運命-キセキ-
誤字修正しました.
ある日,ふと思い当って何のきっかけも無しに書き始めた作品です.
駄文極まりないですが,思いついたままを綴っております故,
ー行でも読んでやろうかという方はご愛読くだされば幸いです.
ーそれは確かに、俺に起こった「運命(キセキ)」なんだ。
「奇跡」なんて言うと大袈裟なのかもしれない。だけど時として、現実には有り得ないようなことが自分の身に起こることがある。たとえそれが偶然の巡り合わせだったとしても、その人と出逢った日が、その時の一秒のズレもない瞬間が、必然として俺たちを出逢わせてくれたんだと思う。それは確かに、俺に起こった「運命(きせき)」なんだ。
第一章 -風-
Tsukasa side
「じゃあなー。」
太陽がちょうど一番眩しい時間に俺は大学を出る。今日は何だかいつもより空が大きく感じた。もう春も中頃で昼間は既に夏を思わせるような日差しが少し汗を滲ませる。
「あ、政。みんなで飯行かねえの?」
「バイトあるからさ。あ、今度の金曜日空いてるからその日に行こうぜ。」
悪い、と俺は顔の前で手を合わせてにかっと笑う。毎回断ってばかりで流石に申し訳ない気はしていたけれど俺に本より愛して止まないものはない。授業後はバイト先の本屋へ行くのが日課だ。
「わーったよ。じゃあ、また金曜なー。」
手を振る友人たちに「おう。」と俺も軽く振り返すと、人通りの多い通学路を慣れたように人を避けて早足でバイト先に向かって進む。一分、いや、一秒でも長く本に囲まれていたい。そう、俺は自他共に認める本馬鹿だ。そんな俺にとって本屋で働けることは最早、楽園でしかない。
(ああ、いっそ本と結婚してしまいたい…。)
そんな阿呆なことを考えながら駅前の角に大きく構えている書店へ足を踏み入れる。そして深く息を吸う。何万と並ぶ本の匂いと、まだ刷られたばかりの新しい帯の匂い。
「よし。」
ただそれだけでやる気が倍増するんだ。
今日もいつもと変わらない一日。
のはずだった―
「おはよう、斉藤くん。」
守谷さんは俺の先輩でこの書店の正社員だ。いつも綺麗に纏められた長く上品な茶髪に今日は淡いピンク色のワンピースを着ている。優しくて美人な女性だ。
「おはようございます。」
「これ、新書の棚に並べてくれる?」
「あ、はい。」
俺が本好きなこと以外で本屋でバイトをしようと思った理由はもう一つある。俺に本を溺愛させた小説家、城崎良先生だ。城崎先生の書く小説は現実と空想の世界がちょうどいい具合に交わっていて、現実にありうるかもしれないような普通の奇跡を物語にしているリアリティ且つドラマティックな作家だ。
「おぉぉぉおっ、城崎先生の新書出てるじゃないですかっ。」
そう、俺が本屋でバイトをしようと思ったもう一つの理由は、城崎先生の親書をいち早く拝むことが出来るからだ。これぞ、本屋スタッフの特権。俺が日常でこれほど興奮することはないんじゃないだろうか。
「斉藤君、ほんとに城崎先生の小説好きなのね。」
子供みたいに瞳をキラキラさせて本に食いついている俺を、少しおかしそうに笑う。
「はいっ、大好きです。城崎先生の小説って何だか不思議と入り込んじゃうんですよね。何回読んでも飽きないし…あ、これ並べてきますね。」
「お願いね。」と守谷さんの返事を受け取ると綺麗に本が敷き詰められた箱を抱えて新書コーナーの陳列棚に並べていく。
並べた本にズレがないかチェックしながら、俺は空き箱を仕舞いに倉庫へ戻った。
午後六時―
「一点で五二五円になります。ブックカバーはご利用ですか?」
勤務時間もあと少しにさしかかった頃、本の売れ行きが気になってずっと新書コーナーを見ていたけれど、城崎先生の本を手に取るどころか、視線すら向ける人が居ない。
(城崎先生の良さをみんなわかってないんだよ…。)
俺はそんな客たちを、やれやれと半ば憐れむように小さく溜め息をつきながら掛け時計を見た。少し色褪せた藍色のエプロンを外そうと腰紐に手を掛ながら更衣室へ戻ろうとした時。
(あ…。)
新書コーナーに佇み、一冊の本を手に取っている人が居た。長身で男性にしては少し長めの黒髪、端整な顔立ち、細身のパンツに白いカッターシャツを着ている。至ってシンプルな服装だが、色っぽいのだろうか、『ホストの休日』とでも言えそうな雰囲気を漂わせている。最も、俺みたいにチャラいルックスではないけれど。
何か考え込んだ様子で手に取った本を見詰めていたけれど、しばらくして元の場所に戻そうとした本が城崎先生の本であることを俺は見逃さなかった。
「あ、あのっ…。」
気付けばそのホストらしき男性に駆け寄っていた。何故だかわからないけれど、声をかけずにはいられなかったんだ。
「城崎先生の小説、面白いですよね。俺、大好きなんです。本が大好きになったのも城崎先生の本に出逢ってからで…城崎先生が書くお話って、現実と空想の世界がすごく上手に入り混じってて、現実にも空想にも偏らない、何ていうか、もしかしたら自分の周りで起こるかもしれないって思えるんですよね。だから自分の生きてる世界に今はまだわからない素敵なことが待ってるような気がして、読んでると前向きになれるっていうか…。」
俺は我を忘れて自分の城崎先生の本に対する愛を語ってしまっていた。そんなことも自覚になく、並べられた本を微笑ましく見詰めながらひたすら喋っていた。
「とにかく、城崎先生が大好きなんです。」
そう言って本から目を離し、相手に屈託のない笑顔を向ける。
「……。」
その人は少し驚いたように目を丸くさせて本を手に持ったままきょとんとした顔で俺を見詰めている。
(し、しまったっ…見ず知らずの人に、っていうかお客さんに城崎ワールドを語ってしまったっ…どうしようどうしよう…。)
俺はふと我に返って、
「あっ…すみませんっ、つい…。」
慌ててへこへこと何度も頭を下げて謝ると、初めてその人が口を開いた。
「これ…俺が書いたんだ。」
彼の言葉が理解出来なかった。この人が?まさかとは思ったけれど、俺が見る限り、どうやら本当らしい。
(じゃあ…この人が城崎…先生?)
「え、っと…あの…っていうことは…。」
半信半疑な気持ちを抱えながら、本当に本人なのか聞こうとしたけれどそれを遮って、この本を書いたと言うその人が半ば躊躇いながら、
「…もしこの後、空いてるなら話し…たいんだけど…どうかな。」
俺は一瞬考えた。この人の言っていることが嘘だとは思えないけれど、本当に本人かどうかも定かじゃない、しかも初対面の人となんて…。だけどこの時の俺は気付けば「はい。」と返事をしていた。何を根拠にかは自分でもわからないけれど、俺はこの人が城崎先生だと確信を持っていた。それに…何処か寂しげな瞳をしている城崎先生を放ってはおけないと思ったんだ。
俺は帰り支度をして書店の外で待っている城崎先生であろうその人を確認すると、「お疲れ様でした。」と一言残して書店を出た。
「お待たせしてすいません。」
「や、いいよ。行こうか。」
俺たちは書店を後にして駅から少し離れたところにある、決して広くはないカフェへと足を運んだ。
空はまだ明るく、あと少しの春を惜しむように穏やかな心地良い風が吹いている。店内は黒を基調とした椅子やテーブルが7セットほどあり、それぞれが個室のように仕切られている。ライトは一セットに一つ、オレンジ系の電球が吊るされているだけで、薄暗いというと印象が悪いかもしれないけれど、全体的に落ち着いたシックな雰囲気だ。そんな店内に彼はぴったりだと思った。俺たちは入って右側の小窓のある一番奥の席に座った。城崎先生はいつも決まってこの席に座るのだと言う。
「こんなところにカフェがあるなんて知りませんでした。」
俺は椅子に浅く腰掛けると店内を見回した。
「意外と見つけづらいんだ、俺のお気に入り。」
そう言ってほんの少し笑みを見せた。
「あ、あの、本当に城崎先生なんですか?」
「ああ、ほら。」
そう言って城崎先生はバッグから今日発売された新書の原稿を見せてくれた。確かに城崎先生のものだった。今時、パソコンで書く作家が多いんだろうけれど、城崎先生はずっと手書きらしい。そんなところもいいなと思った。「城崎先生、すげー。」と俺が原稿を食い入るように見ていると、
「早川立(はやかわりゅう)。」
と呟くように言った。先生の本名なのだろう。芸能人みたいだ。城崎先生のかっこよさが一段と増して見えた。
「あ、遅くなってしまってすみません、斉藤政(さいとうつかさ)です。」
「いきなり誘ったりしてすまん。」
早川さんは表情を変えず、だけど少し申し訳なさそうに言った。
「そんな、嬉しいです。大好きな作家さんとこうやってお話出来るなんて。今も夢じゃないかと思うくらいです。あ…もしかしてこれも城崎先生の書く小説みたいな小さな奇跡なんですかねっ。」
俺は本当に嬉しくてたまらなかったから、自然と笑みが零れて…憧れの大先生を前にして意外と落ち着いている自分に少し驚きながらも、未だにこの状況が信じられなかった。だけどこれは紛れもなく現実で…少しでも長くこのままで居たいと思った。城崎先生は俺の言葉に書店に居る時に見せた時と同じ表情をしている。だけど何も言わない。その表情が何だか可愛いと思った。
「城崎先…」
「早川でいいよ。」
俺が名前を呼ぶのを遮って落ち着いた声色で言う。
「あ…えっと、どうして誘ってくれたんですか?」
「さあ、何でだろうな…。」
自分でもわからないとでも言うような口振りで早川さんは答える。
「だけど嬉しいです。ありがとうございます。」
俺は軽く頭を下げて小さく笑みを浮かべた。早川さんは何も言わない。時間が経てば経つほど、早川さんは不思議な人だと思う。
それから俺は早川さんの色んなことを知った。両親の仲が悪く、早川さんが幼い頃に離婚して母子家庭で育ったこと、そのために学校では周りにからかわれたり、一般家庭ほど裕福ではなく母親に気を使って一度たりとも我が儘や甘えたことを言わなかったこと、そんな生い立ちをきっかけに自分の歩みたかった道や、したくても出来なかったことを小説でもって自分の世界観を表現したいと思って一八歳から小説を書き始めたこと、だけどどの作品も思うように売れなくて悩んでいること…早川さんの頭の中は小説でいっぱいなんだと知った。
「今回の作品がヒットしなかったら、もう作家は辞めようと思ったんだ。そんな時に本屋で斉藤に言われたことが響いて…続けようと思った。俺の小説を好きだと言ってくれる奴が居た、って。…今日誘ったのも、そんなお前と話したいと思ったからかもしれないな。」
早川さんは背もたれにもたれてテーブルの上で組んでいる手を少し俯き加減で見詰めながらそう言う。だけど、そんな早川さんの目元は微笑んでいるように見えた。嬉しかった。憧れの作家が俺の言葉を受けて作家を辞めずに居てくれた。ほとんど無表情で口数の少ない早川さんが自身のことを話してくれたことも、俺にとっては何だか特別に思えたんだ。
店内にある小窓から外を覗くとさっきまで明るかったはずの空は暗くなっていた。それでもまだ早川さんと話していたいと思った。
左手首につけた高そうな腕時計を見る早川さんに、俺も店内にある掛け時計を見た。もう九時半だ。
「もうこんな時間か…遅くまですまん。」
そう言った早川さんの声が少し名残惜しそうに聞こえた気がしたのは俺の思い違いだろうか。
「あ、あのっ…もし良かったらまたお話しませんか?早川さん忙しいだろうし、俺みたいな餓鬼と話してても楽しくないかもしれないけど…だけどまた逢いたいな…なんて。」
「いいよ。」
いくつも言い訳を重ねる俺に、早川さんはおかしそうに小さく笑って、だけど何の迷いも無く言った。それが当然の返答のように聞こえたのも、また俺の思い違いなんだろうか。早川さんと居る時間が楽しくて仕方がなかった。
「家まで送る。」
「えっ、大丈夫ですよ。悪いですそんなの。」
カフェから出ると、すっかり暗くなった空を見上げてから俺を見て言う早川さんに
「それに俺、もう二一ですよっ?しかも男だし。」
とわざとらしく「はははっ」と笑って返す。
「男だろうが女だろうが夜道は危ない。」
早川さんはそう言い捨てると、「家、どっち?」と聞いていながら駅とは反対の方へ進んでいく。偶然、俺の家はそっちだから良かったんだけれど。聞けば早川さんも同じ方向らしい。
「家族と住んでんの?」
早川さんは俺より少し前を歩きながら、こっちを振り返らずに問い掛ける。
「一人です。」
そう答えた俺に早川さんは思い立ったように、
「今度…うち来る?」
と少し間を置いて、そう聞いた。
(は、早川さんの家っ?まずいだろ…すっげえ嬉しいけど進展早くないか?だけど行きたい…)
「あ、はいっ。行きます、行きたいですっ。」
と乗り気で答えた。俺の返事に早川さんは「じゃあ、また連絡する。」と、やっぱり表情は変わらないけれど、微かに口元が緩んだように見えた気がした。
本当に無表情な人だから、ほんの微かでも表情が変わるとわかってしまう。それだけ俺が早川さんを見ているからかもしれないけれど。
「今日はありがとうございました。」
俺は家に着くと早川さんに深く頭を下げてから、「楽しかったです。」と、笑ってみせた。
「俺も楽しかった。…おやすみ。」
何か言いたげな感じがしたけれど、早川さんのことだ、やっぱり何も言わない。
「おやすみなさい。」
俺は早川さんの大きな背中が見えなくなるまでずっと見送った。暗闇の中へ消えて行く早川さんの少し寂しげな後姿から、俺は目を離せなかったんだ。
「おっはよー。」
「なんだよ、すっげーテンション高いじゃん。」
今日も風が気持ち良い。ついこの間まで満開だった桜を懐かしむ間もなく、夏へ向けて木々には緑が生い茂っている。
(そう言えば、早川さんと逢った日もこんな風だったな…)
そんなことを思いながら俺は友人の元へ寄っていく。
「何かいいことあった?あっ、お前とうとう彼女でも出来たのかっ。」
光貴は大学からの友人で、親友でもある。まあ、一言でいえば馬鹿な奴だ。だけど頭は良い。俺が入るのに相当苦労したこの大学にも成績トップで合格している。もちろん首席で卒業するつもりなんだとか。普段の会話もこれだけ賢ければいいんだけど…見ての通りだ。
「馬鹿か、お前は。彼女なんか居ねえよ。」
俺は冷やかす光貴に呆れたように溜め息混じりに返す。
「何だよ、つまんねーな。彼女居ない歴何年だよ。」
「二一年ですが何か。」
俺は彼女というものが居たことが無い。俺が相手を好きになれないことが一番の原因だ。興味が無いとは言わないが、だからと言って目を惹くような女の子も居ない。今までは本さえあれば良かった。だけど流石にヤバいんだろうか。
「お前さ、女の一人くらい居てもいいんじゃねえの?イケメンなんだしさ。二一にもなってさ。しかもヤったことねえんだろ?男として問題あるな…うんうん。」
「黙れ、阿呆が。」
一人で頷いている光貴の頭を俺は軽く叩く。「冗談だって。」とケラケラ笑うこいつを憎めないのは、誰より俺のことを解っているからだ。そこがまた腹の立つところでもあるけれど。
「で、何かいいことあったんだろ?」
とさっきとは打って変わって少しまともな物腰で光貴は問い掛ける。
俺は早川先生とのことを一通り全部話した。こいつになら何でも話せる。それだけ俺の中で光貴への信頼は厚い。光貴は嬉しそうに話す俺に黙って相槌を打って聞いてくれる。それがこいつの好きなところでもある。
「で、その早川さんが好きな訳だ?」
と何の前置きもなくそんな変な質問を突き付けてくる。本当に馬鹿だ、こいつは。
「んな訳ねえだろ、相手は男だっての。」
俺はまた呆れたように言う。
「だってさ、その人の話してる時の政、すっげー嬉しそうだから。お前が今までこんなに嬉しそうに誰かのこと話すの見たことねえもん。」
「何言ってんだよ、ばーか。」
いつもふざけている光貴が珍しく真面目な表情と落ち着いた口振りで言う。俺は半ば、話にならんとでも言うように笑い飛ばしたけれど、不覚にも一瞬、早川さんが頭の中を過った。
「俺は大の女好きだけどさ、恋に女も男も関係ないんじゃねえの?たまたま好きになった奴が男だった、それだけだろ。」
「んなことある訳ねえだろ。」
確かにこいつならどんな常識外れなことでも理解してくれるだろうけれど、自分が男が好きだなんてことはまず無いと思いを巡らせていた矢先に、
「ま、俺は男に恋愛感情抱くなんてまずねえけどなっ。女はいいぞー。」
といつもの光貴に戻る。
(全くこいつは…。俺が早川さんを?)
後からそんなことを考えた自分を馬鹿らしく思ったけれど、何だか心の何処かに引っ掛かるものがあった。光貴は思いもよらないことを良く口にするから困る。
それからの僕は授業中も早川さんが頭から離れなくて、授業に集中出来なかった。確かに早川さんんのことは好きだ。憧れの作家で、しかもすごく良い人で…だけどそういう『好き』なはずがない。考えなくてもわかるけれど俺も早川さんも男だ。
「有り得ねえっての…。」
授業が終わると手に持っていたシャーペンをペンケースに仕舞いながら小声で独り言のように呟いた。だけど、たった一行しか書けていないノートを見て唖然とする。ノートだけは誰よりもきっちりとる自信のある俺がどれだけ上の空だったかがわかる。
(まじかよ…光貴の奴、変なこと言いやがって)
「政、今日もバイト?」
「あ、うん。」
早川さんに逢えるかもしれないという思いが脳裏を過った。実は、連絡先を交換したものの、あの日以来、早川さんからは連絡がない。仕事で忙しいんだろうし、新しい作品を書いているのだろうと思って俺から連絡することは避けていた。もう逢うことはないのだろうかと不安になる自分に少し動揺する。
(や、逢いたいって思うのは早川さんが憧れの作家さんだからだって・・・)
脳の大半が早川さんで占められていて、無意識に早川さんのことを考えている。ただ憧れの作家だから、そんな人に偶然すぎるが出逢ってカフェで話をして、当然、興奮だってするし、嬉しい。だからまた逢いたいと思うのは至って普通のことのはずだ。特別な感情なんてそこには存在しない。それに何度も言うけれど俺は男だ。俺ほどの健全な男子(今まで交際経験もなくて、おまけにヤっ…童貞である俺が果たして健全と呼べるのかはわからないけれど…。)が同性を好きになるなんてことはまずあり得ない。とりあえず、大好きな本のことだけ考えていれば何とかなると思った僕は、早川さんで占められた脳を本で埋め尽くそうとひたすら意識的に本のことを考えることにした。
(そうだ、今まで本が何より大好きで、本のことしか頭に無かったんだ。本さえあればいい…あの本、気になってるんだよな。あっ、この前の推理小説も面白かったし……………早川さん…)
最早、これは病気じゃないだろうか。これで俺はもう「本馬鹿」とは名乗れなくなってしまった。たった今流行りだした「早川病」なのだろうか。…そんなことを考えている自分がくだらない。もう早川さんが俺の頭の中に浮かばないなんてことはなくなっていた。一日にどれだけ考えただろう…俺の中で本を超えるなんて、早川さんはかなりの強者だ。…勝手に僕が早川さんのことを考えているだけだが。
「おはよう、斉藤くん。」
「おはようございます…。」
守谷さんはいつものように明るくそう言ったけれど、何か物思いに耽っている様子の俺を見て、「どうしたの?何かあった?」と心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「え、あっ…何でもないですよっ?」
俺は我に返って眉を下げている守谷さんに笑ってみせた。
「そう?ならいいんだけど。」
俺の返事を聞くと守谷さんはほっとしたように笑顔を返してくれた。優しい人だ。
(集中しねえと…)
店内の陳列棚を一通り見回ると、俺はレジへ戻った。今日は運良く客が多かったお陰で早川さんのことを考えている間もなく勤務時間を終えた。だけどそのあとが問題だ。ほっと一息ついたとたん、また早川さんが頭に浮かぶ。
「お疲れ様です。」
張りのない声で守谷さんに挨拶をすると、
「やっぱり元気ないわね。まあ、若いうちは色々あるから…元気出してね。」
俺を励ますように優しい笑顔を向けてくれる。
「ありがとうござざいます。」
守谷さんの笑顔に応えるように俺も小さく笑みを浮かべると書店の出入り口へ足を踏み出した。
「うあっ」
「…なんだよ、大きな声出して。」
(早川さん…だ。)
早川さんは相変わらず『ホストの休日』ファッションで、もう古くなって錆びついてしまった傘立ての隣で本を読んでいた。
「こ、こんなところで何してるんですかっ。」
突然のことで動揺を隠しきれない俺にハ早川さんは、
「何って、今日もバイトだろうと思って待ってた。」
「え、あっ…ありがとうございます。」
「家…来る?」
と表情を変えずに俺とは打って変わって落ち着いた声色で言う。この人はどうしてこう、いつも冷静なんだろう。
「あ…はい。」
俺は素直にそう答えるしかなかった。断ったら、早川さんが寂しそうな顔をする気がしたから。
(約束、覚えてくれてたんだ…)
今日の早川さんはお洒落な黒縁眼鏡を掛けていた。そんな早川さんを少しかっこいいと思ってしまったのは内緒で、早川さんに逢えたことが嬉しかった。あんなに頭の中をひたすら早川さんが巡っていたのも、きっと早川さんに逢いたかったからだ。俺は自然と口元が緩んだ。
「何笑ってんの。」
そんな俺を見た早川さんは表情は変えないが、訝しそうな口振りで問い掛ける。
「嬉しいんです、また早川さんに逢えて。」
そう言うと、「そうか。」と一言だけ呟いた早川さんは少し笑ったように見えた。早川さんの笑顔を見たのは久しぶりだ。と言ってもまだ逢うのは二度目だが。それほどいつも早川さんの笑顔を見たいと思っている自分に気がついた。俺たちは、はじめて逢った日に通った道を、やっぱり早川さんは俺より少し前を進んでいく。そんな早川さんの後姿を何だか少し懐かしく感じた。
俺の家をしばらく越えたところで二階建ての少し大きい一軒家にさしかかった。門の前まで来ると早川さんはポケットから鍵を取り出して門を開けた。
(ここが早川さんの家…?すっげーいいとこ住んでんな。)
黙って玄関の鍵を開けて中へ入っていく早川さんに遅れないように後ろをついて行く。
「お邪魔します。」
家の中はほとんど白と黒で統一されていて、余計なものは一つもなく、すっきりしている。寧ろ淋しいくらいだ。家具もすごくシンプルだが、真っ白な壁紙にそれが映える。何だか早川さんらしいと思った。
少し段差の広い階段を上って一番奥の右側の部屋に大抵いつも居るらしい。そこへ案内された。と言っても早川さんは何も言わないから後ろをついて来ただけだけれど。
「待ってて。そこ、座ってていいから。」
「あ、はい。」
早川さんはまた階段を下っていく。俺はちょうど二人がゆったり座れるくらいの黒いソファの左側に腰かけた。早川さんの部屋は広くて、楕円形のガラステーブルが部屋の中心にあって、その両側を挟んでテレビとソファがある。早川さんがテレビを見ているところは全く想像できないが。それから入って右側の奥に三枚扉のクローゼットがあって、その反対側には、きっとここで小説を書いているんだろう、白いデスクがあって、その対角線上にベッドがある。やっぱり余分なものは一つもない。家の中も部屋の中も全体的にシックな雰囲気だ。早川さんの部屋は風の匂いがする。そうは言ってもどう説明すればいいかわからないが、飾り気がなく、広い上に物が少ないシンプルな部屋からそれが想像できないだろうか。『室内』という閉塞感がなく、空気が身体に馴染むようだ。それがあまりにも心地よくて…。
「…藤…斉藤。」
俺はその低くて、だけど柔らかい声に目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。早川さんが戻ってくるまでのこの短時間で。僕は慌ててソファの背もたれに深く持たれている身体を起こした。
「あっ…す、すいませんっ。」
「いいよ。気持ち良さそうに眠ってるから、しばらく起こさなかった。」
優しく目元を緩めてそう言う早川さんに、俺は何だか恥ずかしくなった。それを隠すのに「直ぐに起こしてくれれば良かったじゃないですかっ。」とムキになって言ってみたが、頬が熱くなるのがわかった。
「可愛かったから。」
早川さんは何の躊躇いもなく俺を見て言う。この人はどうしてそんなことをすんなり言えてしまうんだろうか。
「可愛くねーよっ。」
俺は恥ずかしさを抑えきれなくなって、衝動的にそう口走ってしまった。
(あ…まずい。大先生に向かって俺はなんて口のきき方を…)
「それでいいよ。」
「…え?」
「敬語じゃなくていい。」
怒られるのかと思っていたら早川さんはそういう。
「だけど…。」
早川さんにため口なんて生意気すぎると思った。ただでさえ俺より年上でしかも俺にとっては大作家だ。
「いいから、その方が嬉しい。」
(嬉しい…?早川さんが喜んでくれるんなら何だってやらない訳にはいかねーっ)
「へっ、わかったよ。」
俺は得意そうに、にかっと隣に腰掛けている早川さんに笑ってみせた。そんな俺を見て、「ばーか。」と俺の髪を早川さんの大きな手がくしゃっと撫でる。一瞬、胸が高鳴った。早川さんの手は髪から伝わるほどに冷たくて、恥ずかしさでヒートしている俺の頭にはそれが気持ち良かった。
(何ドキドキしてんだよ、俺…)
初めて出逢った時からそうだ。初対面の俺になんでも話してくれたり、自分のお気に入りのカフェに連れて行ってくれたり、家にも上げてくれて。どうして早川さんは俺にそんなふうにするんだろう。だけど、今の早川さんがあまりに嬉しそうで…そんなことはどうでも良かったんだ。
気がつけば外はもう真っ暗で、自分はどれだけ長い間眠っていたんだろう…。路にいくつも均等に立っている外灯が目立つ。
今更だが、早川さんとこんな近くにい居るのは緊張する。その距離大凡三〇センチさっきから視線を合わせられない。初めて逢った時は何ともなかったはずなんだけれど…。早川さんはいつもと変わらず冷静で、何だか自分はまだまだ餓鬼だと早川さんとの歳の差を感じた。きっと早川さんにも子供に見られているんだろう。
そんなことを考えていると早川さんが口を開いた。
「もう遅いな…明日も授業ある?」
「や、明日は休みだけど。」
「泊ってくか?」
「あ、うん。…って、えっ?」
流れで返事をしてしまったが、早川さんの発言に耳を疑った。何を言い出すんだろう、この人は。元々、口数の少ない人だから予想だにしないことを言われると吃驚する。
「えっと…思ったより家から近かったし、大丈夫だよ、帰れるから。」
慌てて平静を装ってそう言った。いくらなんでも泊まりはない。早川さんは仕事もあるだろうし、この前も少し遅くなったくらいで心配して家まで送ってくれたから、今回も気を遣ってそう言ってくれているんだろう。俺なんかが居たら邪魔になるだけだ。早川さんに迷惑は掛けられない。
「遅くまでお邪魔しました。」
そう言ってソファから立ち上がろうとしたけれど、上げかけた腰が途中で止まった。
「…早川さん?」
俺の腕を早川さんが掴んでいる。一気に身体の熱が上がるのを感じた。俺は馬鹿だとつくづく思う。腕を掴まれたくらいで動揺してドキっとする。しかも男に。
「頼む。」
早川さんはいつも以上に落ち着いた声色で言う。
(嗚呼…そんな寂しそうな目で言われたら帰れねえじゃん…)
「うん。」
俺は迷わずそう答えていた。
男二人で泊まり。そのくらいの経験は光貴とだって何度もあるけれど、それとは訳が違う。相手は早川さんで、尚且つ宿泊先は早川さんの自宅。有り得ない、考えられない現実だ。俺の緊張は頂点に達して顔が引きつっていた。
「斉藤、大丈夫か?」
「えっ?全然大丈夫だよ、はははっ。」
わざとらしいにも程がある笑い方だ。
「何もせんから大丈夫だ。」
早川さんはからかうように少し含み笑いをしながら俺を見て言う。
「何だよそれ、ってか当たり前だろ。ってか何もってなんだよ。逆に何するつもりだったんだよ。」
俺はからかう早川さんに負けじと、あくまで平静を装って言い返した。
「教えてやろうか?」
早川さんはソファの背もたれに俺の頭を挟むようにして両手をつき、至近距離で僕の視線を逃さないと言わんばかりに真っ直ぐ見詰める。俺の目は完全に早川さんの目に囚われてしまった。目を逸らせられない。こんな状況だが早川さんはすごく綺麗な瞳をしている。
「なっ…。」
俺の身体は動くことを忘れ、顔に熱が集まるのがわかった。
「なんてな。」
そんな俺を見てか早川さんはそう呟くと体勢を元に戻して面白そうに小さく笑う。
(…完全に遊ばれてる…)
「からかうなよっ…餓鬼扱いすんじゃねえっ。」
先ほどの圧迫感から解放されると、そう言ってソファの隅に寄り早川さんから少し距離を置いた。
「お前が教えて欲しそうだったから教えてやろうとしただけ。」
早川さんは何事もなかったかのような口ぶりで言う。
「訳わかんねーよっ、やっぱり帰る。」
帰りたいとは少しも思っていないけれど、早川さんの平然とした態度に自分だけが過剰反応していることが気恥ずかしくて、いてもたってもいられなかった。僕はそう言い捨てると今度こそはソファから立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。
「お前が可愛いから。」
早川さんは俺の背中に向かって言った。この人の言い出すことは本当に予測出来ない。
「何言ってんだよ、男に可愛いって言うなっ。」
頬が熱を持つのがわかったから、早川さんにそれを気付かれそうで俺は後ろを振り返らずにそう言った。
「男でも可愛いもんは可愛い。」
「訳わかんねえ…。」
どうして早川さんは俺にそんなことを言うのかがわからない。第一、可愛いことをしたつもりはない。それに男ならかっこいいと言われたいのが本望だ。早川さんに可愛いと言われて嫌な気はしないが…。そんな自分にまた違和を感じる。
(そうだ…早川さん、彼女居ねえのかな。)
こんなに男前なんだ、彼女の一人くらい居てもおかしくはない。だけど、居ないでほしいという思いが脳裏を過った。何を期待しているんだろう、俺は。
「…早川さんてさ、彼女とか居ねえの?いくら俺が男だからってさ、あんまりこんなことしってと彼女さん可哀想なんじゃねえの?」
俺は後ろを振り返らないまま少し小馬鹿にするように笑いながら言った。本気で聞いてもし居ると言われたら傷つくのがわかっていたから。ドアノブを持つ手に力が入る。
「何だ、いきなり。」
早川さんは少し驚いたように言うが、直ぐに「居ないよ。」と答えた。一瞬、ほっとした自分が嫌になる。
「へー、かっこいいのに。」
「だったらお前が恋人になってくれる?」
「え…はっ?何言ってんだよ。早川さん馬鹿みてー。俺、男だしっ。」
俺はそう言って笑い飛ばしたが、早川さんのとんでもない台詞に動揺を隠しきれなかった。
「何本気にしてんだ。」
早川さんだから本気にしてしまう。ちょっとしたことでも気になって、早川さんの口にする言葉が、してくれることが嬉しくて…それは相手が早川さんだからだ。俺が早川さんの言葉を本気にしてしまうのも、それが早川さんだからだ。そう思うと急に胸が締め付けられて、そんな俺の気持ちも知らずに馬鹿にしたように笑う早川さんに怒りを抑えきれなかった。
(俺だけが…)
、
俺は勢いよく早川さんを振り返って、
「…うっせー!人からかうのもいい加減しろよな!俺はホモじゃねえし、早川さんのことなんかなんとも思ってねえんだよっ!」
また『何か』が僕の中で引っ掛かった。俺は本当に早川さんのことを何とも思っていないんだろうか。それと同時にあることが気に掛った。
(早川さんは俺をどう思ってんだろう…)
俺と早川さんの関係はいまいち良く解らない。友達と言うには微妙すぎてしっくりこない。作家とその熱狂的なファン?…わからない。
「や、別に…そういう意味じゃなくて…だからその…。」
自分の言ったことを後悔した。なんとも思っていないなんて嘘だ。俺は早川さんの方を見られなくなって俯いた。それから後の言葉が出てこない。
(俺はきっと…早川さんのことが…)
「…早川さん?」
身体を何か温かいものが覆った。俺は早川さんに抱き締められていて、動けなかった。早川さんが、あまりにも強く俺を抱きしめて離さないから…。俺の煩い(うるさ)ほどに高鳴っている心臓の音が早川さんに聴こえてしまいそうで、それが余計に鼓動の速度を上げる。どうして俺にこんなことをするんだろう。俺の心中を見抜いていて、またからけっているんだろうか。そう思うとまた胸が締め付けられた。
「放せよっ…。」
そんな思いが巡っているうちに俺は早川さんの胸を押し返していた。が、強く俺を抱きしめている早川さんんの腕は、俺から離れようとしない。寧ろ、さっきより更に強くなっているように感じる。早川さんはずっと黙ったまま何も言わない。俺は早川さんを押し返す手の力を緩めた。だって、力強いけれど優しく抱き締める早川さんの俺の身体に伝わる体温があまりにも心地良いから。思わず早川さんの胸元に顔を埋めた。今この瞬間、今までわからなかった『何か』がわかった気がした。
そう、俺はきっとこの人に恋をしたんだ。
運命-キセキ-