雨空
「涼」
そうボクの名前を呼ぶ低い優しい声が好きだった。いつでも変わらない響きの音がボクの耳には心地よかった。
名は体を表すとはよく言ったもので、彼は名前の通りたくさんの人を受け入れることのできる心の広い人だった。
ボクはそんな彼に甘えていた。彼しか甘えられる人がいなかった。
いつからだろう。彼はよく笑うようになった。喜ぶべきことなんだろうけれど、それはボクといる時ではなかった。
ボク以外の特定の人といる時だけよく笑う。ボクが彼にしているように、彼もその人に甘えているようだった。
彼に特別な人ができたのは明らかだった。それでも彼は変わらずボクの名前を呼んでくれる。ボクの好きな落ち着いた響きで。
ボクを見る目も何一つ変わることはない。ボクはそれに甘える。
ボクの名前を呼ぶときはボクしか見ない。いつもは他の誰を見ていても構わない。彼がボクを呼ぶときだけ、彼はボクのものだ。
本当にそれでいいと思っていた。奥手の彼が気持ちを伝えることなんて無いとたかをくくっていた。
だけど、次第に一緒に帰らなくなった。休日に彼の予定が空いていることが少なくなった。
本当はそれがどういうことか気がついていた。でも、気がつきたくなかった。ボクは見て見ぬ振りをした。
ボクは自分から彼を手放す気はなかった。ボクには彼しかいないから。
ボクは家に一人でいるしかなかった。彼の他にも友人はいたが、放課後や休日に一緒に出かけるほどの人はいなかった。
何か約束がなければ、家から出るのも億劫になる。かといって家にいても息が詰まるだけだった。
たった一人の肉親である母親は、家を留守にするにしていることの方が多かった。ずっとそうだった。
母親はボクのことは何とも思っていない。生きるために必要最低限の物しか与えられない。
物心ついた時から抱きしめられた記憶がない。母親が居るときは、大抵怒鳴られた。よく殴られた。色々な物が飛んできた。
それでも一人じゃないことに安心した。ボク以外の誰かの気配を感じるだけで、孤独感が薄れた。
一人で居ると、世界から切り離されている感覚に押し潰されそうになる。
だからなるべく一人でいたくなかった。
こういう事情を彼は知らない。彼に話せば、絶対ボクの側にきてくれることをボクは知っている。
だけど、ボクはそんなこと望んでいない。
ただ彼と長く居たためか、ボクは一人で居た時よりも弱くなった気がする。
こんな一人の夜は、考えたくないことを考えてしまう。
もう疲れた。
早く寝てしまおう。
ヘッドホンをつけ、とにかく騒がしい音楽を大きめの音量で流す。
電気がついていると母親に怒られるから、消す。
布団の中に潜り込み、掛け布団を引き上げ頭まで隠れて丸くなる。
日が落ちる前から降り続いている雨は止む様子がない。雨粒が窓を打つ音が大きくなる。
雨音だけはヘッドホンをしてても、すきまから入り込んでくる。
もうやだ。誰か助けて。誰でもいいから。
やだ。本当は誰でもよくない。
「空」
涼が泣きながら眠りについた後、雨は止んだ。
雨の後のいつもより澄んだ空気の晩には、星や月がやけに輝いて見えた。
雨空