究極の存在、それは俺
それは俺
俺は無限に続くかと思われた暗く長い、しかしどこか暖かいトンネルを抜け、まばゆい光に包まれた。
そこはとにかく眩しかった、目を開けていられない、音もうるさいし、変な臭いもする。
だから俺は泣いた、ひたすらに涙を流し、声を上げ、鼻水も流したかもしれない、汗も出ていたかもしれない、もう何もかも流した、流せるものはすべて流したのだ。
だが、むしろ心は澄み渡る青空のように晴れやかだった、新鮮な刺激に満たされ、俺は未来への希望をはっきりと胸に感じていた。
おそらくその場の誰もが、俺には遠く及ばないものの、似たような気持ちに包まれていたはずだ、間違いない。
それが俺の最初の明確な記憶だ、それ以前にも俺は存在していたという感覚はある、だがよく思い出せないのだ、この俺にできないのだから、他の誰にもできないのだろう、そう思い、思い出すのは諦めた。
ともかくこの世に生を受けた俺は、究極に優しく何でもできる完璧な母親と、これといって特徴の無い普通の父親に出会い、人生をスタートさせたわけだ。
そしてそんな俺に最初の福音が訪れた。
そうだ、あれはまだ俺が生まれて4日後のことだっただろうか、ある高貴な紳士が俺のもとを訪ねこう言った。
「可愛い赤ちゃんですね」
その時だった、俺の中に流れる高貴の血が騒ぎ出し、俺の心は一気に、そして完全に純粋無垢に染まっていったのだ。
だが幸せは長くは続かなかった、その2日後、母親の友人が訪ねてきてこう言った。
「お父さん似ね」
もう俺は、素直な気持ちでいることはできなかった、こうして俺は早くも人生の辛酸を舐め、新たなステージへとステップアップを遂げたのだ。
ステップアップを遂げた俺は無敵の快進撃を続けていた。
それから一週間、母親は完全に俺の言いなりであった、俺の泣き声に一瞬で反応し、俺の望むままを叶え続けたのだ。
その様は父親も気を使って早く帰宅するほどであり、もう俺のために世界は回っていると言ってよかった。
しかし、そんな俺も排泄を制御することはままならない、そのもどかしさに俺の心は秋の長雨のように深く沈み、時には母乳を吐きだしてしまうほどだった。
そう、その時だった、俺に新たな転機が訪れたのは。
その日の俺は、ご機嫌だった。
周囲に満面の笑みを振りまき続け、俺の笑顔で全人類の幸福値が10ポイントはアップしたと思われた。
そして近くにいた誰かは忘れてしまったが、親戚か近所の誰かが言ったのだ。
「これは将来大物ね」
こっ、これだっ、俺は思った、強くそう思ったのだ、今まで以上に強くそう思ったのだ、そのことは俺暦の中に記念日として深く刻みつけられている。
とにかく俺はその時、俺が大物になると確信したのだ。
こうして大物になることを運命づけられた俺は、その天使のような微笑みをさらにパワーアップさせ、もはや天下に敵なしということは誰の目にも明らかであった。
だが、そうは言っても空腹に抗うことは全知全能の神にも不可能なことだ、俺は空腹を全力で訴えた、それこそこの世の終わりのような有り様でだ。
しかしその日は、なにか用事でもあったのだろうか、母親はいつまで経っても現れず、俺はもう死を覚悟した、もとより覚悟はできていたのだが。
とはいえ早すぎる死に、俺の心は平常心ではなかったことは確かだ、その証拠に、出るはずではなかった尿もダダ漏れであった。
どれだけの時間が経ったのだろう、放心状態となっていた俺は、飲み慣れた母乳の味で目を覚ました。
どうやら命だけは助かったようだった、その時の母乳の味は生涯忘れることはできないだろう、これまでのどんな絶品料理も敵わない究極の味であったことは疑いようのない事実である。
といっても、それまで母乳以外は口にしたことが無かったわけだが、比べるまでも無い、なぜならそれが最高であることは揺ぎ無い大宇宙の真理なのだから。
ともあれ死線を潜り抜け、九死に一生を得た俺は、さらに自らの限界を超え、もう一段階上の高みへと至ったのである。
ある日のことだった。
俺は、いつものように穏やかな昼下がりの中、食後の睡眠をとっていたのだが、そんな俺の耳に異質な音色が飛び込んできたのだ。
その不愉快な音は、俺の周囲を旋回しては離れ、消えたと思ったら再び現れた。
まるでこの世の春を謳歌している俺をあざ笑うかのように、俺に対して巧みな挑発をおこなってきたのである。
だがもう俺は昔の俺じゃない、そんな挑発に簡単にのったりはしなかった、ただそれをつかもうと必死に手を伸ばしただけだ、無意識だった。
だがそれは、最後まで俺の手の中に収まることはなかった、なんという挫折。
そして俺はいつしか疲れ果て、深い眠りへと落ちていったのだ。
もう不愉快な音も聞こえなかった、ただ静寂があるだけだった。
そう考えると俺は雑音に打ち勝ったとも言えた、そう、俺は雑音にも揺らぐことなく睡眠をとることができていたのだ。
それ以来俺は、どんな喧噪の中でも自由自在に睡眠がとれるようになったのである、挫折を乗り越え、俺は新たなスキルを手に入れていたのだ。
もう、ここまで話したらわかってきたのではないだろうか、俺が大宇宙の大いなる意思に魅入られた存在だということが。
というより、恐らく確信にかわってきたと思う、その確信をさらに揺るぎない絶対の真理にするエピソードをご紹介しよう。
あれは、俺が生まれてはや一年が経とうとしていた頃だった。
俺の実力をもってすれば、一年で世界を統べることも簡単だった、だがそうしなかったのは世界を試すためだ。
世界が俺に統べられるにふさわしい存在か、それを確認することが大切だと思ったからだ。
そうして俺もそろそろこの世界を統べてやってもいいか、と思い始めていた、いや、べっ別にどうしてもってわけじゃないが、そんなに俺にこの世界の統治者になって欲しいっていうなら、仕方ない、仕方ないな、めんどくさいけど、仕方なく支配してやろうじゃないか、そう思っていたわけだ。
だから手始めに、この一年間で完全に支配下に置いていた寝台から、外に出ることを決めたのだ。
これは重大な決断だった、だが俺は大宇宙の頂点に立つため、大きな一歩を踏み出したのだ。
無論、俺の前には、果てしなく高い柵が聳え立っている、だが俺は一瞬たりとも怖れたりはしない、むしろ微笑んでいた。
当然だ、俺の未来はすでに約束されているのだから、そして俺は柵を乗り越え、大きな一歩を踏み出したのだ。
これは人類にとっても大きな一歩となった、なぜなら俺のこの一歩によって、人類の繁栄は1万年は早まったと確実に言えるからである。
いや、もしかしたら100万年かもしれない、それ以上かも、しかしここは謙虚に1万年にとどめておこうと思う。
感慨にむせび泣く俺は、程なく母親の手で寝台に戻された。
今日はこのぐらいにしておいてやろう、その気になれば地球の反対側、いや、遥かアンドロメダの彼方まで行くことは造作もないこと、だが焦ることはない。
俺は達成感に包まれ、深い眠りへと落ちたのだ。
どうだろうか、このような真実の前には、全てを悟らずにはいられないのではないか。
であれば、幸いである。
そうだ、もはや涅槃の境地に到達したであろうあなたに、さらなる目から鱗の事実を伝えておかなければならない。
俺が、そうあれは、あれは、ええと、いつだったかは定かではないが、ちょっとけだるい気分のする日だった。
俺は、飛んだ。
ふふ、これはさすがに意表を突かれたのではないか、さすがに神の加護を一身に受けた俺とはいえ、まさかそれはないだろうと思っただろう、ふふ、00なんとかみたいだろう、ふふふ。
だが厳然と聳え立った、揺るぎない事実なのである。
俺はいつものように、ほんわかと食後の睡眠をとっていた。
食後は体が重くなる、ああ、重くなーる、重くなーる、という暗示にかけられた俺は、もう目が開いているのか閉じているのかわからない状態だったことは確かだ。
その時だった、俺の体は徐々に宙に浮き、そして、大空を飛びまわったのだ。
俺はその時思った、やっぱり、やっぱりな、俺ならあると思っていた、むしろまだなのかと思っていたさ、ああ、そうとも、これが本来の姿なんだ、と。
そして俺は澄み渡った大空をどこまでも駆けていった。
海を渡り、遥か遠くの外国まで行った、なんという国か、それは今は思い出せないが、当時ははっきり分かっていた、そしてその国の人と交流もした、もう親友と言ってもよかった、ほんの数分の会話だったが、俺たちは心の底から分かり合ったのだ。
その証拠に、俺は今でも相手の名前をはっきりと思い出せるのだ、そう、あれは、キノシタだった、キノシタタスケだ、遠い外国の友だ。
かくして俺は、しばらくの海外旅行を終え、再び心地よい寝台へと戻ったのだった。
だが俺は両親にはこのことを伏せておこうと思った。
いずれ解ってしまうこととは思ったが、やはり大きな騒ぎになってしまっては心労もあるだろう、最初は自慢になっていても、徐々に奇異な目で見られるかもしれない、それは避けなければならなかった。
だから俺は、いつも通りの天使の頬笑みを寸分たりとも増やしも減らしもせず、ただ普通の一日のように振舞ったのだ。
もちろん、申し訳ない気持ちもあった、だが仕方がない、俺の力はしかるべき時がくるまで公にするべきではないのである。
そうだ、そういえば1つ思い出したことがある。
あれは、ある地獄のように暑い夏の日だった。
俺はクーラーのギンギンにかかった部屋で、うたた寝をしていた。
クーラーをギンギンにかけた上に、厚い毛布にくるまれていた俺は地球環境の悪化を憂いていたが、しかし両親の顔も立てておかなければならなかった。
だからせめて、クーラーのリモコンをちらちら見ることで、遠回しに節電を示唆していたのだ。
あまり察してはもらえなかったようだが。
それがあんな出来事につながるなんて、当時の俺はほとんど思っていなかった。
いや、あらゆる事態を想定して生きている俺のことだ、まったく思っていなかったわけではなかったし、すこしくらいは準備もしていたんだ、まあ心の準備程度だったがな、だがそれを差し引いても凄い出来事だったことは確かだ。
そう、その日は午後から来客があったのだ、ちょっとしたパーティーというやつだろうか、近所の奥様方が俺の家に集まり、紅茶をたしなむ会なのである。
そこに奴が現れたのだ。
ああ、なんということだろうか、思い出すだけでも恐ろしい、何者をも恐れぬ俺をしても、恐ろしくないとまでは言えないほどである、それほどなのである。
その恐ろしさたるや、地獄の淵から這い出した古の魔王ですら、これで勘弁して下さいと菓子折りを差し出すほどである、もちろん中身は最高級和菓子だ。
それほどなのだから、神すら恐れぬ俺でも怖れるのは仕方がないと言えるだろう。
奴は、茶髪の若い女性の腕に抱かれ、現れた。
恐らく母親なのであろう、余談だが俺の母親は人生勉強の期間を最大限長くとった影響により、その母親より、若干、いやほんの若干ではあるが、10歳ほど年上である、それにより近所のリーダー的存在となったことが、俺の家でのパーティー開催に繋がっているのである。
ともかく奴は現れたのだ、この時点では俺も完全に油断し、微笑みながら回転する遊具を眺めていた、なんという不覚。
パーティーは母親の仕切りで順調に進んでいた。
ウィットにとんだジョークで場の雰囲気を和ませつつ、各参加者にまんべんなく気を配り、相手のよさを引き出す絶妙のトーク、やはり俺の母親だけのことはある。
その様はまさに、千人の話を同時に聞きわけたという逸話を与えるにふさわしいものであるといえた。
だが、食事の段になり事態は急転する。
奴は俺の寝台に一緒に寝かされることとなったのだ。
そして、恐怖が始まった。
俺は、その激しい攻撃に今まで感じたことのない、いや、今後も二度と感じることがないであろう戦慄を覚え、ただただ無言で震えるしかなかったのである。
奴の攻撃は一見しただけでは、その本当の恐ろしさは分からないであろう、俺の母親ですらそうなのだから、凡人ならなおさらである。
俺は激しく掴まれていた。
それだけで俺の動きは完全に封じられ、息をすることすら困難になるほどであったのだ。
そして、奴は一気に顔を近づけてきた。
なんということだろうか、見ず知らずの人間の顔が至近距離にあるというかつてない非常事態に、俺の心臓はハイパーへヴィーメタルのビートを刻み、もはや正常な思考を維持するのが困難な状況に陥っていったのだ。
しかし、その静かで効果的な攻撃は、他者からは全く確認できないと言ってよかった、まさに俺だけにピンポイントでダメージを与えるものであるのだ、これはまさにプロ、プロのヒットマンの仕事と言えるのだろう、俺はプロのヒットマンと今まさに対峙していた。
もちろん俺だって、ただされるがままになっていたわけではない。
俺の抵抗はそれはもう凄まじいものだった、俺の全身全霊をかけた反撃はその形相を見れば一目瞭然であり、その恐ろしさはオリンポスの神々も裸で逃げ出すほどであったろう。
だが奴には一切通じなかった、まるで俺の抵抗があったことすら気がついていないかのような、いやむしろ俺が好んで受け入れているかのようですらあったのだ。
俺は圧倒的な絶望感から、ただ虚ろな目で奴の口元を眺めているしかできなかった。
奴の口元はこの世のものとは思えぬほど怪しく蠢き、今にも俺を食らいつくそうとしているかのようであった、だが、俺にはどうすることもできなかったのである。
どれくらいの時間が経ったのであろうか、俺は明るい日差しの中で目が覚めた。
どうやらいつのまにか気を失っていたようだ、隣に奴はいなかった、その安ど感から無意識に股間を濡らす俺であった。
どうだっただろうか、まだ俺の話の一万分の一もしていないが、それでも多少は俺の人生の偉大さの片鱗が分かってもらえたとしたら幸いである。
その後俺は紆余曲折を経て現在に至った訳だが、様々な一身上の都合により、現在は凡人として平々凡々な生活を享受している。
それが一番だということに気がついたんだ、このことに気がついたのは俺が世界で初めてだろう、だが俺はそれから程なくして気がついたんだ。
だから、それなりにがんばってるよ、それなりにね。
それでいいだろ。
究極の存在、それは俺