと彼女のあの言葉に縛られていたのかもしれない。彼女の幻影とあの日の言葉のひとつひとつがちらついて、消えて離れてはまた浮かんでくるような印象が強かった。
 彼女の分もよりよく生きようとしたのだ、結局のところ俺の人生はその他になかった。振り返ってみればつらいこともあったが、その分、楽しいこともあった人生だった。
なあ、もういいだろう。もう。
俺は花束を抱えてバスに乗り込む。花束といってしまうには粗末なものなのでなんだか気恥ずかしくなり、いろいろ考えた結果上着で隠すようにして、軽めに小脇に挟んだ。途中で花が萎れないよう、カップ酒の空き瓶に水を入れてきた。長年使ってぼろぼろになった財布と花、水、それとハンカチ。持ち物はそれだけだった。
ふと足元をみるとゴミが落ちていた。むき身のタバコと100円ライターが入っている。亀裂が入っているようだが使えそうだ。タバコの銘柄をみると、ずいぶん昔に俺が彼女からもらったタバコだった。この車両は使う人も少なく運転手も適当である。あれから何度か乗っては途中でやめることをしたから知っている。乗るたび、彼女に顔向けできるような人生を送っているのか不安になってしまって、何度も途中で降りては逃げるように帰って行った。だが今日こそは。
途中で若い青年が乗ってきた。思い悩んだ顔をしていた。昔の私によく似ている。だが、だが、君はまだ乗るべきじゃない。そうだ。あの日乗ったのはそこのバス停じゃないだろう?そうだ。君はそこで降りるべきだ。青年は暗い公園前で降りて行った。
そうして路地を走っていくと赤いコートの女性が乗ってきた。顔は見えない。黒服と一緒じゃないのか。そうか。もう必要ないからな。もう君は一人だから。
彼女が俺を通り過ぎるとき、懐かしすぎる香水の匂いがした。
俺はたまらなくなって抜き身のタバコを吸う。窓を少し開ける。年甲斐もなく嗚咽が出る。ああ、君は、ずっと俺を。

女はタバコもライターも取り出さない。そのかわり、コンパクトを反射させて俺に自分の顔がみえるようにして微笑んでみせた。あの時みたいな、純粋で菩薩のような微笑みだった。俺もつられてあの時みたいにぐしゃぐしゃに笑って見せる。しばらくそうして笑い合っていた。
終点につくと彼女は少し上機嫌そうな声で「おつりはいらないわ」といって料金を支払った。運転手もこころなしかやわらかい声で「ありがとうございました」と返した。
俺も、あの時みたいに途中のバス停で走って逃げたりしなかった。長年つかってぼろぼろの財布からきっちり金額どおりの運賃を出す。
「おかわりありませんね」運転手の顔は見えない。
「まあ、人間そんな簡単には変わりませんよ」俺もそう返しておく。
バス停におりると彼女の姿は消えていた。そのかわり、タバコの吸い殻が落ちていた。俺はそれを拾ってビニール袋に入れた。
目印のガムテープは確かに貼られてはいたがところどころふやけて取れていたりした。まあ、あんな昔に急いでつけたものだからしょうがない。あの時のスズランテープのかわりに彼女のタバコの吸い殻が点々と落ちていた。昔と変わらず、几帳面な性格のようだ。
タバコの吸い殻をひろってはビニール袋に入れる。もう戻る必要がないからだ。だからタバコにしたのかもしれない。しっかりしているなあ、と少し関心した。
そうやって彼女の幻影を追いかけていると、あの日と同じ場所に出た。月と星のスポットライトに照らされた彼女は、なんだか久々にあった友人のようだった。
「ぜんぜん汚くなんかないじゃないか」
赤いコートは色あせているものの、確かにあの日の赤いコートだとわかった。なにも、なにも変わっていない。綺麗な茶髪なんかは少しそのまま残っていて、残りはコートの肩やら木の下にやらちらばっている。真っ白な骨がコートと対をなしていて、現代美術の彫刻のようだった。
「何回も逃げ出したりしてごめん。自分に自信が持てなくて、その度に逃げてた。自信が持てなくてさ」
そういって俺は花束をカップ酒の瓶に飾る
「こんなのでごめんよ。好きな花でも聞いておけばよかった」
「あとこれハンカチ。ずっと持ってたからくたびれちゃったけど、洗ってあるから綺麗だよ」
彼女の足元にあったバックらしき物体の上に乗せておく。
「あとタバコさあ、あれからずっと同じ銘柄吸ってるよ。会社の同期に女物だってたまにバカにされたりするんだけど、どうしてもやめられなくって」
しゃれこうべは何も言わない。
「なあ、俺あれから上手くいきれたかなあ。君のぶんまでうまくいきれたかなあ」


「じゅうぶんよ」
しゃれこうべがぱき、と音を立てて口を開けた
「私、待ちながらみてたもの。じゅうぶんよ」
俺はまた嗚咽と涙で顔がぐしゃぐしゃになる。
涙でゆがんだ視界に、あの時の女の姿が映る。
「ごめん、こんなに遅くなって、ごめん。ずっと待っててくれたのに、ごめん」
「すぐあやまるのね」
「お話しましょうか、あの時みたいに」
「今度は面白い話がたくさんあるよ。なんせいろいろあったからね」
「ふふ、聞きたい」
俺は解けていた靴ひもを結び直す。俺の手のしわは消えて、体も軽い。
「いやー本当に、話しても話したらないよ」
「そんな顔で言われても説得力にかけるわ、いい男が台無しよ」
彼女はまた俺のほうに伝う涙をハンカチで拭ってくれた。その手はハンカチ越しでも驚くほどつめたい。
「ありがとう。ずっと言いたかったんだけどさ」


「きみはわらったほうがきれいだ」


7日午前十時ごろ、捜索隊が身元不明遺体を二名発見しました。うち一つは先月失踪し捜索願いが出されていた吹雪瀬文さん(77)の模様。もう一名は身元不明ですでに白骨化していることから死亡時期の断定は難しい模様。装飾品などから女性とみられており、特徴は赤いコート。なお、瀬文さんはアルツハイマーを患っており、先月から行方がわからなくなっていたそうです…それにしてもこの事件、奇妙ですね。どうやってアルツハイマーのご老人がバス一本通らない樹海の深い場所で女性の遺体と一緒に息絶えていたのでしょう…

夜の薫り

夜の薫り

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-07

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