青海苔ラプソディ
前歯に青海苔をつけて、本屋に買い物に行くことにした。
チャンスは一度きりだ、俺は、文庫本を念入りに物色した。最もインパクトのある作品は何だろう、俺の鼓動は一冊そしてまた一冊と文庫本を手に取るごとに高まり、不思議の国のアリスでピークに到達した。
でもな、これじゃあ、ファンタジーの世界の中で、青海苔をつけていることが当然だと思われてしまうかもしれない。そんな気がして、ひどくブルーになってしまった。
だから思い切って、見たこともないマニアックなアイドルの限界ギリギリ写真集を手に取り、勢いをつけてレジへと向かった。
レジには、五~六人の人が列を作っていた。ちょうど、会社帰りのサラリーマンが立ち寄る時間帯で、俺もその一人だからだろう。
前の人は、難しそうな経済学の本を手にしている、その前の人は英語のカバーに包まれた分厚い本だ、どんな内容なのか想像もつかない。ああ、それに引き換え俺はアイドルの写真集、しかも歯に青海苔をつけている、なんてお茶目なんだろう、そう考えると明日への希望が湧いてきた。
ようやく俺の番になり、レジのメガネをかけた女性店員に、あくまでさりげなく本を差し出した。
「カバーをお付けしますか?」
との問いに、
「そのままで」
と回答する俺。冷静だ、事態は順調に推移していた。
「二千六百二十五円になります」
今だ!
店員が俺のほうを向いた瞬間、俺は満を持して、目一杯の笑顔を見せた。
あれ。
特に驚いている様子はなかった、近眼のせいだろうか。しかしメガネをかけているわけだし、店員としてお仕事モードのはず、見えないはずなどないだろう。
疑問にかられながら、俺はそそくさと代金を支払い、レジを後にした。
おかしいぞ、家に帰った俺は、かなりの早足で洗面所に向かい、鏡の前で満面の笑みを浮かべた。
するとどうだろう、前歯についていたはずの青海苔はすっかり消え去り、単なる笑顔のおっさんがそこにいた。
なんてこった、そういえば本を選んでいる間、無意識に舌でなぞっていたかもしれない。重大な失敗に打ちひしがれる俺、しかし、これで終わる俺ではない、この失敗をバネにさらに上を目指すのだ。
ピンポーン。
ああ、通販で注文した夫婦茶碗が来たのかな。
インターホンを手に取ると、
「北新地さんお届け者でーす」
と中年男性の声が聞こえてきた。俺は、引き出しから印鑑を取り出し、玄関のドアを開けた。
やられた、こんなことが……。
「こちらにサインをお願いします」
と伝票を差し出した笑顔の男性。その歯には、しっかりと青海苔がつけられていたのだ。
完全な敗北に、俺の心はさらに深い闇に落ち、思わず印鑑を逆さに押してしまうほどであった。
中年男性は、笑顔のまま、閉められるドアを見送っていた。俺は、とぼとぼと部屋に戻ると、失意の中で宅配便の箱を開けた。
なにぃぃっ、これはっ!
不意に訪れた衝撃。なんと中には、お徳用青海苔の缶二本が入っており、招待状が添えられていたのである。招待状にはこう書かれていた。
見てましたよ、青海苔。
ぜひ、いらしてほしいと思います。
そして、最寄り駅の新橋からの地図が書かれていた。
ここで行かなければ、俺は今後一切、歯に青海苔をつける事はできなくなるだろう。それだけは、はっきりと理解できた。しかし、もし罠だったら、いや、間違いなく罠だ。
俺は三十分ほど、買ってきた写真集を見ながら悩み抜いた。
そのグラビアアイドル写真集のギリギリぶりは俺の想像をはるかに上回るものであり、最後まで見た後再度最初から見直し、さらにもう一度いこうか、いくまいか、そんな葛藤にかられるほどであった。だがしかしそんな中でも、俺は青海苔の事を忘れていたわけではない。
そして、ついに結論に辿り着いたのだ。
行くしかない、と。
電車を乗り継ぎ、一時間ほどで新橋に到着した。
万全だ、歯に青海苔をつけているのはもちろんだが、さらにリュックの中に、送られてきたお徳用二缶と、冷蔵庫にあった卓上用一個を入れてある。事前に確認できるよう、手鏡も用意した。
ただ、電車に乗るとき手鏡を手に持っているわけにはいかない、もし持っていたら……、そしてミニスカートの女子高生が前に来たら……、恐ろしいことだ、だから、リュックの奥にしまってある。決して誰にも見つからないように。
地図にある場所は、十分ほど歩いた、オフィスビルの十五階であった。
玄関を入ると、警備員が立っていたが、俺が笑顔を見せると、どうぞ、と通してくれた。どうやら、ここで間違いないみたいだ。
エレベーターで、十五階に向かう。
他に誰も乗っていないので、ちょっと歯の青海苔を確認しておくことにした。リュックの奥から手鏡を取り出し、念入りにチェックする。大丈夫、しっかりこびりついている。でも、右の方がちょっと甘くなっていたので、卓上用で少し追加しておいた。これで完璧だ。
十五階に着き、エレベーターを出た。
もう後には引けない、俺は鼓動が本屋の時よりも早くなるのを感じていた。
受付には、ご用の方は1番に電話してください、と書かれた電話が置いてあるだけだった。
ああ、もしここで電話して、青海苔?何のことですか?警察を呼びますよ、と言われたらどうしよう、という気もしたが、もし警察を呼ばれたとしても、警官に青海苔をぶっかけて、全力で逃げればいいさ、と思いなおし、受話器を取った。
「えーと、招待状が来たのですが……」
「はい、お待ちしておりました、今お迎えに上がります」
よかった、もう緊張して、五秒ごとに歯の青海苔をチェックしてしまう。
しばらくして、無精ひげを生やした、真ん中分けの男性が出迎えに来た。
「どうも、夜分遅くにご足労いただいて」
確かに、仕事を終えて晩飯に焼きそばを食べて本屋に行き、家に帰った後ここにやって来たわけで、ちょっと焦りすぎかもしれない。明日でもよかったのかもしれない、日時指定も無かったわけだし。今は大体九時くらいだろうか、終電には間に合うようにしてほしいものだ、と思った。
「こちらです、皆様お待ちかねです」
そう言った男性の歯にも、ワンポイントの青海苔がきらりと光っている。
部屋に入ると、何やら地位の高そうな方々が、机を並べて一列に並んでいた。
あれ、ちょっとしたパーティーを期待していたのに、妙だぞこれは、と思っていると、迎えの男性が、マイクで話し始めた。
「ええ、本日お越しいただきました、街で見かけた青海苔さんでございます。皆様、厳正な審査をお願いいたします」
なんだろうか、とりあえず促されるまま、部屋の中央に歩を進めた。
「あー、とりあえず笑ってもらえますかな」
右端の老紳士が言った。
にやり。
俺は、待ってましたと言わんばかりに、緑に染まった歯を思い切り見せて、微笑んだ。
それを見て、お偉方は一斉にひそひそ話を始めた。
やった。
俺は、勝利を確信した。さすがにこれは効いただろう。もはや、何かを食べてついてしまった、というレベルではないからね。まさに、青海苔の青海苔による、青海苔のための歯だった。
「失礼、まだお名前をお聞きしていませんでしたね」
左から2人目の、恰幅のいい中年男性が言った。
「北新地新一です」
そんな答えの時でも、ぱらぱらと落ちる青海苔。もうある意味、緑の金粉ではあるまいか。
「あ、ええ、あと一点、今日の昼ご飯は何を?」
真ん中辺の、ナイスミドルが言った。
「やきそばです、青海苔はもちろん大盛りです」
本当は、大盛りって程ではなかったが、軽くはったりを効かせてみた。こういうときは大げさに言うに限る、大事なのはインパクトなのだから。
「以上です、結果は後日郵送いたします。本日はお疲れ様でした」
「はい、ありがとうございました」
程なく、面接は終了した。一体どうなるのだろう、力は出し切ったが。
期待と不安が交錯する中、俺は再び電車を乗り継ぎ、帰宅した。そして、風呂に入りつつ歯磨きをし、全ての青海苔を洗い流した。
「おやすみ、青海苔」
そう呟いて、俺は布団に入り、二分で深い眠りに落ちていった。
あれから二週間が経過した。
特に何の連絡も来ていない、俺は、歯に青海苔をつけることもなく、何気ない日常を過ごしていた。
ただ、大量の青海苔が家にあるため、たまに青海苔を使ったレシピを考えたりはした。
しかし、考えるだけで、実践はしていない、ちょっと仕事が忙しかったものですから。
でも今日は、久しぶりに仕事が早く終わったので、久しぶりにちょっと新しいレシピを試してみようと思っていた。
今日の晩ご飯は、味噌ラーメン青海苔風味にしてみた。
やきそばに合うならラーメンにも合うだろう、同じ中華なのだから、という発想だ。
生青海苔の味噌汁があることを考えれば、かなり無難な選択と言えるのかもしれない。そう思いながら、仕上げの青海苔をふりかけていると、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
そういやあ、通販で注文した夫婦茶碗遅いな、名前入りにしたからだろうか。と思いつつ、インターホンを取ると、北新地さん、速達でーす。と、若い男性の声が聞こえてきた。
はいはい、と玄関に出る俺。その時俺は、速達とソックタッチって似てるよな、と思っていた。だから、配達員の顔はよく見ず、淡々と印鑑を押し、どうもー、と言って部屋に戻った。
速達にはこう書かれていた。
アオノリフリカカル。
意味がわからなかった。
しまった、こんなことなら、配達員の顔と名前を覚えておいて、ダッシュで追いかけるべきだったのかもしれない。
でも、ちゃんと裏に電話番号が書いてあったので、それには及ばないと気がついた。
さっそく、裏の番号に電話すると、
「ピッピッピ、ポーン、ただいまから、午後七時三十分二十三秒をお知らせします」
と聞こえてきた。
あれ、おかしいな、時報じゃないのに、と思っていると、
「どうですか、似てたでしょ、青海苔仮面オーディション合格おめでとうございます」
と言われた。まずいぞ、これは明らかに悪徳商法じゃないだろうか、そう感じた。
十万円当たったから、十五万円振り込んでくれとか言うんだろう。最初からばればれじゃないか。
「青海苔仮面セットを後日お送りいたしますので、首を長くしてお待ちください。それでは、午後七時三十二分ちょうどをお知らせします、ピッピッピ、ポーン」
そう言って、電話は切れた。
なんだ、悪徳商法じゃないみたいだぞ、俺の勘も落ちたものだ。しかしまあ、待てばいいだけなら楽でいいさ、そう思い、とりあえず、味噌ラーメン青海苔風味を食した。
なかなかいける代物だ、もちろん食べた後は、ご他聞に漏れず、歯は青海苔で一杯になる。レパートリーに加えよう、そう心の中で呟いた。
一ヵ月後、青海苔仮面セットは送られてきた。その間毎日のように、青海苔を食していたので、もうお徳用の青海苔も残り少なくなっていた。だから、もういい加減青海苔はいいよ、と思い始めていたのだが、副賞としてまたお徳用青海苔三缶が同梱されていた。ぐはあ、しかしここは心を鬼にして放置してやるぜ、と思った。
それはそうと、青海苔仮面セットの方だが、なかなかハイセンスな仮面と、マントのセットであった。どちらも鮮やかな青海苔グリーンで、ちょっと東南アジアの民芸品を思わせるようなエキゾチックなデザインとなっている。もちろん口のところは、きっちり開いていた。
とりあえず装着。
まあ予想通りの怪しさだ。
当然の事ながら、これで街を歩くわけにはいかないし、部屋で仮面とマントをつける必要性もない。つまりつける機会は一切無いしろものってわけだ。
でもまあせっかくだから、戯れに今日一日つけて過ごしてみよう、明日からは押入れだな、と思い、夕食の青海苔カレーを食べることにした。そして、青海苔カレーを口に含んだ瞬間。
ふぉおおおおおー!
俺の全身に、未知のパワーがみなぎった。
未知なので言葉で表現することは難しいが、強いて言えば、宝くじで三億円当たった人が、現金を目の前にした時と似ているんじゃないだろうか。これで俺は何でもできる、あんなことでも、こんなことでも、無敵っ、無敵っ、無敵ぃいーっという気持ちが盛り上がるとともに、周囲の空気は振るえ、体が光に包まれ、そして何でも願いが叶う、そんなパワーだということがはっきりと感じられたのだ。
ああ、あわわわわわ。
あまりのパワーに、スプーンを持つ手は振るえ、体中から体液があふれ出してきた。俺は、なんとか冷静さを保つべく、烏龍茶を一杯飲み干した。
ふー。
と思ったら、未知のパワーは、みるみるしぼんで消えてしまった。どういうことだ、と思い、またカレーを食べると、
ふおおおおーっ!
烏龍茶を飲むと、
ふー。
よくよく試してみると、歯に青海苔がついている時に、未知のパワーが出るらしい事がわかった。そうかあ、そういう事か、と納得し、俺は、青海苔仮面セットを押入れに仕舞い込んだ。だって、いくら未知のパワーが発揮できるっていったって、もしこんな格好で外に出て、知り合いに見られたら恥ずかしいからね。
そんなこんなで、三ヶ月が経った。
ようやく、お徳用の青海苔も底をつき、これで青海苔の事は忘れられる、と、思い始めていた矢先のことだ。
ピンポーン。
いやな予感はしたが、今度こそ、今度こそ夫婦茶碗、そう言い聞かせながらインターホンを取った。
「北新地さん、お届け者です」
と、三十代男性の声が聞こえた。
「はーい」
と玄関のドアを開けた俺は、ふごっ、ふごごっ、と鼻を鳴らす羽目になったのだ。
「ふふふぅ、驚きましたかな、北新地さん、いや、青海苔仮面」
玄関の前には、赤い仮面の紅生姜仮面と、黒い仮面の黒胡椒仮面が立ち塞がっていたのだ。なんてこった、なんでばれたんだ、個人情報保護法はどうなったんだ。
俺は、
「ななっ、なんのことですかな、ななんのぉ」
と逃れられるかもしれない万一の可能性にかけて言うことしかできなかった。
「ほら、早く支度してください」
と言われるがまま、俺は、押入れから仮面とマントを取り出し、冷蔵庫から半分ほど使った卓上用青海苔を取り出した。
外に出ると、白いワゴンの中で、黄色い仮面のマヨネーズ仮面と、茶色い仮面の鰹節仮面が待っていた。
「さあ乗ってください」
と促され、俺は後部座席に乗り込んだ。
ああ、せっかくの土曜だっていうのに、一体これからどうなるっていうんだ。
ワゴンは、二回ほどエンストしたあと、ゆっくりと走り出した。
「あ、あの~」
俺は、三十分ほど経ったあと、意を決して話しかけた。
「これから、どこへ行くんでしょうか?」
三分くらいの沈黙があり、ああっ、やばい、殺される、と思い始めたころ、マヨネーズ仮面が言った。
「我々もよくわからないのです、ただ、メンバーを集めて、新橋のオフィスビルに来いとだけ言われています」
なるほど、やはりあの会社はただならぬ会社だということか。
でも、別に仮面とマントは着いてからつければいいじゃないかと思ったが、それは言えなかった、そんなことはとても言えない雰囲気だったからだ。というより何一つ言える空気ではなかった。だからもちろんそれ以降、車中で会話が交わされることは一切無かった。
ただ、みんな歯には何もつけてないようだった。俺も、疲れるのでつけてはいない。
二時間ほどで、新橋に到着した。
首都高で何が原因なのか全くわからない、いつもの渋滞に巻き込まれたので、みんなげんなり気味だ。
タイムパーキングに車をとめ、以前と同じオフィスビルの十五階へ上がった。
「もしもし、トッピング仮面一同です」
紅生姜仮面が受付の電話で言うと、この前と同じ担当者が出てきた。
そんなグループ名だったのか、そもそも、グループだって事も知らなかったわけだけど。次々明らかになる新事実に衝撃を受けながら、小さな会議室へと入って行った。
「少々お待ちください、資料をお持ちします」
担当者は、そそくさと出て行った。
会議室にはパイプ椅子が四つしか無い、俺は一番最後をついて行っていたので、立って待つ羽目になってしまった。
特に会話はなく、どんよりとした雰囲気が漂っている。
しばらくすると、担当者が書類を持って戻ってきた。
「あ、すみません、椅子も持ってきますね、と言い、キャスター付きの椅子を二脚持ってきた」
俺は「あ、どうも」と言って、少しがたがたする椅子に腰を下ろした。
「お待たせしました、では、説明を始めたいと思います」
軽い感じだ、なんだ、たいした事じゃあないのかもしれない、心配することはなかったのかも。
「ええ、今回は、みなさんに殺し合いをしてもらいます」
一分の沈黙。
「なんて、嘘ですよ、はは」
誰一人、反応を示す者はいなかった。
でも、実のところ俺は、ちょっと本気にしかかっていたのだ、あと三十秒あったら信じていた。
「本当はですね、お手元の資料の3ページになるんですが、ある大企業の不正取引を暴いていただきたいのです」
学習した俺は、三分ほどギャグなのを警戒したが、今度は本当らしかった。できればギャグであってほしかったのだが。
話によると、大企業の本社に潜入して、機密情報を盗み出すとの事だ。
こんな目立つ格好で?と思ったが、これは、いざという時に着ればいいとのこと。じゃあ、なんで今着てるんだ。
「一応皆さんご存知と思いますが、仮面とマントを身につけて、歯に対応した食べものをつけていると、未知のパワーが発揮できます」
と担当者が言うと、鰹節仮面が「えっ」と声を出した。
どうやら、気付いてなかったらしい、ばつが悪そうに視線を逸らしている。
しかし俺は見逃さなかった、黒胡椒仮面と、マヨネーズ仮面も驚いた目をしていたことを。
担当者は気を使ってか、そのへんを突っ込むことはしなかった。俺も別に突っ込んだりはしない、できるだけ波風を立たせたくなかったからだ。
そして、担当者はおもむろに立ち上がり、事前に考えていたのであろうダイナミックなポーズを決めながら、
「あなたがたは、一億人から選ばれた、真の勇者なのです!」
と声高に宣言したのだ。
はっとした。
なるほど、そういうことなら合点がいく、俺の青海苔に対する愛が、一億人の頂点に立ったのだなと。
今はもう、飽きたけど。
とにかく、やってやるぜ、なにせ成功したら、報酬が書留で送られてくるとの事だ。他のメンバーもそこそこまんざらでもない感じで、嫌がっている感じはない、やはり金って事なのだろうか、他人のことは言えないが。
俺達は意気揚々と立ち上がり、書類を畳んでポケットにしまおうとした。
すると、担当者に、
「あ、重要機密なので、書類は返して頂きます」
と言われたのだ。
仕方が無いので、全員必死に内容を暗記し、問題の会社へ向かうことになった。恐るべし昨今のセキュリティー意識といったところだ。
担当者から、交通費として一万円(全員分)が支給されたので、そこから駐車場代を払い、ついでにガソリンを給油して、目的地である丸の内に向かった。
全員、仮面とマントは脱いで、休日のサラリーマンといった出で立ちだ。
傍目には、これからゴルフですか?いいですねぇという感じだろう。
「いやあ」
鰹節仮面が話し始めた。
「報酬って、どのくらいなんでしょうねえ」
しかし、返事は無かった。
「それより、どうやって忍び込みましょうか?警備とかあるでしょうし」
紅生姜仮面が言った。実のところ、紅生姜仮面は、結構やる気がある感じだった。担当者に、色々と質問もしていたし。
「土曜だから、会社は休みでしょうね、休日出勤がいるくらいでしょうか」
黒胡椒仮面が言った。俺は、ここで乗り遅れてはならない、と思い、
「やっぱり、変装ですかね、ここは」
と言ってみた。しかし、紅生姜仮面に、
「いや、変装じゃあ無理でしょう、ちゃんとした会社ですから、と却下されてしまった」
で、結局のところ、仮面の力を借りることになった。
いきなりか、でも仕方が無い、他に有効な手立ては無いのだ。
未知のパワーは、本当に未知なので、実際に何ができるのかは、全くわかっていないが、少なくとも、忍び込むことはできるはずだ、根拠は無いが、そう確信していた。
「では、まず、マヨネーズ仮面さんお願いします」
紅生姜仮面が言った。
「え、私ですか?私はいま運転中ですので」
「では、青海苔仮面さんお願いします」
と指名されてしまった。
「別にいいですが、着いてからにしませんか、疲れてしまうかもしれませんし」
「なるほど、そうしますか」
と言っているうちに、十分ほどで大企業のビルについた。
やはり土曜ということで、人通りはあまりないようだ。
裏通りに車を路駐させ、全員外に出た。
「では、お願いします」
「はい」
俺はおもむろに仮面とマントを身に着け、歯に青海苔を塗りたくった。
む、むむむむむ。
むおおおおお。
これだー!
俺は、寒空の下、両手を突き上げて叫んだ。
これなら、機密情報でも、キムチ情報でも、ドンと来い、そう思えた。しかし、俺のハイテンションとは裏腹に、他の四人はローテンションの極みであった。
「別に、何も変わって無いじゃないですか」
と、黒胡椒仮面が言った。
「ただ、恥ずかしいだけですね」
マヨネーズ仮面が言った。
「いや、変わってますよ、全然違いますよ、やってみればわかりますよ、さあ、早く!」
俺は、全力で仮面の着用を促し、渋々了承させた。
まず紅生姜仮面が、仮面を装着し、紅生姜を歯につけた。
むふぉーーー!
次に黒胡椒仮面が、仮面を装着し、黒胡椒を歯につけた。
うっほ、うっほー!
そして、マヨネーズ仮面が、仮面を装着し、マヨネーズを歯につけた。
ああっ、ああおおーー!
最後に、嫌々、鰹節仮面が、仮面を装着し、鰹節を歯につけた。
えーっ!えっええーっ!
俺達!トッピング仮面!
全く打ち合わせをしてもいなかったが、なぜかぴったりと息が合った。これも、未知のパワーのなせる業だろう。
「いける!これならいけますよ!早く忍び込みましょう!」
黒胡椒仮面が、裏返った声で言った。
「そうでしょう、だから言ったじゃないですか」
紅生姜仮面が、してやったりの表情で頷いた。だったら、自分が最初にやればいいじゃないか。
まあ、とにかく、これでいける気がした我々は、堂々と正面玄関から入る事にした。
「いやあ、これなら、丸の内のOLも、我々に夢中でしょうなぁ」
鰹節仮面が言ったが、みんな黙々と入り口へ向かった。
正面玄関は、土曜なので閉まっており、脇の通用口のインターホンを押さなければならなかった。
プー。
黒胡椒仮面が、いきなりインターホンを押した。用心する気など微塵も無いのだろう、俺もそうだった。
「はい」
「営業第一課の佐々木です」
そう言うと、扉が開いた。
恐らく、未知のパワーによって、たまたま休日出勤するはずだった社員の名前が頭をよぎったのだろう。監視カメラもあったのだが、きっと、たまたま見なかったに違いない、そう思った。
中に入ると、とりあえず、エレベーターに乗り込んだ。
紅生姜仮面が、三十階まであるうちの、二十六階のボタンを押した。
「いやあ、こりゃあ楽勝ですね」
マヨネーズ仮面が言った。
「ああ、でもまだ気を抜いちゃあだめだ、各自、歯のチェックを怠らないように」
と紅生姜仮面が言ったので、俺はもう一度、青海苔を塗りなおした。でも、俺は思った、青海苔はまだいいけど、紅生姜とかは、歯から剥がれやすいのではないかと。マヨネーズなんかは、かなり微妙だと。
でも、みんな念入りに塗りなおしているので、その辺は気にしないことにした。
そうこうしていると、十階でエレベーターのドアが開いた。
「ああっ、すいません」
十階からエレベーターに乗ろうとした若い社員は、驚いて後ずさりをし、礼をしたままエレベーターを見送った。
彼は、何も悪いことはしていないが、見てはいけないものを見た気がしたのだろう。そういった意味では、これも未知のパワーの一つなのかもしれない。すまない、ただそう言いたかった。
エレベーターは、無事二十六階に着き、俺達は手分けして機密文書を探すことにした。
俺は、紅生姜仮面に言われるまま、鰹節仮面と一緒に行動することになった。
しばらくすると、鰹節仮面がひそひそ声で話しかけてきた。
「いやあ、ちょっと腹が減ってきませんか?昼飯食ってないんもんで」
俺は、二人きりだしこっちだけそんなことをするわけにはいかないと思い
「すぐ終わると思うんで、我慢してください、鰹節でも食べて」
と答えた。だが、実のところ、俺も減っていたのだ。
そして、いくつかの部屋を覗いた後、俺達は、自動販売機を発見した。
その中にはなんと、秋葉原で有名な、おでんの缶詰めがあったのだ。はっ、と思った。その刹那、隣では鰹節仮面がおでんを買っているところだった。次の瞬間、俺もおでん缶を買った。
「なんだぁ、青海苔仮面さんも減ってたんじゃないですかぁ」
そう言われ「ええ、まあ」と小声で答える俺だった。
小銭が無かったので、千円札で購入し、つり銭口に手を入れると。
これっ、これはーっ!
つり銭口に、小型のメモリーカードが入っていたのだ。
「見てっ!これですよ、これっ、まさにこれ!」
大興奮の中、鰹節仮面の方を見ると、既におでんを食べ終わり、汁を飲み干しているところだった。だが、俺が手にしたメモリーカードを見ると、一瞬おでんを戻しそうになりながらも、
「早く、みんなに知らせて、ずらかりましょう」
と、おでんの汁を完全に飲み干した。
俺は、鰹節仮面の手を引き、廊下をひた走って他のメンバーに、機密文書発見を知らせに行った。
他のメンバーは、別の自動販売機で、ハンバーガーを食べているところだった。
「あ、いや、ちょっと休憩も必要かなって」と言っていたが「別にいいですよ、それより早くずらかりましょう」と、とにかくまくし立てたのだ。
ちなみに俺は、興奮のあまりおでん缶を取り出すのを忘れていた事に、この時は気付いていなかった。いまさっき気がついたのだ。
俺達は、また、もと来たエレベーターに乗り、一階のボタンを押した。
「いやあ、ほんとに楽勝でしたね」
マヨネーズ仮面が言った。
「ですねぇ、あとは帰るだけですから」
上機嫌の俺は、ニコニコ顔で受け答えをし「ねえ、ほんとに」と全員の顔を見回した。
そして、すんなりと一階に到着し、エレベーターのドアが開いた。
「そこまでだっ!この泥棒猫っ!」
エレベーターホールは、数人の背広のジェントルマンと、黒山の警備員で埋め尽くされていたのだ。
あわわわわ。
ふふふふ、ははははは。
紅生姜仮面が、高らかに笑い声を上げた。
「止められるのか、この私が、ふははは、ふはははははー!」
そして、笑いながら、人込みの中へ突っ込んでいったのだった。
数秒後、紅生姜仮面は、床にへばりついていた。
「えー!」と言う紅生姜仮面をよく見ると、歯の紅生姜が全て剥がれ落ちている。
恐らく、ハンバーガーを食べている間に、剥がれてしまったのだろう。
となると、俺だ、何も食べていないのは俺、俺しかない!
あとの三人は、呆然としていて、歯には気がついていないようだ。
「これを見ろー!」
俺は、メモリーカードを高々と掲げた。
「それはっ!」
最前列にいた、年配の男性社員が素っ頓狂な声を上げた。
みんなが、それに注目した瞬間。
俺は、ダッシュで紅生姜仮面に近づき、ポケットから紅生姜の瓶を取り出して、歯に紅生姜を塗りつけた。
「うおー!今だー!」
紅生姜仮面が雄叫びをあげると同時に、トッピング仮面一同は、裏口に向かって走り出した。
「ぬおー!」
全員、次々と襲い掛かる警備員の皆さんを、指一本触れさせずに、かわしきり、裏口の扉に手をかける。
ガチャ、ガチャガチャ。
しかし、鍵がかかっていた、そんな、そんなぁ。
「いやいや、待ってください皆さん方」
振り向きざまに、鰹節仮面が言い放った。
すると、警備員の皆さんは立ち止まり、鰹節仮面に注目した。
はっ、鰹節仮面が食べたのはおでん、おでんは鰹節の出汁を使っているじゃないか。
歯に付着した出汁の作用で、未知のパワーは発揮されている。
「そう、我々は逃げも隠れもしません。ちょっと戸締りを確認しただけなのです」
マヨネーズ仮面と、黒胡椒仮面が言った。
はっ、二人が食べたのはハンバーガー、そこには、マヨネーズと黒胡椒が含まれていた。
いけるっ、いけるぞ、何でもいけるっ!
「安心してください、我々が来たからにはもう大丈夫」
そうだ、俺達は、新進気鋭のニューヒーロー、
トッピング仮面!!!
決まった、完璧すぎるほどに。
休日のオフィスビルを、五秒ほどの静寂が包む。
そして、
パチ
パチパチパチ
バババババ
ドドーン!
おー!
いいぞー!
キャー!
拍手と歓声が渦巻き、熱狂と興奮は、さながらスーパーヒーロー大集合、会場で僕と握手、約束だ、という感じであった。
「ありがとう、みなさん、ありがとう」
俺達が手を振りながら出口に向かうと、自然と人混みが分かれ、道ができていった。
「これからも、応援よろしく!」
最後に、紅生姜仮面が叫ぶと、一際大きな歓声が上がり、俺達は心地よい充実感と共に、その場を後にした。
車の場所に戻ると、窓ガラスには駐禁のステッカーが貼られていた。
しかし、俺達は充実感で一杯だったので、お勤めご苦労様です、という気持ちで車に乗り込み、そのままの状態で走らせて、元のオフィスビルに戻った。
「おーい、今帰ったぞー」
紅生姜仮面が、受付の電話で、得意げに言う。
「どうもどうも、どうですか、その様子では成功ですか?」
担当者が、いそいそと出てきて、言った。
「はっはっは、分かりますか、いやーはっはっは」
みんな上機嫌で受け答えしながら、データの確認をするため、会議室に入っていった。
「では、見てみましょう」
メモリーカードを、ノートパソコンに挿入し、プロジェクターで中身を映し出す。中には、いくつかの文書ファイルと、画像ファイルが入っていた。
文書ファイルを開くと、これはぁあっ!
そこには、キムチの輸入に関する契約書と、取引先の情報、そしておいしい食べ方が記されていた。
ほんとにキムチ情報だったなんて!
俺は、がっくりと肩を落とした。他のみんなも激しく落胆していることが、空気感で伝わってくる。
「いや、お見事です、まさに北朝鮮を経由した密輸の決定的証拠です」
おおお、でしょ、でしょー!
俺達は全員、この上ない歓喜に沸き立ち、通りがかりのOLにドアを開けられ「お静かに」と注意される程だった。
「こちらの画像も見てみましょう」
次に、スクリーンに映し出されたのは、中年男性が夜中のオフィスで、全裸でポーズをとっている写真であった。そういえば、エレベーターホールで見た顔なような気がしないでもない。
「まあ、これはね」
と、担当者は画像を閉じた。
「ああ、今の、もう一回!」
と鰹節仮面が食い下がったが、担当者は無視して、締めに入り始めた。
「いやあ、今回は、本当にご苦労様でした、お疲れのことと思いますし、ゆっくり休んでください。報酬は、後日送らせて頂きます」
ということで、その場で解散となり、俺達は帰宅の途についたのだった。
「ふは~、疲れたよ、お茶漬け食って寝るか」
帰宅した俺は、青海苔仮面セットを押入れに仕舞い込み、ご飯を炊き始めた。
起きてから何も食べて無いっていうのにもう晩飯時だ、だから自然とご飯の量は多めになっていた。
そのままテレビを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。お、もう報酬が送られてきたのだろうか。俺は、喜び勇んで玄関を開け、嬉々として印鑑を押した。
これはっ!
中には、夫婦茶碗が厳重に梱包されていた。
名前入りだ、片方に、きたしんち、もう片方に、しんいち、と可愛く書かれている。
ちょうどいい、これでお茶漬けを食おう。
ということで、両方の茶碗に炊きたてのご飯を盛り、片方には梅干しを、もう片方にはたくあんを乗せ、お茶を注いだ。
「いただきまーす、さらさらさら」
すきっ腹にお茶漬けは、最高の贅沢だな。
ん、でも、何かが足りない、そうだ、あれだ!
俺は、おもむろに、ポケットから卓上用青海苔を取り出した。
心ゆくまで、青海苔をふりかけ、お茶漬けを頂く。
はあ、やっぱり青海苔だな、そんな気がした。
青海苔ラプソディ