最低マンション

 四〇五号室の前で立ち止った男は外出時に玄関の鍵をどこかで落としたらしくこのままでは自宅に入れないことに気がつくと途端に理性を失って乱暴にドアを蹴りつけた。さらに数回蹴りつづけているうちに隣室の四〇三号室から女がいったい何事かとドアをそっと開けて隙間から男を覗き見る。男が一旦蹴るのを中断すると女は気づかれてはまずいと咄嗟にドアを閉めたがそのとき音を立ててしまったので失敗したかもしれない。覗き穴に顔を近づけて外の様子を窺ったが男の来る気配はせず少し安堵したものの一分ほど経つと男が今度は何をしているのかまた気になってきた。女はこのマンションへ越してきて二ヶ月ばかりになるが引越しの挨拶というものを管理人の他には誰にも行わなかったので男の名前も顔も知らずじまいであった。男が住む部屋の方の壁から時折甘ったるい女の喘ぎ声やら呻き声やらがくぐもって聞こえたがそれ以外に迷惑は何もなかったのでどうせ低劣なアダルトビデオか何かだろうと女はさして気にすることもなく過ごしていた。しかし夜ベッドに入ってうとうとしはじめたときに隣室から女が「ンアアア」と獣のように叫ぶ女の声を耳にするとさすがに女は男に死んでほしいと思いながらぎゅっと目を瞑るのだった。他に知っているのは男が朝日新聞と瓶入りの牛乳を毎朝届けて貰っていることくらいで特に問題視する必要もない人物だと見做していた。
 変な姿勢で覗き穴を覗き込むうちにうなじのあたりが痛み出したので玄関マットの上に座り込むと膝を折り曲げた拍子にぽきりと関節の鳴る音がした。靴箱の上に置いてある百均で購入した小さな時計を見上げたまま黙っているもののマンションの前の道路を車が通り過ぎる音くらいしか聞こえない。そのうちに飽きてしまい「あの男も異常というほどではないだろう」と思い直して部屋に戻った。女はそれまで一人でジェンガ遊びをしていたので続きをやろうとソファに腰掛けるとテーブルの上に積み上げられたやりかけのジェンガをじっと見据えたまま精神を集中させた。
 その頃男はぐったりと疲れた様子でさんざん蹴りまくったドアに背中をもたせかけ煙草を吹かしていた。もう夕暮れ近く少し肌寒いのでいつまでもぐずぐずしている訳にいかずマンションの管理人を呼びに行くのが筋だろうと煙草を吸い終えてから階段を降りていった。しかし管理人室には誰もおらず非常用の電話先として張り紙にある番号へ掛けてみると何度かコール音がしてから通じた。
「はい、さとうです」
「ああ、管理人さん。すいません、今何処ですか」
「ええと、どなたです」
「四〇五号室のにしむらです。鍵を落としたせいで部屋に入れないんです」
「ああ、そうですか。ええわかりました、ごめんなさいね、今ちょっと出てて。すぐ戻りますから適当に待っててください」
そうして一方的に電話が切られた。男は管理人の身勝手さに辟易したのと自室の鍵を拝借してもよいかと聞くつもりだったのが叶わなかったのとでひどく苛立ったがいずれにせよ管理人室の鍵も閉まったままでどうしようもなかった。相当の時間の無駄だ、と独り言ちこのまま此処でいつ戻るか判らない管理人を待つのは癪だと思い近所のコンビニにでも寄って雑誌でも読むつもりでマンションの外に出た。男がコンビニに着いて雑誌コーナーに向かうと熱心に相撲専用雑誌を読み耽る管理人の姿があった。男は管理人を殴り倒したい衝動を必死に抑えて雑誌コーナーを黙って通り過ぎた。いくら何でも横に並んで同じように雑誌を読んでは自分の存在に気づくだろうと思い菓子コーナーで商品を選ぶふりをして様子を伺っていた。管理人に非があるのは当然だがおそらく六十近い小柄な老人を責め立てていたぶる趣味など男にはなく、そっと胸のうちにしまっておいてやろうと妙に冷静な気分になっていた。しかしあれが相撲の雑誌であるからまだ可愛気があるもののエロ本など読もうものなら怒りを通り越して哀れみを感じるだろうと滑稽な妄想をめぐらせて苦笑した。そのうち管理人が壁の掛け時計を見て立ち去ったので男は幾らか菓子を手に取りレジで煙草と一緒に会計を済ませてから外に出た。勤務中にコンビニで油を売っていた向こうが悪いのだから急ぐ必要はないし当然の報いだと思いながら足取り軽く鼻歌なども交じらせていた。もしかすると自分の持っているコンビニの袋を見て気を悪くするかもしれないなと少し考えたが自分はむしろ感謝されるべき存在だと思い直してマンションの玄関扉を開けた。入ってすぐの管理人室には管理人が座っており男の事などすっかり忘れているといった具合で背中をこちらに向けテレビを観ていた。世界遺産や有名な観光地を特集する番組らしく画面にはローマの町並みが色鮮やかに映し出されている。鍵を失くした俺のことはどうでもよくローマの都市に見惚れるとは何事だろう。男がわなわなと身を震わせているうちに番組は終了した。管理人が茶を汲もうと立ち上がった際に男の存在に気づきそれまで男が自分の背後で殺意に満ちた眼差しを向けていたとは夢にも思わずたった今訪れたばかりだろうとにこやかな表情で、
「どうしたんです。お待ちしていましたよ」
と声を掛ける。男は口を閉じたまま手に提げたコンビニの袋を管理人に見せつけるようにゆっくりと掲げた。しかし男の行動の示す意味が容易に伝わるはずもなく、というより管理人は男の行動に見向きもせずに鍵の束をデスクから取り出して「それじゃあ行きましょう。すぐ開けますから」とエレベーターへ先導する。エレベーターを降りて四〇五号室、男の部屋の鍵を開けると、
「スペアはありますよね。……たぶんって、ないと困るんですよ。それと失くした鍵ですが、三日以内に見つからない場合は新しく鍵を作り直すのに費用がかかりますからね。……一万五千円です、はい。……仕方ないんです、そういう規則ですから。守ってもらわないと困るんですよ、やっぱり。……大丈夫ですか。……わかりました。もし三日以内に見つかったら教えてください。……それじゃあどうも」
 男は玄関に入ると鍵をかけて、靴べらを使ってゆっくりと靴を脱いだ。すると急に走りだしてリビングに駆け込むと、床の上にうずくまるようにして眠っている女の横腹をしたたかに蹴った。
 隣の四〇三号室では女が二十一本目の棒を抜いた瞬間、建造物が崩壊した。女はしばらく不機嫌そうに押し黙っていたが、やがて気持ちを切り替えると夕飯の支度を始めた。今日は肉じゃがだ。

最低マンション

最低マンション

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-26

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