ダンス・チャイニーズ
シェイジュン、その名前を思い出すのにずいぶん時間がかかった。まるでず
っと昔に何十回とかけた恋人の電話番号を思い出すみたいに、深い記憶の沼を
たどっていかなくてはならなかった。そこは薄暗く、甘く、懐かしく、また得
体の知れない危険な匂いもした。僕はその名前をよく知っているはずだった。
なのにどうしても思い出せなかった。僕は何日も、何週間も記憶の中をさまよ
い続けた。全然関係のない、今となっては思い出したくもない事柄に触れてし
まうこともあった。誰かに言われた言葉や、漠然と抱えていた不安や、そうい
う類いのことだ。それでもまずは名前を思い出そう、そこから始めよう、と強
く思った。そしてようやく僕はその名前にたどりついた。そう、シェイジュン
だ。これは僕と彼の話である。僕の方の名前はというと、それは思い出すまで
もなく知っている。当たり前だ。
「よう」
「遅いよ」
「遅くないよ」シェイジュンは大きくて重そうな腕時計をちらっと見た。「た
った10分だろ」
「光陰矢のごとしってね」
「なんだよそれ」
「時間っていうのは矢のように・・・」
「それより、金持ってきた?」僕の言葉を無視して彼が言う。
「うん持ってきた」
「都会はやばいから、財布にちょっと入れといて、あとは靴下に隠しておいた
方がいいってさ」
「誰が言ったの?」
「そういう噂」
「わかった」僕は財布からお札を出し、枚数を数えてから一枚を戻し、残りを
折りたたんでソックスの中へ入れた。僕らは二人とも、バッグなどは持ってお
らず、手ぶらだった。
見上げれば百貨店に置いてある一番上等な絵の具で塗ったみたいに綺麗な夏
の青空と雲。太陽はもう少しで頂上まで登るというところ。そよ風が肌を緩く
なでていく。人気のない公園の、木造の椅子と灰皿と屋根のある休憩場で、僕
とシェイジュンは待ち合わせていた。
「じゃ、行くか」
彼が自転車の後ろに僕を促す。僕はその荷台に腰掛け、サドルに手をかけ
る。彼の自転車は前方に派手なライトを装備した、変速ギア付きのスポーツタ
イプのものだった。いったいいくら位するのかわからないが、高価な物だろ
う。僕の家には自転車が一台しかなく、しかも漕ぐたびにブリキをこすり合わ
せたような音がする年代物で、そんなオンボロな自転車も父親が毎日工場に行
くのに乗って行ってしまうので、日曜日には乗れるのだが今は夏休みで、今日
は平日だから乗れない。一度だけ父に自転車をねだったことがあったが、当然
のようにそれは無意味な徒労に終わった。父は僕のことに全く関心がなかった
し、いかにお金をかけないで兄弟たちを男一人で養っていくかを常に考えてい
るような人だった。
シェイジュンはその立派な自転車をゆるゆると発進させた。始めは立ち漕ぎ
で速度を上げ、ある程度スピードに乗ってくると絶妙なタイミングでギアを上
げた。公園のアップダウンやカーブに合わせ、ハンドルを曲げ、ペダルを踏み
込み、ブレーキをかけた。まるで長年一緒にいる飼い犬とたわむれるような自
然さと親密さがそこにはあった。僕もこんな自転車に乗って、なめらかにギア
チェンジをしてみたいと思った。
僕らが住む公営団地群は、18棟が直線的に連結するような配置になってお
り、その距離は1.2キロにも及んだ。その西側に平行して大きな川が流れ、
それらに挟まれるように縦長の公園が作られている。団地の反対側には古い下
町の民家が広がり、その向こうに私鉄の駅がある。川と緑と下町という絶好の
ロケーションなのだが、その反面で高層階から飛び降り自殺を図る人が後を絶
えず、密かに自殺の名所とささやかれている薄暗い側面もあった。僕自身、自
殺直後の現場を目撃したこともある。警察や救急車が来る直前で、うつぶせに
なった、まだ若く見える女性の周りに血が水たまりのように広がっていた。そ
してその脇に逆さまに開いた傘が落ちていた。後で聞いた話によると彼女は傘
を差して飛び降りたということだ。まさか飛べると思ったのではないだろう
が、その傘のいかにも女性らしいパステル柄の模様を不思議と今も覚えてい
る。
僕らはその公園を2人乗りの自転車で南下していた。
公園と団地の端まで来ると、右折して川を渡る橋にさしかかった。橋長が1
50m以上ある大きな橋だ。彼はギアを一段落とし、踏ん張るようにペダルを
漕ぎ、アーチを登っていく。降りようか?と聞くと、大丈夫、と返ってくる。
アーチを登り切ったところ、橋の中央で自転車を停め、二人で欄干にもたれ、
景色を眺める。風が心地よい。眼下には川と河川敷と遊歩道が見える。河川敷
では犬がフリスビーを追いかけ、遊歩道ではスポーツウェアを着たランナーが
汗を流し、藪の中では子供たちが川に石を投げて遊んでいる。目を前方に向け
ると、遠くに野球場も見える。橋から見る景色が、昔から僕は好きだ。
「橋作った人って凄いな」彼に言うともなく僕はつぶやく。
「確かに・・・でもさ」と彼は景色を見つめたまま言う。「橋も凄いけど、川
作った奴のが凄いだろ」
「神様とか?」
「神様っていうか、自然?」
「まあ、そうだね」
「この前テレビで見たんだけどさぁ」彼が話を続ける。「地球が誕生してから
46億年くらい経ってて、人類が誕生したのはたった20万年前くらいらしい
んだ。46億年を仮に1年に例えると、人類が誕生したのは12月31日の午
後11時40分頃だって。しかも文明が生まれて、自然を開拓していったのは
11時58、9分になるんだってさ」
「もう年明けのカウントダウンが始まっちゃうね」
「それまでは地球は自然が支配してたんだ、ゆっくりとしたペースで変化しな
がら。生き物はその自然の中、なんとかうまくやってきた」
「恐竜は絶滅しちゃったけど」
彼は僕の合いの手を無視して先を続ける。
「地球の歴史からすれば、一年の最後の数分で人類は誕生して、おそろしく短
期間に地球上を席巻し、地球の様相を劇的に変えてしまった」
「うん」
「テレビで言ってたよ、人間は地球にとっては爆発的に増殖する、がん細胞そ
のものであるって」
「そうするとここにある立派な橋も、このかっこいい自転車も、地球からすれ
ば増殖したがん細胞の一部って事になるんだ?」
「たぶん、そうだと思う、そして僕ら人間、全部」
「じゃあ僕ら悪者だ」
「癌だからな」
「ガーーン」
「つまんねぇよ」
「うん」
また僕らは自転車にまたがった。僕にはよくわからなかった。がん細胞云々
はもとより、46億年もの間、人類が出現するまで営んできた地球の歴史があ
まりに巨大過ぎてうまく想像できなかった。46億年とは、無限を想像するの
に近い。
「無限って凄いよな」橋を下りながら僕は彼に言う。
「なんで?」
「僕、こういうことをたまにやるんだ。今、自分は考えている、ということを
考えている、ということを考えている、って、延々考えるの」
「それで?」
「そうすると、途中で必ず訳がわからなくなって、頭がくらくらする」
「ふうん」
「これって、無限は想像できないって事だと思うんだけど」無限は想像できな
い、なんて哲学的なことを僕は言うんだと得意な気持ちになる。
「へー、それは考えもしなかった」
「だから宇宙の果てっていうのもさぁ・・・」
「ちょっと待って、橋降りたらどっち行くんだっけ」
「えーっと」話の腰を折られるのに慣れている僕はポケットから折りたたんだ
紙を出し、そこに書かれた手作りのルートマップを見る。「大通りに出るまで
真っ直ぐだよ」
「了解」
橋のたもとの信号はちょうど青だった。橋を下った勢いのまま、僕らは全速
力で道路を渡った。振り返ると川の向こうに僕らの団地群が遠ざかって見え
た。
大通りまで来て左折すると、道幅が少し狭くなる。古い町並みで、所々に小
さな商店や布団屋や中華料理屋が並んでいる。僕はいちいちその店の中を眺め
ながら自転車の振動を心地よく感じている。路地を見ると、この辺り一帯が、
昔の平安京だか平城京だかみたいに道が碁盤の目状に整然と整理されているの
がわかる。
「中、入った方が走りやすいな」と彼が言う。確かに路地を抜けた方が車の通
りも信号もない。真っ直ぐ並んだ道だから迷うこともないだろう。
「いいよ、中抜けてこう。真っ直ぐ行けばどの道電車の高架にぶつかるはずだ
から」一応僕がルートを把握したナビゲーター役になっていて、彼もとりあえ
ず僕の判断を仰ぐ。
路地に入り、さっきの道と平行に走る。小さな子供たちが地面に絵を描いて
いる。もう少し年長の子供は自転車で追いかけっこをしている。公園のベンチ
で老人が休んでいる。僕らは特に会話をすることもなく黙々と走り抜ける。
右手に古い工場がある。いや、かつてあったのだろう、今は壁がぼろぼろに
はがれ、閉ざされたシャッターには落書きがあり、敷地いっぱいに雑草が生え
ている。門は開かれていて、その奥に工場への入り口があり、ドアは半開きに
なっている。その入り口に上がるステップのような階段の所に僕らよりいくつ
か年上らしい女の子二人が、座ってこちらを見ている。二人とも年に似合わな
い薄化粧をして、短いスカートを履いている。彼女たちはずっと遠くから僕た
ちを見ていたかのように僕らが近づくのを待っていた。僕たちが横を通り過ぎ
ようとした時、女の子の一人が声をかけてきた。
「どこ行くの?」甘ったるい声だ。
シェイジュンがゆっくり自転車を停める。僕はシェイジュンが答えてくれる
のを期待して黙っている。でも彼は女の子を見つめたまま返事をしない。
「君たち、中学生?」うん、とシェイジュンが小さくうなずく。僕は靴下のあ
たりを意識する。僕らは警戒していた。警戒しながら、同時に高揚していた。
なんといっても女の子がこっちを見ているのだ。高揚しないわけがない。
「どこ中?」また質問だ。シェイジュンが僕らの中学校の名前を言う。
「へー・・・あ、じゃあ高橋って知ってる?」
どの高橋だよ、と思う。この日本で高橋と知り合わずに生きるのはほとんど
不可能だ。
「知らない」としかしシェイジュンはきっぱりと言う。
「そう・・・ところでどこ行くの?」質問。
「都会」諦めたように彼が答える。
「都会」そう繰り返して二人は馬鹿にしたように笑う。
「じゃあいいから、お金貸してくんない?」 今まで発言をしていなかった
(僕もそうだが)もう一人の子の方が単刀直入に言う。僕らの心に膨らんでい
た高揚感が一気に消え失せ、アラームを鳴らして警戒心が前面に出てくる。シ
ェイジュンが何か言おうとした時、工場の半開きになった入り口から二人の男
が勢いよく飛び出してこちらに向かってくる。一人はスタンガンを持ってい
る。
「逃げよう」そう言うなりシェイジュンが自転車を急発進させる。僕も足で地
面を蹴って助勢する。警戒して自転車に乗ったままでよかったと思う。僕らは
男たちを振り切り、なんとか逃げることが出来た。彼らが諦めて工場に帰って
いくのを見届けてからも、路地を滅茶苦茶に曲がって、行方をくらませた。も
う大丈夫、と思った瞬間、民家の脇から野良犬が吠えながらこちらに近づいて
きた。僕らは一瞬ひるんだが、すぐ冷静になり、威嚇するばかりで一定距離以
上は近づいてこないその犬を見つめた。と、シェイジュンが自転車のスタンド
を下ろし、その犬めがけて突進して、憐れな犬を蹴っ飛ばした。キャンキャ
ン、と呻きながら犬はまた塀の隙間に戻っていった。
「まったく、なんなんだよ」そうつぶやきながら戻ってくるシェイジュンに、
僕は茶化すかのようにその時流行っていた歌を歌った。
「弱い者達が夕暮れ~さらに弱いものを叩く~その音が響き渡れば~ブルース
は加速していく~」
たわいのないつもりだった。でも僕はそんな歌を口にするべきじゃなかっ
た。
「弱いもの?」彼は僕を見た。
「冗談だよ」僕は焦った。
「弱いものって俺のことか」
「違うよ」
「俺が中国人だからか」真剣に彼はそう言った。
彼は中国人だった。ただ100%中国人なのか、いくらか日本人の血が混ざ
っているのか、そこのところはよくわからない。彼はみんなから「中国残留孤
児」と呼ばれていた。深く意味を考えることもなく僕も彼は中国残留孤児なん
だと思っていた。
彼が日本に来たのは小学5年生の時で、その時僕とは違う小学校に通ってい
た。中学2年の時、僕らは同じクラスになり知り合った。中国人ということだ
けでも彼はクラスで目立った存在だったが、背が高く、基本的に無口で愛想が
なく、どことなくいつも攻撃的な表情をしていたせいもあってか近寄りがたい
雰囲気があり、うまくクラスに馴染めず孤立していることが多かった。かとい
って積極的に溶け込もうとする素振りもない。生意気だったのだ。どう接した
らいいかわからない、そうした彼の態度がもたらすクラス内の緊張感は、次第
に彼に対する敵意へと変わっていった。「あいつ中国残留孤児だってよ」そう
異端視し排除することでこちら側の団結が高まる。どこにでもあるいじめの始
まりだった。基本的に彼の存在は無視され、なにかあると、聞こえよがしに
「中国人」とささやき嘲笑された。靴や体操着を隠されるといった陰湿ないじ
めもあったように思う。
それでも彼の方はそれを意に介さず、というか、少なくとも動じるようなこ
とはなかった。
ある日シェイジュンが風邪で学校を休んだ時、先生からの手紙を僕が彼の家
に持って行くことになった。同じ団地群の隣の棟で、僕が一番家が近いという
のが理由だった。僕が訪ねると、彼のお母さんが出てきた。彼女は日本語が話
せないようで、それでも嬉しそうな顔をして僕に上がれ、という仕草をした。
家の中は独特な香りの線香のような匂いがした。部屋に入ると、散らかった部
屋の二段ベッドの下に彼が寝ていた。先生からの手紙を持ってきた、と言う
と、ありがとうと言った。しばしの沈黙の後、それじゃ、と帰ろうとすると、
彼のお母さんがお菓子を持って部屋に入ってきた。彼に中国語で何か話しか
け、僕ににっこりと笑ってから出て行った。お菓子は鳥かごのような匂いがし
てひどく甘かった。彼とはまともに話したことがなかったので僕は何を話して
いいかわからず黙っていると、彼の方から話しかけてきた。
「どうしてお前が手紙持ってきたの?」
「家が一番近いからって」
「お前団地?」
「17号棟」
「そうか」
沈黙。
今度は僕が口を開いた。
「お母さん、日本語話せないの?」
「うん、おかしいか?」
「いや・・・家ではいつも中国語?」
「うん」
「いつ日本に来たの?」
「3年前」
「中国のどっから?」
「鄭州」
「テイシュウ?それどこ?」
「河南省」
「河南省ってどの辺?」
「うーん・・・黄河ってあるでしょ?」
「あぁあそこか!わかった!」
「・・・ほんとにわかったの?」
「だいたいね」
「まあいいや」
そんな感じで初めての会話を交わした。しばらく他愛のない会話をし、帰っ
た。彼と彼のお母さんが、またおいで、というようなことを言った。
それ以来、彼の家に度々遊びに行くようになった。僕にも友達と呼べるよう
な人間がいなかったから、いつも二人で遊んだ。二人でいる時の彼は、学校に
いる時よりも幾分攻撃的な顔が和らいでいた。彼の容姿は決して悪くなく、人
懐こいジャッキー・チェンの顔立ちより、いつも険しい顔をしているブルース
・リーのそれに似ていて、背丈もあったし、中国人ということさえなければ決
していじめられたりはしなかっただろうし、女子なんかにも人気があったかも
しれない。
学校ではそれまで通り「間野くん」と日本名の名字で彼を呼んでいたが、彼
の中国名が「シェイジュン」であることを聞き、それがかっこいいと思い、二
人でいる時にはいつもその名前で呼んだ。僕だけが彼を中国名で呼んでいる、
何か特別な気持ちもあった。
彼と親しく接するようになってからも、僕は特に中国残留孤児というのがど
ういうことなのか、どういう経緯で彼とその家族が日本に来たのか、そういう
ことをほとんど聞かなかった。僕は自分の事を話さないし、他人のことを根掘
り葉掘り聞くということもなかった。もしかしたら彼も話したくなかったのか
もしれない。ただ、一度だけ「どうして日本に来たの?」と聞いた覚えがあ
る。どうしてそれを聞いたのかは記憶にない。その時確か彼は「たぶんだけ
ど」と前置きし「どうしようもないことみたい」と言った。どうしようもない
こと・・・。小さい頃、どうしてお母さんが出て行ってしまったのか、もう戻
ることはないのかと僕が父に聞いた時も、父が同じ事を言っていたのをその時
思い出した。僕はまだ子供で、どうしようもないことがこの世にあるというこ
とを理解できなかった。なんとか元に戻る方法はあるはずだと思っていた。い
ずれにせよ、僕は彼の心に踏み込むことなく彼と接していた。そういう意味で
は彼と僕はやはり本当に親しい間柄とは言えないのかもしれない。僕はあれか
ら20年以上も経った今になって、彼が日本に来たいきさつや中国残留孤児と
いうものがどんなものだったのかを考えることになっているのだ。
文献によると、中国残留孤児とは第二次世界大戦末期、旧ソ連軍の満州国へ
の侵攻、関東軍の敗戦による混乱の中、日本に戻れず中国に取り残された日本
人の中で、敗戦時に12才以下で身元の判明しない者を指すものであるそう
だ。
1905年(明治三十八年)、日露戦争に勝利した日本は、中国東北部の実
に日本の国土の3倍以上ある満州地域の租借権と南満州鉄道の敷設権をポーツ
マス条約によってロシアから譲り受け、徐々に満州への影響を強めていった。
時代は昭和に入り、日本国内は、ニューヨークに端を発する世界恐慌のあおり
を受けた昭和恐慌に見舞われ、かつてないほどの不況に喘いでいた。世論では
国威発揚や開拓地の確保などの政策による状況打破を唱える声が高まってい
た。こうしたの中、1931年(昭和六年)、満州事変の契機となる柳条湖で
の満鉄路線爆破事件をきっかけに関東軍は軍事行動を起こし、わずか5ヶ月で
満州全土を制圧した。
さらに翌1932年(昭和七年)日本は清の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を担ぎ
出し、傀儡(操られた)国家である満州国を建国した。強引なまでのこの建国
は国際世論の大きな反発を買ったが、しかし日本としては後に引くわけにはい
かない。軍部は大規模な移住計画を打ち出し、「王道楽土」「五族協和」とい
うスローガンのもと、続々と満州に開拓団を送り出した。だが、火星に移住す
るのとは違い、移住先には現地人が住んでいる土地への入植である。実際に行
われたのは、現地の農家からただ同然の金額で既耕地を取り上げることであっ
た。軍部はあたかもそこにユートピアが実現できうるかのように吹聴したが、
現実は、現地人からの報復やソ連軍の侵攻に怯え、治安は極度に悪く、土地は
真冬には零下30度にもなる荒れた凍土であり、開拓民は昼には鍬を、夜には
銃を交互に持つような日々であったらしい。おまけに疫病で多数の死者を出す
有様だった。
1936年(昭和十一年)には、あくまで関東軍主導での試験移民だった満
州移民政策も、広田弘毅内閣により大々的な国策へと発展する。「二十ヶ年百
万戸送出計画」が策定され、文字通り20年で100万戸、500万人もの満
州移民を移住させようとする計画であった。まさにひとつの国を作り上げよう
としたのだ。1930年代末から1940年代初頭には、ソ連国境付近に大量
の関東軍を配置し、治安の安定を確保するまでにこぎつけた。しかし1937
年(昭和十二年)に勃発した日中戦争を経て、続く1941年(昭和十六年)
に参戦した太平洋戦争の戦局が厳しくなってくると、満州国の戦力を南方に移
動させざるを得なくなっていった。結果、ソ連との国境線を、開拓団である民
間人に警備させるような始末であった。関東軍は満州からの軍の転戦の事実を
開拓団に隠し、またソ連軍は関東軍の転戦を知っていて、国境付近の戦力が急
造の寄せ集めであることも把握していた。お互いの軍部は満州の戦力状況を熟
知しており、知らないのは当の開拓民のみという状態だった。この時すでに満
州移民は日本政府から見捨てられていたのだ。そして第二次世界大戦における
日本の敗戦が濃厚となった1945年(昭和二十年)8月9日午前零時、ソ連
軍は日本との中立条約を一方的に破棄し満州国への侵攻を開始した。関東軍は
この時点で満州国の4分の3を作戦放棄地域としていた。組織らしい組織もな
い満州国はソ連軍になすすべもなかった。混乱の中、開拓民はちりぢりに逃げ
まどい、逃げ切れなかった者は捕虜となり、あるいは惨殺された(満州先住民
からの報復的虐殺も多数あったという)。また自決を選んだ者も少なくなかっ
た。運良く逃げ切れた者も、疫病や飢餓によって死んでいった。
生き残った人々の多くは日本に帰れず、家族などとも離ればなれになり、そ
のまま中国人に拾われる形で現地にとどまることを余儀なくされた。女性は中
国人男性の妻となり、子供は人身売買や労働要員にかり出されるなど、生き延
びていくには相当過酷な状況であったことがうかがわれる。
満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。開拓民の数は当初の目的とはほど
遠い27万人に終わった。
こうして中国残留邦人が生まれた。その中で特に女性を中国残留婦人、12
才以下の子供を中国残留孤児と呼んだ。
世界は冷戦時代に入り、また後に中国大陸に成立した中華人民共和国と日本
政府が国交を結ばなかったという背景もあり、政府は中国残留邦人の問題を
「戦時死亡宣告」や「自己意思で残留」として処理していた。1972年(昭
和四十七年)中国との国交が正常化され、中国残留問題が浮上するも、両国に
とって触れたくない問題であったためか、状況はなかなか進展しなかった。1
980年代に入り、民間団体の働きによって、ようやく日本政府は重い腰を上
げ残留孤児の身元・肉親捜しを開始した。1981年(昭和五十六年)厚生省
が中心となり第1次訪日調査が実施され、中国から47人の残留孤児が来日し
た。うち30名の身元が判明し、実に36年ぶりの肉親との再会の模様はテレ
ビや新聞などで大きく取り上げられ、日本中の涙を誘った。以降平成11年度
まで通算30回の訪日調査が実施され、現在2817名の中国残留孤児が確認
されているとのことだ。
ここまで調べてみてすぐにわかるのは、シェイジュンは純粋に中国残留孤児
ではないということだ。満州での出来事は僕らが生まれるずっと前のことだ。
年代で考えるなら、残留孤児の子供や孫、つまり残留孤児2世、3世だったと
いう可能性はある。しかしながら来日した残留孤児の人数から考えればその可
能性もほぼゼロと言っていいだろう。そう、彼は「中国残留孤児」とは一切関
係のない子供だったのだ。にもかかわらず彼が「中国残留孤児」と呼ばれてい
たのは、おそらく彼が日本の小学校に転校してきた当時、ちょうど訪日調査の
劇的な家族再会の映像が日本国中に印象づけられた頃であり、中国残留孤児が
流行語のようになっていて、中国から来た=中国残留孤児、と、からかいを含
んだいわばニックネームとして呼ばれていたに過ぎなかったのだろう。
さて中国残留孤児というキーワードが彼とは実は無関係とわかった今となっ
ては、彼がどのような形で日本に来たのかを推察する手がかりはほとんどなく
なってしまった。彼と一時期親しく接し、何度も家を訪ねて遊んだにしては、
僕は彼のことについてあまりにも何も知らなさすぎた。賢い競走馬と優秀な騎
手のほうがまだお互いを理解しているかもしれない。考えれば彼だけではな
く、僕は誰に対しても相手に関心を寄せず、また自分を他人に理解してもらお
うと努めることもなかった。というより自分自身が本当はどういう人間なのか
もわからなかった。それが未熟さという言葉で片付けられないほど大きな問題
をはらんでいるとわかったのはずっと後のことだ。でもそれはまた別の話にな
る。
話を戻そう。
シェイジュンについて思い出せることを思い出してみる。彼には兄と妹がい
た。妹は自分の部屋を持っていたし、いつ行ってもいない様子で、僕はちらと
しか見たことがない程度だった。兄は僕が来るといつも閉店間際に客が来たみ
たいなうらめしい顔をして居間へ引っ込んだ。兄とは一緒の部屋を使っていた
ようだ。たいていは彼のお母さんは家にいて、しょっちゅうもくもくと水蒸気
を上げて自家製の焼売を蒸していた。中国では一般的な家庭料理として餃子が
知られているが、シェイジュンによると地域と好みによって餃子派と焼売派に
分かれているのだそうだ。日本で言えばそば派とうどん派といったところだろ
うか。焼売にしても餃子にしても、これといった決まった具はなく、家庭によ
って違い、また日本のお好み焼きのように余った肉やら野菜やら何やらをとに
かくくるんで焼くなり蒸すなりするというのが普通だそうだ。かまぼこ、ちく
わ、大根の葉、油揚げ、なんでも入れていたらしい。
「そういえば一度、焼売の中にスーパーで買った焼売がごろごろ入ってたこと
があったよ」彼はそうも言った。焼売の中に焼売。そういうのが大陸的発想と
いうのだろうか。僕にはわからない。彼の母は日本語が話せないので、あの中
国人特有のいつも怒鳴っているかのような喋り方で子供達に話しかけ、僕には
いつもにっこりと笑いかけるだけだった。
父親のことは僕の記憶に一切ない。仕事でいつも家にいなかったのか、恐ろ
しく影が薄い人物だったのか、なにしろ彼の父親はイメージに残っていない。
でも彼の母親は働いていないようだったし(夜に働いていたかもしれないが)
家計を考えれば、おそらくいたのだろうと思う。
彼が中国にいた時の写真を一度見せてもらったことがある。彼がまだ小学校
に上がるか上がらないかくらいのもので、大人と子供、総勢15人くらいの人
々がきちんと並んで写真に写っている。モノクロ写真だったかもしれない。家
族や親族の集合写真だという。山水画のような雄大な自然をバックに、バラッ
ク小屋のような建物の前で、寄り添うようにしてみながカメラの方を見つめて
立っている。全員質素な衣服、そして女性はみなおかっぱ、男性は大人から子
供までみな短い刈りあげと揃っている。ただ一人、一番端に椅子に座った異形
な姿をした老女がいた。髪を腰のあたりまで伸ばし、大きな数珠を首から下げ
ている。顔つきは険しく、なにかを睨むかのようにどこかを見つめている。そ
の片方の手は、隣にいる小さいシェイジュンの方に伸びている。彼に触れる寸
前でカメラのシャッターが下りたようで、彼女の手は宙ぶらりんに止まってい
る。彼女についてはまた後で、シェイジュンの口から語られることになるだろ
う。それ以外では特に目を引く物は何もない、おそらく中国の田舎の、それほ
ど裕福ではない親族の写真だった。
先ほど河南省の鄭州、ということを書いたが、そういう会話をした記憶があ
るだけで、地名は適当に選んだものである。
手持ちのカードはもう全部出してしまった。彼と彼の家族の歴史は、僕には
もう知るすべもない。
「俺が中国人だからか」そう真剣に彼に睨まれ僕はまごついた。僕は他のク
ラスメイトと違い、彼が中国人であることを差別していなかったかというと、
正直そうでもなかった。なんとなくではあるが、中国を日本の下に見ていた。
かつてない高度経済成長を遂げつつある70年、80年代(そしてバブル崩壊
の90年代に続くわけだが)、世界からも羨まれる日本の経済状況は、僕のよ
うな子供にも日本は凄いんだという刷り込みを与えていた。いや、それだけで
はなく、子供時代には様々な、あからさまな差別が公然とあった。ルンペン、
知恵遅れ、身体障害、てんかん、片親、貧乏、部落差別、そして外国人差別。
明らかに普通と違うものや、「あいつんち○○だってよ」的な噂によるものま
で、枚挙にいとまがない。僕自身もそういう差別意識を持っており、特にそれ
が悪いことだとも思わなかった。シェイジュンが中国人だということでいじめ
られているのも、可哀想ではあったが、仕方ないものとどこかで思っていた。
だから無神経にあんな歌を口ずさんでしまったのだ。
「悪かったよ」とりあえず僕は謝る。
「俺は中国人ってことで、他の奴らより劣ってるとか、弱いとか思ってねぇか
らな」
「わかってる」
彼はそれ以上何も言わなかったので、僕らは無言で走り続ける。僕は何か言
うべきだったのかもしれないけど、言葉がうまく見つからなかった。
「喉渇いたね」しばらくして僕は言ってみる。
「そうだな」ぼそりと彼が言う。
僕らはおばあさんが一人でやっているような小さい商店の前で自転車を停め
る。店先に路上にはみ出すようにジュースのガラス張りのケースとアイスの冷
蔵庫が設置してある。奥をちょっと覗くとレジの所には誰もいない。店内も見
回してから、僕らはガラスケースからラムネを2本取る。ついでに僕はチュー
インガムもひとつポケットに入れる。「アイスは?」と聞くと「いらない」と
返ってくる。僕らはそのまま自転車で走り去る。万引きも、いじめも、カツア
ゲも、僕らにとっては日常のことだ。小学校の頃から近所の駄菓子屋はいじ
め、万引き、カツアゲの巣窟のような所だった。誰かが誰かをこづき、お金を
巻きあげ、店頭のオロナミンCを盗み飲み、ビデオゲームの配線をむき出しに
し、100円ライターの着火ボタンの電流でコインを入れずにクレジットし
た。
シェイジュンといる時にも何度かカツアゲされたことがあった。一番大きか
ったのはタミヤのラジコンカーを買いに行った時、買いに来る中学生を狙って
か、店に着く直前の路上で複数の中学生にカツアゲされた。僕はお金を持って
なく(シェイジュンだけラジコンカーを買うつもりだった)、シェイジュンは
持っていた1万いくらだかを持って行かれた。彼は悔しそうな顔をしながら
「たぶん、ひとりずつケンカしたら俺勝てたな」と言った。たぶん、と前置き
を入れるのは彼の口癖だ。僕は思うのだけど、普通「たぶん」と言う時は、自
信や確信がない時に使うが、彼が「たぶん」と言う時は、逆に確信がある時
か、あるいは強くそう願っている時に使う気がする。確実にそうであるか、強
くそう願うか、の時に。
僕はどこに行くのもお金を持っていなかったので、カツアゲをされたことは
ない。ない袖は振れない。たいてい相手もお金を持ってないと知ると、ハズレ
くじを引いたような顔をして去って行く。腹いせに殴られた、ということもな
い。泥棒が空き家に入って、ほとんどお金がなかったとして、腹いせにふすま
を破っていくかというと、そういう話は聞かない。自分の見込みが悪かった
か、運がなかったと諦めて出て行く。だから、カツアゲされる時、お金を持っ
ていないのが最強なのだ。
僕らはラムネを飲みながら走っていく。ラムネの中のガラス玉がからんから
んと音を立てる。シェイジュンの自転車はスピードが出る。だんだん街並みが
都会の様相を示してくる。
前方から自転車に乗った警官が向かってくる。シェイジュンが素早く「降り
ろ」と僕に言い、慌てて僕は後部荷台から降りる。何気ない顔をして通り過ぎ
ようとしたが、案の定警官は僕らに声をかけてきて止まらせた。まさか万引き
がばれてはいないよなと僕はドキドキする。
「どこへ行くの?」さっきの女の子二人組みたいに警官が聞いてくる。制服が
真新しい、まだ若い男の警官だ。
「秋葉原の方へ」とシェイジュンが答える。
「ずいぶん遠いね。どっから来たの?」
「墨田区です」
「名前を教えてくれるかな」
「間野修二」
「君は?」
僕は名前を言う。
「オーケー、さっき、すぐ先で自販機荒らしがあってね」とそれとなく僕らと
自転車を隈無く見渡す。「まぁ君たちとは関係ないだろう」
僕らは荷物らしいものを何も持っていない。
「でも今、君たち交通規則を破ってたよね?」
「二人乗りですか」シェイジュンと警官は同じくらいの背丈なので、何か堂々
として見える。
「正解」警官は人差し指を一本立てて僕らの前に出しながら言う。「二人乗り
はしちゃだめだよ、どうしてだかわかるよね?」
少し考えて僕が言う。「危険だからです」
「正解」人差し指を立てる。癖なのだろう。「自分たちも危険だし、周囲の人
を危険にさらすことにもなるんだよ」
僕たちはすみませんと軽く頭を下げる。
「この自転車はどっちの?」
「僕のです」
「一応盗難登録されていないか照会するから待ってて」
警官は自転車についている防犯登録ステッカーを無線で読み上げている。し
ばらくすると照会が終わり「間野くん、君の自転車かっこいいね」と言いなが
ら無線を戻す。
僕はシェイジュンに、さっきスタンガンで襲われそうになったことを話して
おこうよ、と耳打ちする。シェイジュンも頷く。だいたいの場所を説明して、
さっきあったことを話す。警官は「わかった、そっちの管轄に連絡してみる」
と言い「この辺は頭の悪い学校が多いからな」と皮膚病持ちの野良犬でも見る
ような顔をする。
「頭が悪い学校が多いと犯罪が多いんですか?」なんとなくシェイジュンが突
っかかる。
「正解だ」立てた指越しに警官が続ける。「外国のスラム街の黒人はみんな教
育を受けてないから犯罪が多いんだ」
「それはどちらかというと貧困が関係あるんじゃないですか?」
「いや、貧困より頭のできだな。君たちは中学生?ここらの馬鹿中学生と違っ
て、勉強出来そうだし、君たちは良い子だろう?」
僕もシェイジュンも勉強は出来る方だ。でもだからといって良い子なのかど
うかはわからない。そんなこと誰にもわからない。でもそういう答えを期待さ
れていないだろうとも思う。だから黙っている。
シェイジュンも何か言いたそうだったが何も言わない。
それから警官は手帳を出し、一応聞くけど、と前置きをして「君たち友達だ
よね、それで君たち以外の友達の名前をフルネームで一人ずつ教えてくれ
る?」と聞く。
何の意味があるのかわからない。でもそう言われてみて僕にはすぐに誰の名
前も思いつけないことに気付く。警官は手帳に目を落としたままボールペンで
耳の後ろを掻いて、僕らの答えを待っている。
「秀樹」とシェイジュンが言う。
「名字は?」
「西城」
警官は書きかけていたペンを止め、ため息をついて僕らを見る。「で、君の
方は野口五郎か?」
僕は目をそらす。
「・・・まあいい、俺だってこんな事聞いても意味がないと思ってるよ。いく
らでも嘘をつけるんだし。でも決まり事だから聞いただけだ。大人はなにかと
決まり事が多いんだ。もういいよ、気を付けて行きなさい、まぁ襲われても君
たちそんなにお金は持ってなさそうだけどね」と警官が薄笑いを浮かべて言っ
てから自転車にまたがる。
「不正解」と僕は心の中でつぶやく。それから人差し指を立てる。僕らは結構
お金を持っている。
「バーン」走り去る警官をシェイジュンが指で作った銃で撃った。
そう、僕らは結構な金額のお金を持っていた。全部で18万円。シェイジュ
ンが10万円を出し、僕が8万円だ。彼は親に買いたい物があると言ってすぐ
その額のお金を手に入れたらしい。子供にお金で不自由させたくないという親
の方針なのか、単にお金持ちなのか(父親はやはりいたのだろうか)とにかく
彼は中国人のくせに―というのは明らかな差別だが―お金をよく持っていた。
僕の方は、使わずに何かのためにと取って置いた、と言うか、取っておきな
さい、お父さんが預かるからと言う父に預けていた何年分かのお年玉のお金
を、父から返却してもらった。いちいち額を計算せず、とりあえずお年玉をも
らったら父に渡す、という感じだったので、正確な金額がわからない。それで
も僕は少なくとも10万以上はあると見積もっていたが、父はずっと少ない額
を提示してきた。粘り強い交渉の末、なんとか8万まで金額をつり上げた。
合わせて18万あればOKだ。
僕らはこれから、秋葉原にパソコンを買いに行くのだ。
パソコン。今では誰でも持っていて当たり前の物だが、当時はまだ一般的に
普及していなかった。ましてや中学生が扱う代物ではなかった。でも僕らはそ
のコンピューターに夢中になっていたのだ。
そもそもパソコンを持っていたのは僕の方だった。ちまたではインベーダー
ゲームや、パックマンなどのゲームが流行り始め、ブームになっていた頃、僕
は小学5年生だった。駄菓子屋などに設置してあるそれらのゲームは僕を魅了
した。お金がないので、見ているだけだったが、それでも夢のように楽しかっ
た。30円で売っているホームランアイスバーなどを買い、食べながらゲーム
を見つめるのが僕の日常だった。そんなある日、兄が突然パソコン(当時はマ
イコンという呼び名の方が主流だった)を買ってきた。僕はそれにも夢中にな
った。まだファミコンが発売される直前で、家でコンピューターゲームが出来
るというのは画期的だった。以来、お小遣いの全てを費やしてパソコン雑誌を
買い、雑誌に載っているゲームプログラムを入力して遊び、何ヶ月も貯金して
ゲームソフトを買った。すぐにファミコンの爆発的ブームが来て、クラスメイ
トの誰もがファミコンを持つようになっても、僕はパソコンゲームに愛着を感
じていた。誰も知らない世界にいるような気持ちだった。誰にも入ってきて欲
しくなかった。
中学に入り、2年生でシェイジュンと出会う。僕はしばらくして彼だけにパ
ソコンの存在を教えた。僕はなぜか、クラスメイトなど、誰かが自分の家に入
ってくることに強い抵抗があり、それはシェイジュンに対しても同じだった。
僕は玄関から奥のパソコンのある部屋までのふすまを全部開け、彼に玄関から
上がらないように言って、そこからパソコンを見せた。まるで自国の軍事力を
見せつけるために近隣国の首脳をパレードに呼んだ総帥みたいな気分だった。
「あれがパソコン」何気ない風を装って僕は言った。
「もっとよく見せてよ、上がらせてよ」
「ダメ」
「いいじゃん」
「見るだけって言ったでしょ」
「一瞬だけ触らせて」
「また今度ね」
付き合い始めたカップルのようなやりとりで僕は彼をじらせた。
ほどなくして彼は同じ型のパソコンを手に入れていた。始めは僕が持ってい
るゲームソフトや、打ち込んで保存してあるゲームなどを彼の家に持ち込ん
で、二人で遊んだ。次第に彼は次々と新しいゲームを自分で買ってきた。遊び
に行くとたいていゲームをした。僕らが好んだのはアドベンチャーゲームとい
われる、言葉を入力したり、選択したりしてストーリーを進めるゲームだっ
た。探偵もの、冒険もの、ファンタジーもの、近未来的なもの、神秘的なも
の、ホラーもの、徹頭徹尾ギャグに終始しているものまであった。僕らは小説
でも映画でもない、コンピューターが作り出す不思議で魅惑的な世界にのめり
込んでいった。そのうちそういうアドベンチャーゲームを自作しようという話
まで出た。結局はプログラミング技術が身につかず挫折してしまったが、彼が
そのゲーム用に考えたストーリーにその時衝撃を受けた。王様が殺され、主人
公はその王子であり、犯人を捜すのだが、最終的には自分が犯人だったという
ものだった。今考えるとありがちかもしれないが、それを聞かされた時は凄い
と思った。僕にはそんなストーリーは考えられない。
僕らはコンピューター雑誌もよく読んだ。その当時のパソコンの花形はPC
ー8801mkⅡSRという機種だった。僕らが持っているのはそれよりずっ
と安価で、機能もそれなりのものだった。僕らはコンピューター雑誌でその最
新機種のゲームの画像を食い入るように見た。本当に美しい画像だった。僕は
ひそかに彼がそれを買わないか期待したが、さすがに20万円以上もするパソ
コンを簡単には買ってもらえないようだった。
ある時、コンピューター雑誌を見ていると、雑誌の後ろの方の白黒の広告ペ
ージに決して大々的にではなく、控えめに「今人気のPCー8801mkⅡS
Rが大特価!16万9980円!」と書いてあったのを見つけた。僕は広告の
びっくりマークと
同じようにびっくりした。どこを見ても20万はくだらないこの機種が17万
を切っている。広告主は「(株)秋葉原○○商会」となっている。住所は東京
都千代田区外神田○ー○ー○秋葉原○○ビル7F。僕はシェイジュンにすぐに
知らせた。彼は少し慎重な面持ちで言った。
「大丈夫かなぁ、安すぎじゃない?」
「確かに・・・」すぐに飛びついた自分がちょっと恥ずかしくなる。「でもち
ゃんとべーマガに載ってるんだし」と僕は食い下がる。
「そうだよな、怪しいのは載せないよな」
「こんなチャンスないかもよ、僕、お年玉貯金で10万以上はあるはずだか
ら」
「まぁ二人で割って8万5千か、買えるかもね」
「見に行くだけでも」
「うん、とりあえず親に言ってみる」
一度「買えるかも」と思うと、万難を排してでも買いたくなる。危ない橋で
あっても、もう後戻り出来ない気分になる。
さっきも書いたとおり、10万を父から出させることは出来ず、僕は8万し
か用意出来なかった。シェイジュンは親にどう言ったのかわからないが10万
を手にしていた。二人で話し合いをして、パソコンは彼の家に置くことになる
から、その分だけ多く出してもいいとなり、8万と10万とで秋葉原に向かう
ことになった。17万でパソコンを買ったら、残りの一万でゲームソフトを買
う予定だった。ゲームソフトの選抜は難航した。僕は雑誌で見て一目で気に入
った、全編パロディ、ギャグ満載のアドベンチャーゲームが欲しかったし、彼
は当時絶大な人気を誇っていたロールプレイングゲームを推した。一本目のソ
フトは重大だ。いつまで経っても最初のソフトとして記憶に残っていくのだか
ら。ちなみに小学5年で初めて手にしたパソコンの一本目のゲームソフトは散
々たるものだった。タイトルは「忍者くん」。いかにも面白そうなタイトルだ
った。深い考えもなく買ったそのゲームは、ただ緑色一色の人間らしき物体が
左右にうろうろするだけ、というものだった。その苦い経験もあって、一本目
のソフト選びは妥協したくなかった。しかし彼が推すロールプレイングゲーム
は、雑誌でも絶賛の嵐を浴び、また驚異的なセールスを叩き出してもおり、僕
の推す、どちらかと言えばマニアックで人を選ぶタイトルは、話し合いの場に
おいてどうにも分が悪かった。結局は無難な方を選ぼうということになった。
ファミコンで言えばドラゴンクエストを買うようなものだ。間違いがない。
そんなわけで僕らは自転車に乗って秋葉原へ向かっている。秋葉原までのル
ートマップと、切り取ったチラシと、18万のお金と、ふくらんだ期待感を持
って。
「腹へった」急にシェイジュンが言う。そういえばもうお昼をだいぶ過ぎて
いる。
「なんか食ってから来た?」と聞かれる。僕は朝起きるのが遅いから、家を出
る前に軽く朝昼兼用みたいな食事をしてきていた。
「うん、シェイジュンは?」
「一応食べた、朝」
「何食べたの?」
「油条」
何それ、と聞くべきところなのだろう。絶対に僕が知らないことを彼だって
わかって言っているのだ。だから僕はあえて聞かない。
「ふぅん、うちは、なますと身欠きニシンの甘露煮と鉄火丼」お返しに彼が知
らなそうな料理名を適当に並べたてる。
「なます?磨きにしん?何それ?」彼は素直に聞いてくる。
「なますは、なんか、大根とにんじんを酢で漬けたやつ」
「うまいの?」
「まずい」
「なんだそれ」と笑う。「それより腹へらない?」
「まあまあ」
「なんか食おうぜ」
ちょうど前方に吉野家が見えた。「吉野家行こう」と彼。
「ちょっと待ってよ、僕お金ないよ」僕の財布にはパソコン用の1万の他には
300円くらいしか入っていない。
「何言ってんだ」と僕の靴下を指さす。「それあるじゃん」
「これはパソコンのお金だよ」
僕は律儀なところがあるのか、計画通りにことを進めたくて、その突然の変
更を嫌った。
「金あんのに馬鹿じゃねぇ、じゃあ一人で食う」
吉野家の前まで来て、自転車を停め、彼が先に吉野家へ入っていく。僕も後
から入る。店内はコの字形のカウンターでフロアを占められ、15席ほどの席
の6割ほどに客が座っている。全員大人の男性客で、黙々と牛丼を食べてい
る。僕らが入るとなんとなくみながじろりとした目で睨んできた気がする。僕
は駄菓子屋以外で子供だけで外食するのは初めてだし、吉野家へ入るのも初め
てだった。なんだか圧倒されて緊張する。彼は当たり前のように2席並んで空
いている席に座る。店員がお茶を持ってくる。シェイジュンは壁のメニュー表
を一瞥して「大盛りと玉子と味噌汁」と早口で言う。慣れている。店員は首の
角度を変え僕の方を見る。僕は意味もなくメニュー表を見る。一瞬、シェイジ
ュンが「おごってやるよ」と言ってくれないかと思う。でも彼は素知らぬ顔で
厨房の方をそれとなしに見ている。僕は、お茶だけでいいです、と自分でも驚
くくらい小声で言う。「かしこまりました」と店員は去って行く。またみんな
に見られている気がする。
「お前本当にいらねぇの?それ使ってもいいんだぜ」
「いいよ、そんなにお腹へってないし」そう言いながら、店に充満する牛丼の
匂いに参っている。シェイジュンが恨めしい気分になる。
牛丼が運ばれてきて、彼が箸を割る。味噌汁をかき回し、一口飲む。それか
ら玉子をそのまま丼にかけて、ぐちゃぐちゃにかき回す。その上に紅生姜、七
味唐辛子を入れる。と、「あぁ、あんちゃん、うまくねぇな」僕の隣の男性客
が話しかけてくる。無精髭を生やして、白髪混じりの長髪の上から阪神タイガ
ースの帽子をかぶり、薄汚れた花柄のアロハシャツを着た、50~60才くら
いのおじさんだった。顔には鼻の横に一円玉より少し小さいくらいの大きさ
の、かさぶたのように盛り上がっているほくろが目立つ。カウンターの上には
半分くらい食べ進んだ並盛りの丼と味噌汁、隣に中日ドラゴンズの刺繍が入っ
た黒いスポーツバックを置いている。たぶん野球に興味はないのだろう。
「ギョクはな、混ぜてから入れるもんや」箸でシェイジュンの丼を指す。僕は
その箸に触れないように手を慌てて引っ込める。「よおく混ぜて、円を描くよ
うにかけるんさ。そんで、箸で上から突き刺してギョクを下まで行き渡らせる
んさ。ぐちゃぐちゃに混ぜちゃあかんな。ま、おっちゃんらくらいになるとギ
ョクはいらなくなるけんな。温度が温くなる。温くなると肉の味が変わる。牛
本来の風味を味わうにはギョクなしさ。あんちゃんらわからんやろ?」わは
は、と笑う。僕はただ見ている。シェイジュンも箸を止めて見ている。もう終
わりですか、食べていいですか、そんな顔で。
「汁もかき回しちゃあかん。行儀が悪い。おっちゃんよく見てるやろ?入って
きた時から見てたんさ。こっちのあんちゃんはなんも食わんとか。牛丼屋来て
お茶って。お前は千利休か、わはは、おっちゃんおもろいやろ?」
僕は大きなほくろを見ている。見てはいけないと思いつつ見てしまう。
「おっちゃんはな、この店が出来た時から毎日来てるんさ。毎日やぞ。雨の日
も風の日も欠かしたことあらんがな。店長も今ので4代目や。初代は働きもん
やったな。近頃の若い店長は礼儀も知らんでな、いてこましてやったこともあ
るわい」
僕は喋るごとに生き物のようにうねうねと動くほくろを見ている。話が耳に
入ってこない。僕は目が離せない。見ているとだんだん遠近感がおかしくなっ
てきて、ほくろが大きくなったり小さくなったりするように見えてくる。その
うちほくろが分裂して増えていく。爆発的に増殖していく。見る間に顔中をほ
くろが覆い尽くす。本人はそれに気付いていない。がん細胞。僕はシェイジュ
ンの話を思い出す。
「あんちゃんら暇してるんか?おっちゃん、いいとこに連れてってやろう
か?」顔中ほくろの物体が喋る。
「行こう」シェイジュンがいきなり立ち上がって僕の手をつかむ。僕の手は汗
でびっしょりと濡れている。シェイジュンは小銭を数えカウンターの上に置
き、僕の手をつかんだまま入り口に歩いて行く。後ろでほくろが何か言ってい
る。僕らは急いで店を出て自転車に乗り込む。心臓が高鳴っている。額からも
汗が出ている。自転車を走らせ僕は息を整える。さっきと同じような商店があ
り、僕らはろくに店の中を確かめもせず、ジュースのガラスケースからファン
タグレープとコーラを取り出して持ち去る。それを飲んでいるうち気分が落ち
着いてくる。
「あいつのせいで半分も食えなかった」
「ねぇシェイジュン」
「なに」
「僕らはやっぱりがん細胞なのかな」
「だからさっきも言ったけど、たぶんね」
嫌だな、僕はそう思った。
片側3車線の広い通りに出る。歩道には鮮やかな緑の樹々が植え込まれてい
る。立ち並ぶ大きなビルの1階のテナントには、ファッションショップや雑貨
屋、びっくりするくらい高いコーヒーを出しそうな喫茶店などが入っている。
2階には美容室や居酒屋が多い。電気屋の前を通ると、数人の人々がショーウ
ィンドウの中を眺めている。中には大型テレビがあり、高校野球中継を流して
いる。シェイジュンが自転車を停め、ちょっと見ていこうと言う。高校野球、
見てるの?と聞くと、割とね、と答える。試合はどちらかだかが大差をつけて
勝っている。しかも回はもう終盤だった。敗色濃厚なチームの球児たちは、そ
れでも諦めることなく力の限り戦っている。スタンドの応援団やチアガールた
ちも枯れんばかりの声で応援している。泣いている女の子もいる。でも僕はど
ちらが勝とうが全然興味がないので、シェイジュンが飽きるのをただ待ってい
る。自転車で走っていると風を受けられるのでそれほどには感じなかったが、
こうしてただ立っていると暑さが身にしみる。道路に目をやると路面が陽炎の
ように揺れている。誰かがタイムリーヒットを打って見物客から歓声が上が
る。僕の頭はぼんやりとしてくる。そのうち僕はこんな感じを昔経験してる
な、という既視感に襲われる。テレビで高校野球を放映している。テレビの横
には小さなタンスがある。その隣には子供机。ベランダは開け放され、外では
蝉が鳴いている。僕はその部屋にいる。小さい頃住んでいた家だ。一緒に姉や
弟も野球中継を見ている。でも誰一人そこで繰り広げられている熱戦に関心を
持ってはいない。ただ時間が過ぎるのを待っている。何かが終わるのを待って
いる。何を?
僕は考える。続き部屋である二間をアコーディオンカーテンで区切ってい
る、そのこっち側には子供たち、向こう側には・・・父と母だ。二人は言い争
っている。お互いを激しく罵り合っている。聞きたくない言葉が飛び交う。僕
らは何も聞こえないようにしてひたすらテレビを見つめている。ピッチャーが
三振を取る。歓声が上がる。僕らはただ黙って頭を空っぽにして時間をやり過
ごしている。
シェイジュンが、あのクリーンアップは押さえられないよな、と僕に話しか
ける。僕は彼が言った言葉を理解するのに少し時間がかかる。クリーンアッ
プ?それからうん、そうだね、と曖昧に返事をする。彼は僕が一緒に野球を見
ていたと思っている。でも違う。
ひと通り戦況を知って満足したらしく、そろそろ行こうかと彼が言う。停め
てあった自転車に戻り、走り出す。僕は時計のねじを回すようにして現在に頭
の中を戻す。何か他愛のないことを話したくなる。
「中国には野球はあるの?」
「もちろん」
「肉まんを投げて中華鍋で打つんでしょう?」
「お前よくそういうこと思いつくよな」
「そう?」
「じゃあ日本はおにぎりを投げてなぎなたで打ち返すのか?」
「それをしゃもじで取る」
「馬鹿だなお前」
話をすると気分が安らぐ。
歩道を歩く、きれいにアイロンがけされたスーツを着たサラリーマンや、信
じられないくらい細い踵のハイヒールでアスファルトを闊歩する女の人や、横
一列に並んでお喋りをしながら歩く女子高校生の間をすり抜けるようにシェイ
ジュンは軽快な運転さばきで自転車を走らせる。目的地まではもうすぐだ。
「ちょっと、ここらで一休みしようぜ」とシェイジュンが言う。さすがに走り
疲れたのか、それとも目的地手前で少し一呼吸したかったのかもしれない。も
しそうなら僕も同じ気持ちだった。
少し走ると、大きいJR線の駅前にバスターミナルが見えた。広いスペース
をぐるりと一週、円を描いてバス乗り場が10カ所以上並んでいる。正確に数
を数えたら12カ所あった。その中央には流線型に形作られた銀色のモニュメ
ントが大きくそびえ立ち、その周りを楕円状に植え込みの花壇が囲んでいる。
僕らは自転車を停め、少し離れた場所にあるベンチに腰掛ける。「コカ・コー
ラ」と文字が書かれた赤くて古いベンチだ。そこからバスターミナルが広く見
渡せた。
僕はまずルートマップを出し、道のりを確かめる。ここからあとは鉄道沿い
に一直線だ。
それからパソコンのチラシを出し、彼と一緒に眺める。下の方に住所と一緒
に載っている地図を見ると、駅からは少し離れている。ちょうど駅から電気店
が並ぶメイン通りの先にある。少し秋葉原見物をしてから寄ればいいだろう。
そんな話をする。
シェイジュンが腕時計を見る。それからターミナルの端にある柱時計と見比
べる。
「あれ、俺の時計狂ってる。さっきまで合ってたのにな」
僕も覗き込むと、30分ほど彼の時計が遅れている。
「あっちが間違ってるんじゃない?」
「駅の時計見てくる」彼は僕を置いて駅の方へ歩いて行った。
僕は一人ベンチに座り、バスターミナルを眺める。チューインガムを出し、
口の中へ入れる。小学5年生の時の担任の先生が怪談話好きで、よく聞かされ
ていた話に、バスターミナルの出てくる話があったことを思い出す。どこどこ
の駅のバスターミナルには地縛霊か何かがいて、夜中の3時、そこを4週廻っ
てから中央を向いて「ターミナル」を3回唱えると、地縛霊が出現してターミ
ナルの地下に引きずり込まれてしまう。地下は迷宮のようになっていて、次の
夜中3時までに出口を探さないと、永久に出られなくなってしまう、と言う話
だった。それ以来僕は、バスターミナルを見るといつも地下に広がる迷宮を想
像してしまう。
シェイジュンはなかなか帰ってこなかった。駅で壁時計を探しているのか、
迷子になったのか、トイレにでも寄っているのか。僕は何度も柱時計をみた。
15分経っても彼は戻ってこなかった。僕は不安になった。心臓の鼓動が速く
なる。駅の入り口に目を懲らし、彼の姿を探す。
ふと子供の姿が目に入った。8、9才くらいの男の子で、真っ黒に日焼けを
した顔で、頭を丸坊主にして、黄ばんだランニングシャツの胸のところに、名
札のような四角い刺繍を付け、だぶだぶの黄土色のズボンを履き、同じ色のリ
ュック、腰には古めかしい丸い形の水筒をぶら下げている。少年は真っ直ぐに
バスターミナルに向かっている。足下を見ると、裸足だった。そしてターミナ
ルに着くと、一台のバスに近づいて運転手に何か聞いている。運転手は首を振
り、少年は残念そうな顔でまた隣のバスに移り、また運転手に何か聞く。どこ
かへ行こうとしているのか、その乗り場がわからないのか。漢字が読めないの
かもしれない。それにしてもあんなに小さいのに一人で、しかも裸足でいった
いどこに行くというのだ?少年は反時計回りにひとつずつバスを廻っては運転
手に何か聞いている。少年が僕のいるターミナルの反対側のバスに向かい、僕
の視点から見えなくなる。僕はそのバスの後部に目をやる。おそらくしょげた
顔をして次のバスに向かうと予想する。でもいくら待っても少年は出てこな
い。さっきのバスでやっと行き先が合って無事に乗り込んだのだろうか。バス
の前後をしばらく注視していたが、どうしても気になって、シェイジュンを待
たず、自転車を置いたまま反対側のバスの方へ走る。バスまでたどり着くと、
乗り込んで車内を見渡す。バスには数人の客しか乗っておらず、少年の姿はな
い。運転手に聞いてみると、そんな少年は見ていないという。嘘だ。順番に聞
いて廻って、このバスまで来たところまでは確かに見たのだ。そしてそのまま
出てこなかったのだ。僕はバスを降りる。僕が見ていた場所からこのバスの、
その向こうは鬱蒼とした樹々が茂っており、その先は線路になっている。バス
に乗り込まなかったら、次のバスに行くか、戻るかしかないのだ。
僕は混乱した。バスターミナル全体を見渡し、それから今停まっている全て
のバス車内を廻って中を覗き込んだ。この間に発車したバスは一台もなかっ
た。そして運転手にも聞いた。しかしどの運転手もそんな子供は見ていないと
言った。そんなはずはない。僕はずっと少年の姿を目で追っていたのだから。
僕はわけがわからなくなり、混濁した頭でベンチまで戻った。ベンチにはシェ
イジュンが帰ってきていて、自転車を点検していた。いったいどのくらい時間
が経ったのだろう。僕は柱時計を見る。でもさっきまで見ていた時間がどうし
ても思い出せない。
「ずいぶん待ったよ、お前なにやってたの?」とシェイジュンが聞いた。
「道に迷ってたんだ」僕はそう言った。
「道ってどこの道だよ」
「迷宮」
僕はシェイジュンに何も説明しなかった。夢でも見てたんだろ、と言われる
のがおちだ。確かに僕はこのベンチで少し眠っていたのかもしれない。そう思
うことにした。
秋葉原まではすぐだった。高架に沿って走り、小さな橋を渡ると、もうそこ
は秋葉原駅だった。広いメイン通りを見ると、両側に赤や黄色や緑といった色
とりどりのビルがずらりと建ち並んでいる。電気屋の店先のスピーカーから威
勢のいいかけ声が聞こえてくる。他の店ではプリンセス・プリンセスの新曲が
大音量で流れている。歩道には人々が列をなして歩いていて、夏休みというこ
ともあり、子供や家族連れが多く見える。外国人も多くが首からカメラをぶら
下げて、いくらか興奮気味に店を見て回っている。
僕らは、この日本で一番の電気街に置いてある全ての商品の中でも、最も時
代の先端をいくパソコンを買いに来ている、そう思って心を躍らせている。
「来たな秋葉原」
「なんか、すごいね」
僕らは自転車を停め、「オノデン」と書かれた、明るい色あいのビルに入っ
て行った。聞き慣れたオノデンのCMソングが店内に流れている。たくさんの
客が商品を見て回っている。僕らはエレベーターに乗り、3階のコンピュータ
ーのフロアに向かう。エレベーターを降りると、あの電子音が奏でる独特のサ
ウンドが聞こえてくる。すぐ前に人だかりがあり、歓声が聞こえる。僕たちが
持っているパソコンの機種の、人気シューティングゲームの続編の販売記念会
が催されており、大画面でそのゲームが試遊出来るようだった。
「1面をクリアされた方には記念品をご用意しております」店員がアナウンス
している。僕らもやってみることにして、列に並ぶ。ゲームのプレイ画面を見
ると、とても美麗なグラフィックに出来ていて、サウンドと共に数段グレード
アップしているようだ。僕らは見入ってしまう。僕の番が来て、コントローラ
ーを握る。前の人の汗で若干濡れている。次の人―つまりシェイジュンも、僕
やその他の人の汗で濡れたコントローラーを握ることになるだろう。戦闘機が
出撃するCGが流れ、ゲームが始まる。僕は最初の敵にぶつかって一瞬で終わ
ってしまう。シェイジュンが軽く笑い、交代する。彼もほとんど同じような結
果だった。僕たちはあまり反射神経を使うゲームは得意ではない。それからし
ばらくコンピューターのハードやソフトのコーナーを見て回る。パソコンを買
った残りのお金で買う予定の、一本目のゲームソフトの値段を確認する。それ
はゲームコーナーの一番目立つところに設置してあった。それからその店を出
る。
次に入ったのは落ち着いた感じのこの通りで一番大きい「ヤマギワ」と書か
れたビル。店内は広く、中央にエスカレーターがある。ガラス張りになってい
て、登りながらフロアの全体を見渡せるようになっている。僕らは一階ずつ登
っていく.パソコンのあるフロアは、最上階の8階だ。
最上階まで来ると、さっきとは違い、非常に静かだった。ブーンという、コ
ンピューターのファンの音までが聞こえてきそうなくらいだった。フロアは白
を基調にしていて、塵ひとつ落ちていない。飾り気のないテーブルの上に、適
度な間隔で整然とパソコンが並んでいる。聞こえるか聞こえないかくらいの音
量でクラシック遠楽が流れている。客はスーツを着たサラリーマンやOLや品
のいい服装の年配客ばかりで、子供は一人もいない。でも僕はこういう雰囲気
は嫌いじゃなかった。コンピューターの独特な匂いがする。よく冷えた新品の
冷蔵庫の中みたいな匂いだ。パソコンの画面には、折れ線グラフや、円と直線
で出来た幾何学模様や、何かの図形が絶えず変化していくようなグラフィック
が描かれている。人々はひそひそと小声で話し、音も立てずに歩いていた。僕
はまるで古代の遺跡巡りツアーに参加しているような気がした。パソコンたち
は発掘された化石のようにいにしえの記憶をたたえ、静かにその存在感を放っ
ていた。僕は「触れてはいけません」という看板がないか辺りを見回した。で
もそんな物はどこにもない。触ってもいいのだ。僕は軽くキーボードをタッチ
した。カチカチという心地よい感触が指を伝わってきた。
「ハチハチSRあった」シェイジュンが言った。そこには僕らがこれから手に
するはずのPCー8801mkⅡSRの機体があった。ブラウン管テレビがあ
り、薄いキーボードと小さなマウスがあり、その横に本体が白いモノリスのよ
うに高々とそびえ立っていた。画面の中には無数の球体が跳ねていた。僕はマ
ウスを動かした。そのマウスポイントの動きに合わせて球体が跳ねた。
しばらくパソコンに触ってから、シェイジュンと店内を歩いた。お問い合わ
せカウンターのところに、白いブラウスを着て、短いスカートを履いたきれい
な女性店員がいた。茶色いセーターを着た初老の男性になにかの書類を見せな
がら話をしていた。少しぽっちゃりとしていて、胸が大きい。第二ボタンまで
ボタンを閉めていないため、ブラウスの胸のあたりにピンクのブラジャーが見
えた。僕はすごいものを発見したようにシェイジュンに伝えると「ホントだ」
と彼も興奮気味に言う。僕らは、どの角度が一番よく見えるかを探し、あたり
をぐるぐる回り、非常階段にまで登った。そして僕らは作戦を立てた。
「あの、すみません」男性客が離れるのを待ってシェイジュンが話しかける。
「はい、なんでしょう」
「あそこにあるやつ、いくらですか?」遠くを指さす。
「どちらですか?」
僕らはそっちに向かう。店員はついてくる。
「これです」
「これは、ここに書いてありますね、22万9800円です」
「じゃあこれは?」下の棚のを指す。
店員は足を曲げ、身体を屈めてプレートを見る。僕らは4つの目を女性店員
の胸に集結させる。胸は大きく開かれ、白い肌に丸い胸の膨らみが先端近くま
で見える。きちんとサイズを合わせたピンク色のブラジャーがそれをしっかり
と包んでいる。
「これは24万4900円です」
「それのブラックってありますか?」シェイジュンが機転を利かせる。店員は
屈んだまま棚の在庫を順番に見ていく。僕らはその揺れる胸に集中している。
僕は頭の中でその揺れに合わせてマウスを動かす。下半身が膨らんでくるのを
感じる。
「ブラック、ありますね」と店員が指さす。僕らは素早く視線をパソコンの箱
に移す。
「あ、ありがとうございます」下半身の膨らみを悟られないようにと願いなが
ら僕が言う。もう限界だ。
「他になにかございますか?」
「い、いいえ」
「ごゆっくりご覧になってください」と言って店員はカウンターへ戻る。
「はぁ、やばかった」と僕が言う。
「あんな店員他にもいないかな」
「いや、もうよそう、ばれるよ」
「そうだな」諦めて彼が言う。「じゃあそろそろ行くとするか」
僕らはエスカレーターを降り、ビルを出る。「でもすごかったなぁ、あの
胸」とかなんとか言いながら、僕らは自転車を引いて歩きながら、いよいよチ
ラシに載っていた電気屋へ向かう。
通りをそのまま3分ほど歩いて、路地に入る。すぐ角にそのビルはあった。
何の変哲もない、灰色のビルだ。店舗があるという感じは全然ない。入り口に
は秋葉原○○ビルと書いてある。ここで間違いない。でも上を見ても○○商会
の看板は出ていない。本当にここにあるのだろうか。路地にも電気店が並んで
いるが、喫茶店や、書店や、店先にカラーボックスを置いて、その中になにや
らわからないごちゃごちゃしたパーツを売っているジャンク店もある。マニア
ックな機械いじりの好きな人種なんかはこういった店をはしごして楽しむのだ
ろうと思う。
「なんか怪しい雰囲気だな」
「うん・・・でもここまで来たし、行くしかないよ」
「わかってる」
自転車を停め、鍵を抜き、ビルへ入って行く。錆びた銀色の集合ポストがあ
り(どのポストにも名前は書いてない)、その先に何十年も前から動いてるよ
うな、小さいエレベーターがある。ボタンを押し、中へ入る。エレベーターの
ボタンの横に様々な会社などの名前がプレート板に書いてあり、7階には○○
商会、と出ていた。とりあえずほっとする。でもこのシチュエーションに僕ら
は緊張していた。7階につくと、薄暗い廊下があり、突き当たりにトイレ、左
と右にひとつずつドアがついている。窓はない。左側のドアのところに○○商
会というプレートが小さく出ている。その下に張り紙がしてあり、「ただいま
外出中につき、ご用の方はこちらにお電話ください」と、電話番号が記してあ
る。僕らはその番号を覚え、また下に戻って、公衆電話を探し、シェイジュン
がお金を入れ、電話をする。
「あ、すみません、あの、パソコンを買いに来たんですけど・・・はい・・・
はい、今下まで来てます・・・はい、わかりました」電話を切って「今来るっ
て」と言う。
「どんな感じだった?」と聞くと黙ったまま難しい顔をした。
10分ほどしてビルの入り口に現れた男は、黒のストライプのスーツに真っ
赤なシャツ、金のネックレスに薄い茶色のサングラスという、いかにもチンピ
ラ風の男だった。即座に僕は(失敗だ・・・!)と心の中で叫んだ。
「兄ちゃんらか?パソコン買いに来たって」
「はい、そうです」
「まあいいから上がろうや」
3人でエレベーターに乗る。男はなにか手首につけた鎖のようなものをじゃ
らじゃらさせながら、鼻歌を歌っている。香水のような匂いがする。男でも香
水をつけるのかなと僕は思う。
エレベーターを降り、左側のドアの鍵を開け、男が中へ入って行く。僕らも
続いて入る。電気を点けると中は倉庫のようになっていて、雑然とパソコン本
体らしい段ボールが積み上げられている。
「暑いな」男はブラインドを上げ、窓を開ける。外の熱気が流れ込んでくる。
窓のそばに質素なオフィス用の事務机と椅子があり、男はそこに腰掛ける。僕
らは直立不動の姿勢で立っている。
「兄ちゃんら中学生か?」
今日、何人の人に中学生かと尋ねられたか数えてみる。
「はい、そうです」シェイジュンが答える。
男は値踏みするように僕らをゆっくりと足下から頭まで眺める。
「うちはな、普通素人相手には商売してへんのや」サングラスを取り、スーツ
のポケットにしまいながら言う。「でもまあ、ええやろ、社長が行ってこい言
うたからな。で、金は持ってきたんか?」
「はい」と答える。
「どれ欲しいんや」
「ハチハチのSRです」
男は段ボールに目をやり、それから机の上の帳面に目を落とす。「23万や
な」
僕は、やっぱりいいです、ごめんなさい、と逃げ出したい気持ちになった。
シェイジュンがそう言ってくれればと思った。
「あの、17万って見て来たんですけど」シェイジュンが言う。声が少し震え
ている。
「17万?」男が大げさにびっくりしたように言う。「17万て、きょうびそ
んな値段でSR売ってる店あるかいな」
「でも、チラシに」と僕を見る。僕は震えた手でポケットから折りたたんだチ
ラシを出して男に渡す。
男はこともなげに「ほんまやな。・・・あぁ、でも残念やったなぁ、これセ
ール期間中の特価や。出血大サービスってやつや。で、セール期間は、昨日で
しまいや。惜しかったなぁ、兄ちゃんら」と半笑いの顔で言う。前歯がひとつ
ない。
僕はどうしよう、もう終わりだと思う。謝って、帰ろうと思う。
すると男が困ったふりをして言う。「わしも兄ちゃんらに呼び出されてせっ
かく来て、手ぶらで帰ったら社長に会わす顔ないやんな?せやろ?どや、ここ
は交渉ってことで、わしの顔立てていくらかまけてやるから、で、いくら持っ
てきたんや?」
「18万です」
「18万!?」男はまた大げさにびっくりする。「話にならんがな」
僕らはうつむいている。
男が席を立つ。僕はびくっとする。
「とりあえず、有り金全部出してみいや」
僕は財布の1万と、靴下に隠して置いた17万を出して机に置く。
「小銭も全部や。そっちのおっきい兄ちゃんも財布持ってるやろ」
僕は財布のわずかな小銭を出し、シェイジュンも財布を出し全てのお金を机
の上に置く。これじゃあまるでカツアゲだ。
「18万6450円」男が金額を数えて言い、しばし考えている。
「そしたらな、中古はどや。中古言っても程度はええ」返事を待たず、男は段
ボールをかき分け、ひとつの箱を持ってくる。「見てみい、SRや。新品と変
わらんやろ」
箱を開けて本体を出す。少し使った感じがある。新品とはどう考えても言え
ない。
「付属品、説明書も揃ってるしな、これ掘り出しもんちゅうやつや、これなら
この金で売ったるわ、どうや?」
僕は、これでいい、もうこれにしよう、と思ってシェイジュンの顔を見て、
うんうんと頷く。
「動作確認させてもらってもいいですか?」シェイジュンはあくまで毅然とし
た態度で言う。
「なめとんか、お前ら。こっちも曲がりなりにも商売人や。毎日いくらの金動
かしてる思うんや。しょうもないガキ相手にポンコツ売る暇なんてあらへんの
や、わかったか、あぁ?」
凄まれてさすがにシェイジュンも怯んだようだった。僕に至ってはもう土下
座したい気分だった。
「わかりました、それでいいです、いいよな?」とシェイジュンが僕を見る。
僕はまたうんうんと頷く。
「ほんなら契約成立や、ありがとうございました」妙な抑揚をつけてわずかに
男が頭を下げる。シェイジュンが買う形にして、契約書に名前を書いて拇印を
押す。
店(というか倉庫というか)を出て、また3人でエレベーターに乗る。男は
また鎖をじゃらじゃらさせて鼻歌を歌う。シェイジュンはパソコンを抱えてい
る。エレベーターを降りると男は「ほんなら、じゃ」と言って大通りに向かっ
て大股で歩いて行った。
「・・・でも、とりあえず買えたし、良かったよね」と僕は彼をというより、
自分を慰めるように言った。シェイジュンは悔しそうな顔をしていた。
自転車のところまで来て、シェイジュンが思い立ったように言う。「ちょっ
とこれ持って待ってて」パソコンを置く。
彼は近くのジャンク屋に向かった。帰ってくると手に小さいマイナスドライ
バーを持っている。「見張ってて」といってビルに入っていく。5分ほどして
戻ってくると、「ちょっと来いよ」と僕を呼ぶ。パソコンを抱えてエレベータ
ーの中に入ると、エレベーターのボタンがでたらめにはまっている。「5」の
上に「2」、その上に「開」といった風だ。そして「ガム持ってたよな?」と
言い、それを渡すと、2枚を口に含み、それを出して「閉」のあった場所(今
は「7」になっている)に押しつけて、押しっぱなしの状態にして、そこを出
た。
それで僕らは少し気分が良くなって、二人でまた自転車にまたがった。パソ
コンを抱えて二人乗り出来るか心配していたけど、なんとか抱えたまま片手が
サドルに届いたので、その格好で帰ることにした。
「ソフト、買えなくなっちゃったね」
「うん、それはまたお金貯めて買おう」
「それにしても小銭まで全部、カツアゲみたいだったね、これじゃジュース一
本買えないよ」
「どうせ買わねぇじゃねぇか」
僕らは笑いながら秋葉原の大通りを走った。空は夕焼け色に染まりつつあっ
た。濃いブルーが紫色と混じり合い、地平線近くは真っ赤に燃えていた。どう
して空はこんなに美しいんだろう。僕は自転車に揺られながら、いつまでもい
つまでも空を見ていた。
帰りは、来た道をひたすら戻るだけだった。シェイジュンは心持ち急いでい
るせいか、息を切らせてペダルを漕いでいた。空は完全に暗くなってきてい
た。彼は手元のスイッチを操作して自転車の前照灯を点けた。
道程を半分ぐらい戻ったところ、真っ直ぐに続く幹線道路を走っていると、
太鼓の音が聞こえてきた。夜の闇の間隙を縫うように静かにその音は僕らに届
いた。走り続けると、音は徐々に大きくなり、太鼓の音にかぶさるように笛の
音も聞こえてきた。前方に明るい光が見え、僕らは吸い寄せられるようにその
光に近づいていった。
さほど大きくない神社でその夏祭りは行われていた。入り口には鳥居があ
り、境内の中央にはやぐらが組まれている。やぐらからは放射状に提灯が張り
巡らされ、辺り一帯を照らしていた。やぐらの上はスポットライトを浴び、ひ
ときわ明るくなっている。楽団が祭り囃子を奏で、それを取り囲むように大勢
の人が音楽に合わせ踊りを踊っている。3分の1くらいの人は浴衣をまとい、
下駄を履いている。周囲にはたくさんの屋台が色とりどりに灯りを灯してい
る。右手には柵に囲まれた池があり、水面に灯りが反射している。正面奥には
拝殿があり、その脇には大きな岩がしめ縄で結ばれて立っている。僕らは自転
車を停め、少し迷ったあげく、パソコンを自転車の荷台に置いてちょっと寄り
道をすることにする。自転車が視界から消えない程度のところまで、少しだけ
見ていこう。
鳥居をくぐり、境内に敷かれた石畳に足を踏み入れる。僕らはまず屋台を見
て回った。たこ焼き、あんず飴、金魚すくい、わた菓子、お面、射的、様々な
店が出ていた。あんず飴ひとつ買うお金を持っていないことを僕らは残念に思
う。さすがにこれだけ大勢の人の目がある中、黙って持って行くことは出来な
い。いくつかの屋台を見て回ったところで、まだ高校生くらいに見える少女
が、結んだ髪に鉢巻きをして焼きそばを作っている店があった。少女は赤いは
っぴを着て、両手に持ったへらで華麗に焼きそばを炒めている。思わず焼きそ
ばになりたいと思うくらいの優しい手さばきだ。ときおり男性客からなにか声
をかけられ、照れたように笑いながら答えている。売れ行きは好調らしく、パ
ック詰めされた焼きそばは作ったそばからはけていった。店の奥には同じはっ
ぴを着た中年の男が黙々と野菜を切っている。親子なのだろうか。焼きそばが
食べたいな、そう思う。そういえばずいぶんお腹がへっている。長いことその
屋台の前で華奢な腕の振る舞いを見つめ、客が途切れたところで思い切って彼
女に声をかけてみる。
「買いたいんだけど、お金がないんです」あまりと言えばあまりにストレート
だ。彼女は一瞬驚いたような顔をして僕とシェイジュンの顔を見る。それから
困ったように笑って首をほんの少しかしげる。僕はシェイジュンの方を見る。
彼はなに馬鹿なこと言ってんだよと言いたいような顔をしている。視線をまた
彼女に戻す。彼女は微笑んだまま、ちらりと後ろを振り返る。父親らしき中年
男は下を向いてもやしのひげをむしっている。彼女は店先に並べたパックのひ
とつをすばやく取り、僕らに渡し、ぶら下げられたざるを軽く叩いて音を立た
せ、「ありがとうございます」と言って笑顔を見せた。
「買いたいけど金がねぇって、もっと気の利いたこと言えなかったのかよ」自
転車に戻りながらシェイジュンが呆れて言う。
「例えば?」
「例えば・・・賽銭箱に財布ごと投げ込んじゃったんですとか」
「それって、気が利いてるの」
「ま、例えばだよ」シェイジュンは口を濁した。
自転車の置いてある場所まで帰ると、ちゃんとパソコンは荷台に置かれたま
まあった。僕たちはすぐそばにある境内の端にある石に腰掛け、二人でひとつ
の焼きそばを食べることにした。
やぐらを見るといつの間にかひょっとこが舞を舞っていた。規則正しい太鼓
の音と、一本の横笛をバックにして、二人のひょっとこが腰を屈めたり伸ばし
たりして、お調子者といった雰囲気で踊っている。後ろには二人のおかめがに
こやかな顔で左右に座っている。ひょっとこがひとしきり踊ったところで、二
人のおかめが立ち上がり舞を舞い始め、ひょっとこの方は後ろへ下がり、しゃ
がみ込んで顔を隠すようにうつむく格好になる。おかめは巫女のような衣装を
着て、扇子と鈴を両手に持ち、何かの儀式のような舞を厳かに舞っている。し
ばらくして拍子木が高らかに打ち鳴らされると、ひょっとこが勢いよく飛び出
し、おかめと一緒に踊り始める。4人がそれぞれ別の役割を演じて踊る。横笛
の響きが軽やかに変化し、楽団からは「やぁーさぁー」というようなかけ声が
かけられ、舞は佳境に入っていく。
「俺の母形の家系にはさ」シェイジュンが唐突に話し始める。僕は舞に見とれ
ていて聞き取れなかったので、何?と聞き返す。
「俺の母形の家系には、シャーマンの血が流れているって中国にいた頃に聞か
されていたんだ」
「シャーマン?」
「霊媒師・・・みたいなもんかな」
「うん」
「お母さんはそんなの嫌っていたけど、ひいばあさんの代には、まだそういう
風習が残っていて、年一回の親族の集まりなんかで、ひいばあさんはあんな風
にお面をかぶって踊りを踊って霊界だか何かの世界と交信して、親族の未来を
祈ったり、予知したり、助言を与えたりなんかをやってたらしいんだ。俺、よ
く覚えてるんだけど、お面が素晴らしいなといつも思ってた。木彫りの手作り
で、そういう面を作れる人に毎回お願いして、年ごとに違った面で踊ってたん
だ。いつも動物の面でね、狐とかライオンとか、なにかしっぽの長い鳥とか
ね。動物によって踊り方も違うんだ。ひいばあさんは、踊ってる時はその動物
の真似をするんじゃなくて、その動物に自分がなっている、っていう風に言っ
てた。俺はその踊りが好きだったよ。本当にすごく好きだった。でもね、親戚
たちはみんなそんな儀式は気味悪がって誰もまともに取り上げる人はいなかっ
た。一応、親族の一番の年長者だから、形だけは敬っていたけど、みんな心の
中では疎ましがってたらしいんだ。俺、そのひいばあさんに会ったのは小さい
頃の一時期しかないんだけど、いつも可愛がられたし、なんとなく俺も親しみ
を感じるところがあってね、今でも懐かしいんだ。しわだらけの手とか、たま
に背筋が寒くなるほど鋭くなる表情とか。でもお母さんはそういうのも嫌がっ
てた、俺がひいばあさんのこと思い出したり、聞きたがったりとかね。という
のも、最近になって聞いたんだけど、ひいばあさんは俺の中にそういう血が濃
く流れてるって、親戚中に言いふらしていたらしい。このひ孫はいずれ自分の
後を継ぐものになるって。でもお母さんはそういう迷信みたいのに俺を関わら
せたくなかったんだ」
珍しく饒舌な彼に驚きながら、僕は黙って話の続きを待った。シェイジュン
は一息つくように夜空を眺めた。空には厚い雲がかかりかけていた。やぐらの
上では踊りを終えたひょっとことおかめが舞台を降り、笛と太鼓の音色が余韻
を残すように静かに鳴り響いていた。
彼は夜空を見上げたまま、なかなか話の続きを話そうとしなかった。僕は
「そういう血が流れてるって、自分でも感じる?」と水を向けてみた。彼はし
ばらく考えてからゆっくりと話し出した。
「自分ではよくわからない。でも小さい頃は樹々がなにかささやいてるとか、
風が呼んでるとか、どこどこの井戸で蝉が溺れてるから助けてとか言って、お
母さんを不安がらせた。お母さんはそういう時、俺をぶったよ、なにを言って
るのって、すごい顔して。俺は言ってはいけないことと言ってもいいことの区
別がつかなくて、お母さんが怖かった。そしてだんだん思ったことや感じたこ
とを言わないようになっていった。お面の踊りについても、本当はその感動を
聞いてもらいたかったけど、言わなかった。ましてや自分もあんな風に踊って
みたいって思ったことなんか、絶対に禁句だね。お母さんは俺が変なことを言
わなくなって、今は安心してるみたい。でも俺はただ言ってないだけなんだ」
「僕はシェイジュンの踊りを見てみたいけどね」僕は言った。
彼は真剣な表情で「本当に?」と言った。
「うん」
「見よう見まねなんだけど、なんとなくならたぶん踊れるかも」シェイジュン
はそう言って大きく息を吐いた。「少し踊ってみる」
彼は立ち上がり、踊り始めた。始め彼は考え込むように目をつむって両手を
広げ、手をひらひらと動かせた。なにかを待っているかのように意識を集中さ
せていた。それから体が痙攣するように小刻みに震え始めた。そして大きく腕
を天に向かって突き上げ、叫ぶように目と口を大きく開いた。彼は両手を振り
下ろし、大地を蹴って高く飛び、首を回し、髪を振り乱し、汗を飛ばして激し
く踊り始めた。僕は最初、狂人が暴れているかのように思った。しかしよく見
ていると、むやみやたらに体を動かしているのではなく、ごく単純な動きを組
み合わせ、まるで印を結ぶようになにかの法則に従って踊りを展開させている
のがわかった。ひとつひとつの動作には無駄がなく、揺るぎない確信を持って
彼は体を伸縮させ、大地を踏み、天を仰ぎ、風を切り裂いた。その踊りは別の
なにかを連想させた。草原を駆ける風や、月夜にさざめく波や、空を舞う鳥
や、夕日を浴びて疾走する獣や、そういう情景が自然に心に浮かんできた。彼
は彼でありながら、同時にそういう情景そのものだった。音楽でいう倍音のよ
うに彼の踊りは幾重にも重なった情景を僕の心に喚起させた。僕は彼の踊りに
見とれた。踊りの激しさとは反対に、雨が大地にしみこむような静かな優しさ
を感じた。そして耳にはやぐらから聞こえる笛と太鼓の音が遠く響いていた。
最後に彼は大地に跪き、天に手を合わせ、風の流れに合わせてまた手をひらひ
らさせ、スケート選手みたいに体をくるくると回転させ、深く深呼吸をして踊
りを終えた。
「すごいや」僕は拍手を送った。
「お面があるともっといいんだろうけど」呼吸を整えながら彼が言った。確か
にそうなのかもしれない。
僕らは石の上に座ってしばらく夜空を眺めた。垂れ込めた雲の隙間から時々
月が顔を出した。月ではウサギがせっせと餅をついていた。いったいウサギは
誰のために餅をついているのだろうと僕は思った。でもきっと誰かのためにそ
うしているのだろう。そしてその相手はお返しに踊りを踊るのだ。それから二
人はその辺に腰掛けてできたての餅を食べながら地球を見上げるのだ。もしこ
の世界がそんな風であったなら、僕はそう思った。
「よく夢を見るんだ」彼が再び話し始めた。「追いかけられる夢。追いかけて
くるのは、マントを纏った男だったり、石像のような怪物だったり、いろいろ
なんだけど、その夢を見出した頃は相手のスピードが遅いか、自分が速いか
で、全然掴まる気がしなかったんだ。むしろ逃げるスリルを楽しんでるくら
い。でも徐々に相手のスピードが速くなってきてるんだ。それか、俺が遅くな
ってる。夢を見るたびに、少しずつその差が縮まってきてる。確実にね・・
・。目が覚めるといつも体中にびっしょり汗をかいてる。悪夢だよ。俺、怖い
んだ、いつかそいつに掴まってしまう時が来る。必ず。そうなったらどうなる
んだろうって、怖くてたまらないんだ」
「大丈夫だよ、ただの夢だよ」
「うん・・・でも違うんだ」
僕はなにか慰めの言葉を探した。
「そのひいおばあさんに相談は出来ないの?手紙を書くとかして」
「もう死んだよ・・・俺が日本に来てすぐに、体中を癌に冒されて、あっとい
う間だったらしい。あっちこっちにメスを入れられて、最後にはずいぶん苦し
んで死んだって」
僕はそれ以上なにも言えなかった。
「俺は、たぶん一生幸せにはなれないと思う」思い詰めた表情でそう彼が言っ
た。「ずっとそう感じてるんだ」
遠くから太鼓の音とは少し違う、地鳴りのような響きが聞こえてきた。祭り
を楽しんでいた人々が空を見上げている。いつしか巨大な岩の塊のような灰色
の雲が完全に空を覆っていた。西の空の向こうに小さな稲光が見え、しばらく
して雷の音が遅れてやってきた。次第に光と音の差が縮まってきて、雷が近づ
いてることを示した。ぽつっと、大粒の雨が膝に落ちる。それを合図にしたよ
うに、たくさんの雨粒が空から落ちてくる。雨だ、行こう、そうシェイジュン
が言い、僕らは自転車に戻る。僕らは傘を持っていなかった。パソコンはさっ
き店で見た時に、エアキャップにくるまれて、その上にビニール袋がかぶされ
ていた。たぶん雨に濡れることはないだろう。僕はパソコンを片手に担いで自
転車の荷台に乗った。シェイジュンがすぐに自転車を発進させた。
雨は熱帯地方のスコールのように激しく地面を叩きつけた。濡れた路面は街
のネオンを反射しキラキラと輝いて見えた。街灯の明かりや車のヘッドランプ
が雨ににじんでまるで蛍の光みたいにゆらゆらと揺れながら淡く瞬いていた。
雨によって冷えた路面から水蒸気が立ち上り、霧がかったように街を幻想的に
ぼやけさせていた。時折雷が轟音をうならせて光った。雨は僕の頭を打ち、肩
を打ち、腕を打ち、太ももを打った。そして体を流れ、滴となって地面に落ち
ていった。街中の全てのものが雨によって濡れていた。僕は上を向いて、上空
から降り注ぐ雨を眺めた。それはまるで天から降る贈り物のように思えた。僕
は子供の頃に読んだ聖書物語の洪水の場面を思い出した。神は四十日と四十
夜、雨を降り続けさせ、地上の全てのものを洗い去った。どうして神がそんな
ことをするのか僕はわからなかった。命は地球より重いはずだったからだ。で
ももし神がいるとして、僕は出来ることならこの雨が全てを洗い流してくれれ
ばいいのにと思った。僕の身体も、心も、全て。
無事に団地までたどり着き、自転車置き場に自転車を停めると、シェイジュ
ンはひどく疲れた様子で、肩を上下させ息をしていた。二人で彼の家に行く
と、彼の母親が「まあずぶ濡れになって、大変」という顔をオーバーにして、
僕とシェイジュンを上がらせようとした。僕はすぐ帰りますからと言って、玄
関先にパソコンを置き、段ボールを開け、パソコンが濡れていないことを確か
めてからシェイジュンにあいさつをして帰った。
その夜に僕は高熱を出し、3日ほど学校を休んだ。僕はうなされながら、ず
っとひとつのイメージに取り憑かれていた。自分の体が針金になって、巨大な
岩に押しつぶされるというものだった。熱はなかなか下がらなかったが、3日
目の朝に嘘のように治った。一度シェイジュンが見舞いに来たようだったが、
僕は寝ていて気付かなかった。風邪が治ると、すぐ彼の家に遊びに行って、パ
ソコンを開いた。僕と一緒に開けるつもりだったらしく、パソコンは段ボール
から出した状態のまま、ビニール袋とエアキャップにくるまれ、机の上に置か
れていた。パソコンを起動させ、NECというロゴが表示されると、僕らは歓
声を上げた。画面は黒く変わり、4行ほどの英語が表示され、最後のクエスチ
ョンマークはコマンドが入力されるのを待っていることを示していた。僕らは
ソフトを持っていないので、それ以上はなにもすることがなかったが、説明書
を読んだり、同梱されていた表計算ソフトやワープロなどをいじっていた。と
りあえず、動作は正常のようだったので、安心した。
その夏に、僕らは何本かのゲームで遊んだ。全部シェイジュンのお金で買っ
たものだ。当時最先端のコンピューターが織りなすファンタジックな世界は、
ファミコンにも、ゲームセンターのゲームにもない、独特のものだった。僕ら
は誰も知らない秘密の基地に集まるように、毎日をコンピューターゲームの世
界で過ごした。
しかしそうした蜜月の時期も長くは続かなかった。半年が経ち、学年が上が
ると、クラス替えがあり、違うクラスになった僕らは校内で顔を合わせる機会
がめっきりへった。それでも始めはパソコン雑誌の最新刊などを持って彼の家
を訪ねて行ったが、彼は以前ほどの興味を示さなくなり、それもだんだんなく
なっていった。僕は僕で新しいクラスに馴染もうと精一杯だったということも
ある。クラスの中で自分の居場所を見つけることに必死だったのだ。とにかく
僕らは疎遠になっていった。学校内で彼を見かけても、手を上げてあいさつす
る程度になり、そのうちあいさつすらしなくなった。彼はいつも一人でいるよ
うだった。他人に見せる攻撃的な顔つきは以前に増しているように思えたし、
常に何かに苛立っているようにも見えた。今思えば僕は彼ともっと心を開いて
接する―つまり本当の友だちになるべきだったとも思う。せっかく親しくなっ
た彼をもっと信頼し、打ち解ける努力をするべきだったかもしれない。でも僕
にはうまくそれが出来なかった。いや、今だって出来ないのだ。
そうして一年が過ぎた夏、水泳の授業中に、プールサイドで彼が倒れたとい
うことをクラスメイトから聞いた。突然意識を失うように、立ったまま後ろ向
きに倒れ、頭から血を流して救急車で運ばれたらしい。それは大きな事件とし
て校内に広まった。彼はそのまま大学病院に入院した。担任の先生によると、
脳の血管が切れたとか切れなかったとかいう話だったが、詳しいことはわから
なかった。一週間ほど経った頃、僕は何人かのクラスメイトにお見舞いに行こ
うと誘ったが、誰も首を縦に振らなかった。彼は完全に孤立した存在になって
いたのだ。
その病院は、都心に広大な敷地を有する大きな病院だった。いくつか電車を
乗り継ぎ、僕は一人で彼のお見舞いに行った。門を入ると緩やかなスロープに
なっている歩道があり、ケヤキの木がそれに沿って並んでいる。コの字形の建
物のへこんだ中央にエントランスがある。受付で彼の名前を告げて、彼が入室
している部屋番号を聞く。廊下の窓から外を見ると、建物の裏手には広い庭が
あり、何人かの患者がひなたぼっこをしたり、散歩したりしている。僕は彼の
部屋の前で少し緊張し、深く息をする。彼と話をするのはずいぶん久しぶり
だ。どんな顔で声をかけよう。思い切って部屋に入ると、一人部屋のその窓に
面して彼のベッドがあり、リクライニングを上げて横になっている彼の姿が目
に入った。彼は僕の姿を見ても、特に際立った反応をしなかった。まるで巡回
に来た看護婦でも見るような視線で僕を見た。ベッドの横には、点滴やら心電
図だかなんかだかの機械があった。ベッドの足下にはテレビがあり、小さい音
量で古い外国映画が映っていた。
「やあ」僕はぎこちない笑顔で言った。
「よう」彼は表情を動かさず答えた。
僕らはしばらく見つめ合った。
「中、入れよ」彼がそう言った。
僕は部屋の入り口のところに立ったままだった。僕はベッドの脇の椅子に座
った。ベッド脇のテーブルには、なにかの花が飾られた花瓶と、フルーツが入
った籠が置かれていた。甘い香りが鼻をつく。
「具合どう?」僕は聞いた。
「うん、なんだかまだぼんやりするけど、大丈夫だと思う」
「それは良かった」
沈黙。
「学校の奴ら、俺のことなんか言ってる?」彼が聞いてきた。
「そっちのクラスのことはよくわからないけど、みんな心配してるみたい」嘘
だった。
「ふぅん」彼は疑わしげに鼻を鳴らした。
「いつ頃退院出来そう?」
「医者の話だと、しばらく入院して様子見て、1ヶ月後くらいにまた精密検査
するって」
「退屈じゃない?」
「どこだって同じさ」
僕はなにを言えばいいかわからなかった。
「それより、コーラが飲みたいな、医者が許可してくれなくて」
「わかった、買ってくる」僕は廊下に出て、ロビーにある売店で缶コーラをひ
とつ買って戻った。彼はそれを受け取ると、プルトップを開け、ごくごくと飲
んだ。右手には数珠がはめられていた。様々な木目の模様がきれいな、小さい
数珠だ。彼は僕の視線を感じたのか、その数珠を僕にかざし「中国から取り寄
せたんだ、割と有名な寺院で作られたものだよ」と言った。そして「お母さん
には内緒だけど」と付け加えた。それから残りのコーラを僕に差し出し、僕は
ちょうど半分残されたそれを飲み干した。
「ありがとう」彼が言った。
「コーラのこと?」
「お見舞いのこと」
「べつに、たいしたことじゃないよ」
「でも、もう俺にあんまり関わらない方がいい」
「どうして?」
彼はそれに答えず、窓の外に目を移した。僕の質問はシャボン玉のように空
中にふわふわと浮かんで、やがて消えた。窓の側にも小さいテーブルがあり、
そこにノートが開かれたまま置いてあった。その脇に絵筆と消しゴムがきちん
と並べられ、ノートにはびっしりとなにかが書き記してあった。
「一本の橋があるとする」しばらくして彼が言った。「登山道なんかにある、
板が並べられただけの、手すりがロープになってるような吊り橋。ものすごく
ものすごく高い場所にあって、落ちたらお終いという橋だ。風が吹いて、ゆら
ゆら揺れている。多くの人は前だけを見て、下を見ないでそこを渡る。決して
下を見てはいけないと言われてるからだ。でも、中にはつい下を見てしまう人
もいる。そしていったん下を見てしまった人は、見なかった人の何百倍もの恐
怖に打ち勝たないとそこを渡れなくなるんだ」
彼の話はそれでおしまいだった。それだけ言い終わると彼はまた視線を窓の
外に移した。僕は彼が「もう行きなよ」と無言で伝えているような気がした。
僕は、とにかくまた元気になって学校に来れる日を待ってる、というようなこ
とを言って病院を後にした。
彼は3ヶ月後に退院して、学校に復帰した。その初日に現れ、廊下を歩く彼
は、まるで転校生が来たような好奇の目を学年中から浴びせられた。「頭から
血を流して倒れた中国人」は、格好の冷やかしの対象になった。誰かが、みっ
ともなくプールで転んでいる彼の姿を滑稽な絵にして、それをみんなで回し見
て笑っていた。彼はそれでも学校に来た。心をかたくなに閉ざし、自分が学校
の中で異質な存在になっていることをむしろ進んで受け入れようとしているみ
たいに見えた。右手にはめた数珠はその象徴であるかのように僕には思えた。
僕とはやはり、廊下ですれ違っても目も合わさなくなった。そのようにして中
学時代の終わりが来た。
僕たちはそれぞれ高校へ進学した。僕は都立の普通校、彼は人づてに聞いた
話だと、工業系の学校に進んだということだった。新しい環境の中、また僕は
一から自分を作り直さなくてはならなかった。いつもそうだ。そしてその作業
は年々複雑になっていくように思えた。以前使っていたやり方が通用しなくな
り、以前にはなかった難題を突然突きつけられた。繰り返されるハードな毎日
は僕を心底消耗させた。そんな中、パソコンゲームは、中学時代ほどの熱狂は
なくなったにしろ、僕を別世界に連れて行き、例え一時的にしても、安らぎを
与える役割を果たしてくれていた。そこにしか逃げ場がなかった。そうしてな
んとかやりくりしていくうち、学年が上がる。また新しい環境に自分を適合し
なければならない。いつまでこんなことが続くのだろう。僕は疲れ果ててい
た。
そんなある日、彼が突然うちを訪ねて来た。高校に進学してからは一度も顔
を合わせていなかったので、僕はびっくりして一瞬固まってしまった。彼は以
前より背が伸びていて、ずいぶん見上げなくてはならなかった。その手にはP
Cー8801mkⅡSRが抱えられていた。「どうしたの・・・間野くん」僕
はそう言うのが精一杯だった。彼は一瞬眉を動かし、それからもう使わないか
らこれあげるよと、無表情に言った。僕は、うん、と言ってパソコンに視線を
落とした。しばらく沈黙の時間が流れた。そして彼がパソコンを僕の方にわず
かに差し出し、僕はそれを受け取った。なにか言わなきゃいけない、と思った
が、なにも言葉が出てこない。彼は、それじゃ、とやはり無表情に言って帰っ
て行った。
夜になって一人、部屋で久しぶりにそれを起動してみると、懐かしい思いが
こみ上げてきた。二人で秋葉原に行ったこと、夏休み中遊んだこと。僕にとっ
ては大切な思い出だ。長い間彼の事を思い出すこともなかった。彼は今、どう
しているのだろう。学校ではうまくやれているのだろうか。電話を一本かけれ
ば済む話だった。そして「久しぶりだね、元気でやってる?」と言えばいいの
だ。でも僕はそんな簡単なことすら出来なかった。もしその時僕がそうしてい
たなら―あるいは彼の死はもっと先になっていたかもしれなかったのに。
彼がパソコンをうちに持ってきたちょうど一週間後、中学時代の学校の先生
から、彼が自殺したと聞いた。睡眠薬を大量に飲んだということだった。
葬儀は団地内にある集会場で行われた。家族、親戚や近所の人、制服を着た
学生が数人、僕が知っている顔は彼の家族以外にはほとんどなかった。彼の母
親は突然の息子の死に、半狂乱になって中国語でなにかを泣き叫んでいた。彼
の兄妹の姿もあった。彼らは静かにうつむき加減に、時折やってくる参列者に
頭を下げていた。父親の姿はここでも記憶にない。
僕は彼が死んだということをうまく信じられなかった。でも、線香をあげ、
彼の兄に勧められて遺体と対面すると、それを事実として受け入れざるを得な
かった。ほとんど眠っているかのように見える彼はそれでも確かに死んでい
た。確実に、致命的に死んでいた。
僕の心の中に、まるでインクのしみのような暗い領域が生まれた。それは決
して消えることはなく、それどころか少しずつ大きくなっていくかのようにさ
え思えた。まるでロールシャッハテストの模様のように、それは膨張しながら
意味のあるなにかを形づくろうとしていた。僕は黙ってその暗闇を箱に押し込
んで、ふたをし、鍵をかけ、心のずっと奥に放り投げた。闇の中に暗闇を紛れ
込ませた。パソコンを売り払い、彼のことは考えないようにした。そして日常
の中に戻っていった。彼がいなくなった世界に慣れるのにそんなに時間は掛か
らなかった。自分でも驚くくらいすんなりとその更新された世界に馴染んでい
った。僕はコンピューターゲームに全く手をつけなくなり、疲れると映画を見
たり、図書館に行ったりした。ずっと前からそんな風にしていたかのように。
その後も僕はいくつもの暗闇を抱え込んでいくことになった。バットで頭を
殴られるように突然襲われる暗闇もあれば、知らないうちにそっと忍び寄って
くる暗闇もあった。期待することで生まれる暗闇もあれば、絶望によって引っ
張り出される暗闇もあった。光が差し込むよりずっと多くの暗闇が僕を訪れ
た。まるで暗闇たちが列を作って順番に僕の人生に顔を出しているみたいだっ
た。誰もがそうなのだろうか?でもとにかく僕は生きなければならなかった。
そんな理由はどこにもないのだけど、生きている以上は生き続けるしかなかっ
た。いつか暗闇が僕を完全に捕まえてしまうまでは。
僕と彼の話はこれで終わる。この話の中に特に世界に向かって伝えたいテー
マやメッセージはない。思想や哲学や理念もない。問題提起もないし結論だっ
てない。空っぽで薄っぺらな人間の語る空虚な昔話に過ぎない。それでも僕は
この話を情熱を傾けて綴った。そしてだんだんと僕はこの宇宙の中でたったひ
とりぼっちなんだという気がしてきた。橋を渡るとき、決して下を見てはいけ
ない、彼が語った言葉をもう一度思い返してみる。おそらく彼がそうだったよ
うに、僕も橋の下を覗き込んでしまった一人なのかもしれない。
「そうだね、シェイジュン?」僕は虚空に向かってつぶやいてみた。
「たぶんね」どこからか彼の声が聞こえた気がした。
完
ダンス・チャイニーズ