のらねこ組曲Ⅱ「ジロ」
Ⅰとは打って変わって、今回はドタバタです。
日常
「またジロにやられたあああ!誰か捕まえてくれえ!」
魚屋の安田が叫ぶと、商店街の住人がおたまやフライパン、ほうきや網といった武器を持って飛び出した。
「出やがったな! 今日こそおめえの悪事を止めてやる!」
「いつまでも俺たちを甘く見るなよジロオォォ!」
オヤジ達が雄叫びを上げて飛びかかる中、ジロはその全ての動きを見切り、素早く身をかわした。商店街のタフなオヤジどもが成すすべもなく次々と追い越されていく。
「ぐっ……疾いっ……ジロめ、また身体能力が上がったな!」
「このままじゃあ俺っちの商品全部持ってかれちまう!」
魚屋の安田が悲鳴をあげた。
その時
でかい図体の集団の中から一つの黒い影が飛び出した。それは疾風のごとく駆け、ジロの前に立ちはだかった。完全に自分の勝利だと思っていたジロはさっと顔色を変えた。
(うげっ……出やがった)
「こら、ジロ! またあんたは安田のおっちゃんを困らせて! 盗った魚返しな」
太陽を背に細いシルエットが叫んだ。長い髪をひとつにまとめ、長い柄のついたハタキをジロに向けている。
「奈津だ! 奈津が学校から帰ってきたぞ」
「奈津うううう! 助けてくれえ!」
「なんだよ、商店街中のオヤジ達が寄ってたかってこのザマかよ。情けないなあ」
奈津はそう言ってけらけらと笑った。
ジロはさっとあたりを見回した。オヤジ共が相手なら簡単に撒くことができるが、奈津が相手ではそれはとたんに難しくなる。
奈津は『文具屋井沢』の一人娘で高校バスケ部の元キャプテン。三年になり、部を引退したとはいえその実力はまだまだ健在だ。
幼い頃からジロはこの娘とライバル関係にあった。安田の魚を盗む度、奈津はジロを追っかけてきた。最初は難なく逃げ切っていたジロも奈津が大きくなるにつれ、盗みが失敗に終わる回数はだんだんと増えていった。
ジロの様子に気づいたのか、奈津が不敵な笑みを浮かべた。
「ふっふっふ。逃げ道を探しても無駄だよジロ。あたしから逃げようなんて百年早いのさ!」
さすがはバスケ部の元エース。相手の目線を読むことには長けている。
(こうなりゃ……イチかバチかだ)
瞬間、ジロは奈津に突進した。後ろ足に力を込め、勢いそのままに跳躍する。その行動に奈津が一瞬面食らった表情をした。ジロはそのスキを突いて奈津の足の間をすり抜け、一気に駆け出した。
「っああああ油断した! ジロめ、次は覚えとけよおおおお!」
奈津の絶叫を後ろに聞きながら、ジロは一目散に逃げ帰った。
(へっ奈津め、この俺様を見くびるからだ。ざまあみろ)
住処に帰り着き、他の野良猫と共に戦利品にかぶりついた。
「なんだ、ジロ。今日は一段と気分が良さそうじゃないか」
「まあな、今日は久しぶりに奈津の魔の手から逃れられたんだ。奈津の野郎、油断してたからな。簡単に抜けられたぜ」
「へえ、珍しいこともあるもんだな。奈津が油断するなんてありえないことだぜ」
「うんうん。ジロを捕まえようとするときはいつだって真剣勝負ってかんじなのにな」
「……」
そういえばそうだ。いつもならもっと闘士を燃やして自分に向かってくるはずなのに。さっきの突進だって、ダメもとでやってみたのだ。それがあんなに簡単に成功するとは……。
ジロは何だか変な気分になった。盗んだ魚はもうほとんどの部分が仲間に食べられてしまっていた。
ジロが逃げたあと、奈津はしばらくハタキを持ったまま商店街を歩き回った。
「はいよ。全部で八百円ね。ひとつおまけしておくよ」
「おう、奈津。いまコロッケ揚がったとこたぜ。食べてくかい」
「なっちゃん。これいただきものなんだけど、食べきれないからちょっと持って行ってくれない?」
あちこちで声がかかる。この商店街にいるのは人情味に溢れた、世話好きばかりだ。恥ずかしくて口には出さないけれど、奈津はここに住む人たちが大好きだった。
魚屋のあたりまで来たとき、安田の姿が見えた。
「おっちゃん」
声をかけると、安田はにかりと笑って手を振ってくれた。
「おっちゃん。今日はごめんね。ジロに魚持ってかれちゃった」
「そんなの、奈津が気にすることじゃあないさ。むしろいつも助けてもらって俺ぁ感謝してるんだよ。それに――」
安田はそこで一拍置き、微笑んで言った。
「奈津とジロの追いかけっこが見れなくなると思うと、それはそれで寂しいもんがあるんだ」
奈津ははっとした。そうか、自分は来週にはもう――。
その瞬間、今までこの商店街で繰り広げられたジロとの思い出が蘇った。
踏ん切り
初めてジロを見たのは奈津が十五歳の時だった。
この商店街では万引きや強盗といった事案はおこらない。いや、おこるにはおこるのだが、ここに住む住人、特にオヤジどもがそれを許さない。住人の連携は完璧で、逃げ切ることは絶対に不可能。見つかったら最後、巨人のようなオヤジどもに囲まれ、強烈な威圧感に冷や汗を流しながら土下座させられる羽目になるのだ。
目撃者曰く、「逆に犯罪者の方を助けてやりたい気になった」とか。
それでも警察に突き出さないあたり、商店街の住人はやはり人が好い。
そんな最強の商店街に、やつは現れた。
身体は普通の猫よりも一回りほど大きく、それでいてどの猫よりも俊敏に動く。商店街のオヤジどもは手も足も出ず、安田の魚はほとんど毎日、いとも簡単に盗まれた。
颯爽と魚を持ち去っていくジロの前に、奈津も何度も立ちはだかったが、オヤジどもでさえも太刀打ちできないほどの強者。奈津などジロの敵ではなかった。
だが、奈津が高校に入学して間もなく、形勢は逆転する。
高校のバスケ部に入部した奈津は今までのジロとの追いかけっこが影響したのか、めきめき上達し、一年が終わる頃には先輩からも一目置かれる存在になった。その頃にはジロからようやく魚を取り返せるまでになり、毎日のように攻防戦が繰り広げられた。
……時には激しすぎて、魚を取り返したときにはもはや原型を留めていないこともあった。
そんなドタバタな毎日は飛ぶように過ぎていった。バスケはもちろん楽しかったが、奈津は正直、物足りなさも感じていた。ジロほどの強敵は、バスケ部の中にはいなかったから。
本当に、充実した三年間だったと思う。
「奈津ももう十八か。月日が経つのははやいもんだよ」
安田の声で奈津ははっと我にかえった。
おっちゃんも年をとるわけだ、と安田は笑いながら自分の頭を掻いた。
「……やっぱりやめようかな」
ぽつりと、奈津が言った。
「だってさ、あたしがいなくなったら、おっちゃん家の魚、誰が守るってのさ? この商店街のなかでジロに敵うやつっていないじゃん。やっぱりあたし……
「奈津」
安田は奈津の言葉を遮った。
「奈津、お前今日のジロとの戦い、手ぇ抜いただろう」
その言葉に、奈津が驚きの表情を見せる。そして急に顔が真っ赤になったかと思うと、さっとうつむいてしまった。
「なんで分かったの……」
「そりゃあお前、ずっとお前たちを見てきてんだ。分からねえはずがないさ」
安田がそう答えると、奈津が途切れ途切れに言った。
「どうしてもだめだったの。ジロを前にしたとき、無性に寂しくなっちゃって……こんなこと、もうできなくなるんだと思うと、どうしても……」
商店街を離れる日なんて、ずっと先だと思っていた。いつものようにこの場所で過ごして、いつものようにジロと競い合って。でも、そう感じていたのは自分だけで、時は残酷にも進んでいく。季節は移ろっていく。気が付けば、もう環境が変わろうとしていた。
そのスピードに、心だけが追いつかない。
肩を震わせる奈津の頭に、安田はぽんと手を置いた。
「何かが変わるってのは誰だって恐いもんだ。見慣れたものが、ある日突然未知の物になっちまう。自分の手の届かないところに行っちまう。そりゃあ不安でどうしようもないさ。だがな、人間それを受け入れられるかどうかが問題なんだ。恐がってちゃあ視野は狭くなるばっかりだぜ」
全ては変わっていく。それがたとえ良いことでも悪いことでも、自分が受け入れなければ何も始まらない。
恐くても、不安でも、一歩踏み出す勇気。
だからよ、と安田は続ける。
「奈津が行っちまうまでの数日間、本気でジロに向かいな。最後のケリをつけるのさ。大丈夫、全てうまくいくから」
ぽんぽん、と最後に奈津の頭を叩くと、不意に奈津は安田に抱きついた。ぎゅ、と顔を押し付け、ぱっと安田を見上げる。
「うん、分かった、分かったよ。おっちゃん。ありがとう」
「……おう、父ちゃんにもよろしくな」
「うん!」
奈津はにかっと笑い、ハタキを振りながら駆けていった。
変わること、それを受け入れる。
奈津の心に、その言葉がいつまでも響いていた。
「ただいま!」
家に着くなり、奈津は叫ぶ。いつもなら父の義信が返事をしてくれるのだが、今日は何の反応もない。
(買い物かな?)
そう思いながら台所へ向かう。すると、義信の声が微かに聞こえてきた。どうやら電話をしているようだった。
「ええ……はい。ではそのように……いえ、そんな、仕方のないことですから。それではまた連絡いたします。では」
ちょうど終わったようだ。かちゃ、と子機を置く音が聞こえた。
「お父さん、ただいま」
奈津はもう一度言う。すると、義信はゆっくりと奈津の方を振り返った。その顔が、ひどく戸惑っている。
「奈津、お帰り。実はな、今電話があったんだが……」
「え――?」
決着
商店街へと向かう足から、長い影が伸びている。
もう、随分と日が伸びたなあとジロはぼんやり思った。
奈津と初めて出会ったのも、たしかこの時期だった。昔は勝てなかったくせに、向けてくる眼光だけは鋭くて、しつこく追い回してきやがって。今じゃ俺の方が黒星が多いくらいだ。ちくしょう、本当にムカつくやつだと悪態をついたとき、異変に気づき、足を止めた。
商店街に、人気がない。
おかしい。今日は定休日ではなかったはずだ。その証拠に、立ち並ぶ店にはシャッターが下ろされていない。それなのに、人の気配はどこにもなかった。
不審に思いながらも、とりあえずは安田の店を目指そうとジロが再び足を持ち上げようとしたとき、
「よう、ジロ」
忌々しい、強気な声が後ろから聞こえた。ジロは振り返りざま、後ろに飛び退って威嚇した。またお前か。いいか、今日という今日は絶対に撒いてやるぞこのやろう! と、そんな意味を込めて。
しかし、振り返った先にいた奈津の目に、いつものギラギラした鋭い光はなかった。何かを決意したような、吹っ切れたような、ちがう輝きがそこにはあった。
奈津は一歩ジロに近づくと、ハタキを前に突き出した。それをピタリとジロの鼻先に向ける。
「ジロ、勝負だ。あんたがあたしに勝ったら、もう追いかけることはしない。おっちゃん家の魚、好きなだけ持ってくがいいさ。けど、もしあたしがあんたに勝ったら……」
一拍空いた後、低く、唸るように言う。
「この街から、出て行ってもらう」
瞬間、奈津は走り出した。助走なしの跳ぶような疾走で、ジロを追い越し、商店街を駆ける。
その足がどこへ向かうのかに気づいたジロも、すぐさま奈津を追った。両者の差は店三軒ほど。並みの人間なら抜くことなど訳もないが相手は奈津である。敵にしてライバル。全ての力を足に集中させ、追い越そうと躍起になる。
奈津と並走するまであと数センチというところで、ジロはバッと斜め上に飛び上がった。そこはちょうど果物売り場で、みかんやレモンといった柑橘系の果物が所狭しと並んでいた。ジロはわざと手足を大きく振り、バラバラとそれらを落としていく。大好きな商店街の商品を踏みつけることなど奈津にはできまいと思っての行動だった。
案の定、横からの奇襲に、奈津の速度が極端に落ちる。しめた、とばかりにジロは走った。奈津の様子など見ている暇はなかった。
勝たなければ、と思った。人間の言葉など分からないが、奈津の目に宿る輝きをみて、何かが変わるのだということは分かった。それはきっと目に見える変化で、これが最後の勝負になるのだということもなんとなく分かった。
がむしゃらに走り、目的地が見えた。安田の店だ。店頭に並ぶ獲物の確認をする。狙うは台の一番端に置いてある魚。ジロはスピードをあげ、ぐんと跳躍した。牙をむき出し、魚に牙を立てようとしたその時、目の前から獲物が消え、ジロの牙は空を噛み、カチンと音を鳴らした。
「はは、どうだジロ……やった。あたしの、勝ちだ」
肩で息をしながら、奈津が笑った。その手には、魚が握られている。ジロは瞠目した。馬鹿な。距離は十分にあったはず。なぜ追いつくことができたんだ……。
その様子に気づいた奈津はふっふっふと笑った。
「伊達にバスケ部のキャプテンやってたわけじゃないよ。受験終わってからランニングも始めてたしね」
そう言って、奈津は持っていたハタキをブンブンと振る。
「おーい、みんなありがとう! 出てきていーよ!」
すると、店の奥から、曲がり角から、商店街の住人がわらわらと顔を出した。突然の事態に、ジロはさらに混乱した。
協力してもらったんだよ。と奈津が言う。
「あたしね、今日引越すんだよ。ホントは来週の予定だったんだけどね、アパートの契約がうまくいってなかったみたいでさ……だから、今日あんたと決着つけたかった。昨日のままここを離れるのは嫌だったから」
次第に、奈津の周りに住人が集まりだした。手にはみな紙袋やら包みやらを抱えている。
「奈津ぅ、ほんとに行くのかよぉ。寂しくなるよ」
「なっちゃん、これ焼き菓子。車の中で食べてちょうだい」
「楽しい大学生活送るのよ」
「体には気をつけてな」
「奈津、これ餞別だよ」
別れの言葉とともに、奈津の手に次々と物が乗せられる。奈津は笑顔でそれを受け取り、一人一人に言葉を返す。
ああやっぱりかとジロは思った。奈津はもうこの街からいなくなって、俺との勝負もあれが最後だったんだ。へっ、いいじゃねえか。これから魚取り放題だぜ。邪魔者が消えるんだ、清々すらあ。
(……でも、きっとつまらんだろうなあ)
野良として盗みを働いてきてから、人間にはもちろん、他の猫に足で負けたことはなかった。常に一番というのは退屈で、なんとも張り合いがなかった。それが奈津と出会って一変した。鬱陶しくて、忌々しくて、ムカつく奴だったが、なにより、楽しかった。奈津と走っていた瞬間が。魚の取り合い合戦が。それは張り合いのない毎日には十分な刺激だった。
だがそれも、今日で終わ――
「さてジロ、約束は守ってもらうよ」
いつの間にか、ジロの目の前に奈津が立ちはだかっていた。びっくりして後ずさるが、周りは商店街の住民に囲まれていて逃げられる状況ではない。
「あんたは勝負に負けた。だから……この街から出て行ってもらう」
「ペット許可のアパートにしといて良かったー。お父さんありがと」
頭上で奈津が義信に声をかけた。義信はそうだなとだけ答える。運転に集中しているのだろう。奈津もそれ以上は何も言わなかった。
けっとジロは心の中で悪態をついた。奈津め、自分が負けるとか微塵も思ってなかったんだ。ムカつく。
そう思いながら見上げると、奈津はにやりと笑った。
「何、あたしと一緒に暮らすのが嫌なわけ? 文句は認めないわよ」
勝ち誇ったような奈津の態度に、ジロはふんと横を向いた。
車内に心地よい風が吹き込んでくる。ジロの鼻先をかすめたそれはもう花の香りを帯びていた。
のらねこ組曲Ⅱ「ジロ」
読んで下さり、ありがとうございました。
奈津とジロのこれからに、たくさん楽しいことが起こりますように。