導火線

※これはSFだ。普通の意味での文学からは程遠い。SFというよりむしろシミュレーション小説というべきかも知れない。

・・・

使用中あるいは使用済み核燃料というのは冷やし続けなければいつか必ずトラブルを起こすものだ。炉心にあってもブールにあっても再処理工場にあっても。ひとつの核施設がトラブルを起こして広範囲に被害を出し、そこに人が立ち入れなくなると、その範囲内にある核施設も人が手を出せなくなっていつか必ずトラブルを起こす。

導火線

2011年3月11日の地震で福島第一原子力発電所1号機は配管破断で壊れた。本当はそれだけでも致命傷だったのだが、送電鉄塔が倒れた。非常用ディーゼル発電機は津波で水没した。1~4号機の冷却機能は失われた。その後、1、2号機は水素爆発で、3号機は部分的再臨界による爆発で建屋が壊れた。もっとも不思議だったのは4号機で、誰も見ていないところでいつのまにか大爆発を起こしてもっともひどく破壊された。核燃料は4号機炉心には無く、使用前、使用済みともプールに入っていて無傷だった。爆発した3号機から軽い水素が排気管を通して4号機に入り、ほぼ一日たって爆発という筋書きが提唱されたが、それはありえないものに見えた。しかし、代わりの理由も見つからなかった。
しかし、これらの影に隠されたものがたくさんあった。
福島第二原子力発電所は大変運が良かったので福一と同じ運命をたどらなかっただけだった。電源喪失の点では福一と同じだったからだ。
女川1号機も3月11日に電源喪失した。さらに津波後の引き波で取水口に水が届かなくなった。これは短時間とはいえ冷却機能の完全喪失を意味していた。運よくそれは切り抜けられたが、4月7日の余震では想定を上回る地震による加速度が観測され、5系統ある外部電源のうちの3系統が飛んだ。1系統だけが生き残っていたが、バックアップのディーゼル発電機2台のうち1台は壊れていたのだ。
東海第二原発は常用電源が停電し、ディーゼル冷却用海水ポンプも故障していた。あと少し津波が高ければ間違いなく福一と同じことになったろう。
六ヶ所村の再処理工場も3月11日、外部電源を喪失、ディーゼル発電機に頼った。4月7日の余震でも一時ディーゼルで命をつないだ。3月11日のほうはプールの冷却が不能になっていたのだが、それはフランス・シェルブールのラ・アーグ再処理工場の事故のコピーだった。良かったのは最悪の事態を寸前で避けられたという幸運もコピーされていたことだった。
再処理工場のプールの水が蒸発すればそれは北半球の人類全体に対して急速あるいは緩慢な死刑の執行になったはずだった。
メディアでは取り上げられなかったことはもうひとつあった。これら、ろくでなしの灼熱地獄たちは相互に導火線でつながっていて、ひとつが爆発すれば、他のものも連鎖的に爆発していくものだったのだ。

x日20時
その日、福島県はあいついで北上してきた2つの台風で記録的大雨だった。沿岸部は高潮の危険もあった。福一4号機で昨日まで実施していた、使用済み核燃料貯蔵プールからの使用前燃料棒の引き揚げは朝から中断していた。
プールの冷却ポンプがまた故障した。いつものことだった。即座にバックアップのポンプに切り替えられた。故障したポンプの修理は台風の通過後にすることになった。
同じころ福一は台風の暴風雨圏内に入った。

x日22時
予想を超える強風で、予想通りに夜の森線の送電鉄塔が倒壊した。強風で架線が切れることはあっても鉄塔が倒壊するというのはめったにない。それは鉄塔下の地盤の悪さが原因だった。福一の一帯は、もともと無数に走る断層で地盤が弱かった。そこに来たのが異常気象によるふたつの台風による大雨だった。
鉄塔倒壊と同時に、ディーゼル発電機が起動され、とりあえず問題は収まったかに見えた。
気がつくと強風でプールにかかっていたシートは吹き飛ばされていた。プールには台風が運んできた木の葉や砂などが大量に落ちていった。ポンプのホースにはごみが詰まりはじめていた。

X+1日1時
雨は小降りになったが風はいっそう強さを増した。燃料棒引き上げ作業中のキャスクとそれを吊っていた引き揚げ装置の一部がプール内に落下した。もともと少しずつ漏水していたプールの亀裂がさらに広がって、漏水の流量が増えた。
しかし、それよりももっと大きな魔物が見えないところで動き出していた。
4号機建屋の下の地盤は大きく沈下していた。沈下の程度は東、海側が陸、西側より大きく、不同沈下で建物が傾いていた。建屋の周囲は泥の海と化し、濁流が建物の基礎の周囲をえぐっていった。

建物というものは、RC造でもS造でも、地盤に支持されて持つように出来ている。船のようにあらゆる方向の負荷条件に耐えるものでも、船底の一点で全荷重を支えれば二つに折れ曲がる。建築物は船よりも脆弱で、片側の基礎が全部地面から浮くことにはもともと耐えられない。
原子炉建屋隅の基礎の周辺が濁流で少しずつ削られていった。しかし、そこは雨が少ないときは線量が高く、雨で洗い流されるときは足元が悪く、結局、目視による点検もされていない盲点だった

X+1日10時
台風は通過し一旦はやんだ雨も小降りに戻り始めていた。石油タンクの復旧ができていなかったため、備蓄していたディーゼル燃料はあまりに少なかった。電源は8時間以上かかっても復旧しなかった。
鉄塔に代わる地上経由4kmの仮配線が作業員の努力で完了したので、ディーゼルを止めた。
しかし、予定時刻を過ぎても、いつまでも電源は回復しなかった。そのときどこかでバチーンという音がした。それは浮いてしまった基礎梁が上げた悲鳴だった。すでにクラックが入っていたコンクリート梁の中の、太い異型鉄筋が何本も一度に破断した音だった。それはプールの亀裂を一気に広げた。水は今までは比較にならないスピードでほとばしり始めた。
水位が下がったプールからは急速に湯気が上がり始めた。夜の森線からの給電が復帰しないので、現場監督と作業員はとっさに給電線を外す間を惜しんで、回路に並列にディーゼルをつないだ。ディーゼルがうなりをあげてポンプを回す。しかし、そのとき携帯電話による事前通報もなく、突然給電線からも電圧が戻った。電源二つを並列につないではいけない、どちらかが電源ではなく負荷にされてしまう。ディーゼルは火を噴き、仮設のトランスもまた火を噴いた。
幸いポンプはたいした被害を受けなかった。予備のディーゼル車が運び込まれた。しかし、消火活動が終わった時点ですでに事故発生から14時間、ディーゼル油はほとんど残っていなかった。予備がないトランスが燃えた以上、送電線側からの復旧は期待できなくなった。そもそもプールの亀裂がここまで大きくなると、海水をいくら注入してもいずれ追いつかなくなることは明白だった。こぼれ出続ける水が海に流れていくのを止められる人手はもちろんなかった。

X+1日11時

現場所長は仮設の制御室から電話で規制庁に10号通報を行うと、別の電話でディーゼル燃料輸送を業者に依頼した。しかし、台風は弱くなっていたとはいえ、冠水のため道路は大渋滞していた道幅一杯ぎっしり並んだ車はノロノロ運転でゆっくり動いていた。タンクローリーは立ち往生した。運転手はクラクションを鳴らし、窓から顔を出し大声で怒鳴ったが風にかき消された。運転手は所長に電話して窮状を訴えた。

X+1日12時
2台のパトカーが赤色灯を回しながら路側を走っていった。タンクローリーにたどりつくと車載スピーカーで渋滞している車列に道を空けるように要請、いや命令した。パトカー先導による強引な燃料輸送が始まった。
しかし、すでに車間もないような渋滞では一般車が道を開けるために路側に移動するのも、逆に路側を空けるのも極めで困難だった。たとえ、装甲車で威嚇射撃しても動けないときは動けないものだ。無理に動けばぶつかってますます動けなくなる。
それでもゆっくりと路側はクリアされていった。タンクローリーは小雨で視界の悪いなか、ゆっくりとパトカーを追跡したが、ぬれた路側でスリップし、転倒した。そもそも物理的にこんな日に燃料輸送は無理だった。
パトカーは事故処理よりも先に福一の所長に報告した。所長は自衛隊の緊急出動要請を決断した。

X+1日12時30分
急遽、航空自衛隊東松島基地ではディーゼル燃料用のタンクを旧式のシコルスキーに積みこんだ。基地内のディーゼル燃料を確認したが不足だったので、市内のガソリンスタンド複数に協力要請した。しかし燃料が基地に届いたのは13時10分ごろだった。

X+1日13時30分
自衛隊ヘリは台風後の強風の中を決死の覚悟で離陸した。しかし、途中突風にあおられ山肌に接触、幸い墜落爆発炎上はなかったがローター損傷で不時着し、陸上部隊の救出待ちになった。ディーゼル燃料空輸作戦の失敗も即座に所長に伝えられた。
青ざめた顔の所長は今度は海自に船舶出動を打診したが、海はあいかわらずしけていて船舶は全面的に出港停止だった。福一の搬入用湾内に入港するのも至難なら、岸壁から4号機プールまでの距離を運ぶ手段さえ誰も思いつかなかった。原発の敷地は広いのだ。

X+1日15時
このときになって初めて現場所長から規制庁経由で首相官邸に第15条通報が入った。
関係閣僚と事務官が召喚され緊急閣議となった。
この時点で防災担当大臣から首相には周辺住民に避難勧告するべきと強硬な意見が出たが、首相は怒りもあらわに拒否した。知らせればパニックになる。
現状では避難路のいくつかが台風の余波で絶たれている上、家屋の被害もあり、避難勧告を出しても移動手段がないという話だった。事態を見守りながら現場の所長に任せて、それに全面協力するしかないということで閣議はまとまった。官邸の過剰介入は事態を悪化させる。そもそも東大文科一類卒には事態に介入できるほどの科学的知識の持ち合わせはなかった。言い換えれば、官邸には打つ手は何も無かったということだった。

傾いたプールの水量はまだぎりぎり持っていた。しかし、沸騰した水から白い湯気は40~50mの高さまで上がっていた。

X+1日18時日没
原因不明・予想外の水温上昇が観測された。
パブリックコメントにはプールの内側高温部分と低温な外気との間に熱伝対を設けてそれで発電しろというものがあった。それがあれば多少は時間が稼げたかもしれない。しかし、効率の良い半導体タイプのジーベック効果素子はγ線に耐えられないとされた。異種金属による熱伝対はいくらかタフだったが、それでは発電力が不足して、プール周辺一面を素子で埋めても、冷却ポンプを安定的に回すには足りなかっただろう。

一つ目の台風は宮城県北部に移動していたが二つ目の台風が近づいて来ていた。
雨脚が激しくなってきており、気温は秋にしては異常な5℃にまで落ちていた。タイベックスを着た作業員が野ざらしの4号機プールのそばに行くのは不可能だった。防寒衣類はタイベックスの下にも上にも着る事ができなかった。ゆっくりと2回目の暴風雨が始まった。
水温はすでに100℃だった。測定点によっては150℃にもなった。これはなんらかの理由で測定器が故障したのだ、と所長は自分に言い聞かせた。たしかに、どの温度計もでたらめな数値を示しているようにも見えた。何が起こっているかは結局、誰にもわからなかった。最後まで。

二つ目の台風の暴風は強かった。仮設の作業小屋は震度5クラスの地震のように揺れ、いつ吹き飛ばされても不思議はないような状態だった。しかし、コンクリートで補強された4号機の原子炉建屋が風で揺れることなどだれも予想しなかった。
不動沈下で傾いていた建屋はこの程度の風でも、ごく少し揺れていた。
ぴったりあわせたリズムで繰り返して釣鐘を指で押すと、いつか数トンある釣鐘も揺れるとされる。風の息で建屋は繰り返し揺さぶられていた。

X+1日19時
プールの亀裂が致命的になり滝のような漏水が始まった。
ポンプの停止による水温上昇と、漏水による水位の低下はどちらも考える時間を与えないスピードで進んでいった。
プールから漏れた高濃度汚染水ですでに建屋周囲は2Sv/hを超える線量になつていた。作業員は近寄ることができなかった。人は短時間で累積6Sv浴びるとほぼ全員が即死する。

X+1日23時
凶悪な湯気の中で、ラックと燃料集合体上部が水面から現れてきた。温度上昇は遠隔サーモグラフィで確認できたが、測定器がすべて故障しているため内部が正確に何度になっているかは不明だった。
二つ目の台風は真上近くまで来ていた。風が弱まる台風の目ということもあるが、残念ながら、目は福一のやや西側を通過しつつあった。
南方海洋上にある太平洋高気圧からは非常に強い南風が噴き出していて、東北太平側リアス式海岸の海にプールから出てきた濁った湯気の成分を撒き散らしていた。

X+2日2時

二つ目の台風が通過中だった。
地元の抜け道に詳しい所員の働きで、ポンプ車と補充の作業員が深夜に到着した。作業員は仕事を始める前から疲れきっていた。

すでに低くなっていた水面はあちこちでゴボコボと沸騰していた。
空気中に出ていたジルコニウム菅に、崩壊熱で穴があき始めた。中のペレットがバラバラと落下していった。ペレットは水底に堆積し、しだいにその量を増やしていった。

ポンプ車は送水管につながれ、すぐに運転を開始した。作業員たちは1Sv/hという致命的な線量の中、貧弱なバッテリー照明のもと、激しい風雨に邪魔されながら、ポンプを動かし、海水をはるか上階にあるプールに注ぎ込んだ。
だがこの水流はプール内に時計回りの渦を作ってしまった。落ちた燃料ペレットは渦の中心にどんどん集まっていった。

臨界
ウラン235やプルトニウムの原子核はとても不安定で、勝手に分裂して別の核2つになる。このときとても大きなエネルギーとα線、β線、γ線、中性子線などを放出する。また、不安定な原子核に中性子がぶつかるとより確実に核分裂を起こす。ある原子核が分裂して中性子2つを飛ばしたとする。その中性子が他の核にぶつかってその核を分裂させてしまうとする。そこでも中性子2つが飛び出す。2つの中性子のうち平均して1つが他の核を分解すると安定的に核分裂が続く。これを臨界という。当たりが1より少ないとやがて核分裂は減っていく。しかし、当たりが1を超えると・・・核分裂の頻度がだんだん大きくなる。非常に速くこの発散タイプの核分裂が起きるのを即発臨界、または核爆発という。一定のペースで核分裂が続けられればそれは原子力発電に使われる。
中性子が他の核に当たる確率は、最初に核分裂する核の周囲がどれだけ他の核で囲まれているかに関係する。ウラン235やプルトニウムの濃度が高いか、あるいはぎっしりと大量にあるか、それが臨界するかしないかを決める。ある程度濃い核燃料の場合、臨界するのに必要な最低量というものがある。それが臨界量だ。
炉心には、簡単には臨界しないように間を開けて燃料棒をセットし、その間には中性子を通りにくくするもの、制御棒をいれてある。しかし、燃料棒が解けて中身が圧力容器の底で集まれば、臨界量を超えれば、そこでは臨界が起こる。それを再臨界という。使用済み燃料プールも同様だ。燃料棒が解け落ちる、つまりメルトダウンすると再臨界はほぼ避けられない。特に、日本のようにどこの原発のプールもぎりぎり一杯になっている場合は。

自動車がトンネルの中で渋滞しているとしよう。一台が爆発炎上する。するとその火や熱で近くのほかの自動車が爆発炎上する。渋滞していなければ火が移ることもない。しかし、ぎっしりと並んでいれば道路が導火線になることは避けられない。

原発は運転していないときも常に炉と使用済み燃料プールを冷やし続けなければならない。炉が無くても使用前・使用後の燃料棒が大量に入ったプールがあれば、それは冷やし続けなければならない。原子炉を止めた状態でそれを冷やすときには、他の発電所からの送電が必要だ。それが切れたらディーゼルなどの非常用発電機を使って冷やさなければならない。しかし、ディーゼル燃料は有限だ。だから他の発電所からの送電は必須なのだ。
1つの炉心の圧力容器と格納容器と建屋が全部壊れ、中にある使用前・使用後の核燃料の内容物が飛び出すと、たとえ1%しか飛び出さなくても周囲50キロは立ち入り禁止になる。法律的に入れないのではない、入った者がすぐに死ぬからだ。50パーセントも飛び出せば100km以上の範囲が立ち入れなくなる。壊れた炉心が1つではなく、2つ、3つ、4つ・・・と増えるにつれ立ち入れなくなる範囲は広がる。
その範囲の中の施設はすべて無人になる。役所、学校、病院、警察、消防、水道、ガス、変電所・・・もちろん水力・火力・原子力の発電所も例外ではない。周囲100kmが立ち入り禁止になればその炉心かプールかを冷やすための電源は失われる。万一、はるかかなたから送電できたとしても、いずれ装置が故障すればもう誰も修理には行かれない。事故の収拾はもちろん、炉心とプールの冷却も不可能になる。



X+2日4時
4号機使用済み燃料プールの底にたまったペレットの総量が臨界量を超えた。プール底で再臨界が始まり、ラックと密集する燃料棒の隙間からチェレンコフの青い光が滲み出し、水面上の湯気に反映するようになった。プールのほぼ全体が沸騰するまでそれほど時間はかからなかった。青い光は白い湯気の中で不規則な点滅を繰り返していた。
地表にいて上を見ていた作業員の一人がバッタリと倒れて痙攣すると、フルフェースのマスク内は吐瀉物と血でどろどろになった。やがて彼は動かなくなった。
鳴りっぱなしになるので線量計は切られていたが、ポンプ車の作業員たちも事態を察知し、運転中のポンプ車をそのままに徒歩で脱出を試みた。何人かはぬかるみで転び二度と立ち上がらなかった。

X+2日6時
無人となったポンプはしばらくは運転し続けたがやがて出力を落とし、停止した。プール内の水は急速に蒸発していった。しかし、水という減速剤がなくなって中性子は素通りし、おかげで核反応は臨界以下に戻った。臨界の発熱と水の沸騰でペレットはプールの底でばらけ、臨界の危険は去ったかに見えた。しかし、依然として崩壊熱だけで大量の燃料棒がメルトダウンし続けていた。

水量が減り、風が吹くと、それまでほぼ100%の水蒸気の中にあった燃料棒たちは、やがて酸素20%窒素80%の大気に接した。高温になったジルコニウム合金の鞘管は、それ自体、爆発的に燃え出し、中のペレットは溶けた金属とともにプール底のわずかな水に落ちていった。高温の燃料は水に触れると小規模の水蒸気爆発を起こした。燃料棒・燃料集合体の一部がこの爆発でプールサイドに飛び出したが、そこは雨水がほどよく降り注ぐ場所だった。
大気中の酸素で燃えなかった発火点以下のジルコニウム合金は、強い還元作用で降り注ぐ雨のH2Oから酸素Oを奪い取った。残った水素Hは量が増えると散発的に燃えだした。こうなるともうどんな対策もなかった。冷やさなくてはならないが、水をかけることはもはやできない。水素爆発を誘発する。
かつてパブリックコメントで原発サイト内に液体窒素を備蓄せよと進言していた者がいた。窒素は水より冷却効率が悪いが、ジルコニウムと反応しないし、放射化しても数分で安定核に戻る。良いアイディアだったがそれは、経済的理由で却下された。



X+2日9時
9時○分ごろ、プールは再・再臨界した。激しい即発臨界になり建物ごと爆発・崩壊したのはアンラッキーだった。
3号機のときの臨界爆発と同じように東京スカイツリーをはるかに超える高さ約700mきのこ雲が上がった。大量のフォールアウト(死の灰)が半径約10kmの周囲に飛散した。
爆風自体は空に向かって進んだが、爆発の衝撃波だけでも水平方向にある1、2、3、5、6号機すべてを破壊するのに十分だった。離れている5、6号機は建屋の形が残っていた。それ以外はどの部分が何号機だったのかもわからないほどの散乱ぶりだった。
現場付近にいた作業員やポンプ車もその瓦礫の中にあったはずである。しかし、目撃者は1人もいなかった。
近隣3kmのモニタリングポストでは5Sv/h以上という致命的な値に達していた。再臨界の中心では20Sv/hという即死レベルの値だったのだが、すでにそれを測定する人も装置もなかった。
5Sv/hの環境に1時間12分いればヒトという生き物は、必ず短時間のうちに100%死ぬ。生きていたければ10分以内に逃げ切らなければならない。逃げ切っただけではだめで設備の整った病院に入らなければならない。東海村JCO事故では被曝量が5Svに満たなかった一人は骨髄移植を受けて生き残れた。今回は作業員の数が多すぎて病院の受け入れはもともと無理だった。
離れた現場事務所にいた東電職員たちは全員退避を開始していたが、下請け作業員は逃げ遅れ、文字通りバタバタと倒れていった。
今回の東電社員全員退避については、そんなことは許さん!と怒鳴る人もいなかった。そもそも居残ったとしても、死を待つ以外、もうなにもできることはなかったのだった。

福島第二原子力発電所
福一から南に約10kmの警戒区域(強制避難)内にある福二は、あの日、福一とまったく同じように送電鉄塔倒壊から電源喪失し、ディーゼル発電機も津波をかぶって4台のうち3台が破損したのだが、3,000人という大量の作業員の奇跡的努力による電源復旧で、福一が落ちた地獄の縁に踏みとどまったのだった。
その福二だが、福一の3つの炉と一つのプールの今後の事故に巻き込まれることを警戒して、4号機から順番に燃料棒の抜き取りを始めていた。炉心内で制御棒と冷却水で臨界をくい止めているよりも使用済み燃料プールに入れたほうがいくらか安全だろうという配慮だった。

その努力もむなしく、福二は福一4号機プールでの裸の即発臨界によるEMP(Electro Magnetic Pulse)で電子的制御回路のあちこちで火花が飛び、ほぼすべての装置が機能を失った。
福一と福二は導火線でつながっていたのだ。
追いかけて、福一からのフォールアウトが黒い雨と一緒に降ってきた。

5km圏外どころか10km圏外のモニタリングポストも軒並み一時間1Svを超えはじめた。南風のため最高6Sv/hの高線量範囲は北側に集中していた。10分以内に脱出しなければ命の保障はない。
福一から南に逃げた東電社員たちはバス内で激しい下痢・嘔吐を始めた。バス内は悪臭地獄だったが、窓を開けて致死性の外気を取り入れることはできなかった。人間としての尊厳のすべてが卑しめられる死に方がそこにあった。
運転手は離れたところから呼ばれていたので、もっとも累積被爆が少なかったのだが、突然頭がぼんやりし始め、意識朦朧となった。バスは路肩に接触して転倒。その後バスから出てくるものはなかった。

X+2日11時
すべての情報が途絶え、現場と連絡がつかなくなったため、経産大臣は台風一過の晴天の下、官邸の庭で自衛隊ヘリに搭乗し、現地に向かった。風上側である南から近づくので比較的安全かと考えられたが、それでも近づくにつれて線量は高くなり、法規上はとても進入できない500mSv/hになり、さらに数値を上げていった。
ヘリが現場から5kmまで近づくとようやく全体の様子が見えてきた。
周囲の木々はなぎ倒されていた。グラウンドゼロはコンクリートと鉄とさまざまなものが溶け合っているか、粉々に粉砕されているかの、グロテスクな瓦礫の広場になっていた。爆発後の吸引相のせいか、送電鉄塔とすべての樹木は4号機のあったあたりに向けて吸い込まれるように倒れているのが見えた。そのときやっと広場などというスケールではないその広がりが実感できた。鉄塔がおもちゃのように小さく見えたからだ。
機内の線量計の最終警告をきっかけに経産大臣は官邸への帰投をパイロットに指示した。帰り道、機上の大臣は無線で首相に状況を説明した。官邸に召集されていた規制委員会のアドバイザーが2、3、大臣に質問した。雑音の多い無線越しに聞こえる返事に、官邸の空気は重苦しさを増していった。
大臣とパイロットが市谷防衛庁に着陸して、シャワーによる除染を終えて慶応病院に入院できたのは14時を過ぎていた。
それきり大臣は官邸には出てくるなと言われた。事態は経済の出る幕ではなく科学の出番だった。

X+2日11時半
防災担当大臣が、周囲の住民の避難を総理に進言した。総理の返事は簡単だった。「どうやって?!」該当地域の全員が避難できる方法がないことは明白だった。
2011年5月のゴールデンウィークには5万人のボランティアを乗せた車が東北道にあふれ、記録的渋滞を起こしていたが、今回の避難者は数百万人、いや1,000万人のオーダーだった。
防災担当大臣は予想される輸送力不足から、子供と若い女性だけを避難させ高齢者・成人をあきらめることを提案した。しかし、首相は独断で、4号機からだいぶ離れたある地域を指定し、その地域の全年齢の男女を優先避難させることを決めた。相双地区(相馬・双葉)の大部分からはもともと人がいなくなっていたが、それでも政府の指導で一部の住民は戻されていた。そして、そのあたりの住民は事実上もう手遅れなので、トリアージの観点から優先度最低と位置づけられたのだった。
ただ、特定地域が優先避難指定になったのはそれだけが理由ではなかった。その地域内には首相の知人の財界人、ほとんどは官僚の天下りだったが、彼らが住んでいたのだ。高齢男性だろうと金持ちは金持ちで、代替することはできない。

避難指令は官邸、県庁、町役場とのんびり伝言ゲームで伝えられたが、その時点ではすでにいくつかの町役場が壊滅していた。突然の喀血・吐血・下血でバタバタと職員が倒れたのだ。もちろん何も知らされていない周辺住民もおなじ運命だった。
官邸にはSPEEDIデータが上がってきた。まずは外務省経由でアメリカ大使館、在日アメリカ軍に情報が伝えられ、続いて福島県庁に伝えられた。
SPEEDIデータは中通、つまり東北道を南下するように指示してきた。
今回はパニックを防ぐためのデータ管制は徹底していた。一切マスコミには情報が出されなかった。テレビラジオ新聞のどこも事故を報じなかった。
しかし、前から反原発派によるネット監視下にあった福一4号機プールの情報は、あっという間にネットを通してガセネタと真実のカクテルとして、全国、全世界に広がっていった。やがて福島県、宮城県、岩手県、茨城県、群馬県の住民にも東京発信のネット経由で危機が伝わりはじめた。
今では、一般家庭でも簡易線量計を持っている人がたくさんいる。ある日突然、0.3μSvに設定した測定器から警報音が鳴り出せばいやでも数値を見る。ほとんどの人は買って以来初めてという途方もない値を計測器の表示の上に見ることになった。
ほどなく、東北道と周辺の一般道路は荷物と人を満載した車で大渋滞になった。

東日本の鉄道は情報が入らないため前線運休となった。運休の直後、全面停電が襲った。
羽田以北の全空港では国内線・国際線とも離陸をあきらめた。

太平洋高気圧の勢力が衰え、ずっと吹き続けていた南風は衰えていった。ぱったり風が止まってしばらくすると、弱い北北西の風が吹き始めた。これはSPEEDIの予測データとは食い違っていた。南に逃げる人たちは貧乏くじを引いた。独自の天気予報を信じて青森方面に逃げたほうがましだった。しかし一月以内に、どちらに逃げた人もみんな同じ結果になることをこのときは知る由もなかった。

福島県からはまず電力会社の社員家族がいち早く避難を開始していた。
避難範囲内の火力・水力発電もすべて停止して社員は避難した。役所の広報車が地域に停電を伝えるために走っている最中に停電は始まった。
火力・水力発電は停止してしまえばもうなにも心配しなくて良い。だが原発はスイッチを切ったら、うちに帰って安心して寝て良いということがない装置だ。廃炉して石棺で敷地を覆うまでは人手が欠かせない装置なのだ。いや、石棺で覆ってもまだ本当には安心できない。使用済み燃料に含まれるプルトニウムは2万年面倒を見続けなくてはならないからだ。

女川原発では原子炉の緊急停止に成功すると、ECCSの冷却ポンプを運転したまま、こちらも全員退避した。「逃げるのはゆるさん」と怒鳴る人は誰もいなかった。退避は一刻を争う事態だった。
数人の60代の、職員と作業員が死を覚悟して居残りを決めた。勝算はまったくなかった。

X+2日13時

一帯が無人になり停電してしまった福二では、冷却のとまった1~3号機炉心の温度は上がり続けていった。居残りの4人は制御室から出られなかった。外に出れば即死するので、それ以後なにも対策を打てなくなる。もっとも制御室にいても打つ手がないのは同じだった。測定データもなく、操作しても装置は起動しなかった。

もう少し持ちこたえられるのではと期待されていたが、圧力が50気圧を超えた時点で福二3号機圧力容器が破裂した。
γ線、中性子線を浴び続けたため脆性破壊がおきやすくなっていたのかもしれない。しかし、もっと持ちこたえていれば返って大爆発になったかもしれない。
冷却水は圧力容器から格納容器内に落下した。炉心が水を失った。制御棒がフルに刺さっているのでそのままではすぐには臨界しない。しかし、運転を止めたばかりの燃料棒は高温であり、崩壊熱も出続けている。メルトダウンへの長い秒読みが開始された。

首相が指定した、対象地区へ向かう避難用バスの車列は、埼玉から東北道を北上していった。上り線はすでに避難車両で混雑していた。ほとんど車間距離をとらずにかなりの速度で南下している車列は、まさに弱肉強食のサバンナだった。運転が下手なものは入れない、無理に入れば事故になる。しかし、それでも入る未熟なドライバーももちろんいる。逃げなければ死ぬからだ。
事故があちこちで発生しはじめた。茨城、福島、宮城などの高速道入り口では、迅速に駆けつけた自衛隊や交通機動隊が入線制限を開始した。死に物狂いで脱出をはかる暴力団と警察の市街戦がはじまり、結局高速入り口のいくつかは炎上して使えなくなった。

X+2日14時
東北道上り車線では、渋滞の車列の先で火災が始まったのを見た一部の車が、中央分離帯を突破して下り車線逆走を敢行して南下を開始した。堤防が決壊した川のように後続車があふれ出していった。
それは対向車が来るはずがないという判断だった。車列は加速してコーナーを攻めていたが、カーブでディーゼル燃料を運ぶ自衛隊車と正面衝突し、爆発炎上した。別途、北に向けて走っていた避難用バスの群がこれに突っ込んでしまった。このあと2時間ほどで東北道は白川から仙台まで上下線とも、ほぼ、火のベルトとなった。密集した車の列では前後どちらかの車が燃えれば自動的に火災を起こす。東北道、その周辺の一般道は火の進みが止まらない導火線と化していた。

仙台ではネットを介して東北道の情報が伝わり、南への避難をあきらめた人々がプルームの風に追われながら北の青森方面と西の秋田・山形方面へ移動を開始した。たちまちどの道路も渋滞した。
そもそもすべての車が出てくるだけの面積の余裕は日本の道路にはない。車が道路に対して多すぎるのだ。しかし、その多すぎる車でも首都圏を含む6,000万すべての人々を運ぶには焼け石に水なのだ。東京から脱出する車は中央、東名以外の一般道にあふれ出していった。
もともとこれほど広域の避難などできないのはわかっていた。原発事故の避難計画というのはもともと物理的に不可能だったのだ。それはいわゆる民間事故調報告書の付録、最悪のシナリオで予言されていたことだった。

X+2日15時
無人の福二3号機では炉心溶融が進み格納容器底に溶けた燃料がたまっていった。
集まった燃料が臨界量を超えるとセオリーどおり、臨界が始まった。これも即発臨界、つまり爆発であった。ゆっくりとメルトダウンして格納容器の底に穴を開けるタイプならもう少し持ったかもしれない。しかし、誰もなんの対策も打てない以上、長期的に見た結果はメルトダウンでも同じだった。
3号機圧力容器に穴が開いたときの衝撃で配管も循環装置もすべて壊れたため、格納容器からは水素が漏れ出した。この水素は普通の酸素20パーセント空気の中で徐々に濃度を増し、結局あちこちで起きている火花のひとつで爆発し、建屋が吹き飛んだ。
福二2号機はもっと派手にきのこ雲とともに臨界爆発した。フォールアウトの濃度はいっきにあがって、福島第一の6炉心と第二の2炉心の重心位置から、北側220km、南側180kmの範囲を警戒区域(強制避難区域)以上の致死性範囲に変えた。その範囲には女川と東海村があった。
東海村にはさまざまな研究施設があり、働いている人数も多かった。作業員は装置を緊急に冷温停止させて周辺住民とともに避難し始めた。その後、東海村は千葉から首都圏に向かう導火線の着火点になった。
福一福二の重心位置から西に200kmと少し、太平洋側から奥羽山脈を越えた西側では、柏崎刈羽が沸騰水型5機、加圧水型2機、合計7つの炉心で次の出番を待っていた。
台風はフォールアウトを吸い上げて周囲に撒き散らすスプリンクラーの役目を果たしていた。
普通、プルームは同心円的には広がらない。しかし、今回はSPEEDIの予測グラフも実測値も丸い同心円パターンを示していた。しかし、そのデータを見る人はいなかった。広域の停電で大小すべてのコンピュータがガラクタと化していたからだ。

X+2日15時
福一福二から北北西120kmの女川付近の線量は、太平洋上を吹く南風で、すでに3Sv/hレベルまで上がり、エアフィルターのある管制室の3名だけが残っていたが、やがて、鼻血と下痢が始まった。所長も作業員2名も激しい頭痛でまともに考えることもできなかった。周辺の火力・水力発電所は総員退避を完了していた。それはごく近い将来の外部電源喪失を意味していた。
炉心には制御棒が入っていて、現状、臨界は止まっていたが、炉心はそうすぐには冷えない。冷却ポンプを止めるわけには行かなかった。ディーゼル発電機の燃料備蓄は小型の石油プラントにあるようなタンクに満量あったが、たった3人でどうやって給油するかが問題だった。
居残り組は東電本店に対策を聞きたかったが、途中の地域の電源が落ちたのか、電話回線はもちろん、衛星電話もつながらなかった。つながったとしても官邸に対策はなかった。

同じころ東海村のいくつかの施設も福二のコースをたどり始めていた。特にまずかったのは実験用再処理施設だった。プールといえども冷やさなければメルトダウンする。そこにあったもののプルトニウムの濃度はきわめて高かった。


X+2日15時30分
高速道路の炎の導火線は仙台を越えて一関を超えるところだった。女川に給電していたはるか日本海側の唯一の火力発電所からの複数の送電線は、すべてが高速道路の火災で溶け落ち、全電源を喪失した。
送電線を失ったことを検知した日本海側の発電所は発電を続けても無駄ということになり、女川をあきらめ、総員退避を開始した。しかし、日本海側でさえ避難するにはもう手遅れだった。渋滞が大火災を起こしていた。
女川では居残りの高齢の作業者が、下血と吐血に苦しみながら中央制御室を出て燃料パイプラインのサブ制御室に向かった。結局彼は扉の前で絶命した。女川も福二とほぼ同じ軌道に入った。導火線上の炎を止める方法は無かった。
柏崎刈羽の周辺はまだ1Sv/hには達していなかったが緊急避難レベルは超えていた。
所員は100名以上残っており、緊急停止も終了していたが、放射能対策の無い火力・水力の発電所でいつまでも発電が続けられないことは目に見えていた。


X+2日18時
福一・福二を中心とした半径200~250kmではすでにミリシーベルトではなくシーベルト単位の空間線量に達していた。
冷却できなくなった無人の女川の2炉心内でもメルトダウンが始まっていた。

X+2日19時
女川の2炉心は、メルトダウンと即発臨界により、あいついで爆発した。女川から200kmの範囲は福一福二中心の300km圏と重なっていたがフォールアウトの雲は宮城以北に残っていた台風余波の弱い南風に乗って安代ジャンクションからさらに北に伸びていった。導火線の先にはようやく日本の壊滅という目的地の看板が見えてきた。

X+2日21時
すでに全機離陸して無人の三沢基地と東通原発、避難しようとごった返す盛岡などの街の人々の上を、フォールアウトの雲は超えていった。すぐに六ヶ所村を含む青森県全域が緊急避難範囲になった。

青森県から北海道に向かう船はピストン輸送をしてくれなかった。すべて片道航路だった。北海道の地に接岸した船は二度と出港しなかった。岩手青森が地獄に変わった。

X+3日

東通原発は運転中の炉心こそ東北電力のものひとつだがそれは110万キロワットと大型だった。また、工事許可が下りていた東電の138.5万キロワットの炉は完成し、試運転中であり、燃料は全量、装填済みだった。
東通は六ヶ所村再処理工の北約25km、ここを死守できるかどうかはすでに見えている日本の全滅ですむか、恐ろしくて想像もできない北半球の全滅か、がかかった分岐点だった。
六ヶ所村が全電源喪失、冷却不能になると、全国の原子炉を束にしてもかなわない、かなわないどころか桁違いの被害が出ることがわかっていた。
1,000人を超える作業員が広大な施設内に残っていた。

福島・女川を中心とする半径300kmの範囲の端のほうには逃げ遅れた人たちが・・・というよりも逃げようがなかった人たちが、たくさん残っていた。火力・水力の発電所も比較的汚染が低レベルのところでは細々と運転を続けていた。しかし、すでに港には船は来なくなっていた。日本に向かっていた外国船籍のLNGや石油のタンカーはすべて引き返してしまっていた。台風で水が一杯の発電用ダムがあったが、その水は備蓄した天然ガスより早く終わる計算だった。

この2日のうちにニューヨークとロンドンの為替市場では円関係商品がすべて売られていたが、買い手はまったくつかず、実際円は紙切れ、あるいはコンピュータの見る幻となっていた。
駐日米軍は巨大な空母に艦載機を満載し、家族もろともオーストラリア、ニュージーランド方面に脱出していった。ヨーロッパ諸国、中南米諸国の人々もこれにならった。出遅れたのはアラブ・アフリカ・アジアの国々だった。出国しようにも飛行機も船もすべてなくなっていた。
官邸は防災センターの機能を政府専用機にすべて移した。とはいうものの、強いγ線による電離で大気中につくられたプラズマのために伊豆半島から富山までを結ぶラインの東北側は衛星携帯電話さえもまったく不通になっていた。停電範囲が広がるうちにネットもつながらなくなった。あちこちにあったサーバーも次々にバックアップ・バッテリがあがるのと同時にダウンしていった。そのため政府にできることはほぼ何もなくなっていた。すでに政府の機能は失っていた。
こんなことなら品種改良して放射能に強い伝書鳩を作っておくんだった、という冗談が誰かの口からうっかりこぼれた。誰も笑えなかった。

X+4日
政府専用機は最初、大阪伊丹空港に下りたが暴徒と化した人々の海に恐れをなし、機動隊の護送車で追跡車両を振り切って六甲の山かどこかに消えた。

完全に停電した東京は無力だった。スカイツリーからは一切の電波が出なくなっていた。マスコミは事態を把握して報道するどころではなく、自分たちが逃げることに専念した。しかし、海外まで逃げ切れたのは幹部社員だけだった。
取り残された首都圏数千万人の人々にはテレビ・ラジオ・新聞・ネットすべてのデータがなかった。
水道水は飲めないものになっていた。食料は店頭から消えた。電気・ガス・電話すべてが機能しなかった。
巨大な人口を抱える首都圏では、地震防災、台風大雨防災、火山防災すべて検討されていた。しかし、原子力防災はまるで考えられていなかった。災害対策を聞きに役所に駆け込んでも、窓口にいるのは要領を得ない新入りだけだった。みんな自分の家族を看取るといって出勤してこなくなっていた。
病院は通路まで病人で一杯になっていた。受け入れきれない患者は追い返された。医者にできることといえば、安定ヨード剤が無い人はポピドンヨードのうがい薬をうんと薄めて飲め、と言うことくらいだった。それはヨード以外のセシウム、ストロンチウムなどには効果が無かった。病院も自家発電が動くのはほんの数日、停電が目の前まで来ていた。
新宿歌舞伎町のコマ劇場前にはたくさんの人がゴロゴロ寝そべっていた。
略奪と暴行が繰り返された。死を悟った人々の中には人の道に外れたことをする者も少なからずいた。犯罪は人が減った警察の力では止めようがなかった。死刑を恐れない犯罪者たちと、生の希望のない警官の戦いは凄惨だった。

X+5日
柏崎刈羽、東通の燃料備蓄が枯渇するのも時間の問題だった。すでに都市部では遠くに脱出するためのガソリンの奪い合いで危険な淘汰のフィールドと化していた。

東通原発では、作業員の体調が徐々に低下していった。口に入るものが完全に払底したため、奪い合いの殺し合いが起きる心配もなくなっていた。食料品を運ぶトラックは西南日本方面からも、北海道からも、一台も来なかった。誰がこの事態を想定して食糧を備蓄しようと言っただろうか。

水道局でのデータはここ下北半島でも絶望的なデータだった。井戸も汚染されているため、飲める水はコンクリートで囲まれた倉庫に入っていたペットボトル入りでもない限りありえなかった。
電気工事、水道工事、ガス工事、物流、すべてがとまっていた。原発の維持管理は不可能になっていた。人口はどんどん減っていった。健康な働き手はもっと激しく減って行った。

福島・女川の共通重心から半径300kmの致命的範囲には新潟県の柏崎刈羽原発も含まれていた。しかし、本州中央の山脈がフォールアウトの雲をある程度押さえてくれていた。警戒区域、つまり強制避難レベルではあったが、即死レベルまではまだだいぶ時間的余裕があった。
と日本海側の数少ない生き残り発電所は東通原発を含む重要施設に対して送電のやりくりをしていたが、太平洋側の送電網にはあちこちに断絶があった。トラブルから6日目のこの日、送電切り替えプログラムのバグでニューヨーク大停電と同じタイプのトラブルを送電網に起こした。またもや電源喪失だった。東通原発の冷却ポンプはディーゼルに切り替えられた。しかし、いつまでこのまま続けられるのだろうか?

X+5日

同じ、X+5日、国連は臨時総会を開いた。永遠の謎だが、日本の総理と閣僚の生き残りはここニューヨークにワープしてきていた。
日本の総理大臣は会議の冒頭、全世界からの非難の罵声を浴びた。罵声は10分以上続いた。一部が居住不能になった中国とほぼ全域が居住不能になった韓国・北朝鮮の代表たちは、机の上に立ち上がって日本代表を指差し、大声で怒鳴り続け、警備員に引き摺り下ろされた。
中国には情報が来なかったために、多くの国民が逃げ遅れた。朝鮮半島については逃げる場所も無かった。
IAEAの代表は六ヶ所村のことだけを聴いた。今、どうなっているのか?と。
総理はNobody knowsと小さい声で答えた。広い議場内いっぱいの怒りに満ちたざわめきも、その瞬間ピタリと止まって信じられないような静寂がおとずれた。皮肉なことに人類ははじめてひとつになった。
そもそもこの国連総会までの間にすべての戦争は自然に止まっていた。とくに停戦協定もかわすことなく、ただ、淡々と戦争は終わっていた。人類絶滅という厳粛な現実の前では呆然とするしかない。戦争に勝ってどうなるというのか?
短い静寂の後、IAEAの委員が事故の概要を報告した。情報はあちこち欠落があったがそれは誰も見に行くことができないのだから当然だった。少なくとも日本の総理よりは事態を詳細につかんでいた。
報告が終わって、日本に対する制裁決議がいくつか粛々と採決された。しかし、もうなにも残っていない日本にとってはどうということもなかった。日本に渡航することはもちろん禁止。事故のとき日本にいた人に対しては世界のどの国も入国ビザを発行しないことが決まった。
日本からの密航者は水際で処刑し、鉛の棺おけに入れて、低レベル廃棄物として扱われることも決まった。それは三重に意味のない決定だった。一つ、国外に出るための飛行機も船もなにひとつ残っていなかったし、イカダを作って朝鮮半島までオールを漕ぐほど体力のある人間は関西以西にも残っていなかったから、二つ、日本の領土内には一切の情報が入らないので瀕死の日本人はその国連採決について知ることもなかったから。
そもそも何人日本の領土内に生きているのかさえまったく不明だった。
国連採決三つ目の愚かさは、自分の国の国土が平方メートルあたり1,000Bqになるのが避けられないのに、低レベル廃棄物を特別に埋める意味がどこにあろう?

全世界の核物理学者がニューヨークに集められて、数十のグループに分かれて、対策を考えるブレーンストーミングが徹夜で続けられた。しかし、有効な対策のアイディアはどこからも出てこなかった。

その建設的、かつ実りのない努力と平行してジャパンバッシングが始まった。
アメリカ、イギリス、スイスなどの銀行は、初期段階でいち早く国外に脱出していた日本人資産家の名前をすべて公開した。リンチがあったらしいがそれはニュースにもならなかった。警察もろくに調査しなかった。
ブラジルやペルーでは日系人コミュニティを頼って国連採決以前に逃げてきていた日本人が多数いたが、政府は日系コミュニティーに亡命者引渡しを要求した。引き渡された中には何十年も反原発で戦ってきた人も数人いたのだが、一般民衆によるリンチにあわないようにという名目で拘置所に収監された。そしてもちろん拘置所内では警官によるリンチが行われた。
ついには罪のない日系3世4世にさえリンチが行われた。
親日的ではないほかの国では推して知るべしだった。

フォールアウトの雲は太平洋を東に進んでいった。フォールアウトをたっぷり含んだ海水はパラダイスだったハワイを地獄に変えながらアメリカ西海岸に達した。
アメリカは西側から体調が悪くなっていった。心筋梗塞や消化管からの出血などの急性症状で死ぬ病人がどんどん増えていった。
しかし、まだ望みはあった。情報は来ないが測定データからは六ヶ所村がまだ「逝って」いないことがわかっているからだった。それさえなければ人類にも望みがまだある。

南米各国には北米やユーラシア大陸からの移民希望者が殺到していた。
最初は所持金の額で制限することにしていたが、まもなくドルさえもが意味がなくなっていることがわかった。アメリカの国債を大量に買っていたのは日本だったが、日本という国の経済が事実上なくなりつつあるからだ。円とともにドルは共倒れしはじめていた。
銀行は借り手の働く能力に応じて通貨を信用創造する。しかし、北米からやってきた人は働く能力もなかったし、移民先で働く機会も見つかりそうになかった。金(きん)の現物を持っていた人はいくらか優遇された。しかし、もう金を使ってぜいたく品、たとえば日本製品を買うことはできないと誰かが気がついた。生き残ることが第一命題になったのだ。

ローマ法王は賢明だった。まだ六ヶ所村は「逝って」いないようだが、何の有効策もない以上、人類という阿呆な生き物に近々終わりが来るのを確信したからだ。人類が絶滅する前に、今までの戦争と犯罪ばかりの歴史を再度見直して、懺悔して最後の審判を迎えようと提案した。全世界に対して、バチカンから別れのミサを放送すると宣言した。もちろん電波が届く範囲までだが。
これはキリスト教徒にとっては最後の救いだった。にわか信者が激増した。死後に審判を受けて天国にいけるという根も葉もない妄想に誰もがすがった。それは文字通り宗教の名を借りた麻薬だった。科学には誰も救いを見出せなかった。
それにしても人類という種には地球の歴史の上でどんな意味があったのか?
犯罪と放埓・享楽に明け暮れる大多数の人たちを尻目に一部の地球人は急に哲学的になった。

法王によるキリスト教のミサはイスラム教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、アフリカの諸宗教の人たちにとつては要らぬお世話だった。彼らは彼らのミサを開くことにした。実にすばやかった。まだ、六ヶ所村は火を噴いていなかったのだ。事故からまだ一週間とたっていないのだ。

X+10日
ついに東通りも六ヶ所村も冷却手段を完全に失った。東通原発を再稼動させてそれで発電して両方を冷やすことはずっと議論されていたが、それももう手遅れになった。どっちにしろ健康な働き手がいない以上安全に運転することはできなかった。
東通原発は冷却ポンプが止まっていても、しばらくは・・・50気圧800度を持ちこたえそうだった。
一方、六ヶ所村のプールは脆弱で破滅も早かった。
かつてフランス、シェルブール地方、ラ・アーグの再処理工場は全電源を喪失し、北半球を絶滅させる寸前まで行っていたのだが、ありえないほどの幸運で救われた。そのときの経験に学んでいればこんなことにはならなかったかもしれない。今となってはすべて手遅れだが。

X+11日
六ヶ所村でミニチュア核爆弾のような臨界爆発が起きた。その日が来た。それは貯蔵されていた使用済み燃料の途方もない量からすればたいした爆発ではなかった。むしろ微々たるものだった。しかし、大気圏に致死性の核種を何十トンも巻き上げるのには十分すぎた。成層圏まで吹き上げられた微粒子はまず偏西風に乗って北米方向に向かった。

X+1年

あれから1年がたっていた。北半球はさまざまな最後を迎えた。厳密には六ヶ所村を北極とした北半球なので南半球でもオーストラリアは致命傷を負った。赤道気流のために北半球の大気はほとんど南半球とは混ざらないはずだったが、影響は意外に早く出た。
最初にフォールアウトの雲が届いたアメリカ西海岸は無法地帯となり暴行略奪が日常化した。酒とドラッグ、強姦、殺人。その犯罪の火はハイウェイの導火線をたどって東海岸まで進んでいった。
ハワイ?この時点では銃を振り回すほどの体力の残っているものさえ皆無だった。
北ヨーロッパでは下痢や口内炎が始まるとみんな友達を呼んでパーティーをした。そして、その晩すべての病気から救ってくれる特別な薬をみんなで仲良く服用した。
ドイツ人とイギリス人は人類の次の知的生命体に期待して超硬かつ耐食性の合金に人類の歴史を数万枚の絵で記録し、スイスアルプスの氷河の下に深い穴を掘って埋めた。
ゴキブリはあいかわらずタフな生き物で強いγ線でもびくともしなかった。大英博物館とドイツ博物館の研究員は、人類の次に地球を支配するかもしれないゴキブリに漠然とした嫌悪感を持ちながらもその仕事を完成させた。
研究者たちの仕事が終わったその晩、打ち上げパーティーの最後の一杯はアーモンド臭のするものだった。その一杯は人生最後の一杯でもあった。シアン酸カリウム、すべての病から救ってくれる万能薬。
さまざまなかっこ良い自殺方法が発明された。しかし、観客はほとんどいなかった。みんな自分が死ぬのに忙しかった。

X+4年
赤道気流は季節ごとに北半球に寄ったり南半球に寄ったりする。北半球の致死性の大気はこれにかき混ぜられて徐々に南半球に入ってきた。オーストラリアはもっとも早く人口を半減させていた。ブラジルやアルゼンチンは日本の真裏なので一縷の望みを託して、人類という種を保存するために全力を尽くした。そもそもブラジルにはアフリカ系、コーカソイド系、モンゴロイド系と人種サンプル帳のようにバラエティーがあった。これはヒトという種の多様性を維持するのに最適だ。
しかし、IAEA、WHOがまったく問題ない低レベルだといった基準線量、20mSv以下でも確実に人類の遺伝情報は破壊されていった。とてもプルトニウムの半減期に付き合えるほど人類という種は持ちそうもなくなってきた。子供がまったく生まれなくなったからだ。


X+9年
それから10年とたたないうちに、この巨大な地球の隅々まであれほどたくさんいた人類という種は、両手両足の指を使えば足りるほどしか残っていなかった。みんな年寄りだった。子供も若者もいなかった。
世界の哺乳類の種の約90%が、鳥類と魚類の種の約70%が、昆虫の種の約30%が絶滅していた。人類はその絶滅哺乳類の種のひとつでしかなかった。しかし、それらの絶滅に責任ある唯一の種でもあった。

エピローグ ラジオ プンタアレナス

最後のホモサピエンスたちは日本の裏側、アルゼンチンのプンタアレナスにかたまっていた。ブラジルより南のアルゼンチンはより長く生命を維持した。
生き残りはすべて「あの事故」後の移民ではなく生粋のアルゼンチン人だった。大都会プンタアレナス郊外の小さな町の小さなFM局の屋根には太陽電池がついていた。生き残りの人たちの楽しみは自宅にある太陽電池つきラジオで放送を聞くことだった。
ある晴れた日の午後、その放送はオンエアーされた。


「オーラ!アミーゴス!お元気かなー。今日も良い天気だねえ。
まずは一曲、景気の良いやつで体を動かしていこう。キューバのロスバンバンの曲をパナマの政治家になったルベン・ブラデスがアレンジしたMuevete。さあ、今日も前進しよう!

Muevete

さあて、今日はニュースからだ。まあ、あの日以来良いニュースってのは期待できなくなってるけどな。
もう気がついている人もいると思うけどケープタウンからの短波放送がついに終わったみたいだ。先週から電波がひっかからない。機械の故障なら良いけど、6日も放送なしだからね。
まあ、ポジティブに考えようぜ。これでライバルがいなくなって文字通りラジオプンタアレナスは世界一いけてるラジオ局になったぜ!ビバ・アルヘンティーナ!
今ならブラジルにサッカーで負けることもないぞ。アルゼンチンは世界最高!というより世界にただひとつ!
というわけで我々の国の歌「花祭り」をプレゼントしよう。

「花祭り」

そうだ。来年はぜひ花祭りをやろう。近所のロドリゲスさんは花の種を撒いてたよ。みんなも花の種をまこう。来年3月、秋になったらみんなで花祭りをやろう。うっ・・・失礼。続いて・・・えーと、ホセフェリシアーノとイバンリンスのFeliz Navidad。

・・・

いやーごめんごめん。みんなもわかるだろう、ちょっとトイレに行ってたんだ。ゴホッ。

さて、今日はちょっとみんなにごあいさつしようと思う。堅苦しかったらごめんなさい。
プンタアレナスのみなさん、いやアルゼンチンのみなさん。いや地球の皆さん。
ラジオプンタアレナスをいつも聞いてくれててありがとう!
前任者から仕事を引き継いで1年くらいになるかな。
ネタがつきてきたにもかかわらず聴き続けてくれてありがとう。
体力的にもきつくなってきたんで後任に仕事をゆずりたいところだが、あいにく地球はこのところひどい人手不足でね・・・。

突然で申し訳ありません。
今日のこの放送がラジオプンタアレナスの最後の放送ということになりました。
最後まで元気良くしゃべくってた俺のことを忘れるなよな。みんな愛してるぜ!
愛しているよ地球のみんな!

どうしてこんなことになっちまったんだろうな・・・。
あのアジアの馬鹿な国、ハポンの馬鹿どもが、調子に乗って馬鹿をやっただけなのにな。楽しく暮らしてた俺たちまでな。俺はこのラジオの仕事が好きだった。前任者からこのマイクを譲ってもらったときは大喜びしたぜ。まあいいや、今日、俺には人類最後のラジオアナウンサーという名誉もさずかったことだし。

いかんいかん・・・。しんみりしちまうな。
最後まで元気良く前向きだった人類に、元気良く明るい歌を届けるぜ、曲はマイケル・ジャクソンが歌うスマイル! ・・・とうとう俺は英語なんてしゃべれるようにならなかったけど、スマイルくらいわかる。Sorrizoだ。まあ、もう英語をしゃべるやつらは1人もいないので勉強してもしょうがない。
さあ残り少ない日々、笑って生きよう!

Smile, though your heart is aching
Smile, even though it's breaking ...

導火線

これはフィクションだ。
フィクションのはずだ。
いやフィクションであって欲しい。
このSFを笑い飛ばせるようになるためには、読んだあなたの行動が必要だ。今すぐ。  

導火線

二つ巴の台風が福島第一原子力発電所を襲った。四号機の使用済み燃料プールは電源を喪失し、建物の不動沈下で亀裂が入った。核燃料は再臨界を起こし近くにある福島第二をまきぞえにした。その被害は女川と柏崎刈羽に飛び火し、関東以北の日本は巨大な致死性のフォールアウト(死の灰)に汚染された。範囲内のすべての施設が機能を停止し被害は東通原発から六ヶ所村再処理工場に達した。再処理工場の事故は原発と比べても桁外れだった。それは北半球全体を死の世界にした。汚染は徐々に南半球に及んだ。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-02-28

CC BY
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CC BY
  1. 導火線
  2. X+1日11時
  3. X+2日2時
  4. X+2日13時
  5. X+3日
  6. X+5日
  7. X+1年
  8. エピローグ ラジオ プンタアレナス