スリーピードッグ①

夜中に星を眺めていたら死体を見つけ、翌朝風邪をひいたところから始まる話。

 昨日の夜中、明け方まで外で星を眺めていたら風邪を引いた。まだ九月だと思って薄着で行って体を冷やしてしまったのが良くなかったみたいだ。Tシャツにジーパンという服装で僕の家の近くにある河原の中洲の林にシートを敷いて、ごろごろ寝返りをうったりしながら空を見上げていた。一晩中ずっと夜空を見ていたことがある人はわかると思うけど、星空をじっと見てると気が狂いそうになる。地球の外にある巨大な暗黒の中に散らばっている星たちを眺め続けていると、自分とそれ以外のものに対しての距離感が消失してくるのだ。ずっと遠くにあるはずの星がすぐ近くにあるように感じ、すぐ横にあるはずの草がだいぶ遠くにあるように感じる。最終的には自分の現在でさえも遠のいていき、過去の記憶や意識がすっとそれに取って代わるようになる。だから僕はその混乱の深みにはまってしまわないように、何度も目をつぶって周りの草が擦れる音や、流れる川の水の音を聞いたり、時々好きな歌を口ずさんだりして意識を休ませていた。だいたいその林に着いたのが午前1時ごろで、周りが明るくなってきた午前5時ごろに家に帰ったからおおよそ4時間くらいそうやって星を見たり休んだりを繰り返していたことになる。いくら僕がまだ若いからといっても、その4時間は僕の身体から少しずつ抵抗力を奪って風邪をひかせるには充分だったというわけだ。
 それで、たぶん午前4時くらいだと思うけど、僕は寝転がっているのにもちょっと疲れて一旦立ち上がった。それで背伸びや屈伸で固まった体をほぐしながら周りをのんびり見回してみた。すると川の上流の方から何かが流れてくるのが見えた。僕のいた場所からだと月明かりだけではそれがなんなのかよくわからなかったから、水際に移動して、その何かが流れてくるのを待った。僕は最初、ゴミ袋か太めの木の枝かと思っていたのだけれど、近づいてくるにつれて全く予想外のものだったことがわかった。それは人間に見えた。人形かとも思ったけれど、人形にしてはなんだか重みがありすぎるように見えたし、実際そばに落っこちていた木の棒で流れていくその人をこちら側に寄せた時、人の肌の感触と重みがあった。僕はほんの少しためらったがもうひとつ太めの棒を拾ってきて、うつ伏せになっているその死体の上半身と下半身に当て、苦労しながら仰向けにひっくり返してみた。長い間水に浸っていたわけではなさそうで、顔はいわゆる土左衛門のようにはなっていなかった。見たところどう見ても日本人ではなく、白人だった。頭にはパナマ帽をかぶり、上半身にはツイードっぽいジャケット、下半身は薄茶色い長ズボン、靴はワークブーツを履いていた。顔面の頬と、はだけた胸元と手は、なぜか黒く汚れていて、それはなんだか炭の汚れのように見えた。僕はけっこう長い間その死体を眺めていた(目は見開き、瞬きもしなかったので生死を確かめたりはしなかった)。するとさっき星を見続けたのと同じように、だんだん自分と周囲の感覚があやふやになってきた。しまいには地面の感覚もなくなってきて、自分が立っているのかさえよくわからなくなってきた。僕は目をつぶって深呼吸をし、周りの音に神経を集中させた。水の流れのやわらかい音を聞き、風でそよぐ草の音を聞き、街の沈黙を聞き、死体が発する絶対的な静けさを耳をすませた。僕は目を開けて、昔のイギリスの小説世界にでてきそうなその白人の死体をもう一度見やってから、林に戻って横になった。気が高ぶっていたからか、今度は自分を失わずにいつまでも星を眺めることができた。僕が今抱えている問題、過去、抱えることになるであろう未来、そして死んでいる白人について考えを巡らせたけれど、そのうちそんなものはどうでも良くなってしまった。そして空があのなんとも言えない夜明けの青に染まり始めてくると、立ち上がってシートをたたみ、家に帰った。死体はそのままにしておいた。


 昼前くらいに起きると頭が鈍く痛み、身体がどうしようもなくだるくなっていた。僕は苦労しながら一階の居間に降りていって、戸棚から体温計を取り出し、ワキに挟んだ。ソファーでは母親がノートパソコンで書き物をしていた。
「やだ、風邪?」
 僕のだるそうな様子をみて母がたずねた。
「かも」
 僕は声を絞り出してから少し吐き気もすることに気づいた。
「病院連れてってあげようか?」
「少し寝ても楽にならなかったら連れてって」と僕は言った。それから近くで外国人の死体が見つかったとかいうようなニュースがなかったかどうか聞こうと思ったけれど、ニュースになるにはまだ時間が経ってなさすぎると考え直してやめた。すると体温計が計り終わったアラーム音を鳴らしたので見てみると、38度あっ た。
「とりあえず、寝るよ」と僕は言った。
「なんかして欲しいことあったら言いなさいね」母親は書いているものに集中していて、おざなりにそう言った。
 僕は冷蔵庫の中のミネラルウォーターをできるだけ飲んでから、トイレに行き(気持ち悪くて一度吐いてしまおうかと思った)、またヨタヨタと二回の自室に戻った。布団に潜り込むと相撲取りのような重さで眠りが僕にのしかかってきて、抵抗することもできずに僕は意識を失った。

 僕は普段めったに夢を見ないし、見たとしてもそれが夢だと自覚することは全くないほうなのだけれど、その夢の中ではこれは夢なのだとなぜか初めからわかっていた。僕は薄汚れて少し空気が淀んだ感じがする工場の中にいた。出口の向こうに見える建物の外観や工場内にかけてあった日本語の標識、注意書きを見る限り、日本のようだった。よくテレビで紹介される、どこにでもあるような中小工場の風景だった。しかし、大きな違和感を感じたのは働いている人が全員日本人ではなかったからだ。全部で10人くらいの外国人が働いていたが、彼らは皆僕が河原で出会った死体と同じような風采をしていた。パナマ帽、ワイシャツ、股のところが すこし膨らんだズボン、ブーツ。そして彫りが深い白人独特の顔。19世紀のイギリスあるいはアメリカの労働者がそのまま現代の日本の工場で雇われているみたいに見えた。彼らはそれぞれ分業しながら炭で何かを作っていた。まず最初に機械からでてくる大きな塊の炭を1人が1m四方くらいにカットし、カットしたものを違う1人が横の台に運び、そこで待ち構えていたもう1人が炭に何かの液体をかけ、それを別の1人が更に横の台に置き、そこに座っていた1人が刷毛をつかって炭の表面を撫で回し、それと同時に反対側の1人がガスバーナーで所々に熱を加え、それが済むと更に横の台にいた1人が手にとってすこし離れた床に並べて置いていき、並べられた炭の前には小さな鑿のようなものをもった2人が座っていて、それぞれが一つの炭の塊を抱えながら丁寧に何かを彫っていた。その二人の後ろにはそうやって完成された炭の彫刻が雑に置かれていた。壁時計やミニチュアの車、フライパン、やかん、アニメキャラクターらしきフィギュア、コップ、座った姿勢の犬、昔の小さなテレビ。どれも驚くくらい良くできていて、まるで本物が炉で焼かれてそのまま炭になったようだった。 特に犬の細い毛並みは炭の彫刻で再現したとは信じられないくらい細かく仕上がっていた。
 ふと工場の隅を見ると、1人の人間が立っていて目深にかぶった帽子のつばの下から僕の方をじっと見ていることに気付いた。その人間は比較的小柄で着ているものも一般的な工場の作業着だった。僕があれは監督者なのかなと思って見ていると僕の方に歩いて近づいてきた。
「こんなところにいられては困るんですけどねぇ」彼は冷たい表情で言った。僕は反射的にむっとした。彼の喋り方が不快に感じたのかもしれない。彼の声にはどことなく傲慢な響きがあった。
「すいません」と僕はやや間を置いてから言って、壁際に退いた。男は僕が移動してからもずっと僕を見ていた。
「いやいや、この工場内にいられては困るということですよ」彼の声はさっきよりも大きく、威圧的だった。
 僕は働いている外国人たちを見たが、彼らは僕たちの方を見もせずに黙々と作業を続けていた。男はかわらず僕を見ていた。男の胸のところにはネームプレートがあって、そこには『工場長 鈴木』と書かれてあった。
「どこのどなたか知りませんがここから出て行ってもらえませんか。・・・を呼びますよ」最後の単語が聞き取れなかったが、警察を呼ぶと言ったのだろうと僕は見当をつけた。
「聞こえませんでしたかねぇ。早くいかないとヒキャルを呼びますよ」と鈴木は苛立たしげに言った。
「ヒキャル?」初めて聞く単語だった。僕が聞き返すと男は無表情に僕を査定するような目つきでにらんだ。
「頭がおかしいのかも知れんが、とにかく、はやく出て行きなさい」彼はそう言うと出口を指差した。
 僕はまだしばらく作業を眺めていたかったが、この男と言い争いをする気にはなれなかったので、なにも言わずに男の指さす方へ歩き出した。建物のすぐ外は搬入口兼駐車場になっていたが、車は一台も止まっていなかった。とりあえず工場の敷地から出ようと門の方へ足を向けると、門の陰から誰かがのぞき見るような格好で頭だけ出して、僕の方を見ていた。僕がそちらへ歩いて行くと頭が引っ込んで隠れたが、その人間は門の横を通り過ぎる時でも逃げずにそこにいた。小学生くらいの女の子だった。僕が立ち止まって眺めると、彼女は敵意を表しながら挑むように僕を見返してきた。
「どうしたの?」と僕は聞いた。
「お兄さん、ここにいちゃいけないんだよ」と彼女は言った。
「うん、もうここには来ないよ」と僕は言った。
「どうだか」と彼女は冷ややかに言った。僕がその女の子の表情を見ていると通りの向こう側から自転車に乗ったおばさんがやってきて、通り過ぎる時、彼女も僕のことを不快そうに凝視していった。僕はどうやらこのあたりの人たちにとってはおそろしく非常識で、厚かましく、責められるべき人間であるみたいだった。僕はそこから離れて、ちょっと歩くと車の交通量が多い大きめの道路に当たった。車たちは現実の世界より、静かに、無個性に走っているように見えた。すぐそこにコンビニが見えたので僕はそちらへ歩き出したが、ふとさっきの工場の方を振り返ると女の子はまだ同じところにいて、僕の方をじっと見ていた。
 コンビニの店内には誰もいなかった。音楽が流れていなくて、奥の方で何か袋をがさがさしている音が聞こえた。僕はとりあえず、お菓子と菓子パンとお茶を手にとってレジまで行ったが誰も出てこなかった。夢の中とは言え、お金を払わないのは気が引けたので僕は奥の方に向かって声をかけた。
「すいませーん」
 さっきからしていたガサガサという音が止み、ドアが開かれ、人がでてきたがその人物の身長は僕の腰くらいまでしかなかった。いわゆる小人だ。その男は急ぐ風でもなく、小人特有のよたよたとした歩き方でゆっくりレジまでやってきた。
「お待たせしちゃってぇ。すいませんねぇ」僕は特に答えるでもなくうなずいた。
「はい、パンとお菓子と飲みものねー。えーと、合計450円だね」僕はそれまでその世界で財布を持ってるのを確認していなかったから、一瞬どきっとしたが、ズボンのポケットに手をやるとちゃんとそこにあった。そして450円があるか不安を覚えながら中を見ると1000円札があったのでそれで支払いを済ませた。
「はい、1000円お預かりね。はい、550円お釣り」そして小人は僕にお釣りを渡すとき、驚いた顔をした。「おやっ、おやおやっ」
「なんでしょう?」僕は聞いた。
「いや、あなたは私の祖父の若いころとそっくりだなぁと思ってねぇ」
「あなたのおじいさんですか」ということは彼は家系的な小人ではないのだろうか。
「いや、実際そっくりというか、、、瓜二つというか」彼はそこまで言うと、僕に少し待っていてくれといって奥の方に走って行ってしまった。それから少ししてから彼の体の大きさくらいある額縁に入った写真を持ってきた。「どうです、そっくりでしょう?」と彼は僕に見せながら言った。しかしその写真の人物は僕に全く似ていなかった。というかそれは正確に言うなら写真や紙を使ったコラージュ作品というようなものだった。青い空を背景に画面右上に飛行機の切り抜きがはってあり、その飛行機からは爆弾がいくつかぱらぱらと落ちていた。画面中央に軍服を着てひげを生やした男性の写真が貼っており、その下には口をあけた鮫の写真があって、その男性を食べてしまおうという図になっている。しかしその鮫の周りにはたくさんの小人がいて、なんとか鮫を止めようとしていた。
「いや、似てますかね?この軍服の人もその下の小人の人たちの中にも僕に似ている人はいないと思うんですが」「いやいや、何を言ってますか、私の祖父はこれですよ?」そう言って彼は飛行機を指差した。「どう見ても似てるでしょうが」
僕は彼の顔をまじまじと見つたが、彼はどうやら本気でそう言っているらしかった。
「そうですねぇ、そう言われれば似ているかもしれません」
「でしょう?私の祖父は日中戦争の時はそれはもう凄い活躍をしたんですよ。初陣の時から何機もの敵機を撃墜してねぇ、しまいには祖父の姿を見ただけで敵どもはそそくさと逃げ帰っていたらしいですよ。でも祖父には喘息の持病がありましてね、飛行中のある時その発作が激しくなってしまいまして、それで操作を誤ってしまったんです。そして帰らぬ人となってしまいました」
「それはお気の毒でした」僕は何と言っていいかわからずそう言った。
小人はしばらく暗い顔をしていたが、僕には何も言わずに奥の方に引っ込んでしまった。僕は彼が戻ってくる前に店の外にでた。出る時に1人の若い女性とすれ違ったが、彼女は僕の顔をチラッと見ただけで店内に入っていった。
外に出ると雨が降っていた。いつの間にか通りには人がたくさん溢れかえっていて、彼らはみな色とりどりのカッパを着ていた。全員フードを深くかぶっていて誰の表情も見えなかった。僕は店に引き返してカッパか傘を買おうと思ったがなんだかめんどくさい気がしたのでそのまま歩き出した。人々はみな山の方から歩いて海の方に向かっていた。僕は彼らの波に逆らうように山の方に向かった。祭りが催されているのか、小さな子供達は雨や風車を手にもつものが多かった。中にはお面を被っていた子もいた。喋っている人は1人もおらず、通りは車の走行音以外なんの音もしなかった。そしてしばらく歩いて山の入り口の鳥居にたどり着き、山を見上げたところで目が覚めた。

気がつくと僕は全身が冷え切っていて震えていた。何年も味わったことのないような激しい頭痛と吐き気が僕を襲っていて、自分では立ち上がることもできなさそうだった。僕はなんとかそばにあった携帯を手に取ると、母親の携帯に電話をかけた。気づいてくれればいいのだが。
「はい、どうしたの?家の中で電話なんかかけて」母親は思っていたより早く電話をとった。
「ちょっと具合が悪くなってどうしようもできないんだ」僕は声を絞り出しながら言った。
「それは大変だわ。すぐ行くからちょっと待ってなさい」
母は僕の部屋に入ってくると僕のおでこに手を当てて、ぶつぶつ呟いてから一度部屋をでて、ポカリとタオルをもって帰ってきた。タオルは濡らしてあって、おでこに乗っかると冷んやりとして気持ちよかった。
「あんたこれ飲める?」彼女は僕にポカリを差し出した。僕は全力で上体を起こしながらなんとか少し飲み込んだ。
「あんたがこんな具合が悪くなるなんて久しぶりね」と母は乾いた声で言った。「あんたのお父さんはよくこんな感じで寝込むことが多かったけど」
彼女はしばらく僕の顔を見ながら黙っていたがおもむろに語り出した。
「昔子供の頃、お父さんと実家の近くの神社に遊びに行ったことがあってね。神社はなんだか怖いところだったから、いつもは川とか公園でしか遊ばなかったんだけど、その時はなんとなく行ってみようかってなったの。探検みたいなものね。
 その神社はその地域で実際に合った戦の戦死者を祀ってあるところだった。毎年夏になるとお年寄りたちがたくさん集まってきてなんだか大きな慰霊祭みたいなのをしていたわ。私たちは何度かそこへ連れていかれていたんだけど、建物の中には昔の鎧を着たミイラが置かれていた。名前は忘れてしまったけどわりと有名な武将だったみたい。とても怖くて、それを見た日はかならずいやな夢を見たわ。しかも毎回同じ夢だった。自分が大昔の兵隊になって、炎で周りを包まれた野原の中で敵と戦って必死になって何人か殺すんだけど、最後は右目に刀を刺されて、それで死んでしまうの。私の友達も同じような夢を見ると言ってた。もちろんお父さんも。どうやって死ぬかはばらばらなんだけど、みんな同じ野原で戦って、血を流しながら死んでいくの。戦を鼓舞する角笛みたいな音と、命が消えていくときの断末魔が空を待っていて、私たちはそれを眺めながら、土と血の味や匂いを感じながら世界を憎んで意識がゆっくりと消えていく。そんな夢。
 だから子供は普段はそこへは絶対近づかなかった。でも私たちは若いころにたまにある、自分は何が来ても平気だぞっていうような体のそこから湧きあがってくる不思議な活力がちょうど湧いて来てて、そんな神社なんかこわくない、行ってやれって思ってしまったのね。私とお父さんは真夏の日差しを背に浴びながら山の上にあるその神社に続く長い階段を登っていった。
頂上に着くと全く人の気配がしなかった。それどころか、着のせいだったかもしれないけどほんの少し周りが暗くなったような気がした。もちろん樹に囲まれていたからなのかもしれないけど、なにもさえぎるものがないところでも、上から届いてる太陽の光が山の下と比べて弱まってる気がした。二つある蛍光灯のうちの一つが切れてしまった感じっていえばわかるかしら。私とお父さんはもうその時点で後悔し始めていた。でもまだやっぱりすぐ引き返しそうというくらいには足りないひるみだった。私たちはしばらく社の正面にたって、扉の向こうにあるはずの武将の死骸を想像して、同時に戦場の夢を思いだした。それからなんとなく建物に沿って歩き始めた。とても古い建物だったから壁や柱は塗装がぼろぼろに禿げていて、傷みもひどかった。少し大きな地震が来たら、ドミノを積み上げて作った玩具のおうちみたいにばらっと崩れてしまいそうって思ったわ。
お父さんは私の前を歩いてたんだけど、ちょうど社の後ろに回り込む時お父さんが立ち止まった。私はその時ちょうど地面を眺めてたから気付かなくて、お父さんの背中にぶつかった。私はびっくりして「あいたっ。どうしたの?」って聞いた。お父さんは何も答えずにじっと動かなかった。まるで魔法使いに時間を止められてしまったみたいにまったく動かなくて、呼吸もしていないんじゃないかと思った。私はお父さんの後姿をまじまじと見つめた。短く刈り込まれた後頭部、すっと細いうなじ、汗でところどころ黒くなった背中。あの人をそんな風に改めて見るなんてことはめったになかったから、とても不思議な気がした。全然知らない人にさえ見えた。するとお父さんはだしぬけに私の名前を呼んだ。「温子、かえろ」「え、なんで?」私は聞いた。「いいから帰ろうよ。おなかすいちゃった。おなかすきすぎて気持ち悪い」お父さんはそう言って振り返ったけど、その顔は私が初めて見る表情をしていた。一瞬で別人になってしまったような感じで、私は混乱しそうになった。お父さんはいきなり何も言えなくなってしまった私の腕を掴んで引き返し始めた。でもお父さんに腕を掴まれて引っぱられる時、建物の後ろに何かが見えた。タヌキや猫というには大きい。でも大人の人間というには小さい。郵便ポストよりひとまわりくらい小さい感じのものがさっと動いて、建物の下に入っていった気がした。「あれっ?凛ちゃん、あそこに・・・」といいかけるとお父さんは大きなくしゃみをした。それでも私を強い力で引っ張ったから私はそこで続きを言うきっかけをなくしてしまった。
私たちは階段から落ちてしまわないように慎重に、でも出来る限りすばやく下りていった」
 母はそこまでいうとまた黙った。そして僕の額の上に置いたタオルをひっくり返した。
「それで?」と僕は言った。
「これでおしまい」と母は言った。
「はっ?」
「続きはまた今度」と母は言うと僕の傍らから立ち上がった。
「いやいや、なんだよそれ。なんなの?」
「まあお父さんを思い出したってだけのことよ。とりあえず忘れなさい。寝なさい。戦場の夢を見るかもだけど」と言いながら小さく笑って母は部屋を出て行った。僕はわけのわからない気持ちのまま放り出された気持ちになった。部屋の箪笥や机や椅子も話をじっと聞いていたように、いつもよりずっと沈黙をしているように感じた。

スリーピードッグ①

推敲もなんもせず好きなように書いてるのでだいぶ拙く、読みづらいです!キリリッ

スリーピードッグ①

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-28

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