なんかファンタジー

 プロローグ


 世界は平等だ。

 生まれながらに才能を持ち、同じ心臓を与えられる。
 優劣の差はない。
 呆れるくらいに平等な世界で、人は生命を燃やす。

 世界は不平等だ。

 才能を持つものと持たざるもの、心臓に価値がつけられる。
 生きるべき者と死ぬべき者。
 晴れ晴れとした不平等な世界で、人は生命を削る。


 どちらが本当で、どちらが嘘。

 どちらかが本当で、どちらかが嘘。

 世界はいつまでも明るく、どこまでも暗い。

 真実の世界を、見るために。

 今日も晴天、明日も、明後日も。

   第一章

 世界のどこか、まだ誰も知らない場所。
水の都は、そこにある。
 清らかなる国である水の都には、燦々と太陽が降り注ぐ。目の前を流れる小川に耳を傾けると、せせらぎが全身に沁み渡る。見上げれば、ため息の出る青天。生い茂った緑のなかを動物たちが跳ねまわっている。
 なんてことは、まるでない。
どんよりと重たい雲が国を覆い、止むことのない雨が忙しなく地面を叩く。雨音を聞き飽きた人々は耳を塞ぐ。すべてが薄い膜に覆われているように、はっきりとしない。
光の届かない国に、希望は欠片もなかった。
 生命は絶望した。
 だって、この国は太陽に見捨てられてるじゃないか。
国中に不満が満ち溢れた日、誰かが言った。
「この雨がやむことはない。しかし嘆くな、我が子たちよ。水はすべての母である。そして、ここ水の都は、すべての根源となるべき土地。みな、太陽を諦めるのだ。それが、この国に生まれた者の最初の使命である」
 いつ生まれたのかも分からないこの言葉は、不安で満ちた人々の心の拠り所となった。
自分たちは選ばれた民であり、生まれながらに生きる意味を与えられた存在である。そうして、人々はあらゆる理不尽を正当化してきた。
疑問を持つはずもなかった。
 だって、世界は不平等なのだから。

 そんな中、太陽を諦めようとしない者がいた。
 都の隅で生まれ、平凡に育ったはずの青年、提中霞。
 カスミは、もうじき目を覚まそうとしている。
 じめじめした家。至る所で鮮やかな色のキノコが顔を出す。天井に溜まった雨粒がカスミの頬に落ちて、カスミに覚醒を促す。
 毎朝こうして、カスミの一日は始まるのだ。
「……うぅ……おはよう」
 起こしてくれてありがとう。起こしに来てくれた幼馴染に感謝するように、カスミは雨水に感謝していた。
 一日の始まりには身体を伸ばす。身体がポキポキと音を鳴らす。
「い~い天気だ」
 あくびをしてから、ふと、窓の外に目をやる。
 カスミは大きく息をついた。
「なんだ、今日も雨か……」
 明日は晴れているかもしれない。そう思って昨日はベッドについたのだが。どうやら、世界はカスミの期待通りに働かないらしい。
「でも、今日もぼくは散歩に行くのさ」
 独り言は癖になっていた。
「とおっ!」
 カスミはベットから飛び起きた。
「さぁて、着替えちゃうよぉ」
 床に落ちているびしょ濡れの服を拾い上げ、袖を通す。
「続いては朝ご飯さ!」
カビだらけの服に袖を通して、カビの生えたパンを食べる。
「いただきます!」
 一口かじると、湿ったパンは、口の中にこびりつくように柔らかく、ぐちゃりと気味の悪い音をたてた。
「……不味い」
 カスミは、ぶすっと呟いた。
食べたくてゴミを食べているわけではない。それしか食べる物がないのだ。貧民街に住むカスミは、漏れることなく貧乏だった。
「もっと美味しいものを食べたい」
 カスミは、当たり前のことを呟いた。
 どんなに貧乏な人間であっても、欲望だけは平等に持っている。そこで、カスミは考えた。どうすれば、もっと美味しい物を食べられるのか。
 顎に手を添えて唸る。
「……そうだ。シズクに会いに行こう!」
 カスミの辞書に労働という文字はない。
 シズクに頼めば美味しいものを食べさせてくれるかもしれない。カスミは、そんな無謀な希望を抱いていた。
「そうと決まれば!」
 カスミは、さっそく家を飛び出した。
 外は雨。でも、カスミは傘を持っていない。
「うん。いい天気だ」
 カスミは雨を気にせず歩きだした。
 舗装されていない道を、泥を跳ね飛ばしながら歩く。あっちでケンカしている。その向こうでは平民の子供たちが、貧民の家を焼いている。そのどれもが、カスミの住む貧民街の日常風景だった。
 カスミは気にせず歩き続けた。少し鼻歌交じりにもなってきた。
だって、あの角を曲がれば、きっと会えるから。
ほら、悲鳴が聞こえてきた。
「やあ、シズク」
「あら、カスミ」
 角を曲がったそこに立っている女性。彼女がシズクだった。
 目を丸くするその女性は、綺麗なブロンドの髪を傘で隠している。足を覆い隠すほど長いスカートは、裾が濡れて色が変わっていた。シズクは、その真珠のような美貌だけでご飯を食べていたこともあるほど、容姿に恵まれていた。まさか、そんな美しい彼女の腕に血まみれの男が握られていると、誰が思うだろうか。
少なくとも、カスミは思わない。
「やあ、シズク。今日もいい天気だね」
 雫石雫。貧民街に住む人間の中でも、最悪に近い人間。金に困っている人に近付き、もっと金に困らせる魔女。つまり、悪徳金貸し。
 シズクは、にこりと笑った。
「そうね。貸してたお金を徴収するのにはうってつけの日ね」
 シズクは、血まみれの男を投げ捨てた。雨で流れてくる巨体の血が、赤い帯となって、カスミの足元まで伸びてくる。
「……死んでるの?」
「ええ、過労死ね」
「へえ、過労死って、身体から血が出ちゃうんだ」
「そうよ。働きすぎって怖いわね」
シズクは、巨体から受け取った金貨をポケットに押し込んだ。
「そんなことより、わざわざ会いに来てくれたってことは、返済の目途が立ったということかしら? それとも両親の形見を渡す気にでもなった?」
「ごめん、お金はないんだ。形見も渡せない。でも、美味しいものが食べたいんだ」
「あらそう。相変わらず人生舐めてるわね」
 はなから返済を期待していないシズクは、別段驚くこともなかった。
 取り立てるシズクを前にして、笑顔を崩さないのはカスミだけだ。シズクは、そんなカスミを気に入っていた。だからこそ、返済日を延ばしに延ばし、今日までカスミに危害を加えずにおいた。
「カスミは、お金もないのに美味しいものが食べたいの?」
「うん。だからシズクに会いに来たんだ」
「わたしにたかる気?」
「違うよ。美味しいものが食べたいだけだよ」
 シズクは、右手を腰にあてて、顔をしかめた。
「あなた、本当にお金を返す気あるの?」
 カスミは胸を張った。
「もちろんさ。いつだって返す気持ちだけは持ち続けているよ」
「そう。それは立派な心がけね。でもカスミ、あなた、仕事はなにしてるの?」
 とんでもない、とカスミは飛び上がった。
「雨が降ってるのに仕事なんて。馬鹿じゃないんだから」
 返済の気持ちを持ち続けているカスミは、返済に向けての努力をまったくしようとしなかった。
「あんたねぇ……」
 シズクは、深いため息を吐いた。
「そろそろ、本気で殺すことを考えないといけないね」
「そんな!」と、カスミは目を剥いた。
「ぼく、まだ死にたくないよ」
「わたしだって、カスミを殺したくないわ」
「じゃあ許して!」
「でも、人は誰だって死にたがらないものなのよ」
 シズクは、大きな死体に視線を落とした。
 人は死にたくない。だから、シズクの商売は成り立っている。水と格差が支配する国で、何も持たない貧民は、視界に靄が掛かったまま、この腐りきった街を歩く。やがて力尽きると、あとはじっくりと染み込んで行く死を感じるだけ。
その瞬間をねらって、シズクは手を差し伸べた。
 半分死んだ人間は、迷わず差し伸べられた手を握りしめる。
「ありがとう。あなたは命の恩人だ」
 シズクは、ほくそ笑む。
「気にすることないわ」
感謝なんて、わたしがしたいくらいよ。
 腹を満たした先に待っているのは、法外な金利と近すぎる返済期限だけだった。
返せる訳ないわよ。それでも、人は死にたがらない。必死になって働く。プライドはドブに投げ捨てて、社会の奴隷になって働く。
「でも、結局死んじゃうのよね」
 そうして、最後に残るのは大量の金貨とカラスの餌。
「ぼくを殺すの?」
 カスミの目に溜まる涙が、シズクの加虐心をくすぐる。
「そうね。返済期限を越えれば殺すわ」
「やだよ。まだ死にたくない」
「我儘を言わないで、これはビジネスなの」
「そんなぁ……」
 カスミは、空に浮かぶ巨大な雨雲を仰いだ。
「雨なら、たくさんあるんだけど」
 カスミが大口を開けると、雨水が喉を通り、カスミの身体に沁み渡った。
「雨、美味しい?」
 シズクが尋ねると、カスミは怪訝な顔になった。
「ただの水だよ?」
 多くの人間は、カスミと五分以上会話を続けると、頭痛を覚える。
 シズクは、身体ごと傘を傾けた。
「そうね。わたしが欲しいのはお金。雨なんて、一銭の価値にもならないわ」
「シズクは、雨が嫌い?」
 聞かれるまでもない。シズクは地面に唾を吐いた。その痕跡すら残らない。水はすべてを洗い流す。
「大嫌いよ」
 シズクは、すべての貧民がそうであるように、漏れることなく雨を憎んでいた。
 曇り空。カスミの顔が晴れ渡った。
「だったら、ぼくがこの雨をなくしてあげるよ」
「はぁ?」
シズクは、苛立ちに顔を歪めた。
 いくらカスミでも、度を超えた冗談だ。夢を見るのは自由だが、それがあまりに無謀だと人を狂わせてしまう。
「あんた、それ、本気で言ってるの?」
 カスミは、びしょ濡れだった。
「この雨をなくせば、シズクの機嫌も良くなるはずさ。そうしたら、きっとお金のことなんて忘れちゃうよ」
 まるで万能薬でも発明したかのように、カスミの彼は晴れ晴れとしていた。
 なんと無邪気な笑顔だろう。汚れ切ったシズクには眩しすぎた。
 雨は降りやまず、シズクの傘を叩いた。
「馬鹿なことを言わないで」
「どうして?」
 カスミの透き通った目に、汚れた自分が映っている。
 まったく、そらしたくなるわ。
「この雨は止まない。百年、もっと前から降り続けているのよ?」
「でも、明日には止むかもしれない」
 この国で、晴れを期待しているのはカスミだけだ。貧民は雨を憎み、それ以外の人間は雨を崇拝している。共通しているのは、雨は止まないものという認識。
「この雨は、止まないわ」
 シズクは言い聞かせるように繰り返した。
自分に言っているようにも聞こえる。ちょっとの期待もバカバカしい。人が天気を操れないなんてこと、シズクは生後三日で習った。
「そんなことないよ!」
 シズクがいくら言っても、カスミは聞こうとしなかった。雨は止むもの。そう信じて疑わなかった。
「シズクに太陽を見せてあげるよ」
 カスミがすごく嬉しそうだったので、シズクは頭に手を当てた。
 呆れて物も言えない。低気圧のせいなのか、頭痛がひどくなってきた。これ以上カスミと話していると、こっちまで頭がおかしくなりそう。
「もういいわ……」
シズクは傘を持ち直した。
「そろそろ、寒くなってきたわね」
取り立ても終わった事だし、家に帰ろう。温かいシチューを作るの。お金なら沢山あるわ。お肉だって買える。もう、カビの生えたパンは食べなくていい。お金があるだけで、幸せになれるの。
「寒いなんて。シズク、もしかして身体悪いの?」。
こんなにいじめてあげたのに、まだ心配してくれるのね。
木枯らしがシズクのスカートを揺らした。季節は冬を迎えようとしていた。
シズクは額に手を当てたまま、わずかに頬を緩めた。
「まあいいわ。カスミが本当にこの雨を止めることができたら、借金はなかったことにしてあげる」
「本当?」
 きらきらの視線にうんざりする。
どうして、期待なんてできるのよ。
「ええ、嘘はつかないわ。約束よ」
「美味しい物も食べさせてくれる?」
「たらふく」
「よし。そうと決まれば行動開始だ。太陽はいつだってそこにあるんだから」
 スキップで去っていくカスミの背中を見送る。
スキップなんて、無駄なことなのに。雨音が、楽しそうな足音も掻き消してしまうもの。
 バイバイ、カスミ。

            *

 シズクと話しこんでしまったせいか、まだ散歩は途中なのに、辺りは真っ暗になっていた。
あばら家から漏れてくる蝋燭の淡い光。貧民たちはその光に身を寄せ合い、会話もなく息をころす。
 静寂の貧民街で、カスミは雨と踊っていた。
 一緒にステップを踏んで、カスミと雨は仲良し。浮かれ気分のカスミは、すっかり道に迷っていた。
 もうすぐ、その事実に気付く。
 カスミの足は止められた。
「あれ?」
 目の前にそびえるコンクリート造りの壁。
 見たことのない壁に突き当たり、カスミは、ようやく自分が迷っていることに気付いた。辺りを見回しても、四方を黒い幕に覆われている。
「ここ、どこ?」
 カスミは辺りを見回した。
「こんな壁、知らないよ」
 立ちふさがる壁に手を触れてみると、なにか文字が刻まれていることに気付いた。目をこらして、書かれている文字を睨みつける。
「うん、駄目だ。読めない」
 暗いからではない、カスミに学がないのだ。
 辺りが見えない。字も読めない。八方ふさがりのカスミは、途方に暮れた。
「どうしよう……」
 カスミは、不安と同時に、言いようのない興奮も覚えていた。まだこの辺りにも未開の地があったなんて。どうやら世界は広いらしい。カスミの知らないことは、まだまだ一杯ある。もっと探索したいけど、やっぱり家に帰りたかった。
 とにかく、帰り道を探そう。
 カスミは首を回した。
「お家は、どっち?」
 どうやら正面と左右を壁に囲まれているらしい。行ける方向は、ひとつだけだった。
 カスミは、来た道を引き返すことにした。
「――? やあ、こんばんは」
 振り返ったそこには、見知らぬ老婆が立っていた。何もせず、まるで最初からそこにいたかのように、老婆はカスミの行く手を塞いでいた。
 カスミは老婆に話しかけた。
「お婆さん、こんなところで何してるの?」
 老婆は何も言わない。
老婆の銀色の髪は、雨で濡れ、だらしなく地面に向かって垂れている。全身が黒いローブで覆われているので、髪の毛以外で、老婆の特徴を表せるものはなかった。
 腰の曲がった老婆を、カスミは当たり前のように気遣った。
「お婆さん、迷子?」
 老婆は何も言わず、雨に打たれていた。
「ねえ、風邪ひくよ?」
 それでも、老婆は喋らない。
カスミは、ようやく気味悪くなってきた。こんな時間にひとりで貧民街をうろつくなんて、よっぽど頭のおかしなやつでもない限りしない。
晴れを信じるカスミが、幽霊を信じないはずがなかった。
いよいよ、カスミの心は恐怖で満たされた。
「やっぱり、風邪、引かないかも……」
カスミは、ゆっくりと後退して、老婆から距離を取った。それでも老婆に動く様子はない。カスミの様子を窺うわけでもなく、さながら人形のようにそこに立っていた。
「それじゃあ、お婆ちゃん。気をつけて帰りなねぇ」
 カスミは、逃げるように、老婆の横を通り過ぎようとした。その時――
「お待ちよ」
 しわがれた声が地を這い、カスミの足にからみついた。
「そんなに急いでどこへ行く?」
 カスミは振り返った。老婆はカスミに背を向けたままだった。
「今喋ったの、お婆ちゃん?」
「ええ、そうだよぉ。この婆が、あんたに話かけたのさ」
老婆は振り返ろうとしない。仕方がないので、カスミは、老婆の背中と会話することした。
「ぼく、お家へ帰りたいんだ」
「びしょ濡れの婆を置いてかい? これだから最近の若者は嫌だよぉ」
 老婆は卑屈に笑った。
まるで絵本に出てくる魔女みたいだ。カスミはそう思った。
「だったら、ぼくの家にくるかい?」
「いいえぇ、あんたの家は、ぼろっちいから嫌だよぉ」
「でも、ここにいたら濡れちゃうよ?」
 老婆は、また卑屈そうに笑った。
「そうだ、その通りさ」
 老婆の首は、錆ついているかのように、ぎこちなく上を向いた。
「この雨じゃあ、ずぶ濡れになっちまう」
「だからぼくの家に来ていいよ。何も無いけど、ベッドならあるから」
「この婆を、あんなカビだらけの布団に寝かせる気かい?」
 カスミは、しゅんと肩をすぼめた。
 何かを提案すれば、もれなく否定されてしまう。
カスミは、自分の無力を悔やんだ。
「お婆ちゃん、ごめんね。ぼく、お婆ちゃんに何をしたらいいのか分からないよ」
 老婆は、卑屈そうに笑った。
「気にしなくていいよぉ」
「でも、」
「えぇ、あんたは何もしなくていいさ。あたしが、あんたに何かしにきたんだからねぇ」
「ぼくに?」
 老婆はカスミの目の前にいた。カスミを見上げる皺だらけの顔。何よりも特徴的なのは、銀色の髪ではなく、老婆の目だった。白目がない。本来目のあるべき場所に穴があいているように、そこには黒目だけがぎっしりとつまっていた。
「お、お婆ちゃん?」
「雨を止ませるのかい?」
 老婆は、素早い動きでカスミの額に手を当てた。眩い閃光が走る。
「うわ!」
 思わず、カスミは目を瞑ってしまった。
どれくらいの間、そうしていたのだろうか。カスミが目を開けると、すでに老婆の姿はそこになかった。
「お婆ちゃん?」
 カスミは、左右に首を動かした。
 辺りには誰もいない。それどころか、さっきまで目の前にあったはずの行き止まりが、跡形もなくなっている。
「ここは……」
カスミの足元には、見覚えのある道が延びていた。
「なんだ。ラッキーじゃないか」
 カスミは歩き出した。
 足音を雨音にまぎれさせて、少し明るくなった夜道を、スキップで。

      *

 数日が経ち、今日も雨。
散歩を楽しむカスミがいつもの角を曲がると、左手に傘を持ち、右手で金貨をじゃらじゃらいわせるシズクと出会った。
「やあ、シズク」
「あら、カスミじゃない。どう、雨はやみそう?」
 金貨に血がついているのは、きっと一仕事終えた帰りなのだろう。シズクが傘を傾けると、雨粒が雪崩となって地面に垂れた。
「それどころじゃないんだ」
「あら、もう諦めたの?」
「そうじゃなくて、お婆ちゃんが消えたんだよ」
「なによ、それくらい。わたしだって、お婆さん何人も消してるわよ」
 シズクが血の付いた金貨をちらつかせると、カスミは激しく首をふった。
「もう、そうじゃないんだよ」
 カスミは、少し強めの口調で言った。
 シズクは、ポケットに金貨を押し込んで、腰に手を当てた。
「今日のカスミは、何時にも増してトンチンカンね」
「とんちんかん?」
「馬鹿野郎って意味よ」
「シズクの言葉はいちいち難しい」
 カスミは眉をひそめた。
「シズクになら伝わると思ったのに」
「期待に添えず、申し訳ないと思ってるわ」
 カスミはじれったい気持ちを抱えて、地団駄を踏んだ。自分の身に起きた奇想天外、そのありのままを伝えられないジレンマに苦しむ。
 シズクは、少しだけ首を傾けた。
「何にしても、そのお婆さんがお金にならないのなら、探したって意味ないじゃない」
「それは、そうなんだけど……」
カスミは肩を萎めた。
「でも、気になるんだよ」
「別にいいけど、あんた、このままだと、わたしに殺されるわよ?」
「そんなの嫌だよ」
 カスミは、さらに身体を縮めて、俯いてしまった。
 あの夜にあったことは夢じゃない。おでこには、お婆ちゃんの感触がまだ残っている。お婆ちゃんはいた。それなのに、いくら探しても、お婆ちゃんどころか行き止まりすら見当たらない。
 でも、本当なんだ。
「シズクは知らない?」
「なにを?」
「この街にある、行き止まり」
 また馬鹿なことを。シズクは顔をしかめた。
 平民街を囲む貧民街。なんの規則性もなく、好き放題に建てられたあばら家だが、決して人の道を阻むことはしていない。そんなことをして、もし、怖いものみたさに侵入してきた平民や貴族の進行を阻害してしまえば、その家は家主ごと潰されてしまうだろう。だから、貧民街に行き止まりはない。そんなものがあれば、近くの住人がすぐさま取り壊している。
 シズクは、首を振った。
「わたしには分からないわ」
「そっか……」
 カスミは、すっかり肩を落としてしまった。
「やっぱり、あれは夢だったのかなぁ」
 いつでも能天気なカスミが落ち込むなんて珍しい。シズクは貴重なものを見ている気分だった。もしかしたら本当に消える老婆がいたのかもしれない。いえ、カスミがこれだけ真剣に言うのだから、きっと実在する。本当に消えるかどうかは別として、老婆はいる。
 老婆はいる。カスミは嘘をつかない。
 シズクは、目線をカスミから外した。
「でも、わたしだってこの町をすべて知っているわけではないわ」
「シズク?」
「もしかしたらいるかもしれないわね、その、あなたの言う、消える老婆ってやつ?」
 シズクが少しだけ歩み寄ると、カスミはいつもの晴れやかな表情に戻った。
「シズクもそう思う?」
「ええ、思うわ」
 シズクは、冷笑をうかべた。
 やっぱり、カスミは単純ね。
 カスミは、泥をまき散らしながら飛び跳ねた。
「シズクは優しいよ!」
「ありがとう。人を殺してもそう言われるなんて、思いもしなかったわ」
「もっと探してみるよ」
「ええ、応援してみる」
「バイバイ、シズク!」
 カスミは、大きく手を振って大雨の中をスキップで歩き出した。
 去っていく背中を見つめながら、シズクはポケットに手を突っ込み、すっかり冷えてしまった金貨の存在を指先で確かめた。
 うん、ちゃんとある。

 一日中貧民街を歩き回ったが、カスミは、行き止まりどころか、コンクリート製の壁すらも見つけられなかった。
 カスミは、重たいがっかり感を肩に乗せて歩いた。
「すっごく、疲れました……」
 カスミは、とぼとぼ、当てもなく貧民街を彷徨っていた。
カスミは気付いていなかった、自分が着実に貧民街の出口へ向かっていることを。そして、その行いが自分の人生に終わりを告げることを。
 水の都を支配する階級差別。
 貧民、平民、貴族、皇室からなるピラミッド。虐げる事はあっても逆らう事はない。自分たちを選ばれた民であると信じて疑わない平民は、自分たちの上にたつ貴族を神の使いと崇め、皇室の人間を神のように崇めた。反対に、自分たちよりも愚かな存在である貧民たちに対しては、執拗なまでに冷酷に接した。そうして、人々は、命に価値をつけた。死んでもいい命と、生きるべき命。階級に差があれば、絶対服従。それが例え、母に刃突き立てることになろうとも。この国では、階級がすべてだった。
 これほど理不尽なルールを、人々は当たり前だと思っていた。
 何も考えていないカスミですら、この国を支配するルールは、誰に教わるでもなく知っていた。この国を支配する階級差別は、それだけ根強く、歴史ある戒律であり、破ることは許されない。
要するに、ただのゴミ掃除と同じ。塵紙が落ちていたので、ゴミ箱に捨てました。
 よくできました。
 ゴミがゴミ箱から勝手に飛び出すことなどあってはならない。
 カスミは、今日、その禁忌を犯そうとしていた。
「ここ、どこ」
 カスミは暗闇に目をこらすが、綿毛のような黒が漂うだけで、道が見えない。行き止まりを探すために、いつもの散歩コースから大きく外れたのは失敗だった。
「暗いなぁ」
周辺に建つあばら家から蝋燭の明かりがもれてこない。それは、この辺りは人が住めない場所、つまり、平民街付近であることの証だ。
「どうしよう、シズク……」
 明りの一切ないここでは、一歩先も見えない。もしかしたら、すでに平民街に足を踏み入れてしまっているのかもしれない。
積もっていく不安が、カスミの思考を鈍らせた。
 とにかく前に進もう。昨日はそうやって、お婆ちゃんに会った。
 カスミは、暴漢に襲われないよう、あたりに注意を配りながら歩いた。しばらくすると、ぼんやりとした明りが見えてきた。それが貧民街の淡い光なのか、平民街から漏れる夥しい光なのか。カスミのいる位置からでは判別できない。
 とにかく、その光に向かって進むことしか考えられなかった。
 前に、前に――
 そうして、カスミは開けた場所にでた。
 鮮やかな色の傘が街を彩る。活気のある街中、雨で消えてしまわないよう籠で覆われた明りがいくつも吊るされ、その下で人々は酒を飲み交わし、愛を求めて街を歩き回っている。
 あまりに華やかな光景に、カスミは目を奪われた。
「こんなに騒がしい夜は初めてだ」
 カスミの顔がみるみる晴れて行く。
 いつ襲われるか分からない貧民街で、夜道を歩くものはない。
そう。ここは平民街。もっとも居心地のいい場所。
白い建物が立ち並び、カーテンの奥で影が躍っている。人々は雨など気にも留めず、肩を組み乾杯をする。まだ誰も、カスミに気付いた様子はない。今なら引き返せる。カスミが一般的な貧民であったら、そうしていただろう。
しかし、カスミは足を前に出した。
楽しそう。カスミの頭に浮かんだものは、危険を告げるものではなかった。
平民たちは、雨を楽しんでいるように見えた。だから、きっと分かり合える。カスミはそう思った。
平民街を照らす明りは、カスミの足元まで伸びていた。
「ちょっといいですか?」
 不意に、カスミの肩が何者かに掴まれた。振り返ると、そこにはわざとらしい笑顔で、威厳を形にしたような、真っ赤な制服を身にまとう男が立っていた。
 警備兵だ。
「身分証の確認をよろしいでしょうか」
「みぶんしょー?」
 カスミが首を傾げると、警備兵は、笑顔のまま、眉だけを申し訳なさそうに曲げた。
「すみませんね。最近この辺も物騒なものですから。身分を証明できるものでしたら何でも構いませんので」
 カスミのポケットには、何も入っていない。
 不安で顔をゆがめ、慌ててポケットを探るカスミを不審に思い、次第に警備兵の顔が険しくなっていく。
「どうなさいました?」
もう、どうすることもできない。観念したカスミは、胸の高さで手を組んだ。
「ごめんなさい。ぼく、何も持っていません」
「お持ちでない?」
 警備兵は腰にさげる刀剣に手をかけた。
「失礼ですが、階級はどちらに」
 カスミは息を飲んだ。
 正直に言ってみよう。謝れば許してくれる。だって、ぼくたちは、雨が好きな者同士じゃないか。
「貧民街から来ました」
 刃がカスミの頬をかすめる。
「侵入者だ、殺せ!」
 警備兵が笛を吹くと、暗闇の中から、警備兵がぞくぞくと湧いた。
 逃げなきゃ。
頭でそう分かっていても、足がすくんで動かない。
「ご、ごめんさない。でも、ぼくも、雨が好きだから」
 頬から生温かいものが垂れてくる。手の甲で拭うと、それが血であることが分かった。
 殺される!
 ようやく事態を理解したカスミは、華やかな街に飛び込んだ。
「貧民を殺せ!」
 平民街で、カスミと警備兵の鬼ごっこが始まった。
「ごめんなさい! 許して下さい!」
 カスミは逃げながら謝った。しかし、警備兵が剣を収めることはない。
「戒律を破った者は死刑だ!」
 捕まれば殺される。カスミは必死の思いで走った。息が切れても、転んでも、平民を突き飛ばしながらカスミは走り続けた。
「殺せ! 殺せ!」
 囃したてる平民たち。迷い込んで来た貧民を狩るのは、この街の小さなイベントになっていた。誰かが酒の瓶を投げつければ、反対からは石が飛んでくる。カスミの身体は、あっという間に血だらけになった。
それでも、カスミは足を止めない。
次第に、警備兵とカスミとの距離が開いてきた。
 逃げ切れるかもしれない。
 カスミの淡い期待は、立ちはだかる壁を前に砕け散った。 
 でも、この壁は。
「いたぞ!」
 背後から足音が迫ってくる。逃げ道はない。
 カスミは、壁にぴったりと背中をつけた。
「殺せ!」
 カスミは息をのむ。
「飛ぶんだ!」
 頭上から降ってきたのは、知らない声。
「はやく!」
 若い、青年の声。
「飛べ!」
 迷っている暇はない。
 カスミは両足に力を込め、雨雲にむけて一気に解放した。
 警備兵の刀剣が宙を切った。
 貧民がいなくなった。狐に化かされたかのように、警備兵は立ちつくした。
「上だ!」
 大勢の顔が、宙高く舞うカスミを見上げた。
 カスミは、警備兵の頭上遥か高く、そびえ立つ壁を飛び越えていた。
 着地した。その壁の奥は、暗闇だった。
「ここは、どこ?」
 辺りを見回す。なんだかほっとするのは気のせいではないだろう。
 ここは貧民街だ。それも、カスミの家のすぐ近く。見慣れたあばら家が立ち並んでいるから間違いない。 
 雨音は、遠くの喧騒を消していた。
 自分の身に何が起きたのか分からない。しかし、カスミは腹の底から湧いて来る高揚感に鼻を膨らませた。
 胸に手を当てて、気持ちを静める。
「ぼく、空を飛んだ」
 
     *

 平民街から命辛々逃げ出してきたカスミは、泥のように寝入った。
雨音が奏でる心地良いリズムに身を委ねると、いつまでも寝ていられる気がする。
夢のなかで、カスミは川辺で太陽を浴びていた。なでるよう風が吹き抜ける、吹きぬける風に青々とした草木が奏でられる。さんさんと照らす太陽がカスミの身体を包み込む。
気持ちいい、ずっとこうしていた。
しかしどうしたことだろう、次第に空が曇り、ついに雨が降り始めた。雷まで落ちてくる始末。轟音が鳴り響く。
「ん?」
 せっかくの睡眠は、猛烈なノックに阻害された。
「カスミ、起きて!」
 目を擦りながら身体を起こす。外は相変わらずの雨。ドア越しのくぐもった声は、どうやらシズクだ。
 カスミは身体を起こし、パジャマから生乾きの服に着替えた。
シズクから訪ねてくるなんて珍しい。カスミは、うきうきした気分でドアを開けた。
「カスミ、急いで」
 ドアを開けるなり、シズクはカスミの腕を掴んだ。
「どうしたの、そんなに急いで」
「皇帝陛下が貧民街を遊覧なさるそうだよ」
 シズクは吐き捨てるように言った。
「皇帝が?」
 カスミは嫌な予感がした。
「そう。だから急いで」
 カスミとシズクは、傘もささずに雨の中を駆け出した。
 普段は絶対にお目にかかれない皇帝が、わざわざ薄汚れた貧民街に降りてくるのには訳がある。もちろん、荒れきった貧民街の改善でもなければ、新作お召し物のお披露目会でもない。宮殿にお仕えする、新たな従者を探すためだ。今まで使えていた従者が、何らかの理由で使えなくなったため、代用品を見つけにきた。
「ほら、ここに座って!」
 押しつけられるように、カスミは地べたに座らされた。
 シズクとカスミは、水たまりの上でひれ伏した。遠くから太鼓の音が近付いて来る。
地が鳴り、空気が震える。
 次第に覚めて行く頭で、カスミは昨晩のことを思い出し、震えた。
「もしかしたら、ぼく、持って行かれちゃうかもしれない」
「大丈夫よ」
 シズクは、カスミの手を握った。
「わたしの傍にいれば、あんたが取られることはない」
 決して、気休めでシズクは言っているのではない。
 シズクの根回しは完璧だった。
 皇帝が遊覧すると言っても、皇帝が貧民と同じ目線で歩き回っている訳ではない。皇帝は、巨大な神輿の上で、さらにその中心に置いてある籠に閉じこもり、その姿を見せることなく、置物のように座っているだけ。実際に従者を選ぶのは、皇帝の側近である貴族たちだ。そのため、屈強であること、スタイルに恵まれていることなど、下衆な判断基準で従者は選ばれる。
 カスミはともかくとして、容姿に恵まれたシズクが狙われるのは明白だった。そこで、シズクは、あらかじめ貴族のひとりを金で買収し、シズクとカスミには危害が及ばないようにしておいた。
「あんたはわたしが守る」
「シズク……」
 カスミは、シズクの頼りがある横顔をじっと見つめた。
 太鼓の音が近くなる。
 カスミは頭を下げたまま、目線だけを音の方へ送った。
 どんよりと暗い雨の中、まばゆい光をまとう巨大な神輿が、ゆっくりとこちらに向かって来る。それは、朝日の到来を思わせる神々しさだった。
「カスミ、顔あげて」
シズクが顔をあげたので、カスミもそれに合わせて顔をあげた。顔の良し悪しが、第一の判断基準であるからだ。
すでに、神輿の先頭を歩く警備兵が、カスミたちの目の前を歩いていた。
昨日追われた、あの制服だ。
カスミは無意識に目を伏せていた。
 泥だらけのブーツが、ゆっくりと目の前を通り過ぎて行く。
「大丈夫。大丈夫だから」
 シズクは、カスミにそう言いながら、自分に言い聞かせた。
 心臓を打つ行進は、ついに神輿をカスミたちの目の前まで運んだ。
 カスミとシズクは、同時に唾を飲み込んだ。
 神輿は見上げるほど高く、何百人もの屈強な戦士たちが縄を引くと、ゆっくり四つの車輪が回る。その轍すらも、輝いて見えた。いや、道路が舗装されていないおかげで、車輪の黄金が所々欠け、実際に輝いているのだ。
煌びやかな神輿は、国中の黄金を集めて作られ、雨雲を映しても、その輝きが曇ることはなかった。
「すごい……」
 カスミには、そんな子供みたいな感想しか思いつかなかった。
シズクも、言葉にするまでもなく、カスミと同じ感想を抱いていた。
神輿の上では、その周囲を警備兵が守りを固め、その後ろから側近の貴族たちが、貧民を品定めしている。神輿の中心には皇帝陛下が鎮座なさっているが、その姿は、簾のかかる箱の中に収められ、貧民たちの目に映ることはない。
カスミは、荘厳な神輿の目を奪われた。こんなにいい物が見られたのだから、今日死んだって悔いはない。そんな気分にすらなってくる。
「太陽だ……」
 カスミが呟くと、シズクは苦々しげな顔で神輿を見上げた。
 神輿の上では、上等そうな服を着た貴族たちが、こちらを見ながら耳打ちし合っている。シズクの存在に気付いたのだろう。貴族は、顔をしかめると、シズクから視線を外した。
 賄賂の効果はあったようだ。
 シズクは胸をなでおろした。
「とりあえずは、安心ね」
「うん……」
「なによ。もっと喜びなさいよ」
「うん……」
 カスミは、一点を見つめていた。
「シズク、あれは」
 カスミの視線の先には、すでに神輿に乗せられた数人の貧民がいた。誰も顔をあげず、焼印を押される順番を待つ。逃げよとすればムチを打たれ、じっとしていれば身体を弄られる。貴族たちにされるがままだ。
 神輿は、人々を圧倒しながら進む。
 シズクは拳を握った。
 どうしてこんな理不尽にさらされなければいけないのか。行き場のない怒りをなんとか心に押しとどめる。
「シズク?」
「大丈夫、動かないで」
カスミは、ばれないようにそっと、シズクの拳に手を合わせた。
 そんなふたりの様子を、先ほどからじっと眺めているひとりの騎士がいた。重量感のある鎧に身を包み、並みの人には扱えないであろう巨大な刀剣を腰にさげている。
 水の都での軍事をすべて司る大将軍、その名を、相冥霆という。
イカズチの目は、ふたりを捕えて離さなかった。
理不尽に対して素直に怒れる者。その怒りを鎮められる者。皇帝陛下を倒し、この国が潰されるとしたら、きっとあのような者たちによってだろう。
イカズチは、神輿の中心に置かれた籠に目をやった。
そんな日が来る前に、もっと屈強な兵士を育てねばならないな。
「イカズチ殿、やつは諦めなされ」
 ひとりの老いた貴族が、珠のように美しい貧民の女をイカズチの前に連れてきた。
「ほれ、イカズチ殿に御挨拶せぬか」
乾いた手で女の顎に手を添え、顔をあげさせる。
 美しい女は、透き通るような涙を湛えていた。
「彼女は、特別なのですか?」
「あそこにいる女、たしか、シズクとか。強かな女でね、金の力で自分の身を守っておるのですよ。いやいや、実に賢しいわい」
 なるほど、怒りに見合うだけの強さを兼ね備えていたか。
 イカズチは、改めてシズクに目をやった。まだこちらを見ている。遠くからでも、びしびしと激しい怒りが伝わってくる。
「ほっほ、そんなにがっかりなさるな。御覧なさい、こんな上物がまだ残っていた」
 助けを求めるように、女はイカズチを見続けていた。老人の慰み物になるくらいなら、イカズチの物になるほうがまだマシだ。
女は、請うような目線で、イカズチを求めた。
「ほう、確かに上物ですな」
 イカズチは、ぐっと女に顔を近付けた。ふんわりと、果物の香りが鼻をなでる。この女の匂いなのか、貴族の匂いなのか、イカズチには分からない。
「これは良い買い物をなされた」
 老人は、ほくほくと笑い、また品定めを始めた。
 イカズチは、ようやく顔をしかめた。
 やれやれ。老いた人間とは、どうしてこうも若さを求めるのだろうか。
 イカズチの目的は、女ではなかった。自分の背中を任せられる、屈強な戦士を求めていたのだ。シズクの隣にいた男、やつは戦士になれずとも見所はあったのだが、惜しいものだ。
 イカズチが意識を護衛に戻すと、ひとりの貴族が、子供のように、嬉しそうな声をあげた。
「あれだ、あいつが欲しい!」
 貧民たちは目を剥いた。
 貴族の指さした先には、まだ成熟しきっていない少女が、母の胸の中で抱かれていた。年齢は十にも満たないだろう。幼子が持って行かれるのはよくあることだが、まさか平民がその対象になるなんて。
自分たちを虐げる平民が虐げられている。その光景は、貧民にどうしようもない絶望を与えた。
 怯える母親は、娘を胸の中でぎゅっと抱いた。
 恐らく、母親は、皇帝陛下の神輿を子供に見せてやりたかったのだろう。母親のそんな浅はかな優しさが、我が子の人生を狂わせてしまった。
 可哀想に、あの若さで人生のすべてが決まってしまうなんて。
 貴族は神輿の上で飛び跳ねていた。
「ほれ、お前たち、さっさとあの子をお迎えにいかんか」
「やめて下さい!」
 母親は、警備兵に背を向け、我が子を隠すように抵抗した。
「この子だけは、この子だけは許して下さい!」
「貴様、逆らう気か!」
 警備兵が蹴りつけると、母親は苦しそうな声でうめいた。
「お許し下さい! お許し下さい!」
「戒律に従わねば死刑ぞ!」
それでも、母親は娘を離そうとはしなかった。
「わたしがなんでもしますから!」
「黙れ!」
 苛立つ警備兵が、母親の腕を切りつけた。母親は怯み、一瞬だけ手を離した。しかし、飛びつくようにして娘の腕を掴んだ。
「連れて行かないで!」
「ええい、離せ! この子の人生はもう決まったのだ!」
「いや! イズミ!」
 母親は、殴られ、蹴られ、口の中が鉄の味で一杯になろうとも離そうとしなかった。親の愛とはかくも深いものなのか。人々は、目の前で繰り広げられる人間ドラマに心打たれた。しかし、誰も助けようとはしない。
 だって、怖いじゃん。
「何をやっている!」
 貴族は苛立ち、神輿を踏みつけた。
「平民のくせに逆らった。犯罪者は死刑じゃ!」
 どよめきは一瞬だけだった。
少女の頬に、母の鮮血が飛び散る。
一太刀で、母親の愛は切り捨てられた。
「お母さん! お母さん! いやあ!」
 少女は、警備兵の腕のなかで泣き叫んだ。
 これが、貴族以外にうまれた者の運命。
「諦めなきゃいけないの」
 シズクは、飛び出そうとするカスミを押しとどめていた。
カスミは鼻息荒く、シズクの腕の中で暴れた。
「今ここでカスミが暴れれば、わたしにも迷惑がかかる」
 鎮静の効果を狙って言ってみたが、カスミの耳には届いていなかった。
カスミは身をよじらせてもがいた。
「シズク、止めないで」
「分かって。あなたを殺したくないの」
 神輿の上では、貴族が嬉しそうに飛び跳ねている。
「ほほ、幼いのぉ。柔らかそうだのぉ」
「いやだ! お母さん! 死んじゃやだ!」
 少女の泣き叫ぶ声は、雨音すら消し去った。
「泣いてるのにっ!」
「あの子も、このまま親がいない状態で暮らすより、あの爺の慰み物になったほうがマシなのよ」
「そんな筈ない」
「ここで見送った方が、将来的にはあの子のためなの」
「あの子の人生は、あの子が決めるべきなんだ」
「いいえ、わたしたちの命は貴族たちのものよ」
「いつまで騙し続けるんだ!」
 カスミは声を張り上げた。
「あの子を助ければ、雨がやむんだ!」
 雨が、やむ? 
カスミの言葉に、シズクは一瞬だけ隙をみせた。
「離して!」
カスミはシズクを突き飛ばして走りだした。少女を抱く警備兵に向かって、一直線。
「やつを捕えろ!」
 飛び出したカスミに気付き、イカズチが叫んだ。
警備兵は、剣を抜き、単身向かって来るカスミへ群がった。
貧民たちは立ちあがり、その動向を見守った。
「カスミ……」
 シズクも立ち上がり、泥だらけの服を払った。
「あの、馬鹿……」
もはや、金で解決できる状況ではなくなった。カスミが助かるには、奇跡を祈るしか方法がない。
はずだった。
「あら?」
 シズクは目を凝らした。
 飛び出した筈のカスミが、目の前から消えたのだ。
「空だ!」
 大勢の顔が上を向いた。
 雨雲のなかを、カスミは飛んでいた。と思えば、少女を抱く警備兵の前に降り立った。
突然目の前に現れたカスミに、驚き戸惑う警備兵。
カスミは手を伸ばした。
「返して」
「へ?」
「その子を返して」
「あ、あぁ……」
 カスミは、奪い取るように、警備兵から少女を受け取った。少女はカスミの首にしがみついた。
 貧民たちの顔が晴れる。
「な、何をやっている。警備兵、そいつを殺せ!」
 神輿の上から降り注いだ貴族の怒鳴り声に、警備兵たちは我に返った。剣を振り上げ、カスミを探す。
「どこだ! どこにいる!」
だが、時すでに遅し。
 もう一度、カスミは空を飛んでいた。あばら家の屋根に降り立ち、飛び石を渡る様に屋根から屋根へと飛び移った。カスミが雨の中へ消えるのに、そう時間は掛からなかった。
「……カスミ?」
 シズクは目を擦った。
 何が起こったのか理解できなかった。分かっているのは、貧民の目の前で、貴族が大恥をかかされたという事だ。
 ロリコン貴族は、何も言わずに、神輿の奥へと引っ込んでしまった。
 貧民が貴族に逆らった。声に出さずとも、貧民たちは歓喜に沸いていた。
「なるほど、ああいう奴か」
 貴族たちが苦々しく顔をしかめるなか、イカズチだけは、カスミの鮮やかな犯行に見惚れていた。空高く舞う跳躍力は空に虹を描き、警備兵の手をすり抜けた身のこなしは、散り行く花びらのごとし。
「まことに見事としか言いようがない」
 イカズチは、久しく忘れていた高揚感を取り戻していた。
だが、なにより恐ろしきはあの決断力だ。強大な力を前にまったく迷いがない。純粋無垢な力。俺の背中を任せるのにふさわしい。
欲しい。欲しいぞ。
イカズチが刀に手をかけると、皇帝の簾が、内側から小さな手に持ち上げられた。
「何かあったのか」
 透き通る声に、イカズチは我を取り戻した。
今の俺は皇帝陛下の護衛だ。あやうく自分の本分を忘れるところだった。
イカズチの肩が降りると、鎧が小さく音をたてた。
「いえ、何も」
「ならいい」
 手が引っ込むと、簾も下りた。
 あの者に背中は任せられない。あの動きは、そういう物ではない。
 奴は戦士では無い。
 暗殺者だ。


 第二章

 騒動から数日たった今も、カスミと少女は行方を眩ませている。国中の警備兵が総出で捜索を続けているが、尻尾すらつかめないのが現状だ。あまりに手掛かりが出て来ないので、貧民街には国外逃亡との噂も流れたが、そんなはずない。 
「あの子は、絶対に逃げないわ」
シズクは信じていた。
 だって、まだ借金を返してもらっていないもの。
シズクは、無機質な手帳をスカートのポケットから取り出した。そこには、カスミの返済日がはっきりと書かれている。
「まだ、この日は来てない」
シズクは信じていた。
カスミは、借金を踏み倒して逃げるような人間ではない。きっとどこかで、雨を止ませる方法を探しているはずだ。
シズクは、知っていた。
カスミは傍にいる。
 シズクは、貴族の怒りがひと段落した頃に、こっそりとカスミの捜索を開始した。
 カスミの家は、すでに跡形もなく焼き払われていた。一応、焼き跡から借金の返済の役立ちそうな物を探してみたけれど、焼き跡からは、炭以外の物は何も見つからなかった。
 だから、カスミは生きている。
シズクは確信していた。
雨が傘を叩くので、シズクは手帳を閉じて歩きだした。
 聞き耳をたれば、あちらこちらからカスミの情報が雨水にのってくる。カスミは、貴族に逆らった初の貧民として、小さな英雄になっていた。
 誰かが言った。
「カスミは、伝説の勇者の末裔だった」
「カスミは、太陽神の使いである」
他にも、数えればきりがないくらいカスミに関する噂が街中を流れ回った。もちろん、全部嘘だ。カスミは勇者でなければ神でもない。しかし、こういったカスミに関する情報をすべて除外すると、不思議とそこからカスミが見えてくる。
誰かが言っていた。
「空を飛んでいる人を見た」
「雨水を飲むお化けがいた」
「雨の中、傘もささずにぶらつく頭のおかしな奴がいた」
 シズクは知っていた。
 これらすべて、カスミの目撃情報だ。カスミは英雄ではない。頭のおかしな、見下されるべき存在だ。だから、鼻で笑いたくなる情報のなかに、カスミは隠れているのだ。
 シズクは身体を伸ばした。
「さぁて、今日はどこへ探しに行こうかしら」
 シズクは自分の台詞に違和感を覚えた。手を伸ばしたまま止める。
 そういえば、ここ最近、本業をおろそかにしていた気がする。もう何日、人を殺していないだろう。このままでは、カスミを見つけるより先に、生活資金が底をつきてしまう。
 シズクは、ポケットから手帳を取り出し、そっと微笑んだ。
 カスミは生きている。それも、ものすごく近い所で。
 シズクは傘を肩にかけ、耳との間に挟んだ。手帳を開いて、今日の仕事を確認する。
「えっと……あら、返済日が過ぎている人がこんなにいるじゃない」
 自分がどれだけカスミに熱中していたのか思い知らされたような気がして、シズクはすこし嫌な気分になった。
「……まあいいわ」
 今日のターゲットは、貧民街の隅に住む一人暮らしの老人だ。すでに返済日を一週間も過ぎている。死にたくないのなら、きっとたんまり溜めてくれているはずだ。
 人はだれも死にたくない。そういうもの。
ちなみに、その辺りでのカスミの目撃情報は数件。探してみる価値はある。
……また、カスミのことを気にしてる。
 シズクは頭を振った。今は忘れよう。カスミとの約束を守るために。
「よし、今日もひと稼ぎ」
 気合一発、手帳を閉じる。
 貧民街では、忙しなく警備兵が走りまわっていた。
「いたか!」
「いません!」
 昼夜問わず騒がしい警備兵たちに、シズクはうんざりしていた。
 すでに、シズクは何度か警備兵によって事情聴取を受けている。恐らく、カスミとシズクが懇意であったことがばれているのだろう。その時は「知らぬ、存ぜぬ」で通した。でも、いつまでもその手段が通用する保証はない。
 正面から警備兵が走ってくると、シズクは無意識に道の端に身体をよせていた。目立たないに越したことはない。
 警備兵は、シズクに気付いたそぶりもなく、横を通り過ぎようとしていた。
 よかった。
シズクの肩から力が抜ける。しかし、横を通り過ぎる間際、警備兵は勢いよく水たまりに足を踏み入れ、シズクのスカートに泥をはねさせた。
「ちょっと!」
 警備兵は何も言わず走り去った。
 振り返って睨みつけてやったが、その警備兵が転ぶことはなかった。
「もう、失礼しちゃうわ」
 スカートには、泥の斑点模様がついていた。
「こんなに汚れちゃって、もしカスミを見つけたらどうすればいいのかしら」
 シズクは、しばらくスカートと睨めっこをしていた。しかし、今から家に戻って着替える手間を考えると、汚れは諦めたほうがいい気がしてきた。
「いいわ。カスミは馬鹿だもの、きっと気付かない」
「オシャレだね~」と、笑うカスミが思い浮かぶ。
 気を取り直して、シズクは足を進めた。
 雨音に混じって、カスミの噂と、警備兵による詰問が聞こえてくる。貧民も警備兵も、いつまで経ってもカスミが姿を現さないので焦っている。
 英雄の登場と犯罪者の確保。
 シズクは手帳を握りしめた。
 わたしにとっては、債務者だけどね。
 雨が降りしきる中を、傘もささずに立っている男がいたとしたら、シズクはそれをカスミと思っただろうか。
「もし、そちらの綺麗なお嬢さん」
 シズクは、不意に後ろから声を掛けられた。
「わたしのことかしら?」と、シズクは顔だけで振り返った。
「他に誰が?」
振り返ると、そこには、細身の男が傘もささずに立っていた。豪華なみなりから察するに貴族階級の人間だ。女性のような線の細い顔立ちで、腰には護身用のためなのかナイフを携えている。
シズクは天使のごとく微笑んだ。
「なにかしら?」
「カスミのお友達だよね?」
 シズクの顔がわずかに反応する。
 こいつは、調べている。誤魔化せない。もし、わたしの予想が当たっているのなら、こいつはもっともカスミの事を知っている人間だ。だとしたら、何としてでも逃げなきゃならない。
 シズクは、髪を掻き上げている間に頭を巡らせた。
「お友達というのは、ふたりで会った日数の長さのことを言うのかしら」
 男は肩を持ちあげた。
「ぼくの知る限り、友情に有効期限はないようですが」
「なら、わたしはカスミのお友達ね」
シズクは、いつでも逃げ出せるように左足を引いて置いた。貴族につかまれば、きっと拷問にかけられる。そうなる前に、さっさと話を切り上げて、この場から離れよう。
シズクは、じりじり後ろに下がった。
男は首を傾げた。
「きみとカスミは仲良し?」
「ええ。でも、嫌われちゃったのかしら」
 シズクは、できるだけ上品に笑ったつもりだった。
「そうか、残念だな」
 男は目線を上に向けた。
「あまり、こういう手は好かないのだけど」
 男の手がナイフに伸びて行く。
 まずい! 
立ち去ろうとしたシズクの足は、地面に張り付いてしまったかのように動かない。
「どうかしました?」
 男の目が鋭く光る。シズクの全身から冷や汗が噴き出した。理屈じゃない。勘でもない。生物としての本能がこう告げているのだ。
 殺される!
 シズクは食いしばった。なんとか足をはがし、シズクは駆け出そうとした。
「どこへ行くのかな」
 すでにシズクの肩は掴まれていた。優しく、置くように、しかし、振り払えば間違いなく殺される。有無を言わせない左手は、ゆっくりと、這うようにシズクの腰に回った。
男は、シズクの身体を抱き寄せた。
「うん。細くていい身体だね。乱暴に扱ったら壊してしまいそうだ」
 シズクの息が荒くなる。
 ナイフが腰に当たっている。じんわりとだけど、血が滲んでいるのが分かる。
 怖い。初めてそう思えた。
「大丈夫、怯えなくていいよ」
男は、シズクをぎゅっと抱きしめた。すると、ナイフが、さらに深く、シズクの肉に沈む。
「ついて来て、くれるよね?」
 拒否できるはずもなかった。
 逃げられない。
 シズクは、小さく頷いた。
「うん。いい子だ。やっぱり女の子は従順が一番だね」
 男はシズクから腕を解いた。それでも、シズクは、固まったようにその場に立ちすくみ、おずおずと、恐怖に震える自分の身体を抱きしめた。
温かい。わたしはまだ、生きている。
「ぼくはツル。よろしくね」
 シズクは、差し出された手を震えながら握った。
「じゃあ、遅れずについて来てね。シズク」
 男は、さっさと歩き出した。
 ついて行かなきゃ。あの人とは、離れたくない。
 シズクは小走りでついて行った。逃げようなんて思えない。これからの自分の運命を考える余裕すらない。
何よりも、今が怖くて仕方なかった。

         *

 シズクは、雨宮鶴に連れられ、生まれて初めて貴族街へと足を踏み入れていた。
「どうです、貴族街は」
「落ち着かないわ」
 シズクは俯いていた。
 貴族街は、平民街のような騒がしさとは縁遠く、達観したような静けさが漂っていた。
「こんなに静かなのに、落ち着かないのですか?」
「……そうね」
 シズクは、思わず身体を隠した。
貴族たちの物珍しそうな視線がシズクに突き刺さる。
 いくらシズクが貧民の中では裕福といっても、本物の裕福にはかなわない。みすぼらしいシズクの姿は、普段から価値のあるものしか目にしない貴族たちにとって、新鮮なものだった。
シズクより高価な服をきた犬が、シズクの横を通り過ぎた。聞こえてくる嘲笑は、シズクの心を羞恥で満たした。
もういや、帰りたい。
「なんだろう……」
 ツルは足を止めた。
「まさか、つまらないとか、思ってないよね?」
振り返ると、シズクは泥だらけの着物を隠すように自分を抱いていた。
「ああ、なるほど。この街では、あなたのような貧民は珍しい」
 シズクは、歯を食いしばった。
 どうして、こうもわざとらしいのかしら。
 貧民街にいた時に比べて、ツルの歩調が緩くなったのは気のせいではない。ツルは、わざとゆっくり歩いて、シズクを見世物にしている。そうして、シズクに改めて思い知らせている。
 わたし、やっぱり貧民なんだ。
 そう思うと、偉そうに貧民街を歩いていた自分が恥ずかしくなった。
シズクはぎゅっと唇を噛みしめた。
「あと少しで宮殿です。もう少しの辛抱ですよ」
「ええ、今から楽しみでしかたないわ」
 シズクは嫌みをいったつもりだった。
 ツルは嬉しそうに微笑んだ。
「宮殿は立派ですよ。きっとシズクさんにも気に入って頂けるはずです」
「わたしなんかに似合うかしら」
「素晴らしいところです」
「わたしみたいな貧民には想像もできないわ」
「鬱陶しいなぁ」
 突然、ツルは低い声で呟いた。
じわじわと、ツルの身体の奥底から殺気が滲みでてくる。シズクは焦った。ほんのちょっとだけ大きな態度に出たことを悔やんだ。
「ごめんなさい。ちょっとふざけちゃったの」
 謝っても返事はない。
ツルは恨めしそうに呟いた。
「せっかくの貴族街観光なのに、あいつらのせいで台無しじゃないか」
「『観光』?」
シズクは目を剥いた。どうやら、殺気の矛先はシズクではないようだ。
「ぼくのデートを邪魔するやつは、馬に蹴られて死ねばいいんだ」
 ツルは、首だけでシズクに振り返った。
「シズクさんも、そう思うよね?」
「え?」
ツルはナイフを抜いた。構えた。たまたま近くにいた貴族にナイフを投げつけた。ナイフは的確に貴族の脳に突き刺さった。
 雨が、血を流す。死体は、そのまま地面に倒れた。
 シズクは口を押さえた。死体は見慣れているはずなのに、吐き気がこみ上げてくる。
シズクは声を振り絞った。
「なにも、そこまでしなくても」
 シズクの足元に、赤い帯が掛かる。
 貴族街の静寂はやぶられた。貴族たちは喚きながら逃げ出す。その光景を、ツルは満足するでも後悔するでもなく、無表情で見ていた。
 そうか。ツルって、こういう人なんだ。
辺りから人がいなくなると、ようやくツルは殺気を引っ込めた。
「さぁ、観光の続きを始めましょうか」
「……はい」
 ツルが歩くと、続いてシズクも歩き出す。
「楽しいですね」
「……はい」
 息が詰まる。こんなに楽しくない散歩は生まれて初めてだ。なにがツルの機嫌を損ねるのか分からない。一秒先の命すら、保障されていない。
 シズクは黙った。心の中で自分を奮い立たせた。
 頑張れ、わたし。負けるな、わたし。
 シズクは、何度も自分に言い聞かせた。

もう、どれくらいの距離を歩いただろうか。貴族街を訪れたばかりのときは、まだ日が出ていたのに、今では辺りがすっかり暗くなっていた。同じ場所をぐるぐる周らされていたことに気付いたのは、頭にナイフを刺した死体を見つけた時だった。
ようやく貴族街の出口についた頃には、心身ともに疲れ果て、シズクは立つのがやっとになっていた。
ツルは、シズクの顔を覗き込んだ。
「おや、まさか疲れてないよね?」
「あ、当たり前でしょ」
 シズクは、力を振り絞った。
「ふむ。まだ余裕そうですね」
ツルは満足気に頷いて、シズクの肩を叩いた。
「では、宮殿に入りましょうか」
 歩きだそうとしたツルは、二、三歩、歩いてからぴたりと足をとめた。
「ぼくとの散歩、楽しかったよね?」
「ええ、最高だったわ」
「それはなにより。明日から楽しみですよ」
 ツルが入口の門に近付くと、轟音をたてながら、ひとりでに開いた。
「自動ドアなんて、すごいわ」
「見ての通り、宮殿ですから」
 シズクの目の前に広がった光景は、まさに夢の世界だった。
 飛び込んで来たのは、夜でも光り輝く黄金の宮殿だった。
「これって、どうして?」
「見事でしょう。まさしく、神の場所だ」
それから、庭に木々が生い茂っている事に気付いた。久しく見てない緑たち。その中を、威厳を形にしたような赤い鎧をまとう衛兵たちが巡回している。
シズクは、惚けたまま、立ちつくした。
「如何ですか?」
 ツルは自慢気だった。
 あまりに浮世離れした光景に、シズクは、さっきまでの疲れなどすっかり忘れてしまった。
 シズクの頬は紅潮していた。
「何と言うか、その、すごいわね」
「しばらくの間、シズクさんには、ここに住んでもらうことになると思います」
 願ってもない。と言いたいところだけど、要するにただの監禁だ。
 シズクは、ようやく自分が宮殿に連れて来られた意味を理解した。どうやら、シズクは、カスミをおびき出すための人質になったようだ。
 でも、ここに住めるのなら、悪い気はしない。
 シズクは、じっと宮殿を見上げていた。
「さ、部屋まで案内するから。こっちにおいで」
 ツルは、カスミの手を引いて、巨大な噴水の横を周って庭を抜け、黄金の装飾がなされた扉を通り、宮殿の中に入った。
 シズクは、いい加減うんざりしてきた。
「もう、何なのよ」
宮殿の中は、シズクの想像をはるかに超えていた。
 天井から巨大なシャンデリアがぶら下がり、爛々と宮殿内を照らしている。黄金の壁がその光を反射する。シズクは産まれて初めて、目の前に手をかざした。
「ま、眩しいわね……あら?」
 シズクが一歩踏み出すと、慣れない感触が足元を優しく包みこんだ。視線を落とすと、床一面に敷かれた赤い絨毯が、歩き疲れて泥だらけになった足を優しく包み込んでいた。
「ちょっと、歩きにくいかしら」
 ツルは、驚きっぱなしのシズクを笑った。
「気に入って、くれたよね?」
「ええ。落ち着かないわ」
「ここなら、シズクさんも不便なく暮らせるでしょ?」
「……そうね」
 たしかに宮殿は立派だった。しかし、自分は人質として連れて来られている。好待遇なわけがない。きっと、とんでもない部屋に連れて行かれる。
 シズクは覚悟していた。
「さぁ、シズクさんの部屋はこっちだよ」
 さて、どれくらい寒い部屋に連れて行かれるのかしら。血の滴る拷問部屋? それとも、飢えた男たち群がる兵舎かしら。
「こっち」
 ツルは階段をのぼった。
地下ではないようだ。ということは、やっぱり男たちの相手ね。屈強な兵士たち? それとも、性欲を持てあます貴族たちかしら。
階段を昇り終えると、ずらりと二方向に廊下が伸びていた。
「ずいぶん長い廊下ね」
「それから、こっち」
 ツルは、右側の廊下へ向かった。
「長いわね」
 ツルは目尻を下げた。
「そうですね。こんなに長い廊下、不便なだけですが」
「金持ちの道楽ってやつね」
 ツルは肩をすくめた。
「これは手厳しい」
 ふたりが廊下を歩いていると、メイドらしき人が前から歩いて来た。シズクは、初めて見るメイドというものに、若干の感動を覚えた。そのメイドの後ろから、どこかで見覚えのある貴族が、髭を撫でながら、こちらに向かって来る。
 まずい。シズクは顔を伏せたが、わずかに遅かった。
「おや?」
 ツルの前まで来ると、貴族は足を止めた。
「これはこれは皇太子殿。御機嫌麗しゅう。そして、その隣にいるのは、」
貴族の皺だらけの指が、シズクの顎に添えられる。
「誰かと思えば、貧民街の魔女ではないか」
 貴族の顔がいやらしく歪んだ。
その顔を忘れるわけもない。カスミの暴れたあのイベントの時、シズクが買収した貴族は、目の前にいるこの男だった。
「また、わしに会いたくなったのかね?」
 しわがれた声が、シズクの鼓膜に張り付く。
 シズクは、思わず眉間にしわを寄せた。心の中で、思いつく限りの悪態をつく。
「それとも、ようやく、宮殿にその身を捧げる気になったのかな?」
 シズクは、何も言わずに睨みつけた。
 買収した時もそうだった。
舐めまわすような視線が、シズクの身体を這いまわり、触れられてもいないのに強姦された気分になる。こいつの目は、貧民の女を性欲処理の道具としか思っていない奴の目だ。
シズクは、ぐっと身体に力を込めた。
 わたしは誰にも屈しない。どんな屈辱にだって、耐えて見せる。
「この者は客人です」
 ツルは、貴族の視線を遮るように、シズクの前に立ちはだかった。
すると、貴族は高い声で笑った。
「さすが皇太子殿。よいお買い物をなされた」
「わたしの物ではない」
 ツルが突き放すように言うと、貴族はいやらしく高い声で笑った。
「この女、なかなかの曲者でしてね。きっと皇太子殿のお手を煩わせることになるでしょう」
 貴族のしわだらけの手が、ふんわりとシズクの尻を撫でた。
 シズクの肌が一斉に起きあがる。
「どれ、経験豊富なわしが、手とり足とり手解きをしてやろうかの」
 貴族は、シズクの尻を、しぼるように握りしめた。
「ほっほ、若いのぉ」
 シズクが拳を握った。その刹那、しわがれた悲鳴とともに、シズクの尻を撫でる手がなくなった。
「い、痛い!」
 ツルが、貴族の腕をねじりあげていた。
 シズクは、目を見開いて、揉み合うふたりを眺めていた。
「は、離せぇ!」
「シズクは、わたしの物ではない」
貴族は、痛みから逃れようともがくが、逃れようとすればするほど、関節がさらに悲鳴をあげる。
「折れる、折れるぞぉ!」
「もう一度だけ言う」
ツルは、貴族の耳もとに顔を寄せた。
「シズクは、客人だ」
 さらに絞られたのか、貴族は「ぎゃあ」と喚いた。
「わ、分かった。分かったから、離してくれぇ~」
「客人に無礼は許さない」
 ツルがすごむと、貴族は、怯えた表情でなんども頷いた。
「は、はい。分かりました、分かりましたからぁ!」
 貴族の顔は、脂汗でギトギトだった。
 ツルは、押すように貴族から手を離した。
「行け」
「し、失礼いたします!」
 解放された貴族は、一心不乱、痛めつけられた子犬のように逃げて行った。
ツルは、険しい表情で、去っていく貴族のその背中を見送っている。
こいつ、わたしを守ってくれたの?
 シズクは、こっそり顔をしかめた。
 お礼とか、言った方がいいのかしら。
シズクがツルの様子を窺っていると、ツルは緊張を解き、シズクに向かってふんわりと微笑んだ。
「お怪我は?」
 あるわけない。
「ちょっとお尻を撫でられただけよ」
「なんと、お怪我があったら大変だ」
 シズクは右の眉を持ち上げた。
「じゃあ、あとで確認してもらおうかしら。隅々まで、しっかりと」
 もぐりこむように、シズクはツルの手を握った。すると、シズクの手のなかで、ツルの指がぴくりと反応する。細くて長い、乙女みたいな手だった。なんだか、汚れた自分が触ってはいけない気がして、シズクは、さっと手を離した。
「シズクさん?」
「な、なんでもないわよ」
 シズクは顔をそむけた。
 忘れてはならない。ツルは敵だ。

「さあ、ここがシズクさんの部屋です」
 ツルがドアをあけると、そこは暖炉の暖めるやわらかい部屋だった。広々として、シズクの家と同じくらいか、それ以上の広さだった。
「ここ?」
 何かの間違いじゃないの? シズクがそう言う前に、ツルは軽く笑った。
「どうやら、勘違いしていたようですね」
「勘違い?」
 ツルは頷いた。
「ぼくは、シズクを保護しに来たんだよ」
「保護って。なによ、それ」
「貴族たちは、カスミと知り合いというだけで、君を拷問にかけようとしていたからね。だから、危ないと思って、カスミと繋がりのある君を保護したってわけさ」
 どれだけ言葉を取り繕われても、シズクが人質であることには変わりない。それでも、好待遇を受けるのは、どんな時だって悪い気がしないものだ。
「どうにも、貴族というのは、綺麗なものを壊すのが好きな人たちみたいです」
「そう、なんだ」
 シズクは、ゆっくりと、部屋の中へ足を踏み入れた。
 白くて大きなベッド、大理石の浴槽、あの大きな窓から見ると、外の景色は風流な絵画になってしまう。シズクは、いますぐにでもあのベッドに飛び込みたい気分だった。
「満足、いったよね?」
 シズクは、初めてツルに歯をみせた。
「大満足よ」
「それは良かった」
 ツルはドアノブに手をかけた。
「それじゃあ、ぼくとはまた明日。すぐにご飯が運ばれてくると思うから、ゆっくり身体を休めるといいよ」
 そう言い残して、ツルは、音をたてないように扉を閉めた。
 シズクは、疼きだした身体を押さえることができなかった。
 ベッド、ロックオン。
「きゃっほー!」

     *

 シズクは、貴族街を歩いていた。
 雨は、舗装された道路に当たると、シズクの足元で跳ねた。
 ツルはなぜ、シズクという貧民街の人間を好待遇で宮殿に迎えたのだろうか。シズクは、すでにその理由に気付いていた。
「まさか、疲れてないよね?」
 突然、ツルが振り返ったので、シズクは慌てて汗を拭った。以前、汗をかいている事がばれて、一日中折檻を受けたことを身体が覚えていた。
「疲れないわよ」
「汗かいてない?」
「雨よ」
「ならいいけど」
 ツルは、また歩き始めた。
 これで一週間。シズクは、毎日のように外へ連れ出されていた。会話もなく、ツルと貴族街をぐるぐる周回するだけの強行軍。シズクの脹脛から筋肉痛が消えることはなくなり、身体のだるさはいくら休んでも重たく肩にのしかかった。
 シズクは気付いていた。ツルは、シズクを苦しめてカスミをおびき出そうとしている。
 さすがのシズクも、そろそろ限界だった。
 身体も壊れかけているが、心のダメージも大きかった。ちょっとでもシズクが疲れを見せれば、ツルは冷酷な暴力でシズクを奮い立たせる。わずか一週間で、シズクの美貌は見る影もなくなり、頬は痩せこけ、目は痣に縁どられ、殴られ過ぎた頬は赤くはれ上がっていた。
 カスミ、はやく出て来てよ。
 シズクがそう願うと、急にツルが足を止めた。
「どうしたの?」
 危うくツルの背中にぶつかりそうになるが、なんとか踏みとどまる。
 ツルは、振り返らないまま、口を開いた。
「そろそろ、貴族街にも慣れたよね?」
「あんたねぇ……これだけ同じ所をぐるぐる回っていれば、嫌でも覚えるわよ」
「だったら、今日でぼくとシズクはお別れだ」
 振り返ったツルは、シズクの頭を抱き、自分の胸の中に押し込めた。
ふたりの傘が落ちて、地面を転がる。
「ちょ、ちょっと」
 シズクは、急な抱擁に初めは抵抗していたが、ツルの身体から漂ってくる熟れた桃のような香りに、次第に落ち着いてしまった。
「シズク……」
 ツルは、シズクの湿った髪を、愛おしそうになでた。
「今日から、シズクはひとりでここを散歩しなきゃいけないんだ」
 そう言って、ツルはぎゅっとシズクを抱きしめた。
抱擁を解かれると、シズクの頬に冷たい風が吹いた。
「どういうこと?」
「サボっちゃ駄目だ。誰だって、死にたくないだろう?」
 シズクのおでこに軽く口づけたか思うと、ツルは、屋根に飛びあがり、あっという間に目の前からいなくなってしまった。
「ひとりって……」
 熱くなるおでこを両手で押さえて、シズクは茫然とした。
 ひとりで、散歩……?
 毎日。同じ道を。ひとりで。終わりもわからず。行く先もなく。貴族たちに笑われながら?
「そんな……」
 シズクはツルを探した。けれど、どこにもいない。
「どうすればいいの?」
 胸に迫って来た孤独に、シズクは初めて泣きたくなった。ひとりがこんなに寂しいものだとは知らなかった。
 シズクは折れかけの心でなんとか踏みとどまった。
 泣くものか。耐えるって、決めたんだから。
 シズクは一歩を踏み出した。
 終わらなくたっていい。このまま死んでもいい。貴族街で死ねるなら、本望だ。
 そう自分に言い聞かせながら、シズクは確実に一歩ずつ進んだ。

 ようやく散歩が終わったのは、光のなくなった頃だった。

 それからというもの、シズクの一人散歩は続いた。
 傘をさして、貴族街を優雅に歩く。
 シズクは、忠実にツルの命令をこなした。
 誰だって死にたくはない。シズクがいちばん良く知っている事だった。シズクが逃げようとすれば、ツルはきっとなんの躊躇いもなく殺しにくるだろう。
 死にたくない。
 恐怖がシズクの心を揺らした。
 傘が、シズクの手から逃れ落ちる。しかし、シズクには、屈んで傘を拾う元気も残されていなかった。
 転がっていく傘を横目に、シズクは棒になった足を必死に動かした。
 昨日から頭がぼーっとするのは、気のせいではない。きっと風邪を引いた。雨が火照った身体を濡らしてくれる。それは、ありがたい事なのだろうか。
 朦朧とする頭を持ち上げて、シズクは歩き続けた。
 弱みなんて見せられない。付け込まれたらそこまでだ。わたしが絶対に屈しないことを、ツルに思い知らせてやる。
 しかし、シズクの決意を風邪が蝕む。
 もはやまっすぐ歩くことすら叶わない。壁伝いになんとか前に進む。
「御嬢さん、大丈夫ですか?」
「触らないで」
心優しい貴族の手を跳ねのけて、シズクは前に進む。
 進まなきゃいけないんだ。
 進むんだ。
 前に。
 前――
 ついに、シズクの意識が途切れた。頬を激しく地面に打ち付けると、その痛みが意識を呼び戻す。
 立たなきゃ、殺される。
踏ん張るけれど、身体が言う事を聞いてくれない。
 雨水が服に沁みていく。高すぎる体温と混ざって温く感じる。
 高そうな靴をはいた足が、倒れたシズクの元に集まってくる。しかし、手を差し伸べてくれる人はいない。
それでいい。わたしに巻き込まれないで。
 どれくらいの時間、そのまま放置されていたのだろう。気付けば貴族街は寝静まり、散歩の終わりを告げるために現れた靴が、シズクの前に降り立った。
「シズク、何をしているんだい?」
 ツルの声は驚くほど冷ややかだった。
 見ればわかるでしょ、死にかけてんのよ。
「きみの仕事は、歩くことだよね?」
 シズクはぴくりと指を動かした。ずっと横たわっていたので、身体を起こすくらいの元気は出てきたようだ。地面に手をついて、振り絞るようにして身体を持ち上げる。やっぱり、立ち上がることはできなかったので、地面にお尻をつける。
シズクは、止まらない眩暈のなかで、恨めしそうにツルを見上げた。
ツルの瞳が、暗闇の中で怪しく目が光る。
「サボった罰を与えなきゃいけないね」
 朦朧とする頭が、ツルに対するあらゆる悪態で満ち満ちる。
「ご主人様に返事もしないなんて、躾がなってないなぁ」
 ツルはしゃがみ、シズクの髪の毛を掴んで、立ち上がらせようと上に引っ張り上げた。ぶちぶち髪の抜ける音がする。それでも、シズクは立てなかった。
「なんだい、その目は」
「た、楽しくて……」
「そうか、それは良かった」
 ツルは微笑んだ。
「簡単には殺さないよ」
 ツルは、暗闇の中にシズクを引きずって行った。ふたりの姿が見えなくなるのに、それほど時間はいらなかった。

 次の日、シズクは元気に貴族街を駆けまわっていた。昨日の熱などまるで感じさせない、無邪気な子供のように元気よく走っていた。
 その表情に余裕はない。
 付きまとう殺気は、シズクの行く先々で待ちかまえていた。
 あの屋根から、あの曲がり角から、一枚壁越しに。
 これが、ツルの言っていた罰だ。
「ほら、鬼に捕まったら負けだよ!」
 ツルの声が、何処からか降ってきた。
 鬼ごっことは名ばかり。この罰にゲームのような娯楽性はない。鬼に捕まればそこでおしまい。シズクは殺される。
 ツルは、逃げまどうシズクを追いかけた。追って、追って、あと一歩のところまで追い詰めると、わざと隙を見せて逃げさせる。時にはナイフを投げつけ、シズクの顔に恐怖を塗りつけてやる。
 ツルの背中に、ぞくぞくと喜びが湧いていた。
「可愛いなぁ。もっと恥ずかしく、もっと下品に怯えておくれよ」
 ツルはにやける顔を押さえることができなかった。
 屋根を飛び移りながら、シズクを追跡する。殺気を放つと、シズクはちらちらと視線を上に向ける。そうするとぶつかるんだよ。壁に、人に、建物に。
「ほら、危ないよ」
 シズクは、貴族にぶつかって転んだ。
 謝ってるシズクも、可愛いなぁ。
貴族は、倒れたシズクに手を差し伸べようとしていた。
「ぼくのシズクに気易く触るな」
 狙いを定めて、貴族に向かってナイフを投げつける。ナイフを頭に受けた貴族は、崩れるように、シズクの上に圧し掛かった。
シズクは、その死体を跳ねのけ、また走りだす。
顔に血が付いてるよ。
「まったく、女の子は身だしなみをきにしなくちゃ」
もっと逃げて。そっちじゃないよ。ほら。そうだよ、そっちさ。
ツルがナイフを投げると、シズクは、ナイフから逃げるように方向を変えた。そうして人気のない場所に誘われていることには気付く余裕がない。シズクは、生きるために、とにかく走った。熱のせいで頭がぼんやりする。怖い、頭のなかは『怖い』で一杯だった。
「やだ、やだよ」
シズクは涙を拭った。
泣いちゃった。我慢してたのに、ついに泣いちゃった。わたし、弱い子だ。人を踏みにじって、強くなったと思ってたのに。やっぱりわたしは弱いんだ。
涙をぬぐったシズクの手に血が付いていた。それは、さっき目の前で殺された貴族のものだったが、シズクは忘れていた。
血の涙? わたし、そんなに怯えているの?
 勘違いが、益々身体が震えさせた。
視界が濁る。
 なんでよ。なんでなのよ。もう、駄目なの? 誰か、助けてよ……。
 角を曲がると、そこは行き止まりだった。高くそびえる壁、人の力では到底越えられない高さ。
「いや! 助けて!」
 シズクは壁に手を突いて、あるはずのない逃げ道を探した。
「試合、しゅ~りょ~」
 ツルの声は興奮で裏返っていた。
 振り返ると、ツルは両手を広げ、全身で雨を浴びていた。
「もう逃げられないよ」
「来ないで!」
 壁に背をつけて、シズクは息を止めた。
 逃げ道はない。立ち向かう気力もない。
これが、今まで人を虐げてきたことに対する、罰なの?
 ツルはナイフを抜いた。
「じゃあ、殺すね」
 ツルが風を切る。その瞬間、シズクは、走馬灯を見ていた。見覚えのあるシーンが、早送りのように脳裏を通り過ぎて行く。ある場面で止まった。それは、シズクが現在の職業を選ぶきっかけとなったシーンだった。あれは、まだシズクが汚れていないとき。幼い頃は、両親に愛されていたと思う。なぜか自分だけご飯を食べる、というシーンが何度かあった。今思えば、貧民には、子供ひとりを養うだけの財力がなかっただけのことだった。おかげで、シズクの両親は、はやくにこの世を去った。弱った人間は、暴漢にとって絶好の的だった。ご飯を取ってくる、そう言って出て行った両親を、シズクは今でも待ち続けていた。お金を蓄えて。親孝行がしたいから。
 わたし、まだ死にたくない。
「ちょ~っと待った!」
 シズクの顔がにやける。絶望は消え去った。
心が晴れた。
「カスミ!」
 シズクの目の前には、あのカスミが立っていた。どこから現れたのかなんて、このさい気にしない。だって、カスミはツルと同じ。どこからでも現れる。やっぱりそうだったんだ。
 シズクは慌てて涙を拭った。
「ばか、遅いのよ」
「やあ、シズク。相変わらず元気そうだね。それに、すごくオシャレだ」
 シズクは、泥だらけになった服をカスミに見せつけるように引っ張った。
「ええ、そうね。わたしは元気よ」
「それはすごく嬉しいなぁ。もっと話したいけど、ちょっと待っててね」
 カスミは、ツルに意識を向けた。
「きみが、ツルだね」
「カスミで、間違いないよね」
ツルは、カスミの乱入にも動揺することなく、落ち着いてナイフを構えた。
カスミもナイフを左手に持ち、腰を落とす。
「そうだよ。ぼくが、きみたちの探していた、カスミだよ」
「じゃあ殺しちゃうけど、いいよね?」
 ツルが消えた。目にもとまらぬ速さでカスミの懐に飛び込んだ。カスミは、ナイフをナイフで受け止めた。鋭利な金属が重なり合い、お互いの力がぶつかり合う。
 ツルは、目線だけでカスミを見上げた。
「やるじゃん」
「きみこそ」
 ツルは一旦距離を取った。身を沈める。足を踏み切る。ツルのナイフは、虚しく空振りすることになる。カスミはナイフを振り上げた。ナイフが振り下ろされる。ツルは無理に身をよじらせ、カスミの一撃を避けた。
 ツルは、カスミから距離をとった。
「これで二発、カスミはぼくの攻撃を防いだわけだ」
 カスミはナイフをくるくる回した。
「もう、やめた方がいいと思うよ。ツルはカスミに勝てない」
 ふたりは、一定の距離を保ったまま、円を描くように動いた。
「ぼくはカスミを殺す」
「きみに勝利はありえない」
 ツルが足を止めると、カスミも足を止めた。
「何事も、やってみなきゃ分からないものさ」
 ツルは天を仰いだ。
 その気になれば、雨だって止むはず。
「ぼくは、この国の皇太子なんだからね」
「良く分からないけど、きみは偉い人なんだね」
「この国で二番目にね」
 カスミは顎を引いた。
「なら、きみは殺さないといけない」
「お互いの目的は同じみたいだね」
「うん。奇遇だ」
 カスミは、腰を落とした。右足に体重をかける。その反動を使って、一気にツルの懐に飛び込もうとしている。
ツルも構えた。身体を地面すれすれまで低く落とし、するどい眼光で敵の急所に狙いをつける。ナイフをぎらりと光らせ、呼吸のリズムを相手に合わせる。
ふたりは同時に飛び出した。
右足が跳ねる。身体が伸びる。カスミの左手と、ツルの右手が交錯する。ナイフとナイフのぶつかり合う音が響く。ふたりの力は拮抗していた。
 もう一度、ふたりは衝突した。
 雨が弾ける。
 旋毛風が吹いて、赤い帯が道に敷かれる。
「なる、ほどね」
 崩れたのはツルだった。わき腹を押さえ、片膝をつく。
「これは……勝てない」
 ツルは、消えかけの蝋燭のように弱々しくなっていた。
「ぼくの勝ちだ」
 ナイフを腰に戻し、カスミは雨雲に目をやった。
「これで、またひとつ太陽に近付いた」
「……ぼくを殺せば晴れるとでも?」
 ツルは、食いしばった。
「思わないけど、きみは殺さないといけないんだ」
 ツルは、流れ出る自分の血を見つめた。
 まさかこんな事になるなんて。勝てると思っていた。カスミを侮っていた。イカズチの言った通りだった。この男は、ぼくの手に負える相手じゃない。
 ツルは、自分の手をみつめた。
奇襲された時点で、ぼくの負けは決まっていたという訳か。
「でも、これで終わりにはしないぞ」
 ツルはよろめきながら立ちあがった。
「逃がすと思う?」
「ぼくは殺されない。もう、余裕は見せない」
 流れ出たはずの殺気が、ツルの身体から噴き出す。シズクは重くなった空気のなかで、呼吸が苦しくなるのを感じた。
「全力で、きみを恨んでやるからな」
 そう言い残して、ツルは屋根に飛び移った。
 カスミは、じっと、雨雲を見つめている。
「……カスミ」
 シズクはそっと手を伸ばした。
 カスミは微笑んだ。
「やあ、シズク。元気そうでなによりだよ」
 なに、勝手なこと言ってんのよ。
 言いたい事は一杯あったけど、なんでかしら、すごく、眠たいわ。
 シズクは、カスミの腕の中で目を閉じた。
 そのまま、夢の世界へ……。

 *

 シズクが目を覚ますと、そこは見慣れない天井だった。
 昨日まで寝泊りしていた宮殿ほど豪勢ではなく、貧民街ほど汚らしくもない。誰が見上げてもどんな感想も持てないような、有り触れすぎた天井だった。
 シズクは、ぼんやりと靄のかかる目を擦った。
「ここは……?」
 靄の中に、ぬっとカスミの顔が現れる。
「やあ、シズク。ようやくお目覚めかい?」
 シズクは、重たい瞼で瞬きをした。
「あら、カスミ。今までどこにいたのかしら」
「ぼくは、ずっとここにいたよ」
「そう……」
 シズクは、身体を起こして、家の様子を探った。
 普通のテーブルに普通の椅子。普通の食べ物と普通の水。普通の壁と普通の窓。やっぱり外は雨が降っている。そして、わたしが寝ているのは、普通のベッド。
 シズクは、頭を掻いた。
「わたし、どれくらい寝ていたの?」
「分かんない位長いよ」
「ここ、平民街?」
「正解。さすがシズクだね」
「どうして――あら?」
 ふと部屋の出口に目をやると、見覚えのある少女が、こっそり顔を半分だけだして、カスミと親しげに話すシズクの様子を窺っていた。
「あの子……」
「ん? ああ。そうか。イズミ、おいで」
 カスミは少女を手招いた。すると、少女はちょこちょこ小股でカスミに近付き、今度はカスミの陰に隠れた。どうやらシズクに警戒している。
シズクは、覗き込むように、少女に顔を寄せた。
「こんな魅力的なお姉さまに怯えるなんて、失礼な子ね」
 シズクが棘をさすと、少女はすっかり身体を隠してしまった。
 カスミは、少女の頭に手を置いた。
「イズミ、シズクは思ったほど怖い人じゃないよ」
「なによ。失礼ね」
 少女は右目だけ覗かせた。やっぱりシズクに怯えている。
いったいわたしの何がそんなに怖いのかしら。
 シズクは、やれやれと鼻から息を噴き出した。
「カスミとその子は、すっかり仲良しってわけね」
「ぼくは命の恩人だからね」
 カスミは得意げだった。
 命の恩人。シズクはカスミの言葉を反芻していた。
皇帝陛下の従者探し、側近の暴挙、飛び散る鮮血、母を求め、泣き叫ぶ少女は、カスミの腕の中にいた。
シズクは手を打った。
「あの時の!」
 シズクは、はっきりと思い出した。どうりで見覚えがあるわけだ。
「じゃあ、この家は」
「イズミの家だよ」
 カスミはイズミの頭を撫でた。
 一人暮らしには、広すぎるものね。
 シズクはベッドから起き上がり、部屋の中を歩きながら、頭の中を整理しようとした。分からないことが多すぎる。
シズクは額に手を当てた。
「カスミ、あなたは今まで何をしていたの?」
「おもに暗殺。たまに育児、かな」
「暗殺って」
 シズクは、思わず笑ってしまった。
呑気なカスミしか知らなければ、冗談にしか聞こえない。ツルを撃退したあの場にいなければ、シズクも信じなかっただろう。でも、わたしはカスミの暗殺に助けられた。
「どうして、そんなことをしてるの?」
「そうしないと、雨が止まないからさ」
「まだ、そんなこと言ってるのね」
 カスミは窓の外に目をやった。屋根から雨が滴り落ち、街ゆく人々は傘をさしてあくせく歩き回っている。人を殺せば雨が止むなんて、どこのファンタジーから引用したのだろうか。
「そんなの嘘よ」
 シズクは、カスミの夢物語を一蹴した。
「カスミ、あんた誰かに騙されてる。あなたにそんな出鱈目を吹きこんだのは誰?」
「嘘じゃないんだ。シズク、信じて欲しい」
 カスミは一歩近付いた。
 シズクは二歩下がった。
「いいえ。嘘よ。あなたは騙されてる」
「シズクは賢い。だから気付いている。まずは、ぼくの話を聞いて欲しい」
「絶対に聞かない!」
 シズクは耳を塞いだ。これ以上カスミの話を聞けば信じてしまいそうな自分が怖かった。
「ぼくは知ってるんだ」
 シズクは、カスミから顔をそむけた。
「知らない、あんたは何も分かってない!」
 カスミは、シズクの正面に回り込む。
「この雨は、ぼくたちを助けてくれるんだよ」
「意味分かんない! なにそれ、どうしてそんな事になるの!」
 カスミは、耳を塞ぐシズクの手を掴んで握りしめた。
カスミの瞳に、驚きに顔をゆがめた自分が映る。
 カスミの手は、とても温かかった。
「平民たちは、憎んでない」
「それは、伝統が」
「本当にそう思っているのかい?」
 シズクは口を噤んだ。
 カスミは握る手に力を込めた。
「ぼくたちは、伝統に縛られたかい?」
 動揺する心と同調するように、外では雨が激しくなった。
 凛と自信に満ち溢れたカスミの目を、正面から見ることができない。そらしたいのに、逃げたいのに、目をそらせないのはどうして。
「この国は、騙されている」
 シズクはわざとらしく嘲笑してみせた。
「今どき魔法なんて、ファンタジー過ぎて誰もついてこれないわ」
「違う。魔法じゃない」
「だったらなに? ファンタジー要素抜きで、どうやってこんな大きな国の人たちを操れるっていうの? 催眠術でも――」
「薬だよ」
 カスミは、あっさりとそう言い放った。まるで、運命の台本を終わりまで読んでいるかのように、なんの迷いもなく、カスミはネタばれをした。しかし、シズクはまだ結末を見ていない。
 シズクは顔をしかめた。
「くすり?」
「そうさ。いつの時代だって、薬は人を狂わせてきた」
 雨を好きにさせる薬。なんと馬鹿げたオチだろうか。
 シズクはため息をついた。
「なにそれ、それこそファンタジーの世界だわ」
 シズクは、カスミの説得を戯言と切り捨てようとしていた。
 カスミは顔を困らせた。
「ぼくにも詳しいことは分からないけど、そういう事なんだ。ぼくは、知ってるんだ」
「なによ、急に自分だけ特別になっちゃって」
シズクは、カスミの手を振り払ってそっぽを向いた。少しだけ痛かった。
「絶対に信じないから」
「シズク……」
「触らないで」
 カスミは、すがるようにシズクの肩に手を伸ばしたが、素っ気なくあしらわれてしまった。
「シズク、分かって欲しいんだ」
「知らない」
 シズクは目を瞑った。
 分かっているの。カスミは嘘を言わない。あなたがわたしを騙そうとしていないことは知っているの。でも、あなたにその事実を吹きこんだのはだれ? その人はどれだけ信用に足る人物なの? わたしなんかに懐けるカスミだから、今日はあなたを信じることができない。
 シズクは、カスミを突き放した。
「一人にして」
 カスミは、肩から力を抜いた。
 今は諦めよう。シズクは、ぼくが守ればいい。今日は駄目でも、明日信じてもらえばいいじゃないか。
 そろそろ、外が暗闇に落ちてきた。
「ここにいれば安全だから。シズクはここに隠れていて」
 そう言い残して、カスミはイズミを連れて部屋を出て行こうとした。
「待って。どこへ行くの?」
「イズミを寝かしつけて、」
 カスミは続く言葉を飲みこんだ。人には言えない。
カスミは、ずっとこんな生活を続けていた。育児と暗殺の両立。朝は子育て、夜は仕事。バランスのとれた生活だった。
カスミは、無邪気に手を振った。
「ばいばい、シズク」
 カスミを飲みこんで閉じて行く扉。
「なによ、自分だけ……」
 一瞬だけ差し伸べた手を引っ込め、シズクは胸のなかで両手を抱きしめた。
「だから、雨は嫌いなのよ……」


   第三章

 宮中は前代未聞の事件で騒然としていた。
 しばらく行方を眩ませていた皇太子が、致命傷を抱えて戻ってきたのだ。
皇太子を殺そうとするなんて、一体だれがこんな不敬を企んだのか。宮殿の兵士たちは、暗殺を企てた犯人探しのために、国中を奔走している。国中の医者が集められ、最先端の技術をもって治療が行われたが、皇太子は未だにベッドの上で目を閉じている。
「まったく、賑やかなことだ。どこかで祭りでもやっているのか」
 巨体な身体で周りを威圧しながら、男はひとりごちった。
 宮殿の中は、騒音と騒音が重なり合って、あらたに生み出される騒音で満ちていた。不安の充満する宮殿には、ひとりだけ、皇太子の身を案じていない不届き者がいた。
 その名を、大将軍イカズチといった。
 イカズチが歩くと、鎧が音を立てた。
「みな、心配しすぎなのだ」
 あの程度の傷で、人は死なない。
百戦錬磨のイカズチだからこそ、はっきりとそう確信できた。
「しかし、あの傷は面白い」
 ひとりの女中が、イカズチの横を通り過ぎる際、ちらりと目線をあげた。イカズチの顔をみた女中は恐怖で目を見開いた。
「おっと、いかんな」
 イカズチは、慌てて口を押さえた。
 ツルの傷口を見て以来、気を抜くと、つい笑顔が出てしまう。願わくば、自分が護衛している時に犯人が現れてくれないものか。考えただけでにやけてしまう。
「いかんなぁ。これから護衛だというに」
 イカズチは、無意識に刀剣の柄を握っていた。
 いったい誰がこんな不敬を。考えなくても分かる。平民は洗脳の中にいる。貴族を神使いと信じ切っているようなやつらが、皇太子に歯向かうとは考えられない。その貴族も、今さら皇太子を殺す理由が見当たらない。
 犯行は、貧民によるものだ。もう、悩むべくもなし。犯人は、あの時、あの青年だ。
 イカズチは、深く息をはいた。
「まったく、ツルは余計なことをしてくれた」
 イカズチは、廊下にずらりと飾られている歴代皇帝陛下の自画像に目をやった。
「この国は、分岐点に立っているのだよ」
 部屋の前で足を止め、身なりを正す。寝ていると言っても、部下たちの手前、皇太子の護衛で下手なことはできない。
 鼻から息を吸いこむ。扉を開けると、そこは小さなシャンデリアの照らす赤い部屋だった。
イカズチが入ってくると、所々に散らばっている護衛兵たちは同時に敬礼してみせた。イカズチも、敬礼で応える。
「みな、御苦労」
張りつめていた空気が一瞬緩む。頼りがいのある上司。イカズチの傍にあれば、たとえ負け戦であっても命を落とすことはない。兵士たちの間では、そんなおとぎ話のような伝説がふらふらと浮いていた。
イカズチは、ツルの顔を覗き込んだ。
「ご容体は」
 ベッドのそばにいた若い兵士が立ち上がり、綺麗な敬礼で始めた。
「以前、お変わりなく」
「そうか……」
 ツルは、安らかに寝息をたてていた。
 イカズチは、ベッドの脇に置いてある椅子に腰かけた。
「御苦労。各自、順番に休憩をとれ」
「はっ!」
 若い兵士を含むふたりの護衛兵が、一礼してから、部屋を出て行った。
 イカズチは改めてツルの顔を覗き込んだ。
「まったく、呑気なものだ」
 安らかな顔で眠ってらっしゃる。
 イカズチは、じっとツルの顔を見つめた。
 相も変わらず美しい御顔。皇太子さま、何卒、はやくお目覚め下さい。イカズチは心配でなりませぬ。はやく、その晴れやかなお顔で、みなを安心させてやって下さいませ。はやく、はやく、はやく、このイカズチに、その御身に何があったのかお知らせください。どのような得物で、どのような手段で、どのような痛みで、どのような絶望を抱いたのか。
そして、死ぬ間際とはどのような物か。
その美しい御顔で、このイカズチにお知らせ下さい。
「将軍、どうかしましたか?」
「む?」
 顔をあげると、八人の部下たちは、唖然とした顔でイカズチを見ていた。
 まったく、いかんな。
 イカズチは自分を戒めた。
 偉くなった今でも、興奮の上には仮面が被れんものだ。
 イカズチは、咳払いをひとつしてから、椅子に座りなおした。
「なんでもない。警戒を怠るな」
「しかし、さっきの御顔は――」
「この大将軍イカズチを犯人と疑うか」
 イカズチがすごむと、八人の兵士たちは一斉に背筋を伸ばした。
「し、失礼いたしました!」
「よい。警戒を怠るな」
 緩んでいた空気が張り詰める。
 自分は、もはや武にのみ生きるものではない。皇帝陛下に忠を誓いった身であり、己の欲望のままに生きることは許されぬ。邪念を捨て、今はただ、皇帝陛下のために。
 イカズチは、気をそらすために、窓の外を眺めた。
 すっかりと闇に包まれ、音がなければ、雨が降っていることにも気付かない。やつが侵入してくるのなら、きっと、このような闇に紛れて――
 イカズチの意識が外に向いたその刹那、微かなうめき声と共に、ツルの瞼がわずかに動きをみせた。
「皇太子さま」
 イカズチは、すかさずツルの手を握った。わずかにだが力の返りを感じる。
「おい、医者を呼べ」
「ただちに」
 兵士は慌てて部屋を飛び出した。
 イカズチは、視線をツルに戻した。
「お目覚めですか」
意識を取り戻したツルは、しっかりと目を開けていた。しかし、イカズチの問いに対する返事はない。ツルは、ぼんやりと天井を見つめていた。
「皇太子さま。イカズチでございます。お分かりになりますか」
「いか……づち……」
「ここにおります。イカズチは、ここにおりますぞ」
 ツルの黒目だけが、イカズチを映した。
「ぼくは……生きているのか……」
「わたしの手の温もりが伝わりませんか?」
 大きくて分厚いものが、ツルの冷えた指先を温めている。
 ツルは弱々しくだが微笑んだ。
「ああ……命の温度だ」
 イカズチは、ほっと肩を降ろした。
「こうして看病するのも、二度目でありますな」
 ツルはじっと天井を見上げた。なぜ、自分はイカズチを心配させてしまったのか。頭がぼうっとして、何が起こったのか覚えていない。
「イカズチ、ぼくは――っつ!」
寝がえりを打とうとすると、わき腹が痛んだ。そうして、ようやく自分の身に起こったことを思い出していた。
「……ぼくは、彼と戦ったよ」
 イカズチの手が強張る。イカズチは、腹から湧いてくる興奮を押さえながら、部下たちに命じた。
「悪いが、部屋の外で護衛を頼む」
 兵士たちは、急な命令に少し戸惑ったが、イカズチの険しい表情で事態の深刻さだけは察した。兵士たちは、ぞろぞろと部屋を後にした。
 部屋の中はふたりだけになった。暖炉の中で薪が弾けた。ざあっと降る雨が、音だけ部屋の中に入ってきた。イカズチとツルは、お互いの出方を窺った。
 口火をきったのは、イカズチだった。
「やつは、如何でしたか」
 ツルは、イカズチが止めるのも聞かず、傷の痛みに顔をしかめながら身体を持ち上げた。鋭い痛みが、さらにツルの頭を叩き起こす。
 そうだ、思い出してきたぞ。ぼくは、シズクを殺そうとして、それから、
「カスミは強かったよ」
「皇太子さまが、なにも出来ずに?」
 ツルは、イカズチを睨みつけた。
「『武』を語り合う時は、ぼくを皇太子と呼ぶな」
「そう、でしたな」
 ツルがあまりに相変わらずだったので、イカズチは、つい嬉しくなってしまった。
思えば、幼少のころからイカズチは、ツルに武芸を教えてきた。他の皇太子たちが教養として武芸を学んでいる中、ツルだけは本気だった。本気で、イカズチを越えようとしていた。しかし、ツルの前に立ちはだかるのは、圧倒的な体格差だった。力ではイカズチに勝てない。そこで、ツルはスピードを身につけた。もっと速く、もっと軽やかに。
血反吐を吐きながらの練習の結果、気付けば、ツルは、宮中一の素早さを武器に、数々の戦で戦功をあげるようになっていた。
 独学のアサシンは、執拗にイカズチを越えようとしていた。しかし、宮中一のスピードをもってしても、イカズチには勝てなかった。
 正面からの勝負は相変わらずパワーでねじふせられる。アサシンの特性を最大限に生かそうと、部屋に忍びこみ、喉元にナイフを突き立てようとするが、その直前に組み伏せられてしまう。ツルが巧妙になればなるほど、イカズチの気配察知も敏感になっていった。
 イカズチ曰く、ツルは、ここぞという時に殺気が漏れているらしい。
ふたりは、そうして絆を深めて行った。友情でもない、愛情でもない、ふたりの奇妙な関係は、いつか、階級すらも越えるようになる。武を語るうえで、ふたりを遮るものは何もなかった。
「何を笑っている」
 ツルは眉をしかめて、ますますイカズチを睨みつけていた。こんな風に黒い感情をむき出しにしたツルは、イカズチしか知らない。
「失礼。ツルの無事が嬉しくて、つい」
「無事、か……」
 ツルは、一変して、弱気な顔で手を見つめた。
「ぼくは生かされた。そうだろ?」
 ツルは自分の手を握りしめた。あの戦いを思い出すだけで、手が汗で湿った。
イカズチは口を結んだ。そうして、一拍おいた。
「気付いておりましたか」
 ツルは、そっとわき腹の傷を撫でた。包帯が血で湿っている。
「ぼくとカスミの力の差は歴然としていた。ぼくにはカスミの動きがまったく見えなかった」
「やつには、ツルを越える能力があると?」
「ぼくは敗因もなしに負けたりしない」
「ツルの手には負えない、と?」
 イカズチがそう言うと、ツルはすぐに首を振った。
「ぼくとカスミに力の差があるわけない」
「しかし、実際に負けている」
 はっきりそう言われると、これ以上ツルは何も言えなくなった。悔しそうに口を結ぶ。
「やはり、カスミは我が手で、」
「ぼくがあいつを殺す。だから、イカズチは手を出すな」
イカヅチがすべてを言い終えるより先に、ツルはイカズチに噛みついた。
イカズチは腕を組んだ。
「約束はできませんな。向こうから現れた時には、わたしも戦わないといけない」
「なんだと!」
 ツルは鋭くイカズチを睨みつけた。が、イカズチの表情を見て諦めた。
隠そうとして、隠そうとして、それでも隙間から洩れた興奮が、充血して真っ赤になった目を見開き、口を裂くように吊り上げ、イカズチから笑顔を引きだしていた。
 ツルは苦々しげな顔をうかべた。
「イカズチ、ぼくを殺すつもりかい?」
「なんと!」
 イカズチは慌てて顔を隠した。
「また、あの顔になっていましたか」
「女子供であれば、その表情だけで殺せる」
 御冗談を、イカズチが目尻を下げると、殺気に満ちた空気が和らぎ、暖炉から漏れる空気が天井にのぼった。
 薪が火花をあげる。
 イカズチは、雨音に耳を傾け、漏れた興奮を心の底にしまい込んだ。
「この顔になるのが、ツルの前で良かった」
「皇帝陛下の前であれば、きっと不敬罪で死刑だ」
「その時は、介錯人を務めて頂けますかな」
「もちろん。カスミだけでなく、イカズチを殺すのもぼくの役目だ」
 ふたりは笑い声を重ねた。
 部屋のドアがノックされる。どうやら護衛兵が医者を連れてきたようだ。
「この続きは、また後日」
 イカズチは、椅子から立ち上がった。
「どこへ行くの」
「治安の維持に、ちょっとそこまで」
「そう、気をつけて」
 ツルは寂しげに微笑んだ。
 イカズチを飲みこんだ扉は、満足したようにゆっくりと閉じる。
「バイバイ、イカズチ」

「これで五人目か」
 気だるそうなイカズチの前には、喉を切り裂かれた死体が転がっていた。数日前まで、宮殿のなかで偉そうにしていたやつだ。
「今日のやつは、ずいぶんと暴れたらしいな」
 イカズチは、しっちゃかめっちゃかになった部屋を見渡した。
殺されてからいくらか時間が経っているのだろう、血は固まっていた。
「どう見ても、プロの仕事だよなぁ」
 イカズチは、被害者の傷に触れた。ナイフをひと振り、鮮やかな一閃。
「まったく、無駄のないことだ」
 被害報告が、イカズチの元まで届いたのは数時間前。最近姿を見せない被害者の身を案じた部下が、家まで様子を見に行った際に発見された。
「仲間から恨みとか?」
 イカズチが尋ねると、通報にきた兵士は首を振った。
「いえ、身内にはとても親切でいらっしゃいました」
「身内には、ねぇ……」
 イカズチは、微動だにすることない兵士をじっと見つめた。
 どうやら、身内への躾は厳しかったようだな。
「まあ、なんでもいいけどさ」
 イカズチは、被害者の顔を覗き込んだ。
 死への恐怖が輪郭を歪ませ、だらりと舌が垂れている。
「死んでしまえば、いい奴でも悪い奴でも、誰も何もできないんだよ」
 今回の被害者は、多くの人に死を喜ばれるタイプの人間であった。つまり、人を人と思わないやつら。要するに、奴隷主義者。差別大好き。自分を高い位置に置いておかないと安心しないタイプのクズ野郎。掘れば掘るほどゴミが出てくる。死んで当然。今日死んでなければ、明日イカズチが殺していたかもしれない。
「まったく、煩わしい」
 イカズチは、被害者のおでこを軽く叩いた。
 貴族の殺人は、被害者がどれだけクズ野郎でも、そのまま死刑台に直結する重大な犯罪だ。犯人を見つけないわけにはいかない。
 イカズチは、重たい腰をあげた。
「さて、それではさっそく、現場検証でもしますか」
 イカズチは、ぐるりと部屋を見渡した。
 この部屋を見ただけでも、被害者が、どんな人間だったのか分かる。
 ムチ。股裂き。ギザギザの岩。尖った木馬。棍棒。のこぎり……やめておこう、気分が悪くなってきた。
 現場は、いわゆる拷問部屋というやつだった。一面を無機質な壁に囲まれ、見覚えのある器具から、説明書なしには使い方の分からないものまで。揃えられた拷問器具は圧巻としか言いようがない。
「どうして、こんなのに興味を持つかねぇ」
 イカズチは血の付いた拘束具を拾い上げた。すると、ひとりの若い兵士が口を開いた。
「こんな部屋があるなんて、ぞっとしますね」
「そうか?」
 若い兵士は、未知の空間に興味深々といった感じだった。
 イカズチは、指先で血の付いた拘束具を持ち、鈴を鳴らす様に振って見せた。
「おまえ、こういうのは初めてか?」
「もちろんです」
 若い兵士の顔は、恐怖で引きつっていた。
 見た目からして、まだ、兵士になって三年にも満たないだろう。その若さでイカズチ直属の部下になるということは、群を抜いて優秀であることの証明だ。おそらく、将来はイカズチの跡を継ぐべき逸材だ。しかし、今はどうしても経験が足りない。
 若い兵士は、苦笑いを浮かべた。
「自分は、こういう世界を物語でしか読んだことがありません」
「物語の住人になった気分はどうだ?」
「今なら、怒り狂った彼らの気持ちがよく分かります」
 イカズチは笑った。
 そう、その通りだ。拷問部屋なんて、ただそこにいるだけで気分が悪くならないとおかしいんだ。
 若い兵士は顔をしかめた。
「将軍は、こういった経験をお持ちで?」
「拷問から処刑まで、一通りのことはやってきたさ」
 若い兵士は言葉を失った。理想の上司そのものであったイカズチが、常識のように汚れ仕事をしていたなんて。
若者が現実を知る瞬間であった。
 綺麗なことばかりしていられない。
 若い兵士の心に、苦くて重たいものが圧し掛かった。
いずれ自分も、そういった汚れ仕事をしなければならない時が来るのだろうか。
 肩を落とす若い兵士を、イカズチは悪戯っぽく笑った。
「兵士をやっていく自信がなくなったか?」
「自分は、命令には絶対服従。兵士という肩書を背負った時に、覚悟を決めたはずでした」
「大事なことだ」
「世界を変えたかったのです」
「夢が大きいな」
「将軍、人は汚れなければ偉くなれないのでしょうか」
 若い兵士の描いた世界に、汚れた自分はいなかった。
 イカズチは、血まみれの拷問具を撫でた。宮中の拷問部屋ですら、こんなに血で汚れていない。
「拷問ってものは、確かに汚れ仕事だ。しかし、それも目的があってやるものなんだが……」
 この血の量は、異常だ。
「痛みつけるだけの拷問は、違うよなぁ」
 奴隷は秘密なんか持っていない。貴族は、奴隷の悲鳴に心を躍らし、命乞いを笑う。それだけの行為を拷問と呼ぶのであれば、俺がやってきたことは、拷問とは別のものだったのかもしれない。
 イカズチの右手で、ぐしゃりと何かがつぶれた。
「……将軍?」
 若い兵士の声に、イカズチは粗ぶる心を静めた。
 すでに死んだ人間を憎むなど、あってはならないことだ。
「ま、そういう事をさせないために、俺たち大人がしっかりしないといけないんだよな」
 イカズチが笑顔を向けると、若い兵士も引きつりながら笑った。
「安心しろ。拷問なんてしなくても、俺を越えることは簡単にできる」
「……頑張ります」
 イカズチは、すっかり萎んでしまった若い兵士の肩を力いっぱい叩いて、大声で笑った。
「この部屋は埋めておいてくれ。報告は俺がしておくから」
 若い兵士に命じると、イカズチは拷問部屋を後にした。
 部屋を出てから、イカズチは考えを巡らせた。
 拷問部屋は地下、入口はここだけ。完全な密室だったということだ。侵入経路などあるはずもない。だとしたら、犯人はいったいどこから。
 イカズチは顎に手をそえた。
まさか、身内による犯行でもあるまいし。
「皇帝陛下の護衛を、もっと増やす必要があるな」
 
   *

 それからも暗殺の被害は続いた。狙われるのは貴族ばかりだった。貴族たちは、今までの自分たちの行いを悔いて、奴隷たちを丁寧に扱うようになったのだった。おしまい。
 なんてことはまるでない。
貴族たちは、一向に犯人を捕まえようとしない宮中の軍隊に不信感を抱き始めていた。
「何のために貴様ら軍隊に高い金を払っていると思っているのだ!」
 イカズチの頬に、飛沫のような唾液が掛かった。
「貴様のような剣しか能のないやつらに居場所を与えてやっているのは、我々の命を守るためであることを忘れたか!」
「重々承知しております」
 イカズチは、腰に負担の掛からないお辞儀を身に着けていた。
「もし、このまま犯人が見つからず、我々の被害が増えるようなら、こちらもそれなりの対応をさせて頂く。よいな!」
「全力で、この国の治安を取り戻して見せます」
「口だけならなんとでも言えよう!」
 貴族たちは、毎日のように、軍隊に対する嫌みをもってイカズチを訪れた。貴族たちは、自分がいつ被害に会うのか不安であるのに加え、もともと貴族の生まれでもないのに権力をもった、イカズチという人間が大嫌いだった。
「いいな。結果も残せぬ無能集団に、この宮中の居場所はないと思え!」
「かならずや、あなた様をお守りいたします」
 イカズチが深々と頭を下げると、それに満足したのか、貴族は声の調子を和らげた。
「勘違いしないで欲しいのはね。わたしは君に期待しているからあえて厳しいことを言っているのだ。きみたちが不抜けていると、皇帝陛下の御身に何かあるのではないかと、わたしは不安なのだよ」
 まるで、期待という言葉を使えば、どんなに心無い事を言っても許される。そう信じ切っているような口ぶりだった。
「それでは、そろそろ失礼させてもらうよ」
 貴族は、すっきりとした顔で、イカズチの仕事部屋をあとにした。
イカズチは、閉まる扉に悪態をつくこともできず、温くなった紅茶で口を湿らせた。
「どうしてもこうも貴族ってやつは」
 いや、言うまい。言えば惨めになるだけだ。
事件が何の進展もないのは事実だった。犯人はわずかな証拠も残して行かない。もともとイカズチが捜査能力に優れていないというのが原因というのもあるが、それにしても死体以外はなにも残さない、鮮やかな犯行現場だった。
このままだと、本当に軍隊を解散させられかねない。
イカズチは、一抹の不安を覚えていた。
どうすればいいのか。イカズチが雨で濡れる宮殿の庭を眺めていると、ドアが四回ノックされた。
「どうぞぉ」
「失礼します」
 扉を開いた人物を確認して、イカズチは背もたれに体重を預けた。
「なんだ、きみか」
「どうか、しましたか?」
 若い兵士は目を丸めた。
「いや、なんでもない」
 大将軍イカズチが貴族の嫌みに恐れていた。なんて、言えるはずがない。
「きみを見ると安心するんだ」
「はぁ……」
 若い兵士は、不思議そうな顔をしながら、ゆっくりと扉をしめた。
「それにしても、すごい部屋ですね」
 若い兵士は、天井高く積まれた本の山々を見上げた。
「意外か?」
「ええ、正直」
 イカズチは若い兵士の素直さに笑った。
「俺だって本くらいは読むさ。剣だけでは人の上に立てないからな」
「はぁ……なるほど……」
 兵士は、あんぐりと口をあけたまま、しげしげとうず高く積まれた本を眺めていた。
 あまりじっと見られるのも、恥ずかしいものだな。
「それより、なにか用か?」
 イカズチの声にはっとして、兵士は背筋を伸ばした。
「あ、はい。そうでした。皇帝陛下がお呼びです。至急、部屋まで来てほしいと」
「皇帝陛下が?」
「はい。皇帝陛下が」
イカズチは眉をひそめた。
いったい何の用があって。まさか愚痴ではないだろう……悩んでいても仕方あるまい。
「分かった。すぐに行く」
「失礼します」
 若い兵士は、一礼して部屋を後にした。
 ひとりなったイカズチは、椅子にもたれて、大きく息を吐き出した。
「しかし、面倒だな」
 貴族のやからが良からぬことを企んでいそうだ……しかし、そうも言っていられないか。
 イカズチは、椅子から立ち上がった。マントを肩にかぶせ、埃を払う。
身なりを整えなければ、貴族たちに馬鹿にされる。皇帝陛下の前でなら尚更だ。大将軍として、部下たちの規範となる行動をとらなければならないのだが、やはり面倒だ。
イカズチは、剣に触れようとした手を引っ込めた。
 戦に行くわけでもあるまいし。
イカズチは、頬を叩いて気持ちを切り替えた。皇帝陛下に曇った顔は見せられない。両頬がじんわりとヒリヒリする。
「さて、行くか」
 宮殿のなかは、兵士の足音と報告の声で満ちていた。
「ふむ。さすがに慌ただしいな」
イカズチは、絨毯にびっしりとついた泥の足跡と自分の足を重ねた。警備に捜査、数に限りのある兵士たちは、自分の仕事の枠を超えて駆り出されている。いま戦争でも起こされたら水の都が瓦解するのは明白だ。
「だからといって、捜査の手を緩めるわけにもいかん」
せめて貴族が、自らの力で自分の身を守ってくれればいいのだが。そうすれば、兵士たちの負担も少しは軽減される。しかし、こんな時でも貴族たちは呑気だった。日がな一日チェスを楽しみ、飽きたら兵士やイカズチに嫌みを言う。明日は我が身という焦りはあるのだが、緊張感がないのだ。
「いや、そうでもないか」
 なんて事を考えていると、絨毯に足跡のない階段の前に来ていた。この先で、貴族が待ち受けていると思うと、気が重くなる。
「しかし、そうも言っていられないか」
 覚悟を決めて階段をのぼる。のぼり終わると、巨大な扉の前に立つ門番が、イカズチに向かって軽くお辞儀をした。
「ご苦労様です」
「皇帝陛下に御目通り願いたい」
「はっ、ただちに」
 ふたりはイカズチに背を向け、両側の門を開いた。
 ふむ。意外とすんなり入れたな。
厳重な警備がないのは、面倒がなくて嬉しい。だがしかし、いくら俺の顔を知っているとはいえ、しっかりと素姓の確認をしないのは皇帝陛下を守る最後の鍵としてどうなのだろう。しかし、厳格な警備にすれば、貴族たちが何と言うか。
「将軍?」
「あ。ああ、御苦労」
 イカズチは、門番の肩に手を置いて、中に入って行った。
「大将軍イカズチ、皇帝陛下の命に応じ、参上いたしました」
 玉座の間に、イカズチの声が響いた。
 薄暗い部屋の中で、ずらりと並ぶ貴族たちが、一斉にイカズチを睨みつけた。
 イカズチは、胸を張り、マントをなびかせながら歩いた。
 高すぎる天井には、鮮やかなステンドグラスが張られている。そこから降り注ぐ光だけが、皇帝陛下を照らしている。
 ひそひそと、良からぬ企みが、聞こえるようで聞こえない。
 イカズチは、耳をそばだてながら、皇帝陛下のお傍まで歩いて行く。なんてことない、貴族たちはイカズチの悪口を言っている。イカズチは平然としていた。大将軍になるずっと前から貴族たちに煙たがられていたイカズチは、嫌みには耐性ができていた。
 皇帝陛下の前まで来たところで、イカズチは、片膝をついて頭を下げた。
「およびでしょうか、皇帝陛下」
「面をあげなさい」
 イカズチはゆっくりと顔をあげた。
皇帝陛下は、金と絹でつくられた大きすぎる椅子に腰かけていた。というより、埋もれていた。
「久しぶりだな、イカズチ」
 皇帝が口を開くと、貴族たちは黙った。
 大きすぎる椅子と小さすぎる少女。皇帝の金色の髪は、流れるように腰まで伸び、ひじ掛けまで届かない小さな両手は、律儀に並んだ膝の上に乗せられていた。身につけている煌びやかな装飾品の数々は、すべてを確認していたらきりがない。
 少女が皇帝陛下。しかし、イカズチは皇帝陛下に絶対の忠誠を誓っていた。
 皇帝の鋭い視線が、イカズチに命令する。
「報告なさい」
 幼い声には、しっかりと威厳が混じっている。
 イカズチは、言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「大将軍相冥霆が御報告いたします。この国の治安はいたって良好。皇帝陛下に報告するべきことはございません」
 イカズチは嘘の報告をした。もちろん騙せるとは思っていない。すでに、貴族たちが、暗殺の事実とイカズチの不抜け様は伝えているだろう。それでも、イカズチにとって、この程度の問題は一大事でない。という姿勢は貫いていたかった。イカズチに嘘の報告をさせた原因は、そんな惨めなプライドだった。
なんてことはまるでない。
「嘘はいらぬ。ありのままを申せ」
「恐れながら」
 イカズチは、僅かに身体を前に倒した。
「宮中に不穏な空気が漂っております」
 貴族たちはざわついた。イカズチが、いかにして皇帝に弄られるか期待していた彼らにとって、イカズチの報告は寝耳に水だった。
「イカズチ、貴様!」
「黙れ」
 皇帝の一喝で、貴族たちはぴたりと黙った。
 皇帝は、イカズチに視線を戻した。
「不穏な空気とは何だ」
「裏切りの気配に相違なく」
「余の部下に、裏切り者がおると」
「間違いなく」
 堪え切れず、貴族たちが騒ぎだした。
「イ、 イカズチ殿。皇帝陛下の前で、無礼ではないか!」
「この国に裏切り者などおらん!」
焦れば焦るほど、自らを裏切り者と白状しているようなものではないか。
イカズチは心の中で笑い、表では真面目な顔をさげた。
「調査の御許可を」
「許す。好きにするがいい」
「御意のままに」
 イカズチは一礼をその場に残すと、マントを翻し、出口へと向かった。背後では側近たちがあれやこれやと皇帝陛下に言っているが、気にすることもない。
 皇帝陛下は、聡明なお方だ。
 大きな扉を開くと、正面に半円型の大きな窓が広がった。外は相変わらず雨が降っているようだ。
この一件が終われば晴れる気がする。
イカズチは、なぜかそんな気がしてならなかった。
 
 


 第四章

 カスミは、誰も後をつけていないことを確認してから、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
キッチンでは、エプロン姿のシズクがむすっとした顔で鍋をかき回していた。その後ろを、何か手伝いたいらしいイズミが、うろちょろしている。
「やあ、シズクとイズミ」
「あら、カスミ。おかえりなさい」
 シズクは、帰って来たばかりのカスミに、呆れ笑いを浮かべた。
「今日もお仕事、お疲れ様。もうすぐで夕飯が出来るから、そのびっしょり濡れた服を着替えてきて」
 カスミの足元には、小さな水たまりができていた。
「着替えはいいよ。濡れているだけさ」
「風邪ひくわよ?」
「大丈夫さ。それより、今日の夕飯は、またスープかい?」
「貧民街と違って順番待ちしなくても水が使えるのよ? ちょっとした贅沢じゃない」
「水なら沢山降ってるじゃないか」
 カスミは外を指さした。
 雨を飲み水と呼んでいるのは、カスミくらいのものだ。シズクは、カスミを追い払うように手を振った。
「着替えないなら、さっさと椅子に座ってよ」
「うん。そうさせてもらうよ」
シズクは、底の深い皿にスープを流し込んで、それをイズミに手渡した。
「熱いから、気をつけてね」
「うん。イズミに任せて」
 イズミは、すっかりシズクに懐いていた。シズクが、カスミよりずっと頼りがいのある大人であることに気付いたからだ。
 イズミは、受け取ったスープを見て、にっこり笑った。
「お姉ちゃんのスープ、イズミは大好きだよ」
「そう? ありがとう。嬉しいわ」
 イズミの笑顔を見るたびに、シズクは感心してしまう。目の前で親が殺され、悪徳金融の女とアサシンと一緒に住んでいるのに、笑顔を作れる。そのぶっとい根性は、とんでもない鈍感か、もしくは馬鹿か。
「お姉ちゃん?」
 イズミが、不安そうな顔でシズクを見上げていた。
「ああ、ごめんね。それを置いたら、これも運んでね」
「イズミ、もうお腹ぺこぺこなの」
「ぼくだって」
 カスミは、なぜかそわそわしていた。
「なに子供と張り合ってるのよ」
「だって、お腹が空いてるんだよ」
 シズクとイズミが席に着くと「いただきます」も言わずに、カスミはパンにかぶりついた。固くて冷たいパンでも、貧民街にいたときには考えられない豪華な食べ物だ。
「カスミ、もっと行儀よく食べて。イズミの教育に悪いわ」
「大丈夫さ。イズミはぼくより賢いから」
「またそんなこと言って……」
カスミの周りは、食べカスで散らかし放題になっていた。
「お姉ちゃん。イズミなら大丈夫だよ」
 イズミは、一口大にパンをちぎった。
 カスミとは対象的に、イズミは歳のわりに行儀がいい。パンをスープに浸して、柔らかくしてから食べている。こういった些細な日常風景で、平民と貧民の格差を思い知らされる。
「ほら、こうすればカスミみたいにならない」
 イズミは、パンを口に放り込んだ。
「イズミは、カスミをお手本にしないから」
 ばっさりと切り捨てられ、カスミは肩をすくめた。
 反面教師っていうのも、時には必要なのかしらね。
「それがいいわ。カスミに人は育てられないもの」
「ひどいよ、シズク」
 三人は談笑で食卓を温めた。お互いに、仕事の話はできないけれど、話すことなら沢山あった。いつか話した内容でも、笑う事ができた。三人は他人同士。でも、他人と呼ぶには近すぎる存在になっていた。
 でも、こんな日がずっと続くとは、どうしても思えなかった。


 幸せな日々が数日だけ続いたある日、いつも通りシズクが夕飯の準備をしていると、ふと背後に誰かの気配を感じた。
 シズクは鋭い動きで振り返った。
「あら、カスミ。いつのまに帰っていたの?」
 シズクは、お玉を握りしめる手から力を抜いた。
カスミは、びしょ濡れのまま椅子に腰かけていた。しかし、カスミにいつも通りの元気がない。シズクがいくら呼びかけても、間抜けな顔で空気を眺めている。
「どうしたのかな」
 手伝いの手を止め、イズミはカスミの顔を覗き込みに行った。
「カスミ、どうしたの? お腹痛いの?」
 今さらイズミに気付いたようだ。カスミは、力のない笑顔を浮かべて、イズミの小さな頭を撫でてやった。
「触らないで!」
子供扱いされたことが不満だったのか、イズミは、カスミの手を払った。カスミは、払われた手をぎゅっと握った。
「カスミ、やっぱり変だった」
 イズミが、むくれたまま、シズクに報告する。
「あら、何時も通りってことかしら」
イズミは笑った。
 スープが机の上に並び、「いただきます」を合図に手を動かし始める。しかし、カスミは手をつけようとしない。雨音を除けば、食器の奏でる音しか聞こえない。大人のだす嫌な雰囲気を察してか、普段は騒がしいイズミですら喋ろうとしない。
どんよりと、重たい空気が三人の身体を縛り付けていた。
「イズミちゃん、美味しい?」
険悪な雰囲気に耐えきれず、シズクが口を開いた。
 イズミは、口にいれたばかりのパンを慌てて飲み込み、にっこりと笑った。
「うん。毎日同じ味で美味しいよ」
「そう、それは良かったわ」
 その日の夕飯は、ふたりで薄ら盛り上がった。

 イズミを寝かしつけてから、カスミは枕に頭をしずめた。
 忘れよう。寝てしまおう。
カスミは目を閉じた。しかし、部屋の入り口に何者か気配を感じて、一気に目が覚めた。
 まさか、すでにここまで。
腰に手を添えると、ナイフがないことに気がついた。失念のあまり、居間に置いて来てしまったか。
カスミは、自分の不甲斐無さを悔いて、下唇を噛みしめた。
それでも、イズミを守るためにはやらなくてならない。
カスミは、覚悟を決めた。息を吸う。布団をはね飛ばす。飛び出す。ターゲットとの距離を一気につめる。拳を振り上げる。振り上げた拳は、そのまま、カスミの顔のそばで止まった。
「なんだ、シズクじゃないか」
 カスミは、肩の力を抜いた。部屋の入り口には、蝋燭を片手に、シズクが立っていた。
 シズクは肩を持ちあげた。
「あら、なんだとは御挨拶ね。これでも心配しているのよ」
「心配?」
「あんた、今日なにかあったんじゃない」
「何もないさ」
「本当に?」
「ほんと、
 カスミは、びくりと固まった。
 シズクは、カスミの頬に手を添えた。シズクの手は、絹のようになめらかで、氷のように冷たかった。
カスミの顔がこわばったので、シズクは笑った。
「そんな顔、初めてみるわね」
「……ぼくだって、緊張するんだ」
「あら、立派に男の子になっているのね」
 カスミは、頬に添えられた手を握りしめた。もっと強く握れば壊れてしまいそうな、優しい手だった。
 シズクは目を細めた。
「カスミ、嘘をつかないで」
「ぼくがシズクに嘘なんて」
「あなたは、嘘が下手糞よ」
 見抜かれてしまうのなら、シズクにこれ以上の隠し事はできない。しかし、カスミは迷っていた。今日の出来事をありのまま話せば、きっとシズクは不安になる。そして、その不安はイズミにも伝染する。そうなれば、カスミのやってきたことが、そのまま、自分たちに振りかかることになってしまう。不安を煽ることがどれだけ効果的なのか、その効果を知らないカスミではなかった。
でも、疑い始めたシズクには隠せないな。
 カスミはついに観念した。
「今日、ターゲットが死んでいた」
 カスミの手の中で、細い手がわずかに反応した。
「それは、カスミがする前に?」
 カスミは口を固く結んで頷いた。
 ターゲットの家に忍びこんだカスミの目には、一族もろとも大虐殺、というあまりに悲惨な光景がとびこんできた。
「ぼくの他に、アサシンがいる」
「別のアサシン……」
 シズクは、カスミの言葉を繰り返した。
 シズクが思い当たるだけで、もう一人、カスミよりずっと残忍なアサシンがいる。しかし、カスミのターゲットは、あくまで貴族。皇太子であるツルが、カスミと同じターゲットを狙うとは思えない。
 シズクの心が、僅かにざわついた。こんなことなら聞かなければよかったと、後悔しているのかもしれない。
 それでも、シズクは平然としているよう努めた。
「どうするの?」
「分からないよ。ぼくは、暗殺しか知らない」
「そいつは、あなたにとって敵なの?」
 分からない。カスミは首を振った。
「あいつの目的が分からない」
「だったら――」
「分からないから不安なんだ!」
 突然、カスミが声を張り上げた。
 シズクは、イズミが起きてないか確認してから、カスミに視線を戻した。
「そいつは、カスミより強いの?」
 カスミは首を振った。
「きっと弱い」
「だったら、何も心配いらないじゃない」
 しかし、カスミは首を振った。
「ぼくにとって心配なのは、シズクとイズミだ。相手がぼくと同じアサシンなら、きみたちを守ることは、とても大変だ」
 アサシンの恐ろしさはアサシンが一番良く分かっている。鈍感なカスミであるからこそ、事態が深刻であることは、痛いほどに理解できた。
 カスミは、潤んだ瞳にシズクを映した。
「きみたちが、危ない」
 シズクの心臓が重たく脈を打った。
 アサシンに狙われている。そう思うと安心して夜も眠れない。昼間だって、どこかでアサシンの目はシズクを狙っているかもしれない。
すべてを疑い、陰に怯える生活。考えただけでもぞっとする。
 シズクは、荒れる心を落ち着けるように、こう言った。
「でも、そいつは貴族を狙っているんでしょ」
 カスミも、一時はその可能性に縋っていた。
カスミは首を振った。
「分からない。ぼくにも敵が見えないから」
 貴族だけが狙いかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 カスミは、すっかり意気消沈してしまった。
「あんた、アサシンなんでしょ? それなのに、さっきから、分からないばかりじゃない」
「だって、分からないんだよ」
「もういいわ」
 やっぱりカスミは頼りにならない。分かっていたことだけれど、いざ目の前にすると腹が立ってしまうものだ。
文句は腹の底に飲み込んで、シズクは身体に力をこめた。
「イズミだけはわたしが守る。だから安心して」
いざという時に頼れるのは、やっぱり自分なんだ。
 カスミは、イズミの手を強く握り、顔をぐっと近付けた。
「ぼくはシズクにも死んで欲しくない」
「勝手な事言わないで」
 シズクは、カスミの身体をそっと押し返して、握られていた手も解いた。
「気持ちは嬉しい。でも、もう我儘を言っていられる状況じゃないの」
「命に我儘じゃないよ」
「子供も守れないのに、どうしてお金を稼げるのよ」
カスミは言葉を詰まらせた。
雨が屋根を打つ。雨音に紛れて、アサシンが暗躍しているかもしれない。不安が不安に連鎖して、もうまともに寝ることもできない。
 カスミは、寝息をたてるイズミに顔を向けて、ほっと息をついた。
「もう、寝ようか」
「そうね。また明日悩みましょう」
「そうだね。また明日」
 カスミは部屋を出て行こうとした。
「どこへ行くの?」
 シズクが引き留めると、カスミは腰を数回叩いた。
「ナイフをとってくる。今日からシズクも一緒の部屋で寝よう」カスミは、シズクが何か言う前に言葉を繋げた。「ぼくが起きているから、シズクは寝ていて」
「でも――」
 イズミが起きちゃう。カスミは、人差し指を口に当てた。
「ぼくはアサシン。仕事は闇に紛れてやるものさ」
 カスミが出て行って、扉がしまると、そこは全くの暗闇だった。
「カスミは、こういう所で仕事をしているのね」
シズクは、自分の身体を抱きしめた。不安で心が締め付けられる。この部屋にはだれもいないはずなのに、誰かがいる気がしてならない。
「そんなはず、ないじゃない」
 シズクは、自分に言い聞かせるように呟いた。
ツルと出会ってから、わたしはおかしくなってしまった。
シズクは、冷たくなったカスミのベッドにもぐりこんだ。目を瞑っても、不安はもっと近くにある。ようやく眠りに落ちる頃には、朝はそこまで来ていた。

 *

「おかしい」
 イズミはひとりで険しい顔をしていた。
「絶対に何か隠してる」
カスミたちの異変を察知したのは、ある日の晩のことだった。
イズミが安らかに寝ていると、いきなり寝ぼけたシズクに蹴飛ばされた。もちろん、悪気があってそうしたのではない、とにかく殺人的に寝相が悪いのだ。
ベッドから蹴り落とされ、イズミは床を転がった。初めは、何が起きたのか分からなかったが、じんじん痛むわき腹が、自分の身に起こった事件を教えてくれた。
イズミは身体を縮めた。
「うぅ、ひどいよぉ……」
「ふふ、編み出したわ、必殺ダイナマイトシズクキック」
 シズクは、幸せそうに笑っていた。
身の危険を感じたイズミは、わき腹をさすりながら立ち上がった。床では、カスミがすやすやと寝ている。イズミは、その安らかな寝顔をみて、無性に苛立った。そもそも、イズミとシズクが一緒に寝ることになったのは、カスミが提案したせいだ。
 イズミは、むすっと頬を膨らませた。足を振り上げる。
「くらえ、イズミクラッシュ!」
「ぎゃあ!」
 イズミは、カスミの股間を踏み潰した。そして、逃げるように部屋をあとにする。イズミのいなくなった部屋では、どたばたカスミが暴れ回っているようだ。
「ふん。いい気味よ」
 部屋を振り返って呟く。
 復讐を終えて、イズミはすっかり目が覚めてしまった。さすがに、部屋に戻るわけにもいかないので、とりあえず一階に下りた。しかし、暗闇の中ではする事がない。
 イズミは、暗闇の中で目をこらした。なにか、暇をつぶせるものはないだろうか。もちろん平民の家にそんなものがあるわけもない。イズミは諦めて肩を落とした。
「……お水でも、飲もうかな」
「駄目だよ」
 暗闇の中から、白い顔がぬっと現れた。イズミは、毛を逆立てて飛び跳ねた。
「ぎゃあ!」
「落ち着いて、ぼくだよ」
 目を凝らすと、暗闇のなかに浮かぶ顔はカスミとよく似ていた。
「カスミ?」
「井戸水は飲んじゃいけない」
「なんでカスミにそんなこと言われないといけないのさ」
イズミは歯を剥いて威嚇した。しかし、そんなことなど意に止めず、カスミは別の容器に溜めてあった水を汲んで、一口ふくんでからイズミに手渡した。
「明日からは、ここから飲んでよ」
 イズミは手渡された水をしげしげと観察した。
「なに、この水」
「別に、ただの水さ」
 それ以上のことは、イズミがいくら尋ねても教えてくれなかった。きっと、いじわるしているんだ。イズミが、カスミの大事な所に必殺技を決めたから。
 その時、イズミはその程度にしか思わなかった。
次の日、イズミはチクった。シズクなら、イズミの味方してくれるものと思っていた。ところが、シズクは、カスミの言う事が正しいと言ったきり、逃げるように仕事へ出てしまった。
「おかしい」
 イズミは顔をしかめていた。
「カスミだけならともかく、お姉ちゃんまで」
絶対に何かある。イズミは、そう踏んでいた。
「ふたりが隠し事なんて、絶対におかしいもん」
 原因はなんだろうか。
 考え出すと、子供の無限の想像力は、どこまでも広がった。秘密、それは隠し事。隠し事、それは、ばれたら不味い事。ばれたら不味い事、それは、やましい事。そうして導きだされた答えは、カスミがとんでもなく悪い事をしてしまったのではないか、という結論だった。
「うん、カスミならやりかねない」
 イズミは腕を組んで頷いた。
 問題は何をしたのか、だ。
イズミは、カスミのやりそうな悪い事を考えた。最初に思い浮かんできたのは、自分が助けられたあの事件だった。カスミは、大衆の面前で貴族に恥を掻かせてしまった
イズミは目を閉じた。
まだ、あの一件が?
イズミは親から嫌というほど教えられていた。貴族は神の使いであるということを。
その貴族に、カスミは盾突いた。死罪を免れないことくらい、子供でも分かる。でも、なんで今になって。という感じもするけど、ずっと逃げ続けていたカスミが、ついに尻尾を掴まれてしまった。ということなら納得がいく。
イズミは鼻の頭を掻いた。
「もしかしてイズミ、すごく悪い事しちゃったのかな?」
 カスミは、命の恩人であり、憎むべき敵ではない。
「いや、でも、違うかも」
あの事件と、井戸水を飲んじゃいけないのは関係なさそう。
イズミは、カスミがそこから汲んでくれた容器を眺めた。
あの水には、なにか特別な秘密があるのかも。
イズミは、腕を組んで目を閉じた。
またしても、子供の無限の想像力が働き始める。飲んだ方がいい水、それは、特別な水。特別な水、それは、伝説の水。伝説の水、それは、物語に出て来そうだなぁ。やがて導きだされた答えは、あの水を飲み続けていれば不思議な能力に目覚める。という、いかにも子供らしい発想だった。
イズミは確信していた。
そうだ。きっとそうに違いない。
イズミは、まだまだ夢見る少女だった。
じゃあ、飲み続けよう。明日も、明後日も、カスミたちの言う事を信じてみようかな。
イズミは目を開けて、窓の外に広がる、どんよりした空を眺めた。子供の目には、灰色の雨雲すらも美しく輝いて見えた。
「わたしが、悪い奴をみんなやっつけちゃうんだから」
 カスミたちの意図しないところで、イズミが勝手に都合の良い解釈をしてくれたのは、天がカスミたちに味方したとしか言いようがなかった。

    *

「やっぱりおかしい」
 雷が、カスミの顔を一瞬だけ照らした。
 カスミは、またしても、姿の見えないアサシンに先を越されたのだ。
 なぜこんなことを、どうしてこんなことに。
 カスミは、犯人の証拠が残っていないか、あたりを隈なく調べ始めた。
 まずは、被害者の様子から。
カスミのターゲットだった貴族は、ワイングラスを片手に、机に突っ伏して死んでいる。争った形成もないし、どうやら外傷もない。きっと毒殺だ。
「ぼくには、できない殺し方だ」
 カスミは、被害者の目を閉じさせた。
自らの手を汚さない巧妙な手口、背後から喉を切り裂くことしかできないカスミは、しげしげと、死体の様子を観察した。
 きっと苦しむ間もなく死んだのだろう。安らかな顔で、まるで眠っているようだ。毒殺が、自分の手を汚すことなく、被害者を苦しめることもない殺し方だとしたら、アサシンにとっては理想の殺し方なのかもしれない。
 カスミは、ぐるりと部屋を見渡した。
「でも、こんなのは違う」
こうなるのなら、毒殺は人として最悪の手段だ。
テーブルには、ずらりと死体が並んでいた。
 きっと食事中だったのだろう。一家団欒、幸せそうな風景だ。まさか目の前に並んだ料理が地獄への切符になっていたとは思いもしなかっただろう。
「もっと早く、ぼくが来ていれば」
 カスミは、悔しさに顔を歪ませた。
 そうは言っても、カスミが先に仕事をこなしたところで、ターゲットの貴族が殺されることには変わりない。家の主が死に、残された家族はどうなるだろうか。立場を失い、生きるより辛い人生が待ち受けていたかもしれない。
 アサシンに正義はない。カスミは、未だそのことに気付いていなかった。
「家族が一緒に死ねたら、それは幸せなのかな」
ふと、カスミは考えてみた。しかし、家族をもってから間もないカスミには、家族を失う悲しみを詳細に考えることができなかった。
「そんなことない。命は、血なんかで縛られたりしない」
 生きてこその命だ。
 きっとそうさ。カスミは、自分に言い聞かせた。気を取り直して、生存者の捜索を始めた。しかし、人の気配はどこにもない。
「こんなの、アサシンの仕事じゃない」
 必要以上に殺さない。最小限の被害で最大の幸福を得る。それがアサシン。カスミはそうして殺しを正当化してきた。そんな自分の信念が、目の前で崩されている。
「どうして、こんなことに」
 これが、均等に命を扱った結果だとでもいうのだろうか。よほど恨みでもない限り、こんなことはできない。
「やつは、いったい……」
 カスミは考えを巡らせた。しかし、いくら考えても自分を納得させることはできなかった。やがて、カスミは考えることを諦めた。
「長居はできない」
結果オーライと諦めるしかない。
脱出しようと、カスミが屋根にある侵入口を見上げた瞬間だった。玄関の方でなにかを破壊するような轟音。続いて、大勢の足音がこちらに向かって近付いて来た。
 いきなりの事態に、カスミの足は竦んで動かなくなった。
 逃げなきゃ。逃げなきゃ。
 足音はすぐそこまで来ていた。
 ドアが蹴破られた。
「いたか!」
「いません!」
豪勢な鎧をまとった大きな男を先頭に、大勢の兵士が、死体の並ぶ部屋に侵入して来た。
 死体などかまわず、しっちゃかめっちゃかに家のものをひっくり返す兵士たち。カスミは間一髪のところで天井の脱出口に逃げ伸びていた。
「これは……どういうこと?」
 カスミは、天井から様子を探った。焦ったせいで息が乱れている。
「くそ、逃げられたか」
 巨大な男は、悔しそうに、掌に拳をぶつけた。その姿からは、わずかな痕跡すらも見逃さない執念深さを感じる。
 カスミは、巨大な男の姿を確認しようと目を凝らした。暗闇のなか、部下らしき人に檄を飛ばすその姿から察するに、きっと偉い人なのだろう。もしかしたら、次のターゲットになり得るかもしれない。
「あと一歩、遅かったか」
 巨大な男は、悔しそうに地面を踏みつけた。
「生存者は」
「いません!」
「くそ、どこまでも残忍なやつめ」
 カスミは確信した。
これは罠だった。毒殺アサシンは、仕事を終えた後、わざわざ警備隊へ通報して、カスミに罪をなすりつけようとしていた。つまり、毒殺アサシンは、カスミに対して明確な敵意を持っているということだ。
「なんでもいい、やつの痕跡を探せ」
 巨大な男が怒鳴ると、兵士たちの動きが機敏になった。
 長居は無用。屋根裏を調べられる前に退散しよう。カスミは、音をたてないよう慎重に、その場を離れた。

    *

「ほら、泣かないの。男の子でしょ?」
 シズクから伸びる赤い帯。
「ゆ、許してくれ」
「どうして泣いてるの?」
 雨の中、貧民街、人目のつかない路地裏で、シズクは返済の滞った巨大な男を血祭りにあげていた。必死に命乞いしてくるけど、そんなもの意味ない。一児の母は強いのだ。お腹をすかせた子供のためなら、血でも泥でも汚名でも、いろんなものを被ってやる。
「なんでもいいからお金出しなさいよ」
 シズクは、襟を掴んで巨大な男を持ち上げた。この怪力も、母の偉大な力のひとつだ。
「か、金がないんだ。頼む、命だけは――」
「お金を返せないのは、自分の責任じゃなくて?」
 この巨大な男が、返済金を集めるために必死で働いてくれたのは、一目見れば分かる。豆だらけの手、目の下にはくまが引いてある。きっと、死にたくないから沢山稼いでくれたのだろう。
「命だけは……」
「命だけって、お金も返せない命にどれだけの価値があるのよ」
 シズクは、命乞いをあざ笑った。シズクは、何時も通りのつもりだった。しかし、あざ笑ったシズクの心は、なぜか痛んだ。はっとして胸を押さえる。
「お願いします……命だけは……」
 男は、涙を流している。
 もしかして、わたし、こいつに同情しているの?
 男は、顔をぐしゃぐしゃにして、何度も命乞いを繰り返している。
 華奢な美女に脅されて、命乞いする男。こんな情けない奴にも、愛してくれた親がいただろう。生まれてくれてありがとう、そんなことを言われたかもしれない。わたしにその尊い命を奪う権利、あるのかしら。
 ふとした自問自答に答えはなく、シズクがふっと笑うと、自然と肩から力も抜けた。
 わたしも、甘くなったものね。イズミのせいかしら。
 シズクは、男を掴んでいた手を解いた。
男は地面に膝をついて、むせび泣いた。
「頼む、もう少しだけまってくれ……必ず、必ず借金は返すから」
 嗚咽交じりに懇願してくる。よっぽど死にたくないのには、それなりの訳があるものだ。
 シズクは膝をまげ、男に目線を合わせた。
「もう待てないわ」
「そんな!」
 男の潤んだ瞳、優しそうな女の人が映った。この人とは、初対面ね。
 シズクは微笑んだ。
「全財産渡せば、命くらいは助けてあげてもいいわよ」
 男の目が、ぱちくりした。耳を疑っているのだ。噂に聞いていたシズクは、返済できなければ命を奪う冷徹な女だった。それがいま、どうしたことか命を助けると言っている。
男は事態が飲み込めず、じっとシズクを見つめた。
「なによ、文句あるの?」
「ない、ないよ! ありがとう、ありがとう!」
 男は持っているだけの金貨をシズクに手渡した。なんと嬉しそうに財産を投げだすことだろう。平凡な家庭だったら、一ヶ月は豪勢に過ごせるだけの量はあるのに。こんなにくれて、感謝までされる。
 まったく、いい商売だ。
 シズクは、金貨をポケットにしまった。
「はい、確かに。もう行っていいわよ」
「ああ、助かった。神様!」
 大袈裟ねえ、そう笑ったシズクの顔に、鮮血が飛ぶ。
 一瞬の出来事だった。男が天を仰いだ瞬間、口からナイフが飛び出してきた。男は噴き出す様に血を湧かしている。
「あ、あ、だま、だま、した、な」
男は、すがる様に手を差し出し、どさりと地面に倒れた。
「気安く、ぼくのシズクに触るな」
 男の背後には、ツルが立っていた。
 相変わらず綺麗な顔で、こんな状況でなければ見惚れていただろう。白くて長い腕に、夥しい量の血をつけて。
「やあ、シズク」
 ツルは、血のついた手をあげた。
「あ、あんた。どうして……」
 シズクは、顔に血をつけたまま、目を見開いた。この最悪の状況で、自分は何をするべきなのか。
「何をいまさら。ぼくは、シズクの傍にずっといたじゃないか」
ツルに、いつもの残忍な殺気はなかった。
それなのに、どうして足が竦むの? 逃げなきゃいけないのに、なんで。
「元気そうで嬉しいよ」
 ツルが一歩前にでると、シズクはやっと一歩後退できた。
「逃げないよね?」
 シズクは、ツルの言葉に縛られた。逃げたいのに、逃げたくない。
「どうして泣いてるんだい?」
 シズクの頬を雫が伝った。それが涙であると分かったのは、雨と違って温かみがあったからだ。
「……雨よ」
 震える声で、なんとか振り絞ってやった。泣いていることを認めたら、すべてが崩れてしまいそうな気がした。
 わたしは命乞いをしない。強い女だから。
 ツルは目を細めた。
「いいや、涙だ」
 ツルの血のついた手が伸びて、シズクの雫を掬った。シズクの頬には、涙の代わりに血の跡がついた。
「さ、触らないで」
「そう言うなよ。傷つくじゃないか」
ツルは、涙を拭った指をまじまじと眺め、やがて口の中にいれた。ツルは、シズクの涙を味わうよう人差し指をしゃぶった。その指を口から出した時には、そこだけ涙も血も綺麗になくなっていた。
「やっぱり涙だ」
「あんた、おかしい。狂ってる」
 シズクは、ツルから自分の身を守るように、自分の身体を抱きしめた。
「そうだよ。ぼくはクレイジーだ」
 ツルが近付いてくる。シズクは、震える身体を抱くことしかできなかった。ツルの顔が、鼻と鼻が触れる距離まで近づいて来る。
「でも、きみを愛している」
「なっ!」
 シズクは、頭痛を覚えた。
 頭が真っ白になるって、こういうことなんだ。すべてが、予想を超えたところから飛んで来る。情報が情報の上に重なって、意味を成さない言葉が頭の中で飛び回っている。シズクは叫びたい気分だった。
「この愛を受け取ってくれるかい?」
 ツルの顔は、すぐそこにあった。
 言葉は出て来ない。しかし、無意識に右手がツルを拒絶していた。
右手がツルの頬を打つ。
乾いた音があたりに響いたその時だけ、雨が止んだ気がした。
「触らないで!」
 シズクは叫んだ。
 頬を打たれ、ツルは三歩後ろに下がった。何が起こったのか分からなかった。突然死角から目の覚めるような痛みが飛んできた。
「これは、どういうことだ?」
ツルは、じんわりと痛みが広がっていく頬に触れた。右手には、血がべっとりついている。少しぎょっとしたけれど、良く考えれば、これはぼくの血ではない。
「シズク、痛いよ」
 悲しげな顔だった。人殺しとは思えない、どこまでもピュアな顔。
「わたしは、あなたが嫌い」
 改めて言葉にして、シズクの心は震えた。恐怖や、勇気や、シズクはどうすればいいのか分からなくなっていた。その一方で、嫌いと言われたツルは、心に、ナイフで切りつけられたような深いダメージを受けていた。
「シズク」
 ツルは、シズクの手を握ろうとした。けれど、シズクは素早く手を引いた。
「シズク、だよね?」
 ツルは、悲しげな顔だった。
「ぼくが、嫌いなの?」
「さっきも言ったでしょ」
 ツルはシズクが好き。それは、シズクを混乱させるためでも、他になにか効果を狙ったわけでもなく、ただ本当に、純粋な気持ちだった。人を好きになるのが初めてだったツルは、その表現の仕方が少し特殊だっただけだった。
それだけで、あっさりと、拒絶されてしまった。
 ツルの心に、ぽっかりと穴があいた。まだ、現実を受け入れられない。
「ぼく、シズクが好きなんだ」
「わたしは、あなたが嫌いよ」
 雨がふたりを包み込む。血を洗い流して、シズクの顔も、ツルの右手も、元通り綺麗になった。
「ぼくは、きみを守りたい」
 ツルは一歩踏み出した。
「人殺しに守られるほど落ちぶれてない。自分の身は自分で守るわ」
「無理だ。シズクは弱い」
「わたしは、ひとりじゃない」
 カスミがいる。イズミがいる。ふたりの顔を思い浮かべると、ようやく勇気が湧いて来た。そうよ、わたしはひとりじゃないの。
「そうじゃない」
ツルは両手を広げた。
「シズクは、ひとりになるんだ」
「どういうことよ」
 顔をしかめたシズクに、ツルはもう一歩踏み出した。
「カスミは殺される」
 シズクは限界を超えた。
「馬鹿言わないで!」
 溜めこんでいた感情を噴火させ、雨音を掻き消さんばかりの声で叫んだ。湧いてくる不安を振り払うためでもあった。とにかくもう、これ以上、ツルと喋りたくなかった。
「カスミが死ぬなんてあり得ない。死ぬのはあんたよ!」
「そうだ。ぼくも死ぬ」
 ツルは、シズクに触れようと手を伸ばした。しかし、シズクはその手を振り払った。
「触らないで!」
「シズク……」
 ツルは弾かれた手を握った。シズクを死なせたくない、その一心だった。
「シズク、落ち着いて聞いて欲しい」
「聞きたくない!」
 シズクは、目を閉じて、耳を塞いだ。
「だったら、ここでわたしを殺せばいいじゃない。もういいから、殺してよ!」
「殺せる訳、ないじゃないか」
「殺して!」
「ぼくは、シズクが好きなんだ」
「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい!」
 取り乱したシズクに、これ以上ツルの言葉は届かなかった。
「シズク……」
ツルは諦めた。もう、ぼくにはどうすることもできない。自分の無力を呪った。自分の手で救えないのなら、手段はひとつじゃないか。
「今日は帰る。また、いつか」
 別れの言葉も届かない。シズクは怯え竦んで、震えたまま。
誰がこうした。ぼくがこうしてしまった。ごめん。心でそう呟いて、ツルは飛び立った。屋根を飛び回り、貴族街へと戻って行った。
 誰もいなくなったことに、シズクが気付くのには、もうしばらくの時間が必要だった。


 カスミが家に帰ると、すでに夕食が用意されていた。放心状態のシズクと、なぜか機嫌のいいイズミが、湯気立つスープの前でカスミを待っていた。
「ただいま」
 カスミがそう言うと、ふたりはカスミに視線を向けた。
「おかえり」
 声が重なる。
 今日は色々な事がありました。
 さて、誰から話し始めようか。

イカズチはひとり、貧民街を歩いていた。
捜査ではない。今日の目的は、気分転換だ。あまり煮詰り過ぎるのも良くないだろうという独断と偏見で、宮殿をこっそり抜け出してきたのだ。
こっそり、まるでアサシンだな。
イカズチは、どんよりとした空を見上げた。
「これが貧民街か」
 巨大な神輿の上でなく、地べたに降りて同じ目線で見る貧民街は、それとはまったく違って見えた。並び立つあばら家、命を取り合わんばかりのケンカ、盗み、強姦、物乞い。あげればきりないほどの闇で覆われている。本当にこんなところで人が暮らしているのかと、疑いたくなる。
 イカズチの横を、みすぼらしい姿の少年が通り過ぎた。
「しかし、傘はあるのだな」
 イカズチは、ずぶ濡れだった。
できるだけ貧民街に溶け込めるよう、あえて傘を持って来なかったのだが、失敗だったな。
貧民たちは、ずぶ濡れの巨漢に、好奇の目を向けていた。
「まったく、すっかり浮いてしまったな」
 傘を取りに引き返そうかイカズチが迷っていると、ふんわりと、足元を何かが通り過ぎた。
「なんだぁ!」
イカズチが驚き足をあげた。すると、小さなふわふわも驚き、一目散に駆け出した。
小さな身体に、ふわふわの尻尾。
「なんだ、ネコか」
 さすがのイカズチでも、殺気もなにも出さない動物の存在には、気付けなかった。
「しかし、野生の動物は久しぶりに見た」
 宮殿にいるのは、人間に慣れ過ぎたペットばかりだった。
 走っていくネコを目で追っていると、ひとりの青年の足元へと行きついた。青年は、ネコに気付くと、駆け寄ってきたびしょ濡れのネコを、撫でまわした。
 イカズチは首を傾けた。
 なぜ、彼は傘をさしていないのだろうか。
 青年に興味を持ったイカズチは、声をかけた。
「もし、そこのきみよ」
「はい?」
 ネコを撫でる手を止め、青年はイカズチを見上げた。すっきりとした顔立ちだが、どうにも頼りないやつだ。
「なんでしょうか」
「傘は持ってないのかい?」
「かさ?」
 青年は、まるで初めてその単語を聞いたかのような反応だった。
「きみは傘を知らないのかい?」
「かさは、知りませんねぇ」
 イカズチは、ちょうど横を通り過ぎた、傘をさす娼婦を指さした。
「ほら、彼女が持ってる、あれだぞ?」
 娼婦は、強姦を警戒しているのか、ちらりとこちらに目線をやった。
「ああ、あれか」
 青年は、にっこりと娼婦に笑いかけた。しかし、彼女は不快そうな顔をするだけで、そっぽを向いてしまった。
 それを見て、イカズチは数回頷いた。
やはり、雨なのに傘をささないなんて、頭おかしいよな。
「ぼくは、傘を持ってません」
「ああ、そうか。みんな持っているようだが、きみには必要ないみたいだね」
「はい。ぼくは雨が好きですから」
 雨が好き、だと?
 青年の笑顔は、嘘をついているようには見えなかった。しかし、本音でそう言っているとは思えない。
イカズチは、さらに青年の中に踏み込んでみることにした。
「どうして、雨が好きなんだい?」
 イカズチの質問に対して、青年は顔を空に向けて答えた。雨水を口に含み、ある程度溜まったところで、それを飲みこむ。
 なるほど、雨が好きというのは、食べ物として、ということか。
「雨は、美味いのか?」
「何言ってるんですか?」
青年は少しむっとした。
「美味しい筈ないじゃないですか。雨水ですよ?」
 ふむ。青年の言う通りだ。しかし、なぜだろう。納得いかない。
「だったら、どうして雨水を?」
「井戸水が不味いからですよ」
 青年は、はっきりとそう言った。
 なるほど、そういうことか。そういう仕組か。ようやく俺にも分かってきたぞ。
イカズチは、にやける口を押さえた。
しかし、そうなるとやっかいだな。
「井戸水も、ただの水だろ?」
 青年は、何度も首を振った。
「違います。まったく違います」
「みんなだって、普通に飲んでるじゃないか」
「みんな頭がおかしいんです」
 イカズチは思わず吹き出してしまった。貧民たちも、この青年にだけは頭がおかしいと言われたくないだろうに。
「なにがおかしいんです?」
 むっとする青年。
「いや、すまない。つい、ちょっとな」
 一向に笑いの収まらないイカズチに、青年は下唇を突き出し、不機嫌になった。
 青年は立ち上がった。
「ぼく、帰ります」
「ちょっと待ってくれ」
 笑いながら、イカズチは、青年の腕を掴んだ。
「もうひとつだけ聞かせて欲しい」
「……なんですか?」
 青年は、じとっとした目でイカズチを見ていた。
「どうして、みんなは傘をさしているのだと思う?」
「決まってるじゃないですか」
 青年の綺麗な瞳に、イカズチの姿が映った。
「濡れたくないからですよ」
 そう、その通りだ。
「じゃあ、ぼく、帰ります」
「俺を殺さなくてもいいのか」
「また今度にします。今日は機嫌が悪いから」
 イカズチは、雨のなか消えて行く青年を見送った。やがてひとりになると、イカズチは黙って空を見上げた。


 第五章

すでに、犠牲者を数えることは諦めた。
一向に解決へ向かおうとしない問題に打ちのめされ、机に伏せるイカズチの姿は、宮殿の日常風景となっていた。
「いったい、どうしたらいいんだ」
イカズチの心はすっかり折られていた。もともと、人並み外れた腕っ節だけで大将軍の地位まで昇りつめたイカズチには、頭を使う作業が向いていなかった。
イカズチは、いよいよ逃げ出したくなった。
「せめて、頭のいいやつが部下にいれば」
 今更ながら、自分の部下を選ぶ基準が、いかに偏っていたのか思い知らされる。周りにいるのは、腕っ節ばかりで、字もろくに読めないやつもいる始末だ。
イカズチは、天井を仰いだ。
さて、どうしたものか。
 積み上げられた報告書の山をちらりと睨み、すぐに視線を天井へ戻した。
「せめて、資料の整理をしてくれる美人秘書は必要だよなぁ」
 いつだったか、貴族に見せびらかされた貧民の女を思い出していた。あの時のあいつは、どうなっただろうか。
「……まぁ、悩んでいても仕方あるまいて」
 報告書の山から一枚とりあげ、目の前に広げた。
 ひとりでやる。皇帝陛下の前で頭を下げた時、そう決めたのだ。
「しかし、やる気がおきん」
 さてやるぞ。そんな決意は、すぐにへし折れた。
 イカズチは、頭を机にぶつけた。その衝撃で、積まれていた報告書の山が雪崩落ちた。舞い落ちる花びらのように地面に広がる報告書。
「ふむ。終わらん」
「だったら、ぼくが手伝うよ」
 イカズチは顔をあげた。
「なんだい、そんな顔して。ぼくが美人秘書にでも見えたのかい?」
部屋の入り口には、ツルが立っていた。
「いつからそこに?」
「五分。それとも何年も前からかも」
 イカズチは、ツルの全身に視線を塗った。
 いつだったか、ずぶ濡れのまま夜遅くに帰って来たツルは、頬を赤くはらしていた。その原因をイカズチがいくら尋ねても、ツルは答えようとしなかった。
 どうやら、立ち直れたようだな。
 イカズチは口角を吊り上げた。
「これは皇太子、あの時以来ですね」
「あの時って、ぼくが殺されそうになった時? それとも、ぼくが雨に打たれていた時のことを言っているのかな?」
「どちらも違って、どちらでもありますな」
「あっそ」
 ツルは、来客用の豪華な椅子に、どかりと腰を落とした。
「なんでもいいけど、敬語はやめてくれないかな。さっきから、鳥肌がとまらないよ」
 イカズチは「これは失礼」と両手を広げ、姿勢を正した。
「それより、今日はなんの御用で」
「決まってるじゃないか」
ツルは、意志の籠った力強い目でイカズチを見つめた。
「イカズチ、ぼくはこの雨を止めるよ」
 雨を、止める?
 ツルの口から飛び出してきた王族らしからぬ発言に、イカズチは目を剥いた。言うべき言葉が見つからず、ぎょろりとした目でツルを見つめる。やがて、イカズチは、薄い笑みを浮かべながら肩を持ちあげた。
「いきなり、どうしたんです?」
「馬鹿にしないでもらいたい」
 ツルは眉をひそめた。
「ぼくは本気だ」
 何年ぶりに見るだろう、ツルの決心した表情。恐らく、これで二度目だ。こうなってしまえば、イカズチが何を言おうとツルが意見を曲げることはない。
 ツルに合わせるように、イカズチも顔を整えた。
「覚悟を、決めたんだな」
 ツルは、緊張で濡れる自分の手を見つめていた。
「ぼくは、ぼくの中のカスミを、殺す」
「そうか……」
 カスミとツル。ふたりは、ひとつの身体を分け合って存在している。いつからそうだったのか分からないが。ツルがそう自覚し始めたのは、随分前のことだった。
「こういうの、二重人格っていうのかな」
 部屋の空気が引き締まる。
 イカズチは、ツルの一挙手一投足に気を配った。
「いまは、どっちだ?」
 ツルは、右手を握った。左手を握る時よりも反応がいい。
「たぶん、ツルのほうだ。皇太子としての自覚がある」
 わずかに空気が緩む。しかし、イカズチの視線は以前として鋭い。
「カスミも気付いたのか?」
 ツルは、ちらりと目線をあげた。
「そうだねぇ……」
 シズクを追い詰めたあの日、ふたりは共存していた。カスミもツルの存在に気付いていることは、間違いない。しかし、ツルは、イカズチの質問に対して「分からない」と首を振った。ツルは、イカズチに嘘をついた。
「カスミが表に出ている時、ぼくはこの世に存在していないから」
「気付いている可能性も?」
「否定はできないだろうね」
「そうか……」
 イカズチは数回頷いた。
「ついに、この時が来たのだな」
 イカズチは感慨深いものを感じていた。
ツルは、イカズチの顔を指さして笑った。
「イカズチ、どうした? すごく変な顔をしているぞ」
「生まれつきだ」
 ツルが嘲笑う。イカズチは、咳払いで自分を一喝し、気持ちを整えた。
 あれから、どれくらいの日数が経ったのだろうか。
 イカズチは、記憶の旅にでた。
 ツルが行方不明になったのは、大きな戦のあとだった。隣国との激しい戦闘の中、水の軍は敗走を重ね、いよいよ敗戦が濃厚になって来た。そんな時、ツルが敵大将の暗殺を申し出たのだ。
「ぼくが、敵大将の首を持ってくる」
「馬鹿を言うな!」
 当然、イカズチは猛反対した。いくらスピードがあっても、百万の監視からは、逃れられない。しかし、ツルは折れなかった。やがて、皇帝陛下は許可を出した。それが、ツルへの死刑宣告になるとも知らずに。後に、この決断は、ツルが皇帝になることで、イカズチがこれ以上余計な力を持つことを嫌った貴族たちによる陰謀と分かったのだが、時すでに遅し。
 ツルは、そのまま行方不明となった。その後、イカズチの必死の捜索により、ツルは発見されたが、すでに、ツルはツルではなかった。ベッドの上で目を覚ましたツルは、喜びに震えるイカズチにこう言った。
「きみ、怖い顔だね」
 イカズチは愕然とした。
自分のことをカスミと名乗ったその男は、隙を見て宮殿を抜けだし、貧民としての人生を歩むようになった。
 しかし、ようやくツルが帰ってきた。
 記憶の旅から戻ってきたイカズチは、ずっと疑問に思っていたことを尋ねた。
「お前に、何があった?」
「何がって?」
「敵の陣地に潜り込んでから、その後だ」
「えっと、そうだねぇ……」
 ツルは黒目を持ち上げて、自分の中の記憶を探った。
 敵大将の暗殺を申し出るまでは、イカズチの記憶と同じ。
 ツルは、敵の本陣に身を潜ませていた。敵兵士たちの会話から、自分がおびき出されたことはすぐに分かった。水の都の貴族たちと敵国とで、すでに和睦は成立している。
 まさか。そのまさかだった。
ツルは、平和のために命を売られた。
 引き返そうとも思った。しかし、ここで引き返したら国はどうなる。敵は、約束を反故にされた怒りを国全体にぶつけ、水の都は滅びるだろう。
 そんなの、駄目だ。
 ツルは、わざと見つかる様に暗殺を計った。これ見よがしに警備が手薄な本陣に飛び込み、影武者の首にナイフを突き立てた。すると、物陰からぞろぞろと敵兵が湧いた。嬉しそうに種明かしをしてくれるので、ツルは合わせるように驚いてやった。調子に乗った敵の大将が、貴族たちとの和睦を反故にすることを打ち明けた。
「どうして勝ち戦をわざわざ捨てねばならんのだ」
 ツルの周りで、噴き出すような笑いが巻き起こった。
 悔しくて、でも、どうしようもない。しかし、このまま死んでなるものか。絶対に呪い殺してやる。この恨み張らせるのであれば、ぼくは進んでこの命を差し出そう。
ツルの中で、何かが弾けた。それは、奇跡だったのかもしれない。
気付いた時には、ツルの周りには、敵大将を含む、何人もの死体の山が築かれていた。いったい、誰がこんなことを。
そこで、ツルの意識は途切れた。
「ぼくは罠にはめられた」
「知っている。だが、一体どうやって生き延びた」
 ツルは「分からない」と、申し訳なさそうに首を振った。
「とにかく必死で戦ったんじゃないかな」
 必死で、百人斬り。
「その時、ツルの中にカスミが生まれたのか」
「ごめん、それも分からない」
 嘘だ。一騎当千の活躍を果たしたのは、間違いなくカスミだった。ただし、それは、ツルがカスミを自覚した瞬間であって、カスミの生まれた時期に関しての明確な時期は、以前として不明のままだった。
「難しい話はやめにしよう」と、ツルは顔の前で手を振った。
「とにかく、イカズチの探している裏切り者っていうのは、ぼくを殺そうとした貴族たちのことだろう?」
 イカズチは頷いた。
「やつらは皇室の人間を罠にはめた。それは、死罪に値する」
「だったら、十分休憩後にでもイカズチが貴族たちを皆殺しにしちゃえばいいのに」
「駄目だ」
たしかに、解決だけを目的とするなら簡単だ。しかし、問題は、この件を告発した時に起こるであろう弊害だ。どれだけの人たちが、クーデターを起こすイカズチの味方をしてくれるだろうか。
「その件で、ひとつ聞きたいことがある」
 イカズチは、人差し指を立てた。
 これが分かれば、また別の問題が解決する。
 イカズチは、机に立てかけておいた刀剣に触れた。万が一のことがあれば、この場で切り捨てることも辞さない。
「貴族たちを暗殺しているのは、ツル、お前か?」
 イカズチの思い切った質問に、部屋の空気が重くなる。話を逸らそうものなら、それも返答とみなされる。ツルは、厳しいイカズチの視線に耐えながら、頭の中で言葉を選んだ。
交錯するふたりの視線。
 雷が、そんなふたりの間に割り込んだ。
「ぼくじゃない」
「カスミか?」
 ツルは首を振った。
「分からない。さっきも言ったけど、カスミが表の時に、ぼくはいない」
 イカズチが剣を抜こうと手に力を込める。しかし、ツルは遠くを見ながら話続けた。
「でも、きっと違うと思うよ」
「なぜ、そう思う」
「シズクが、カスミのことを信頼しているから」
 あのシズクが、人殺しを好きになるわけがない。ツルは、そう確信していた。そうでなければ、ふられた自分を納得させることができなかった。
 イカズチは、剣から手を離した。
「ツルがそう言うのなら、信じよう」
ツルが、イカズチの探しているアサシンでないことが分かり、イカズチは、内心ほっとしていた。それがばれることは癪なので、イカズチは聞き慣れない名前に眉をしかめた。
「しかし、シズクとは誰だ?」
「さぁ? ぼくにも分からないよ」
「分からないだと?」
「うん。でも、天使とか女神とか、きっとそのへんの生き物だよ」
イカズチの怪訝な顔を、ツルは悪戯っぽく笑った。
「どうしたんだい、イカズチ。顔が怖すぎるぜ?」
 イカズチは、説明にならないツルのキザな言い回しが癪だった。しかし、それ以上は何も聞かなかった。どうせ、自分には理解出来ないことだ。
「そのシズクとかいう謎の生物は、この事件と関係があるのか?」
「ないと言えばないし、あると言えばある」
 ツルのぼかすような言い方に、イカズチは苛立ちを積もらせた。明らかに、ツルはシズクをかばっている。イカズチがシズクと接触しないよう、一定の距離をとらせている。
 ならば、シズクを斬ろう。
 イカズチは、出そうとした言葉を飲み込んだ。
 話す気がないのなら、これ以上問い詰めても仕方あるまい。シズクの問題は、ツルに任せることにしよう。お前しかないのだ、おれが信頼できるのは。
「カスミを殺すのはいつだ」
 ツルは、難しい顔でしばらく唸ってから、口を開いた。
「まずは宮殿の雨雲を払おうじゃないか」
 ツルは立ち上がった。
「そうだな」
 イカズチも立ち上がり、刀剣を腰にさげた。
「敵の正体を掴めているほうが動きやすいというものだ」
「久しぶりに、イカズチの武芸が見れるのかな」
 ふたりは並んで部屋を出た。
 まずは準備、それからだ。

 *

「カスミ、帰って来ないねぇ」
 イズミは机の上に顎をのせた。さっきから、お腹が鳴って止まらない。おかげで不機嫌になってしょうがない。
こんな小さな子を空腹のまま放置するなんて、やっぱりカスミは駄目な奴だ。
 シズクは、むくれるイズミの頭を撫でた。
「もうすぐだから」
 シズクはそう言った。さっきもそう言った。しかし、内心は不安だった。机の上に肘を乗せて手を組み合わせると、手が汗で湿っているのが分かる。あの時、あの雨の日、ツルは何かを決心したようだった。もし、それが、カスミも巻き込むような良からぬことだったら。
 シズクの背筋に悪寒が走った。
一度嫌な想像をしてしまうと、いくら払拭しようとしても頭について離れない。
「イズミ、もうお腹ぺこぺこなんだけど」
「大丈夫よ。カスミは、もうすぐ帰ってくるから」
 すでに、同じ台詞を五回は言っている。
 進まない台本。続きは、カスミの台詞だ。
 ふたりの前で、出来たてのスープがもうもうと湯気を立てていた。
イズミは、雨音に耳を傾けていた。しかし、いよいよ退屈になってきた。そもそも、じっとしている事が苦手だ。「イズミは落ち着きがない」と、何度お母さんに怒られたことだろう。いくら怒られても、落ち着けないものは、落ち着けない。
イズミは、目線だけをシズクによこした。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「お姉ちゃんは、カスミのどこがそんなに好きなの?」
 シズクの頭にこびりついていた嫌な想像は、イズミの無垢な質問によって、一瞬にして吹き飛ばされた。頭の中は「すき」で一杯になった。
「な、な、な」
「だって、お姉ちゃんはカスミが好きでしょ?」
 追い打ちをかけるように、イズミは詰め寄って来た。改めてそう言われると、なんと言い返したらいいのか分からない。頭ごなしに否定するのも、なんか違う気がする。
「わ、わた、わたしは、か、カ、カスミのことなんて」
「イズミはねえ、カスミの馬鹿な所とか、結構好きだよ」
 イズミは、無邪気に笑った。
 その笑顔を見て、シズクは、とんでもない勘違いをしていたことを悟り、顔を隠さずにはいられなくなった。
「シズク、どうしたの?」
「……そういうことね」
「へぇ? なにが?」
シズクは、自分の早とちりを恥じた。段々と頬が熱を帯びていく。シズクは、照れ笑いを浮かべながら、イズミの無垢な質問にこう答えた。
「わたしも、カスミの馬鹿なところが好きよ」
「やっぱり!」
 大声と共に身体を起こしたイズミは、顔を咲かせた。
「カスミって、すごく馬鹿だよね!」
「ふふ、そうね。カスミは馬鹿」
 カスミは、馬鹿みたいに、ひとつの約束を守ろうとしている。お金を返せない代わりに、シズクに太陽を見せてあげる。そんな夢みたいな約束を守るために、カスミは闇雲に太陽を追い求めている。昨日も、今日も、あいつは、わたしのために、自分の手を汚し続けている。
 シズクは、机の上で組んだ手に、おでこを乗せた。
「ほんと、ばかで、バカで、馬鹿すぎて、好きになってしまいそうよ」
 幼いイズミには、うわ言のように呟いたシズクの台詞を、理解することができなかった。でも、声が震えているのは分かる。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
「泣いてないわ」
「でも」
「泣いてないの」
 イズミは、どうしたらいいのか分からず、シズクの頭を撫でてやった。
「お姉ちゃん、どこか痛いの?」
 どこも痛くないのに泣くのは、わたしが弱いから?
 シズクは口元を緩めた。
「イズミは、いい子ね」
シズクは、イズミの手を握りしめた。小さくて、温かい。まったく汚れを知らない手だ。
「お姉ちゃん、痛いよ」
 イズミの中で、小さな手がぴくりと抵抗した。
「ごめんね。ごめんね」
 小さな手を握りしめたまま、シズクは何度も「ごめんね」を繰り返した。誰に謝っているのか、それは、シズクにも分からない。イズミ? カスミ? ツル? 今まで搾取して来た人たち? 分からないけど、なぜか謝りたくて仕方なかった。
「お姉ちゃん……」
 握られている手は痛いけど、もっと痛いところがある。
「いいよ。もっと痛くしてもいいよ」
「ごめんね。ごめんね」
 シズクは何度も繰り返した。
 もう、カスミは帰って来ない。気付いていた、カスミとツルが、同一人物であることに。気付いていた、日に日にカスミは消滅に向かっている。元の人格であるツルが、その存在を取り戻しつつあることに。
 気付いてしまった。カスミは、もう、いないんだ。
「お姉ちゃん、大丈夫だよ。カスミ、もうすぐ帰ってくるから」
 イズミは、カスミの帰りを心から願った。自分だけでは、シズクを慰めるのに力不足だ。
「カスミが帰ってくるまでは、イズミがお姉ちゃんを守ってあげるから。だから、もう泣かないで?」
 シズクは泣きながら微笑んだ。
 イズミにまでそんなことを言われるなんて、わたしも弱くなったなぁ。
シズクは、しみじみとした想いを噛みしめた。
「お姉ちゃん、もう、スープ食べようよ。カスミの分は、イズミが食べるよ」
「そうね。冷めちゃうものね」
 シズクは、握っていた手を解いて、改めてイズミの顔を見た。
この子、こんなに頼もしい顔してたかしら。
「お姉ちゃん?」
 しげしげと自分の顔を覗き込んでくるシズクに、イズミは首を傾げた。
「そうね。あなたは強いわ」
親を殺されても、泣きごと一切言わない。そんなことが、出来る訳ないものね。
「イズミは、すごく強い子になったのね」
「お姉ちゃん、どうしたの? イズミ、お姉ちゃんもつおいと思うよ?」
 そう。わたしはもっと強かった。誰よりも強かった。なんでだろう。いつだって、わたしはひとりでお金を稼いで、男に力で負けることもなくて、貴族すら上手に扱っていたのに。どうして、今さらわたしは弱くなってしまったのだろう。
「お姉ちゃん?」
 イズミの声が、遠くで聞こえた。

『やあ、シズク』

 ああ、そうか。
「そういうことだったのね」
 シズクは、ようやく涙を拭った。
わたしは、ひとりじゃなかった。気付けばカスミがいて、だから、わたしは、孤独に怯えることがなかったんだ。
 分かってしまえば、大したことではない。
「なによ、あいつのせいじゃない」
「お姉ちゃん? ――わっぷ!」
 シズクは、イズミを抱きしめた。小さな頭を抱きかかえ、繰り返し何度も撫でてやる。
「む~、苦しいよぉ」
 シズクの腕の中で、イズミはもがもがしていた。
 なにを言われようと、絶対に離してやるものか。この命は、カスミが繋いでくれたものだ。ツルじゃない。イズミは、カスミが存在していた、証なんだ。
「あなたに見せてあげるから」
 腕の中で、イズミの頭が動いた。
「なにを?」
 決まってるじゃない。
「太陽よ」

 *

 その晩、ツルは夢を見ていた。
「ここは……」
 見渡す限り真っ白な空間に、ひとりで立たされるという夢。建造物も、人も、音も、何もない、無の世界。そこがあまりに現実離れした世界だったので、ここは夢の中だとツルが気付くまで、そう時間は掛からなかった。
「ぼくの頭の中か……」
 しばらくその場で待ってみたが、一向にイベントの起こる気配がない。
 ツルは、ぐるりと辺りを見回した。
「仕方ない」
ツルは、正面に向かって歩くことにした。そうすれば、何かが変わる気がした。しかし、いくら歩いても景色が変わることはなかった。唯一、身体の異常には気付いた。
どれだけ歩いても、身体が疲労を訴えてくることがない。試しに全力で走ってみたが、わずかにでも息が乱れることはなかった。
夢の世界って、こういうものなのか。
「何も無いなら、目が覚めてくれればいいのに」
「やあ、きみがツルだね」
 振り返ったそこには、もうひとりの自分が、ツルがしたこともないような穏やかな顔で立っていた。
 自分の姿と瓜二つ。
「おまえは、カスミか?」
「そうだよ。ぼくがカスミだ」
 ツルは腰に手をあて、身体を傾けた。
「こうして会うのは、二度目になるのかな」
「そうだね」
 カスミは微笑んだ。
 自分の目の前で自分が喋っているというのは、なんとも奇妙なものだな。ふたりは同時にそう思った。
 無音の世界で、お互いに出方を探り合う。最初に口火をきったのは、カスミだった。
「ツルは、ぼくを殺そうとしているのかい?」
「ああ、そうだけど」
 真っ白な空間で向かい合うふたりは、雨音すらない、真の静寂を感じていた。ふたりは、これから起こることを予期している。
 カスミは、全身を見せつけるように両手を広げた。
「前の時は、ぼくが勝った」
「そうだな」
 以前行われた自分対自分との戦いは、カスミのほうが優れていた。ツルには、殺す気のない殺しをすることができない。勝利を確信した瞬間、殺気が身体の動きをわずかに鈍らせる。しかし、カスミは無垢に人を殺せる。偶然うっかり人を殺せる。最初から最後まで、一連の動作で人の命を奪える。
「たぶん、今回もぼくが勝つ」
 カスミの左手には、何時の間にかナイフが握られていた。
なるほど、夢の中ではそういうことができるのか。
 しかし、ツルはナイフを握らなかった。
 カスミは、戦おうとしないツルを、不思議そうな目で見つめた。
「どうして?」
 ツルは気付いていた。
「戦わなければ、ぼくが勝つ。そうだろ?」
 好戦的でないカスミが、わざわざ戦いを挑んで来たのには理由があるはず。少し考えれば分かりそうなものだ。
ツルは、自分の心臓を指さした。
「カスミ、きみは消えかかっている」
 わずかに、カスミの顔が歪んだ。ツルの抱いていた可能性が確信に変わる。
ツルの言う通り、カスミという人格には、霞が掛かり始めている。表に出ている時も、暗闇に引っ張れる感覚が離れてくれない。それだけではない。表に出ていられる時間そのものが短くなっている。それは、カスミが偽物であることの証明に、他ならなかった。
「カスミ、きみは焦っているな」
 ツルが勝ち誇り両手を広げると、カスミはナイフを握りなおした。
「だから、ぼくは、ここに来た」
 腰を落とし、身をかがめ、後ろに引いた右足に力を込める。
「本当のカスミになるために」
「カスミは偽物だ」
 そんなの、知ってるさ。
 カスミがそう自覚し始めたのは、老婆に触れられた時だった。頭の中を閃光のように駆け巡るツルの記憶。幼少のころから武道に励み、戦で目覚ましい戦功をたてるツルを思い出し、カスミとツルは混じり合った。いや、カスミがツルに浸食され始めたと言った方が正しい。
 その対価として、無力なカスミはツルの力を手に入れた。
「例え今は偽物でも、ぼくは本物になれる」
 それは、カスミの見せた初めての野心だった。
「だから、きみを殺す」
 当然、ツルにはそんな欲望を受け入れることはできない。逃げ回るべきか、カスミを越えるべきか、ツルは選択を迫られていた。
「ぼくは死なない」
 ようやくツルは答えを出した。
 ツルの右手に、ナイフが現れる。
「カスミを越えて、ツルは、大空高く羽ばたくのさ」
 ツルも構えた。一度は負けた相手を前に、ツルは初めて戦いを怖いと思った。身体能力はまったく同じ。だとしたら、勝敗を分けるものはいったい何だろうか。
「まさか、命の恩人を殺すはめになるとはね」
「気にしなくていいよ。ぼくも命を助けてもらった」
 カスミは、深く、息を吐いた。軽く、身体を、軽く。
 どんなに強い気持ちも、運も、才能も、性格も、より優れた武器だって、ふたりに優劣の差はつけられなかった。ふたりは、鏡映しのようにまったく同じ。平等すぎるほどに平等。そんなふたりに、決着がつくはずもなかった。
「じゃあ、始めようか」
「いや、終わろう」
 右足を踏み切ると、身体が軋んだ。急所に狙いを定めると、頬をナイフが掠めた。右足を踏み切る。ナイフを振る。受け止めて、また狙う。
 何度も重なり合う鋭い金属音。お互いに致命傷をつくることはできず、相手の身体に細かな傷をつけることが精一杯だった。その程度でお互いの技が鈍ることもなく、戦いは永遠に続くと思われた。
 ふたりは同時に足を止めた。
「どうした、カスミ。あの時の力はどこへいった」
「まだまだ、本気じゃないんだよ」
 カスミは、鈍い身体の動きに苛立っていた。
かつてツルを一蹴したカスミであったが、野心で目の曇ってしまったカスミは、ツルの急所を一連の動きでつくことが困難になっていた。もはや、ふたりに優劣の差をつけるものは何もなかった。カスミが自分を取り戻せば勝機はあったが、時間に追われている以上、それはほぼ不可能だった。
「大人しく、消えてくれないか」
「それは、こっちの台詞さ。ぼくには、守らないといけない約束がある」
 このまま朝を迎えれば、きっとツルは目覚める。恐らく、カスミにとって、これが最後のチャンスだった。ここでツルを殺し、身体を奪えなければカスミは消滅する。ツルは、有利な状況で勝負を進めていた。
 しかし、カスミは諦めなかった。
「ぼくは消えられない。待っている人がいるから」
「シズクのことか」
 カスミは首を振った。
「シズクだけじゃない。イズミだって、ぼくがいなくなったらきっと泣いちゃうんだよ。太陽を見せるって、ぼくは約束したんだよ」
「太陽は、ぼくが見せる」
「ぼくじゃなきゃ駄目なんだ!」
 カスミの声が、白の空間にこだまする。
「きみはカスミじゃない。カスミが朝日を昇らせるんだ」
カスミはもう一度構えた。これで決める。それが、どんな結果を生み出そうとも。
「ぼくは諦めない。やってみなきゃ分からないんだから」
「そういう考えは、嫌いじゃない」
 身を低くする。狙いを定める。あとは、呼吸。
 ふたりは、同時に踏み込んだ。
 一陣の風が吹いた。
 互いに背を向け合い、振り抜いたナイフからは、一滴の雫が垂れた。
「なるほど……ね」
 崩れたのは、カスミだった。
 ナイフを落とし、わき腹を押さえたまま片膝をつく。
「これは……勝てないや」
 ツルは、ナイフについたカスミの血を眺めた。ついに勝った。実感はわかないが、ツルには傷一つついていない。
「もっと……喜んだらどうだい?」
 カスミは、痛みに顔をしかめていた。いよいよ、消滅の時が近付いて来た。
「きみは……きみを越えたんだ」
 ぼくが、ぼくを?
 ツルは、改めて自分の姿とカスミとを見比べた。同じ背格好、同じ目的、同じ暗殺術。ツルとカスミは一心同体。
「それは違う」
 ツルは、首を振った。
「ぼくは、カスミを越えたんだ」
 カスミは、力無く笑った。血を流し過ぎた。これ以上意識を保つことは難しくなっていた。どうやら、約束は守れない。でも、大丈夫か。
 太陽はいつだって、そこにあるんだから。
 
 
 ツルは目を覚ました。
「……カスミ?」
 すぐに布団から飛び出して、身体の節々まで調べる。寝汗はびっしょりだが、傷はどこにもない。
 ツルは、落ちるようにベッドに座った。
「あれは、夢だったんだ」
 ツルは、軽くなった心を、優しく握りしめた。


 第六章

 イカズチとツルは、信頼できる精鋭を宮殿の庭に集めた。
 辺りに漂う異様な空気。いまだ詳しい説明をされていない兵士たちは、この忙しい時期にいったい何事かと、心をどぎまぎさせていた。
「諸君!」
 辺り一帯に、イカズチの声が響き渡った。
「これより、裏切り者の討伐を行う!」
 ざわめき合う兵士たちは、イカズチの二言目を待った。
「裏切り者は、この宮殿の中にいる!」
 イカズチの指が、兵士の正面にそびえ立つ黄金の宮殿に向けられた。雨で濡れてなお、輝いている宮殿は、どんよりとした雨雲を映すことなく、一点の曇りもないように見える。
 皇帝陛下、もとい神の宮殿に、裏切り者などいるはずがない。
 兵士たちは、初めてイカズチの言葉を疑った。
「信じられぬ気持は良く分かる。ならば真実の戦士たち、神の言葉に耳を傾けよ!」
 ツルが、一歩前に進み出た。
「みんな、聞いて欲しい」
 ツルの声は、イカズチのそれとは対照的だった。耳を澄まさなければ雨音にまぎれてしまうほどか細く、優しい声だった。
もっとよく聞きたい。兵士たちは前のめりになる。ツルはその瞬間を狙っていた。
「ぼくは、この国の人間に殺されそうになった」
 兵士たちは、一斉に仰け反った。
 ツルは、声の調子にこっそり力を込めた。
 ツルが行方不明になった経緯。その裏で貴族たちが糸を引いていたこと。貴族たちが、国の政治を支配しようとしている事。ツルはありのまま話した。到底信じられるような内容ではなかったが、兵士たちは黙って聞き続けた。
「奴らは、神の子である、この僕に、刃を向けた!」
 ツルは、端から端まで兵士たちの顔を眺めた。表情は頑なに変わらないが、心の奥底では闘志が燃えていることを、ツルは確信していた。
 この国に根付いた階級差別は重い。貴族たちが一番よく分かっていることじゃないか。
 ツルは声を張り上げた。
「差別を求めているのは誰だ!」
 ツルは叫んだ。
「命に価値はない!」
 ツルは腕を振り抜いた。
「国を救いたいか! 親を救いたいか! ならば、階級など忘れよ!」
 それを教えてくれたのは、他でもない、カスミだ。
「みんな、これが最後の戦いだ」
 ツルはナイフを抜き、兵士ひとりひとりに矛先を向けた。
「武器を手にとらなければ、命は消えない。しかし、武器を手にとらなければ、命が燃えることもない」
 伝わってくる熱気。
 イカズチが一歩前に進み出た。
「ツルに刃を向けし貴族こそ、逆賊である!」
 イカズチは剣を抜いた。
「この国を愛する者よ! 我に続け!」
 イカズチの剣は、天を突いた。
「皇帝陛下を御救いするのだ!」
 兵士たちの矛先が天を突く。
 宮殿に、鬨の声が響き渡った。
「突撃だ!」
 イカズチの反撃は、地鳴りを起こし、貴族街を揺らし、平民街を駆け巡り、貧民街にまで届いた。
 歴史の代わる瞬間には、血の雨が降る。

 *

 シズクは、貧民街を歩き回っていた。
 カスミの意志は自分が継ぐ。そう決めたから、シズクは、今まで虐げてきた人たちに頭を下げて回った。
 すでに、心身ともにシズクはぼろぼろだった。
 お願いしますと言えば、殴られる。
 助けて下さいと言えば、あざ笑われる。
 貧民街の人間で、シズクに良い感情を抱いている人間は、皆無だった。貧民街の人間は、みな、シズクに大切な人を殺され、プライドを踏みにじられ、命を削られた人たち、もしくは、そんな噂に踊らされ、シズクを恐れる人たちばかりだった。シズクがお願いに来る。これほど恨みを晴らすのに適したチャンスがあるだろうか。
「お願いします!」
 ボロ雑巾のようになったシズクは、それでも額を地面に押し付けた。
「子供に太陽を見せてやりたいんです!」
「ふざけるな!」
 浴びせられるのは、罵詈雑言だった。それでも、シズクは挫けようとはしなかった。わずかなチャンスにしがみついてでも、シズクは、イズミに太陽を見せてやりたかった。
 坊主頭の男が、シズクの顔を蹴飛ばした。
「いまさら、どのツラ下げて来やがった!」
 シズクに恨みを晴らせる。そんな噂が人を呼び、少しもしない内に、シズクの周りには、人だかりができていた。
 みな、それぞれの思いを持って。
「お願いします。わたしに、力を貸して下さい」
 シズクは、ぼうっとする頭で、何度も同じ台詞を繰り返した。自分の力で立つことができない。雨で濡れた地面に手を付き、ひたすら頭を下げることしかできない。
 都合がいいのは分かってる。柄でないことも分かってる。
 それでも、我武者羅に、シズクは、虐げてきた人たちに縋った。
「助けて下さい!」
「お前なんかに、誰が力を貸すかよ!」
「そうよ! あんた、今まで一度だって、命乞いした人を助けたことあるの!」
 シズクには、言い返す事ができなかった。
 わたしは、それだけ酷い事をしてきたんだ。
 シズクの叫びは心に響かない。シズクを恨んでいるのは、シズクの甘い言葉に騙され、人生を破滅させられた人たち。そんな彼らが、いまさらシズクを信用するはずもない。
「カスミを助けたいんです。お願いします!」
 それでも、シズクは、額を地面に打ち付けた。
 一時は、貧民の間で英雄となったカスミの名前を出せば、もしかして。そんなシズクの浅はかな計算は、脆くも崩れ去った。
「なんで俺たちが、カスミの馬鹿を助けねえといけねえんだよ!」
「もうどっかで野たれ死んでんじゃねえの!」
 誰かが吐き捨てるように言うと、人々は噴き出すように笑った。
 悔しさが積り、シズクの唇から血が垂れた。
 また、わたしはカスミに頼ろうとした。なんて愚かなんだ。どこまで学習しないんだ。わたしはカスミを助けたい。イズミに太陽を見せたい。わたしは、わたしが、そうしたいんだ!
シズクは、何度も頭を下げた。
「雨を止ませたいの。お願い、力を貸してよ!」
 シズクの頭に、鈍く、鋭い痛みが走った。目の前を赤く染まった石が転がる。耳の傍を垂れてくる生温かいものは、シズクの顎に溜まって、地面に赤い点をつけた。
「雨が止むはずねえだろ!」
「雨は、止むものよ!」
「うるせえ!」
 シズクの頭に、鈍い痛みが走る。
目の前を転がる石を眺めながら、シズクは、ぽつりと呟いた。
「女ひとり、殴る勇気もないのね」
「なんだと!」
 シズクの挑発に、男たちがいきり立つ。しかし、これはチャンスでもあった。
「わたしは、ひとりでも雨を止めてみせる!」
 シズクは噛みつくように言った。
「この国は間違っている。あなた達も分かっているんでしょ? 本当は、自分たちは貧民なんかじゃないことくらい、もう気付いてるんでしょ?」
 貧民たちが、わずかに反応をみせた。
 ここぞとばかりに、シズクは言葉に力を込めた。
「立ち上がりなさいよ! 頑張りなさいよ! 命に価値つけてくるやつらに、目に物見せてやりなさいよ!」
 貧民たちは黙りこんだ。
 シズクの言葉が、貧民たちにとって、もっとも言われたくない言葉だったからだ。彼らは、自分たちが貧民であることに甘えていた。貧民だから仕方ない。そんな、理由にならない理由で、頑張ることを諦めてきた。いや、頑張ることから逃げてきた。
 叱咤された彼らの考えることは、ひとつだった。
『シズクにだけは、言われたくない』
 彼らが貧民であることを最大限に利用していたのは、他でもない、シズクだった。貧しさに付け込み、高利で金を貸し、他人の人生を終わらせてきた。そんな奴に、貧民を虐げる貴族たちを責める権利があるのだろうか。
「黙れ!」
 坊主頭の男が怒鳴った。同調するように人々の怒りは膨らみ、はちきれる寸前にまで膨れあがった。
「まずはお前が死ね!」
 ぼろぼろの服を着た母親らしき女性が叫んだ。
 死んで晴れるなら、いくらでも死んでやる。
シズクはこの言葉を、ぐっと飲み込んだ。彼らは、シズクを殺せばきっと満足してしまう。最も近くにある危険を除外し、あとは黙って貴族たちに虐げられてさえいれば平穏を保てることを、彼らは知っているのだから。
シズクは拳を握った。
それじゃあ、駄目なんだ。
 彼らがもっとも恐れていること。それは、殺されることでも、差別されることでもない。今が変わってしまうことだ。彼らにとって、シズクは変化をもたらす疫病神でしかなかった。
「みんな、わたしと一緒に戦おうよ!」
 シズクの最後の頼みは、雨音と罵詈雑言の中に消えた。
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」
 届かない。わたしじゃ、駄目だったんだ。
 シズクは茫然と目の前を眺めた。
 ごめん、カスミ。
 シズクは、無音の闇に溶け込んで行く。
 もう、何も聞こえない。この世界は変わらないんだ。そう、当たり前のことだった。
だって、この世界は不平等なんだから。
「お姉ちゃん!」
 甲高い声が、シズクの頭を閃光のように駆け巡った。
「……イズミ?」
「お姉ちゃん!」
「イズミ!」
 群衆の中から、小さな女の子が駆け出してきた。その平凡な身なりから、平民の子であることはすぐに分かった。
 イズミがシズクに抱きとめられると、群衆はざわめいた。イズミに、怯んでいるのだ。
 たとえ子供であっても、貧民たちが平民に逆らうことは許されない。子供に万が一の事があれば、その子の親が怒り狂い、貧民たちを虐殺するのが目に見えているからだ。
 イズミを抱きながら、シズクは愕然とした。
「あんたたち……」
 こんなに小さな子にも怯えるなんて。シズクは、諦めようとしていた。最初から、こいつらに、国に立ち向かう勇気なんてなかったんだ。
「き、貴様! 貧民を味方につけるなんて、卑怯だぞ!」
「そうだ! この、魔女め!」
 シズクは、頭から流れる血を拭った。
 なによ、殴られ損じゃない。
「お姉ちゃん、どうしていじめられてるの?」
「え? そうねぇ……」
 シズクが目を向けると、貧民たちは揃って顔を伏せた。
「お姉ちゃん、弱い者いじめしてきたから、仕方ないのよ」
「そんな、お姉ちゃんはいい子だよ? イズミ、知ってるよ?」
「ふふ、ありがとう」
シズクはイズミの濡れた髪を撫でた。
「こんなに濡れちゃって、可哀想に」
「ううん。お姉ちゃんが温かいもん」
 イズミは、より力を込めて抱きついてきた。
 どうやら、わたしは一人じゃないらしい。
 シズクは、失っていた勇気を取り戻しつつあった。
 そうだ。わたしには、イズミがいる。ひとりじゃない。わたしだけでは無理でも、イズミと一緒なら、雨を止めることだって、簡単にできるはずなんだから。
 シズクとイズミの視線が交わる。
「イズミ、お姉ちゃんと一緒にいる。もう、ひとりは嫌なの」
「そうね。わたしも、ひとりは嫌いよ」
 雨は、ふたりを濡らし続けた。しかし、どんなに濡れても、シズクが寒さを感じることはなかった。ふたりでいるだけで、こんなにも温かい。
「みんな、太陽が見たいはずなのにね」
 それは、シズクが投げかけた、最後の激だった。
「イズミ、わたしと一緒に来てくれる?」
 傷だらけの顔で、シズクは下手糞に笑ってみせた。
 イズミは、屈託なく笑った。
「うん。イズミも行く」
 シズクは、イズミの手を握り、立ち上がった。膝が笑っているけれど、歩けないほどではない。
「行こう。カスミに会いに行こう」
「うん。イズミ、カスミに会いたいもん」
 ふたりは、群衆に向かって歩を進めた。ふたりを遮るものは、何もない。
 ふたりの前に立ちふさがる貧民たちは、互いに視線を交換し合い、どうすればいいのか相談し合っていた。
「どいてくれない?」
 シズクがそう言うと、坊主頭の男が代表して口を開いた。
「どこに、行くんだよ」
「宮殿に決まってるじゃない」
「どうして!」
 シズクは、坊主頭の必死な顔を笑った。
「あなた達に、関係があって?」
 坊主頭は、真っ赤な顔を振るわせた。
言いたいことも言えないのね。
「どいて」
 イズミがそう言うと、モーゼの十戒よろしく道が開いた。
貧民たちが作る道を、ふたりは並んで歩いた。親子で仲良くお買い物。そんな背中を見せながら。
 
  *

 宮殿には、貴族たちの悲鳴がこだましていた。
「大将軍イカズチ、ここにあり!」
 一振りで五人の宮殿兵をなぎ払う。イカズチの鎧は返り血で真っ赤に染まっていた。
「死ぬ準備のできたものから掛かって来い!」
 イカズチの気迫に、宮殿兵たちは圧倒された。
士気も統制もなく、戦意を抜かれた宮殿兵のほとんどは、イカズチに怯えた背を向ける。できるだけかつての同僚を殺したくないイカズチにとって、それは僥倖であった。
イカズチは、すでに何人もの貴族を切り殺して血まみれになった刀剣を振り回した。
「皇帝陛下万歳! 皇帝陛下に仇成す輩は、このイカズチが根元から切り取ってくれようぞ」
「イカズチ、貴様! 貴族に逆らうつもりか!」
「わざわざ自分の位置を教える馬鹿があるか!」
 イカズチは、剣を振り上げた。
「お、お前ら、やつらをとめろ!」
貴族たちは、宮殿兵たちの陰に隠れ、うわずった声で叫んだ。しかし、宮殿兵たちは、貴族を守る役割などすっかり忘れ、自分の命可愛さに逃げ出していた。
「逃げるな! 我々は神の使いだぞ!」
 圧倒的な恐怖を前に、階級は意味を成さない。
貴族は、逃げまどう宮殿兵たちの腕を掴み、怒鳴りつけた。
「ここで逃げれば、お前たち一族の命はないと思え!」
 階級が意味を成さないのであれば、権力を振りかざすまでだ。
「この国の政治は、我々が握っているも同然なのだぞ!」
 この台詞が、すべての宮殿兵に届いたわけではない。むしろ、喧騒に紛れ、その兵士に聞こえたのすら怪しい。しかし、宮殿兵たちは、踵を返した。よほど貴族が怖いのか、イカズチが選んだ兵士以外で、イカズチたちに与するものはいなかった。
 宮殿兵が、剣を抜き、イカズチに立ち向かって来る。しかし、その顔に気迫はない。
「怯えるな!」
 一振りで大量の命が吹きとんだ。
 イカズチは、かつての部下たちを、なんの躊躇いもなく切り捨てた。イカズチに斬られた亡骸は、もはや原形をとどめていない。斬るというより、砕くに近かった。
 イカズチの剣を伝って、雫となった宮殿兵の血が、絨毯に染み込んだ。
「押せ! 逆賊共を討ち果たせ!」
 勝てば官軍、負ければ賊軍。
 イカズチは、ぐるりと宮殿の様子を見回した。
あちこちで血が噴き出し、その度に赤い絨毯がより赤くなる。かつて仲間だったもの同士が憎しみ合い、自分の命惜しさに昨日の友人の命を絶つ。あれほど尊かったはずの貴族の命が、何のためらいもなく奪われている。
イカズチは、高すぎる天井を仰いだ。
「イカズチは、ここにいるぞ!」
 いま、イカズチは革命の中心に立っている。負けられない、負けるわけにはいかない。自分のためにも、自分を信じてくれた仲間のためにも。
「勝利は目前だ! 目の前の敵を斬り砕け!」
 初めは、イカズチたちが優勢だった。
 奇襲が成功したのに加え、イカズチの悪鬼のごとき奮闘が貴族たちを混乱させ、混乱した貴族たちが宮殿兵たちを混乱させた。しかし、そんな攻勢も長くは続かなくなっていた。
「金持ちの意地を見せてやる!」
 素人同然の腕で立ち向かって貴族を、イカズチはあっさりと切り捨てた。
 赤い絨毯に、さらに血が染み込む。
「非力な勇気は、力ではない」
 貴族たちは、貴族であることをやめた。
戦場には、貴族も平民もない。戦場とは、この世で最も平等な場所であることに、貴族たちは気付いた。それ自体は大きな問題ではない。
イカズチたちは、少しずつ押されはじめた。
「全員、隊形を崩すな! 数ではこちらが上だ!」
 宮殿兵の声が響き渡った。
問題は、この声だ。
貴族が貴族をやめたことで、振り回されてきた宮殿兵たちが統制を取り戻した。
「イカズチには構うな! 周りから崩せ!」
士気を取り戻した宮殿兵の顔は、はっきりと個人個人の区別がついた。
「くそ、思うようにはいかんか」
 イカズチは、向かってきた宮殿兵、十人をいっぺんに斬り伏せた。ぐしゃりと、潰れるようにして、宮殿兵の四肢が絨毯の上を転がる。
 それもで、イカズチ部隊の士気は変わらない。ひとりの力で大勢は変えられない。
 もともと数では不利と分かっていただけに、もっとはやく決着をつけるべきだった。
「さすが宮殿の護衛を任されるだけあって、腕の立つものばかりだ」
 イカズチは、自分の兵士教育が間違っていないことを再認識した。
「しかし、そうも言ってられんか」
 すでに、味方の数は半分以下にまで減っていた。
「ツル、ツルはどこへ行った!」
 報告が返って来ない。
 宮殿兵の血気盛んな勢いに押され、イカズチの兵士たちは、自分たちのことだけで手いっぱいとなっていた。悲鳴と悲鳴が重なり、イカズチの目に斬られた味方の血が飛び込んだ。
「うおっ!」
ついに、イカズチも一歩後退した。
「押せ! もはやイカズチも虫の息だ!」
 形勢はすっかり逆転されていた。イカズチ側の兵士ひとりに対して、宮殿兵は、少なくとも五人で当たれる。囲まれてしまえば、あとは、わき腹なり、背中なり、好きなところを突き刺されるのを待つだけとなる。そうして、イカズチ側の兵士たちは、自らの身体で死体の山を築いて行った。
「諦めるな! あと少し、持ちこたえろ!」
 イカズチの激励は、味方の悲鳴にかき消された。すでに勝機を失い、イカズチたちは段々と入口まで押され始めた。
「逆賊イカズチを討ち取れ!」
 これを好機とみた貴族勢は、さらに勢いをました。
「名をあげる好機ぞ!」
あの鬼神、イカズチを討ち取れる。宮殿兵は我先に駆け出した。
 イカズチの兵士たちは、すでに逃げ場と戦意を失っていた。
 所詮、貴族に逆らうなど無謀だったのだ。そんな諦めの雰囲気が、イカズチの部隊に伝染し始めた。
 迫ってくる宮殿兵。
 イカズチは、目を閉じ、戦場の空気を感じていた。
 息を吐き出すと、全身の力が抜けた。これだ。この感じだ。イカズチは、奈落の暗闇に落ちていた。悲鳴がこだまする。泣き叫ぶ。命乞いが切り捨てられる。イカズチは、地獄の底で、目を閉じていた。
「将軍!」
 請うような味方の声に押され、イカズチは一歩前に進み出た。
「みな、下がっていろ」
 マントを靡かせ、迫りくる宮殿兵たちの前に立ちふさがる。
「イカズチを討ち取れ!」
 すでに、そこまで来ていた。
「ぬおっ!」
 イカズチは、血まみれの剣を振り上げた。視線が集まる。
「おうら!」
イカズチは、剣を地面に突き刺した。その勢いは、衝撃となり、迫りくる宮殿兵たちをたじろがせた。
「我は霆」
 イカズチは、剣を地面から抜いた。じわり、じわりと、イカズチの身体から殺気が溢れて宮殿兵の身体に巻き付いた。
「雷神の剣劇、照覧あれ!」
 腰を回す。剣を振りかぶる。
 一振り。
 イカズチは、刀剣を一振りだけした。
 それだけ。
 たったそれだけで、迫りくる宮殿兵は、遥か後方まで吹き飛ばされていた。吹き飛ばされた兵士たちは、何が起こったのか、理解する間もなく身体を砕かれ、ミンチ状に宙を舞い、仲間たちの頭上へ降り注いだ。宮殿兵は、ミンチを浴びながら、走馬灯のように思い出していた。
 これがイカズチ。大将軍、イカズチなのだ。
 敵うはずもない。
「次は誰だ」
 肉片のついた刀剣を肩にかけ、イカズチは手で兵士たちを招いた。
「誰でもいい、イカズチを感じたくば、恐れるな」
宮殿兵たちは、身体に張り付いた肉片を払うことなく、立ちつくした。そのあまりに凄惨な光景は、味方までも震えあがらせた。
「誰も来ぬのなら」
イカズチが歩くと大気が振るえる。
「こちらから行くぞ」
 イカズチは飛び出した。宮殿兵たちは蜘蛛の子を散らす様に逃げまどった。しかし、イカズチの手からは、誰も逃れられない。
 残ったのは、叫び声だけだった。
 飛び交う肉片。イカズチが剣を振れば、バラが咲いた。
 返り血まみれのイカズチは、笑っていた。
「どうした! イカズチを穿て!」
 これだ、この感覚だ。俺の前では、みなが命に必死になる。その命を終わらせる、この感覚が欲しかったのだ!
地獄のそこから湧いてくるような笑い声に、誰もが震えあがった。
そこは、まさに地獄だった。
「そこまでだ」
 悲鳴と笑い声の間を縫って、澄んだ小川のせせらぎのような声が、イカズチの手を止めた。
 まず目に飛び込んで来たのは、二階へ続く階段の手すりに、ずらりと並ぶ首、首、そして首だった。それらすべてが貴族の物であることに気付いたのは、イカズチだけだった。
 視線は、ツルに集まっていた。
 兵士たちは黙り、イカズチは剣を収めた。
「みんな、もう戦うな」
 ツルはまたひとつ首を並べた。
異様な光景に圧倒され、久しぶりの静寂が宮殿に訪れる。
 最後の首を並び終えたツルは、腰に手をあてた。
「イカズチは、この国を滅ぼすつもりかい?」
「うぅむ……」
 イカズチは頭を掻いた。
「いや、すまない。負けると思ったら、つい」
「革命はスマートにやらないと。こんな風に」
 ようやく、他の兵士たちも、並べられた首たちが貴族のものであることに気付いた。守るものの無くなった宮殿兵たちには、戦う理由がなくなった。いや、例え貴族が生きていたとしても、宮殿兵がもう一度闘志を燃やすことはなかっただろう。
 敵にして、初めて気付く、イカズチの恐ろしさだった。
 金属音が床に落ちる。
「我々の勝利だ!」
 イカズチが拳を突き上げると、鬨の声が宮殿を揺らした。
 これで国を揺るがす不穏分子は消えた。あとは、聡明な皇帝陛下の統治下で、平和な国づくりをしていけばいい。あのお方なら、それができるはずだ。
イカズチは晴れやかな顔で天井を見上げた。
 達成感で心を満たすイカズチに、勢いよく開いた扉が水をさした。
「将軍!」
「どうした?」
 報告にきた兵士は、真っ青な顔をイカズチに向けた。きっと、報告を終えれば事切れてしまうだろう。駆け寄ってきた仲間に支えられながら、その兵士は報告を続けた。
「シズクが、シズクが……」
 イカズチは顎に手をそえて、顔をしかめた。シズク、どこかで聞き覚えのある名前だ。ふとツルに目をやると、ツルは驚愕に顔を染めていた。
「シズクが、どうした?」
 ツルの唇は、震えていた。
 兵士は、最後の力を振り絞った。
「貧民たちを連れて、一斉蜂起しております!」
 報告を終え、その兵士は崩れるようにして首を落とした。すでに、息をしていない。
「なんだと……」
 反乱、まさか、そんなはずは。
 耳を澄ますと、宮殿の外からは、地鳴りのような怒声が飛んでくる。必死の報告は、疑うべくもなく真実だった。遠くからでも、相当な数がこちらに敵意を向けていることが分かる。
「なぜ、こんなことに」
すっかり気を抜いていたイカズチは、しばらく惚けていた。
一難去って、また一難。しかし、国を守るため、貧民たちのために戦い、その次の敵が、まさか貧民とは、さすがのイカズチも予想していなかった。
「将軍!」
 兵士の声に、イカズチは、夢から覚めたようにはっとする。
 ここで自分がしっかりしなければ、やってきたことが無に帰する。イカズチは考えた。自分が、将軍としてとるべき、最善の行動は……。
「全軍、全力で貧民を押さえよ! ただし、誰も殺すな!」
 さっきまで敵だった兵士も一斉に敬礼でイカズチに応え、武器を持たずに雨の中飛び込んで行った。
 死臭で満ちた宮殿には、イカズチとツルだけが残された。
「ぼくたちはどうする?」
「皇帝陛下の下へ行くぞ」
「なぜ?」
「お考えを仰ぎに行く。黙ってついてこい」
 そういって、イカズチは早足で階段を昇った。
 何も聞くまい。
ツルは、返り血を大量にあびた背中に何も問わず、黙って付いて行くことにした。

  *

時は、宮殿の決着がつく数時間前に遡る。
シズクは、平民街と貧民街との境界線で足をとめた。
「あんたたち、いつまでついて来るつもり?」
 シズクが苛立ちと共に振り返ると、そこには、大勢の貧民が、居辛そうに、方々へ視線を散りばめていた。
「何なのよ、もぉ」
 シズクは、ため息をついた。
さっきから、ずっとこの調子だ。
「すごい、みんな息ぴったし!」
 呆れるシズクの隣で、イズミが嬉しそうに飛び跳ねた。
シズクが足を止めて振り返れば、貧民たちも足を止めてそっぽを向く。イズミは、壮大な『達磨さんが転んだ』をやっているようで、振り返るのが楽しみになっていた。
「イズミ、喜ばないで」
「ぶ~」
シズクは、腰に手を当てて、身体を斜めに傾けた。
「っていうか、あんたたち、なんか増えてない?」
「うるせえ、俺たちの家はこっちなんだよ!」
「こっから先は平民街よ」
 返事がなくなった。
 まったく、扱いに困る連中だ。
シズクは、背伸びで行列の奥まで見渡そうとしたが、最後尾は雨に隠されて、先頭から確認することができなかった。
でも、増えているのは一目瞭然だ。ただ、なんでシズクの跡をつけているのか、その目的が分からない。
 貧民たちは、シズクが歩きだすまで、ぴくりとも動こうとしない。
「ねぇ、言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「んなもん、ねえ!」
 シズクは、呆れ返った。呆れすぎて、開いた口が塞がらなくなった。
 どうして素直に手伝いたいと言えないのだろうか。もちろん、さっきまでボコボコにしていた女に頭を下げるのは癪だろう。それは分かる。でも、言いたい事は素直に言うべきだ。歴史の節目とか、そういう大事な場面では、特に。
「用もないのについて来るとか、あんたたち、どれだけ暇なのよ」
 シズクは、顔をしかめた。
 得体の知れない群衆ほど、気味の悪いものはない。
「お姉ちゃん、行かないの?」
 イズミに袖を引かれた。
「行く。もちろん行くわ」
 シズクが歩き出すと、そろった足音が、背後から迫ってくる。といっても、一定の距離は保たれたままなので、迫ってくるという表現は間違っているのだが、大勢に後ろから付いてこられるというのは、居心地の悪いもので、やはり迫ってくるという表現が的確なように感じる。
 貧民のくせに、いったい何がしたいんだか……。
 シズクはふと思った。
 このまま平民街にいれば、きっと面倒なことになる。誰だって、揉め事とはできるだけ疎遠でいたいものだ。
 シズクはぴたりと足を止め、覚悟を抱いて振り返った。
やはり、貧民たちも一斉に足を止める。
これで動かないようなら、シズクは強硬手段に出るつもりだった。
「わたしたち、これから宮殿に行こうと思うんだけど」
 わずかに群衆が揺れた。
「あんたたちも来る?」
 さながら買い物に行くように、シズクは群衆に問いかけた。
 誰も答えない。降り注ぐ雨音だけが、沈黙を埋めている。
シズクは肩をすくめた。
「どうして、誰も答えないのかしら」
 シズクは動こうとしなかった。ここが最後の門であることを、シズクは感じていた。人々が手を取り合い、身をもって団結を感じる、その先に自由を手にしなければ、歴史はきっと繰り返す。理解しなければならない。人は平等であることを。
「どうして、あんたたちが、わたしを恐れているのかしら」
 シズクが近付くと、合わせるように群衆は下がる。
「さっきまでの勢いは? わたしを殺すつもりじゃなかったの?」
 差し出す様に、シズクは身体を開いた。
「何がしたいの? 言ってみなさいよ」
 答えはない。
「なら、諦めなさい」
 シズクが群衆に背を向けようとした、その刹那――
「俺たちも、太陽が見たいんだ!」
 青年の声が飛んできた。
 誰も同意をしないが、誰かの言ったその台詞が、群衆の総意であることは、シズクにも分かった。しかし、シズクは首を振った。
「顔も見せないで。そんなの卑怯よ」
 シズクが声を張ると、遠くの方で群衆がうごめいた。人の間を縫って、誰かがこちらに向かって来ている。ようやくシズクの前に現れたのは、まだ成人もしてないであろう、綺麗な肌をした少年だった。
「俺は、太陽が見たい」
 改めて、少年は力強く言った。どこかで見たことのあるような目だ。馬鹿みたいな夢を真剣に語れる、煌々とした目だ。
 シズクは、わずかに口元を緩めた。
「奇遇ね、わたしもよ」
「イズミも!」
 シズクの横で、嬉しそうにイズミは飛び跳ねた。
「あんたたちはどうなの!」
 シズクは、少年の後ろでまだ隠れている貧民たちを怒鳴りつけた。
「あんたたちは、わたしたちが手に入れた太陽を浴びたいの?」
 シズクは腕を振り上げ、天を指した。
「それとも、自分たちの太陽が欲しいの?」
 立ち込める熱気。どうやら、最後の最後で、シズクは勝利を手に入れた様だ。
「選べ!」
 噴火するように貧民たちは叫び声をあげた。今まで押さえられてきた怒りが、一気に噴出したのだ。叫びは雨雲まで届き、雨雲も負けじと雨が強くなる。しかし、この程度の雨、貧民たちの興奮した頭を冷やすのには、まだ少し足りないくらいだ。
「太陽を取り戻しに行くわよ!」
 もはや、誰にも止められない。
「平民の馬鹿共も、付いてきたいなら付いてきなさい! わたしたちで、この国を終わらせてやるのよ!」
 国民の、最初で最後の行進が始まった。
 阻むものはない。
 ただ、当然の権利を取り戻しに行くだけだ。
 太陽は誰にでも、平等に降り注ぐ。

  *

 皇帝の待つ部屋の前では、門番がひとり、イカズチとツルに槍を向けていた。
「ど、どうか……」
引きつった表情で槍先を震わすその門番に、イカズチは見覚えがあった。
「……しょう、ぐん」
「ああ、きみか」
 イカズチが目を広げると、見覚えのある若い門番の顔が僅かに緩んだ。
「お、おひさし、ぶりです」
「ああ、久しぶりだな」
 いつからだったか、見なくなった若い兵士。
初めてこいつを認識したのは、拷問好きの貴族が殺された事件の調査の時だったか。あの時は、まだ経験も浅く、頼りがいのないやつだと思ったものだが、
 イカズチは微笑んだ。
「立派になったな」
 イカズチは、純粋に部下の成長を喜んでいた。自分の下で学んだ兵士が、自分の下を離れて皇帝陛下の門番にまで昇りつめた。そして今、自分に刃を向けている。
「元上司として、こんなに嬉しいことはないぞ」
 若い門番は、震えながら、槍を持ち直した。
「こ、ここを、と、とおすわけには、まいりません。それが、た、たとえ、しょ、将軍であっても」
 すると、ツルが一歩前にでた。
「皇太子なら、どうだい?」
 若い門番は首を振った。
「げ、げんざい、このなかは、た、たいへん、あぶ、きけんですので。だ、だれであろうと、皇帝陛下に、お、おあい、す、することは、叶いません!」
「ならばまかり通る」
 イカズチは、剣を抜いた。
「お前は、俺を殺すことができるのか」
 門番の持つ槍が、いよいよ激しく震えだした。もはや、狙いも定まらない。
「わ、わたしでは、とても、しょうぐんには、かぁないません……」
「ですが、」
 若い門番は、唾を飲み込んだ。
「門番を任された以上、ここを御通しするわけにはまいりません!」
 一太刀、イカズチは剣を振り下ろした。
 血飛沫が舞い、イカズチの頬を染めた。
 若い門番は、膝を落とした。しかし、槍は握ったまま。
「しょう……ぐん……」
 若い門番は、強烈な眠気に襲われた。
 度を超えた眼鏡をかけたときのような、ぼんやりと靄のかかる視界。吐き気もする。若い門番は、ようやく、自分が死に落ちようとしていることを悟った。
「俺は、おまえを誇りに思うぞ」
 最期に、そう聞こえた気がする。
 でも、もう……

 死体に一瞥をくれ、イカズチは細かい装飾の施された扉に手をかけた。
「死んでしまえば、意味もないというに」
「歴史が変わるのさ。若干の寂しさはつきものだよ」
 扉を開けた先で、玉座に腰かける皇帝陛下が、ふたりを待ちうけていた。
さっきまでの喧騒は夢だった? まるでそこだけは世界と隔離されているかのように、皇帝陛下はいつも通りだった。
「あれが、皇帝陛下」
 暗い部屋で、皇帝陛下ただひとりが、スポットライトのように光を浴びている。
気付けば、ふたりとも皇帝の前でひれ伏していた。
 ふたりの頭に、穢れなく澄んだ声が降ってくる。
「待っていた」
 金色に輝く頭髪をなびかせ、皇帝は、手の内を明かす様に、両手をひろげた。すべてはお見通し、イカズチの狙いも、ツルの狙いも、すべては皇帝の手の中にあった。
「さあ、間違いだらけの歴史を終わらせよう」
「陛下!」
「イカズチ。貴様は余を殺しにきたのだろう?」
 ぐうの音も出なかった。
 イカズチは、頭を伏せたまま、額から流れる汗を感じていた。
 そう、皇帝陛下の言う通りだ。国の体制を変えるという事は、時の権力者が終わりの鐘をつくということだ。イカズチは、皇帝に自決を促しに来たのだ。それ以外に、貧民たちの反乱を押さえる術が思いつかなかった。
「イカズチ、どうするんだ」
「少し、黙っていろ」
 イカズチは苛立っていた。
 暗殺という手もある。ここで、ひと思いにイカズチが皇帝を切り捨て、その首をもって群衆の前に現れれば、暴動は治まるだろう。しかし、自分にそれができるか? 
 汗でしめった手の平は、イカズチの覚悟が鈍っていることの証明だった。
「その手で、首を跳ねるか?」
 皇帝はすべてを見通していた。イカズチがクーデターを起こした時、玉座に座りながら、皇帝陛下は覚悟を決めていたのか。
「陛下……」
イカズチは、堪え切れず涙を流していた。もはや抵抗する力のない皇帝に、イカズチは生涯で初めての敗北をしたのだ。
「御命令とあらば、このイカズチ、皇帝陛下と最期を共にしたく」
「ならん」
 縋ってくるイカズチを、皇帝は突き放した。
「貴様の役目ではない」
 なんと、なんと立派な方だろうか。視界よ、なぜ霞む。もっとよく、皇帝陛下のお姿を目に焼き付けさせろ。
 きっと、これが最期となるのだから。
「しかし、妙な話よ」
 皇帝は、肘をついて遠くを眺めた。
「なぜ、貧民共は、雨の止まぬ原因がこの宮殿にあることを知っている」
 皇帝は、不満げに下唇を突き出した。
「まるで、奴らの中に、皇室の友人を持つものがおるようではないか」
 ツルは何も言えなかった。すべて見とおされている。当然、カスミのことも知っているのだろう。
 皇帝は光の降り注ぐ天窓を見上げた。
「この国から太陽が失われたのは、いつからだったかのう」
 皇帝は、歴史の書を紐といた。
 今の皇帝が生まれるずっと前、水の都は、いまほど雨雲に好かれる国ではなかった。
 人々は、時折顔を出す太陽に期待し、その恩恵を全身であびていた。
しかし、ある時期を境に、太陽は水の都を離れていった。
 その時期は、時の皇帝陛下が、側近たちと共にある計画を打ちたてた時期と、丁度重なる。それこそが、皇室に受け継がれてきた悪しき伝統。つまり、井戸水に薬を混ぜることだった。
薬の効果によって、人々は、井戸水を飲むと満たされる気持ちになった。しかし、それからしばらくすると、どうしようもない不安にかられるようにもなる。
 井戸水に混ぜられたのは、そんな、中毒性のある薬だった。
 どうしようもなく不安な人々は、まず、自分たちから太陽を奪う雨雲を憎んだ。
しかし、皇帝はある噂を流した。それこそが、今にまで残っている、国民を縛り付けている伝承「国民、雨を尊ぶべし」だった。
噂が国中に蔓延すると、人々は、一転して雨を崇め始めた。自分たちは選ばれし者であり、その上にたつ貴族と王家の人たちは、限りなく、神に近い存在なのであると錯覚し始めた。我々は、搾取されているのではない、奉納しているのだ。
そうやって、国民は自分たちを騙した。
皇帝と貴族の計画は、まんまと成功したのである。
やがて、貴族たちに搾取されてばかりで不満の溜まって来た平民たちは、平民同士で憎しみ合った。その結果として迫害された平民たちは、貧民として、ますます迫害されることになった。
 これが、晴れない雨雲と共に始まった、この国の歴史。
 皇帝は、自分を照らす光を見上げていた。
「思えば、我らが太陽を遠ざけてしまったのだな」
「それは違います」
 ツルが首を振る。
「太陽は、いつでもそこにございました」
 皇帝は、小さな笑窪を作った。
「そうか、ふむ。それは、気付かなかったな」
 もう、覚悟は決まった。
「ついてまいれ」
 玉座から立ち上がった皇帝は、イカズチとツルの肩に触れた。
「余の最期を見届けよ。それが、余の皇帝としての最期の命令じゃ」
ふたりは、黙々と歩く皇帝のあとにつづいた。
階段を下りると、いよいよ喧騒が大きくなって来た。兵士たちが、暴動を押さえきれず、宮殿近くまで後退してきたのだ。
門を出ると、その喧騒が一望できた。
宮殿の庭は踏み荒らされ、かつての奥ゆかしさは雨水に流されてしまった。
少女、巨漢、優男が宮殿から突如現れたことで、暴動にわずかな迷いが生じた。
「カスミ!」
 暴動の先頭で、イズミが叫んだ。ツルは、その隣に立つシズクに視線をなげた。
 ようやく会えたね。
 シズクは、ゆっくりと頷いた。
「静まれい!」
 イカズチの大気を切り裂く怒声で、暴動が一瞬治まった。
暴動を止めるには、それだけで充分だった。
 煌びやかな着物をまとった少女。名乗らずとも分かる気高き立ち振る舞い。その場にいた誰もが、凛と立つ皇帝陛下に目を奪われていた。
 皇帝は、自分を見上げる国民たちの惚けた表情に微笑んだ。
「なるほど、みな、こんな顔をしていたのか」
 皇帝は、一歩前に進み出た。
「みな、聞くが良い!」
 皇帝はありのままを打ち明けた。井戸水に薬を盛っていた事。その薬によって、国民の不安を煽り、その不安に付け込むようにして雨を信仰させていたこと。階級同士で憎しみ合わせ、宮殿に不満が向かないように仕向けたこと。部下に命じ、反乱分子を暗殺していたこと。その他にも、様々な汚職を、皇帝はその小さな身体にすべてかぶせた。
「みな、余の責任だ」
 群衆は、黙ってそれら告白を聞いた。あまりに堂々と悪事を告白されたので、どんな暴言を吐いたらいいのか分からないのだ。
「そして今から、余の処刑を行う!」
 皇帝は向きを変え、ツルの手に剣を握らせた。
「カスミといったか?」
「ぼくは――」
 皇帝の目が、ツルの言葉を喉の奥に押し込んだ。
「わが首を刎ねよ。新たな歴史には英雄が必要だ」
「陛下!」
 皇帝は、もう一度だけ群衆に身体を向けた。
「余の死をもって、みなの憎悪を終結とせよ!」
「陛下!」
「兄上」
 皇帝の顔が歪んだ。
「死にたくないよぉ」

 その日は、血の雨が降り注いだ。

  *

 暴動は治まった。
 雨が血を洗い流し、人々は自分の家に帰っていく。
 イカズチとツルは、どちらが言うでもなく、玉座の間へと向かっていた。誰もいなくなったその部屋は、皇帝を失い、まったくの闇に包まれていた。
「雨、やまないね」
 ツルが呟いた。
 どうすれば晴れるのか、ふたりには分かっていた。
「ツルの役目は、これで終わりか?」
 ふたりの間に風が吹く。繋ぎとめるように終わりを告げる。新時代の風が吹いた。
「皇帝陛下を殺した。すべては、お前の計画通りだったというわけだ」
 イカズチは、ゆっくりと、最後の感触を楽しむように剣を抜いた。
「国を選び、皇帝陛下を殺した。俺はもう、大将軍ではなくなった」
 イカズチの身体から、どす黒い殺気があふれ出る。これが最期とばかりに雨が激しく宮殿を叩いた。
「いま一度だけ、戻ろう。『武』に生きる、相冥霆として」
 矛先をツルに向けた。
「貴様は、ツルか、カスミか」
 ツルはナイフを抜いた。
「どっちでもあって、どっちでもない」
「ならば。アサシンよ、貴様に決闘を申し込む」
 雨が降り注ぎ、雷が喚いた。
 これが最期であることを、国中に知らせようとしているのだ。
 ツルは腰をふかく落とした。右足に力を込める。狙いを定める。
「いいよ」
 イカズチは、すでに堪えられなかった。
 ツルは笑った。
「その顔になったイカズチと戦える、それはどれだけ嬉しいことだろう」
 イカズチは鬼神と化していた。ずっと待ち望んだ時が、いま、目の前に、広がっているなんて。いま笑わずして、いつ笑うのだ。
「俺を越えろ、アサシン!」
 雷鳴が鳴り響いた。

   *

 シズクとイズミは、ふたり並んで家に帰ろうとしていた。やり遂げた筈なのに、なぜかモヤモヤした物が心から消えない。
 隣では、イズミが腑に落ちない顔をしていた。
「イズミ、どうかしたの?」
「どうして、カスミは帰って来ないの?」
 イズミはむくれたまま、そう尋ねた。
 シズクは空を見上げた。
 頬に、ぽつりと雨水があたる。
「まだ雨が止んでないからじゃない?」
「雨がやめば、カスミは帰ってくるの?」
「そうね。きっとそうよ」
「ならイズミ、帰ったらてるてる坊主作る」
 なにそれ? とシズクは首を傾げた。すると、イズミが、信じられないと言った表情で驚きの声をあげた。
「お姉ちゃん、てるてる坊主を知らないの?」
 そう言われると知ったかぶりたくなるものだが、知らないものは知らないのだ。
「お姉ちゃんに教えてよ」
「あれだよ」
 シズクが顔をあげると、見上げた家々には、布で作られた奇妙な人形が吊るされていた。
「あれが、てるてる坊主?」
「うん。あれを吊るすとね、晴れるんだよ」
 どうしてイズミがそんな事を知っているのか。気になったけど、シズクはあえて何もきかなかった。
 だって、あなたがそこにいたから。
「やあ、カスミ」

 エピローグ


 水の都は、皇族と貴族を一度に失った。
混乱を押さえるために、シズクはツルと結婚して、名実ともに水の都の女王となった。
ようやく借金を返してもらえた、とシズクは、ほくほく顔で笑っていた。


 水の英雄イカズチさんは、姿をどこかへ眩ませてちゃった。
 風の噂では、隣国の火の都にとんでもなく強い人がいることを聞きつけて、旅に出たとか出ていないだとか。
 正しいことは誰にも分からない。


 差別問題は、依然として残っている。
やっぱり、長い歴史の中で刻まれた、平民と貧民との溝は深いようで、仲直りには、とうぶん時間がかかりそう。


でもね、それでもね、みんな絶望していないよ。
だって知ってるんだもん。
知っちゃったもん。


止まない雨はないんだよ。

なんかファンタジー

なんかファンタジー

雨が止まない国での、アサシンの戦い。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-05

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