らくだのこぶ・たっぷりのコーヒー
わたしはたまに、例えば寝起きに喉が猛烈に乾いていて水道水をがぶがぶ飲み干すときとか、らくだのことを考えたりする。
腰を下ろしてじっくり考えこむような馬鹿な真似はめったにしない。ただ一瞬、四本足でしっかりと地に足をつけわたしの顔をじっと眺めながらもしゃもしゃと口を動かすらくだの様子が、喉が音を鳴らして水を飲み込むときなんかに思い浮かぶのだった。
べつに眠っているとき夢にみるほど執着しているわけではない。それほど煩わしくも思っていない。ただらくだがこちらをじっと見つめたまま延々と口を動かし続ける姿が、とくべつ何かを真剣に考えるでもないわたしの頭のなかへさっと潜り込んで、しばらく居座ったかと思えばいつのまにか綺麗さっぱり忘れている。それまでずっと身近に感じていた気配も消えている。らくだとはそういった妙に後ぐされのない、つかず離れずといったつきあいだ。それにらくだとの関係を気に入っていることはないにせよ特に忌み嫌う理由も思いつかないし、らくだがわたしを見つめるのを止めさせるには、わたしは余りに力不足であるような気もする。ほんの数分のことだし、らくだにわたしの時間を少しばかりくれてやってもいいだろうと最近は考えるようになった。
あとわたしは、らくだの他にはどんな動物も自分につき纏わないでほしいと思っている。わたしにはらくだ一匹で十分だし、その役割はなかなか揺ぐことはない。動物のイメージが強すぎても弱すぎても、わたしにとって近すぎても遠すぎてもだめで、らくだが丁度いい。それはらくだの特徴的な身体のつくりや、砂漠のようにわたしの生活とはかけ離れた環境に生息していることなどが、どことなく象徴的に思えるからというのもあるだろうけれどいちばんの理由は、わたし自身がらくだの顔をうまく思い浮かべられないからだろう。頭のなかでらくだの顔つきを描こうとすればいつも決まって、馬や羊やアルパカなんかの顔を想像していったいどの顔に似ているだろうといったぐあいに比べてみるのだ。終いには鳥や魚にも似てきてわけがわからなくなり、だいたいそのあたりで妄想するのをやめてしまう。
それでも図鑑でらくだの名前を探そうという気にはなれないままでいる。どことなくその方がいいような気もする。
「胸のつかえはさっさと取っ払うべきだね」
ある昼下がりの喫茶店で小泉さんは言った。彼は最近胃の調子が悪いらしく極端に薄めたアメリカンばかり飲んでいるが、本人はあまり気にしていないようだ。小泉さんは小さなスプーンを摘んでカップの水面をそっと、時計回りになぞっている。
「俺も犬を飼ったことがあるんだけどね、二年くらいまえにそれまで可愛がっていた柴犬がひょっといなくなったのさ。それで二、三日ばかり悲しいというか、悔しくて泣いてたんだけどね、その後は犬のことなんかすっかり忘れちまって。そしたら一ヶ月くらい後かな、朝起きて新聞を取りに行ったらその馬鹿犬が玄関の前でクゥーンって鳴いてるんだけども、『誰だお前は』って怒鳴ってやったんだ。『うちにはもうあたらしい猫がいるんだ!』ってね。それっきり犬はどっか行っちまったよ」
そうか、とわたしはそっけなく呟いた。あまり気分が良くないのはコーヒーをおかわりしたせいかもしれない。
この店のブレンドは苦味よりも酸味が強く砂糖やミルクを入れて飲むにはあまり適さない。いつもはブラックのまま一杯だけ飲んで帰ることがほとんどだが、小泉さんとこの店でおしゃべりするときにはたいてい長時間に及ぶので二杯目は甘くしようと決めていても、コーヒーがなみなみと注がれたカップから湯気とともに沸き立つ香ばしい匂いに鼻を刺激され、この完成した飲み物に余計なものを加えてはならないと冷めないうちに飲み干して、あとになって後悔するのが常だった。
小泉さんはわたしの反応を待っているかのように、スプーンを逆回りに滑らせて円形のプールの水面をわずかに震わせていたが、わたしの側から見て三時の位置でぴたりと手を止めて、鉄製の匙はカップの底へ沈んでいった。
「犬は逃げちゃったけど、今は猫がいるんでしょう?」
「……猫?ああ猫ね。あんなのはただの嘘さ」
わたしははじめ小泉さんが戻ってきた犬に対して嘘をついたと思っていたが、もしかするとわたしに嘘を言ったのかもしれない。それでも小泉さんの話に紛れ込んだいくつかの嘘は、今まで完ぺきに嘘だと見破ったことはないにせよ悪気のないものだとわかっているから、たいして気にならない。しかしそのときは逃げた犬と代わりの猫のエピソードが妙に引っかかり、質問しようとしたけれど小泉さんが数十万の借金を背負わされた話を始めたので黙って相槌を打つことにした。
らくだのこぶ・たっぷりのコーヒー