タートルランズエスケイプ(下)

8.亀の島からの招待状

その日の午後、三人は指定された場所に集まりそこからリプリーが用意した黒いリモに乗って、マンハッタン橋を越えた。
「よく来てくれた。歓迎するよ。後のことは、われわれにすべて任せてくれて構わない。君らの上司については、私が説得しよう」
そう言ったリプリー・レベッカーの機嫌が良さそうだと感じることが出来たのは、マヤくらいのようだった。マックスはリプリーを見たのはこれが初めてだが、黒のスポーツスーツの着こなしも、物腰も紳士的であり、月給の面から見ても、かなりマックスと違いそうだと言うことは分かったが、その印象は、影のように薄い男だった。説明はしにくいが、存在感がない、と言うのとはどこか違う意味だが、とにかく、幻のようにとらえどころがない。
「リプリー・レベッカーだ。マックス、どうも君に会うのは初めてじゃない気がするな」
「おれもだ、ミスター・レベッカー」
ひんやりとしたその手は、手術医のそれのようにまっさらで滑らかだった。
「理由は分かりませんがね」
「チェサピーク・ファミリーのことだが、すでに、FBIがファミリーの拠点となる各所を押さえて、捜査を開始したそうだ。ヴィトー・マルコーの謀殺とそれに関わる何件かの公になっていない殺人で、当局はチェサピークを訴追する考えを固めているらしい」
「動きが早いのね」
マヤが言った。
「なんのことだ?」
リプリーは平然と答えた。
「私は特になにもしていないが。ただ、司直の動きの早さが気になるようだったら、今朝の新聞を見るといい」
今朝の記事にあった。実は昨夜の新聞でマヤとマックスが襲ったトニオの精肉店から、FBI捜査当局は、レスリー・イルのものと思われる遺体の一部を発見していたと発表していた。
そしてさらに追って今から数時間前のちょうど明け方に、ハーレム川の下水から、イルの遺体の残りが見つかったのだ。まるで、はかったようなタイミングでことは急転した。これで、検察は、跡形もなくなったマルコーの遺体の代わりに、イル殺害の容疑でファミリーを立件して、後にマルコー事件も追及することが可能になった。
「あたしたちが肉屋を調べたときには、イルの遺体が運び込まれた形跡はなかったわ」
「見落としたのかもしれない」
肩をすくめて、リプリーはうそぶいた。
「そうじゃないとは言い切れないだろう。お前は、イルを捜しにあそこへ行ったはずじゃなかったはずだからな」
「変わってなさそうで安心したわ、リプリー」
マヤは皮肉を言って鉾を収めることにした。
「本当に、誰の死体もむだにしないことだけはいつも感心する」
リプリーはどこ吹く風で首を振った。
「いずれにしても、事実に対しての憶測はこの際、必要ない。ただ、喜ぶべきことなんだ。連中はこれで完全に動きを封じられる。裁判で消耗すれば、ありもしない金のことなど考える余裕もなくなる。それ以上のことは、議論する必要もないことだ」
移動は三十分ほどかかった。その間、シンシアはマックスの隣で外の風景を眺めていたが、一度も発言しなかったことが少し気にかかった。彼女は、憔悴しているようだった。
「どうかしたか?」
「ただの寝不足よ、マックス。大丈夫だから放っておいて」
リプリーの声が響いたのか、シンシアは明らかに顔をしかめた。
「車酔いなら、我慢してくれ。もう少しだからな」
クイーンズにある、カート・ランクス・シャッター製造会社の車庫に彼らは停車した。
「ここがあんたらの巣か?」
「そんなところだ。すべて借り物だがな」
ガレージを開け、リムジンを収納すると、そこにはすでにシャッター製造会社の社員とは思えない男たちが二人、立っているのが見えた。リプリーは彼らに車を任せ、裏口からオフィス一階のフロアを通り抜け、マックスたちを地下室に誘導した。人が一人すれ違えるほどの廊下の向こう、ボイラー室の隣の角に耐火用の鉄扉があり、リプリーは赤錆びた手すりを開く。
「私だ。三人を連れてきた」
リプリーの声にそれぞれのモニター画面に向かっていた三人の男が、こちらを一斉に振り向いた。窓のないその部屋は狭く、AV解析のための装置や通信機器、横型の大きなモニターのようなものが設置されている。一階のオフィスは運営されている様子があったが、その下で彼らは密かにこうして諜報活動を続けているのだろう。
「準備は出来てるだろうな」
リプリーは手前のひとりに注意を促すと、声をかけた。
「作戦名【ラルフ】だ。彼らに必要な情報を用意してくれ」
「殺した【代理人】がミッションの名前?」
なんとでも言え、と言うようにリプリーはマヤを一瞥したが、結局、黙殺した。
「わたしたちにとっては、作戦名なんかどうでもいい」
マヤの横で、口を開いたのはシンシアだった。
「とにかく、あなたたちに乗らせてもらう。早く、TLEの第二段階について、具体的な話を聞かせて」
「まあ、待て。話にも順序と言うものがある。それより決まったのか? これから誰が消えるのか?」
「一人でいいなら、わたしでいい」
シンシアは即答した。
「おい」
「シンシア、勝手なこと言わないで」
「重要なことだぞ。本当にいいのか?」
リプリーは、念を押すように言った。だが、彼女の決意は変わらないようだった。
「他の人の理由は、聞こうとは思わないし、興味もないわ」
シンシアは、静かな声で言った。
「そもそも、この中でヘクター・ロンバードの消息を追い、事件の真相を究明する義務があるのは、わたしだけのはずよ」
「君が覚悟してここに来たことはよく分かった。大したものだ。だが、残念なことがひとつある」
ちょうどリプリーの後ろでモニターをいじっていた男が、TLEの画面をプロジェクターに出現させていた。
「現時点で私たちも次の段階を掴んではいるが、それが実際に消えてみないと分からないことなのか、それともそうでないのか、判断しかねていると言うことだ」
「どう言うこと?」
「分からないか? シンシア、君が消えるかどうかは、これからの状況しだいと言うことだよ」
「分からない。理解できないわ」
「とりあえず、それにはまずこれを見てもらうしかない」
言うと、リプリーは指示をして、ひとつのタグを画面に出現させた。それは亀の彫刻が施されたゲートの下に、キーを打ち込むフォームが出現しており、周辺の説明を読んでみると、そこはどうやら【パーソナル・キー】を打ち込む画面だと言うことが分かった。
「これは見ての通り、TLEの質問項目に従って割り出した個人の【パーソナル・キー】のデータをフォームに入力する画面だ。これにキーを入力して、九十分から二時間ほどで、作業は完了することになっている。つまり、これでこの社会からひとり、人間が完全消滅するわけだな」
「説明はいいわ。やるなら、すぐにやって」
「待てと言っただろう」
リプリーは苦笑して、
「話を戻そう。当然だが、作業が完了すると、そこにそれを証明する画面に接続される仕組みになっている。もちろん、これを見ることが出来るのは【代理人】のキーをもつ人物だが、通常、作業が済むと、この画面で自動的にログアウトされ、やがて他の、なんでもないページに飛ばされる仕組みになっている。今まで、そう言う仕組みだったと考えてくれ。しかし、それが今、こう言う状態になっている」
そこまで話すと、リプリーはその男に画面を閉じさせ、隣の男のモニターを移すように指示した。画面が切り替わった。そこには、作業の完了を知らせる【Command Completed】の表示が青いレタリングで示されていた。どうやらそこまでは今までどおりなのだろうが、画面はログアウトに接続する様子はなく、そのままそこで安定している。見るべきは、完了の文字の下だ。
「まさか・・・・・・これが第二段階?」
シンシアが目を見張ったとおり、その下には、【Next Stage To・・・】の表示がなされている。問題はその次だ。大きなゲージが画面を横切る形で設置されており、それは現在、98%に達している。
「私が見たときは、大体、95%くらいだった」
「おい、マヤ、これは・・・・・・・」
マックスと顔を見合わせて、マヤはぽつりとつぶやいた。
「たぶんサンプルデータの収集が、終わりに近づいているのよ」
「どう言うことだ?」
リプリーが聞いた。マヤとマックスは、昨日のレイとの見解をすべて話した。
「このTLEは特定の人間の膨大なデータを収集するために、恐らく作られたものよ」
「なるほど」
リプリーが声を上げて、言った。
「TLEに限らず、学習やデータ収集によって自ら成長していく人工知能の研究は珍しいものではない」
「つまり、TLEはより完璧なパーソナリティをもつ知能に進化しているということね?」
「間違ってはいないわ。でも、単純にそれだけとは思えない」
マヤは、それについては少し否定的に言った。
「もちろん、不特定多数の人間を集めるのには、そうした意図があってもおかしくはない。ただ、疑問はあるわ。エラ本人やザヘルはともかく、いくら彼の元・患者とは言え、あれほど多くの【代理人】たちが、わざわざ危険な橋を渡ってのデータ集めに協力するはずはない。マルコーの話からしても、チェサピークが動いた一件からしても、第二段階は現実的な見返りを、少なくとも提示してはいるはずよ」
「鋭いな」
リプリーは、皮肉めいた流し目をくれて言った。マヤは答えた。
「犯罪はテロと違って、理想で動く人間は加担しない」
「私も彼女の意見に賛成だ。TLEで消した人間の資産を奪っているかどうかは別として、エラの総資産は最終的には、莫大なものになっていた。事件後、その金は、彼の作った財団に全額寄付されたとされているが、その実態と資金の動きについては、まだまだ不透明な部分が多い」
「【Next Stage To・・・】のキーからどこかにリンク可能になっているわ」
そのとき、シンシアが言った。
「押すといい」
リプリーは答えた。カーソルをクリックした。
「そうだ。それは次の段階へのヒントに繋がっている」
また、画面が切り替わった。次に現れた画面には、蔦が絡んで青黒く錆びついた銅版に、鑿で彫りつけられたような古格な字体で、大きくこう書かれていた。

TO HIM WHO OVERCOMES I WILL GIVE SOME OF THE HIDDEN MANNA TO EAT.
AND I WILL GIVE HIM A WHITE STONE.
AND ON THE STONE A NEW NAME WRITTEN WHICH NO ONE KNOWS EXCEPT HIM WHO RECEIVES IT.

(勝利を得るものには、隠されているマナを与えよう。
 また、白い石を与えよう。
この石の上には、これを受ける者には彼の他には
誰も知らない新しい名前が書いてある。)

「私は信心深い方じゃないが、これは何だか君たちにわかるか」
「ヨハネ黙示録第2章17節」
シンシアが答えた。マヤがその部分を指して言う。
「マルコーの言っていた、新しいおれ、ってこれのことね」
新しいおれになる。マックスはおうむ返しにつぶやいていた。
「やつもまた、間違っていなかった」
「ええ、カールが言ってた、マナと言う言葉も」
亀の島にある隠されたマナ。それは確かヘクターの言葉だ。
「新しい名前と言うのは、そこに入れる情報のことかな」
リプリーが言うように、今度は下に四つのフォームが用意されていた。
「また、キーがいるのか?」
「そうだ」
「ヘクターはこの先にいるのね?」
「ああ、間違いなくな」
リプリーは全員が話を理解したのを満足げに肯いて眺めると、
「恐らくここに示されているものは、TLEの完了、そしてその結果、手に入る場所に到達するための暗号を入力するために用意されているものだろう。TLEのすべてを指し示す場所、言うまでもなく、これはTLE本体の所在地と考えて、間違いない。ここまで理解してくれたかな」
「ああ、ようやくな」
マックスは言った。リプリーは微笑して、
「つまり、君たちと私たちは、理想的な利害関係の中にいるんだ」

「さて、私たちはこれから共同して、TLEの本体とヘクターの二つの行方を追う。ヘクターの方は、君たちが主体になってもらう。ここまではいいかな?」
「わたしは、構わないわ」
「あたしも、別に異存は無い」
「おれも異存は無い」
マックスが声を上げた。
「だが、疑問がひとつある」
「なんだ?」
「ヘクターが、NYCを出ていないと言う可能性についてだ。検討したのか? あんたの推測だと、ヘクターは暗号を解いておれたちの先に行っている。つまり、TLE本体に到達している可能性もあるし、そこがNYCだという根拠はどこにもない」
「確かにTLE本体の所在地については、君の言うとおり、どこだという確証はない。だが、ヘクター・ロンバードがまだ、NYCにいると言う根拠は、必ずしもないとは言えない」
「なぜだ」
「まだ、君たちがNYCにいるからだ」
リプリーは、主にシンシアとマヤを見て言った。
「ヘクターは完全に私たちを出し抜くつもりで消えたが、君たちには明らかに、自分を追跡することに関して、明らかにいくつものヒントを与えている。まるで君たちがエラ・リンプルウッド事件を追って、TLEの、つまり、今、自分がいる位置まで来ることを待ち望んでいるかのようにだ」
「だが、レイの話だと、ヘクターはマヤをなるべく巻き込まないようにしていたはずだ」
「それは解釈のひとつに過ぎない。私を出し抜くためのぎりぎりの判断もあったろう。まあ、そこを譲ったとしても、ハーディ、君が追いついてくるのを、ヘクターはあちこちに種を蒔いて確実に待っていたんだ」
「希望的観測はなるべく持たないように心がけているけど、そのことはあなたの言うとおりのような気がしてきたわ」
「シンシアはそうかもしれねえが、こっちは違う。おれはただ、こいつらに巻き込まれただけだからな」
「いや、私に言わせれば、君たちもだろう、マックス。君たちは私が、チェサピークの動きを封じるためにFBIを動かしたと思っているようだが、君たちがあの肉屋に入る前から、FBIでは、チェサピークの犯罪を立件するための準備を進めていたんだ。それは、なぜだと思う?」
「偶然よ。チェサピーク・ファミリーには、あたしたちが関わる以前から、すでに別の容疑でマークされていたわ」
「たかだか違法な企業買収や脱税ごときのためにFBIがあんなに迅速な動きをすると思うか? あれは裏で動いている人間がいたからこそ出来たことだ。もっと言えば、ヘクターが君たちの動きを見通していたからこそのことだ。ヘクターは、必ず君たちの近くにいる。君たちをある一定の方角に誘導しようと、絶えずどこかから、その機会をうかがっているんだ」
「あなたを出し抜いて?」
「なんとでも言うといい」
リプリーは挑発に乗らないと言うように失笑し、
「勘違いしてもらうと困るが、私は別にヘクターの身柄などに興味はない。部下を殺されようが、出し抜かれようが、手に入れるべきはTLEの本体だ。最終的にやつの生き死になどにこっちは、なんの関心もないんだよ」
「確かに理想的な関係かどうかは分からないけど、あなたの言う通り、お互いに利用価値はあるわ」
シンシアがとりなすように口を挟んだ。
「今までの動きを見ていると、TLEとエラ・リンプルウッド事件に関することの真相は、このニューヨーク州にあった。はじめにそれを突き止めたヘクターはそこで上手くわたしたちに、自分の足跡を洗わせて、TLEの次の段階の入り口にまでわたしたちを誘導したわ。お蔭でわたしたちは、彼が証明したかった本当のことに一歩ずつ近づきつつある」
「だが、それならなぜヘクターはコンタクトをとってこない?」
「たぶん、それは、まだ、わたしたちに調べる余地が残っているからよ。リプリー、あなたが、わたしたちにコンタクトをとってきた、と言うことは、まだそこに何か洗いなおす余地があると言うことでしょう?」
シンシアの指摘に、リプリーは小さく肯き、
「エラはこのニューヨーク州にもっとも多く、活動の拠点を持っていた。ヘクターがエラの別邸から消えなければ、虱潰しに探していく予定だった」
「そこをあなたたちと当たっていくのは、あたしも反対ではないわ。ヘクターがそこに立ち寄ったのなら、なんらかのヒントをあたしの能力で見つけることが出来るし、もしそうでなくても現在所在不明のエラの人格理論に関する論文や研究が、まだどこかに残っているかもしれない」
「ただそれだけだと、まだ遠回りになる」
マックスはマヤの方を一瞥して、言った。
「もうひとつの線がいる。ヘリックスだ」
「彼もヘクターに会った後、消息が不明になっているわ」
「リプリー、おれたちはヘクターがヘリックスに接触していたと言う話をシンシアから聞いた。その根拠は?」
「写真よ」
シンシアが答えた。
「わたしたちがさっき待ち合わせをしたセントラルパーク西南のツインタワー広場で、ヘクターはヘリックスと接触を図っていた」
「リプリー、あんたは今その写真を持っているか?」
「ああ、すぐに用意できる。出してくれ」
リプリーはシンシアに見せた写真を、プロジェクターに最大化して投影した。
ビルの谷間の大きなロータリー、イエローキャブが輪になって停車しているその中で、ヘクターと思われるカーキ色のコートを羽織った男と、ホームレス風の髪を振り乱した男が映っている。距離は、十メートルほど、撮影者はヘクターを写すことに気をとられているためか、相手の方は髭と長髪に覆われた横顔を確認できる程度にしか、撮影されていない。
「隠し撮りね?」
マヤの質問に、リプリーは素直に肯いた。
「突然、マヤをシカゴに置いてNYCに飛んだのは急な事情があったと感じたのさ。思えば、泳がせたのが仇になった」
「お前、似顔絵を持ってたな。そいつと比べてどうだ?」
「確認してみるわ」
マヤはポケットから、その似顔絵を取り出して眺めた。
「それは、お前が描いたのか?」
「ヘクターのイメージを基に、あたしが描いたわ」
「目線が見やすいように、その男だけ拡大しろ」
リプリーが、AVをいじっている男に指示を出す。まもなく、写真をトリミングし、横顔の男にだけのものに引き伸ばした。
「どうだ?」
「待って」
鋭い声でマヤが切り返したのを聞き、マックスは自分の予感が的中したのを感じ取った。彼女は、もう一度、二つのヘリックスの肖像をこまめに見返すと、
「違うわ。この男はあたしが捜していたヘリックスじゃない」
「本当か?」
ええ、と彼女は息を呑んで肯き、
「ヘクターがここで接触している人間は似顔絵とは違う」
「他に比較する写真は無いの?」
シンシアが聞いた。
「ヘリックスと言う男については、イーストハーレムの外れに住居を構えていたドイツ人のイラストレーターだと言うことは分かっているが、これ以外には比較する写真はなかった」
「マヤ、おれの友達のソロス、憶えてるか? やつの瞳に映っていたヘリックスとも、この画面の人物はやはり別人か?」
「別人よ。ヘリックスの住んでいたアパートの管理人の記憶も含めて、画面の人物とは一致しない」
マヤは、断言した。シンシアが驚嘆を隠せない様子で聞いた。
「マックス、なぜこのことが分かったの?」
「実は何日か前、こいつと、ヘリックスのアパートからやつの足取りを追ったことがあるんだ」
と、マックスは話した。
「マヤはそのヘリックスって男が急用で呼び出されて、歩いて地下鉄の駅まで行き、そこからダウンタウンの方面に向かったところまで鮮明に語っていた。そのとき、セントラルパークまで歩いたんだ。たぶんおれに会う以前にも、こいつはヘリックスの足取りを追って、そこまで来れたはずだ。やつが戻ってきてヘクターと接触したのなら、あいつは地下鉄の線を追ってでも、公園の周辺をうろついてでも、その写真を撮影した場所にたどり着いたはずだからな」
「地下鉄で印象が途切れていたことは確かよ。彼はシートで居眠りをして、足取りはそこからは読めなかった」
「つまり、ヘリックスは二人いた。単純なトリックだ。ヘクターはマヤの記憶に別のイメージを刷り込んで、足跡を隠蔽していたんだ。お前の能力を逆手にとって情報のかく乱に利用したのさ。やつが会いたい方のヘリックスの、本当の正体を隠すために」
「君たちも、やつに、長い間いっぱい食わされていたということだな」
「あなたのせいでね」
マヤが言った。
「じゃあ、いったいこの男は何者なの?」
「さあな。だが、恐らく本当の【管理人】がその男かもな」
そのとき、画面を凝視していたマヤが、瞬間、今度は本当にはっとして、マックスに言った。
「分かったわ」
「誰だ」
「残るのは、この男しかいない」
マヤは、珍しく興奮した口調で言った。
「彼は、ザヘル・ジョッシュよ」

「なにが一千万だ」
チェサピークは、電話を切るまでの間、目の前に立たされていたその男は、ぽつりと最後につぶやいたチェサピークの言葉に背中を震わせる仕草を大げさにしてみせ、それとは裏腹の慎重な仕草で自分の背後を油断なく確認した。とっさにチェサピークのボディーガードを道連れにするくらいの俊敏性と度胸は、体格とともに持っている。だが、どう考えても、まだここで死ぬわけにはいかない。
アーリー・ウィルダムスの白いスーツの上下にプラチナのペンデュラムのペンダントはくらむほど眩しかったが、まぶたや唇を切って腫れのひかないその顔は、暗い屈辱で煮えたぎっていた。
「つけは払ってもらうぞ、アーリー。ちょうど、そこの馬鹿のようにな」
足元には土下座をしたまま首を折られたレコが、うつろな瞳で彼を見上げている。
「おれを殺したって、あんたは捕まる」
アーリーは、脂汗は掻いていたが、まだ冷静さを欠いてはいなかった。それでもまだ、時折、マックスに蹴り上げられたあごだけが、発音に違和感を訴えて、びりびりと痛む。
「出来ないとでも思うか、若造? FBIにケツを噛みつかれても、お前一人ぐらいは道連れにする力はまだあるんだ」
「確かにヘリックスは、いかれた絵描きに過ぎなかったかもしれねえ。そいつは認めるよ。でも、マルコーは違うはずだ」
「やつも金などねえと言った。そんなものは、問題にもならねえ
とな」
 チェサピークは肥満した身体を揺らすと、遮るように言った。
「だが、おれの長い経験からして、そもそもこのNYに、金庫以外でいまだに手付かずで眠ってる金など、すべて幻想なんだ。カポネも、ルチアーノも、生前羽振りはよかったが、あいにくやつらは海賊キッドじゃない。そんなものを探したやくざにはその後、つぶれた面子と莫大なつけが残るだけだ。おれの場合は、見ろ。てめえのありもしねえ幻想のお蔭でトニオが挙げられ、稼ぎ頭のチェザーレはあの世に逝った」
「あんたはいざとなりゃ刑務所に行かなくてもいいはずだ」
「刑務所にはな。だが、どこに行く? 誰かに殺されるまで、有料老人ホームで自伝でも書いて過ごせって言うのか?」
チェサピークの合図で、後ろの二人の男たちがそれぞれ銃口を、アーリーのこめかみあたりに突きつけた。
「待てよ! まだ、おれたちはあのいかれた絵描きに金を流してたやつの居場所を、掴めるんだ」
「それは金になるんだろうな?」
両手を挙げたまま、アーリーは言った。
「金にはなるし、復讐も出来る」
「今、ここでお前が証明できるのか?」
「出来るわけ無いだろ」
チェサピークは殺気を込めて、手を振り上げかけた。言い出すのが二秒遅ければ、彼はレコと同じ格好で並ぶことになっただろう。ここが正念場だと、十分にアーリーは心得ていた。
「だが、あんたは今、兵隊一匹動かせる状況にないはずだ」
「おれを脅す気か?」
「脅しじゃない、ビジネスだ。これがお互い、金を手に入れる最後のトライなんだ」
「いいだろう」
チェサピークは、しばらく考えると言った。
「但し、こっちも一人くらいは、顔を突っ込ませてもらう」
「監視役か」
アーリーは苦笑して首を振った。
「お前がどれだけ信用できるかは、ちょうど、お前の身体一個分に相当すると、宣言しておこう。足りない部分は、お前の手や足や内臓で負担してもらうからな」
肩をすくめたアーリーの背後に立っていた細身の大男が、音もなく前に進み出てきた。
「ヴィンセントだ。特殊部隊にいた。ナイフも得意だが、素手で人間をばらばらにするのも上手い。場合によっては、お前の調理はそいつがすることになる」
大男は黙って手を差し出した。アーリーはそれを握ると、なるべくにこやかに手を上下に振った。

落書きだらけの電車が、鬱蒼としたレンガ造りのトンネルを通りぬけてプラットフォームに滑り込んでくる。地下鉄から乗り込んできたのは、ウォッチキャップに目障りな紫のパーカーを着た黒人の若い二人連れだった。
ひとりは物憂そうに立ちすくんだまま、もうひとりはシートに腰掛けてガムを噛みながら、だらだらとさっきまでの話の続きを楽しんでいる。一見暇を持て余していそうな二人は、話の合間に奇妙な沈黙を作って、なにげない風を装って周辺を確認することをしきりにしているのが逆に目に付いた。
実は乗り込んだとき、車両に充満した甘ったるい匂いの暖気が、彼らの鼻孔をずっと塞ぐように漂っていたのを、ずっと彼らは気にかけていた。
入ったとき車両のすぐ奥、後続の連結部前の壁にもたれて、放浪者風の白人の男がひとり、溶けるように眠りこけているのが彼らの視界に入った。見たところ、随分と大荷物だ。旅行バッグにキャンバス、まだこの季節には早いコートを羽織っている。ひげと長髪、赤だらけだが、その手に、飲みかけのポケットサイズのジンのボトルが引っかかっているのがはっきりと見えた。
吐息が甘いのが、車両に入った瞬間に分かるくらいに飲んでいる状態がどのようなものか、彼らが察するには十分すぎるくらいの合図になった。
それから五分ほど、二人は周囲の安全を確かめることに時間を遣った。お互いに反対側を向いてからの沈黙は、これ以上ここに誰かが入ってくることへの警戒を意味している。幸いにも、次の駅を過ぎたころにこの車両だけはしばらく無人になった。隣の車両にひとり、座っている足が見えるが、あれはどう見ても老人だ。その他に一人か二人、いたところで、どうにでもなる。二人はおもむろに立ち上がった。
男は見た目よりは、少しは若そうに見えた。ただ、お互いに顔を見合わせて二人は、意味ありげな嘲笑をかわした。それは、いいカモを見つけたと言う得意げな笑みの他に、自分よりかなり年上の大人の男のだらしない酔態への、哀れみをこめた蔑みが含まれていた。
「たとえどんな大人になろうと、この街の地下鉄で、不覚にも居眠りこくようなマヌケになるべきじゃないな」
彼らにたぶん、そう話していただろう。二人の関心はその男が酒以外に持っているものにあったのでその会話はなされなかった。第一に、男が財布らしきものを身につけていないのを、彼らをがっかりさせたからだ。
やがて、味の無くなったガムを噛み続けながら見張りをしていた少年の下で、相棒がひそかに歓声を上げることになった。男はバッグの中に薬を持っていた。薄いヴィニールの袋に四粒ほどの丸い錠剤、小さなプラスティックのケースから、アンプルと使い古された注射器。少年たちはここでようやく、退屈に濁った目を輝かせた。
しかし、その短めの喜びも長くは続かなかった。発見したものに夢中になっていた二人は、背後から近づいてきた男に気づくのが遅かった。恐らく、それがもう少し早ければ、隣の車両まで走って逃げ、次のホームで獲物を取り逃がさずに降りることが出来ただろう。残念ながら彼らの運は、いったんそこで尽きて果てていた。
その男は銃らしきものを向けてきた。二人は、銃口から目を離すことが出来ないうちに、持っているものを取り上げられたことだけは憶えている。そして到着駅のドアが開いた瞬間、そこから弾き出されるように、飛び出した。
少年の一人は、あわてて飛び出た地下鉄の柱に身体を預けたときに、反射的に背後を振り返っていた。自分が追い出された車内の様子が、そこからは見えていた。
その男は、眠っている男に覆いかぶさるようにして、なにかをしていた。相手はぐったりとしたまま、死んだように動かなかった。遠くからみた少年は、二人の男が、風貌から服装までほとんど同じだと言うことに、今気づいた。出発までのほんの一瞬だった。スローモーションのように、車内にいる同じ姿の二人が焼きついた。電車は消えてなくなるように、後にはかび臭い地下の帝国への古い入り口が広がっていた。すぐ、隣の柱に、七十年代からトリップしたままに見えるヒッピー崩れの薄着の男が、床に座ったまま、天国行きの列車に乗り遅れたと言うように、呆然としているのが見えた。

「体格も顔も髪型もおんなじ男だった。最初はそいつが起き出してきたのかと思った。でも、そいつ、本当に手に銃を持ってたんだ」
殺されるかと思った。少年は興奮した口調で訴えた。
「で、その男はどこから乗ってきたのか、お前らには見当がつかないんだな?」
マックスが聞いたとき、少年は物憂そうに首を掻いてから、
「周りは特によく見てたよ。でも、本当にいきなり現れたんだ」
と、隣の相棒に確認を求める。もう一人は関係ない、と言うような顔をして余所見をしていた。
「で、そいつが眠っている男になにをしていたのか、お前はよく見えなかったんだな」
「ああ、全然分からなかったよ。でも、身体を動かしてどうにかしようとしているみたいだっってことは分かったよ」
「もうひとりはどうだ?」
マヤは、余所見をしている方の少年の顔を覗きこむ。
「なんだよ」
「彼はそっちの子より見てないわ。でも、座席に眠っていた男の方は、身体を探っていたからか、とてもよく見ている」
「おい」
顔を背けた少年の様子を見ていたマックスは、突然手を出すと、不意打ちを食わすようにして言った。
「どさくさにくすねたものがまだポケットにあるんなら、そいつを出すことだ」
「知るか」
「五ドルまでなら買い取ってやる。最後のチャンスだ。そいつをここで出すか、金も取り上げられて、二人で仲良く留置場にいくか」
少年はしぶしぶくすねた錠剤を取り出した。二粒ほどの大きな粒、色は白だが、形は大きな台形をしている。それは、マックスにも見慣れない錠剤だった。
「エクスタシー? それとも、LSD?」
「さあな。いずれにしても、ろくなもんじゃないことだけは確かだ。ヘリックスは酔ってこいつもキメて、車内でぶっ飛んでたんだろうからな」
酒とドラッグで半分意識を失いかけていたのなら、なにかに注意を払うことは不可能に近いはずだ。マヤが後で探ったところで、まともに意識の痕跡などありようはずがない。
「これで、納得したわ」
「もうないか? 後で、分かったら、必ずお前を探して取りに行くからな」
「本当にもう、なにもないって」
マックスたちは文句顔の少年を追い払い、次の駅の地下道まで歩いて、中を探ることにした。
「リックに電話で聞いたところによると、今のところNYCの地下鉄の電車内からは、ヘリックスらしき男は発見されてないそうだ」
「彼が見たときに、ヘリックスが殺されていたとしたら、車内に放置する以外に、誰かに見られずに遺体を放置する場所は限られているわ」
「構内はくまなく、あたしが見たわ。残るは、地下道ね」
線路沿いに、マックスはかび臭く濡れた地下道のレールに足を下ろした。ペンライトの細い光を使って、辺りを照らしだす。
「あの写真が撮影されたのが、夕方ごろだから、それほど奥には行っていないはずだ」
そのとき反対側のレールを、けたたましい音を立てて地下鉄が走り過ぎた。ハイビームが暗い内部を照らし、機械の油くさい湿った風がマヤの黒い前髪を、ふわっ、と巻き上げた。マックスはその一瞬で、先を歩く彼女のすぐ先に入り口に崩れたレンガの散らばった横穴のようなものが空いており、そこにさらに深い漆黒の虚が空いているのを発見した。
「マヤ、そこだ。どけ、おれが見る」
マックスは言ったが、マヤは聞かず、先に中に入っていった。入ると言うほどではない。それはたぶん、サイズにしたらちょうど人間がひとり横たわって、外からすっぽりと隠れるくらいのものだった。屈んだマヤのちょうど足元辺りに、カーキ色の上着の裾が垂れかかっているのが、ちらりと見えた。
「ヘリックスか」
耐え切れずにマックスは聞いた。地下室の閉塞感にくわえて、胸がむかつき、つんと目に沁みるような、洗っていない衣類の臭気がさっきからしていたからだ。
「腐ってるのか?」
「違った」
どさりと、マヤはそこになにかを放った。彼女の力で男の遺体を放れるはずはない。もっと軽いもののようだった。それに腐敗臭もない。マックスはライトを翳して、うんざりした顔をした。
それは、ヘリックスの荷物と衣類のようだった。旅行かばんの中身と思われる衣類や下着、それに数冊の本。四冊のスケッチブックにキャンバスもある。ため息をつきながら、それを開く。
「ゴミかよ」
マックスは頭を抱えた。そこには絡み合った二つの紐が、らせん状になって、あたりのものを巻き上げるように上に伸び上がっていく抽象画のようなスケッチが何枚も描かれていた。荒れてまとまらないタッチの勢いといい、暗い色調といい、分裂気味の患者が描いたようで見ているとどこか気の滅入りそうな題材だ。
「遺体はない。彼らが棄てたのはこれだけよ」
「ヘリックスは?」
「・・・・・・死んだ?」
「見えないのか?」
「見えないわ」
マヤは首を振ると、当惑した様子で言った。
「たぶん、隣の駅でもやつは目覚めなかったのよ。生きているか死んでいるか、それはまったく別としての話だけど」
「でも、ヘリックスが着てたらしい服はここにあるぜ」
マックスは足元の衣類の中から、それらを足で探し出してみせ、
「全裸で意識を失っている人間を、一人で地上に運ぶのはどう考えても不可能じゃないか?」
「それなら誰か、仲間が待っていたってことになるけど」
「誰だ?」
その問いに、マヤは答えることが出来なかった。足元に散らばるごみに視線をやりながら、顔を曇らせた。
「もうひとつ疑問がある。なんのためにだ? 見たところ、ヘリックスは用済みだ。やつはザヘルの身代わりをしていたに過ぎない。それにもし、地下鉄内で遺体を処理する予定じゃなかったとしたら、わざわざ、ここにこんなものは持っていかないだろう。それこそ、さっきのガキどもに盗ませたほうがよっぽど好都合のはずだ」
「ただ逆に考えると、ここにこれが遺棄されていたって言うことは、もしかしたらそれは世間の目に触れてはならないものだったからかも知れないわ」
なぜそんなことが言える? と、言う風にマックスは肩をすくめた。しかし、マヤが差し出してきた数冊の分厚い本の著者名をみて、彼は顔色を変えた。
「エラ・リンプルウッド」
「そうよ。行方不明の論文かもしれない」
マヤは肯き、なるべく重い、臭い荷物から選んで、マックスに手渡していった。
「とにかく、これを全部、光のある世界に持っていきましょう」

その頃、リプリーとシンシアは、クイーンズにある貸し倉庫から、エラがひそかに所有していた隠れ家のいくつかを見て回っていた。その数は、膨大とは言わなくても、市内の分布や物件の取り扱い方を見ても、どうしても無計画さや放埓さを感じさせるものでしかなかった。
結果として分かったことは、これが計画の一端だとしたらエラは、恐らく莫大な費用をそれに投入していると考えるべきだと言うことだ。家賃やローンが未払いのアパート、マンションの一室から、倒産した工場跡、ギャラリーまで、エラの資金は都市のあらゆるところに流れている。それらは、一見して持ち主が分からないようになっていたり、資金の流れを不透明にしたりしており、リプリーによればその全容を洗うには、さすがに時間が掛かったという。
「これで一千万ドルなどと言う金があると言うのが、ガセだってことは分かるわね」
シンシアはついに呆れて、言った。
「いいや、私は逆にそう思わないね」
対し、リプリーは首を振って、苦笑する。
「恐らく、失踪者の財産が運営費用に当てられている。財団で管理しているエラの資産が、知的資産などを含めて莫大だとしても、全米主要都市に別邸や隠れ家を持つことなど不可能だ。誓って言えるね。ヒトラーがガス室送りにしたユダヤ人たちの金歯まで回収して自分の野望を果たそうとしたように、この計画は進行していくごとに莫大な資金が投入されていく仕組みになっているようだ」
でも、いったいなんのために?
一見無意味と思えることでも、これまで多くの意味があったはずだ。シンシアは何度か自分を慰めた。その二時間後も空振りは相変わらず続いた。シンシアの見るところほとんどの施設がしばらく人の手が入った様子はなく、ゴミ置き場にすら使用されていない、意義を見出せない場所に成り下がっていた。
「どうやら、とんだ無駄足になりそうね」
マックスたちからはまだ電話がなかった。地下に潜っているためか、電波も通じにくいようだ。
「向こうも、なにか手がかりを見つけてくれるといいけど」
「容易じゃないさ。なにしろ、もともとはやつらのゲームだ、やつらは私たちより一回り大きな視点から、この世界を見ている。無意味な点の集積が、ひとつの巨大な絵を描いているんだ」
「なにが言いたいの?」
「地上に描かれた巨大な絵が足元にあっても、空を飛ぶことでも出来なければ、それを知ることは不可能だと言うことさ。この絵図の全体像を知りたければ、なるべく高く、視点を積み上げるしか方法はない。ヘクターはまだ、少し上にいる。ザヘルやヘリックスもその上かもしれない」
「でも、いくら足元を積み上げても、空の上にいるエラになることは不可能じゃない?」
「やつがこの世界にいる限り、それも決して不可能じゃないさ」
リプリーは意味ありげな笑みを漏らし、
「気分転換をしよう。空き家探しは、ひとまず終わりだ。関係者の話を聞こう。素直に話してくれるといいが」
シンシアたちは、ローワーイーストサイドにある、小さなギャラリーの前に車を停めた。錆びついた黒い鉄柵の向こうの階段の上に、赤いドアが備え付けてあり、そこに『ビル・バートン・ギャラリー』の木製の看板が掛けられている。
「ヘリックスの絵はここで取り扱われていたそうだ。このビルはエラの財団から、資金が出ているそうだ」
リプリーはドアを押し開けた。中は少し暗い。営業しているとはどうしても思えなかった。
「勝手に入って平気なの?」
「十五時だ」
営業時間内だ、と時計をみて、リプリーは言った。覗き込んでがらんとしたギャラリーだと、シンシアは思った。
「無用心ね」
「残念ながら、ここで盗まれそうなものはなにもなさそうだ」
主にストリート系のポップアートが、だだっぴろい壁を独占している。ヘリックスのものらしき絵は、はっきりとした三原色の世界の中で、激しいモノトーンのタッチがひときわ異彩を放っていた。
「分かるのはエラとヘリックスの共通点は、異端だということだ」
ルドンを思わせる白と黒、二本の線がらせん状につながっている八号の作品を見て、リプリーは言った。
「本当に誰もいないようだな」
宣伝が不徹底なのか、入り口が地味なのかは分からないが、二人が中を見ている間にも、なぜか客はひとりも入ってくる気配がなかった。この場所が今までと同じように、死んだように静かであることを、二人は十分に理解した。すぐにカウンターの奥から、二階へ上がってみることにした。外の鉄階段のあるフロアに出たとき、リプリーはドアの前で身を屈めた。
「静かに」
中から、かすかに音が聞こえてくる。シンシアも集中して耳を澄ませてみた。中から、やはり、人の声が漏れ出してきている。それは囁くような、軋るような、苦しげな声に聞こえた。内容はとれない。沈黙がもどかしく、聞くものに助けを求めているようなイメージを受けた。
リプリーは目配せした。彼は銃を抜き、縦に構えると壁にもたれかかった。習慣なのか、懐からサイレンサーを装着している。シンシアも同じように銃を片手に、ドアに手をやった。ノブを回したが、鍵は掛かっていない。合図で、シンシアはそれを一気に引き開けた。
手馴れた挙措で、リプリーは中に入り込んだ。部屋は、ワンルームで入ってすぐにキッチンとダイニングテーブルがあり、奥にベッドが見えた。窓からの明かりで、大量の埃が舞うのがみえた。リプリーはベッドの足のほうに立って、銃を構えていた。
「大丈夫か?」
「問題ないわ」
辺りを見回してから、シンシアは言った。
「来てみろ」
リプリーは手招きにシンシアはドアを閉めるのも忘れて、歩み寄った。近づくにつれ、さっきの声の沈黙にノイズが混じり、それが録音された声であることが分かった。リプリーが、ベッドの上から放り投げてきた声の正体は、テープレコーダーだった。
「聞いたか? ザッパーだそうだ」
テープの声が響く。かすれたその声は、恐らくベッドに倒れこんで死んでいる本人のもののようだった。
『私はビル・バートンです。・・・・・・・今から、全身に七個の穴を開けられて罪を償います。・・・・・これは、偉大なるザッパー様の思し召しです・・・・・・・』
テープはリピートになっている。耳障りな音を立てて、テープが逆回転を始めた。
「手遅れだ。たった今だったかもしれない」
ベッドは生乾きの血で汚れていた。そこに、白いワイシャツを真っ赤に染めたビル・バートンらしき男の遺体が手足を後ろ手に縛られたまま横たわっていた。
「ありえない」
シンシアは思わず、つぶやいていた。
「ザッパーはネヴァダにいるはずか? どちらが本物かな?」
リプリーは生乾きのまま開いている遺体の眼球に触れ、目蓋を閉じてから、残念そうにため息をついた。
「マヤを連れてくるべきだったな。彼女なら分かったろう」
「模倣犯よ」
「根拠はないだろ? だが、そんなことはどうでもいいことだ」
リプリーは興味を失ったように遺体から目を離し、辺りを捜索し始めた。シンシアは遺体の傍に近づいていき、そっとその首筋に触れてみた。
「まだ温かいわ」
「殺した奴は、私たちと入れ違いに出たんだろう」
部屋は衣類などで散らかっていたが、別に荒らされた様子はなかった。シンシアの後ろで、リプリーは棚や引き出しなどを開けて、中身を一通り物色していた。
「めぼしいものはないな」
リプリーは、外れたボタンや古い硬貨、使用していないガスライターなどを取り出しては眺めて、ため息をついていた。
「さっき、そう言えば模倣犯と言ったな。君なりの勘か?」
「あなたの言うとおり、根拠はないわ。でも、そうではないとは言い切れない。何度か似たような経験をしているから」
「どんなだ?」
「通報があって駆けつけると、遺体がまだ生暖かいの」
シンシアは遺体を見下ろしながら、言った。
「そのあとは大抵、近いうちに模倣犯は、発見されて逮捕されるの。なぜだか分かる? 彼らは、ザッパーが犠牲者に殺し方を解説させることと、実際に殺害することは非常に上手くやる。でも、その前後で段取りが悪くて必ずミスを犯すの」
「じゃあ、この犯行現場は何点だ?」
「五十点ね」
リプリーは、大げさな感嘆符を漏らして見せた。
「犯行スタイルは忠実に守られているし、これを犯した人間自身、ザッパーになりきって恐らく満足したはず。模倣犯だけでなく、サイコキラーと言われる人間の多くは、犯行のクライマックスだけを強く想像するわ。犠牲者を征服し、殺人を犯すことが第一の目的なら、それを達成したときの快感により強く惹かれ、まずそれ以外のことは犯人のイマジネーションから切り捨てられる。殺人を快楽として犯行を続けた人間の多くは言うわ、殺すのは楽しかったけど、獲物を手際よく捕まえようと考えたり、終わったあとの証拠を処理したり、それ以外の作業のわずらわしさについては、あまり想定していなかったし、実際にやってみると、とてもうんざりすると」
そのときだった。
シンシアとリプリーの間に、なにかが飛び込んできたのに、二人はとっさに十分な反応をとることができなかった。それは薄手のシャツの腕をまくった、はげ頭の中年男だった。
「撃つな」
リプリーが体をかわした場所をすり抜ける形で、男は開けっ放しの入り口に向かって走っていく。その背中に向かって銃を構えたシンシアに、リプリーが怒鳴った。
「殺すんじゃない! 生きて捕まえるんだ」
シンシアが次にみたのは、リプリーの背中だった。階段を駆け上がって上に逃げていく男の後を追う。そうだ。ザッパーではないが少なくともあの男が、ビル・バートンを殺したのだ。一呼吸遅れて、シンシアの身体が動き出した。
まさか、こんなことは初めてだった。まだ、その場に模倣犯が残っているとは思ってもみなかった。
男はすごい速さで、らせん状になっている階段を上っていく。みるみるうちにその姿は屋上に消えた。二人はその後を追った。
「殺すなよ」
もう一度、念を押すようにリプリーの声が降ってくる。シンシアは肯かなかったが、意見は同じだった。
逃げた男は、猿のように禿げた毛が縮れてかなり年老いた印象があったが、小柄な体型は敏捷で、二人が屋上に上がったときには、建物の端へ逃げ、隣の屋根に飛び移ろうとしているときだった。
スプレー缶が破裂したような炸裂音が、シンシアのすぐ耳元でした。リプリーが撃った弾丸は、男の左の腿の裏に食いこんだ。男は弾丸の推進力に押されるようにバランスを崩してのけぞったが、下に落ちる寸前に建物のふちに手をつき、なんとか動きを止めた。
「ジャンプは失敗だ」
リプリーは銃口を向けながら、ゆっくりと近づいた。
「両手を頭の後ろにして、そこにひざまずくんだ」
勝負はついた。だがその瞬間、リプリーの声が聞こえたのか、男はこちらを向いて、にこりと笑ったように、シンシアには見えた。リプリーは抵抗すれば、容赦なく射殺するつもりだったのかどうか、状況的に考えて、後で結論は出そうになかった。文句を言わせず、次の唐突な結果が論理をすべて吹き飛ばしてしまう。今の男にとって、問題は、背後の銃口のことではなかったのだ。彼は撃たれた足を引きずると、なんの躊躇もなく、頭から、地上に落ちていった。
二人が駆け寄ったとき、真下のアスファルトの上では首の折れた男が嘲笑しているに過ぎなかった。よれよれのボタンつきシャツとカーキ色のチノパンにトマトソースのように散った血は、その男のものなのか、それともビル・バートンの遺体のものなのか、それも肉眼では、もはや区別がつきそうになかった。

「みればみるほど、後はがらくた以上の結論は出なさそうね」
マヤは、路地裏までの荷物運びにかなりうんざりしたようだった。
「そう言うなよ。おれだって頑張ったんだ」
マックスも正直なところ、エラの本以外の遺留品にもかなり、期待をもってはいたのだ。
「だが、ヘリックス追跡の件は、シンシアには悪いがリプリーには譲れなかった。それだけは反対じゃないだろう?」
そうね、とマヤは不承不承ながら肯いてみせた。
カールの持っていた暗号の一件がある。あれは、必ずなんらかの点でヘリックスに関連していると、二人は考えていた。
「ヘクターの置き土産ね」
「恐らくあれが最後のキーへのヒントになる」
カールのポケットから見つかったあのメモをマックスたちは、リプリーに見せてはいない。
「だが、本当にザヘルもヘクターも今、NYCにいるのか?」
「それは分からないし、そもそもなんの確証もないことよ」
マヤは首を振ったが、それでも言った。
「でも、この街でなにかが起きたことは確か。どこまで出遅れていても、あたしたちはこの線から、彼らを追うしかないわ」
ヘリックスの遺留物は、彼らが地上にそれをすべて運んだところ、大きく分けて三つのカテゴリに分類することが出来た。まずひとつは、生活必需品。これらは使い込まれているが、歯ブラシや衣類、筆記用具など、持っていなくてもそれはそれで替えがききそうなものばかりだった。ただひとつの救いはその中からヘリックスの本名らしき名前の入った期限切れのパスポートが見つかったことだ。
「ニック・ラングレー。年は四十二歳だ。九二年入国、ワーキングビザで以後、不法滞在だな。母国籍はミュンヘンだ」
写真は似顔絵のものより、十年以上若く、髭も髪も伸びておらず、線の細い鼻筋は、どこかで見たような理知的な風貌をしていた。
「画家としての名前がヘリックス?」
「どうかな」
次の二つ目の分類の画集やスケッチブック、研究書を見る限りでは、そうとも言い切れないようだった。なぜなら、当初、少なくともニック・ラングレーは、自分でヘリックスを名乗ってはいなかったらしい。何枚かの着想と下書きのサインには、ちゃんとした本名が記してあった。
「ソロスも言ってたよな。いかれたのはここ数年だって」
ミスター・ヘリックスとサインがあるのは、アメリカへ来て、ここ数年くらいの日付のスケッチからになる。それまで彼は確かに、幻想的な画風ではあったが、モチーフは精霊や空想上の動物など、はっきりと形があるものだった。それが急に、さっきマックスが地下でみた、二つのらせんが絡み合った、なぜか抽象的な画風に一変している。
「馬鹿の一つ覚えを死ぬまでかよ」
「画家のインスピレーションにはいろいろあるから、理由は分かろうと思っても無駄かもしれないわ。ただ、彼がなにと出逢ってインスピレーションを授かったのかは、あたしたちにとっては非常に重要かもしれない」
「やつは、エラの【代理人】だった」
「ザヘルともたびたび接触していた。彼は、とても大事ななにかの役目を負わされていたはずよ」
「ただ、問題は、今は用済みになったのか、それとも、まだ必要とされているのかってことだ」
「遺体があがらない以上は、後者ね。でも、それは、彼が残したこのエラの本を読んで、考えてみるしかないわね」
三つ目はキャンバス、画布、さらに絵の具などの商売道具。
「商売道具だって考えるなら、これもありだろうな」
少年たちから押収したドラッグを取り出して、マックスはうそぶいた。最後のひとつを除けば、それらは一見、本当になんの変哲もない、と言って差し支えないものたちだった。ヘリックスの描いた絵を、ドラッグに代えてやっていた連中がいる。そいつがこのニック・ラングレーと言う男を、時間をかけて廃人に落としていったのだろう。薬を代償に誰かが、ヘリックスと言う画家を創り上げた。もちろん、なんのためか、それは分からない。
そのとき、マックスの胸ポケットの携帯電話が鳴った。
「シンシアか? ようやく通じた」
『こっちの台詞よ』
何度も電話をかけたのか、シンシアはいら立ったように言った。
『ヘリックスの遺体は見つかったの?』
「そいつは発見できなかったが、その男の本名が分かった。ザヘルじゃないほうのだ。名前はニック・ラングレー、ミュンヘンの出身だ」
『そのニックの絵を買い取っていたギャラリーまで、リプリーと来ているんだけど、今、オーナーが知らない男に殺害されたわ。ザッパーの模倣犯の可能性が高い』
「模倣犯だって? 本当の話か?」
『ほぼ間違いないわ。今、身分証を探ってみたんだけど、その男は現場になった店から半ブロック先の斜向かいのコンビニの店員のようよ』
「そいつがザッパーなんじゃないのか?」
マックスは少しおどけた口調で聞いた。
『コンビニ店主、大学生、中古車修理業者、保険マンに引きこもりの高校生。多くの模倣犯に出会ってきたけど、恐らく今回もそのケースだと思うわ。ところで、マヤはいる?』
マックスは黙ってマヤに携帯を渡した。
「NYCで模倣犯は初めて。・・・・・・どうかした?」
『リプリーがあなたを必要としているわ。あなたの能力を使って殺されたギャラリーのオーナーの記憶を読んでもらいたいそうよ』
マヤはため息をあらわにすると、クールに答えた。
「そのオーナーを殺したのは、模倣犯よ。無駄骨になる可能性の方が大きいわ」
『それなら模倣犯もみてほしい。写真でもいいでしょ? あなたの言う通り、NYCで模倣犯が出たのはこれが初めてなの。もしかしたらこの街ではなにかの意図があるわ』
「リプリーの意見は?」
『至急、合流しよう』
リプリーの声が割って入ってきた。
『ヘリックスについての情報を総合したい。次の手を考える』
「リプリー、いまだにヘクターからの接触はないわ」
『判断するのは私だ。お前に権限があると思うか?』
肩をすくめると、マヤはマックスに携帯を返した。
「必要なものをもってそっちに行く。早くて三十分後だ」
電話を切ったマックスの横で、マヤは必要な荷物を整理している。
「スケッチやメモ類は必要になりそうだ」
「キャンバスはどうする?」
それらはかなりかさ張りそうに見えた。
「一応持っていこう。後で、なにがあるか分からないからな」
荷物をまとめてバッグに入れて、二人は路地から出ようとした。
マックスはマヤに袖を掴まれて思わず立ち止まった。目の前に停まったペイントされていない古めかしいバンに注意を留めた。そこからひとりの男が降りてきて、こちらに近づいてきたからだ。
「よう、マックス」
「アーリーか、懐かしすぎて、お前の顔も忘れたところだ」
「誰?」
「カールの馴染みだ。悪かったよ、カールの件に関しちゃ、お前はもうなんの関係もなかったよ」
「それで済ませる気か?」
脇でマヤが様子をうかがっている。時間がないことは確かだ。目配せ次第では、彼女は目の前の男を黙らせるためになにか考えるだろうが、マックスはそれを事前に目で制した。
「別に謝罪はいらねえ。欲しいのは金だ」
「カールの借金はチェサピークがでっちあげたもんだ。それにもともと、お前の金じゃねえだろ」
「勘違いしてるな。実は欲しいのは、その金じゃねえんだよ」
アーリーは提げていたシルヴァーメッキのリヴォルヴァーをこちらに向けてきた。マックスにやられた下あごをうずかせて顔をしかめる。
「こっちへ来いよ。そのいかれた絵描きの荷物も、車に積むんだ」
「拒否したらどうする?」
「逃がすか」
アーリーは視線を後ろにやった。マックスは、意表を突かれた気がした。音もなく背後に、もうひとりの男が銃を持ってたたずんでいた。どうやら、逃げ場はなさそうだった。
「分かった。あんたの言うとおりにするよ」
小さく言うと、マックスは大きく息をついた。

「屋上から人が落ちた。殺人事件の犯人よ。ザッパーかもしれない・・・・・ええ、追跡中だった。至急、こちらに応援を寄越して」
イヤホンの奥で、シンシアが話をしている。ノイズ混じり。路上に倒れた男は、自分が落ちてきた場所よりもっと遠くの空を見つめながら、すでにぴくりとも動く気配もない。割れた頭から、どろりとした血が、地面に拡がり出している。
屋上の欄干から、リプリー・レベッカーが顔を出した。憤懣やるかたない表情で辺りをうかがっている。連絡を受けたら、市警が、FBIがこちらに向かってくるだろう。筋の通りそうな言い訳を、今から考えるのが、彼の目下の仕事だった。事情を説明する前に旅立ってしまった地面の男を一瞥すると、彼も姿を消した。
ちょうどいい。どころか、もしかすると今が、最後のチャンスかもしれない。イヤホンを外し、彼は行動を開始した。けたたましいサイレンの音。恐らく、救急車が近づいてきている。
二人の車は、画廊のある道路の反対側、シャッターが落ちたままのガレージの前に停められていた。救急車が到着すると同時に、人が集まり始め、辺りは騒然とし出している。CRIME SCENE KEEP OUTの黄色いテープが貼られ、野次馬が一掃されるまでは、この混沌とした状況は続くだろう。路上に墜落した哀れな男の姿以外に、誰も注意を払うことはないと言うことだ。
シンシアのバッグは助手席にあった。書類の束が半分はみでている。慎重に針金を差し込み、彼はロックを解除した。辺りをもう一度見回し、散乱しかけたそれらを取り出しては逐一目を通す。そのとき、急ぐべき彼の時間は一瞬、停まりかけた。我に返った彼は、几帳面にそれを整理しては、もとに戻していった。そして自分の車の忘れ物を確認するかのように、そっと奥に手を入れる。
「おい」
ドアの向こう。ふいに男の声がして、彼はその手を止めた。
「なにしてんだ」
バンドのシャツに革ジャンを着たひげ面の男がそこに立っていた。右手に酒瓶を持っている。重心が偏り、きちんと立てていない。
「これは私の車だ」
すばやく、ロックをかけてドアを閉めると彼は答えた。怪訝そうな瞳で男は、やぶ睨みに彼をみた。ゆっくりと首を傾げる。
「信用出来ねえな」
救急車が到着し、野次馬たちが騒ぎ出す。ちょうど、市警も入り、現場を保存して初動捜査を進めることに掛かり出していた。
「この泥棒野郎」
背後の喧騒に視線を移したその瞬間、釣られて顔をそらした男を抱えこみ、彼は強烈な膝蹴りをその男に見舞った。鳩尾を強かに打たれ、男は悶絶して膝をついた。かなり酔ってはいるようだった。甘く湿った、酒の匂いがした。男は言葉を発することも出来ずに、腹を押さえている。
その隙に彼は傍にいた制服警官を呼び止めてきちんとした口調で告げた。
「不審者だ。あの車の中を覗き込んでいた。事件に関係あるかもしれない。・・・・・・それに見ての通り、かなり、酒を飲んでる」
彼の言うことを聞き、警官はすぐに行動した。NYでは、路上で飲酒する行為が禁じられている。もし、男が後で自分がみた事実を供述したとして、どちらの言い分に信憑性があるかは、おのずと判断が下るだろう。
彼はその警官が調書をとろうとしたときには姿を消していた。

分署の廊下では、路上で飲酒をして暴れた男が呂律の回らないまま、辻褄の合わない自分の主張を繰り返しては担当官を困らせている。シンシアたちの車の前で不審な動きをしていたらしいが、鍵は開けられておらず、結局なにも盗られずに済んだようだ。
話し合いを終えたリプリー・レベッカーが戻ってきた。
「君の言うとおり、あれは模倣犯のようだな」
ビル・バートン・ギャラリーのビル屋上から転落して死んだ男の遺族の話は、シンシアの言う男の模倣犯説を裏付ける形になった。
「死んだチャールズ・ロッパーは、生まれてから一度もNYCを出たことがない」
「予想された答えよ。今まで何度もあった」
「やつが犯人だとするならな」
警察はそう発表するだろう。リプリーの意見はもっともだった。
「新しい問題は、なぜ、ここで事件が起こったかだ。それも、ヘリックスに関連のある店でな」
偶然か? それともバートンは、意図して殺されたのか? あの模倣犯は何者かの依頼を受けたのか? それにしても、では誰が?
「マックス・リヴローチからは、あれから連絡がないか」
「ないわ。こちらからの連絡にも一切、応答しない」
「一応言っておくが、私たちを裏切らないほうが賢明だぞ」
「わたしたちにその必要がない限りはそうする理由はないわ。それにもしかしたら、わたしたちに連絡した後、また地下に戻った可能性もあるでしょう?」
「私たちには時間もないんだ。それを忘れてもらっては困る」
TLEのゲージは、今日見た時点で、99%に達していた。それがいつ100%になるかは分からないが、そう遠くない未来、彼らを追うすべての手がかりが消えてしまう可能性は極めて高かった。一時間待った。しかし、予定を大幅に過ぎても、マックスたちは現れる気配もなかった。
なにか、突発事態が起きたのかもしれない。マックスだけではない。奇妙な模倣犯の存在。まるでおあつらえ向きに証人を消したように。こちらにも、異常とは言えないまでも、確実にその背後に何者かの作為ある事態が起こっているのだ。
二人はクイーンズのアジトに戻った。マックスたちはいぜん、連絡もせずにその足跡を消している。早いところ、次の行動を協議したかった。
「探しに行くわ」
ついに耐え切れず、シンシアは立ち上がった。
「どこへ? NYCの地下道を探索して回るのか?」
リプリーは腹立たしげにため息をついて、これをたしなめた。
「待つんだ。居場所の確認は私たちでやる」
電源を切っているのか、こちらからの着信にも応答しない。さらに三十分して、リプリーは外に出て行った。こうしてシンシアはシャッター会社の会議室のひとつに取り残された。焦っても仕方なかった。彼女は資料の整理を始めることにした。自分たちが持ってきたファイル類を取り出し、ケースに分類しなおした。
電話が鳴ったのは、それから十分ほどしたころだった。バイブレータがせわしなげに、彼女を呼んでいるのに、シンシアはしばらく手間取った。資料の山から携帯電話を探し出そうとしたとき、彼女は自分のスーツの胸ポケットに電話があることに気づき、手をやった。それは、自分の電話ではなかった。震えているのは、もっと他のところにある別の電話だ。
バイブレータは、根気よく、シンシアをコールし続けている。まるで彼女をどこかに導こうとしているように。探り当てたのは、なぜか彼女のバッグの中だった。いつ、紛れ込んだのだろうと、シンシアは思った。記憶をたぐる。リプリーと車に乗って、ビル・バートンの店を探ったとき、そのバッグは車の中にあった。それから、屋上から飛び降りたチャールズ・ロッパーの遺体を引き渡して、警察に行ったときまで、そう言えばシンシアは自分のバッグをほとんど意識したことはなかった。いや、まさか。シンシアは、はっと直感に思い当たった。分署の廊下でぐだを巻いていた不審な酔っ払い。車泥棒は別の誰かだと主張していた。泥棒じゃない。そうだ。もしかしたらあのとき、ヘクターは自分たちのすぐ傍にいた?
小さなバッグの中で、見慣れない携帯電話はせわしなく振動していた。そこに確固とした意志があった。シンシアは高鳴る鼓動を抑えながら、ようやく、それに出た。
「誰?」
『シンシアか?』
小さな予感があった。だが、希望的な期待の範囲内でしかなかった。シンシアの声に、相手は反応を返した。その声は、彼女の耳に沁みつくように、もう一度彼女の名前を呼んだ。
「・・・・・・・・ヘクター?」
『そうだ。ビル・バートンのギャラリーから君をつけてきた』
「まさか」
喜びを表現しようとして、シンシアは思わず口を噤んだ。
『心配することはない。君のバッグに紛れ込ませたその電話は、盗聴の恐れはない』
その沈黙の意味さえも、ヘクターは如実に理解していた。
『分署で君をみた。模倣犯に出くわしたと聞いたが』
「今、どこにいるの?」
いつ? なぜ? 今、どこにいる? それ以外にも多くの疑問がシンシアの頭の中を巡ったが、彼女自身、それをすべて上手く表現できる言葉が見つからなかった。
『時間がない。単刀直入に用件だけ話そう。君たちと合流したい。もちろん、リプリーは抜きで、だ』
「・・・・・・・指示をちょうだい」
ヘクターからの脱出の指示を、シンシアは頭の中で三回反芻した。
『では、すぐに実行に移してくれ』
「問題があるわ。マックスたちがまだ戻っていない」
『大丈夫だ。ヒントを与えておいた。今はまだだが、彼女たちともすぐに合流できるだろう』
シンシアは電話を切った。机に顔を伏せ、呼吸を整える。心の中で指示を反芻し、次の行動に備えようと気持ちを作ろうとした。なぜだか、心がまだそわそわしている。指示の内容=ヘクターの声が、まだ、頭の中に残っているからか。シンシアは苦笑した。OK、リラックス完了。
天に向かって小さく息をつき、身体をほぐすと、椅子から立ち上がった。荷物をバッグにまとめなおし、紐を長く構える。誰かが戸口に立っている。シンシアはなるべくうんざりとした声音を作って、なにげなく話しかけた。
「ねえ、トイレに行ってもいいかしら?」

マックスたちは車に乗って、イーストハーレムにあるパブに入った。メキシコ系の陰気そうなオーナーが、四人が入ってきた瞬間、軽く会釈をした。
「おれがいいって言うまで、客を入れるなよ」
客足と死んだようなオーナーの様子では、その注意の必要はなさそうに見えた。
「後、一時間ほどで客が入る」
携帯電話をとりだすと、アーリーは言った。
「その前に仕事を終えよう」
「おれたちから金のありかを聞き出して、チェサピークに引き渡そうって話か?」
アーリーはマックスを一瞥したが、それ以上の会話は電話の向こうとすることにした。二階のオフィスから、彼が出ている間、二人を、戸口にいる連れの男が監視していた。
ここに来るまでの間、その男の声をマックスは聞いた記憶はなかったが、マヤの話によると、名前はヴィンセント、たぶん、軍隊にいただろうと言う見方らしい。アーリー不在の間、彼も、どこかに連絡をしてぼそぼそとしゃべっていた。本国にいたはずのない、ひどい訛りのある英語だった。
「待たせたな、本件だ」
「残念だが、おれたちは金を追ってなんかいない」
「何度聞いても、それがお前の答えか」
アーリーは、アクセサリーをじゃらつかせて、携帯電話を仕舞うと、今度はマヤに目を向けた。
「彼女に聞くか? お前じゃなくて」
「あたしに聞いても、答えは同じ」
「楽しみだ」
アーリーはいきがってみせたが、マヤには別に通じなさそうだった。あからさまに退屈そうなため息をつくと、肩をすくめてみせた。ただ、彼女はむしろヴィンセントの方に絶えず気を配っていた。
「OK、おれが話そう。ヘリックスっていかれた絵描きの話だ」
「誰だ、そりゃ」
「お前らが地下道から掘り出してきた、がらくたの持ち主だよ。まあ、黙って聞け」
アーリーは自分でも、大物になった気分がしたのか大げさな身振りをしてから、
「そもそも、おれたちは東1番通りのビル・バートンってギャラリーのオーナーに頼まれて薬を卸してた。もちろん、そいつがやるんじゃない、やつが囲ってるへリックスって言う、いかれた絵描きのためだとさ」
「勝手に話してろよ」
「ビルによると、そいつはいかれた絵描きだったが、なにかとんでもないネタを握ってるって話だった。そのせいもあって、才能はないがその絵描きを飼ってたんだと。そいつは死ぬほどラリっては、わけのわからないことを言って、まったく売れる見込みのない絵を持ちこみ続けた。くだらねえ話だと聞き流してたが、どこで役に立つかわからねえもんだ。まさかこんな大きなネタだとはな」
「お前の大きな誤解だ」
「お前らが持っていたのは、そのいかれた画家の絵だ。ヘリックス、違うか?」
「どうかな」
その瞬間、アーリーは大振りの右でマックスを殴った。マックスの頭は背もたれにバウンドしたが、その鼻をもう一度狙って、左ジャブが入った。
「まだ話さなくていい。お前にやられた分くらいは殴らせろよ」
口の中が切れた。血の混じった唾を吐いたマックスを見下ろして、アーリーは言った。
「女を締め上げろ」
ヴィンセントが言った。アーリーは興を削がれたように、
「そいつはあんたに任せるが、やるのは後だ」
「時間がない。ドンは早く金とそいつらの首を見たがっている」
「あんたは切り札だ。すぐに出てきたら効果がない」
「お前の楽しみを邪魔しようとは言ってない」
ヴィンセントの口調は淡々としていたが、断固として譲る気はないようだった。
「二人いて、一人は遊ばせとくつもりかと聞いただけだ」
「分かったよ」
観念したように、アーリーは譲歩した。
「マックスはおれだ。女はお前に任せる。それでいいだろ?」
ヴィンセントは軽く肯くと、立ち上がった。痩せていたが、マックスより一回りは大きかった。アーリーは座っているマックスの腹に前蹴りを入れてから、言った。
「銃は使うなよ」
「別に使う必要はない」
ヴィンセントは言った。マヤを、すぐに見下ろせる位置まで来た。
「抵抗は無駄だ。分かってるな?」
「みれば分かるわ」
マヤは言った。マックスの方をちらりと見て、小首を傾げた。
「抵抗する気はない。でも、取引なら代価がつくはずよ」
「お前らの命だ」
「信用できると思う?」
「この場でお前らに、選択の余地はない」
ヴィンセントは言った。古い墓石のようなすさびた声だった。
「少しでも助かろうって気があるなら、金を積んで、ドンの前で命乞いでもするんだな。そのチャンスくらいなら、与えてやる」
「延命措置だ。永くはなさそうだがな」
アーリーは、マックスのこめかみに銃を突きつけると言った。
「撃たないんじゃなかったのか?」
「大きな誤解だ。おれは撃たないとは一言も言ってない」
「どうする?」
マヤは少し考えた。頬杖をついて考えながら、左手の指で自分のこめかみをとんとん、と二回、突いた。そして大きく息をつくと、
「OK。キーは渡す。金はそのキーがある場所で分かるようになっているわ」
「それまではどうにか生きられそうだな。で、キーは?」
「ここよ」
言うと、マヤはポケットから一本のキーを取り出した。
「・・・・・・・どこにあった?」
「ヘリックスのキャンバスの裏に貼り付けてあったわ。マックス、あなたには言わなかったけど、要らないものを棄てるときに見つけて、隠し持ってきたの」
「これがそうか?」
ヴィンセントは、眉をしかめて聞いた。
「それは、【プロダクト・キー】か?」
「いいえ、これはたぶん、最後の【キー】よ。たぶん、どこかの貸し金庫。マルコーが追っていたエラの遺産はそこにある」
「確認する。そいつを寄越せ」
マヤは手を伸ばして、ヴィンセントにそれを手渡した。放り投げようと考えたのか、身体を伸ばしかけたが、ヴィンセントが近すぎてそれはかないそうになかった。乱暴に振った手が勢い余って、ヴィンセントの手の中に鋭くあたる。腹いせじみて見えた。ヴィンセントは顔色ひとつ変えることなくその手にキーを握りこんだ。
「確認する」
「長生きできるといいな」
ヴィンセントは、左手で電話を取り出して、チェサピークを呼び出そうとした。右手に握ったキーに確かめるように、視線をやった。だが、すぐに顔をしかめ、首を傾げるような仕草をした。
「おい」
ヴィンセントは言った。アーリーが腹立たしげに問う。
「なんだよ、どうかしたか?」
手首を返した。それは鍵を見せようとする仕草だと思っていた。
「一体これは・・・・・・なんの真似だ?」
見えにくかったが、キーが濃い色の液体で汚されて鈍く光っている。薄暗い照明でそれは、コールタールか機械油の類のようだった。はっきりと見えた。ヴィンセントの利き腕の手首に、ぱっくりと楕円形の口が開きかけているのが。切り傷からぼたぼた落ちる血を押さえようと、ヴィンセントが反射的にそこを反対の手で庇う仕草を見せたとき、マックスの次の行動は決まった。
「アーリー」
呆然としているアーリーの銃を持った腕を引き倒して、マックスは顔面に強烈なヘッドバッドを喰らわした。ソファの手すりに銃を叩きつけて、その手から凶器を奪った。隣でマヤが、中指と薬指の間に仕込んだ指ナイフの血糊を衣類で拭っている。
「マックス、行きましょ」
「待て」
うずくまるヴィンセントの足元から、彼は鍵を拾おうとした。
「なにも持たなくていいわ、いいから早く!」
「くそったれ」
罵声はアーリーのほうが上だったが、回復力はヴィンセントの方が上だった。マックスが部屋を出るまでに銃声が二発轟き、廊下のコンクリートの壁に跳ねて、オレンジ色の炎が弾けた。
「カンがよくなったね」
銃声はまだ、響いてくる。
「だいたい、お前の考えにも慣れてきた」
マックスは走りながらうそぶくと、後ろを振り向き、
「どうするんだ? なにもかも置いてきちまったぞ」
「大丈夫。たぶん、あそこにあるのはがらくただけだし、彼らになにもヒントを得ることは出来なさそうだし」
「キーはどうなるんだ?」
「最後のキーが本当の鍵だと思う?」
マヤが呆れたように言った。マックスはあわてて言い直した。
「だよな! そうだと思ってたんだ」
「乗ってくれて、助かったわ。あれは、マックス、あなたの車のキーよ」
「そいつはよかった」
マックスは、ほっと息をついてから、
「よくねえよ! どうしてくれるんだ! おれの車だぞ! なにがなにも持たなくていいだ」
マヤは明らかに今、気づいたような顔をしてごまかそうとしたが、もうその件は取り合う気はないようだった。
「とにかく、隠れる場所を探しましょう」
二人は考えた挙句、地下鉄を使い警察署の地下まで逃げてきた。
「シンシアたちと連絡をとらないとな。なんの収穫もなくて、さんざんだったってな」
辺りに人がいないことを確認すると、マックスは携帯電話を取り出した。
「収穫はなくはなかった」
「ブッ飛んだ画家の本名が分かっただけだ。死ぬ思いをしてな」
「なに言ってるの、マックス」
マヤは、もう一度違う、と言うと、胸元から一枚のカードを取り出して見せた。
「これがキャンバスに入ってた本物のキーよ」
「なんだと?」
それは、カードキーのようだった。黒い無地のカードで、正体は分からなかったが、カードにはやはり意味ありげな十一桁の数字が二列、刻まれていた。
「リプリーか? マックスだ。チェサピークの手下に追われて、こっちもひどい目にあった。どこにいるかって? イーストハーレムのどこかだ」
そのとき、マヤの携帯電話も鳴った。
「シンシアからよ」
マックスは、マヤのその言葉に少しいぶかしげな表情を見せたが、まだ、なんの不信感も持っていなかった。
「探してきてくれるのか? それなら助かる? 今は夜だ」
「電話を切って」
マヤはマックスから、強引に通話を妨げた。
「なんでだ?」
「いいから、すぐに電源も切るの」
「なにしやがる」
マックスが、わけがわからずそうしようとした瞬間、マヤは彼の電話機を取り上げると、向こうの道路に向かって放り投げた。
「あっ、お前、おれの電話まで!」
次の言葉が、マックスの叫び声を止めた。
「シンシアよ。ヘクターといっしょにいる」
「ヘクターだと?」
マックスはあわてて電話をとった。
「シンシア、お前どこにいるんだ? いったい、なにをしてる?」
『両方とも話すわけにはいかないのは分かるでしょう?』
シンシアの声。後半、ノイズが混じった。
「ああ、分かってる。それより本当か、今の話」
『ええ、今、ヘクターと合流した。彼に代わる』
シンシアが引っ込むと、渋みのある落ち着いた声の男が出た。
『ヘクターだ。・・・・・・・マックス、マヤの件も含めて君には本当に世話になった』
「本当にあんたか?」
『マヤに代わってくれ』
マヤが電話をとって話した。間違いない。確かにヘクターのようだった。
「あなたには苦労させられたわ、ヘクター。あたしにもマックスにも、すべての事情をちゃんと話してもらう」
『もちろんだ。再会を祝う言葉よりも、君らしい台詞だ。知っての通り、この回線にはリプリーの手が回っているはずだ。従ってあまり長くは話せない』
「予定通り」
と、マヤは言葉を切るように間を作り、
「地下道でヘリックスの遺留品を手に入れたわ、ヘクター」
『じゃあ、それを持って明日十時に集合しよう。・・・・・・場所は、亀の島だ』
「どこだって?」
マックスが聞いたが、マヤは、聞き返しはしなかった。
「そこね?」
『ああ、自由のための船出をする。ふさわしい場所だ。目標を指し示す亀の頭の方角で待ってる。すぐこの電話を捨てて姿を消せ』
電話が切れた。その瞬間、マヤは自分の携帯電話も同じように電源を切ると、闇に投げ捨てた。
「亀の島だって」
「どこだ?」
マヤは、さあ、と肩をすくめた。
「地図が必要よ。それと、さしあたって明日まで潜伏出来そうな場所も」
「分かったよ。寝る場所構わねえなら、今からなんとかしてやる」

「亀の島だ。暗号だ。このNYCで亀にちなんだ建造物や施設、その他、亀を連想させる場所ならなんでもいい。すぐに出せ」
二人の電話が通じないことを知ると、リプリーは手早く指示を出した。電話から逆探知した、イーストハーレムの外れに人を手配し、自分は会議室にこもって、資料の到着を待った。
ヘクターが現れた。やはりだ。だが、なぜ今のタイミングで?
シンシア・ハーディの座っていた席に座り、リプリーは、人目を憚って大きなため息をついた。
「・・・・予想していたことだ。今、ヘクターが接触してきた。やつらを押さえるのは、明日だ。まったく問題はない」
三十分後、NYC周辺の大きな地図がホワイトボードに貼られ、情報が書き込まれた。【亀の島】【自由のための船出】【目標を指し示す亀の頭の方角】・・・・・・・キーワードをひとつひとつ加え、リプリーはインスピレーションをフル回転する。
「この暗号は恐らく、アドリブだ。事前の打ち合わせを想定したものじゃない」
予定通り。マヤがそう言ったのは、恐らく、情報をかく乱するための陳腐なアドリブだ。さりげなくだが、なるべく短時間で突き止められるように、ヘクターは言葉を考えていると、リプリーは即座に読んだ。
島の地図が到着する。図面を彼は凝視した。
NYCには、マンハッタン島の周辺に、三つの小さな島がある。
一つは、マンハッタン島に寄り添うように、クイーンズ橋を跨いでイースト川に浮かぶルーズヴェルト島、南西の方角に浮かぶ、旧税関があるエリス島、そして対岸のジャージーシティにもっとも近い、自由の女神のある島、リバティー島だ。見たところ、そのどれもが、亀の形とするには中途半端すぎる。
かすかにルーズヴェルト島の突端のライトハウス公園が、甲羅から頭をもたげた亀に見えなくもないが、【自由】や【目標】などと言った言葉の印象にそぐわない。決定打に欠けた。
そうしている間にも、亀を思わせるNYの建造物がピックアップされてくる。単純なところで形状がそのもののマディソンスクエアガーデン、ヤンキーススタジアム、はてはメトロポリタン美術館西北のセントラルパークの巨大な貯水池などの案も出た。だが、これらの決定的な欠点は、マヤの能力があるとは言え、コンタクトをとるのに、指定が広域過ぎるという致命的なところがあった。
お互いに時間はないのだ。
「・・・・・・明日、十時だ。やつらはコンタクトに成功したら、恐らく私たちの手から逃げるために、まず、州外に逃げるのがもっとも手っ取り早いはずだ」
独り言をつぶやいたリプリーの指は、やがて、もっとも州外に近いリバティー島の上で、ぴたりと停まっていた。その島は、手足を引っ込めた亀にはみえるが、そこに肝心の頭が出ていないために、リプリーが却下したものだ。
「・・・・・・・・・・・・」
ココナッツの実に似た形状をしたその島の地形図をしきりになぞっていたリプリーは、その瞬間、はっ、と息を呑んだ。廊下に出て空いている職員を捕まえると、地図を手渡して言った。
「この島の航空写真をプリントしてくれ」

ワシントンハイツの葬儀屋の駐車場に、小型のトレーラーハウスが停車している。それは数時間前に、マックスが古い知り合いのレンタカー屋を叩き起こして、事務所にあったノートパソコンと小型プリンターと一緒に、強引にレンタルしたものだった。
「亀の頭か。確かに考えたもんだ」
マックスは、プリントされたリバティー島の航空写真を眺めていた。全体の形としては、ココナッツかラグビーのボールのような形状をしているこの島を上空からみると、その七割ほどの部分に亀の形が潜んでいるのが分かった。
「自由の女神広場だ」
桟橋から自由の女神が建っている星型の台座、その周辺は芝生に造成されている区画は、亀の甲羅にそっくりだった。そこから西南の方角に道が決まっており、ポールの立つ丸い広場がちょうど、亀が頭を飛び出した形で舗装されている。航空写真ではそのポールの立つ影がコンパスの針のように伸びて、方角を指し示しているように見えた。
「それにしてもなんだって、今頃ヘクターが接触してきた?」
「TLEをみた? そろそろ、100%になるわ」
マヤは、シャワーを浴びてきたところだった。この晩に限らず、彼女は刺激的というか無頓着でさすがにバスタオルではなかったが、見たところ、下着をつけずにブラウスだけを羽織ってきていた。
「シンシアは上手く、合流に成功したみたいね。これから、また新しいなにかが始まるはず」
「着替えてこいよ。まだ、時間はある」
キッチンに昨夜、飲んだビールの空き缶が置いてあった。実は、昨日気が立ってあまり眠れなかったのだ。普段は離れて寝るので気にならなかったが、彼女の無頓着さが気になって仕方がなかった。
「キーは?」
ベッドルームの方から、声がする。衣擦れの音がして、マックスはさりげなく、耳を澄ませていた。
「知るか。お前が持ってるんじゃないのか?」
言いながらマックスが、そっと覗くと、マヤはブラウスの袖に小さなナイフを仕込んでいるところだった。昨夜、ヴィンセントの手首を切り裂いた、親指サイズの鋭利なナイフだ。
「なにか言った?」
いきなり、顔を上げたマヤと、ばつの悪いタイミングで、マックスは顔を合わせてしまった。
「いや、なんでもない」
マックスは両手を振り回しながら、言った。
「誤解だぞ・・・・・・・おれは覗くつもりはなかったんだ」
「どうしたの? なんの話?」
マヤはなにを話題にしているのか分からないというように、きょとんとしていた。ナイフを仕込み終えると、ゆっくりとした動作で、ボタンを留め直し、パンツを履いて小さなベルトを締めなおした。
「この部屋にキーは見当たらないわ」
マヤは言うと、マックスのズボンの辺りに手を伸ばした。彼はあわてて腰を引こうとしたが、彼女の目当てはもちろん、ポケットに入れたままになっている、ヘリックスの黒いカードキーだった。
「分かってる、確かに持ってったのはおれだ。それは認めるよ」
「じゃあ、なにが誤解なの?」
マヤは聞いたが、マックスはそれに対して満足のいく解答をすることが出来なかった。彼女は本当に不思議そうに首を傾げると、ため息をついて、言った。
「少し寝たほうがいいよ、マックス。一時間くらいなら、ちゃんとあたしが見張っておくから」

9.リバティー・アイランド・クライシス

「リバティー島への道のりはフェリーだ」
ヘクターの声は、シンシアが理想としたとおりの力強い輝きが戻って、シンシアを導いていた。
「準備をしておいてくれ。別々に出かけることになる。指示に従って、君がマヤとマックスを私のところに誘導してくれ」
髪や髭は伸び、服装も少し薄汚れたが、ヘクターは、以前とまるで変わりがなかった。指定された場所でヘクターに会うことが出来たとき、シンシアは、どこかで自分の芯を無理やり支えていたものが氷解していく瞬間を実感した。長かった。姿を見なかったのは、三ヶ月、声を聞かなかったのは、ここ一週間ほどの間だ。だが、長い間。その言葉がつい、出てしまったのだ。
「済まなかったな、君にはエルナの分まで心配をかけた」
ヘクターは苦笑していた。
「リプリーが居場所を突きとめていることだろう。いつでも、銃を撃てるようにしておくんだ」
ヘクターは予備の弾丸とオイルまで用意してくれていた。
「マヤはチェサピークの部下にも、襲われたと聞いたわ」
「時間がない。だが、必ずマヤたちとは合流しなくてはならない」
ふとシンシアの不審な様子に、ヘクターは気づいて聞いた。
「どうかしたのか?」
「ごめんなさい」
シンシアは急いで言うと、額にかかった前髪を掻き上げた。混乱をごまかすように笑顔をしたが、その表情にはいつもの毅然とした力がなかった。
「正直なところ、今までずっと混乱してきたから。死んだはずのエラ・リンプルウッドの造り上げた計画が、これほど巨大で、得体の知れないものだとは思わなくて」
「無理もないさ」
ヘクターは微笑した。父親のような仕草で、垂れこぼれた前髪を撫で、肩に手を置いてくれた。
「エラが用意したすべての【代理人】は、彼の目的のために、膨大なネットワークを形成してことを進めてきた。どこまでいっても矛盾するすべての事柄が、あるひとつの事実を形成したとき、それを受け入れるには、私は今、自分と言う存在を一旦、投げ捨てなければならなかった。君にも、おかしくなったと思われたほどだ、私のとった行動を全面的に理解してくれとは言うつもりはない」
「それでも・・・・・・理解はしているつもりです」
でなかったら、ここまで事件を追うことはなかった。そう言うと、ヘクターは、微笑したその顔のまま肯いた。
「君は優秀だ。必ず、ここまでたどり着いてくれると信じていた」
「マヤやマックスがいたお陰です」
言ってから、はっとしたようにシンシアは目を見開いた。
「彼らに預けたキーが帰ってくれば、TLEの真実の最後の姿を追うことが出来る」
「ザヘルを?」
「違う」
「ザヘルじゃなければ、いったい誰を追うんですか?」
「エラさ」
ヘクターは言った。
「私たちは彼を追っている。エラは、まだ生きている」
「その言葉はリプリーも言っていました」
ヘクターの言葉は、微塵も揺るぎはしなかった。
「当然さ。私がそれを突き止めたんだ」
「当時の検死報告も再確認しました。彼の身体はとっくに死亡して、墓の下になっているはずです」
「彼らと合流したら、すべてを話す」
ヘクターは取り合わなかった。はぐらかされたように、シンシアには感じられた。
「それまで心の準備をしておくといい。たとえ真実を知っても、再び混乱しないようにね」

マックスたちがアッパー・ニューヨーク・ベイから出る定期便に乗って島に到着したのは、午前九時を少し回った頃だった。
「少し早めに到着しておいたほうがいいわ。周囲を確認しないと」
「リプリーも来ているのか?」
朝方で、見たところ、それほど広場に人は集まってきていない。マックスは辺りを見回した。
「もちろん、たぶんもう、どこかで待機していると思う」
ちょうどフェリーから降り立った数人は、日本人の観光客のようだった。七つの海の船出と導を祝う女神像が、星型の台座に佇んでいる姿はまだうっすらと霧に紛れている。まばらな人影に、マックスがどう目を凝らしても、誰かが潜んでいるとは思えなかった。
「意外と船上かもしれない」
このハドソン湾には無数のヨットや漁船が漂っている。マヤは、霧で霞んだマンハッタン島を眺めながら、言った。
「ヘクターたちはどうやって来るんだ? 船か?」
「分からないわ。こちらから連絡する手段はすでに絶たれたし、ヘクターはあたしたちにもっとも大切なものを預けたんだろうから、とにかく待つしかない」
マヤたちは、公園の外郭を通って広場へと向かった。気温が上がりそうで、観光日和だ。時間が経つにつれて、徐々に人が増えてきたのが、もう三十分以上いるマックスたちには如実に分かった。
「不自然だぜ。二人でこんなところで時間を潰してるのは」
マックスはうんざりしながら、言った。さすがに見物スポットだけに、それほど長い間いる場所ではない。
「その分目立つでしょ、敵にも味方にも」
「そのどちらも違う場所で待ってたりしてな」
午前十時を回った。広場に観光客が溜まり、少し混んできた。ふと、ハーフパンツにスニーカー、デジカメを提げた旅行者風の白人男が、こちらから近づいてくるのが見えた。
「なんだ」
小太りで頭が薄くなりかけているその男は、ヘクターにも、もちろん、シンシアにも見えなかった。
「なにか?」
男は、マヤの声に意味ありげな微笑を浮かべると、白い上着の前をもったいぶって開いて見せた。日本のアニメのキャラクタータッチのトレーナーの上に、文字が書かれた紙が貼られている。
定刻 前から来る客の流れに乗れ
「あれか?」
マックスが指差す方向に集団のヨーロッパ系の観光客が、団体で歩いてきていた。マヤはその中の何人かのそれらしい人間の目線を確認した。サングラスをかけて、日よけに帽子を被っている若い女性がひとりいた。かすかに、こちらに目線を向ける。
(シンシアだ)
二人が流れに乗って、立ち上がろうとしたそのときだった。
乾いた破裂音が、その場にいた全員の耳朶を打ち、列に戻りかけた誰かの頭を吹き飛ばした。狙撃されたのはさっきの男だった。左のこめかみを吹き飛ばされた男は、自分の背後上空にいる女神像を仰ぐような形で回転して、倒れた。
呆然とするほど一瞬だった。だが、ここにいた何人かは、その風景がスローモーションで見えたに違いない。横たわった男の意志を失った瞳から、体液がこぼれ、半開きの唇がかすかにわななくのを。脳漿の混じった血が薄く流れを作り、足元にせまった血に動揺した何人かがあわてて飛びのくのを。
その中のけたたましい叫び声がパニックの合図になった。
「マックス、マヤ!」
男の声がしたのは、反対方向だ。観光客に扮した、キャップにサングラスの男が手を振っている。一目でヘクターだと分かった。
「逃がすなっ、すぐに確保するんだ」
潜んでいたリプリーの合図で、観光客に扮した工作員たちが一斉に銃を抜いた。だが。と、パニックにゆれる人ごみを移動しながら、マックスは思った。彼らは狙撃していない。今、緊急事態の準備を完了したばかりだ。弾丸は、別の方角から飛んできたのだ。
「マックス、逃がさねえっ、必ずぶっ殺してやるっ!」
アーリーの声だ。二人が、追ってきている。姿を確認した。アーリーはウージー、ヴィンセントはAK47で武装している。目の前の男のこめかみをぶち割った弾丸は一発、セミオート射撃だ。
アーリーの右手で九ミリのウージーが、スズメバチの羽音のような粗暴なうなり声を上げて、死の弾丸を撒き散らした。
「マックス、こっち!」
マヤは、マックスの肩を叩いたが、ほとんど振り返らずに走った。
多くの人が逃げ惑う中、シンシアの目の前で、乱射したウージーの流れ弾で手首を弾かれて、叫び声を上げて男がひざまずいた。彼女は立ち止まり、思わず銃を抜いて応戦する構えをとった。
「銃は抜くなっ! シンシア、リプリーに任せるんだ」
ヘクターの叫び声で我に返る。シンシアは銃を仕舞うと、彼が指し示す方向に、全速力で逃げた。
「ヘクター!」
リプリーが銃を構えている。弾丸が、横をかすめていったが、ヘクターは一切相手にしなかった。別れの挨拶をするかのように、後ろに右手を払う。
広場の戦闘はすぐに、アーリーたちが連れてきたマフィアの選抜隊と、リプリーの手配したCIA工作員たちの銃撃戦に移行していた。リプリーの背後から、ヴィンセントが自動小銃を乱射してくる。リプリーとしては、ここは応戦するしか手がなくなった。
「みんな、生きているか?」
ヘクター・ロンバードの声は、静かに話しているのにその喧騒の中でも不思議と、はっきりと響いた。
「無茶しやがる」
「まったくだ」
「無事でよかったわ」
シンシアは二人の顔をみて、言った。
「あたしたちは平気よ、シンシア。例のものも持ってきたし」
マヤは、胸ポケットに無造作に突っ込んできたヘクターにカードを見せた。
「よくやった。船を用意している。すぐにこの場を離れよう」
アーリーがウージーで、彼らのいる群衆を狙っていた。引き金を絞ろうとしたその瞬間、アーリーの肘関節が血飛沫を上げて砕け、アーリーは上空に無駄弾を吐きつくす羽目になった。リプリーの撃ちこんだ弾丸は二発、もう一発は右頬から口の中に飛び込んだ。弾丸で火傷した舌を出して、アーリーは後ろに倒れこんだ。近づきながらその額に三発、リプリーは残りの弾を撃ち込んでから、声を張り上げて怒鳴った。
「逃がすな、見つけ次第撃て! ヘクターとハーディだっ! 目標はそいつらだっ! チンピラどもにかまうなっ!」
その頃、ヘクターたちは、島の西南の岸から用意したランチに乗ってNYCをすでに脱出していた。

対岸のジャージーシティに上陸したヘクターたちは、そこから用意してあった車に乗り、リンデン・アヴェニュー一八五号線を西に向かって走り、ベイヨンパーク周辺にある隠れ家に到着した。
「どうにか上手く、逃げ切れたようだな」
ヘクターは車をガレージに入れ、中に全員を案内すると、ようやく一息ついて、言った。
「非常に残念です。あんな人の多い場所で銃撃戦になった」
シンシアは、まだあまり納得していない様子だった。
「心が痛むことだが、本当に仕方のないことだ。まさかリプリー以外にもあの場所を突き止めて追ってくる連中がいるとは思わなかったからな」
ヘクターの言葉をフォローするようにマックスは言った。
「やつらは、チェサピークの手下だ。NYCのことなら、一晩あればなんでも調べられる」
「過去を振り返るのは、後にしよう。君たちも承知していると思うが、本当に残された時間はあまり多くはなくてね」
「ヘクター、でも、説明には十分時間をかけてもらうわ」
「マヤ、言われなくてもそのつもりだよ」
マヤの言葉にヘクターは、深く肯いて見せた。
「ではまず、先に軽く食事をとろう。話は追々する」

「さて、なにから話をしようか」
「一番気になることから答えてもらう」
口火を開いたのは、マックスだった。
「思わせぶりな物言いやほのめかしはうんざりだ。イエスかノーで答えろ。エラ・リンプルウッドは本当に生きてるのか?」
「答えが知りたいなら、すぐに教えよう」
ヘクターは、あっさりと肯いた。
「イエスだ」
「分かった。あんたの言い分はな。まだ納得したわけじゃないぜ」
と、マックスは言葉を切り、
「シンシアが調べた。鑑識写真もある。ロングアイランドの別邸で死んでいたのは、確かにエラ・リンプルウッド本人だったはずだ」
「常識的には、まったく君の言うとおりだ。エラの肉体は確かに生命活動を休止し、正式な検死解剖に基づいて死因を詳細に検証した後、墓地に埋葬された。シンシア、君が調べたことは寸分の狂いもない事実だ」
「でも、あなたやリプリーは、それでも彼は生きていると断言するのね?」
マヤの言葉にも、ヘクターは、はっきりと肯いて見せた。
「シンシア、君はどう思う?」
「TLEは究極のハッキング機能を持っている。例えば本人にそっくりな遺体とすり替え、本人特定のために必要なデータを改ざんすることも出来なくはないとわたしは考えたけど、捜査官も含めて現場で実際に遺体に接した人間たちの目はごまかせるはずがない」
「確かに。リプリーあたりはTLEによって大幅なデータの改ざんが行われたのではないかと考えているだろうが、情報はごまかせても、実際に現場に携わった捜査員を騙すことは、なかなか難しいだろう。つまり、結論としてはあの遺体は正真正銘、エラ・リンプルウッド、本物なんだ」
「じゃあ」
声を上げたのは、シンシアだった。
「それなら、なぜ、エラが生きていると断言できるんですか?」
「それを説明するには、エラが生涯の研究の対象にしていたパーソナリティの理論について話す必要がある。彼の基礎的な理論については、もう調べてあるか?」
「おおむね、頭には入ってます」
「あたしたちは、レイが教えてくれたわ」
「究極のパーソナリティを創りだすってやつだろ?」
「その通り。この分だと、どうやら話は早く済みそうだ」
ヘクターは満足げに肯くと、
「レイが話してくれたかどうか、それは分からないが、どんな研究にも発端のテーマと発展段階が必ず存在するものだ。あるひとつの研究は人の一生のようにだんだんと、必ず一定の方向に向かって成長していくようになっている。結果振り返ってみると、それはその研究者の一生を賭けるに値するライフワークになりうるわけだ」
「で? エラの人格理論の研究は何段階あるの?」
「大きく分けて三段階だ。言うまでもなく、それは研究者としてのエラの人生と密接に関わっている」
「やつの人生をおさらいすれば分かるってことだな?」
そうだ、と、ヘクターは肯いて見せ、
「当初、遺伝子研究を進めていたエラは、生物の行動を科学していく過程で、人間の知能を司るパーソナリティの研究に着手し、パーソナリティをデータ化して、22桁のキーに変換して分類すると言う理論を提唱した。これが第一段階になる。幼い頃から数ヶ国語をマスターし、多くの分野にわたって博士号をとり、不世出の天才と噂されながら、エラは孤独な異端者で、自由にその発想を展開する自由も財力もなかった。それがこの時期だった」
「でも、軍需産業と手を結んだことで彼の人生が変わる」
「そうだ。その後、学会での異端の排斥を受け、在野に下ったエラは、今度は元患者で愛弟子のザヘル・ジョッシュと組み、究極の人工知能の開発、すなわち軍事分野に特化した人工知能を作り上げる第二段階の研究へと移行していく。エラはその成果として、TLEの基となるシステムを作り上げ、その原理や理論は解明されないまま今に至っているが、その中途段階で、彼はすでにその最終段階としての計画を企図していたようだ」
「最終段階?」
「ヘリックス、いや、ニック・ラングレーが所持していた荷物の中にエラ・リンプルウッドの書物が入っていたのを、君たちは読んだかな?」
「見つけたけど、内容が難解すぎて理解できなかったわ」
「その書物はどこにあるの?」
「レンタカーの中だ」
思い出したように、マックスは言った。
「君たちが読んだところでたぶん、出来ないだろうな。なにしろ私も完全には出来ない。だから、私が突き止めた範囲で話をしよう。エラが夢想した最終段階とは、神になることだ。神が自分の似姿を土くれで作り上げ、魂を吹き込むことで人間を創生したように、エラもひとつのパーソナリティを完全に自分の手だけで創りあげることを考えた」
「待ってくれ。それは究極の人工知能ってことだろ?」
マックスがあわてて言葉を停めた。
「そんなものは存在しないって言ったはずじゃねえか」
「そうだ、確かに君の言うとおり、究極の人工知能もパーソナリティも、この世のすべてに0から究極が存在するはずだと考える人間の思考のパラドックスが生み出した幻想に過ぎないものだ。それがこの世に存在することは物理的にありえない」
「それなら、どうしてそんなこと」
言いかけて、はっと気づいたのはマヤだった。
「完璧なパーソナリティは存在しないけど、ある一定の傾向のものをより、完璧に近づけることは可能だった。つまり、すでにこの世に存在する人間とまったく同じパーソナリティなら、作ることが出来る」
「そうだ」
ヘクターは、静かに肯いて見せた。
「抽象的に存在するはずの人格を作り上げることは出来ないが、すでにこの世に存在する人格を作り上げることは理論上できなくもない。そう、人間が神の完全な創造物であるとするなら、エラはそのもっとも完璧な贋作を作ることを考えたんだ」
「つまり、今いる自分と同じ自分を創ろうってことか?」
マックスは、耐え切れなくなったように吐き捨てた。
「クレイジーだぜ! 自分の身体を殺人鬼に銃で撃たせてまで、わざわざなぜそんなことをする必要がある?」
「そのことは、それで別にちゃんと理由があることだ。だが、彼が本当にしたかったことは、そんなことではなかった。彼が考えたこと、それは最愛の二人の人間をこの世にもう一度創生することだ」
ヘクターは一葉の写真をそこに放り出して見せた。
「彼が欲しかったのは、失った自分の妻と娘さ」

写真は恐らく、スミソニアン博物館の前で撮影されている。日付は七年前の八月二十五日。そこに、二人の母娘がこちらに笑顔を向けて映っている。母親は薄く栗色に染めた髪に、ふっくらとした頬、女性的な眼差しを持っていた。
エラの風貌と共通点を感じさせる、とがった鼻先に細長いあごを持った七、八歳ほどの娘にも、優しいその眼差しの光は、しっかりと遺伝している。娘の長く伸ばした髪は、艶やかで画面上にも美しかった。エラの妻は、日本人だ。
「異端者と呼ばれたエラにも、その生涯を通じて最大の理解者がいた。それが、講師時代に知り合った自分の教え子で留学生だった、十歳年下の彼の妻のミドリと、彼女の間に生まれたミズキと言う一人娘だ」
ヘクターの写真を見る目には、同じ娘を持つ父親としての憐憫の光が現れていた。
「この写真は、二人が亡くなるちょうど一ヶ月前、最後になった家族旅行の機会に撮影されたものだ」
「二人はなんで亡くなったんだ?」
「強盗殺人だ」
ヘクターは深いため息をついて眉をひそめ、
「この一ヵ月後、エラの出張中、自宅に武装強盗が入り込み、二人を射殺して車で逃走した。犯人は十二時間後に州間高速道路で抵抗、警官隊によって射殺されている。真偽は分からないが、エラはその犯行が、自分が契約している軍需産業の陰謀と決め付けて、疑わなかった。彼は開発の方向性と特許の問題をめぐって、その企業とずっとトラブルを起こしていたと言われていたからね」
「彼はそのときに、今回の計画を考えたと言うことね?」
「いや、恐らくTLEと人工的にパーソナリティを作り上げる計画は、すでに中途で進行はしていた。エラはそれを失われた妻子を再生するプロジェクトに変更し、そのまま自分も消えてしまうことで、計画をそっくり自分のものにしようと画策したんだ。そこで、ザッパーと言うシリアルキラーを創り出し、自分そのものを消してしまうことで、まず姿を晦ますことを考えた」
「じゃあ、ザッパーはエラが創り出したものなのか?」
「正確には、彼がある既存のパーソナリティの中から抽出したものだ。その人物は境界性人格の傾向を持ち、空想で創り上げた架空のヒーローに自分の破壊的な衝動と願望をマップし、いつかは快楽のために殺人を犯すことを夢想していた」
「その彼って言うのは?」
「ザヘル・ジョッシュですね?」
シンシアの言葉に、ヘクターは、そうだ、と答え、
「エラはザヘルの中から、ザッパーと名づけられたその暴力的なパーソナリティを呼び出し、ザヘルとは完全に独立したザッパーと言う存在の輪郭を特定して、それを抽出することに成功したんだ」
「シリアルキラーのパーソナリティを?」
「その通り。もっとも初期に取り出されたそれは、さしずめザッパーの種と言うべきものだった。野球選手になる素養のある子どもが、成長とともに野球に対しての興味をどんどん発達させて、そうなるように、ザッパーの因子も暴力と支配、殺人に関するファンタジーをどんどん肥大化させて殺人鬼になる。
エラはそれを人工的に、より自由に発現させるべく、取り出したザッパーのパーソナリティの要素をザヘルと共通点のありそうなパーソナリティをもった人間を探し出し、まるで時限爆弾を仕掛けるように、注入し、ザッパーとして犯行を実行するよう仕向けたんだ。
パーソナリティは常に、周囲の環境からの影響を受けてある一定の方向に向かって発達していく。肥大化した架空の殺人鬼の種は、宿主のパーソナリティの成長とともに、その存在をあらわにしていき、やがて条件を満たすと、本物のシリアルキラーとしてこの世に顕在化する仕組みになっていた」
「マジかよ」
ザッパーの正体にその場にいる全員は、一瞬、絶句した。
「つまり、こう言うことですか」
もっともショックが大きかったはずだが、シンシアは最初に気を取り直して、口を開いた。
「ザッパーと言う殺人鬼はもともとこの世に存在しない」
「その通り。そして、同時にこう言い換えてもいいだろう」
と、ヘクターは答え、
「全米各地に広がった模倣犯すべてが、ザッパーだ」
「まさか・・・・・・そんな・・・・・・」
ザッパーはザヘルだ。ヘクターの言った言葉は確かに真実だった。
「信じられないだろうが、事実なんだ。ザッパーは最初、ボストン近郊、主にマサチューセッツ州のエラやザヘルの生活近辺で発生したが、それは彼らが出来上がったザッパーを確実に観察して制御するために起こしたものだった」
「すべては、人工的にパーソナリティを創生する実験のためってことね?」
マヤが言い、マックスが補足した。
「自分の身近に犯行の範囲を規定したのは、もっと言えば、経過を観察するための被験者は、自分の周囲で確保するしかなかったからだったってわけか」
「マックスの言うとおり、ザヘルからザッパーを抽出する実験には、次の三つの段階を可能にするためだと考えていいだろう。①あるひとつの既存のパーソナリティから、まったく別の一人格の要素を特定してそれを抽出することが出来るか、②では、①で抽出した人格を、似たような傾向を持つ誰かに植え付け、短期間でそれを発現させることが可能なのか」
「③は?」
マックスの問いに、ヘクターはこう答えた。
「抽出したパーソナリティの重要な部分をどこかにストックすることが可能なのか、と言うことだ。これは計画の非常に重要な部分を担っている。なぜかと言うと、それはエラが、一度自らの生命を完全に絶った後、計画を滞りなく進めるために、復活することが出来るかどうか、その心臓部分となる技術だからね」
「隠されたマナ」
TLEに提示された聖書の暗号。口にしたのは、マヤだった。
「・・・・・・・・白い石の上にまだ誰も知らない新しい名前が書かれている」
「やつが生きている、と言うのはそう言うことか」
「そう、その通り。エラは完全に復活する。彼の他は誰も知らない新しい名前・・・・・・失われた彼の妻と娘の魂を手に入れてね」
ヘクターは熱に浮かされたようにため息をつき、
「これは比喩でも、精神論でもなく、エラの魂は生きているんだ。計画のすみずみにね。ちょうどキリストのように。一度その肉体の生命を絶たれ、土に埋もれた後、完全な復活が来るそのときまで、各地にその片鱗を残しては、奇跡を起こし続ける」
9‐2
「ミドリとミズキ、そしてエラ自身の魂を復活する。言うまでもなく、その計画には、実に膨大な人手とデータ集積、一分の狂いもなく、計画を運営する能力を必要としていたんだ」
食後のコーヒーを用意すると、ヘクターは話を続けた。さっきから誰も食事に手をつけるものなどいない。皿の上には、表面の乾ききったサンドウィッチが、寂しそうに時を待っていた。
「オリジナルの存在するエラのパーソナリティはともかく、ふいの不幸で失われた、愛する二人の人格には、エラの中に刻まれた、主観のヴェールに包まれた断片的な記憶が残るだけで、その再生には他の多くのサンプルデータを収集・分析して限りなく100%に近づけていくための、気の遠くなるような作業が必要になるからね。
そこで、エラは自分のパーソナリティを分割して、それを信用できる人間たちに分け与えた。自分と共通する因子を持つ彼らにそれぞれに役割と使命感を与え、万全な計画の遂行を求めたんだ。それが全米各地に散らばった【代理人】の正体だ」
「【代理人】はすべて、エラだって言うのか?」
「正確には違う。ただ、彼らの中にある役割と使命感が顕在化するように彼らを仕向けたと言うのが正しいところだ。君たちは、何人の【代理人】に接したかは分からないが、彼らは一様に、こういっていたはずだ。おれは変わりたい。おれは新しい自分になる、と」
「確かに、それは聞いた。マルコーも、ラルフもそうだった」
「でも、マルコーは正確には【代理人】ではなかったわ」
「今の自分を否定してまったく新しい誰かになりたい。そう思っている人間なら誰でも計画に引き込めたはずだ。私が確認した限り、全米で五百人近くはいる【代理人】は、オリジナルの十三名の【代理人】と関わって、すすんで協力したものたちだった。ザッパーがあれから全国に伝染していったように彼らも、もともとなるべく素養を持って、それになったものたちと断言していいだろう。
彼らは変わりたがっていた。自分の生まれてきた環境やもともとの性格が歪んだ成長をしていくことによって引き起こした取り返しのつかないつけをどうにか清算したいと。だが、同時にそんなことは不可能だと言うことも分かっていた。そんな彼らがTLEの力を目の当たりにして、かなうはずのない欲望に火をつけられたとしたら、誰にもそれを止めることは出来なかったろう」
「単純な逃避願望や、金銭欲ではないってことね?」
マヤとマックスは同時に嘆息して肯いた。
「理屈や金じゃねえ。その点では、宗教だな」
「否定はしない。科学は、人間がいまだに盲酔している宗教のひとつだからな」
ヘクターはそこまで話すと、温気を失いかけたコーヒーをぐっと飲んで口の中を潤した。
「さて、ここまでの話はいいかな?」
誰も返事をするものはいなかった。ヘクターは、講義に質問がなくて途方に暮れている大学講師のように、首を傾げ、
「なにか質問は?」
と、もう一度聞いた。ショックから覚めやらないように、全員が息をついた。
「話の続きをしてもいいかな?」
ヘクターは、軽くのびをすると静かに話を続けた。
「エラは【代理人】を使い、ねずみ講式に協力者を増やしながら、莫大なデータを収集した。そしてその一方で、そのデータとシステムの管理を、ザヘル・ジョッシュに任せたんだ。エラは彼に、計画にもっとも重要な部分、自分をほぼそのまま分け与えた」
「ザッパーに自分を殺させ、ザヘルのアリバイを完全に立証したのも、エラがザヘルにすべてを託したためだったんですね?」
シンシアの指摘に、ヘクターは肯いた。
「ザヘルが【管理人】だと言うことは、マヤの指摘で分かっていました。ヘリックスこと、ニック・ラングレーがそのカムフラージュとして使われていたことも」
「ああ、確かに彼はカムフラージュだ。だが、ヘリックスはただのカムフラージュとして使われたわけじゃない。彼は、本来、エラの【器】として用意されたものだったんだ」
「【器】?」
「彼は、もともと、再生したエラの肉体としての役割を与えられていたんだ」
考えてもみてほしい、と、ヘクターは言い、
「言うまでもないことだが、システムによってパーソナリティを完全に再現したからと言って、適切な肉体がなければ、それはただの電子情報に過ぎない。ザヘルはヘリックスを探し出し、長い時間をかけて徐々に彼の本来の人格を破壊していった。新しいデータをハードディスクに書き込むために、ディスクを初期化するようにね。それもTLEの計画が整い、すべてが上手くいったときに、新たなエラ・リンプルウッドを再生するために行われたことだ」
「時が来て、ヘリックスはエラ・リンプルウッドになった。だから地下鉄からあのとき、視点が追えなかったのね」
「ヘリックスはすでにそこから掻き消え、エラになっていたってわけか」
「ああ。私がそれに気づいたとき、すでに本物のヘリックスは姿を消し、計画の最終段階に向けて動き出すところだった。ザヘルは私にこう言った。止められるものなら止めてみろ、そのくらいのチャンスなら、まだ残っていると」
「ザヘルは、ここまで真相を見破ったあなたを挑発するために、彼はツインタワー広場に現れた?」
「そんなところだろう。ザヘルはもともと、自尊心の強い男だった。それが、エラ・リンプルウッドの神がかった知性と感性を得て、まるで別人のようだったのを憶えているよ。エラを再生した今、彼らは、ゆっくりと最後の段階へとことを運んだ」
「だ、だがもしそうなら」
と、マックスがそこでヘクターの言葉を止めて声を上げた。
「あんたの話ではエラが復活してからもう一週間近くは経っている。今から、おれたちがやつらの居所を突き止めようとして、どうにかなりそうなことがあるのか?」
やや、沈黙があった。だが、彼は少し間を置いた後、
「ある」
断言した。
「だが、それには君たちの協力が必要不可欠だ」
「あんたが何か方法を持っているのなら、おれたちのうちで異論のある人間はいないだろうけどよ」
「時間がないなら、すぐに実行に移った方がいいわ」
マヤも言った。シンシアはすでに覚悟を決めているらしく、無言で肯いただけだった。
「ありがとう」
ヘクターは言った。
「君たちがその気なら、すぐに方策は打てそうだ」
「これからすべきことは、二つね?」
マヤが言い、全員が肯いた。
「エラとザヘルの行方を捜すこと、それとTLEの本拠地を探すこと」

ヘクターはそれから、パソコンでTLEにアクセスした。ゲージは99%のままだったが、まもなく、100%になるはずだ、と彼は断言した。
「もしこのフォームがなくなれば、TLEやエラを追うすべての手がかりは消える。ここに書かれている通り、新しい名前を手に入れた彼らは、失われた妻と娘の魂を手に入れ、隠されたマナとともに、どこか、誰も知らない場所に逃げ去ってしまうだろう」
「隠されたマナって?」
マヤが聞いた。
「恐らく、金だ」
ヘクターは答えた。
「このTLEのシステム維持、または計画を維持するためには莫大な費用が投入されていると考えられる。それらすべては、エラの私財の他は、TLEのハッキングシステムを使って、稼いだものだ。エラは財団をカムフラージュに、誰にも分からない方法で資産を隠している。新しい自分と自分の家族を手に入れたとき、その逃走資金にするはずのもの、と考えてもいいだろう」
「それで、一千万か」
「その十倍はあるかもしれない。【代理人】たちはそのまことしやかな噂のために、ときには非合法行為に加担し、わが身を危うくしてまでも、失踪者を生産し、データを収集し続けた」
「結局金かよ」
「金と、新しいIDだ。それにTLEが分析を終えた、エラの妻と娘のIDが入っているはずだ。切羽詰っている人間に、これ以上のものはあるまい」
ヘクターの操作で、やがて、ヨハネの黙示録の暗号と四つのフォームが出現する画面が現れた。
「この暗号を解けば、エラたちに迫れるのね?」
「暗号が消えていないから、まだ、間に合うはずだ」
「納得いかねえな」
口を開いたのは、マックスだった。
「だが、【管理人】の存在もカムフラージュだったんだろ? エラはもともと、【代理人】たちにはデータ収集だけの役割を担わせて、他になにも与える気はなかった」
「もっとも優れた魂は、どんな環境下でも、すばらしいその真価を発揮する」
「なんだ、それは?」
「エラの言葉だそうだ」
ヘクターは、マックスの疑問に答えて、言った。
「エラは自分の魂を分割して、ザヘルをはじめとする多くの人間たちに分け与えたが、この点では彼らにある程度平等にチャンスを与えたそうだ」
「【代理人】でも、エラになれるチャンスはあるってのか?」
「自力で真実に到達したものこそ、新しい自分の存在にふさわしいと考えたんだろう。生物の進化は、常に劣悪な環境、下等な階層から始まるものだ」
「つまり、この暗号を解けば、おれたちもエラの求めた真実にたどりつく可能性があるってことだな?」
「そうなるな」
ヘクターは、小さく肯いて言った。
「この暗号の答えを、エラはザヘルにも教えてはいないそうだ。ザヘルの話によると、この暗号の先には、勝者に与えられるべき真実の名前が記されているそうだ」
「エラのすべてが手に入るってわけか。で、それはどこにある?」
「TLEの本拠地ね?」
シンシアが言った。
「根拠はないが、恐らくそうだろう」
「だが、この四つのフォームになにを入れればいいのか、あんたは分かっているのか?」
「ああ、理解はしているつもりだ」
ヘクターは言うと、マヤに預けたカードキーを出すように指示した。彼女がそれを取り出すとヘクターは11桁二列の数字を示して、
「これは私が、シカゴのエラ邸で手に入れたものだ」
「地下鉄にあれを遺棄したのは、あなたね?」
ああ、とマヤの言葉にヘクターは肯き、
「このキーを隠したのはエラだろう。私はこれをザヘルより早く手に入れることが出来、ツインタワー広場で彼から話を聞くときに利用させてもらった。彼によればこの二列の数字は、TLEの暗号を解くためのキーの一部だという」
「だが、二列しかねえぞ」
「確かにそうだ。私は最初、これをエラか、彼の妻・ミドリの【パーソナル・キー】だと考えた。しかし、エラのキーはともかく、彼の妻のキーは、TLEが膨大なデータの分析を経て完成させるもので、まだもともとこの世に存在していないもののはずだ」
「この暗号は別のなにかを示しているということですね?」
「その通りだ。ザヘルはそれをミドリとミズキのキーの一部と思い込んでいたようだ。エラが自分へのヒントのつもりでそれを残していたのだとね。ただザヘルは、どっちにしろ、このままエラの指示に従ってヘリックスの上にエラを再生し、記憶を取り戻させれば、後はどうにかなると指示を受けていたのかもしれない。さして気にしてはいなかった。恐らくこれはエラがこの暗号に関しては、挑戦者たちがほとんど平等になるようにわざと仕組んだものだろう」
「で、あんたはこの暗号を解いたのか?」
「ああ、苦労したが、何とかなったよ」
ヘクターは大きく息をつくと、髪をかき上げ、
「いくつかの要素を考え合わせれば、それほど難しい暗号ではない。エラの計画の順序を追えば、おのずと分かるものだった」
「説明してくれ」
「いいかい」
ヘクターは言い、紙とボールペンを取り出して、左上に①エラと書いた。
「パーソナリティの再生を行うときに、エラはまずザヘルに命じて、自分を復活できるように計画した。今、ザヘルはヘリックスからエラを再生して、リハビリテーションを施し、失われた記憶をじっくりと回復させようとしているところだろう。次に」
今度はヘクターのペンは、エラの文字から水平に右側に移動し、そこに同じ大きさで、②ミドリと書いた。
「行うべきは、妻・ミドリのパーソナリティの再生だ。エラが完全に目覚めたなら、暗号を解くことなく、ザヘルはTLEに到達し、ミドリの再生に従事するだろう。もしかしたらちょうどその段階に達している頃かもしれない。【器】となる女性は、すでにザヘルが用意しているようだった。しかるのちに」
①と②を結びつけ、矢印の先にヘクターは、③と書いた。
「ここに記すべき名前は、誰だかは分かるね?」
「彼らの娘。つまり、ミズキ」
ペンをとって、シンシアはそこにミズキの名前を書き込んだ。
「そう。すべてはこうして再生される。つまり、この順序どおり、彼は暗号を仕込んだ。マックス、二人の男女がいて、その子どもというのは、いったいなにで出来てる?」
「なにで?・・・・・・そりゃあ、たぶん」
「男女それぞれの遺伝子ね」
あっけにとられたマックスに対して先に答えたのは、シンシアだった。
「ヒトを構成する遺伝子の染色体は、46個23対、これらの数は平等に父母の遺伝子から折半して分け与えられる。それらは、肉眼で見える姿にすると、数珠繋ぎになった二本の紐で、これらがらせん状に絡み合った形状が特徴的よ」
「・・・・・・らせん・・・・・Helix(らせん構造)」
ヘクターの言葉に直感して、マヤがつぶやいた。
「【管理人】の名前は、暗号のヒントだったってわけか」
「ヘクター、あなたがカールに渡した暗号は、それを表していたのね?」
ああ、とヘクターはディスプレイ上の四つのフォームを指差すと、
「ここに入る数字の形態は、このカードキーに示されている二つの数列がヒントになっている。異なる個人の【パーソナル・キー】が、交わって、あるひとつの答えを生み出すように設定されているんだ」
「だが、このキーは11桁2対しかない」
「半分足りないわ」
「この四つのフォームは、三つのパーソナリティの再生すべてを現している。つまり、①エラ、②ミドリの過程を経て、③ミズキへ至るまでには、最低何人の人間が必要になる」
「エラとミドリで二人」
「そして、再生されたエラとミドリの【器】となるべき人間」
「二人で計四人だ」
「じゃあ、ここには、後二人の【パーソナル・キー】が入らなければならないってことか?」
ヘクターは、答えた。
「その通りだ。22対の遺伝子を四分割して、キーの半分の11桁を、フォームに入力する仕組みになっている。だから、ひとつのフォームの限界は、11桁ずつの設定がされていて、少なくとも私ひとり分の【パーソナル・キー】を二分割してどう入力しても開かない仕組みになっていた。残る可能性はこれしか考えられない」
「つまり二人の【パーソナル・キー】がないと、この先に行くことは出来ないと言うことね?」
「そうだ。たぶん、これはもしザヘルが裏切ってエラを再生しなかった場合に備えてのことかもしれないが」
「そんなことはどうでもいい。重要なのは、別のことだ。それはあんたのほかに誰か一人、消える必要があると言うことだな?」
「そう言うことになる」
ヘクターは言い、静かに首を振った。
「ここから先はひとりでは無理だった。だから、おれたちを・・・・・いや、シンシアを待っていたのか?」
マックスの詰問に、ヘクターは無言で応えた。
「もちろん、強制はしない。それに断っておくが、今、私が話したことも、私が試行錯誤した上での結論を君たちに話しただけのことだ。私の言うとおりの暗号を入力しても、答えが出ない可能性の方が極めて高い」
「だが、あんたは結局、こうなることを覚悟していて、おれたちを巻き込んだんだ。正直に答えろよ。そうじゃないのか?」
「ああ」
ヘクターは答えた。
「あんたもいかれてるぜ」
マックスは吐き捨てるように、ヘクターを一瞥した。
「確証もなくて、それでも先に進もうって言うのか?」
「私もこの三ヶ月で、エラに取り憑かれてしまった一人だ、それは否定しないよ。エラがばら撒いたザッパーの因子は全米に拡大して、今や、何万人の中に潜んでいるのか、分からなくなってしまった。今のエラやザヘルを確保したところで、彼らにはすでにアメリカ社会に存在しない人間になってしまったし、連邦捜査官としての私の仕事からとっくに方向性を見失っているのかもしれない」
「でも、まだTLEはどこかに存在して稼動しています」
シンシアが言った。
「真実を知る誰かが、それを回収するべきです。それに、エラの研究の全貌を突き止めれば、全米に広がったザッパーの因子を、沈静化させることも不可能ではないはず」
「おい、あのな・・・・・・」
「これはもうわたしたちで決めたことでしょう、マックス」
マックスが何かを言う前に、彼女は結論を口に出した。
「消えるなら、わたしが消えます。ヘクター、あなたの言うとおり、そこにわたしの【パーソナル・キー】を使って」
「消えたら、もう戻れない可能性もあるわ」
「マヤの言うとおりだ。何度も言うが強制はしたくない」
ヘクターも言った。
「結論は変わりません」
シンシアは意志を曲げなかった。マックスは説得を諦めた。
「分かった。君の【パーソナル・キー】を取得しよう。君の協力に感謝する」

そこで一旦、マックスはマヤをつれて、別室に出た。後には、無言のディスプレイの他は、シンシアとヘクターの二人しか残らなかった。昨夜から、ヘクターとは行動をともにしているはずだった。しかし、なぜか今、かつてない沈黙が二人を支配していた。
「コーヒーでもいれよう」
ヘクターが口を開いた。さっきの饒舌が嘘のように、切り出し方がたどたどしかった。
「テストは長い。リラックスすることだ。適切な反応を引き出せない場合は、何度かやり直す羽目になるかもしれないからな」
「そう、長くは時間を掛けていられないわ」
「こう言うときだからこそ、逆に落ち着くんだ」
教師か、父親の口調でヘクターは言った。
「堅実さに結果がついてくる。大事なのは時間でなく、事実を積み重ねることだ」
シンシアの上手い切り返しに、ヘクターは苦笑した。彼女への、いつもの自分の接し方になっていることに今さら気づいたのだ。
「そうだ、もう私は君の上司でもなんでもなかったな」
「いえ」
シンシアは首を振って、
「そんなことはありません。それにもうそんなことは、関係なくなります。だって今に、ここから、シンシア・ハーディ特別捜査官も、消えてなくなるんですから」
二人はようやく無理のない微笑を交換し合うことが出来た。
「不安があったら、言ってくれ。出来る限り、君の話を聞く」
「不安はありません」
シンシアはそのとき嘘をついたと、自分では思った。でも、そこに得たいの知れない不安があったとして、ヘクターにそれを話すことなど出来はしなかった。仕方ないと思った。
「それにもう、迷っている時間もない」
「正直に告白する。君が来てくれることを、私は期待した」
ヘクターは言った。肩の力を抜くように、ため息をついた。
「マックスの言ったとおりだ。勝手な話だが君が必要になった」
もちろん、優秀な部下としての話だ。
「分かっています」
何かを打ち消すように、微笑して首を振ると、シンシアは言った。ヘクターは次になにを話していいのか、一瞬の躊躇を見せた。シンシアの口から、なぜか明るい声が口をついて出た。
「NY支局の駐車場で、エルナに会いました。事情を説明したら、あなたを信頼している、って一言」
「ありがとう。伝えてくれて」
ヘクターは、ほっとしたように息をついて言った。
「彼女には迷惑をかけた。悪い夫だと思っている。ずっとだ。特に今度のことでは離婚することも真剣に考えたよ」
「エルナだけじゃない。ケインとカミラも、あなたのことを愛している。そして、ずっと、帰りを待っているわ」
「そうだったな」
ヘクターはそこで初めてもっとも無防備な笑みをみせた。家庭を愛している男はみな、そうだ。無条件に子どもを愛している。子どもの話になると、彼らは一目散に来た路を引き返していく。だが、それでいいのだ。だからこそ、ヘクターは、ヘクターとしてシンシアの理想の中に像を結ぶことが出来ているのかもしれないから。
「そう言えば、いつか話してくれたな、君の父親のこと」
お馴染みの話だ。シンシアは微笑した。
「任務がどんなに忙しくても、帰ってきた。ソマリアからも、クウェートからも。子どもを祝うためならどこへでも」
「君の父親は、君が捜査官になるのを反対していたと聞いた」
「・・・・・でも、アカデミーの試験に受かったときは、電話口で祝ってくれた」
連邦捜査官になるチャンスを待ち、FBIアカデミーの試験を受けたとき、シンシアの父は国内にいなかった。そのときばかりは南洋で海上輸送の任務ではるか何千キロ彼方だったからだ。それでも、そのときは彼女にメッセージカードを届けてくれた。
「自慢の娘だな」
「いいえ」
シンシアはわざと可笑しそうに言い、首を振った。
「よく言われたほうです。娘の癖に二人の兄たちより、頭が痛くて眠れない日のほうが多いって。たぶん、これも話したと思うけど」
「そうか」
今、見せた表情は、ヘクターにしては気弱な表情だった。気が咎めたのかもしれない。彼の距離感を曖昧にするその気遣いに対して心配は無用だと、彼女は証明する方法が欲しかった。
「早く済ませましょう」
詰まらない迷いを切り払うように、シンシアは言った。
「リプリー・レベッカーは、鋭い。もしかしたらすでに、わたしたちを見つけている可能性もある」
「コーヒーを淹れてくるよ。なにか分からないことは聞いてくれ」
ヘクターは言った。足音と気配が、彼女の背中の方でふっと消えた感触が残った。シンシアはため息をつくと、気持ちのスウィッチを切り替えるために首を振り、今おこなうべき作業に捜査官として集中することに神経を向けた。

「おい」
マックスは、マヤに声をかけた。彼女は振り向きもしなかった。完全にどこかに意識が飛んでいるようだった。そもそも、部屋に用意されていた文庫本や雑誌などを読み、彼女はしばらく時間を潰していた。それがここ一時間ほどは、ずっと窓から外を眺めていた。
「カーテンを閉めろよ。外なんか見るな」
マックスはもう一度、はっきりとした発音で言った。マヤは立ち上がり、カーテンレースに手をかけた。だがそれを閉めることはせず、正確には半分閉めかけたところでまた手を止めて、なぜか、ずっと外を眺めているのだ。
「どうかしたのか?」
はっとして、マヤはマックスを見返った。後ろからいきなり、水溜りに突き飛ばされたような顔をしていた。
「窓を閉めろと言ったんだ。誰が見てるかわからねえ」
「誰かの視線があれば、あたしが見逃すことはないわ」
「上陸地からここは近いんだぞ」
「逆に悪くないチョイスよ。それに時間も稼いでいるし」
ヘクターは用意したランチ係留せずに、沖に流した。たぶん、その捜索で、リプリーは逃走のための時間稼ぎをイメージするだろう。
「それでも警戒してるんだろ? それか他に気になることが?」
「気にしないで。考えてるのは、たぶん、関係ないことだから」
「どう言う意味だ?」
「ちょっと、神経を張りすぎたからかもしれない」
マヤは、ふーっと息をつくと、言った。
「だったら、休むことだ。眠ってろよ。これからは宝探しになる。もっとお前の能力が頼りになるかもしれないぞ」
「そうね」
マヤは窓際を離れた。マックスのいたソファに寝転んで、目を閉じた。マックスは訝しげに彼女のいた位置に立った。
住宅地の裏側、何の変哲もない、小さな芝生の庭だ。まだ若い林檎の樹に、マリーゴールドのプランター、造園をやりかけたような盛り土の花壇の前に、野外用の白い椅子とテーブルが置いてある。風雪にさらされて、色は白とは言えなくなってきている。対面の家は空き家のようだ。どの部屋も昼間から、雨戸が締め切られたままで、庭も荒れていた。マックスは肩をすくめ、きびすを返した。
それから三十分ほどして、部屋にノックの音が響いた。
「集まってくれ。シンシアの【パーソナル・キー】が取得できた」
二人はすぐに、ディスプレイのある部屋に集まった。
「各キーの入力が終わったわ」
シンシアは、マヤとマックスを振り返って、言った。
「あんた、本当に平気なのか?」
「大したことじゃないわ。消えると言ったって別にわたしが死ぬわけじゃないから」
シンシアは、苦笑して言った。
「わたしはガーラントに、自分のデータのバックアップを預けてあるし、ヘクターにしても、他に家族の記録と証明があれば、十分にデータは可能よ」
「ただそれには、TLEの存在が証明できる必要があるが」
「みて。ゲージが100%になってる」
マヤが言った。
「【Complete】の表示が出ているが、フォームは消えていない。ザヘルがヘリックスからエラの再生に手間取っているか、まだTLEの本拠地に到着していないかのどちらかだろう」
ヘクターは指示をした。シンシアは、入力内容をもう一度確認してから、エンターキーにカーソルを移動した。
「間違いないのか?」
「分からないわ」
苦笑して肩をすくめると、シンシアは言った。
「間違えたら、何度か組み合わせを試してみればいい」
彼女はキーを押した。
「失敗だ」
出てきた画面になんの変化もなかったのをみてマックスは言った。
「どうするんだ?」
「組み合わせを変えよう」
「待って」
マヤは言い、画面の下を指した。そこに赤字で警告がある。
「間違いは後二回しか出来ないわ。考えるなら慎重にやるべきよ」
「キーを入れ替えよう」
ヘクターはため息をついて言った。
「縦にか、横にか?」
「斜めもあるわ」
「全部のやり方を試すことは出来ない」
結局、ヘクターのキーとシンシアのキーを入れ替えて、もう一度実行がなされたが、結果は同じだった。
「後、一回よ」
「どうするんだ!」
「落ち着いて、考えよう。このキーでは、チャンスは後一回しかない」
「待てよ。おれは、絶対に消えたくないからな!」
「・・・・・・そうでなくてもあたしとマックス、二人で四時間のロスは痛いわ」
興奮しすぎたマックスを消火するように、マヤは冷ややかな声で水を差すと、シンシアと席を替わった。
「たぶん、基本的な考え方に間違いはないわ」
とりあえず、この場でもっとも冷静なマヤは言った。
「普通に考えてみて、男女というイメージに惑わされると、上か下のどちらかが男女で、後のキーと一致しなくてはならないと考えがちになるけど、ネット上のIDで性別を確認する方法はないし、TLEが二人の【パーソナル・キー】で男女差を認識していたとしても、後ろの二つのキーに性別の区別はないはずよ。それはさっき、ヘクターとシンシアのキーを上下で入れ替えてもだめだったことからも分かるわ」
「ではカードキーの数式二列が先に来るのか?」
「古いIDが左、新しいIDが右を表しているとしたら、その可能性は薄いと思う。だから、ヘクターが推理したとおり、この暗号が、最終段階のミズキ再生のためには、四人のIDが必要だということを表していると言うのは間違いないことなのよ。そしてたぶん、順番はともかく、それは男女二人のIDでなければならない」
マヤは、ふと、後のフォームのカードキー列の項目をクリックしてみた。
「まだ、余白がある」
「本当か?」
「前の二つにはなかったけど、こっちにはまだ、なにかが入る余地があるわ」
「いったいなにを入れればいいの?」
シンシアとヘクターは集められる限りの資料を取り出して検討を始めた。マックスはマヤが操作する画面をじっと見入っていた。彼は目を細めて、なにかを数えているようだった。
「入るのは、二つずつ。なにかが必要になるわ」
「なあ、マヤ、こいつは全部で今、何桁ある?」
唐突に、黙っていたマックスが口を開いた。
「44桁よ」
「本当か?・・・・・なあ、44個だよな?」
「そうよ」
なおも目を細めて、マックスは数字をカウントしていた。
「お願いマックス、あなたも真剣に考えて」
マヤがいらだったように言った。
「ヘリックスだ」
そのとき、声を上げて、マックスが言った。
「そうか! ヘリックスだ。こいつは、ヘリックスなんだ」
彼がおかしくなったのかと、三人ははじめ、思った。
「マックス、突然大きな声を出さないで」
「なにかおかしいと思ってたんだ! やっぱりそうだ」
「どう言うことだ?」
ヘクターが聞いた。マックスは興奮しきった声で叫んだ。
「おれの聞き間違いだったら言ってくれよ! ここには、22対しかないんだ。ヒトの染色体は46個、23対が、らせん状に連なって構成されている。確か、この暗号はそいつを表しているんだろう? 残りは、どう考えてもそいつだ」
「後、二つずつ・・・・・」
マヤはもう一度画面を見てから、目を見開いた。
「本当だ、そうか、なぜこんなことに気づかなかったんだろ」
「二つ、残りの数字はなんだ」
「残りは、数字じゃないわ」
シンシアは言った。そうか、とヘクターも声を上げ、
「遺伝子のうち、22対までは父母ともに固有の遺伝情報を受け継いで成立している。しかし、後の2対は、決定している。性染色体だ」
「男性の場合はXY、女性はXX、その中から優勢なものが発現して、性別が決定していく」
「Helix22+XX」
マヤはカールのポケットに入っていた暗号を口にして、
「最後のXXは、二人のパーソナリティの合成により、誕生したミズキの性別を表している」
「XXとXYだ。入力してくれ。順番はどちらでもいい」
マヤは言うとおりに入力した。マウスのキーに指をかける。
「押すわ」
「やれ。恐らく、これ以上の案は出ないだろう」
「早くしろ」
目で肯くとカーソルを合わせ、マヤは、エンターのキーを押した。

10.隠されたマナからの警告

「どうしてくれるんだ」
リプリー・レベッカーは、携帯電話の相手に向かって憎悪を吐き出した。
「この責任はとってもらうぞ、レイ・ブラックウェル」
『今自分で、しでかしたへまの責任の所在をどこへ持っていこうと、後で困るのは君だけだぞ、リプリー』
電話口の向こうから流れてくる声は、それよりずっと低温だった。
『この件に、条件付で同意したのは彼女自身の希望もあるが、あんたの実力に敬意を払ってのことだ。マヤが無事で帰ってこなかった場合、僕は君を許すことはないだろう』
「それはこっちの台詞だ。後悔することになるぞ」
『強気は結構だが、敵意をぶつける相手が違うはずだ』
「分かったよ。せいぜい、祈ってろ。あの人殺ししか能のない小娘が死体で帰ってこないようにな」
リプリーは、吐き捨てるように言うと、電話を切った。
彼の足元に、青いビニールシートに回収された公園での撃ち合いの犠牲者たちが並べられている。チェサピーク・ファミリーの動きは完全に封じ込めていたはずだった。まさか、あそこであれほど大きな銃撃戦になるなど、思っても見なかったのだ。
だが、なぜ、こいつらは追いついてきやがったんだ?
ワシントンハイツの葬儀屋の駐車場に停められたトレーラーハウスから、マヤとマックスのいた痕跡が出た。やつらはもしかしたら、その線をたどってリバティー島まで押しかけたのかもしれなかった。
「漂流していたボートが見つかりました」
「潮流から、放された地点を割り出せ。やつらは、対岸のジャージーシティに上陸したはずだ。もしかしたら、車で長距離を移動しているかもしれない」
彼らを見失ってから、すでに半日近く経っている。ヘクターの接触は、TLEが最終段階に入ったことと、恐らく関係して起こっている。100%になったTLEはまだ消えてはいないが、謎を解いたものが、確実に動き始めていい時期だった。マヤやシンシアを操り、ヘクターを泳がせたまではよかったが、ここで裏をかかれたのはかなり痛すぎるミステイクだ。
「どいつもこいつも」
はやばやとゲームオーバーして退出した男たちは、安らかな顔でのうのうと眠りについている。銃撃戦で死んだマフィアたちの身分を洗い、チェサピークがイタリアに逃亡しないうちに引導を渡してやろうと、リプリーはひとりひとりの顔を改めている。
彼が顔面を撃ちぬいたアーリー・ウィルダムスの遺体の前にきたとき、リプリーは静かに足を止めた。
この男の顔を、リプリーはよく覚えていた。たぶん、ウージーを乱射するこいつに構わなければ、まだヘクターたちを追撃することが出来たかもしれなかったのだから。後悔の追憶に浸っていると、次の瞬間、彼は首を傾げた。あの突然の銃撃戦が始まったとき、最初に響いた銃声は、確か、この男のものではなかった。
国際テロ組織を相手にしているリプリーには、その銃声は、ギャングが使いたがるウージーより聞き覚えがあった。あの発射音は自動小銃のものだ。印象に過ぎなかった記憶が、リプリーの中でそのとき具体像を結んだ。他のアサルトライフルの音とは違い、軽く乾いた音がするのは、AK47だ。
つい三日前に入隊した少年兵でも扱えるほどシンプルで凶悪な、ゲリラの心強い味方。リプリーが撃ち殺した男の隣で、自動小銃を乱射していた男が、最初の狙撃弾を発射した。その背の高い男の顔を、リプリーは思い起こした。
彼は、もう一度、すべての死体を一から検分しなおした。
「チェサピーク・ファミリーで顔が分かっている人間のリストをすべて洗い出せ。今、すぐにだ」

州間高速道路を一台のアコードが飛ばしている。青白いススキの穂畑が盛大に風に揺れる田舎のハイウェイにさっきから、すれ違う車は一台もなかった。
ハンドルを操っているのは、マックスだった。隣にマヤが座っている。後部座席には、ひとりも座っているものは見当たらなかった。
「まさか、こんなことになるとはな」
マヤがさっきから眺めているプリントは、暗号を解いた先の画面を出力したものだった。そこには大きく亀のレリーフの石版が印刷されており、ヨハネ黙示録2節7が印字されていた。本文の【白い石】の部分にアンダーラインが引かれ、そこからリンクが可能になっている。彼女が持っているもう一枚のプリントは、それを印刷したものだ。
「MORINO・・・・・・その下に数列がついてる」
「またかよ」
アルファベットと数字を読み上げたシンシアの隣で、ヘクターは数字をメモして考えている。
「モリノ? これは場所かしら、それとも」
「エラの妻、ミドリの旧姓だ。漢字ではどう書く?」
ヘクターは、マヤからペンを受け取って、その下に『森野』『杜野』『守野』など、いくつかのパターンを書いた。
「たぶん、これは彼女の実家がある場所を示している。7桁の番号はもしかしたら、住所か電話番号かもしれない」
「だとしたら、ネットで日本の住所に検索をかけてみる」
「待て」
ヘクターは言うと、自分の用意したファイルの中からエラの身辺に関する項目を探し出して、
「モリノ・・・・・・・この家なら、ホッカイドウにある。日本の最北端にある地域の名前だ。すぐにネットで地図を調べて渡そう。【白い石】・・・・・・・確か、ここには、ミドリが眠る先祖代々の霊園があるはずだ」
「墓石がある場所を調べろ、ってことか?・・・・・日本の?」
「そんな場所にTLEが本当にあるのかしら?」
「エラは日本に、土地や資産をもった形跡はない。その線はありえないだろう」
ヘクターは言った。
「だが、たぶん、その墓石にTLEの所在を記している。勝利を得たものにあてられる、新しい名前への手がかりが」
「二手に分かれる必要があるわ」
シンシアは言った。
「状況から考えて、わたしとヘクター、マヤとマックスが妥当ね」
「そうだな。IDをもたない私たちは、国内を逃亡しながら、君たちの連絡を待つことにする」
「あたしたちは日本のその場所に行って、それを確認する役ね?」
「無駄骨ってことはないだろうな」
「だが、少なくとも、それ以外の可能性はもう検討しつくしたはずだろう?」
ヘクターの手配で、二人は西海岸にチャーター機で移動することにした。西海岸から国際便に乗り、日本へ向かう。
「それまで、わたしたちは囮役を務めておくわ」
シンシアは、言った。ヘクターも苦笑して、
「もはや名前も身分もない元・捜査官だ。出来る限り、リプリーを惑わしてみせるさ」
「ザヘルとエラの動きは、その間、野放しか」
「ザヘルの消息の線もまだ切れていない。ミドリとミズキの【器】になるべき人間が、どこかにいた痕跡が残っているかもしれない。そこからも探ってみよう」
こうして、時間と場所をずらしてヘクターたちは北へ。マックスたちは南へ。それぞれ、別ルートで移動を開始した。
「ザヘルが日本にいるって可能性はないのか?」
マックスはヘクターの言葉を思い出した上で、マヤに聞いた。彼女は指に挟んだボールペンの先で自分で書いた、モリノの漢字表記をなぞったりしている。
「可能性はなくもないけど、ザヘルはエラ自身を再生することが出来る以上、そちらに重点を置いて暗号には興味を示さないと思う」
「だが、TLEの本拠地が分からなければ、再生は完全には行われない可能性だってある。TLEが再生に成功したミドリとミズキのキーは、暗号を解いても結局現れてはこなかった。ザヘルがそれを手に入れるのには、やはり暗号を解くしかないんだ」
ヘクターの見解では、これはザヘルが万が一、自分の意向に沿わなかった場合のためのエラの防御策の可能性が高いと言う。
「エラの再生に成功しても、ザヘルが彼を裏切った場合と、ザヘルがヘリックスにエラを完全に再生できなかった場合の二つの保険策としても、暗号は機能しているわ」
「よく、考えたもんだ。しかし、わざわざ、日本までとはな」
「エラは、すでに大きなリスクを負っている。それを考えればこれくらいの用心は、決して行き過ぎじゃないと思う」
「自慢じゃねえが、おれは生まれてから、一度もニューヨーク州を出たことがねえんだ。マヤ、お前が日本人で心の底からよかったと思ってるぜ」
「あたしをあまりあてにしないで。一応断っておくけど、あたしが日本人なのは、人種だけよ?」
「冗談はやめろよ」
マックスはめまいがしそうになりながら、言った。
「漢字が書けるんだ・・・・・・日本語は出来るんだろうな」
「中国語なら、いくつかは話せるけど」
マヤの答えに、マックスは目を丸くした。
「いい加減にしろ」
からかったのか、マヤはくすくすと忍び笑いを漏らして、
「漢字の読み書きと日常会話くらいは、出来るから安心して」
マックスは、西海岸に着いたら、すぐに英語表記の日本地図を探すことを決意した。
二人は、ティム・フィンクスと言う名前の男が持つ私設飛行場に向かっている。ニュージャージーの州境にある森の中に、その飛行場はあると、ヘクターは言った。
「この男は、大丈夫なんだろうな」
マヤは無言で肩をすくめた。林の先に私有地の看板と壊れかけたフェンスがあり、草を刈り取って砂で均しただけの、簡易発着場があった。そこに一台のプロペラ機が着陸していてドアが開いたまま、エンジンの切れた機内は無人だ。見たところ中にいた誰かは、発着場脇に建てられた小さな小屋で待機しているのかもしれなかった。
「場合によっては、強硬手段に出るかも。注意しておいて」
マヤは車を降りる前になってはじめてマックスに警告した。
「なんでだよ?」
「ヘクターが向こうにどう持ちかけたかは分からないけど、ティム・フィンクスは、あまり油断の出来ない人物だから。コロンビアのマフィアとまで、喧嘩したくはないでしょ?」
「おれから喧嘩を売ったことはないぜ。いつも、お前次第だ」
それにしても、早い到着だ。約束の時間の二十分前に到着したことを確認して、二人は飛行場に降り立った。
「行こう」
「先に言って。あたしは周囲を確認してから、行くから」
「どうかしたのか?」
昨日から、マヤはなにか様子がおかしいとマックスは感じていた。
「別になんでもないんだけど・・・・ちょっと嫌な予感がするの」
「なぜだ? なにか根拠でもあるのか?」
「経験上よ。たぶん、職業病だと思う」
「おい、お前はもう、テロリストじゃないんだろ?」
「そう言えばね」
マヤは苦笑して、
「大丈夫よ。安全を確認したら、あたしもすぐに行くから」
「おれひとりに交渉させる気じゃないだろうな」
ぶつぶつ言いながらも、マックスは彼女を信頼していた。小屋に向かって歩くマックスの背中で、マヤは反対方向の森を、確認しに行っているようだった。
それにしても、妙だとは、彼も感じ始めていた。マヤになんとなくを指摘されなければ気に留めることもなかったろうが、人の気配がしないように思えるのは、滑走路のプロペラ機だけではなく、この小屋も同じだ。丸太と板だけで作られたそれは、農場の古い納屋か、休憩小屋と言った雰囲気で、四人人間が入れば、いっぱいになるくらいの規模だ。ドアのない内部を外から見ると、同じくらい老朽したテーブルと椅子が置いてあるのが辛うじて見える。ちょうど、反対側に抜けるドアは締め切られたままだった。
マックスが視線を落とすと表の入り口のステップに、泥と砂で汚れたいくつかの新しい足跡が入り乱れているのが確認できた。南米から東海岸に上質のコカインを運ぶ密売人の代表者とその取り巻きが、つい最近ここに押しかけたことは、やはり確かに思えた。
だが、先に到着した彼らが、武装と威嚇をこれみよがしに切羽詰った西海岸の逃亡者たちを出迎えると言う構図が実現しなかった理由は、マックスがゆっくりと小屋の中に足を踏み入れたときに、一瞬で理解することが出来た。
そう言えば随分前から、古くなった穀物類と肥料、かび臭いその匂いに混じって、獣くさい血の匂いが漂っていた。その悪臭の中で、ティム・フィンクスはすでに冷え切った汗の滲んだそのひげ面に蠅をたからせても、逆上ひとつせずに交渉相手を待っていた。
心もち右に傾けたあごの下の伸びた首筋が太い動脈ごと見事に裂かれていて、生乾きの傷がまだ鮮やかな断面をみせてそこに開いている。マックスは吐き気を催して口をつぐんだ。
ティム・フィンクスは、予定を大幅に変更して先に別の場所に旅立っていたのだ。
両手を後ろ手に縛られ、南米の極悪人が、罪深い自分に対する最期の審判を、弁護人すら立てることもせずに無抵抗で受け入れたその背景には、連れてきた屈強な二人の部下が、銃を抜くことも出来ずに、あっさりと殺害されたと言う事実があったようだ。揃って6フィート半近いサイズの彼らは仲良く、ナイフで喉をえぐられて、ハンガーから落ちた帽子とコートのようにだらしなく崩れて壁に縫いつけられていた。
嫌な予感。
彼女は、一足早く、遺体を見たのかもしれない。今、目の前の惨状ほど、はっきりとしたむごい光景ではなくとも。この空間を支配しているなんらかの異様な空気が、彼女に危機を感じさせたのだ。
「マヤ!」
マックスは、小屋の入り口から背後を振り返った。
10‐1
その頃、マヤは背後のブナ林に停車してあった一台のSUVに、目を留めていた。エンジンはすでに冷え切っている。状況からして、自分たちが到着するかなり前から、ここに車があったことは確かなようだった。滑走路の飛行機と、どちらが早いのかどうか、それは分からない。しかし、問題は自分たちが来るより早く、別の誰かがここに到着している、ということだ。
マヤは背後を振り返った。林の向こう、ちょうど、マックスが小屋から出てきたところだった。切迫した様子で、辺りをうかがっている。やはり、なにかあったのだ。それも予定外の事態が。
ふと、マヤが車から目を離したそのときだった。
背後から急に飛び出してきた巨大な何かが、背中から彼女の身体を包み込んだ。分厚い圧迫感から、マヤは即座に鍛え上げられた筋肉の感触を感じた。強烈な力は、マヤの利き腕と頭部を巻き込み、ものすごい力で締め上げてくる。あえぎながら相手を確かめようとした彼女は、自分のあごの辺りに入りこんだ強靭な右手首に、まだ包帯の新しい傷があるのを発見した。
「名前を尋ねているなら、ヴィンセント。下はギャロップだ」
胃液くさい男の口が耳元で囁くようにマヤに告げた。チェサピーク・ファミリーの構成員。アーリー・ウィルダムスと現れた陰気な背の高い男の冷めた瞳が脳裏に浮かんだとき、身体が軋むほどの力で締め上げられ、マヤは嗚咽を堪えて顔をしかめた。
落ち着き払った声とは裏腹に、ヴィンセントは渾身の力をこめて、彼女の上腕と頸を締め上げてきている。利き腕をとられ、マヤの自由になるのは左手だけだが、懐の大きいヴィンセントが足を後方に踏ん張っているために、急所の睾丸まで手が届きそうになかった。体重をかけて、そのまま膝をついて相手を仰向けに寝かせることで、技は完全に極まる仕組みになっている。
「遅かったな。完全に、待ちくたびれた」
骨と筋肉の軋む音の中で、マヤはヴィンセントの声を聞いた。返事をするかわりに彼女はかすかに唇を震わし、何かを発音した。なぜここに、そう言っているように。ヴィンセントにそのうめきが聞こえたらしい。だが、なにを聞こうと、すでに逃げ場はない。残忍な笑みで応えた。華奢な彼女の腕ごと頭をねじ切ろうとするように、ヴィンセントは力を込め直す。
だがその瞬間、なぜかヴィンセントの頭に突き抜けるような激痛が走り、叫び声を上げながら、彼は思わず腕を放した。その隙に彼女は、ヴィンセントの鼻に後頭部を叩き込んで立ち上がっている。
「なにをしやがった」
めまいがするような激痛の中、彼は自分の左の耳の穴に深々と、ボールペンが突き立っているのを、なんとか手探りで発見した。痛めた首と腕を押さえ、肩で息をしているマヤを、ヴィンセントは血走った目で睨みつけた。
ペンは鼓膜を破って、敏感な神経層にまで侵入し三半規管を引っ掻き回していた。それを無理やり引き抜いて力いっぱい投げ捨てると、鼻から血を垂らし、ヴィンセントは口から反吐も吐いて叫んだ。
「ぶっ殺してやる」
相手にせず、マヤは懸命に呼吸を整えながら、袖のナイフを抜いた。ヴィンセントは腰に刃渡りの大きい軍用ナイフを差しているのを抜いて、片手で構えたが、素手でのリーチからしても、差は歴然としている。
腰を低く落とし、うかがうような視線を返したヴィンセントは、右手のブレードを威嚇するように誇示して、一気にマヤを切り刻むべく、頭上から狙ってきた。
パワーも体重差も、リーチも獲物の強度も歴然としているだけに、攻撃は一方的になった。力任せに腕を振り回してハックしてくるヴィンセントの刃をマヤは、フットワークを使ってどうにか凌いだ。必要以上に距離をとる分、攻撃のチャンスはまったく見込めない。
ただ、マヤの動体視力と身体の身のこなしの速さに、ヴィンセントはひそかに驚いた。ほとんどの武道の達人がそうであるように、彼女はモーションが始まるより、一瞬早く読んでいるのだ。
わざと空振りを誘って、体力の消耗を狙っている。ヴィンセントはなんとなく気づいてきた。圧倒的に不利なこの状況でそれがそつなくこなせるのは、視線を読んでいるため。
視線で心理状態を読み、相手の呼吸を計って、次のモーションのタイミングを察知している。そのためか、ヴィンセントが攻撃の意志をみせるその間合いから、モーションの起動前から読んで身体ごと退き、稼動が完了する一瞬前にまた入り、小競り合いを繰り返してくる。とは言え、マヤの短い刃先は、相当な間合いを詰めなければ、ヴィンセントに致命傷は与えにくい。こうなると体力勝負で勝ち目はなく、ヴィンセントに圧倒的に有利だったが、ここでもう一人敵を控えている彼は一気に早期決着の方を選択した。
蹴り足で地面の砂を浴びせて、踏み込んだヴィンセントは、手首を返して、マヤの顔を払うように切り上げた。狙いは目だ。右手のナイフと甲で顔を庇いながら、マヤは攻撃をスウェーしたが、刃が左目蓋を傷つけて、血が目に入る。遠近感を奪うことに成功した彼は、勝利を確信して、今度は喉を狙って一直線に突いてきた。
問題は彼がマヤの片目を残しておいたことと、彼女が非常に特殊な能力を、自分の兵役期間を超えるほど極限状態で鍛錬した、ということを知らないことだ。
次の瞬間、普通なら、彼女は喉をえぐりぬかれてほぼ即死状態で地面に倒れこむはずだった。
だが身体ごと体当たりに出ず、稚拙な突きで勝負に出た彼の切っ先は、左に受け流されて、その手首と上腕をがっちりとロックされた。そこまでなら、彼の怪力と体格がまだ、小柄な彼女を十分封じ込めて、無理やりナイフで頸を掻くことが出来たかもしれない。
だが、ヴィンセントの体勢の崩れを狙って、マヤのしなやかな両足が一瞬にして、その上腕から肩あたりに毒蛇のように絡みつく。重力と梃子の原理を味方につけ、足でヴィンセントのあごを蹴りつけると、腰の回転とタイミングを利用して一気にその腕を稼動不能にした。
稼動域の広い球体で接着されている腕が肩関節から外れ、右ひじから筋がねじ切れる音を、ヴィンセントは激痛とともに聞いた。それでもなんとか上体の筋肉だけで、彼女を振り払おうとするヴィンセントの胸に、技を解いた彼女が反対側の足で固定しながらのしかかり、首筋に血と脂で濡れたナイフを突きつけたとき、完全に勝負はついた。マヤは息をつくと、今度は大儀そうに口を開いた。
「もう二度と、あなたとやる気はないわ」
「ここにはもう、誰もいない」
ヴィンセントは嗚咽をこらえ、吐き捨てると首を振ってみせた。
「お前らは逃げられない」
「誰?」
もう一度、さっきつぶやいたことを、マヤは口にした。
「あなたをここに呼んだのは? フィンクス?」
ヴィンセントは失笑しただけだった。話す気はない、と挑戦的に睨み返した視線を、マヤはじっと見つめ返していた。
「くたばれ」
答えのかわりに、ヴィンセントは頸を自らナイフに押し当てた。肉を断つために鍛え上げられたナイフは、皮膜を突き破り、その中に走っている動脈を乱暴にぶち切った。血が、頬に飛び散ったが、彼女は一糸乱れることなく、その能力で断末魔のヴィンセントの最期の意識を、時間を掛けて読み取っていた。
「分かったわ。あなたの言うとおり」
それで十分だった。マヤは、読み終わった彼の瞳を閉じて言った。
「ここにあなたを呼んだのはフィンクスじゃないってことね」
その表情には珍しく、驚愕と恐怖の色が走り、出来る限りの大きな声で背後にいるはずの相棒の名前を呼んだ。
「マックス」
振り向くと、同じ場所にマックスの姿が見えなかった。複数のエンジン音とタイヤが砂埃を上げる音、逃げ道を数台の頑丈なブラックのハマーが塞いでいく。
やがて小屋からマックスが出てきた。両手を頭の後ろに置いて、不自然な姿勢をとっていた。背後に誰かがいる。彼の背中に銃を突きつけている。
聞きなれた怒鳴り声が、森に隠れたマヤの耳を打った。
「いいか、よく聞け。出て来い、隠れても無駄だ」

カーラジオの臨時ニュースが、ネブラスカで発見されたザッパーのものと思われる犠牲者の存在が確認されたことを、新たに報じている。
「次はカンザスか」
ヘクターはつぶやいた。
「・・・・・どんどん、無差別に増殖していく。もうとめられる方法はないの?」
「ザッパーはウイルスじゃない。空気感染したりするものではないし、最終的に殺人まで至るのには、さすがに適性がある。エラとザヘルはそれをよく見極めて、まず慎重にザッパーとなる人間たちを選出したのだろう」
「なんのために?」
「カムフラージュ。私たちも含めた真相に近い人間の捜査を振り切るためもあるが、恐らく、必要なデータを効率よく集めるための一手段でもあっただろう。TLEが欲しがるサンプルデータは、突然失踪しても、誰も不審に思わない人間ばかりじゃない。その意味では、もしかしたら、ザッパーこそがエラの最大の【代理人】なのかもしれんな」
シンシアは、ローワーイーストの画廊でビル・バートンを殺害した、模倣犯の男の顔を思い出していた。あの男は忠実にザッパーの手口を模倣し、まるでそうすることを命じられたように、ビルの上から飛び降りて死んだ。そう言えば、追跡中に自ら死を選んだのは、あの模倣犯が初めてだった気がする。
「日本でなにか手がかりが見つかればいいけど」
「CIAとマフィアの追跡を振り切って、日本へ行くのはかなりの無茶だが、我々に残された手段はもう限られている。私たちに今出来ることは、せいぜい、いい囮を演じることだ」
ニュージャージー州を大きく北に、マンハッタン島を通り抜けて、ブロンクス市街をヘクターは経由する。このままベイサイドに車を走らせ、彼はまずハートフォードを目指しているように、シンシアには思えた。
「心配するな」
ヘクターは言った。触れずにいたことは分かっているが、それは無用だという口調だった。
「家族のもとに、寄る気はない。彼らにはちゃんと、終わってから話をするつもりだよ」

マヤは抵抗することはなかった。両手をあげて、ゆっくりと茂みの中から出てきた。人形のように病的な白さのその頬と、服に返り血を浴びていた。凄惨な姿に誰もが一瞬沈黙した。
「なにか持ってるぞ。回収しろ。絶対目を離すな、慎重にな」
二人がライフルを突きつけ、もうひとりが慎重にマヤに歩み寄った。まるで見透かしたかのように彼女は、それを男の足元に向かって放り投げて見せた。ナイフだ。まだ新しい血と脂で濡れていた。手錠をかけたマックスを引き渡し、銃を突きつけながらリプリーはマヤに近づき、地面から拾ったそのナイフを受け取った。
「他にも、なにか持っているか調べろ」
血まみれのアーミーナイフは大振りで、もちろん、彼女の持ち物ではなかった。
「先客は後ろよ。ナイフは彼の」
「知ってるさ。ヴィンセントだろ?」
リプリーの言葉を遮るように、マックスが言った。
「フィンクスたちを小屋で殺したのは、あの男だ」
「チェサピークの手下よ。あなたたちはリバティー島から逃げた彼を追ってきたのね?」
「ああ、確かに凶暴な男だ。お前ほどじゃないにしてもな」
否定も肯定もしないという態度で、リプリーは、マヤに手錠をかけると二人を並ばせて、言った。
「レイ・ブラックウェルがいなければ、お前などすぐに銃殺刑にしてやるところだ」
「別にそうされても、あたしには拒む権利はない。すればいい」
「二人足りないと言ってるんだ。死にたくなかったら、ロンバードとハーディの居所を吐くんだ。お前たちが、コロンビアのけちな運び屋にすがりついて、ここからどこへ高飛びしようとしていたかもな」
「話すと思うか?」
リプリーはマックスを睨みつけた。
「うすうす感づいていると思うから言ってやる、おれたちはハズレってやつだ、リプリー。ヘクターは、確かにあの最後の暗号を解いた。だが、それはおれたちにはなんの関係もないことだ。この意味が分かるか? あんたもつくづく、くじ運の悪い男だってことさ」
「口の利き方に気をつけろよ、マックス。敬うという行為は、動物でも出来ることだ。たとえ、スペルを知らなくってもな」
はったりは、ききそうにない。マックスは唾を吐いた。リプリーはその足元に一発、銃弾を撃ち込んだ。
「忘れるなよ。カールもスヴェンナも、おれの手の中なんだ。今から、二人を地獄に突き落とすことだって電話一本で出来る」
「マックスの言うとおり、あたしたちは囮よ。ほとんど、なにも知らされていないわ」
マヤが言ったが、もちろんリプリーは取り合わなかった。
「いらない方から殺す。個人的にはお前だが、まずは家族想いの立派なお兄さんからだ」
片手に拳銃、反対の手に携帯電話を示して、リプリーは言った。
「最初の決断だ、マックス。今ここで、洗いざらい話すか、それとも誰が死ぬか、今すぐ決めろ。カールか? スヴェンナか? お前の命でもいいが、そうなると残った三人には、ひどい拷問を受けてもらう必要があるぞ」
マックスは無言で首を振った。振るだけだった。決断の言葉は、口から出てこなかった。後を一押し。リプリーが追い込む。
「まず、妹からがいいだろう」
「・・・・・・やめろ」
びりびりと痛む頭を押さえながら、マックスは言った。
「おれの家族に手を出すな。巻き込むな」
「なら、決断しろ。そもそも、お前たちはヘクターにはなんの義理もないんだ。そうだろう?」
その瞬間、手錠をしたまま、マックスはリプリーの顔面に両拳を叩きつけようとした。リプリーは半身を開いて攻撃を受け流し、バランスを崩したマックスのあごに、膝蹴りを喰らわした。ひざまずいたマックスの顔をさらにつま先で蹴り、砂埃にまみれてあえぐ彼に、リプリーはさも残念そうにため息をついて、照準を合わせた。
「一人目だ」
「待って」
そのままリプリーは怪訝そうに、マヤを見た。
「あわてるなよ。次はお前が同じ目に遭うんだ」
「話すわ」
「マヤ」
「あなたの言うとおり、ヘクターは暗号を解いた。その内容も知ってる。それにあたしたちも、ただの囮なんかじゃない」
「まあ、せいぜい、おれを信用させるような話を作ることだ」
「あたしなら、ヘクターが今、どこにいるかも分かる」
「お前にその気があればの話だ」
「取引よ。マックスと彼の家族に危害を加えた場合、あたしはたとえ殺されても、いっさい協力はしない」
眉ひとつ動かさず、マヤは言った。
「マヤ。馬鹿なことを言うな」
「おかしいことは言ってないわ。取引よ。・・・・・・誓ってもいいけど、今、確実にヘクターはTLEに近づいている。追うなら、残された時間はかなり少ないと考えるべきよ」
「・・・・・・いいだろう」
銃を引き、リプリーは言った。長い沈黙の後だった。
「話せ。まず、ヘクターがお前たちをここにやった事情からだ」
「言うまでもなく、それは暗号を解いたから。あたしたちはその答えに従って、西海岸から海外へ飛ぶつもりだった」
「そいつはどこだ?」
「日本よ。そこにエラ・リンプルウッドの妻子の実家と墓がある」
「場所は?」
リプリーは話に引き込まれて迫った。話すな、とマックスは首を振った。それを一瞥してマヤは、小さく息をつくと、
「あなたがそれを知る必要はないわ」
「この期に及んで、駆け引きとはいい度胸だ」
リプリーは怒りを噛み殺して苦笑すると、
「ひとり殺そう。そうだ、お前の目の前にいるやつが手ごろだ。この分だと、その方が話しやすくなりそうだからな」
「あたしは、嘘はついていないわ。交渉相手としては、むしろ誠実よ。あなたがそれを知る必要はない」
「ほざいてろ」
「TLEの本当のありかは、日本に行っても判るはずがないわ」
「なんだと?」
リプリーは銃口を倒れているマックスに向けていた。しかし、撃つ前に、マヤの言った言葉が彼の動きと殺意を止めた。
「これも事実よ。マックスやあたしを殺せば、ヘクターの居場所は永久に分からなくなる。今、彼が向かう場所こそ、TLEの本当の在り処」
「なにを言ってる?」
マックスもリプリーと同時に、声を上げていた。はじめて、聞いたのだ。嘘だろ。思わずそうつぶやくマックスの態度に、リプリーは話の信憑性を確信し、静かな声でもう一度、彼女に聞いた。
「だから、マックスがはじめから言うとおり」
「まさか・・・・・おい、馬鹿言うな」
本当の嫌な予感。その正体を察知してマックスは首を振った。
「暗号の答えはヘクターの創作だった」
マヤは、残念そうに首を振ると、はっきりと言った。
「あたしたちは、本当にただの囮よ。彼は嘘を言った。断言してもいい。ヘクターはすでにTLEの所在を突き止めている」

「ヘクター」
ついに、耐えかねてシンシアは言った。ハートフォードの市街地に入ったところまで彼女は口にすまいと考えていた。ヘクターは、さっきから明らかに自宅に向かう道順をとっていたからだ。
「家族のことを考えて。これ以上は危険よ」
ヘクターは忠告を無視し続けた。無言でハンドルを握り、地区のメインストリートを西に、彼の家がある住宅街の一ブロックに向かっている。シンシアは何度か来て、よく知っていた。この道は、エルナがケインを学校に連れて行くための道だった。
「引き返して。どこへ行こうとしているのか、もう分かってる」
坂道を登って角を曲がれば、自宅のある地区に入る。人気の比較的少ない一角の、雑木林の中の三軒の角が彼の家族の住む家だった。シンシアは、その前にハンドルを停めさせた。ヘクターは仕方なく大きな銀杏の樹のある路肩に道を寄せた。
「行っても無駄よ。やめて」
どうしてだ、と言うようにヘクターは彼女を見た。止むを得なかった。シンシアは、無闇に話すなと言われていたことを、話した。
「あなたの家族は、今、ここにいないわ。ガーラントに頼んだの。エルナもケインもカミラも、カナダに引っ越した。事件の証人の家族としてカナダのケベック州で保護されてる」
「そうか」
その言葉を聞いて、ヘクターはハンドルに顔を伏せると、大きく息をついた。なにか、肩の荷が下りたかのように、もう一度深く、息をついた。
「もう少しよ。事件が終われば、必ずまた、みんなに会える」
無理もないのは分かった。ヘクターが今まで通ってきた道のりはまさに、エラにとり憑かれたような日々だったに違いない。捜査の重責から解放されたと思ったら、それから三ヶ月も彼は家族と連絡すらも取りあっていなかったのだ。
「・・・・・・そうだな」
ようやく、と、ヘクターは言った。
「これで、どうにか決心が着いたよ」
「マヤたちからは、たぶん、当分連絡はない。まずは、エラがもといたマサチューセッツ州まで足を運ぶ予定のはずです」
「州を越えて、朝までには着きたいところだな」
ヘクターは、ハンドルから手を離すと大きく伸びをして言った。
「やはり少し休憩をしよう。君の言うとおり、ここから離れたほうがいいだろう」
「運転を替わる。少し休んだほうがいい」
ドアを開けて、シンシアは運転席側に回ろうとした。この辺りは、ひどく閑静なエリアだ。工場や研究所に勤める人間が多いせいか、時間によっては、人通りは皆無に等しく、この昼間も子どもが遊ぶ声も聞こえなかった。ヘクターに促されて、運転席に入ろうとしたとき、彼女はひとつの疑問も持ってはいなかった。ただ、ヘクターがなぜこの場所に車を停めたか、と言うことは別にして、この辺りは本当に、人目につきにくい場所だと言うイメージをちらりと思い起こしただけだ。
ヘクターに抱え込まれ、運転席に肩を押し付けられたとき、記憶に残すことが出来たのは、晴れ渡って澄み切った秋の空だけだった。それ以外はショックで動転していて、他人事のようにしか思えなかった。まるで映画を見ているように、誰かの手が乱暴にシンシアの呼吸器を塞ぎ、窒息しそうな緊張とあえぎ声の中で彼女は意識を失わされた。彼女にとってそれはわりと長い時間でも、実際は、本当にただの一瞬だったに違いない。シンシアは、声ひとつ立てずに気絶し、それが誰にも気づかれなかったのだ。
とりあえずの成功を見届けたヘクターは、息をつくと静かに作業の続きを再開した。彼女の身体を抱きかかえて、ゆっくりと、後部座席に運び、まずはトランクからプラスティック製の拘束で丁寧に彼女の手足の自由を奪った。
窒息しないように気を遣いながら、念入りに口に粘着テープを貼り、寝袋のようなものに包むと、シンシアの身体を、トランクに静かに置いた。置いたとき、少しこぼれた彼女のブロンドの後ろ髪を、ヘクターはいとおしそうに撫でると、そっと袋の中に入れなおす。まるで美術品を輸送するケースを扱うように、ヘクターは、大事そうにトランクを閉めた。

「最初に言っておくが、今この場を切り抜けようと言うはったりなら、やめておくことだ」
「もしそうなら、もう少し信憑性のある嘘をつくわ」
頚動脈を断ち切られたヴィンセント・ギャロップの遺体が草むらから運び出されてくる。飛行機で到着したフィンクスたちを殺害したのはやはりこの男だ。それを見たとき、マックスの口をついて出てきた言葉は、直感的に物事の本質を言い当てていた。
「ヘクターがおれたちをハメた? 信じられるわけがねえ」
それにしてもこの男だけがなぜ、リバティー島から、自分たちを追いかけてくることが出来たのか。彼女の主張が事実でないにしても、思い当たる節はなくはない。半信半疑のマックスを一瞥して、マヤが言った。
「だけど、信じられないことの方が事実なの」
リプリーは何も意見を差し挟まず、とりあえず聞く姿勢をとった。
「ここに現れたことだけじゃない。彼らのことについては過去に遡って疑問が尽きないわ。なぜ、ヴィンセントと、アーリー・ウィルダムスは、あたしたちの前に現れたのか? リバティー島だけじゃない。地下鉄から出てきたときもそうよ。彼らは、あたしたちの居場所を確実に追跡してきた」
「やつらだって切羽詰ってはいるぞ。お前なら、マフィアの情報力の強さを、知らないわけじゃないだろう?」
「リプリー、あなたも薄々感づいているはず。だからこそ、ヴィンセントが生存していたら、必ずあたしたちに到達するだろう推測して、ここまで彼を追いかけてきたんでしょう?」
「確かに、やつはリバティー島から陸路をたどって、ニュージャージーに入り、単独でお前たちを追いかけてここにやってきた。その間、どこかに立ち寄ったり、情報を集めたりした形跡はなかった」
「マフィアの情報網が優れているにしても、これほど短時間で、あたしたちの動きを追うことは、まず不可能よ。結論はひとつ。彼らには、ほぼリアルタイムであたしたちの状況を把握できる直接的な情報源が存在する」
「つまり、お前たちの中に常に裏切り者がいたため、そう言いたいわけか」
「ヘクターが裏切り者? だがなぜだ? なぜそもそも、おれたちをはめる?」
「それは、分かりきったことでしょ」
マヤは、静かな口調で言った。
「彼自身がエラになるためよ」
「TLEを探し出し、莫大な逃走資金と新しい身分を手に入れるためか」
「まさか」
「いや、むしろ無理のない話だ」
リプリーは驚愕から覚めたが、むしろこれで納得したというように肯いた。
「手の届くところに望むすべてがあったら、誰だってそうする」
「と、すればそもそも、ヘクターは裏切り者でもなんでもないわ」
マックスだけが信じられないというようにまだ首を振っている。
「ただ最初からほとんどすべての状況を俯瞰して、それらを自分に都合よくコントロールできる立場にあっただけのこと。エラじゃない、彼もまた、あたしたち一人一人をパズルゲームのように、状況に合わせて組み合わせてきたに過ぎない」
「私も、お前たちも、チェサピークも、やつの手の中で踊らされていたわけか」
「だからそれはいったい、なんのためにだよ? ヘクターが暗号を解いたのなら、すべてを独り占めして逃げればいいだろう?」
「逃げるのには邪魔が多すぎるだろう。本来、TLEはおれたちを含め、チェサピークや他の【代理人】たち、なによりザヘルがいる。最初からエラを手に入れることが出来る立場にいるザヘルを最有力候補とすると、彼は二番手か三番手だ。なにを犠牲にしても、策を弄そうと考えるのも無理はないさ」
「それだけじゃないわ。あたしたちを巻き込んだ最大の理由、それはヘクターの手中にすでにある」
「なんだそれは?」
「思い出してマックス」
マヤは大きく息をつくと、言った。
「あの暗号は、ひとりじゃ解けはしない。男女二人のIDが必ず必要になる」
彼女の言葉にマックスはここでようやく思い当たってはっとした。
「おい、まさか・・・・・・・ヘクターの目的は」
「どう言うことだ?」
「そう、彼の目的ははじめから、シンシアよ」
二時間後、リプリーを連れ、マヤたちは潜伏していたジャージーシティの隠れ家に到着した。彼女はそこで庭を掘るようにリプリーたちに指示をした。マヤが指定した場所はちょうど、彼女がマックスと待機中に眺めていた、庭の花壇の辺りだった。
「いったい、なにが出てくる?」
「ヘクターは暗号を試行錯誤したと言った。各数字の組み合わせは、恐らく何度かそれを試さなければ出来ないものよ。例えば、あそこに入れるIDは男女二人でなければならないはずだ、という推定に対しての結論を彼はどこで手に入れたの?」
「やつはエラ自身になれるくらい、エラを追った」
「キーの縦横斜め、前後の組み合わせ、すべてを試すことは出来ないと、彼は言ったわ。でも、同時に彼は、他の可能性は試したとも言った。でもすべての可能性を試した上でしか、これは言えない台詞のはずよ。そもそもヘクターひとりでは、推測した答えの組み合わせが正しいかどうか、確かめることは出来ない」
「協力者が必要だってことになるな。それもおれたち以外の」
「ヘクターは最終的には、シンシアを一緒に連れて行こうと考えた。あたしたちやリプリーを十分に利用して彼女を事件の渦中に惹きつけた上で、チェサピーク・ファミリーをもコントロールして効率よく、彼女だけを連れ去る段取りをつけてね。そのためには、ヘクターはなりふり構わずすべてを犠牲にする必要があった。暗号を解くために、今さら知らない女性のひとりやふたり、犠牲にしたところで、恐らくなにも不自然な点はないわ」
「見つけたぞ」
スコップを使っていたリプリーが言った。二人は、庭に大きく掘られた穴に近づいた。遺体の腐敗が早まるようにアルカリ性の化学肥料を混ぜた粘り気のある土から、泥と芝に塗れて、若い女の顔の一部と手がのぞいていた。それから、土をのけて身体を露出させる。衣服はつけていなかった。しかし、年恰好や人種に、シンシアと共通する点が多く発見できた。
「遺体の眼球は無事?」
「ああ、無事だ」
遺体の目蓋を持ち上げてみて、リプリーは肯いた。マヤは言った。
「紙と、スケッチが出来る道具を用意して」

11.無慈悲な真実を追って

ヘクターの足取りはジャージーシティからまた、ふっつりと消えた。見事と言うほかない足取りの消し方だった。彼は最初から、囮になるつもりはまったくなかったようだ。マヤたちは携帯電話にもコールしてみたが、その発生源はまったく特定できなかった。
「やつは、シュメリットの携帯電話を持ってるんだ。CIAとSSの電話は盗聴も逆探知も不可能になってる」
リプリーが苦々しげにつぶやいていた。
マヤは遺体の眼球から、いくつか断片的に残った印象を黙々とスケッチしている。ヴィンセントとの遭遇で、ナイフで片目を怪我している彼女は、いつもより集中力が続きにくく、作業が困難になっているようだった。
最初に分かったことは、彼女が殺害されたのが、この邸宅に着くずっと以前でのことらしいと言うことだけだ。彼女のもっとも最期の記憶は室内で、恐らくそれらは、エラの別邸のうちのひとつかと思われた。マックスたちと分かれて、この頃、すでに三十時間以上経過している。リプリーはそこから逃走範囲を割り出して、圏内の別邸を捜索する用意を始めた。しかし、ヘクターがどの方角に向かったのか判明しない以上は、追跡は後手に回らざるを得なかった。恐らくそれらの別荘に警戒を張る頃には、すべてを持ち去って、ヘクターはとっくの昔に、そこからいなくなっているに違いないのだ。
「どうするんだ」
マックスはさっきから、スケッチに集中しているマヤのところへ無意味に何度も足を運んでいた。彼らはクイーンズのランクス製造所にあるリプリーのアジトで、リプリーと連絡を取り合っていた。
「落ち着いて。リプリーの短気が移ってる、マックス」
「短気は生まれつきだ」
吠えついたマックスを、マヤは迷惑そうに一瞥して、
「ヘクターは本気よ。もし、今の機会を逃したら、二人は永久に見つからないわ」
「ヘクターはシンシアが目当てだった? どうしてだ?」
「古い自分が持つしがらみを捨て去って、新しいものすべてが手に入る。今まで生きていた自分が自分じゃなくなる。そしたら、たぶん・・・・・・・なんでも欲しくなるわ。もし、今の自分の人生で、愛することを許されない人でも」
「そういうもんか?」
「あたしは、なにも持っていない」
マヤは、クロッキーを置くと肩をすくめて答えた。
「そう思ったことがない、だから、本当には分からない。でも、たぶん、そうだと思う。例えばあなたにも、今の自分の中で変えたいことはあるでしょう?」
「ああ、だが全部じゃない」
「全部なら、普通は取り返しがつかない。だから、自制心のある人ほど心の奥底に強く封印しているものよ。ヘクターのように、強い精神力をもった捜査官なら、なおさら」
「それが、自分の本来の立場を失って暴走したってことか?」
「理解できなくはない」
「悪いが、おれには理解できねえ。立場なんかくそくらえだ」
「だったら、大切にした方がいいわ。家族だけじゃなくて、あなた自身をね」
家族に会うんでしょ? 小さな声で言うと、マヤはマックスの顔を見据えた。
「お前だって」
分かってる。マヤは顔を伏せた。さっきの言葉は自分自身に向けた言葉で、自戒の意味もあったのだと、マックスは思った。
「・・・・・まあ、助けてくれたことは感謝してるよ。それに・・・・・暴走しすぎたことも認める。悪かった」
「・・・・・リプリーと取引をするには、それなりの信憑性が必要だったわ。その点では、あなたがいてくれて本当に、助かったわ」
マヤは照れくさくなったのをごまかすかのように言うと、出血が完全に止まった左目の眼帯を外して、またスケッチに戻った。やがて、リプリーが続報を持って現れた。
「北だ。やつは北に逃げた。それらしい車が特定できた。エラの行動範囲からも考えてマサチューセッツ州、コネチカット州、ニューヨーク州のどこかにやつは向かったと考えていいだろう」
「あたしが足跡を追うわ。彼の視線を追えば、どこへ行ったか、判るかも」
「後、時間はどれくらいあると思う?」
リプリーが聞いたが、二人の見通しは暗かった。
「ただもし、ヘクターがエラの人格を受け継いだとしたなら、シンシアにも同じことをする可能性は高い。そうなら、ある程度の時間はかかるはずよ」
「いずれにしても、やつも出来る限り急ぐはずだ。最後のチャンスになる。追いつくには、こいつを解くしかないだろう」
マックスが取り出したのは、ヘクターが残した最後の暗号のプリントだ。マヤがスケッチをしている間、彼はそれをずっと眺めていたが、はかばかしいアイディアは得られなかった。
「やはりな」
リプリーは、モリノに一列の数字が書かれた紙を、怪訝そうに眺めて言った。
「やつらは合衆国内を出られないはずだ。つまり、日本じゃないことは判るが」
「ヘクターはTLEに細工は出来ない。だから、解釈の仕方を変えて、おれたちをミスリードしたんだろう」
「これは?」
リプリーは、ヨハネ黙示録の暗号が書かれているプリントの余白の書きこみ文字を指差した。それはマヤが試みに書いたもので、モリノを知る限り、日本の漢字に変換しなおしたものだ。
「あたしが書いたものよ。少しは漢字も書けるから。でも、ヘクターがエラの妻・ミドリの実家のファミリーネームをすぐに突き止めたから、無駄になったけど」
いくつか書かれている同じ音の漢字のうち、森野をペンで丸く囲ってある。これはミドリの実家のファミリーネームが、この文字であることを示しているらしい。丸から伸びた線は、コネクトして、黙示録の一節の中の『隠されたマナ』の文字のアンダーラインに続いていた。
「隠されたマナ、と言うのは、このモリノのことか?」
ぽつりとつぶやいたリプリーに、二人はなぜ今さらそんなことを、と言う風に顔を上げた。
「ここにアンダーラインがある。暗号の答えはそこからリンク出来るようになっていたんだな?」
「そうよ。それがなにか?」
「モリノは名前だ。だが、これが、ミドリの本来のファミリーネームなら、白い石の上に置かれた【新しい名前】にコネクトすべきじゃないのか?」
二人は、はっとした顔をしたが、なにも意見は言わなかった。
「隠されたマナ、マナとはなんだ?」
「聖書での意味を言うなら、マナは、イスラエルの民が荒野の旅で飢えをしのぐために神から奇跡的に与えられた食物」
「今のところ、食べ物に関係した何かは出てきていないな」
「分かりきってる。そこにすべてがある。エラはその意味をかけたに過ぎない」
マックスが耐え切れなくなったように反論した。リプリーは確かにそうかもしれない、と断ってから首を振り、
「別の意味もあるはずだ。でなければ、わざわざこの暗号文上からリンクできるように設定してある意味がない。必ず、これがヒントになっているはずだ」
「なら、辞典でも調べりゃいい」
「パソコンで検索をかける」
しかし、どのエンジンにも答えに該当するものはなかった。
「どうする。手は尽くしたぞ?」
マックスが皮肉げに、リプリーを見やった。
「やっぱり的外れだ」
「まだ諦めるのは早い」
その間にスケッチを完成させたマヤがそのとき、声を上げた。
「なんだよ」
「この暗号文では、マナは日本文字になっている。もしかしたら、日本語かもしれない」
「日本語が分かるのか日本人?」
リプリーが揶揄するように聞いた。
「少しならね。とにかくやってみましょう」
今度は、日本語での検索が実施された。
「あった」
マヤは、ヒットしたその項目を指差した。
「マナ・・・・・・『真名』、True name=【真実の名前】、つまり漢字のことを指してる。日本では古来、チャイナから輸入した漢字を公式な表記である『真名』、そこから崩し字として発生した非公式の文字を、【仮の名前】、つまり、『仮名』として区別した」
「つまり、これは漢字を示しているんだろ? モリノってのは、つまり、森野、エラの妻の実家のファミリーネームの書き方でいいんじゃないのか?」
「Hidden mannaは、隠されたマナだけど、逆にマナによって隠されていると解釈することも出来るわ」
マヤは自分の言葉に直感的に閃いて、声を上げた。
「そうか、つまり漢字で隠されていると言うことか・・・・・」
「だが、どうやって?」
「漢字は、表意文字よ。だからアルファベットと違って、一文字一文字に意味がある」
マヤは森野と言う文字を分解して、『森』と『野』を分けると、
「Morinoは、アルファベットで音だけ表記すると、それになんの意味もなさないけど、森と野に分ければ、それぞれ違う単語になる。ここに表されているのが、日本の地名ではないとするならば、これらを英語に変換しなおすことで、マナ=真名によって隠されている本当の意味が見えてくるはず」
辞書ツールを使って、リプリーはそれらを英単語の意味に検索しなおした。
「モリは、【Forest】、野は【Field】だ」
「フォレストフィールド? そんな地名あるのか?」
すぐに三つの州で探したが、該当する地名はなかった。
「やっぱり、違ったか」
「いや、発想は悪くない。実際に、【Field】のつく地名は多い。だからたぶん、上の解釈が少しずれているんだ」
「森で連想するものを、もう少し考えてみる?」
「木とか、葉っぱとか・・・・・・後はキャンプとかか?」
「いずれにしても、これが地名だとしたら、続く数列はそれに関するなにかを現しているはずだ。住所や番地かもしれないし、またはGPSの座標かもしれない。やつの別邸リストから検索してみる」
リプリーが立ち上がって別室に指示を出しに行っている間に、辞書を引きながら、二人はいくつか打ち込んでみた。ウッドフィールド、リーフフィールドなどを入れてみたが、ヒットすることはなかった。
「まだ、候補はある?」
「急に言われても難しい」
マックスは連想が尽きたのか、さっきから別の資料を裏返してみたりしている。たまたまみた資料で、思い出したように、
「そう言えばエラの妻や娘の名前は、英単語に変換できるのか?」
「漢字が分かれば調べられると思う。ただミドリはカラーのことよ。Green=緑色のことね」
「エコ団体が大喜びしそうな名前だ」
言いかけて、マックスは、瞬間はっとして思い直した。
「森は、緑だ。グリーンフィールドで検索してみたらどうだ?」
ちょうどそのとき、リプリーが新情報をもって入ってきた。
「ハートフォードだ。やつはハートフォードで別の車に乗り換えた。レンタカーの記録がある」
「あったわ。ヒットした」
マヤの声に、マックスは驚きの声を上げた。
「本当か?」
「どこだ?」
「マサチューセッツ州グリーンフィールド、ニューハンプシャー州との州境」
マヤは指差した。川沿いに、小さな町がひとつある。航空写真では、地形はほとんど森の中だ。
「ハートフォードからは、九一号線を北に約三〇マイル」
「そこだ」
「山荘よ。もしかしたら、ここはエラの名義から外されてカムフラージュされているかもしれない。彼女がみた現場の風景はこれよ」
マヤは、完成したいくつかのスケッチを手渡した。

12.何もかもが彼を狂わせた

破風のついた格子窓の外は、スギの大木が立っている。深い森の呼気が朝は霧になって深く立ちこめるせいで、幹のささくれだった皮は、サーモンの剥き身のように鮮やかな色合いにずっと湿気を保っている。時折、野鳥が鳴く他はなにも聞こえない。
風景は上層階のもの。マヤがスケッチした中にある風景とアングルも、雰囲気もぴったりと一致していた。ヘクターが殺害した誰かが最期にみた風景はここで、ひっそりと今でも時を待っているのだ。
シンシア・ハーディは長い昏睡から覚めた今も、泥のようなまどろみから抜けられずにいた。腕が痺れ、身体がじっとりと汗ばんでいる実感だけがある。どれくらいの時間かは分からない。ただひどく長く現実認識も意識もなく眠っていたことを理解し始めてきた。
彼女の感覚では、もう何年も寝ていた感じだ。十歳くらいの少女に戻って、五年生と八年生を一回ずつやり直したような、そんな気がしていた。さして特別でない、日常的なことも含めてさまざまな過去の思い出さえも、その気の遠くなるような長い時間の中で、ほぼリアルタイムで再体験した気がしていた。
もっとも印象的な記憶は、ビーチで父親とはぐれたときの記憶と、彼が任務でクウェートに三ヶ月、長い出征に出なければならないときの記憶が混濁した、不思議なものだった。父親がロングアイランドビーチで彼女を見失ったのは、シンシアが六歳のとき、クウェート行きを見送ったのは、確か彼女が思春期を過ぎてからのことだ。
いずれのときも、取り残された気持ちが、同じ色をして彼女の中に仕舞いこまれていたものだ。六歳のシンシアは泣きながら二時間必死で父親を探し、思春期のシンシアは自室でどこか裏切られた想いに沈んでいた。
混同したのはそのせいかもしれない。楽しい時間が去った後の、がらんとした部屋の静寂。耳を塞ぐようなその音を、シンシアは覚えている。そうだ、ちょうど今のような、ぼんやりとした、厖大な空白感なのだ。
シンシアは、薄く目を開けた。薄暗いその部屋の風景が、急に浮かび上がってくる。本当に見覚えのない、部屋。彼女が身体を横たえているシーツの感触も、湿った空気も、まったく彼女の身に覚えのないものだった。いったい、なにが起こったのか。自分は今までどこでなにをしていたのか。この曖昧な気分の中では、まともな思考が作動しそうにない。それはさっきからずっと、頭の上あたりにある温かな色の光が、彼女の考える力を奪っているせいに思えた。
足元でドアが開いた気配がした。そこに、静かに何者かが立っている。まだ半分、少女期の夢の感覚の中にいるシンシアは身体を起こそうともしなかった。これもまた、夢の続きのようにすら、思えていたからだ。音もなく、ベッドサイドに近づいてきたその姿を、シンシアはぼやけた視界の中で確かに見た。
暖色系の明かりに照らされてたたずむ影は、ようやく開きかけたシンシアの目の下にこぼれた涙の跡を拭い、彼女自身の影が自分であるかのように、そこにじっとしていた。かすかなうめき声が、彼女の唇からこぼれた。それは言葉にならない言葉の痕跡だった。
「心配しなくてもいい」
影は、シンシアの漏らした言葉の正体を、聞かなくても理解しているというように、優しい声で、言った。
「大丈夫だ。私なら、もうどこにも行かない」
それとは裏腹の冷たい感触が、シンシアの裸の腕に直接走った。素肌を滑ったそれは、シンシアの肘の静脈を探り当てると、まるでシンシアの中から何かをこっそり盗み取ろうとするかのように、血管の中に入り込んできた。痛みは、一瞬で消えてなくなるものだ。そこから何を奪われたのか、考える間もなく、彼女はまた眠りに落ちた。その生暖かい昏睡が、シンシアから奪い去られていったもののせいであることを、彼女は知ることも出来なかった。

次に目覚めたとき、シンシアは全身にかかる負荷の具合が変化したことに、首の痛みで気がついた。背骨の中間から下半身のあたりがガタガタと振動し、より強い衝撃が、彼女に今の状態を自覚させた。ベッドに仰臥した姿勢から、シンシアはキャスターつきの椅子に座らされている。冷え込んだ地下室の廊下のような、かび臭い場所をまさに運搬されている最中なのだ。
試みに手首を動かしてみる。皮革と金属の冷たい感触がした。両足も同様。この姿勢で許されている自由はほとんどない。振動の正体は、ごつごつとした石造りの床とそこにしつらえられた磨り減った急な階段の段差の感触だ。そこに至ると、彼女の椅子は手早く後ろ向きにされ、シンシアは背中から引きずり込まれるように、地底に降りていく。がたん、と一際大きな音がして、それに見合った強烈な衝撃を感じたとき、シンシアの意識は完全に現在に立ち戻った。
「やあ、おはよう、シンシア」
短い挨拶が、彼女の頭の上から聞こえた。シンシアは瞳だけを動かして、この地下室の主の顔を仰ぎ見た。
「君だけをここに呼びたかった。はじめて案内するよ。ここが、エラ・リンプルウッドの秘密の場所だ」
「ヘクター」
戸惑いを懸命に押し隠しながらシンシアの視線は、彼の顔と自分の今の状態を行ったり来たりする。冗談だ、と彼がこの趣味の悪い趣向を引き上げてくれるのを期待したが、薄暗い闇に沈むヘクターの表情からは、彼女がヘクターについて知っている、なにものの感情も読み取ることは出来なかった。
「トチ狂ってる」
ヘクターは、口角だけを持ち上げて言った。
「今の君は、そう言いたいだろうな。だが、冗談でもなければ、トチ狂ったわけでもないよ、シンシア。知っての通り、なぜなら、私はもうヘクター・ロンバードではないんだから」
「分からない」
それだけ言って、シンシアは首を振った。目の前の現実すべてを否定するように。
「欲しいものがすべて手に入る。そのチャンスをみすみす見逃す人間がいると思うかい?」
「あなたはヘクターじゃない」
「そうだ。よく分かっているな。ならば言うが、君も、もうシンシア・ハーディじゃない。分かっているはずだ。とにかく、話は中でしようじゃないか」
うきうきするような口調で言い、ヘクターはキャスターを押し始めた。シンシアは、抵抗を試みようと考えたが、今の状態では無謀なことを、彼は十分に理解していて、別に止めなかった。
ところで彼女は白い、入院着のような貫頭衣を着せられている。これからの自分の運命を悟って、切なげに顔を歪めて暴れるシンシアと、その様をまったく相手にせずに悠々と車椅子を押すヘクターは精神病患者とセラピストの構図そのままだった。だがこの場合、どちらが正常なのかは、彼が目指すドアの先にあるものを見てからでないと判断はつきそうになかった。
「まずは君に謝らなければならないことがある。私はこの場所に最初にある人物に連れてきてもらった。その人物とは、君たちFBIの特別捜査班が長い間、探していた人物のはずだ」
その人物が何者か、シンシアはすぐに察しがついた。
「そう、ザヘル・ジョッシュだ。彼は私よりずっと前に、この場所を知っていたみたいなんだ」
彼は言うと、ポケットからあるものを取り出した。廊下の果てには、硬く閉ざされた分厚いステンレスの二枚扉が控えている。脇に設置されたカードリーダーに、ヘクターはそれを通すと、シンシアの膝の上に使ったカードを置いてみせた。マヤたちが地下鉄で見つけた二列の数列が刻印された例の黒いカードがそこにあった。
「だが、ここに入るキーを私に先に奪われてしまった。彼は私に取引を持ちかけてきた。私に計画のすべてを話すことと、その計画に私を参加させることだ。彼はそれにやむをえなく応じた」
嘘だ、そう言うように、シンシアは首を振り続けた。
「その後、私は、ロングアイランドのエラの別邸で、シュメリットを殺し、彼の身分を奪ってリプリーの追跡を振り切ると、ザヘルと合流したわけだ。それからはずっと君たちの近くにいて、君たちが追いついてくるのを待っていたというわけだ」
ドアを押し開け、ヘクターはキャスターごと、シンシアを部屋の中に運び入れた。百年以上前の不潔な地下道から一転して、繊細な科学設備を管理することが可能な最先端のラボが、そこに広がっていた。
「もっとも苦労したのは、やはりザヘルに先駆けて暗号を解くことだった。エラを再生させたはいいがその断片的な記憶から、あの暗号の正しい答えを探し出すことは、並大抵の苦労ではなかったよ。さまざまな試行錯誤があり、実に多くの犠牲があった」
部屋は大きくわけて、四つに区切られている。最初のフロアから、二つの道が分かれていて、右のひとつは大きなモニターのある機器で埋まった部屋でそれがTLEの本体を制御するものだと思われた。ヘクターはシンシアを連れてその前を横切り、反対側の通路に出る。
そちら側はタイル張りの生物実験をするような部屋で、ステンレスの大きな手術台に、完璧な医療設備や器具が用意されている。その手術台の上には、カバーがかけられており、そこに安置されているなにかがそれで隠されていた。
「このゲームの勝者は新しい、真実のエラになれる」
ヘクターは宣言するように言うとシンシアを椅子ごと自動で動くその台の脚のところに置いて、目の前でカバーを取り除けてみせた。シンシアの眼下にちょうど四十代半ばを過ぎたほどの全裸の女性が横たわっているのが見えた。エラの妻・ミドリと同じアジア人種だ。
「彼女がミドリの【器】になるはずのものだった。医療的技術に言うと、グラスゴースケールでコーマレベル3、この意識レベルでは、もはやなにをしても目は覚ますことはない。彼らはこれに、22桁のコードで解析したDNAのパーソナリティに関する特異な配列情報を注入していくことで、失われた人格をもう一度再生しようとしたんだ」
ヘクターは目を見開いている彼女の両眼に手を翳したが、遺体のようになんの反応もない。
「結論から言うと、彼らは敗北した。空の器になにを注いでも、結局なにも起こらなかった。彼女は狂った化学実験の哀れすぎる犠牲者に過ぎないわけだ」
ヘクターは別の部屋から、カートを持ってきてその女性を乗せかえると、カバーに包んで隣の部屋に運び入れた。なんらかの処置をしているらしく、しばらく戻ってきそうにない雰囲気だった。
一人にされたシンシアは、部屋にまだ人の気配が残っているのが気になった。彼が向こうでなにか作業をしている間、近くでぼそぼそと人の声が聞こえ続けているのだ。シンシアが視線をめぐらすと、手術台の奥に、二人の男が彼女と同じように椅子に座らされ、放置されているのに初めて気づいた。
二人とも髭も髪の毛も伸び放題だったが、一人はザヘル・ジョッシュで、車椅子に拘束されたまま死亡しているのが、肌の褪色からも見て取れた。さっきから、うわ言のようにぶつぶつとつぶやいているのは、隣にいるヘリックスの方だ。
首吊り死体のようにうな垂れて、うつろな目をしたヘリックスの声は、小蝿の羽音より聞き取りにくい音量で、かすかな声を発し続けている。耳を澄ませたシンシアは、それが暗号の数字の組み合わせであることが分かって、愕然とした。もはや誰も聞かないと分かりきっていても、エンドレスリピートを設定されたプレイヤーのようにヘリックスは一定の同じフレーズを、吐き出し続けているのだ。
「・・・・・・縦と横のキーの組み合わせは・・・・・それぞれ、DNAのらせん構造を模した形にキーを配列し・・・・・・・」
「ヘクター!」
ヘクターは青いビニールシートをもって戻ってきた。そして、二人の男の前に立つと、用済みのものたちを手際よくシートで覆って隠した。
「あなたがなにをしたいのか、わたしには分からない」
ヘクターは、本当になんでもないことを話すように言った。
「単純な話だ。狂った実験は終わった。二人で金と新しい身分をもらって逃げよう。不可能なことじゃない。私にだって、エラの遺したやり方に従えば、ある程度のことは出来る。見ただろう? ビル・バートンを殺害したチャールズ・ロッパーは、私がザッパーに仕立て上げたんだ」
熱に浮かされたように、声を上げるヘクターをシンシアは悲しげに見つめ、首を振るだけだった。狂っている。そんな次元の問題ですらなかった。
「すべて満たされた、新しい生活が始まるんだ。ノーと言う人間はいないさ」
「・・・・・・・・・・」
「君の返事を聞いていないな。はっきりと、私によく分かるように言ってくれていいんだぞ?」
「あなたの分かるように言ってあげるわ」
どうにか毅然とした気力を振り絞り、彼女は、声を出した。
「はっきり言って、答えはノーよ」
シンシアは断固として言った。
「考えてみたまえ。私と君は、今、ヘクターでもエラでもなければ、シンシアでも、ミドリでもないんだ。難しいことじゃない。すべて変われるんだぞ」
「ヘクター、聞いて」
「神は、優れた遺伝子の持ち主にだけ新たな環境を与える」
「わたしは、そんなこと望んでない」
「君が望まなくなったのは、ただ、諦めたからだ。私も諦め、君を諦めさせた。だから」
「あなたは間違ってる」
ヘクターの言葉を押し返すように遮って、シンシアは言った。言葉とともに涙があふれた。
「気づいて」
「・・・・・・・・・・・」
「お願い」
ヘクターは無言のまま泣き腫らして、顔を赤らめているシンシアを見つめ続けた。わかった、すまなかった。彼がそう言ってくれることが、シンシアの望むことだと彼は分かっているはずだった。しかし、腹立たしげなため息ひとつ、それがその想いを打ち消した。
「あと、二時間やろう。ここを引き払う準備をする」
シンシアはヘクターの本意が理解できないというように、彼の顔を見上げた。
「君の答えが、そのとき変わらなければそれでいい。今の君をここで壊して、またもう一度、私が創り上げよう。創るより、壊すことは遥かに簡単だ。時間がすべて解決してくれることを祈ろう。非常に残念だが、今は仕方ない」
「ヘクター」
シンシアの声は、もう彼には届かなかった。彼はもはや一度も振り返らずに去っていった。ヘクターがなにを踏み外したのか、それが彼女もよく分かっているだけに、悲痛だった。すべてはこの狂ったゲームが、人間をありえない方向に導いたのだ。

13.そんな目で見ないで

鳴るはずのない、玄関の呼び出し音が鳴ったとき、ヘクターは回収したエラの資産のうち現金化した五百万ドルを鞄に詰め、その他逃走に必要な書類の整理をしているところだった。
二時間後、シンシアの答えを聞きだしたあと、TLEは処分する手はずになっている。本体のシステムを完全に始末しても、設計図や関連資料があれば十分に、商品にはなると彼は考えていた。エラがザヘルと開発したオリジナルが消滅したと分かれば、むしろそちらの方が値上がりするのではないかと、彼はひそかに踏んでいた。
それにしてもここは山奥の一軒家だ。突然の訪問者に居留守を使おうとも最初は考えたが、ヘクターはやはり出ておくことにした。ここから消える前には出来るだけ自分の手で、厄介ごとの種は潰しておきたいというのが、彼の本音だった。
マガジンを装填して、ハンドガンを腰に挿した。何度も鳴り響く呼び鈴に舌打ちを漏らし、インターホンのカメラから訪問者の顔を確認する。ヘクターはその顔をみて、一瞬、驚きの顔を浮かべた。そこに立っていたのが、マヤだったからだ。マックスとニュージャージーに囮に残してきたはずの彼女が、なぜかそこにいたのだ。それにしても、なぜここまで? 
ありえないことではない。驚愕で表情をこわばらせた後に、ヘクターはそう考えを立て直した。カメラに映っている様子では、彼女は一人だ。明らかに重傷を負っている。
彼らを始末するにあたって、ヘクターは周到に罠を張った。ヴィンセント・ギャロップに情報を流すとともに、ティム・フィンクスにも無事に離陸したら、どこかで始末をつけろと、十万ドルの報酬を提示して依頼してあった。そのどれもを切り抜けてなお且つ、彼女がここまでヘクターを追ってくることは限りなくありえないことだが、可能性はゼロではなかった。SSELの追跡能力の素晴らしさは、三ヶ月一緒にいた自分が一番よく分かっている。たぶん、この場合の居留守は逆効果になるはずだ。
ヘクターは慎重に、だがさりげなくドアを開け、彼女の姿が本当に一人であることを確認してから声をかけた。
「マヤ、なぜここが分かった?」
ヘクターの声を聞くと、マヤは全身から力を抜くと大きく息をつき、肩を落とした。
「すべて、筒抜けだったわ」
「まさか」
初めて知ったように、ヘクターは言った。
「チェサピーク・ファミリーと、リプリーの襲撃を受けたの。あたしだけが何とか、警戒を突破してあなたたちを追ってここまでやって来れた」
「ともかく、善後策を練ろう。奥にいるシンシアにも事態を話してくれ。中に入って」
ヘクターは、ふらふらのマヤをとりあえず中に招き入れた。
「マックスはどうした?」
「彼は死んだわ」
ため息をつくと、マヤは言った。
「君だけでもここにたどり着けてよかった。すぐに治療をしよう」
廊下を歩き出したマヤとの距離が、彼女の間合いから離れる頃、ヘクターは背後で密かに銃を抜く。安全装置を外して、その銃口をそっと、彼女の後頭部に向けた。
「シンシアはどこ?」
振り向かないまま、マヤは言った。
「奥で休んでいる。ここ数日の疲れが出たようだ」
両手でぴたりと照準を合わせ、ヘクターは引き金を絞った。
その途端、どこかでガラスが割れた音が響いてヘクターの指を停めた。
「どうかした?」
「なんでもない」
努めて平静さを装いながら、ヘクターは答えた。
「それにしてもよくここまで来れたな」
「あなたに出された宿題はなかなかハードだったわ」
「なんのことだ?」
マヤの雰囲気がそこで変わったことを知り、ヘクターは態度を変えた。
「あたしになにか言い訳があるなら、あたしの前まで来て言えばいい。ヘクター、さっきからあなたはずっと、あたしの身体に触れる位置まで来ていない」
「馬鹿なことを言わないでくれ」
ヘクターは言ったが、間合いをとるために無意識に玄関のドアに向かって後戻りをしていた。
「引き金を絞るなら、今だと思っているなら、それはやめたほうがいいと思う。暗号は解いた。ニュージャージーの別邸で、あたしたちに暗号を自力で解かせたと思わせるために、ひそかに用意した女性も発見したわ。もう終わりよ、ヘクター。あなたが嘘をついたように、あたしもさっきからあなたにずっと嘘をついていた」
マヤがそう言った瞬間、ヘクターの背後の玄関のドアが音を立てて開き、ヘクターの注意は思わずそちらに向いた。やはり。彼女が一人だと言ったのは、嘘だったのだ。その言葉が伏線になり、ヘクターは思わず、マヤから注意を逸らした。
「よう、まさか、あんたにだまされるとはな」
そこに、マックスが立ってウインクしてみせた。それが彼の確認したすべてだった。マックスの渾身の力を込めた右ストレートが、はっとして銃を構えかけたヘクターのあごに命中した。ヘクターの長身が、マヤの足元に倒れこんだ。その手に持った銃を、マヤは蹴り上げて跳ね飛ばし、勝負は一気についた。
「リプリーが手配して、ここを包囲している。あなたに勝ち目はないわ」
「そうか」
ヘクターはすべての事情を察したという風に、天井辺りを見回して、ため息をついた。小さく咳き込むと、折れた奥歯をひとつ、口から吐き出した。その姿をマックスは切なげに見下ろして言った。
「なんでだ? あんたは優秀な捜査官だった。シンシアが言うには、ちゃんと守るべき家族だってある。それなのに、どうしてだ?」
「君の満足する答えがどうかは、知らないが」
ヘクターはマックスを見返した後、同じ表情になって視線をうつ伏すと、無表情な声で応えた。
「私はこの三ヶ月間、全力を賭してエラになりきった。その考え方の隅々、望みもすべて、ヘクター・ロンバードという存在すべてを投げ打ってだ。そんな私が彼の望んだものを素晴らしいと思わないわけがないだろう? 今から、私の失ってきたものすべてが手に入るかもしれないんだ。私自身が、それを望んではならない理由はどこにもないはずだ」
「あんたは捜査官だ。犯罪者のすべてを知り、やつらに共感もするのは、職務を遂行するためだ。それ以外に理由はない」
ヘクターは、首を振るだけでそれ以上何も答えはしなかった。
「地下室だ。地下室にTLEがある」
そのとき、廊下にリプリー・レベッカーが姿を現して玄関の三人を一瞥した。
「やあ、ヘクター」
彼はヘクターを冷たい目つきで睥睨すると、マヤに視線を移し、
「首がつながったな。後は、好きにしてろ」
「すべて終わりだな」
ヘクターの言葉に満足げに肯くと、リプリーは去っていった。
「先に地下室へ行って、マックス」
マヤも、ため息をつくと、静かな声で言った。
「たぶんシンシアはそこにいる」
「鍵なしでは地下室には入れないぞ」
「鍵はあなたが身につけているはず」
マヤはヘクターの身体を探って、あの黒いカードキーを取り出した。マックスに向かってそれを放り投げる。
「リプリーにシンシアを助ける気はないわ。早く行って、彼女を救ってあげて」
「ああ」
マックスは、すぐに駆け出していった。これで安心でしょ、というようにマヤはヘクターを見下ろした。彼は目を閉じて俯き、もうなにも答えることはなかった。

ヘクターが出て行って、どれくらい経ったのだろうか。シンシアは暗い地下室で不自由な身体を動かして、自分がまだ生きていると言う事実を確認していた。最大級の裏切りと張り詰めた気持ちが去った後は、今になって恐怖が心の中に湧き出してきた。ヘクターが、わたしを壊すと言ったのだ。シンシアの脳裏に解剖台に置かれたままにされた昏睡した女性の姿が蘇ってきていた。
ヘクターは完全に、エラ・リンプルウッドそのものになりつつあるのだ。シンシアも知るとおり、この三ヶ月間、彼は捜査官としての能力をフルに発揮して、エラに迫った。だからさっきまで、そこにいたのはヘクター・ロンバードではなくて、もうまったく違う人間なのだ。ヘクターでもなければ、確かにエラでもない。しかし、彼はやるだろう。エラのことはすべて分かっている。躊躇なく、シンシア自身の存在をこの世から消滅させてしまうに違いない。そう思うと彼女は一人の人間として、耐え切れないほどの恐怖を感じた。
長年、心の拠り所にしていた裏切られた失望感と怒りの波が、その恐怖を洗い、隠していた。だが、それはさっきまでの話だ。今、生身のシンシア・ハーディになったとき、彼女がこの状況で唯一頼りにしている自分自身を破壊されるかもしれないと言う事実が、それほど恐ろしいものだとは、思ってもみなかった。
彼女は無謀に思えていたすべての試みを体力の限り、やってみた。しかし、皮のベルトは金属のバーにしっかりと固定されていて、びくともしそうにない。皮がこすれ、擦りむけた皮膚に熱い血が滲んでいたが、やはりそれは彼女に絶望を確信させる助けにしかならなかった。やがてその痛みすら感覚を失い、そのとき、彼女は声を限りに叫んでみたが、暗い地下室からはそれに応えてくれる何者にも届きそうにない。憔悴しきった彼女はやがて静かに昏睡した。
扉が開き、光が射したとき、彼女は顔を上げることも出来なかった。誰が入ってきた? 多くの人の気配が、疲れきったシンシアの感覚に飛び込んでくる。大きく逞しい腕と力強い声が、自分の名前を呼びかけたとき、シンシアは、はっと目を見開いた。
「大丈夫か?」
「・・・・・・マックス」
かすれた視界の先に、自分を知っている人間がいる。シンシアはその男の名前を呼ぶと、全身から力がふっと抜け、大きく息をついた。マックスはその身体を少し乱暴にだが、出来るだけそっと支えると、反対側の手で彼女の拘束を解き、懸命に話しかけた。
「無事か?」
「ええ・・・・・・・大丈夫」
意識は痺れ、叫びつくしたあごは強張って痛んだが、シンシアはようやくそれに答えることが出来た。
「立てるか」
ふらふらの身体を、マックスは受け止めた。堅く太い大木の幹に支えられているような強い感覚が、彼女を安心させた。意志を立て直そうと、シンシアは首を振り、マックスに告げた。
「ヘクターが・・・・・・彼がわたしたちを」
「やつには、上で会った。鍵はやつから預かってきたんだ」
最後まで言わせずに、マックスは言った。
「ようし、いいぞ、ここだ。システムを解析して、必要なものはすべて押収しろ」
その二人の横を、武装したエージェントを率いたリプリーが通っていく。
「元・上司のお陰で、災難だったな」
リプリーはシンシアの様子を横目で眺めて、皮肉げに言った。答える気力も湧かないシンシアの代わりにマックスが切り返した。
「お互いにな。下らないお前らの争いには、もううんざりだ」
「戻ったらすべてを忘れることだ。この結果に免じて、お前らの命はここで保障してやる。後は、報告書でも書く準備をしてろ」
平然と言うと、リプリーは上機嫌で去っていった。
「ふざけやがって」
マックスは心底から毒づいた。
「よく、ここが分かったわね」
「マヤがヘクターのトリックを見破ったんだ。お陰で、やつともう一度交渉しなきゃならない羽目になったがな」
「・・・・・・本当に、助かった」
「マヤに言えよ」
マックスは小さく言うと、ちらりとシンシアを見た。彼女は、無理やり微笑んで、静かな声でこう応えた。
「そうね」

「二階の書斎にエラの資産を現金化した一部がある。五百万ドルの現金だ」
「・・・・・・あたしはあたしが何者だか、もう自分でよく分かっている。身分不相応のお金をもって、トラブルに巻き込まれたいとは、ぜんぜん思わないわ」
ヘクターの意図を解したマヤは冷ややかに言うと、首を振った。
「あなたがあたしに最初に言ったこと、まだ憶えてる。新しい世界のことを知るには、まず自分が何者だったのか、と言うことから知らなくてはならない」
「私は自分が何者なのか、すでに知りたくないというほど、分かっていた。だからこそ、新しい自分になってすべて変わろうとした」
「でも、シンシアはあなたじゃない。それにあなたから見れば、古いあなたのしがらみの中の象徴のような存在。あなたは変わったようでなにも変わっていない。ただ、そう思いたいだけだった。最愛の人をもう一度自分の手で造り上げようと考えたエラ・リンプルウッドと同じように。現実が自分の思うように変わらなかったことを認めたくないだけなのよ」
「・・・・・・・金と一緒に、これまでのエラの研究計画のすべてをUSBメモリーに保存して入れてある」
ヘクターは諦めたように首を振ると、二階へあがる階段を指した。
「マヤ、君にやる。持っていくといい。どうしようと自由だ。どうせ、ここは処分される手はずになっている。だから、すでにこの場所に、なんの価値もない」
マヤはその言葉に一瞬、はっとした表情を見せたが、なるべく動揺を見せないよう表情を隠して、立ち上がった。
「確認してくる。逃げるのは、あなたの自由よ」
ヘクターは背後で立ち上がる気配も見せなかった。本当にどうしようと自由だった。マヤは振り返らず、ヘクターを置いて去っていく。血だらけの唇を舐めたヘクターは、張り詰めていた疲れとともに年齢が出たのか、一気に老け込んだように、大きなため息をついた。やがて、煙草を吸うほどのさりげなさで、スーツの胸ポケットに手をやる。そこにシンシアから奪った女性用の二十二口径が一丁だけ隠してあった。今度はゆっくりと、マヤのうなじの辺りに狙いをつけ、慎重に引き金を絞ろうとした。
銃声は一発。それきりだった。
弾丸は天井にめりこんで、蜂が刺したほどの小さな穴を漆喰の壁に残した。
ヘクターの手の甲に子どもの指ほどのナイフが突き刺さっていた。
憎悪に顔をしかめたヘクターは悪態をつき、なおもマヤを狙う。廊下の隅に落ちた銃を拾ったマヤは、刺されたショックで跳ね上がったヘクターの上体に向けてもう一度、確実に最期の一撃を与えた。
弾丸は左の鎖骨下に突き刺さり、その焼け焦げた痕から飛び込んだ弾丸が肺から心臓を貫通し、完全にヘクターの意識を断ち切った。
倒れこんだヘクターの瞳は、まだ潤んだまま、うつろに宙を見上げていた。人は死ぬときに必ず、なにかを諦めたものの表情になる。ヘクターの場合はそれが少し違ったようにマヤには思えた。
銃を棄てた彼女は歩み寄るとヘクターの眼差しにそっと手を当て、彼の最期の視線を隠すかのように目蓋を閉じると、なるべく安らかに死相を整えようとした。
「お願いよ、ヘクター」
マヤはその一瞬だけ、いたたまれないように顔を歪めると、小さく、かすれた声で言い捨てた。
「・・・・・・そんな目で、あたしを見ないで」

14.亀の島の崩壊

「ログインするのには、パスワードが必要です」
声を聞き、リプリーはいらだってそちらを振り返った。
「なにが必要だって?」
「新たなパスワードです。中に入ってシステムをコントロールするのには、別のキーを取得しなければなりません」
「そこにもキー、あっちにもキー、またキーが必要なのか」
うんざりしたようにリプリーは吐き捨てると、マックスたちの方に向き直った。
「だ、そうだ。中に入るのには、ご丁寧にもまたパスワードが必要なんだと。マックス、マヤに言って、こっちにヘクターを連れてくるように頼んでくれ」
「拷問でもするのか?」
「お前たちの中の誰かが引き受けると言うなら、検討しよう」
渋々、マックスは携帯電話を取り出した。コールを試みる。
「・・・・・・通じない」
「笑えない冗談なら、仕事の後にしろ。今のおれには、お前らを殺さないでいられるぎりぎりの理性しか残っていないんだぞ」
とりあわずに、リプリーは銃を抜くとシンシアの鼻先でトリガーを起こしてもう一度告げた。
「もう一度、コールしろ。それで繋がらなければ、お前が直接行って、やつらをここに呼んでくるんだ」
シンシアはすでに自分に突きつけられた銃口を見つめる気力もなく、立ち尽くしている。肩を支えているマックスには、その疲弊感が如実に伝わってきていた。
行って。シンシアは目線だけで合図してみせた。マックスは仕方なく肩をすくめ、
「分かった。だが、おれたちの身の安全は保障してもらう」
「ヘクター以外のな」
マックスがシンシアをリプリーに預け、ラボを出ようとしたそのときだった。エージェントに案内されてマヤがひとりで、中に入ってきた。大きなバックパックを手にしている。彼女は大儀そうに、それをマックスに放った。受け取ったマックスは、その意外な重量感にバランスを崩しそうになった。
「ヘクターはどうした? やつを連れて来い」
リプリーが怒鳴り声を上げた。
「なぜ、お前ひとりなんだ」
「ヘクターは来れないわ。いくら待ってもここにはこない」
「ふざけるなよ」
リプリーはシンシアに突きつけた銃をマヤに向けた。彼女を案内したエージェントも、一斉に二人に銃を突きつけた。なにが入っているか分からないまま、重たいバックパックを担がされたマックスは、まごついて辺りを見回した。
「撃つなら撃てばいい。そのときは、全員が道連れになるだけよ」
「死ぬのはお前らだけだ」
「マヤ、どう言うことだ? おれには説明してくれてもいいだろ」
「その前にシンシアをこっちに」
「おい、勝手な真似をするな」
シンシアは壁に手をつきながらも、マックスのところにたどり着いた。
「マックス、その中に現金で五百万ドル入ってる」
「おい、う、嘘だろ! なんの金だよ、その馬鹿みてえな額は!」
マックスは今までで一番パニックになってまごついている。
「エラの隠し資産の一部。ヘクターの逃走資金」
「だからどうした? 金でおれが転ぶとでも思ってるのか?」
「じゃあ、自分の命だったらどうかしら?」
言うと、マヤは見慣れない携帯電話を取り出した。
「なにが言いたい?」
「エラはもともと、計画が完了したらこの邸ごとTLEを葬ろうと考えていた」
「?」
「一方、ヘクターも自分が望むものすべてを手に入れたら、出来る限り自分を追跡できる証拠は、消滅させておきたいと考えるはず。エラが用意しておいた仕掛けを使う準備をしておいたとしても、不思議ではないと思うけど」
「まさか」
次の言葉に、この場にいる全員が凍りついた。
「この邸の建材には、当初からそれを予定してC4爆薬が埋め込まれている。起爆装置は、電話であるキーを発信するだけの仕組みにしてあるそうよ。ヘクターはそのキーもエラから聞き出していた。ちなみにこれは、そのキーを組み込んだヘクターの携帯よ」
「お、おい、待てっ」
マヤは躊躇なく、キーを押した。
「起爆は四十秒後」
「頭がいかれてるのか?」
叫び声をあげたリプリーに、平然と彼女はうそぶいた。
「あなたたちほどじゃない」
マックス! その掛け声とともに、我に返ったマックスは持っていたバックパックを、リプリーに向かって投げつけた。銃声とともに、とっくの昔に焦げついていた五百万ドルが、硝煙を上げて空中に散らばった。その一瞬で、マヤは背後のひとりの睾丸を蹴り上げ、シンシアを連れたマックスを誘導して、いち早く外に出た。
「退避だ! 全員、外に出ろ! やつらも逃すな! ヘクターもだ! ふざけやがってっ! くそっ、全員ぶっ殺してやる!」
リプリーは銃を乱射しながら怒号したが、次の瞬間我に返って、エージェントたちを誘導して外に出る準備を始めた。
「四十秒だって?」
「どうかな」
マックスの問いに、マヤは走りながら肩をすくめた。
「時間は分からない。でも、爆破のことは事実よ。ただ、まだボタンは押してないの」
マヤは電話をシンシアの方に投げて言った。
「全員が出たら、あなたが押して。あってはならないものは始末したほうがいいわ」
マックスたちは地下室から抜け出て、リプリーが侵入してきた一階のロビーの窓から、邸の外に脱出した。そのとき玄関にヘクターの遺体が転がっているのを、シンシアは目撃していた。マックスは何も言えなかった。ただ、立ち尽くして逃げ遅れないように、注意を促すことしか出来なかった。

起爆から建物の崩壊までは、それから実に二分前後のブランクがあった。無人の森の空気を揺るがすような衝撃波が放射状に地上を奔り、土ぼこりをあげてエラ・リンプルウッド邸は崩壊した。地中深くの建材にまで仕込まれた爆薬は、地形を変えるほどの威力で、そこにあった彼のすべてを跡形もなく消し飛ばしてしまったのだ。
爆炎は大規模な山火事を引き起こし、軍が消化に出動する騒ぎになり、命からがら逃げ延びたリプリー・レベッカーは、別の消火活動に追われる羽目になった。フカマチ・マヤはヘクターが所持していたUSBメモリーを、この件の重大な証拠として提出した。または、国家規模の重大な陰謀の存在に対して、少なくとも彼らの望む形での決着をつけるために。マックスとシンシアが元の立場に戻ることが出来たのは、マヤがレイ・ブラックウェルを介して行ったこの取引の価値と有効性が活きていることを証明したことに他ならなかった。
イタリアに逃亡を図ったチェサピーク・ファルコーニが、出航直前にFBI当局によって身柄を確保されたのは、それから三日後のことだ。
NYC暗黒の時代を代表する最後のイタリア系マフィアの彼には、企業の不正買収にインサイダー取引、組織内の軋轢に絡む殺人二件を示唆した容疑で起訴され、有罪が確定した。後の二件の殺人事件に関しては組織内の軋轢とあるだけで記事には裏切り者の粛清の意味合いを含ませており、TLEとエラ・リンプルウッドの遺産一千万ドルには一言も触れていないことは、どのメディア媒体の記事を見ても、明らかだった。
マックス・リヴローチはそのニュースをカナダ版で知った。彼はオタワ空港のニューススタンドにあった新聞の見出しの中から、護送中のチェサピークの写真が一番よく映っているものを選び、それを最初のお土産にすることにした。トップの見出しは、
【前代未聞の有罪確定に青ざめるチェサピーク】
フラッシュに照らされたチェサピークは、笑顔で手を振っていたが、むしろ、その顔色は白蝋のように怒りで青ざめているようにマックスには思えた。

エピローグ ~死者は自由になるべき

事件から一ヵ月後、コネチカット州ハートフォード郊外。冷たい雨が多かった北部の十二月には珍しく、雲が晴れて澄んでいた。濡れてきらきらと輝く広大な墓地の丘陵の向こう、思い出したようにこもった鐘の音が大地を響き渡っている。
黒のスーツに身を包んだマックス・リヴローチは、胸ポケットの携帯電話が鳴ったのに気づいて、ふと足を停めた。ディスプレイをみる。目線で、ついてきたカールとスヴェンナに先に行くように指示をした。丘の向こうから歩いてくる三人の姿を眺め、かけていたサングラスを少し下げてから、もう一度、その姿を確認したと言うように、小さく手をあげてみせた。
マックスとシンシア、マヤとレイ・ブラックウェルが、それぞれの後処理を終えてそれから一ヶ月ぶりにようやく顔を合わせたのだ。
「気分はどうだ?」
「問題ないわ。職務も、普通にこなしてる」
シンシアがカウンセリングを拒否しているという話は、レイから少し聞いていた。彼女なりの振り切り方を模索したのだろう。確かに、ヘクターを追いかけて彼女が体験した出来事は、恐らく、一言では語りにくいものだ。他人の干渉をシャットアウトしたいという気持ちが働くのも無理はないことだと、レイも言っていた。だが、予想以上に疲弊しているようではなく、話し方も元のままだ。
「久しぶりね、マックス」
「ああ、そうだな」
マヤだけは相変わらずのようで、こんな場所にも拘らず、その眠たげ声がマックスを苦笑させた。
「あれから、特になにか問題ないか?」
「ああ問題ないよ。あんたらのお陰で適当にやらせてもらってる。それより・・・・・あんたとこいつこそどうなんだ?」
「君に感謝する。他の多くの点でもね。まず、話しておかなくてはならないことは彼女が、晴れて自由の身になったということだ」
「ありがとう、感謝するわ。マックス」
「リプリーとの取引が上手くいったんだな」
「ああ、おおむねな。少し困ったこともあるが」
「困ったこと?」
レイはその言葉の割には、なぜか含み笑いをしてから、
「マヤと君が提出してくれたエラ・リンプルウッドの論文だが、どうもそれだけでは、TLEを復元することは不可能だということが分かったそうだ」
「じゃあ、今までの取引はなしか?」
「いや、それはない。システムの現物が完全に失われた今、TLEを再現することは、ほぼ不可能になった。全世界規模で情報テロを行える可能性のあるシステムが二度と構築不可能になったということで、所定の目的は達したとの判断だ」
「へえ」
「感謝するよ。・・・・・・・これはリプリー・レベッカーに代わってだが」
「嘘つけ」
マックスは苦笑すると首を振った。
「嘘は言ってないさ。TLEが全世界に波及すると言うことは、彼らの持っている諜報の世界の常識が、TLEに類するハッキングシステムの登場で一気に覆るということだからね」
「信じていいかどうかは、チェサピークの裁判が終わってからにするよ」
「そうするといい」
レイは、微笑した。
「マックス、あたしも嘘はついてないわ。一応だけど」
「分かってるさ。でももう、お前の危険なはったりと修羅場は、沢山だ」
うんざりしたようにマックスは肩をすくめると、拳を軽く突き出した。こつん、と彼女はそれに自分の小さな拳が当てた。二人は、お互いの苦笑した顔を少し見つめあった。
「研究データが不完全な理由は、ザヘルが所持していた分が、所在不明なせいだ。マヤの話だとヘクターは、データを持ち逃げしようと考えていたらしいが、欠損部分はそれ以前にザヘルによって、処分されたと考えるのが妥当だろう」
「処分? ザヘルはデータを破棄したってのか?」
「可能性は高い」
レイは、淡々と事情を説明した。
「ニコラ・テスラが死亡したのは、一九四三年一月七日。そのときFBIが彼の研究ノートを押収したと言われている。人の悪意を見抜く機械から、X線や殺人光線、誘導ミサイル、果ては日本のカルト教団が研究に着手していたと噂される地震発生兵器など、その後半生で数々の危険な発明を行ったテスラの理論ノートは、大量破壊兵器の認定を受け闇に葬られた。
中でも、もっとも危険だったのが、彼の最晩年の研究であった無限に近い電気エネルギーを取り扱うもので、これはある地点、ある場所に電気エネルギーを自由に集中させるというもので例えばNYCだけを地図上から一発で、消し去ってしまうことが出来るようになるかも知れないという恐ろしい大量破壊兵器の基礎理論になりうるものだった。
しかし、テスラが、それが未完成のままこの世を去った現在、その実現は不可能とされている。テスラ本人も死に、彼が研究の完成のために一九〇一年、J・P・モルガンから当時十五万ドルの出資を受けてワーデンクリフに作り上げた巨大電波塔も現存していないからだ。そしてなにより、最大の理由は、彼の最後のノートが不完全であるためだったそうだ」
「じゃあなぜ、そんなものを遺した?」
マックスの言葉に、レイは、手を振って答えた。
「彼のせいじゃない。テスラの助手、ジョージ・シャーフがもっとも大切な一枚を飲み込んだためさ。発明品の破壊力のあまりの恐ろしさに戦慄してね。エラとザヘルの関係がこれにあてはまるとは思えないが、USBメモリーに保存されなかったデータの不足分は、ザヘルが先駆けて始末したと考えて間違いないだろう。そこにあったのは、崇拝するエラへの畏敬の念か、それともエラの一度目の死の後に隠してきた嫉妬心がそうさせたものか、今では知る術はないがな」
「ただ、ザッパーの事件に関して、あのUSBメモリーに残されていた人格理論の部分は、大きな役割を果たすと思う」
口を開いたのは、シンシアだった。
「遺伝子配列からパーソナリティのある要素を分離して抽出することが出来るエラの理論に基づいて、今、全米に撒き散らされたザッパーの因子を回収する計画を、今、本部では固めているわ」
「予防ワクチンの投与をすると?」
「ええ・・・・・・まずは、サンプルとなる模倣犯を逮捕して、取り除くべき特殊な因子についての特定、ヘクターが残した捜査資料に基づいてエラの【代理人】が、ザッパーの因子をばら撒いた地域の特定と保有者の発見・予防治療を推し進めていくことになる。これらにはすべて、押収されたエラの隠し資産で実施されることになると思うわ」
「ザッパーの事件はこれで、模倣犯を減らし、徐々に収束していくだろう」
「模倣犯による犯行が一段落してきたら、真犯人の死亡を宣言し、事件を閉じる手はずよ。それまで、あたしはシンシアと、事件の後始末に付き合うことになってるわ」
「特別捜査班からもガーラントが、出来る限り協力してくれると言っているわ」
シンシアは乾いた唇を舐め、大きく息をつくと力強く言った。
「ヘクター主任がもっとも初期の段階から、事件の中核に迫る真相を追っていたことは、動かせない事実よ。だから、わたしたちが彼の意志を継ぐわ」
「そいつは分かってるさ、シンシア」
マックスは言った。
「だから、みんなでここまでやってこれた」
マヤの同じ言葉がそれに次いだ。
「分かってるよ」
「それはここにいる全員が分かっている」
レイも続けて、言った。
シンシアは、静かに肯いただけだった。

「シンシア」
誰かが呼んでいる。そのような気がする。まだ、耳鳴りがしていた。現実から自我を守るための、感覚の薄い皮膜。この一ヶ月、我を忘れて仕事に打ち込んでいても、こうしてじっとして時間が経つのに任せていても、なにかが常に、現実からシンシアの注意を奪っている。ぼんやりとした、不安と恐怖の種を孕んだ、そのなにかの正体をシンシアはずっと知っていた。
それは彼女がそれと認識したときよりずっと以前から、シンシアの内にいたもの。ないものと思いながら、ずっと目を背けることに神経を集中して、意識的に排除してきたもの。苦しみは同じ。ヘクターも同じように、葛藤して、そしてシンシア以上に苦しんでいた。だからこそ彼は、ヘクター・ロンバードを捨てる覚悟をしたのだ。
君が望まなくなったのは、ただ、諦めたからだ。私も諦め、君を諦めさせた。だから。
彼は確かにそう言った。君が望まなくなったのは、私が諦めたせいだと。果たして本当だろうか。いや。恐らく、始まりがなにかなど、誰にも分かりはしない。誰に過失があるかなど、分かりはしないのだ。お互いがお互いのミステイクを、言い換えれば、期待と失望を積み重ね続けた結果、それは破綻してしまうゲームだったのかもしれない。どちらが実弾の入ったチェンバーを引き当てるか、でも、もしそうなったとき、どちらも引き返せなくなることを、理解はしていたのだ。
どちらがより罪深いとしても、結局は傷つけたくない大切な人たちを永遠に傷つけてしまっていたはずだ。
今は、それだけはどうしても避けなくてはならない。
「シンシア」
今度は、幻でもなんでもなかった。彼女の名前を呼ぶ声が、きちんと彼女の意識に響いた。
喪服に身を包んだエルナが立っていた。ケインとカミラも。その足にすがって、シンシアを見上げている。
「ごめんなさい」
シンシアは言った。エルナたちに会ったら、一番に言おうと思っていた言葉だった。
「彼を助けることが出来なかった」
「話はまだ、分からないことが多いの」
「なんでも聞いて。すべて、わたしに責任があります」
深く、彼女は頭を下げた。
「シンシア、誤解しないで聞いて」
エルナは言うと、目を閉じて首を振った。
「わたしは、あなたにヘクターのことを任せたことは後悔していないわ。彼はあなたを信頼していたからこそ、後のことをすべて任せたんだから」
「ねえ、シンシア、パパは仕事で亡くなったんでしょう?」
ケインは精一杯、シンシアを見上げて話していた。あごを持ち上げて話すときの面影が、ヘクターにそっくりになっていた。
「そうよ」
シンシアは言った。思ったよりも、しっかりと声が出た。
「ヘクターは事件を解決するために犯人と戦ったの」



日の高い、午後だった。
ずっと西日が顔に射していたのを、マックスは憶えていた。
埋葬は、この静かで広大な墓地でしめやかに行われた。警官隊の護衛や一斉射撃の弔砲もなかった。ヘクターはFBIの捜査官として死んだわけではなかった。
これから、全米でまだ模倣犯による犯行が相次いでいるザッパー事件を収束させなければならないために、葬儀は、目立たないように行われた。焼け跡からヘクター・ロンバードの遺体と確認できるものは発見出来なかったと言う。シンシアはそこに、回収可能な限りのヘクターの遺品を入れた。巨大な陰謀の残骸はその主要部分を喪っても、まだどこかでからからと動き続けている。
牧師が最期の祈りの言葉を、告げる。
虚ろなはずの硬い棺を抱きしめて涙するヘクターの妻と二人の子どもたちの姿を見つめながら、シンシアはなにを考えていたのだろうと、マックスは思った。
「エルナとケイン、カミラにはわたしから、説明するから心配しないで」
そう、彼女は言っていた。
たぶん、それを彼らに説明するために一ヶ月間、彼女はシンシア・ハーディとして生きてきたに違いなかった。
「彼のお陰で、今、事件は解決に向かっているのだから」
彼女は言った。
「・・・・・・これからまた、長い戦いになるわ」
では、彼女自身はどんな答えを自分に用意しているのだろう?
ふと、マックスは思った。
分かるはずがなかった。
誰にも、本人にも。だから、長い戦いだと、そう言ったのだ。
ただ、生きている人間は、まだ迷うことが出来る。迷うのは、答えが発見できる可能性が、時間とともに与えられているからだ。
では、神の許しにのみ、救いを与えられる死者は、どうすればいいのだろう? 彼らの時間はすでに尽きた。迷いは諦めに、意志は土くれに変わる。ヘクター・ロンバードと言う存在そのものは、すでにこの場所に跡形もないのだ。
「マックス、誰にも迷いはあるわ」
マックスの隣に、ちょうどマヤが立っていた。彼女が言った。
「たぶん、真実も同じ数だけ。あのとき、ヘクターは、死ぬためにあたしに銃を向けたのかもしれないと、あたしは考えたりする。でも、事実は違うかもしれない。・・・・・違うと思う。でも、あたしの中で時折、そう感じたことは、ひとつの真実として機能するの。彼は救いを求めていた。彼は、選ぶべくして、その選択肢を選んだんだ。例えば、そう言う風に。たぶん、それはシンシアやあなたを含めて、他の無数の人の中にいるヘクターも、同じ機能を持つものとして存在していくと思う」
マックスは首を傾げた。
「わからねえな」
「本当には、あたしにも分からないよ。前にも言ったとおり、あたしは空っぽだったから。確かに今までの人生で、そんなこと、考えたこともなかったし」
マヤは言い、静かに目を閉じた。
「でも、せめて、死者は自由になるべきだと今は思うの。どれかの真実に自分をあてはめようと、迷うことから自由になって・・・・・・もし、これから先、あたしたちがヘクターのことを考えるときには、あたしたちはまず、それを認めなくちゃいけないと思うの」
彼女は言うと、手を合わせた。
日本では、死者を送るとき、地上の穢れを祈りで清めると言う。死者は仏になり、もうその前非は問われない。だから、武士が身を潔くするのは、神聖な死を穢さないためなのだと言う。幼いとき、マヤはそれを、南米に隠れていた旧日本陸軍のスパイ崩れの老人に聞いた。
「だから今は、これしかないと思って」
マヤは言い、後は、無言で祈った。
「そうか」
そいつはいい考えかもしれないと、彼も思った。
「おれもそうするよ」
静かに、同じ気持ちでマックスも祈った。

タートルランズエスケイプ(下)

えー、今までにない長尺の作品、と言うことで、筋も複雑、展開も急を心がけて作らせて頂きました。ここまでついてきて頂けた方、感謝の言葉もありません。実はタートルランズエスケイプ、と言う言葉は適当に考えたもので、作者にも意味が分かりません。言葉の響きから物語を自由に連想して作ったらどうなるか、と言う意図のもと作られたかなりパンクな作品なので、構成の不備等ありましたら、すいません。ちなみに今作の主人公の一人、フカマチ・マヤはわたしの作品のそこかしこにたまに出てくる子なので、他作品にも形を変えてちらりと顔を出すかもしれません。(レイやルナと同じく・・・)もしまた見かけたら何卒温かい目でみてやってください。

タートルランズエスケイプ(下)

すべての個人情報を消去してしまうタートルランズエスケイプ。それは、まったく完全に自由な新たなる存在になるために天才学者が遺した狂気のシステムだった。自由の女神のリバティー島で、ついに真相への第一歩が開きます。そして最後にはもう一つ、最大の急展開(!)を残しているのですが・・・・それは最後まで読んで頂いた方のお楽しみ、と言うことで。ニューヨークを舞台にしたサイコミステリ、完結の下巻です。

  • 小説
  • 長編
  • 冒険
  • アクション
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-25

Copyrighted
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  1. 8.亀の島からの招待状
  2. 9.リバティー・アイランド・クライシス
  3. 10.隠されたマナからの警告
  4. 11.無慈悲な真実を追って
  5. 12.何もかもが彼を狂わせた
  6. 13.そんな目で見ないで
  7. 14.亀の島の崩壊
  8. エピローグ ~死者は自由になるべき