ゆめうた
◆イントロダクション◆
空っぽの俺は空っぽの夢を見る。その夢の世界には大きな湖と風だけ。誰一人存在しない世界。俺の意識だけがただそこにあって目の前の何もない景色を見せられていた。それは何だか懐かしい景色のように感じられた。そう、とても懐かしい景色……。だが俺はこんな場所を知らない。それなのにこの景色のどこに懐かしさを感じるのだろう。何もない寂しい景色なのに……。
――しかしそこには歌があった。
誰もいないはずのこの場所に歌だけがあるのだ。誰が歌い、誰に聞かせているのか分からない。頭上から降り注ぐそのメロディーは美しく優しいものだった。心地よいメロディーを聞いているとなぜか急激に悲しくなった。溢れ出す感情に抗うことも出来ずただ身を任せる。
俺は決まって泣きながら目を覚ます……。
◆第一章◆
「直也、おはよう」
居間に出ると母が声をかけてきた。いつものように自分の席につき新聞を手に取る。
「ああ、おはよう」
「寝不足ぅ?」
母が淹れたてのコーヒーを差し出しながら言う。
「そんなことないよ。昨夜もいつも通りぐっすり眠れたし」
「本当ぅ? なんだかまだ眠そうに見えるけど?」
メガネの奥の目をまん丸くしながら俺の顔を覗く。
「そういう顔なんです」
俺はコーヒーを一口飲んで答えた。朝はいつもコーヒーを片手に新聞に目を通すのが日課だ。
「……あれ? 姉貴は?」
「彩実なら先に出たわよ。今日はテニス部の朝練だって」
母も椅子に腰掛け自分の分のカップに口をつける。
「ふうん。あ、大会が近いんだっけ?」
「そうそう、県大会。もうすぐだからね」
「姉貴は我が菊野高校テニス部のエースだもんなぁ」
「あんたは帰宅部のエースだっけ?」
「そう。不動のね」
「はいはい。……あ、もうこんな時間! お母さんもそろそろ出ないと!」
母がバタバタと空いた食器を片付け始める。
「俺が洗っておくから良いよ。まだ食ってるし」
洗い物を始めようとする母に提案する。
「俺はまだ時間に余裕あるし」
「そう? それじゃお願い!」
母はバッグを手に取り一目散に玄関へ向かう。
「あ、戸締りの確認もよろしくね! 最近は物騒だから……。それじゃ行ってきます!」
「はーい。行ってらっしゃい」
俺はトーストの残りを一気に口の中へ放り込むとそのままスポンジを泡立てた。テレビからは芸能人の婚約発表について流れていた。穏やかないつもの朝だった。
街はいつものように平凡そのものだった。いつものように道路は混み合い、いつものようにたくさんの人が通り過ぎて行く。何も変わらない当たり前の風景だ。俺は大通りを折れて自然公園の中を歩いていた。街中の喧騒は苦手だ。遠回りになるのだがこの公園を通り抜けるルートを俺は好んで使っていた。穏やかな公園の緑の中を歩くことでこの世界から切り離された自分だけの領域を確立出来る気がしていた。自分だけの世界……幼い頃、友人と遊びながら自分の陣地だなんだとはしゃいでいたことを思い出す。体が大きくなっても思考回路に大きな変化はないらしい。ただ、その対象が物理的なものから精神的なものに移り変わってきている。大人になるとはそういうことなのだろう。
公園内を進んでいると前方のベンチに女の子が見えた。菊野高校の制服、何か考え事をしているらしくぼんやりと虚空を見つめている。俺は特に気にも留めずそのまま通り過ぎようとした。
――その時、歌が聞こえた。
それは夢の中で何度も聞いていたあの歌だった。夢の中の何もない世界で唯一感情を揺さぶられるあの歌だった。この歌は一体どこから……? あまりに不意の出来事で俺は全神経をこの歌に集中していた。
「……いじょうぶですか? あの、大丈夫ですか?」
気が付くと目の前に女の子が立っていた。肩まで伸びた髪にリボンを付けている。不安そうな表情で俺のことを見つめていた。
「――え? いや、あの、あれ?」
女の子がおもむろにハンカチを差し出す。
「涙を、拭いてください」
「……え?」
言われて気が付いた。どうやら俺は泣いているらしい。
「あ、ありがとう……」
女の子から慌ててハンカチを受け取り涙を拭いた。
「それにしてもビックリしましたよ……! ベンチに座って考え事していたら急に後ろで気配がして、振り返ったらあなたが泣いてるんですから……!」
「……ごめん。驚かせるつもりはなかったんだ」
「いえいえ。それにしてもどうして泣いていたんですか? なんだか……尋常じゃない雰囲気でしたよ?」
「……分からないんだ。歌が聞こえてきて、それが夢の中のと同じだって思ったら……。あ、ハンカチありがとう。洗って返すよ」
「そんな気を遣わなくて大丈夫です。ところで歌っていうのはもしかして……この歌ですか?」
俺から受け取ったハンカチをポケットにしまってから女の子の唇が夢の中の歌と同じメロディーを奏で始める。それは何度も夢の中で聞いていたメロディーそのままだった。
女の子の唇から紡がれるそのメロディーは美しくも儚げに感じた。
「そう……。その歌だよ。君はその歌をどこで知ったの?」
「分かりません。気が付いたら知っていて自然と口を突いて出てくるんです。どこで誰から教えてもらったのか分からないんですよ。不思議ですよね」
「でも……」女の子は満面の笑みで続けた。
「この歌を歌っていると心が安らぐんです。何と言うか……ひとりじゃないんだって思わせてくれるんです。だから私にとって大事な歌で、大好きなんです!」
「そっか――。それで、あの……」
どうしてこの女の子が俺の夢の中で聞こえてくる歌を知っているのだろう? そもそもこの歌は何なのだろう? もしかしたら俺が覚えていないだけで昔流行った歌なのだろうか? ……一度にたくさんの言葉が溢れてきてうまく口に出来なかった。
「いけない!もうこんな時間!あなたも急がないと遅刻しますよ!」
女の子に言われて腕時計を見た。今すぐに向かわないと遅刻ギリギリの時間だ!
「うわ!もうこんな時間かよ!?やべー!」
「急ぎましょう!」
「う、うん!ところで君のその歌のこと、もう少し教えてくれないか?」
「え?ですから、さっきも言いましたが、私も知らないんですよ!あなたが、何か、知っているなら、私が、教えて欲しい、くらいです!」
早歩きをしながら女の子が切れぎれに答える。俺の中ではたくさんの疑問が次々に溢れ出て言葉にならなかった。だからひたすら足を前に進めた。
「……ところで!」
校門が見えてきたところで女の子が話しかけてきた。
「ところで、あなた、お名前は?」
「俺は、きりはら! きりはら! なおや! 君は?」
「私は、みずね! かわひら! みずね! です!」
校門を無事に抜けたところで予鈴が鳴った。どうにか遅刻は免れたらしい。もはや急ぐ必要もなくなったので息を整えながら昇降口までゆっくり歩いていた。
「かわひらさん、だね? 何年生?」
「一年生! きりはら、くんは?」
「俺も! 一年生!」
同い年に見えなくて少し面食らった。大人びているというか自分よりはるかに落ち着いて見える。
「何組? 俺は、二組!」
「七組、です!」
「分かった! 昼休みに、時間取れないかな? 歌のこと、もう少し、聞きたい!」
「分かりました! それじゃ、昼休みに!」
これが全ての始まりだった。
ゆめうた