アリアドネ
雪の日
奈良に雪がつもりました。
畝傍御陵前から徒歩15分。
風呂、トイレ別、2LDK、ペット可、インターネット回線あり、プロパンガス。
家賃4万円。
プロパンガス以外は全て文句なしな、わたしの要望通りの部屋に今は2人と1匹。
真っ黒い体のおそらく雑種であろう推定1歳の雌猫と、少し背の低い童顔の社会人男性、ちなみに26歳。
そしてブランク3年の定時制高校に通う20歳のわたし。
「ユキーごはんー」
押入れにいるであろう黒い毛玉に声をかけるとウナ〜ンなんて間抜けな声を出して夏用の薄い掛け布団からユキが這い出してくる。
ウナッウナッウナッウナッ
ウマッ!ウマッ!ともとれるような声を出しなからまぐろフレークを食べるユキの背中を指でつつきながら「おいしいですかー?」なんて言って時間を潰す。
バイトかない日、ヒロが帰ってくるまでの間。
わたしはとても寂しくなる。
ユキがいないと死んじゃいそうだ。
いや、ヒロとユキがいないときっと死んでる。
ボリボリとデパスとリボトリールを噛み砕いて唾で飲み込む。
ユキがチラっとこっちを向いて何食べたの?って顔をしながら口周りをペロリとなめた。
愛しくて抱きしめた。
真っ黒い体からはお餅のお焦げのような匂いがした。
午後七時をまわる。
ヒロが帰ってくる気配も連絡もない。
こういう時に携帯電話ってなんのためにあるのだろう、と、悶々と考えてしまう。
悴む指先でメールの問い合わせを数分おきに行う。
嫌な想像が頭の中でぐるぐるする。
ストーブの前でうとうとするユキに頭からダイヴ。
黄色と緑の混じった目を見開きわたしを恨めしそうに一瞬睨み付けたが、やれやれとばかりにわたしを無視した。
ストーブの温風が目を乾燥させる。
目を閉じてユキの心音を聞くことで気を紛らわせる。トクッ、トクッとユキの生きる音が聞こえた。その音にあわせてわたしは自分の首に手を当てて鼓動を数える。
ユキよりも少しだけ早い。
動物が生涯にする鼓動の回数は決まっているだとかなんだとか、誰から聞いたのかは忘れたがそんな事を聞いたことがある気がする。
それに希望を託す。ユキはわたしを置いていかない。
何かよくわからないが涙がユキの毛むくじゃらの体に落ちた。考えるのはやめてしまおう、ユキに落ちた涙をセーターの袖で拭き取り、キッチンへ向かった。
ヒロはご飯を食べて帰ってくるかもしれない。
でもお腹を空かせて帰ってくるかもしれない。
どうしようかと色々考えたが最悪、明日のお弁当に入れれるものを作ればいいか、という答えにたどり着いた。
オムライスとハンバーグを作ろう。
そうと決まればわたしのやる気スイッチはオフからオンに切り替わり、止まることなく動き始めた。
実家では片親で働いてくれる母のかわりに料理を作った。不登校で中学校に行っていないので家事はだいたいわたしの仕事だった。
田舎から出て一人暮らしをはじめたときも普段と何もかわらず順調だった。ただ感謝されることがなくなり、心に穴があいたようだった。
今までどれだけ人に必要とされるために何かをしてきたのだろう。
わたしの弱さに気づいた18の4月。
カチャカチャと鍵穴に鍵を差し込む音が聞こえた。
ヒロ、ヒロ!
わたしは蒸し焼き途中のハンバーグのコンロの火を止め、玄関に向かった。
わたしと出会う前、前の彼女と写った写真で何度も見たユニクロのダウンをシャカシャカ鳴らしながら靴を脱ぐヒロに、まるで自の体に取り込むように抱きついた。
「帰ってこないかと思った」
「んな大袈裟な」
困ったよに笑ってわたしをズルズルと肩にまきつけながらキッチンへ向かう。
「ご飯は?食べた?」
うん、と、それだけ言ってわたしの頭を軽く撫でた。きっとごめんね、の意味を込めてなのだろう。ヒロの手はわたしより少し大きいだけなのにゴツゴツとした男の手だ。そんな見た目から想像もつかないくらいに優しく撫でる。
ユキみたいにわたしが猫であるならば、きっと喉を鳴らしてすり寄るのだろう。
ヒロは冷蔵庫から冷えたビールを取り出すとプシュッっと音を立てて缶をあけた。家に帰ってくると必ずビールを片手にパソコンを触るのが彼の日課である。
わたしはその間、とても暇で寂しいので次の日のお弁当を作る。わたしたちの生活はどこか隙間風が吹くような生活だ。
夕飯用に作ったハンバーグを半分に切り、ヒロとわたしにお弁当箱に詰め込んだ。オムライスはお弁当の形に作ることが難しいのでケチャップライスお弁当に敷き詰め、薄焼き卵を上から乗せた。
ケチャップで文字を書こうとしたが、どうも思いつく言葉もなく、ハートの形なんてガラじゃないと思い、無造作にケチャップをかけた。
お弁当の隙間にはアスパラベーコンとほうれん草を入れた。あまり栄養バランスはよくないのかもしれない。
だがしかし、これ以上入れてしまえばきっと全部残して帰ってくるのだろう。
初めてヒロにお弁当を作ったときはため息をつきながら洗い物をした。それいこう、ヒロの嫌いなものは殆ど把握し、食べれる野菜で出来るだけお弁当を作った。
自分の分のお弁当を作り終えるとヒロがいる部屋にうつる。
パソコンの置いてある部屋は殆どヒロのパソコンの機材でいっぱい。テレビも部屋に似つかわしくないほど大きな薄型のテレビ。
パソコンのモニターが二台。どにように使っているにかは、わたしには理解できない。ヒロの眼鏡にパソコンの画面が小さく映る。
青く点滅するアレはなんなんだろう。充満するラークの匂いがヒロがいることをわたしに知らせるようにずっと煙る。ヒロはここにいる。パソコンをしている。
いるのである。
わたしは、ここに、いるのだろうか。
ヒロはわたしがいると知っているのだろうか。
ヒロのだらしなく伸びた髪の毛を後ろから触りながら
「今週末、髪の毛切っておいで。凄くもさいよ」
わたしの手を払いのけるように自分の手で後頭部を触り
「来月行く」
わたしを見ないでそう答えた。
パソコンをしているヒロはとてもそっけない。大嫌いだ。
早く電源を落としてくれないかと、わたしはヒロの後ろで課題を見つめながらキーボードを叩く音を聞く。
隙間のような、溝のような。
なんとも表現しがたいものが、わたしとヒロのあいだにはあって、それが一緒にいる時間が長くなるにつれて大きく、深くなっていくようで。
ふと、視線を窓にやると雪は雨にかわったようで、落下の速度が少し早い。明日は地面が凍ってしまうのだろうか。少し早めに起きてヒロを起こさないといけない事になるのだろうか。
寝起きの悪いヒロを起こすのは朝かストレスがたまる。
課題も終わり、ヒロを見つめるとまだ熱心にキーボードを叩いている。
「そろそろお風呂行こうよ」
わたしが誘うとヒロはうん、とだけ返事をしてパソコンの電源を落とした。
ヒロとのお風呂は日課のようなものだ。
狭いお風呂なのに無理をして2人で入る。お湯が溢れないように少し少なめにお湯をはる。
ヒロの裸はとんとうにムダ毛少なくて、少しぽっちゃりした女の子のような手足をしている。股間にぶらさがったソレは寒さで縮こまり、子供のようだ。
「なんで見てんの?」
わたしの視線に気づいたのが手でソレを覆い隠した。
「寒いから小さくなってるなーって思って」
そう答えるわたしにパチャっと水をかけて体を洗い始める。ガシガシという擬音がぴったりな乱暴な洗い方で、そこら一面に泡をとばしながら洗う。
お風呂掃除ぐらいしてほしいなーと、思ったけどわたしは浴槽に潜り冷えた肩を温めた。
ヒロは体を洗いきる急いで浴槽に浸かる。
わたしは息を止め、鼻に水が入るのを防いだ。
はぁぁぁ、という魂を出すように息をつくヒロにおっさんみたいと笑うと「そのうちおばさんになる人がよく言うわ」なんて毒をつかれた。
わたしも、もうハタチだもんなぁ。
気持ちはまだまだクラスメイトと一緒の17歳でいるのに、すでに20歳の後半。21に差し掛かろうとしている。
なりたいものも、夢もない。
猫になりたい。ユキになりたい。
鼻から空気をブクブクと出しながら目をつむった。
わたしはいったい、何をしているのだろうか。
夢のようにフワフワとして現実味がないこの空間。生きているっ証明できるものが何か欲しい。
「ヒロ、今日したい。」
アリアドネ