タートルランズエスケイプ(上)

イントロダクション

そこにあったのは、完全なる静寂――――などではなかった。
そんなものはこの世に存在しない。生きている限り、感覚器は無意味に知覚し続ける。意識していないのは、普段はそんなことは気にかけていないからだ。だから、完全なる静寂―――そんなものが存在すると、つい思ってしまう。
耳の奥から、高鳴り続ける鼓動。そして呼気。猿轡をすると、どうしても、呼吸が荒くなってしまう。不規則なリズム。なにか、法則性を見い出したくなる。たとえそれが、五十六億の人類の九割に、別に必要のないことでも。思考は稼動し続け、意味性を無視して発見だけを生み続ける。すべてはインスピレーションだ。なにかを思いつくことだけのために、人は生きている。直感が人間にもたらす、得たいの知れない気分の高揚に、彼は酔い、椅子に縛られた足で、ステップを踏んだ。もどかしげに首を振り、呼気を荒げる。
それを最期の生命のあがきと思われたのか、近づいてきた男が舌打ちをし、こめかみに銃を突きつけて大人しくするように警告した。男は、いくつかの隔壁を隔てて、ちょうど前頭葉の左側面に位置する銃口の実在に目を剥くと、静かに身体の力を抜いた。
「いい子だ」
相手は満足げに微笑むと、丁寧に彼の顔を覗きこんだ。
「苦しいのか? 分かった、猿轡を外してやろう。最期だからな」
男がそれを外す間じゅう、彼は割れたガラス窓の方を見ていた。この窓が破られて、十五分しか経っていない。まったく、驚くべき手際だった。
「なにか言うことがあるなら、聞こう。それこそ、オフレコで聞いておいてやる。おれの記憶に、永遠に刻んでおいてやろう」
「君は素晴らしい」
男は、不快そうに眉をひそめた。
「なんだと?」
「理想的だ。すべてが・・・・・・法則性を逸脱しない」
「おれを舐めてるのか?」
銃口を押し付けて、男は言った。安全装置が外れる音を、彼は聞いた。
「馬鹿な。賞賛しているんだ」
「命乞いをするなら、無駄だと思え」
「プランは無視しない。そのはずだったろ? 冷静になれ。逆上するのは、非常にまずい。最初の一撃目で、仕留めなくてはならないはずだからな」
「この距離で外す理由があったら、教えてもらいたいぜ」
「ならいい。外すなよ。僕だって、外されたら困るんだ」
「お前の減らず口はもう、たくさんだ」
男は、彼を乱暴に突き飛ばし、眉間に銃口を突きつけなおした。
「別れの言葉だけ、聞いてやる」
「なんて言えばいいんだ?」
腹立たしげにため息をつきながら、男は言った。
「おれから言おうか。じゃあな、ってな」
「いや、この場合も違う。君は間違ってる」
彼は、無邪気に言うと微笑んだ。銃口ではなく、その男の瞳の色ばかり、興味深そうに眺めて、言った。
「またね、だ」
男は燃えるような憎しみをこめて、その引き金を絞った。



急に思い出せと言われても、たぶん、それは難しいだろう。
例えば二〇一二年の九月二十五日、午前五時五十八分のことだ。
ニューヨーク州ロングアイランドに住むサンドラ・ケープウォークは、今でもよく憶えている。彼女は、ちょうど遅い夕食を採るところだった。夜番のシフトがようやく明けて、家に戻ることが出来た。報酬に惹かれて職場を決めたとは言え、二交代制の研究員の生活に疲れを感じていた頃だった。
無理もない。家に帰ると、待っているのは寂しがり屋のシーズー犬が一匹。半月前にパブで偶然知り合った男からは、いぜんとして、連絡はやってこなかった。職場の愚痴を酔いに任せてこぼしすぎたのが、仇になったのかも知れないと彼女はようやく考え始めていた。
そう言えばしきりに言ったのは時間が合いそうにないと言うことだ。努力すればどうにかなると言うことを彼女は付け加えなかったか、もしくはすでに相手が聴いていなかったか、いずれにしてもそのことが今さら悔やまれる。会えなければ会わなかったと言うことと、それは同じことになる。人は徒労と言う。声やメールだけでは食事も、セックスも無論出来はしない。そもそもネブラスカの両親との連絡すら、ここしばらくは、滞っているのだ。つまるところはなにもかも、報酬が、他より少しましなだけのこの仕事のせいだ。
最近、自分の運命のサイクルの歯車がどうにも噛み合わずにいることを、サンドラは仕事のせいにする癖がつき始めていた。事実そうかもしれない。が、現状を変える気もあてもない。愚痴はそんなときのためにある。
彼女は今から半日休むことが出来るが、これだけ疲れていては、メイクをしてそれに見合う笑顔やジョークが、自分の中からひねり出せそうもない。愛情をかけるのは、昨日からお腹を壊して苦しんでいるシーズー犬の世話で精一杯だ。つまり、外へ行く気にはなろうと努力するには、最低でも新品のサンドラがもう一人分、必要になる。不可能なことは、もう考えないのが一番なのだ。
また、間が悪いことに、カナダ人の証券マンを射止めて、先週オタワに旅行に行ってきた友人のお土産でくれたメイプルチップのウイスキーのビンがまだそこにあった。彼女は、アイスロックを入れたグラスにそれを注ぎ込むと、一気に飲み干した。途中で買った中華料理のパックを開きながら、DVDデッキのスウィッチを入れる。入れっぱなしにしてあったディスクが、テレヴィの下で低いうなり声を上げた。
DVDのメニューが現れる前に、サンドラはもう一杯、飲み干した。だから酔っていなかったとは、決して言えない。だが、彼女は何度も主張した。たとえ、酔っていたとしても、夜勤明けで気は立っているし、液晶テレヴィのスタンドの上に時計があるので、それに習慣的に目が言っていたから間違えるはずはないのだと。
時刻は、確かに午前五時五十八分を指していた。
銃声を聞いたとき、彼女はテレヴィの音だとは思わなかった。地区で朝方を狙った押し込み強盗が流行っている。仕事柄鉢合わせにならないように、サンドラは、警戒しながら家路に着くのだ。テレヴィを消し、彼女は周囲の様子を、窓を開けずに確かめた。しばらく見たが、なんの動きもない。
サンドラは怪訝そうな顔のまま、キッチンに戻った。
あれは、だが確かに銃声だった。とても遠くの、小さな破裂音だった。一発ではない。二発か、三発、いやもしかするとそれ以上のはずだ。聞こえた。彼女はそう証言した。
ただ、もちろん、そのときはすっかり忘れることにした。夜勤明けでなによりも楽しいソファでうたた寝が待っていたし、三杯目のウイスキーも、まだ氷を入れないままグラスの中にあったのだ。
サンドラがそれを幾度も証言しなければならない羽目に陥るのは、それから、ちょうど十時間後のことになる。
五時間後、彼女が銃声を聞いた思われる場所から数マイル離れた国道線沿いの山林の中で、顔を復元不能なまでに潰された全裸の男性の遺体が発見されていた。地元警察の捜査によると、被害者の年齢は四十歳くらい、身長は約六フィート(一八〇センチ程度)、体重は一六七ポンド(約・七十五キロ)痩せ型、人種は白人だが、身元を示すものはなにも所持しておらず、髪の毛や骨格から、どうやらドイツ系ということが分かったくらいだった。
死体はサンドラが証言した場所から車で運ばれ、そこに投げ入れられたものと思われた。銃創は五カ所。そのため、サンドラの記憶の中で曖昧なその部分が、何度も強調される羽目になった。
指紋と歯型が残されており、それぞれデータベースで確認がなされたが、結果は不明となり、遺体の身元は割れなかった。そしてその男が誰なのか、誰にも分からないまま、遺体は安置所に運ばれた。
サンドラは、こうして、予定していた半日の休みすべてを、結果的に失い、結局その日は彼女にとって忘れられない最悪な日のひとつとして記憶されることになった。

「シンシア・ハーディ特別捜査官。今、アッパー・ブルックスヴィルに向かってる」
シンシアはカーステレオのデジタル時計の案内板を確認してから、携帯電話に向かって何度めかのメッセージを送った。
「午前五時五十分、まもなく六時になる。二九五号線を進行中。マヤ、ニューヨーク市にいるんでしょう? 早く戻ってきて。ともかく、事情は後で説明するから」
録音メッセージを確認することなしに、シンシアは電話を切る。どうせ、返信はしばらくないかもしれない。だから、必要はない。今は、別のことにいらだちの中心が移っていた。
頭の中で問題を整理する。ヘクター・ロンバード特別捜査官から最後の連絡があって、もう三十時間以上、時間が経過している。
ヘクターは昨晩のうちにニューヨークを出て、ロングアイランドはアッパー・ブルックスヴィルにあるエラ・リンプルウッド宅に向かっていた。記録がある。
助手席のファイルを開く。エラは、ニューヨーク州では初めて、連続殺人犯ザッパーの五人目の被害者だ。死んだのは昨年九月。彼は忘れ物を思い出したように、自宅書斎のロックチェアの上に舞い戻ってきて死亡していた。
あれから一年。全米各紙の一面は、低所得者用ローンの話を除けば、このシリアルキラーの記事が最低でも月に一回は話題を提供し続けていた。

ZAPPER Around The States(ザッパー、全米を徘徊)

現況=ザッパーは先月、西海岸に現れ、カリフォルニアとユタですでに三人を殺害している。犯行は大胆に、広域にわたって留まるところを知らない。例えば被害者は全裸に剥かれ、さまざまな暴行の痕のある身体を目のつくところに晒されて放置されている。その身体のどこかには必ず、その被害者がどうやって殺害されたのか、本人の音声による説明が録音されたカセットテープが貼り付けられているのだ。
殺されたエラの肉声を聞いたときの記憶が、シンシアの耳にこびりついている。
「私はこれから、全身に十三発の弾丸を受けて死亡する。・・・・背信の罰を受けるのだ」
名物ハリケーンの経路に従って、今ザッパーはフロリダを通りニューオーリンズを蹴散らして、また東海岸に向かって北上していく動きすると言うのが、当局の見方だった。ヘクターはそんな中、最初期の被害者が出たブロンクスヴィルに戻った。その前はニューヨークにいた。そこでは一ヶ月間、行方不明だった。理解不能、クレイジーと言う批判を局の内外から受けながら、ヘクターは何をしていたのだろうか。彼の直属の部下でアカデミーでも教え子だったシンシアは、ここ何ヶ月も、肩身の狭い思いをした。本当に彼のために苦労はさせられた。
だが、反面、この期に及んでヘクターが必ず何かをやり遂げてくれると言う期待も、別として抱いていなくはなかった。
なにしろ、最初の犯行からすでに四年が経過してもFBIの特別捜査班は、依然、犯人の手がかりすら掴めていないのだ。事件がコールドケース(迷宮入り)化しても、ヘクターは犯人を追う覚悟だと言っていたが、捜査班に残された時間は実際にはそれほど多くはない。それでも、逆転を信じて捜査員は、追跡を続けてきた。そしてそれが、ヘクターの経験と実績の裏づけあるリーダーシップに負うところが大きいのは、現場に関わった捜査官全員が知っていることだ。
シンシアはファイルの下から、泥に汚れた何かを取り出した。それは、FBI捜査官の身分証だった。顔写真はもちろん、シンシアのものではなく、濡れたように黒い髪を短く刈り上げたヘクター・ロンバードの写真が収まっている。彼女は少し汚れたヘクターの顔を指で拭き、力をこめて握り締めると、そっともとの場所に返した。
早朝のハイウェイは、薄い霧が立ち込めている。不幸にも道の真ん中で立ち往生している白のトヨタが彼女の視界に入った。
バンパーを開けて、カップルが故障の具合を確認している。シンシアの車のヘッドライトを発見した濃紺のジャンパーにジーンズの白人の男が出てきて必死に手を振っていたが、彼女はアクセル全開に踏み込んでそこを、一気に振り切った。
残念ながら、人助けをしている時間はないのだ。その仕事は、別のところからあなたたちの税金をもらっている別の公務員にしてもらって! シンシアは心の中で意味のない弁解をした。GPSで現在位置を確認する。幸いなことに、向こうの携帯電話の電源は、まだ入ったままだ。一縷の希望はある。まだ諦めるべきではない。諦めるのにはもう少し早い。失望してうつむいた地面の下にこそ、まだ希望が埋まっているかも知れないのだ。
ヘクター自身の言葉だった。FBIアカデミーを卒業後、行動科学課への配属が決定した頃、繰り返し言われたことをシンシアは思い出していた。先輩捜査官としてのヘクターは常にこの言葉に忠実で、ときに純粋すぎるほどの情熱を持った男だった。
いや、だった、などと言う言い方は、まだすべきではない。まだ、諦めてなどいないのだ。シンシアはため息をつくと、意識にこびりついたその言葉をどうにか消し去ろうと苦心した。予断は捜査官としてあるまじき行為だ。予見は常に事実を見極めて行い、予感はときに予見を優先して真実を伝える。
確か、これもヘクターの言葉だ。
記憶と言うシステムは手がかりを得て、きりがないくらい、連鎖する。それから、なぜか今までのヘクターにまつわる色々な思い出が、とりとめもなく引き出されていく。それに嫌な予感ばかりがそれについて回る。シンシアは思わず、右手で髪を掻き毟っていた。
「・・・・・・・・・・・・・」
降ってきた。粒状の雨がフロントガラスに吹きつけてくる。
シンシアはため息をつき、とりあえず、そう思いつめた心をクールダウンすることにした。
電話がバイブする。シンシアは、はっとして胸ポケットからそれを取り出した。ディスプレイをみて、失望した顔を隠さなかった。期待した相手ではもちろんなかった。ため息をついて、コールに答える。ボタンを押したが、考え直してそれを切り、反対側の席に放り投げることにした。
九の字に開いたままの電話は、シンシアの行動を批難するかのように、まだ振動を続けている。同僚のウエンブリー・ガーラントだ。不本意なままNYに来た彼は、シンシアの独走には、苦い顔をしながらずっと庇っていてくれていた。あらん限りの弁舌を尽くして、上司にNY行きを取り繕ってくれた彼からのコールを、むげにするわけにはもちろん、いかないだろう。だが、どうしよう、上手い弁解が今は思いつきそうにない。
三十階建てのビルから飛び降りるくらいの決意をしてから、シンシアは深呼吸をして、思い切って電話を取り上げ、息の根を止めようとするように、電源を切った。
「ごめんなさい・・・・・・師匠譲りだと思って、許してガーラント」
言った後はすっきりしたのか、ラジオをつけてニュースを確認する。DJが時報を鳴らして、そろそろ午前六時になることを告げていた。

1.路上犯罪捜査官マックス

午前六時、テーブルの上の目覚まし時計が、デジタル字体の文字盤が時間を更新した直後、玄関のドアが吹っ飛ぶように開き、続いて結びが滅茶苦茶になったスニーカーが一式、床に打ち下ろされるように鋭い角度で、投げ込まれてきた。
投球スピードは、警官隊に向かって思い切り物を投げつける暴徒のそれに近い。ただし、スニーカーは背もたれつきの木製のチェアの上でワンバウンドはしたが、期待されたようにそこで大爆発を起こしたりはしなかった。
「ああっ、畜生っ・・・・・くそったれ」
やがてテロリストは、ぶつぶつ悪態をつきながら部屋に入ってきた。汗まみれだ。ジャケットを脱いでランニングになった褐色の肌に汗の粒がびっしり貼りついて滲んでいる。
もどかしげな手つきでシャツのすそを持ち上げ、ようやく脱いだそれを洗濯機ではなく、絡まった腕ごと叩きつける勢いで、さっきの椅子に向かって投げ出した。
「バカヤロー」
吐き捨てるように、マックス・リヴローチは言った。
「やってられねえ・・・・・・もう、やってられるかってんだ」
ヒップホッパーのやる三倍以上のスピードで、彼は手を動かし、可能な限りの悪態を突こうとした。しかし手の動きはどのラッパーよりも速いが、興奮しすぎて言葉の方はどうも出てきそうにない。
「五万ドルだとっ、ふざけんなっ・・・・・・いったい、なにを考えてやがる・・・・・・・なんなんだ、いったい・・・・・いったい、こいつは、どう言うことなんだっ」
今度は椅子をもって、マックスは放り投げた。寝室のドアに当たって、途方もないでかい音が立った。いつもならここで、この部屋に住んでいる妹が登場するところだが、今は出てこない。理由はもちろん、分かっている。単純明快だ。今、ここにはいないからだ。もはや誰にも止められないことを、マックスは知っていた。
そもそも、ブロンクスでは、分裂した黒人の家族が殺し合いをしたところで、誰もとめに入るものなどいるわけがない。昨晩、隣ブロックで響いた銃声さえ、無視するものだと決まっているのだ、まして自分で問題を解決できない家族のことなど。いつもこうして独りになってきたからこそ、その虚しさはマックス自身がよく、理解している。
最後に椅子を放り投げると、マックスはどうにか落ち着くことが出来た。最後と決めたら、悪態を突くのをどうにか我慢しよう。悪態は二回まで、逆上は出来れば一回で収まるように。子どものときから何度もセラピストに釘を刺された言葉だ。今日キレるのは、ここまで一回で済んだから、そう、お星様のご褒美シールがもらえる。
「下らねえ」
大きく肩で息をつき、額の汗を拭うと、マックスは、静かにキッチンの冷蔵庫に向かって歩いていく。そのとき、椅子の背もたれで指をぶつけてまた顔をしかめる。
冷蔵庫に、まだぬるいミルクのパックが残っているはずだった。とにかくそれを飲んで、気持ちを落ち着けようと思った。
ドアを開けようとしたとき、がちり、と音がして背後の寝室のドアが開くのが聞こえた。
「ないぜ、牛乳」
冷蔵庫を開けると、一呼吸おいてマックスは言った。
「なあ。いくらお前でも、一晩中、家族のために働いてきたおれを、干上がらせる気じゃないだろ」
振り向いたマックスは、肩をすくめたまま固まった。
「おい」
呼びかけたきり、マックスは言葉を失った。誰だ。明らかにそこに立っていたのは、妹のスヴェンナではなかった。
「ハイ」
かすかな声で、相手は言った。若い、アジア人の女だ。
声の通り、羊でも数えた後の眠たそうな顔をしている。
「ああ、よし・・・・・いいか、警告しておくぞ」
ありえないシチュエーションで、結局、そのまま見知らぬ女と五秒間も見詰め合ってしまった。
マックスはため息をつくと、自分の癇癪の導火線に火をつけないように精一杯自分を抑えながら、言葉を続けた。
「今は、朝の五時だ。普通はベッドで眠りにつく時間だし、そうでないやつもベッドで眠りたいほど疲れてる。どうやらあんたは、ベッドで寝る習慣がないのか、それともクスリをやりすぎて、自分が今、夢の中にいるのかそうでないのか見当がつかないのかも知れないが・・・・・・・」
出入り口に向かって指を差し、
「出て行け。五秒以内だ。そうすれば、おれが慈悲のある人間だったと感謝する時がまず間違いなく、来る。ついでに言うなら、なるべく早い時間に、この地区も出ることだ。ここではあんたみたいに、肌の黒くない人間は、使い捨てのコンドームほども敬意を払われないんだ」
「マックス・リヴローチ?」
自分の名前を呼ばれて、マックスはぴたりと動きを停めた。
「男の始末のひとつも世話をしたことでもあったか?」
「頼みがあるわ」
彼女は言った。綺麗な英語だったが、相変わらず眠たげな調子だった。マックスは、腹立たしげに首を傾げて目を剥いた。
「クスリなら、半ブロック南へ行け。更生するなら、さらにそこから西だ。ジャンキーの世話はここでは受け付けてない」
「勘違いしないで」
6フィート6インチ(一九二センチほど)あるマックスに上から睨まれても、その女は怯むことなく、マックスの白い部分の大きな瞳を凝視している。
「勘違いしてるのはお前だ。今、おれがお前にしないで助かっていることがいくらあると思ってる?」
「たぶん、こうやって話してると、お互い勘違いはその数より大きくなるわ」
女はあくびでもしそうな声で続けた。
「だからその前に話を進めましょう、マックス。時間がないから、出来れば早くして欲しいんだけど」
次になにか言ったら、なにも言わずにその顔を殴ろうと思った。
「どうする?」
「失せろ」
言い捨てて、マックスはその女に背中を見せた。その瞬間、ぽん、と肩に手を置かれた。
振り向きざま、マックスはそれを振り払う気だった。だが背後に振り払った右肩は、そのまま、腰関節が捻じれるほど先に展開した。最後にみたのは、自分の右腕が遠心力に従って引っ張られていくのにつられて回転した左肩口の残像と、がら空きになったあごに叩き込まれた大理石製の灰皿の側面の映像だけだった。
頭の中で、鈍い音が響く。脳が、ぶるん、と揺れた。
くぐもったうめき声とともに、マックスの視界は真っ暗になった。
次に目が覚めたとき、テーブルの上の時計は十時半になっていた。
気づくとさっき自分がぶん投げた椅子に、マックスは縛り付けられていた。あのアジア人の女は玄関のほうで、さっきからずっとどこかに電話をしようと試みている。さっき黒人の男を殴り倒したことなど、もうすっかり忘れたとでもいうように。
打撃を受けたあごと、気絶してからずっと頭を支えていた首筋が痛くて、どの姿勢でも苦しかった。手足は汗を掻き始めてきたが、これ以上動かない。粘着テープでの拘束の仕方は完璧だ。押し込み強盗なら、さぞかし通報を気にせず、じっくり物色できたろう。
「金かクスリでもあったか」
マックスは痛むあごに顔をしかめながら、なんとか悪態をついた。
「どうでもいいが、おれが誰だかあとで知ったら、きっと後悔することになるぞ」
「・・・・・・・・・」
一拍遅れで女はちらりとマックスを一瞥したが、それでも気にせずに自分のしたいことを続けている。通話しているのかと思ったが、みると、相手はずっとコールに応じていないようだ。逃走用のバンでも手配しようと言うのか、それともマックスの顔見知りでも呼んでこれを機に復讐を宣言しようとでも言うのか。
「聞こえてたら返事しろよ。いったい、なんの用事だ?」
いずれにしても、今、彼の自由になることは悪態をつくことと、クロスしたまま接着された両足で地面をこつこつと叩いて反抗の意志をアピールすることだけだった。
「言っとくが、おれはギャングじゃない。だからおれを巻き込むと必ずあとで厄介なことになるぜ」
返事をせず、女は、あくびをしただけだった。
「聞けよ。ただのちんぴらじゃない。おれはな」
「マックス・リヴローチ、三十歳、NY市警勤務、路上犯罪捜査課の捜査官ね?」
唐突に声が向こうから、返ってきた。
「OK・・・・・・お利口だ、よく調べてる」
知ってるなら、さっさと答えろ。
怒りを抑えながら、マックスは言った。
「ご褒美シールをやろう。クラスとお名前は?」
「マヤ」
今度は顔を出して、女は言った。
「名前か? それともニックネーム?」
「本名よ。フカマチ・マヤ」
「日本人か?」
日本人の知り合いはいない。恨みを買うとすれば、中国人が何人かいる。だが少なくとも、どう考えても、自宅に押し込まれていきなり殴り倒されるようなことをした憶えはない。
「いったい、あんたは誰なんだ?」
もう答える気はないのか、マヤはそ知らぬ顔で拘束されたマックスの横を通り抜けた。携帯電話を閉じてジーンズの尻ポケットに仕舞う。冷蔵庫を開けると、どこに隠してあったのかミルクのパックを取り出して、勝手に口を開けてそれを飲みはじめる。それは注意をする暇もないほど、自然な動きだった。
「あなたも飲む?」
マヤは、まるで自分のうちに招待したボーイフレンドに言うように聞いてきた。
「それとも、コーヒーがいい?」
あっけにとられて、マックスはしばし、言葉が出なかった。
「分かったよ、好きにしてくれ。でも、カップは洗って返せよ」
もはや、マックスは投げやりな気分になって言った。こうしている間に蓄積されてくるいくつもの疑問はいまだに解決しない。
いったい何者だ? なにをしにここへ来た?
この部屋に現れたときから未解決の疑問へのヒントを、マヤという女は、これ以上話してくれそうにない。だから、面倒でも推測するしかない。とりあえず、相手にこれ以上、敵意がなさそうなのは救いだった。マヤの物腰を、マックスはここで初めて冷静に観察することが出来た。
「なあ、いつまでこうしている気なんだ」
「さあ」
マヤはケトルに火をかけながら、他人事のように首を傾げた。
「分からない。たぶん、指示があるまでかな」
「・・・・・だから、誰の指示なんだ」
ギャング? マフィア? それとも映画に出てくるようなスパイか。見たところ歳は若い。東洋人がいくら年齢より若くみえるにしても、スヴェンナと同じ二十歳前後、身長は五フィート八インチ(約一六七センチ)ほど。服装もジーンズに白のブラウス、ナイフ一本すら携帯していない。だから、いずれもあり得なさそうだ。
「日本人?・・・・・・だよな」
「・・・・・たぶん」
彼女は言った。目の前にコーヒーカップが置かれた。
「たぶんって何だよ」
「あなたがそう思うなら、そうかも知れないってこと」
はぐらかしているのか。だが、こうした人間にありがちな嘘を言って相手を翻弄して屈服させたいと言うような口調を、マヤは使っていなかった。かわりに、視線を落として、彼女は話題を変えた。
「冷めるよ、コーヒー」
「・・・・・・今のおれに、飲めると思うか?」
「そうね」
今、気づいたように彼女は言った。キッチンから果物ナイフを持ってきて、手の拘束を解いた。ナイフとカップを持ったまま、壁にもたれて座った。
「どうぞ」
と、上目遣いで一瞥すると、両手でマグカップを抱えてコーヒーをすすった。猫舌らしく、一口飲んで熱そうに短い舌を出す。ショートにした黒髪に少し癖があり、アジア系にしては瞳が大きく、あごが小さかった。どことなく猫を思わせる顔つきをしている。
拍子抜けしてしまった。ここに自分より遥かに強い黒人の大男が拘束を解いて自由になったと言うのに、彼女はほとんどそれに注意も払わなくなっていたからだ。
「なあ」
甘いミルクコーヒーをひとくち、切れた口を潤すとマックスは、静かに呼びかけた。
「あんた、いったい、おれに何の用事なんだ」
「・・・・・・・・・」
「分かったよ」
ついに折れて、マックスは言った。
「話を聞くよ。・・・・・・ともかく、聞くだけならな」
「そう、じゃあ、話を始めるわ」
すると、マックスが話を聞く姿勢が整ったのを待っていたように、マヤはようやく顔を上げた。
本当によく、分からない女だ。
「・・・・・なんだ。話せよ」
「人を探してほしいの」
「へえ」
マックスでなくても彼女の頼みは、たった一言で理解できたそうな内容だった。とりあえず、手に負えるようではあるらしい。
「この地区でか? それともマンハッタンで?」
神様を探してほしいと言われなくて、よかったと思いながらマックスは聞いた。
「名前はヘリックス。とりあえず、マンハッタンのどこかにいる。話はそれだけ」
「他に手がかりはあるのか?」
マヤは首を振った。
「そいつは難しいな」
マックスも苦笑して首を傾げた。
「見つからないからじゃないぜ。たぶん、山ほどいる。ニューヨークには、約八百万人の人間が住んでる。お目当てのヘリックスを見分ける方法が、あんたにあれば少しはやる気になるんだけどな」
「それは・・・・・なくもないけど」
ポケットからマヤは二枚の折り畳まれた紙片を取り出した。
「見せてみな」
マックスは二枚を拡げて中を見た。一枚はクロッキーでスケッチされた似顔絵だった。そこに一見してヒッピーの成れの果てかと思われるようなひげ面に長髪の中年男の正面像が描かれている。少し、やぶ睨みめの視線、あごが全体的に右に歪んでいるのが特徴的だ。ヨーロッパ人種。アイリッシュか、ドイツ系。タッチは精巧でその性格的な特徴まで、実によく捉えている。そのとき右下に作者のものか、サインが入れてあるのが、マックスの目についた。
「R,O,M,・・・・・・・ロンバード?・・・・・ヘクター? もしかして、ヘクター・ロンバードのことか」
「そうよ」
怪訝そうな顔のマックスにマヤはあっさりと肯いてみせた。
「どうしてそれを最初に説明しねえんだ」
「あなたが話を聞いてくれる雰囲気じゃなかったから」
「だからって、突然殴られたのは生まれて初めてだ」
一応皮肉を言ってから、マックスは肩をすくめ、
「で? ヘクターのやつが何かおれに用事か?」
「ええ、ヘクターはあなたと一緒にこのヘリックスって言う男を捜せって言った。それが、彼の指示よ」
「ふうん」
興味なさそうにマックスは息をつくと、今度は二枚目のほうも一応見てみた。それは、A4の感熱紙にプリントされた一枚の写真のようだ。みたところ、共同住宅の入り口。プリントされた日時は今年の春になっている。撮影は冬にされたのか、濡れた路面に雪が溶けたみぞれが、半透明になって残っているのが見える。
「こいつが、ヘリックスってやつの家か」
「たぶん」
「十番街辺りじゃねえかな。・・・・・たぶん」
たぶん、というアクセントをマヤと同じように発音するとマックスはその紙をもとのように綺麗に畳んでから、マヤに押し返した。
「すぐに案内できる?」
「二時間待てよ」
「二時間も?」
どうして? と、マヤが不満そうに聞いた。
「分かるだろ」
マックスはテレヴィのリモコンを渡すと、その不満顔に向かって一方的に言い渡した。
「おれは今帰ってきたばかりだ。仮眠はとれないにしても、シャワーを浴びて、ひげを剃って、昨日と違う服くらいは選びたいんだ。朝食をゆっくり選ぶのは諦めるとしても、だ」
「つまり・・・・・あたし、テレヴィを観てればいいのね?」
マヤがリモコンをもってピント外れの質問を返したときには、マックスはシャワールームに入り、ジーンズを脱ぎかけてから、あわててドアを閉めた後だった。

「・・・・・で、ヘクターとはどんな関係なんだ?」
「クライアントよ」
マヤは、不思議なことを言った。言ってから、自分も不思議だと思ったのか、怪訝そうに首を傾げた。
「あ・・・・・・・クライアントはあたしか」
「・・・・・よく分からねえんならもういい」
ハンドルを持ったままマヤと同じ姿勢で、マックスも首を傾げた。
「で、やつはおれのこと何て言ってたんだ?」
「優秀な捜査官だからあなたを頼れ、って」
マヤは、自分と同じ仕草をしたマックスを不思議そうに眺め、
「つまりヘクターは、前にあなたと仕事をしたことがあったのね」
「まあな」
マックスは曖昧に答えた。
確かに。ヘクター・ロンバードの名前を、マックスは知っていた。ベテランのFBI特別捜査官、それも凄腕の。しかもそれは新聞記事や警察広報に書いてあることではない、マックス自身が彼の手腕を目の当たりに体験した範囲内のことでの話だ。
記憶している限りでは、今ヘクターは、ニューヨークにはいない。この支局で諜報活動やギャングやマフィアの取締りに従事させられているのは、もう少し無能な、別の連中のはずだった。(少なくともマックスの記憶ではそう言うことになっている)ヘクターはかわりに東海岸発の連続殺人犯を追うことになったと聞いている。FBIの特別捜査班が介入して三年は経つが、その間、ザッパーと言う仇名のサイコ殺人者は、VICAP(FBIのHP。凶悪犯逮捕計画)に手配写真が載るわけでもなく、確たる手がかりもないままハイウェイに死体をばら撒き続け、そろそろ全米一周を終えようとしているところだとマスコミが騒いでいる。
ヘクターは忙しくて本部を動けないはずだった。マックスにもそうした経緯と事情は、聞かなくてもなんとなく察することは出来なくもないが、そうした仕事を一見、捜査官でも何でもなさそうな目の前の小娘に押しつけてきたことは、どうにも解せない。
「なぜ、ヘクターはそのヘリックスって男を?」
さあ、とマヤは首を傾げた。
「あたしは聞いてないわ。仕事をするだけだから。ただ、ヘリックスを見つけたら、ヘクターとコンタクトがとれることになってるの。そしたら、彼があなたに何か見返りを渡すと思うわ」
「そいつは楽しみだ」
本当は気のないふりを隠して、マックスは言った。ただ、マヤに聞こえないように、こっそりと愚痴をこぼす。
「・・・・・クリスマスでもないのにそれまで秘密かよ」
ともかく、とりあえずは適当にあしらう方法を考えておこうと、マックスは思った。
「これからどうするの?」
「ああ、よく聞いてくれた」
マックスは意味ありげに、あごをしゃくって見せると、
「じゃあ、まず、この数ブロック先で、あんたを下ろす」
三角形が積み重なった形のハーストタワーが左手に見えてきた頃、マックスは言った。
「連絡しておいた。そこのコーナーにソロスって男がいるから、さっきおれに見せたものを全部見せて、情報の提供を仰げ。交渉が難航したり、問題が起きたりしたようだったら、さっき教えたおれのナンバーに連絡をくれればいい。金は持ってるな?」
「少しは。あなたはどうするの?」
「知ってるだろ? おれのサラリーは市民の血税なんだよ」
制帽を被るジェスチュアをして、マックスは言った。
「とにかく、その辺のことはソロスに聞けば分かる。まあ、後はよろしくやるといいよ」
信号を二つ過ぎるとマンハッタンプラザ前のバスターミナルの辺りに、モスグリーンのシャツを着たひげ面のコロンビア人が立っているのが見えてきた。ソロスは裸眼でも下心が透けてみえるような満面の笑みでこちらをみている。かつては日本人観光客や留学生をだまして、いい目をみた経験がそうさせるようだ。真偽はともかく、露骨すぎる条件反射がそこに出来上がっている。唇から垂れたよだれがこちらまでこぼれてきそうだと、マックスは思った。
「あの人?」
「そう」
「本当に彼?」
ソロスは飛び上がって手を振っている。その奇妙なテンションに警戒感をもったマヤが聞いたが、マックスは逆に平然と言い返した。
「・・・・・なにか問題でも?」
問題はある。そのことは、マックス自身が一番よく知っている。だが、今はそんなことに関わっている時間も余裕も、彼にはなかった。縦列駐車に横付けすると、マックスはドアを開けた。尻尾を振っている犬に餌を放り込む。後続車両が来る前に彼は、指示器も出さずにアクセルを踏んだ。
「悪いな」
独り言だ。
「今、それどころじゃねえんだよ」
今のマックスには、人の仕事に関わっている時間などあるはずがなかった。
1‐1
「やあ、マックス、やっと来てくれたようだな」
フォスターは刑事課にしてはよく肥えた白い手を使って、マックスをオフィスに招き入れた。
「まず、今ある仕事を済ませとこうと思いましてね」
マックスは空とぼけて見せた。二度の召還命令をすでに無視している。続いて、容疑者を暴行した。ここまで来れば、とぼける以外の態度のとり方はない。
「クビになるかもしれないし」
「仕事熱心なのは、評価すべきことだ」
マックスの空々しい弁解にフォスターは苦笑しただけだった。
「はじめに言っておくが、私は君を評価している」
「光栄です。まさか、今日ここで褒められるとは思っていませんでしたよ」
ロスで二十二年間、刑事一筋にやってきたフォスターに言葉だけでも褒められるのは、悪い気はしない出来事だ。皮肉抜きでマックスは謙遜していた。
「ただ、次からはきちんと規則を守るべきだと忠告しておこう。君は優秀な捜査官だ、正直なところ、こんなことで処分を受けるような事態に陥ってほしくはなかったぞ」
「問題は認識しています」
しかしそこで目下の問題は、現代と言う時代が、容疑者を叩きのめしたり、取調室で誘導尋問をしたりして手柄を稼ぐ五〇年代とは異なる、と言うことを世間にアピールしなければいけないことだ。
「ただ、後悔はしていませんよ」
マックスは唇を歪めてから、答えた。
「・・・・・・もちろん、不満はありますが」
「まったく、責任をとるようなことには、不満が付き物だな、マックス」
おどけたため息をついてみせると、マックスは微笑した。フォスターはそれによく似た苦笑を返して、
「入るといい。すぐに、話は終わる」
刑事課の主任のオフィスは、いつ来ても煙草の匂いがする。つまり年代の匂いだ。それはフォスターが、署内の禁煙運動を推進していることと直接の関係はない。
デスクのガラスの小皿に置かれたチョコレートをひとつ摘み、彼は口に入れたが、目の前の禁煙家の末路を見る限り、勧められてもマックスはそれを受け取る気にならなかった。
差し出された書類をマックスは、受け取った。予想したとおり二週間の休職。加えて、三ヶ月のサラリーカットがそこにしたためられていた。マックスはそれを一応神妙そうに読み通すと、一気にたたんで尻ポケットに突っ込もうとした。
「マックス、じゃあ、この件について君が満足しているだろう二つの事柄について、注意と訂正をしておこうか」
軽い皮肉を言うと、フォスターは組んだ両手にあごを乗せて威厳を誇示するようにじっくりとマックスを見上げた。
「まず、一つ。アーリー・ウィルダムを暴行したことが、君の弟のカールがギャングとのつながりを持っていた、または構成員であったことを否定するための材料にはなんらなりはしないと言うことだ。そして、これは君がカールを通じて彼らと親しい関係にあったわけではないと言うことの証明にもなりはしない。それは、分かっているね?」
「ええ、分かっています」
マックスは、ともかく神妙に肯いた。むしろそれについては、フォスターが納得できかねる様子で聞き返した。
「・・・・・・今、なにか弁解はないのかね?」
「それにその点については、もう十分説明したと思いますが」
「君は、カールは完全に組織から足を洗った、しかも自分のお陰だとそう言った。そして、今回の暴行はそれに対するアーリーの一方的なカールへの逆恨みに対して、君がカールを守る形で結果的にそうなったと、そう主張したはずだ」
「その通りです。弟は組織に借りを返して、立派に更生しました。アーリーはその弟との約束を守らなかったから、おれにぶちのめされた。これがことの経緯ってやつです」
「その言葉遣いを査問委員会でするんじゃないぞ」
フォスターは、無駄だとは知りつつも反射的に釘を刺してから、深く自省のため息をついて、続けた。
「確かに・・・・・・君の弟がもう一週間も行方不明だと言うこと、それには心底同情しよう。だが、しかしだ」
「アーリーのグループは今年春から相次いで起きた管轄内での車泥棒や武装強盗五件、その犯罪行為のすべてに関与していました。これも報告書にして提出した通りです」
「ああ、君の言うとおりだ。だが、だからと言って彼がカールのその事件に関わっていたと言うことの裏づけには、まるでなっていないと言うことも、忘れないことだ」
「ですから、それは理解しています」
マックスがいきり立って言うのを、フォスターは抑え、
「じゃあ、理解したうえでもう一つはっきりさせよう。結論としてアーリーがこの事件に関わっていたと言う確証はないし、それを君が本気で考えていたとも思えないことは明白だ。その上での注意をする。謹慎中は規則を守れ。これは上司命令ととってもらっても構わない。これから君がすべきことは銃と手帳をそこに置き、家に戻ったら二週間、自分の住んでる地区からは、決して出ないことだ」
「地区内では自由に動いてもいいってことですか」
「それ以上の質問は受け付けない。だが、忠告しておいてやる。もしそうなった場合、君の命の保障はしないぞ。アーリーの息のかかった人間が、君を狙うことになるだろうからな。休職中、自由に捜査が出来ると思ったら大間違いだってことをよく憶えておくことだな」
「・・・・・・分かりました。肝に銘じておきます」
なるべく声を抑えて、マックスは答えた。
「休職中、規則ある、行動を望む。私からは以上だ」

落ち着け、マックス。マックスはずっと心の中で、言い聞かせていた。確かに、ハンドルを持つ手が震えてはいる。だが、どうにかさっき、エキサイトしかけた心を抑えることが出来た。
本当は理性では分かっているのだ。フォスターは出来る限り穏便だったし、処分は横暴なものではなかった。だから、この過分な敵愾心と怒りは、自然なものではないはずなのだ。鎮まれ。
やがて、マックスはふーっと長いため息をついて、身体から力を抜いた。どうにか上手くいった。暴走したアドレナリンを抑えて、理性が勝利することが出来た。
例えばこうして、カールがいなくなった晩も、そう振舞うことが出来たなら。あの落ち着かない弟はいなくならなかったかもしれない。ちらりと考えが頭をかすめる。
それはもしも、と言う甲斐のない仮定だ。ここ数日、マックスは何度もそう思ったが、それは否定されるか合理化されるかして、彼の頭の隅に結論先延ばしのまま引っかかったままになっていた。
そう、一週間。もう、一週間だ。
マックスの弟のカールが、マフィアからの借金五万ドルを残したまま、この街から煙のように消えてしまってから、今日でちょうど、一週間が経つ。
怒りや悲しみは奇妙に薄れていくが、失ったものに対して、やはりもしも、という考えは頭をめぐって消えていかないものだ。
確かにカールが五万ドルの借財を残して消えたことは事実だし、その責任はもちろん、自分自身にあり、それを考えればその晩、マックスは兄として正しい行動をしたことは間違いないと断言できる。思えばこれまでにも分岐点は何度もあった。例えば一年間の収監で衛生検査技師の資格をとったカールは、紹介された食肉加工場やハンバーガーショップなどで、真面目に働けばよかったのだ。
「いい加減にしろよ、カール」
マックスは言った。まだ、この時点では冷静でいられたことを、自分でも覚えている。
「お前はそろそろ、おれの言っていることをよく理解して聞くべきなんだ」
「思ってろよ、せいぜいな」
カールは吠えつくように反駁した。
「そうだ、あんたはいつでも自分だけが正しいんだ。だけどな、いつでもあんたの周りの人間は、そんなことは思っちゃいねえんだ。おれに説教できた義理か? あんたが家族にしてきたことはなんだ? 自分でも気づいてるんだろ?・・・・・・・この」
そのとき、カールの色を失った唇が夕闇の中でもいびつに歪んで見えたのを、マックスはよく憶えている。そして次の瞬間、カールはその言葉を言った。もしも、カールが激昂してあの言葉を言わなかったら。もし、その前にどちらかが感情の鉾を収めて相手の話を聞こうとする姿勢をとっていたならば。
どちらかが折れるべきだなどと、今さら考えてはいない。もちろん、その場に至ったら、またしても自分は間違っていなかったと思うに違いない。しかし、喪失感と後悔は、常に、もし、そうしていなかったらと、そのことを考えてやまないだけだ。
そう、例えばもし。
クラクションの音に、マックスは、はっとして顔を上げた。信号が変わっている。右折だ。マックスはあわててハンドルを切った。この辺りは、一方通行の道が多い。曲がり角を間違えるのは、命取りになる。
ハンドルに置いた手に、一週間前の痛みがまだ消えずに残っていることに、マックスは、気づいた。拳の痛みは骨の痛みだった。それは身体の芯まで染み透る。マックスは顔をしかめて、短く舌打ちをした。電話が鳴っていた。マックスは、片手で電源をオフにすると、強くアクセルを踏み込んだ。

リストランテ・ヴィットリオのVIPルームで食事をするチェサピークを見るのは、どうしてもこれが初めてではない気がした。
前市長のジュリアーニが、九〇年代に総力を挙げて取り締まったときほど、街には麻薬やマフィアの抗争、ホームレスは氾濫していないように見えるが、それは見かけだけで、さっき挙げたすべては、まだ確かにこの街に存在する。
イタリア生まれでない大学出のドンが、自分だけ司法取引欲しさに、ファミリーを滅茶苦茶にしてしまって勢力を半減させたときも、チェサピーク一家は、せっせと昔ながらの貸金業やレストラン経営に精を出してきた。また、最近では便利になったオンライン取引を利用した株式操作や合法企業の乗っ取り工作なども取り込んで、チェサピークは、あらゆる面から現在の屈指の資金力を持つ組織を創り上げたのだ。
ムール貝の前菜を食べながら、彼は、マックスに向かって軽い一瞥を投げただけだった。沈黙が武器になることをよく知っている。チェサピークにとっての威厳とは、トイレに行きたくても、その場の誰をも三十分以上立たせなくするような無言の脅迫を言うのかもしれない。
「カール・リヴローチ、あいつがいなくなったことを、おれたちは別に気にしてないさ。それがなぜだか、分かるか、マックス」
マックスは首を振った。そうしなければいけないと言うことくらいの分別は、まだ、あるつもりだった。
「あいつは家族を残していったからだ。これで、なんの問題もない。家族は助け合いをする。昔から、そう言うもんだ。困ったときはお互いに話し合い、必要なら、なんのためらいもなく助け合う、これが家族だ」
「・・・・・・・・・」
「言ってる意味は分かるよな、マックス」
カールがなんのために五万ドルの借金を残していたのか、マックスには詮索する気もないし、それに対して援助してやろうという気も起こらなかった。家族はなんのためらいもなく、と言う言葉に、マックスは心の中で同意しながら聞いていた。問題は続く文章が違うことだとマックスは思った。まったく、こうして家族はなんのためらいもなく憎しみ合う羽目になる。
「五万ドルを帳消しにするいい話があると聞いて、私はやってきました。ただそれだけです、ドン・チェサピーク」
なるべく控えめな声を心がけてマックスは言ったつもりだった。
「なにか気に入らなかったのか? そうか、食事のことか? ミスター・リヴローチ」
潮時を感じて、マックスは口をつぐんだ。もはや遅いかもしれないが、これ以上は無闇に弁解しても墓穴を掘ることになる。
「話も食事も途中なんだ、口の利き方に気をつけろ若僧」
チェサピークはレモン汁のついたフォークを振り、不機嫌な顔を見せた。はげ上がってたるんだ赤ら顔だが、昔は痩せてぎょろ目だった眼光がマックスを睨んでいる。年老いても武闘派として、暗黒時代を生きた男の凄みと迫力は健在だった。
「昔は気に入らない連中は、コンクリのミキサーにつめて田舎の高速道路の地面に均すか、ハムやソーセージや、ドッグフードにしたもんだ。だが、豚や馬の場合と違って、人間ってものは、どうも余計な包み紙が沢山つきすぎて困る。いちいち剥いで捨てていくのが、面倒になるくらいにな」
真意が掴めず黙って聞いていると、チェサピークは部下に書類を挟んだファイルを持ってこさせ、マックスに向かって放り投げた。
「これが、お前の仕事だ、若造」
チェサピークはナプキンで口を拭きながら言った。
「期待はしてねえ。お前の経歴を買うまでだ。得意技が人探しなら、もうここか、金を出したチェザーレのオフィスにお前の弟を連れてきてるだろうからな」
「期待は低い方が、成功したときの喜びはもっと大きいです」
書類を受け取りながら、マックスは言った。チェサピークは、鼻を鳴らしもしなかった。ただ、加工前のソーセージを見るような目でマックスを睨んだだけだった。さらに、言った。
「詳しくはみて分かると思うが、そいつは実は犯歴がある。まずはそっちにあるデータを調べてこちらに渡せ。それで、お前のちんけな弟の命をとりあえず保障してやる」
帰りにファイルを広げてとにかく、中身を見てみた。
そこには期待に反して、ヴィトー・マルコーと言うはげ頭のイタリア人がいるだけだった。
この洗濯屋を経営する貧相な男が、チェサピークのファミリーの【死体清掃人】を引き受けていたようにはどうしても見えない。マルコーはどうも、普通では考えられない特別なやり方で、死体の身元を上手く消し去る役割をファミリーから請け負っていたのだが、五日前から急に行方を晦ましたらしい。一見、内気で善良そうだが、小さく歪んだ薄い唇に卑屈の影のある写真の小男が、なにを考えた挙句その結論に至ったのか、自分の店も事情を知らない家族もそっくり残してこの街から消滅してしまったのだと言う。
「ヴィトーの家族は不幸だった。やつの本性を知らないばかりか、だしぬけに知らない人間に痛めつけられたりもしたんだからな」
チェサピークの自分の歯に挟まっているクラッカーのカスほどの誠意もない同情めいた台詞を、マックスは思い出していた。
「別にそいつ自体に未練があるわけじゃないが、死体の身元を処理する特別な方法ってのを、これを機会にぜひご教示願いたいと思ってな。ともかく生きて連れてくることだ。口が利ける状態でな。死んでたら、お前も合い挽きでミンチにしてやるから覚悟しておけ。それとまず居場所が分かったら、すぐにこっちに伝えるんだ」

翌朝、テレヴィで、アッパー・ブルックスヴィルの国道で身元不明の遺体が発見されたニュースが報じられているのをスヴェンナが見ていた。起きたばかりのマックスは、思わず目を見張った。これからはNY州で見つかる身元不明遺体がカールでもマルコーでもないように、祈らなくてはならない。
ところで発見された遺体はドイツ系で、年齢は四十代だった。拳銃で五発、顔が潰されていたが、指紋や歯型は無事だと言う。
「音がでかいぜ。なあ、他にニュースはやってないのかよ」
スヴェンナは無言のまま、テレヴィから顔をそらさず植物のようにソファに身体を預けている。あの日、カールが行方不明になってからと言うもの、マックスの知る限り、昨日這入りこんできた怪しい闖入者とのものを除けば、この家では音声を伴ったコミュニケーションが成立した試しがなかった。
「なあ、聞いてるのか」
スヴェンナはようやく、音を抑える努力をした。しかしそれは、指を一本、動かすほどの労力のものでも、ひどく重々しく、マックスの目には映った。
「・・・・・・・・スヴェンナ、何度も言うけどよ」
静寂に耐え切れなくなったように、マックスは言った。
「重要な話なんだ」
「分かってるわ、兄さん」
遮るようにして、スヴェンナは言った。一週間ぶりに聞いた彼女の声は冷蔵庫で古くなったチーズのように無慈悲に乾いていた。マックスは、はっと息を呑んだ後、一瞬言葉を失った。
「今度のことは、もともと、カールに問題があった。兄さんの言うことは、もう何度も聞いてることよ」
「そうだ。なら、分かるだろう? あいつは、おれたちに無断で五万ドルも借金を抱えてた。今のうちに、そんな金はねえ。お前の大学の学費で、精一杯なんだ」
「それも、知ってるわ。でも、問題はそこじゃないでしょう?」
泣きそうな声で、スヴェンナは言った。
「・・・・・・じゃあ、どうしろって言うんだ」
「兄さんから仲直りして」
自分に言えることはこれだけだと言うように、スヴェンナは彼に向き直ると、静かな声で言った。
「・・・・・わたしが望むのはただ、それだけよ」
スヴェンナの瞳はガラスのように澄んで、まるで事実そのもののように朝陽に透けていた。
「あいつは・・・・・・カールは、おれが必ず探し出すって」
彼に言えることはもはやそれだけだった。
「大丈夫だ」
まるで母親に言うように、マックスは言った。
「おれを信じろよ」
「・・・・・・・・・・・」
それでもスヴェンナは悲しげに目を閉じ、かすかに首を振っただけだった。彼女ほど凍結した家族の寂しさを噛み締め続けた人間はいないのだ。そのことはマックス自身が最もよく分かっていた。
「今月の給料が入ったからもう学費は心配ないわ、兄さん」
スヴェンナは唐突に、話題だけを変えた。マックスは対応しきれずに、ただ、まごまごしているばかりになった。
「そいつも大丈夫だ・・・・・とにかくお前は心配するな」
「ええ、大丈夫よ。安心して。それに心配もしてない。来年には、兄さんに頼らなくてもなんとか生活出来る目処くらいつけてるから」
「おい・・・・・・待て、それは別の問題だろうが」
不定形のいらだちを言葉にしようとしたときには、スヴェンナはそこにはいなかった。キッチンのダイニングテーブルに温めて食べる朝食だけが残されていた。マックスは、腹立たしげにため息だけを吐き出すと、乾いたハムエッグを指で崩して顔をしかめながら、口に運び始めた。
「・・・・・・・・・・・」
わかっている。放置しておけばやがて腹の底から、無力感を伴ったいらだちが這い上がってくる。
気分が移り気になり、集中力が持続しなくなってくる。中途半端にハムエッグをつまんだ後は、冷蔵庫からミルクのパックを取り出したが、ドアも閉めずテーブルに置いた途端に、ハムエッグの皿をレンジに入れることを考えている。
かたかたと、マックスは甲斐のない貧乏ゆすりを始めた。やはり、薬が必要になる。戸棚から袋を取り出して一錠、水道水で流し込んだ。精神科で処方してもらうこの薬を飲むとき、いつも喉に異物感が残る。なんとも言えない劣等感がそこに詰まって、残っているようにすら思う。怒りと衝動性に対する最終手段はやはり、後味が悪い。腹で飼っているそいつが、薬を押し返しているように、子どもの頃はイメージしていた。
目を閉じて、ため息をつく。そわそわして、足元が覚束ないような気分はしばらく去っていかない。胸を押さえて、マックスはもう一度、大きく息をついた。どうにか、収まってきた。
探し人が増えたのだ。まごついている暇はない。
まず、とりあえずヴィトー・マルコーのことを整理する。
チェサピークによれば、ヴィトー・マルコーは、自分の身ひとりを完全に街から突然、姿を消したと言う。家族も友人も、そしてチェサピークの一味ですら、それに気づかず、幽霊のように。
「うちの組織じゃ、マルコーのやつはG・O・N、【冥府(ザ・ゴースト)の(・オブ・)案内人(ナヴィゲイター)】のニックネームで呼ばれてたんだ」
それは死体の身元を綺麗さっぱり消してしまうことから、つけられた二つ名らしい。マルコーの手にかかれば、遺体はどこに放置しても身元不明になってしまうと、チェサピークは言った。
「服を剥いで顔さえ潰せば、あとは、身元なんか分かりっこねえ。そう言う仕組みになってたんだよ」
NY市民にはそれで少なくとも、チェサピークの経営する飲食店でだけは、人肉入りのソーセージを出さなくて済んでいたらしい。この副業によってマルコーは十分な報酬を得ていたし、それに対して一度の不満も漏らしたこともなかった。
「そもそも、やつはカタギでな。だが、ある事情があってうちのファミリーが引き受けることになったのよ」
やくざの暮らしが嫌になった小市民としての想像はつく。ただ、マルコーの場合は少し、事情が違っていた。彼には死体処理請負人以外にも裏の顔があったようだ。マックスは九時になるのを待って、性犯罪者更正プログラムを担当している友人に電話をかけた。
「ヴィトー・マルコーについて、記録を調べてくれよ。一九九八年、二〇〇〇年とチャイルドポルノ不法所持、未成年者に性交渉を強要した罪で、それぞれ逮捕歴があるはずだ」
チェサピークがどのような方法で、マルコーの欲求を満たしていたのか聞きたくもないが、ともかくその意味では需要と供給は成立していた。なぜ、消えたのか。理解に苦しむ、と言うのがチェサピークの正直な感想だったことは確かだ。
「それと、火曜と土曜に開催されていたセミナーの参加者の名前を調べて教えてくれ。こっちは今すぐに、だ」
マルコーはなぜか、貯金を下ろすこともせず、手持ちの金だけを持って、家を出た。市外へ出て行くあてもないとするならば、どこかに匿ってくれる仲間のあてがあったはずだ。一般的な交友関係はチェサピークが当たりつくしたとして、彼がマックスに期待しているのは、犯歴のあるお仲間を探れと言うことだろう。
折り返し、担当者から電話があった。マックスはマルコーと参加日時と罪状の同じ人間の名前と住所を手帳にメモすると、手元の市街図にそれらをマークしておいた。今日はまず、そこから当たるとしよう。
それから留守番電話とメールを、マックスは習慣的にチェックした。もちろん、カールからの連絡はなかった。
カールがいなくなったとき、マックスはまだ兄弟げんかの延長線上に、物事を軽く考えすぎていた気がする。あいつは、少し頭を冷やすために出て行ったんだ。そう、思おうとしている自分がいた。
「なあ、頼む。これで最後なんだ、兄貴」
カールが自分にあれほど哀願したのを、マックスは見たことがなかった。高校を中退するとき、それに学費を使い込んだのがばれたときだって、カールは悪びれた顔ひとつしなかったはずだ。お互いに衝突したら、一定の冷却期間が必要だった。それによって関係が改善することもないが、悪化することもなく、とりあえず今までやってこれたのだ。
寝室に置きっぱなしになっていた携帯電話に、着信が入ってきた。マックスはテーブルから立ち上がると、あわただしい手つきでそれをとった。
『ハイ』
もう聴きなれた眠たげなアルトにマックスは、顔をしかめた。
「あんたか」
思わず邪険な声を出してから、マックスは気を取り直した。
「ソロスは親切だったろ? ヘリックスは見つかったか?」
『写真の住居を見つけたわ。あなたが言ってた十番街じゃなかったけど』
「そいつはよかったな」
マックスは電話しながら、リヴィングまで行くとリモコンを探してテレヴィを消した。
『ただ、これ以上はあなたの協力が必要よ。ヘリックスは大分前に強制立ち退き処分を受けて追い出されてた。彼はたぶん今、ホームレスになって市街をうろついているわ。で、あなたは、いつ、動けるのかな』
「悪いな、こっちも仕事がある。しばらくめどが立ちそうにないな。これからシャワーを浴びて、出勤の準備もしなくちゃならないから切ってもいいか?」
『ねえ』
「ああ、聞いてるよ」
言いながら、電話を切ろうと思った。
『あなたも誰かを探してるんでしょ?』
しかし唐突な一言に、マックスの行動を停めた。
『署に問い合わせたわ。マックス・リヴローチは容疑者暴行の疑いで処分が決定し、目下、二週間の休職中』
「なにを言ってるんだ?」
いらだちと焦りがもう声に出ている。
『あなたはフリーだって聞いたけど。でも忙しく動き回っているってことは、なにか、別の大切な仕事があって動いてるとしか考えられないでしょ』
「切るぞ」
『待って。もしあなたが別の仕事で動いているんなら、そちらの仕事を優先してまず、動いてもいいわ。もし、必要なら、あたしが協力するから、その仕事にめどがついた時点でこちらにも協力する時間をくれない?』
「あのな、言っておくがあんたに助けてもらうことなど何もない」
シャワールームのドアを開けた。後、二秒で切ろうと思っていた。
「だいたいおれがなにを探しているのか、あんたに分かるのか?」
『あなたの弟』
電話口の相手は即答してきた。
『カール・リヴローチ』
その言葉が出た瞬間、マックスは電話を切った。
何度も着信が入ってくる。マックスはそれを、窒息死させるような勢いでバスタオルの中に押し込んだが、やかましさに耐え切れなくなって出た。
「あのな、何様のつもりだ」
マックスは舌打ちを漏らして、電話口にいらだちを吐いた。
「交渉のつもりか? NYの右も左も分からねえやつが、人探しを手伝うだって?」
『誰かを追跡するのは、たぶん、あなたより慣れてるわ』
「なに言ってんだ」
まったく、馬鹿げた話だ。自分の探し物も見つからないやつが、どうして、そんな条件を提示してくる? いらだちで上手く、言葉が見つからない。
「話にならない。ふざけるにもほどがあるぜ」
『ふざけたつもりはないけど』
「なら、真剣に聞いてくれ。おれもあんたには出来る限りの協力をしたし、それ以上はする気も暇もないんだ。もし、あんたがおれのために何かしてくれるとしたら、出来ることはただひとつ、このまま電話を切って、もう二度とかけてこないことだ。分かったな」
宣言するように言うと、マックスは電話を切った。さっきまであれほどうるさかった携帯電話は、それで、どうにか死んだように大人しくなった。ただそれもしばらくのことだろう。マックスは全力疾走した後のようなため息をつくと、くらくらとめまいがしそうな、目頭をぎゅっと押さえた。

2.ザッパーが殺したのは

セントラルパーク前から、一方通行のブロードウェイを南下する。NY大学のキャンパスの中から通り抜けていくと、右手奥にワシントン広場の凱旋門型の記念アーチと噴水広場が見えてくる。
マーティン・ミルズの縄張りはこの広場か、またはもう少し北に行ったところのNY市立図書館の西側広場だと聞いていたが、休日どちらかに場所を決めるのは気分次第のようだ。噴水脇に足元にケースを置いて、ギターを掻き鳴らしている短髪の痩せた男がそれらしかった。
「失礼」
マックスは近づくと、気軽そうに声をかけた。1ドル札を丸めたチップをケースの中に投げ入れる。
「マーティン・ミルズさん?」
ミルズと呼ばれた男は、とがったあごを持ち上げてマックスをみた。三十代前半、スプレーで尖らせて散らした髪に、胃の悪そうな色白で面長の顔は鳥類を思わせる。やや、神経質そうな顔つきだ。大抵、こうした大道芸人たちは、同業異種の人間たちと喧嘩にならないように、身分を示した許可証を持ち歩いている。みてみると、本人に間違いはないようだ。
「なにか用事ですか」
「警察のものだ」
マックスの言葉に、ミルズは一瞬ぎょっとした表情をした後に怪訝そうな顔つきになった。視線を上下させて、マックスの風体を改める。
「バッジを見せてくれ」
「ここで見せてもいいが、たぶん困るのはあんただ」
と、マックスは意味ありげに辺りを見回してみせた。
不信感は当然だ。この街で職務質問をする警官は、大抵二人組になっている。これは自己防衛のためと、お互いに不正を監視しあう立場にあるためだ。だが、ミルズの表情に表れた少しの動揺に、マックスは付け入った。
「なんの用だ」
「実はあんたが通っている更生プログラムのメンバーの中で、不正なチャイルドポルノの取引があったと言うことが分かって、今、極秘で関係を調査中でね」
「おい」
声が大きいと言うように、ミルズは辺りを見回した後、
「待ってくれ。おれはなんの関係もない」
と、声をひそめて言った。
「確かに、おれはかつて問題を犯した。でも、おれが起こした事件のつぐないはしたし、それについてもちゃんと後悔して、今はセミナーに通って真面目に働いているんだ。ちゃんとしたガールフレンドだっている。なにも知らない。関係ないから、本当に迷惑だから帰ってくれよ」
「残念だが帰るわけにはいかない。取引の中心に、あんたと親しいヴィトー・マルコーが絡んでいたことを我々は掴んでる」
「マルコー? ああ、あの洗濯屋のおっさんのことか?」
知るか、とニュアンスでミルズは言った。
「言っとくが、あんただけじゃない。彼と親しかった人間すべてに嫌疑が掛かってるんだ。ただ、拘束中のマルコーは、あんたの名前を一番に出した。問題はそれだけのことだ」
マックスは言った。ただ、本当の問題は、マルコーがいなくなる週の最後のセミナーで会ったのがこのミルズだったと言うことその一点だけだった。
「分かったよ。じゃあ、つまり、無関係だってことを証明すればいいんだろ?」
店に入ろう、と言うようにマックスは、コーナーのサンドウィッチショップを指差して見せた。ミルズは不承不承、ギターと譜面を片付けると、ケースの中に仕舞い、マックスの後ろからついてきた。
「マルコーとはかなり親しくしていた?」
「いや、別に。こっちはどうとも思っていなかったけど、席が隣になったから、世間話くらいなら適当にはしたさ。それで親しいなんて言われたら、心外だよ。悪い感情は持っていなかったけど、こう言うことなら話は別さ」
ショップの前に来る。入店する前にミルズが気づいたように、
「あ、まだ身分証を見せてもらってなかった。言っとくけど、バッジを見せてくれないんなら、こっちも一言も、話は」
と、言った瞬間、マックスはミルズのジャケットの襟を掴み、路地の中に引きずり込んだ。叫び声を上げそうになる口に、マックスは銃を突きつけると、耳元に囁きかけるように、騒ぐなと警告を発した。
「ま、待って・・・・・・・」
震える手が、ポケットをまさぐっている。武器ではない。ゴムで縛られたしわくちゃの1ドル札の束が引っかかりながら顔を出そうとしていた。その手を押さえると、
「金はいらない」
と、はっきりとした発音で聞こえるように言った。
「その代わり話をしろ。知っていることをなんでも話す。ルールはそれだけだ。よかったら、目蓋を閉じろ」
ミルズは指示していないのに、二回も瞬きをした。マックスは手を離した。その途端、ミルズは吠えつくように、言った。
「訴えてやる」
「残念だったな。おれは、警察官じゃない」
「じゃあ、いったい誰なんだ」
「勝手に想像してろ」
銃口を突きつけながら、マックスは言った。
「マルコーを探してる」
「お、おれは」
「知らないのは分かってるさ」
「じゃあ、なぜこんなことをするんだ」
ミルズは呻きながら、言った。反吐を吐きそうに腰が砕けている。
「マルコーはファミリーを騙して失踪したんだ」
事態の深刻さが分かったのか、ミルズは驚いて顔を上げた。
「最後に会ったのはお前だ。組織はお前が匿ったんだと思ってる」
「ひどい誤解だ」
とうとうミルズは半泣きになって叫んだ。
「確かに、あのおっさんとは親しく話してたかも知れないし、実際、そうだったかも知れないよ。だが、おれは関係ないし、ましてや匿ってなどいない。失踪したなんて、本当に、今知ったんだ」
「どうかな」
いじめるのはこの辺でやめておこうと、マックスは思った。一人だと、取調べは一人二役こなさなくてはならないから苦労する。
「おかしいと思ったんだ」
ミルズは独り言をぼやくように、俯いて、
「あのおっさん、先週は手がつけられないくらいハイだった。ディスカッションをしてるときだって、おれに何度も話しかけてきて、おれは新しいおれになるとか何とか、わけの分からないことずっと言ってるし・・・・・・ちくしょう、まさか、こんなとばっちり喰うなんて思ってもみなかった」
「新しいおれになるって?」
「知らないよ。だが、そう言ったことは事実だ。なにが分かったのか知らないけど、何か、発見したことをおれに散々自慢してた。だがそれも、おれにはほとんど、わけが分からないことでだよ」
ミルズの言ったマルコーの言葉は確かに、マルコーの翌週の失踪を暗示させる。だが、失踪者の態度としては不自然な部分も多い。マックスはそこでちらりと引っかかった。普通、失踪者と自殺者は、決意を悟られないように、人前では明るく、より誠実に振舞うものだ。ファイルをちゃんと確認していないが、失踪直前の家族の印象も同じものだったと、マックスは記憶していた。
「マルコーは何を発見したんだって? 金かポルノか?」
「知らないよ。でも金で買えるものじゃない、少なくともそうは言ってた」
ミルズはこれ以上、なにも知らないようだ。質問を変える。
「他になにか変わった様子とか、受け取ったものとかはないか」
「いや」
反射的にそう言ってから、ミルズはちらりと目を背けた。マックスはミルズの左手を取り、銃口をそれに無理やり押しつけてから、
「どうする? 明日から、三本指でコードを押さえる練習でもするか?」
「分かった、分かったよ! 話すから、それだけはやめてくれっ」
ミルズは叫ぶように言い、それを素直に渡すことを約束した。アパートまでついていったマックスは、ミルズからトイレに隠してあった黒い袋を受け取った。中身は、DVDディスクのようだ。それを取り出される間中、ミルズは未練がましくマックスを睨みつけていた。
「良かったな。おれじゃなく、ちゃんとした彼女に見つかる前で」
マックスは出際に捨て台詞を吐いた。
DVDは、やはりチャイルドポルノのようだった。袋にあるロゴに、マックスは見覚えがあった。アメコミ調のタッチで、サソリの尻尾を持つライオンが描かれている。【マンティコラ】だ。全米にネットワークを持つ違法ヴィデオの販売業者。
「いや、そいつはうちでは扱った憶えはねえな」
チェサピークが担当者を電話に出して語ったところでは、このレーベルのポルノを扱ったことは、一切ないと言う話だった。
「あんたが警官だから言うわけじゃねえが、おれたちは別にマルコーのやつに、裏ヴィデオを見返りに仕事をさせてたんじゃねえんだ。話は簡単さ。借金と、脅迫だよ」
かもな、と、マックスはあまり気のない返事をしてから、
「このレーベルは実質上壊滅して、地下の市場では出回ってない。今、こいつを所持してるのは、真性のマニアか、でなかったら、レーベルの関係者の生き残りしかいない。だが、主だったスタッフのほとんどは、州立刑務所で服役中だ」
「つまり、マルコーはこいつをどっかの誰かからこっそり、横流ししてもらってた、ってこったな」
「そう言うことだ。だからその線で洗っていけば、匿ったやつにたどり着ける可能性はあるぜ」
頭の中で事件ファイルを探る。記憶は、事件に関する断片的な映像や文面から芋づる式に引き出されていく。
 当時、と言っても五年前だ。【マンティコラ】は、ネット販売を除けば、バンやトレーラーハウスで移動して、神出鬼没的に州内外のマーケットに商品を供給する方法をとっていた。マックスは、ヴィデオの販路よりはいわゆるメーカー側に焦点を置いて捜査を進めた経験がある。非合法の撮影プロダクション、人材調達、これらをNYで担当している組織の家捜しをした。実はそのときにFBI側の捜査担当者として、共同捜査を行っていたのが、ヘクター・ロンバードだった。
ヘクターはほぼ三ヶ月で、商品の流通経路から組織の規模、さらに地区の首謀者の名前まで割り出した。州を越える犯罪組織や連続殺人犯を破滅に追いやってきたヘクターは、常に先手を打ち、関係者は時を追うごとに面白いほど捕まっていった。
個人の直観力と組織の総合力のバランスを上手くとって有機的に犯人を追い詰めていくヘクターの姿は、当時新米の刑事だったマックスから見ても、非の打ち所のない理想的な捜査官だった。
結果として二、三年で【マンティコラ】は市場から姿を消した。取り扱っていた商品は伝説として、今もインターネットの非合法サイトなどでプレミアものの値段で取引されていると言う。基本的にこうした極めて限定された趣味的な物品は、インターネットで同病の人間と広域に渉って付き合うことが出来るようになったとは言え、自慢するなら、ダイレクトに反応が返ってくる相手がいればそれに越したことはない。
コレクターの倒錯した心理だ。万人に受け入れられるもので決してあってならないが、自分以外に誰も価値を認めてくれないものでは、その所有欲は満たされないわけだ。
(・・・・・・・で、これからの問題は、そのマニア心の出所をどっから探るかだな)
ルートは玄人か素人。
だが玄人なら、マルコーを匿ったりはしないだろう。
(まだ、もう少し素人を当たってみるか)
マックスは、今度はチャイナタウンに向かって車を走らせた。
2‐1
新しいおれになる。
ミルズが言っていた失踪直前のセミナーでのマルコーの言葉を、マックスは、妙に記憶していた。不思議な言い回しだ。プレミアもののヴィデオを売り払って逃走資金にしたりせずに、ハイになっていた勢いに任せて、同じ趣味の人間に餞別としてくれてやるその行動も不可解と言えば、不可解だと、マックスは思った。
セミナーでのマルコーは、特に自省的で一人ずつ自分の罪とその悩みをグループで告白していくときにも、ひどく現在の自分を否定し、責めこむ傾向があったと言う。
「それも少し、浮いてたくらいだった」
これはミルズが話していたセミナーでのマルコーの印象の一つだ。
「手首に新しい切り傷が増えるたびに・・・・・いつも今の人生をやり直したい、自分をリセットしたいって、そう言ってた」
マルコーのターニングポイントは、十二歳のときに両親の再婚によって環境が変わり、そのストレスで脱毛症になったことだったらしい。つまり、新しい学校や友人と家庭内の不和によって、内気で孤独だったマルコーは、歪んだ性癖を持つようになったのが発端だ。
十三歳で露出をはじめ、十五歳で近所の五歳の女の子にいたずらをした容疑が掛けられている。このときは両親が庇ったお蔭で罪を逃れたが、そこから小児に性愛を抱くようになったと告白している。マルコーによれば、自身の罪は生育環境か、彼を躾けられなかった両親に帰結していくと言うことになる。
得体の知れない不快感で胸が詰まったマックスはファイルを助手席に押しやった。血流が滞ったこめかみが痛んだ。薬を持ってきていてよかった。そろそろ運転に集中できなくなってきていた頃だった。ペットボトルの水で流し込んだ。次のファイルを取り出す。
二人目は、レスリー・イル。コリアンの帰化二世。三十七歳、元・軍人で湾岸戦争での軍歴がある。六番街と七番街の間のコリアンタウンに在住、定職がある様子はなく、家族とも住んでいないようだ。
イラクでの兵站輸送中の事故で腰をやって、退役後の九五年に未成年と性交渉をもった疑いで服役を経験している。この男に目をつけたのは、出所後のセミナーで知り合ったマルコーの仕事を時々手伝って収入を得ていたと言う、ミルズの証言があったからだ。
「ポルノをやるから、なにか仕事を手伝えって言われたけど、怖いから断り続けた」
そう、言っていたミルズの言うことが、果たしてどこまで信用できるか疑問はある。例えばその【仕事】が、イルとマルコーを結び付けていた、と言う部分はミルズの印象で、想像でしかない。
物はもう押さえてある。
要は使いどころが問題だ。そう、マックスは思った。
イルはこの時間は住居にいない。仕事のとき以外は、市内を廻って、食料を調達しているらしい。NYはホームレスを放置しても、餓死させることは好まない。大学の食堂や教会が、スープキッチン(炊き出し)を実施していて、それにすがれば三食には困らないようになっている。
ちなみにコリアンタウンには、NY最古のスープキッチンがある。ここは一九二〇年代の世界恐慌の頃から、餓えた人々に食を供給してきたが、施設がホームレスたちにサンドウィッチとコーヒーを配るのは毎朝七時であり、今の時間はすでに終わっている。マックスは市内のスープキッチンのリストを手に入れ、イルの行動範囲内から、すでにいくつかのあたりをつけておいた。
捜し歩くと、すぐ隣のブロックの教会でイルを見かけた人間に会うことが出来た。
夕暮れに近い時間、この教会ではミートローフとフライドチキン、マフィンなどを振舞う。十五分程度の説教さえ聞けばお代わりは自由らしく、コーナーに長い行列が出ていた。バッジのないマックスはそれに紛れて中に入った。案内してくれたホームレスに札を渡し、イルの姿を見つけてもらう。
「あそこだよ」
そこにカーキ色のシャツを着た、ジーンズの男が座って牧師の登場を待っていた。脂で乾いた黒く長い髪を後ろで束ねている。短いあごに細い目、顔つきからしてもやはり間違いなく、コリアンだ。
マックスは人並みを掻き分けて、イルの後ろに立とうと腐心した。そのとき、ふと振り向いたイルがなぜか、マックスと視線が合って、驚愕の表情になって立ち上がった。
「おい!」
マックスが牛のように太った黒人の中年男を押しのけて顔を出したときには、イルはすでに後姿をみせて駆け出していた。なりふり構わない逃げ方だ。なぜだ。それにしてもなぜ。
「どけっ! どかないとぶっ殺すぞ」
マックスは銃を抜き、叫びながら、イルの後を追った。ここで発砲すれば、大パニックになっていただろう。イルは運良く開いた扉から、カートを押したユダヤ系の老人とすれ違いに、外へ出た。
一分近く遅れて、マックスもようやく外に出る。そのときには、イルは路地裏に逃げていた。その背中は少なく見積もっても十メートル以上の距離がある。マックスは全速力で追跡した。まだ、追いつけない距離ではない。叫び声を上げながら追いかけた。
イルは小柄だが、軍隊上がりの足腰が強く、すばしっこい。しなやかな筋肉が飛ぶように躍動する。まるで猿だ。障害物の多い狭い路を、かく乱するように逃げていく。
マックスも体力には自信のある方だが、狭い路では体格が大きすぎてなかなかスピードを上げにくい。その間にイルは、どんどん、距離を伸ばしていく。
立ち止まって足を撃ちぬくことも、マックスは考えた。しかし、相手は直線距離が長くなるルートを避け、曲がり道を駆使しつつ、巧みに背後からの狙撃を警戒している。これでは狙いがつけにくいし、乱射すれば当たらない上にスピードが落ちて追跡に集中できなくなる。
マックスに出来ることは、相手の持久力が尽きるまで追跡を続けるか、どうにか追いつく手段を講じて取り押さえることを考えるかの二つに一つしかない。
「くそっ」
レンガ塀を越えて、遮蔽物のない路に出たとき、マックスは耐え切れずに立ち止まって発砲した。しかし弾丸はかすりもせずに、イルの消えた曲がり角の壁を削って赤い石粉と火花を散らした。
あわてて追跡したが、完全に見失った。イルはすでに、どこかの角を曲がっているだろう。
「畜生っ! どう言うことだっ! いったい、どうなってやがるんだっ!」
マックスは怒りに堪えられず、絶叫した。
尾行がばれていたとは考えにくい。マルコーが注意を促した可能性があるとは言え、マックスはチェサピークの組織の人間ではないし、少なくとも、面は割れていないはずだ。にも拘らず目が合ったときのイルの反応は、なぜか尋常なものではなかった。なぜだ。なぜ、追跡がばれたのか。納得がいかない。
九ミリ口径の乾いた発砲音の残響が収まった路地裏は、不気味に静まり返っている。
マックスは呼吸を整え、気を取り直すことにした。チャンスはまだある。あると考えるべきだ。出来ればここで捕まえたかったが、もし逃げたとしても、立ち回り先に、彼はあらかじめいくつかの見当をつけてある。追い詰められているのは、向こうのほうなのだ。
外は大通りとは言えない、商店街の中道になっている。人通りの少ないわりに直線距離の大きなこの道に、イルは逃げ込むような真似はしないだろう。大通りに出られるまで、小道を使い、息を潜めながら行くはずだ。マックスは路を選んだ。しばらく行くと、砂地に新しい足跡があった。
銃を構え、マックスは歩を進めた。見つけたらまず、足を撃ちぬこう。無駄弾は、結局、人目を集める結果にもつながる。
そのとき、遠くで人の声があがった。アジア系の甲高い発音だ。方向が分からず、マックスは空を見上げた。一呼吸遅れて近くで物音がしたとき、マックスはそれがなんの音であるのか、まだ察しがつかないまま、そこへ走り出していた。
角を曲がって、マックスが見たのは、ごみ置き場のフェンスからのぞく、ミリタリーズボンの両足だった。左足はだらんと伸び、右は曲がったまま、フライドチキンのような格好をしている。イルは長い髪を振り乱して、うつぶせに完全に気絶していた。しかも口から白い泡を吹いて、どう見ても、しばらく話を聞ける見込みはなさそうだった。
「あ」
二人は異口同音に、お互いの顔を同じ表情で見上げた。イルの頭の先に、マヤが立っている。やや物憂げに髪をかき上げていた。
「なにをしてやがる」
口を開いたのはマックスだった。小さな声でマヤは答えた。
「仕事よ。彼は、昨日からずっと、あたしが追ってたの」
「お前の捜してる男とは違うだろ」
「手がかり」
自分の足元に伸びている男を指差して、マヤは言った。
「彼、ヘリックスと関係がありそうだった」
「そうかよ」
マックスは銃を突きつけた。
「悪いが、こいつはおれの獲物だ。見て分かると思うが、お前は、ここで引き下がるべきだ」
「それは無理」
マヤは間髪いれずに言った。
「引き渡すわけにはいかないわ」
「見れば分かるだろ? そう言わなかったか?」
だから?
そう言うように、マヤは肩をすくめて見せただけだった。
銃口を前にしても、マヤはまったく臆していない。視線も表情も、呼吸も普通に話をしているときと、そう変わりはない。はったりには違いないが、こういう場合、普通は出来ないし、やる必要もない。
身のこなしや立ち居振る舞いをみて分かるが、マックスからみても、目の前の女は明らかに異常だった。一般の同年齢の若い女とは違う異質すぎる雰囲気を、マヤは放っていた。
「どけ」
マックスは言ったが、一歩踏み込んだら危険なことは分かっていた。目の前の女は凶器を呑んでいる。その自信はそうとしか考えられなかった。今、彼女は長袖のブラウスの袖に右手を隠したままだらりと下げているが、イルを倒した凶器をそこに隠していることは、なんとなくでも、予想がつかないはずがなかった。
「・・・・・・OK、分かったわ」
ついに、マヤは言った。肩をすくめ、隠していた右手を開放した。そこから、鷲の爪の形状に似たカランビットナイフが一本、滑り落ちてきた。軽い、金属質の音が立つ。
「おれがバッジを持ってたら、留置所行きだぞ」
マックスは苦笑して言った。
「彼のよ」
マヤは視線を下げ、悪びれず応えた。全世界でカモにされている日本人と違って、どこか筋金の入った風格がある。ただどちらかと言うと、それは鍛え上げられた捜査官というよりは、マックスの経験から来る感覚からいけば限りなく犯罪者のそれに近い。会ったときからの疑問が頭をよぎる。この女はいったい、ヘクターのなんだ?
「手を上げろよ」
マヤは従順そうに、その通りにした。上げるとき、ため息をつき、ゆっくりと自分のてのひらをこちらに見せる。
「どうやら、あなたの言う通り。今の状況、見れば分かるね」
「日本人だったら、少しは利口に考えるこった」
苦笑しながらマックスが、銃を突きつけてマヤを遠ざけようとしたときだった。
「銃を下ろして」
背後でも女の声。マックスは動きを停めた。背中に銃口が押しつけられている。それが、感覚で分かった。
てのひらをこちらに見せていたマヤは、それを軽く外側に翻して、肩をすくめてみせた。銃口の先の彼女にとっては、明白に見て分かる状況だったらしい。背後から別の追跡者。例の眠たそうな目がマックスの表情を観察するようにうかがっている。
「グリップを前にして、マヤに渡したら、頭の上に両手を上げて、そこにひざまずきなさい」
「習ってるよ、どうすればいいのか。抵抗しないさ」
マックスはマヤの手の上に自分の銃のグリップを持たせると、指示された姿勢をとって両膝を突いた。背後の様子をちらりと伺う。きちんとしたスーツを着た、ブロンドの女がそこに立っていた。
「マヤ、ちゃんと指示を聞いてたの?」
詰問するような口調で、彼女は言った。たぶん、とマヤは曖昧な返事をして、後は知らん振りをした。
「理解してる? 何より、あなたの身の安全のために言ってるの」
「平気よ、シンシア。だって、まだ誰も殺してないし」
うるさそうに、マヤは言った。シンシアと呼ばれた女性は、呆れたように大きく息をついた。
「緊急事態なのよ。いい? マヤ、あなたが行方を晦ましてる間に状況は大きく変わった」
「あんたらいったい何者なんだ?」
マックスはついに耐え切れずに聞いた。
「彼女はヘクターのチーム。ついでに言うと、あなたもね」
「は?」
マックスの反応を無視して、シンシアは間髪いれずに命令した。
「来てもらうわ。あなたにはまだ、わたしたちに対する自分の義務をひとつも果たしてもらっていないわ」

「理解できない」
「なにが」
「すべて。最初から。なに、ひとつとしてだ」
マックスは、不満を露わにして言った。
「まず教えてほしいのは、あんたたちが本当に連邦捜査官なのか、それともキューバから来た人攫い屋か何かじゃねえか、どっちなんだってとこからだ」
マックスとマヤは、二人とも仲良く手錠をかけられ、後部座席に隣り合っている。マヤは手錠をかけられたまま平然と外を見たりしているが、理由も分からず拘束されて監禁されているこの状況は、もちろん普通のものではない。
「て、言うか、とれよ。手錠を外してくれ」
「似合ってるわ、それ。二人ともね」
とりあわず皮肉を言うとシンシアは、無情にドアを閉めると、運転席側に回った。
「出来ればずっと、こうしていたいぐらいよ」
「つまり、外す気はねえんだな」
マックスはうんざりしたようにため息をついた。
「おい、お前はどう思ってるんだ、これ」
「これ?・・・・・・ああ、別にいいと思うけど」
マヤはすでに別のことを考えていた、と言うようにそっぽを向いていた。マックスに指摘されて自分の手錠を見ると、ただそれだけで、後は感心なげに視線を外した。
「理解できねえ」
マックスはもう一度言い、大儀そうに首をひねった。
「なあ、こいつはともかく、おれは外してくれても構わねえだろ」
エンジンが掛かる。どこへ連れて行く気かは彼女しか知らないがシンシアはバックミラーを調節して、慎重に車をスタートさせた。
「今、手が離せないから、後でね」
「なめてんのか」
そのとき、手錠の鍵の代わりに、なにかがマックスの顔めがけて飛んできた。マックスはなんとか顔の前でそれをキャッチした。
「なにしやがるんだ」
「誤解されると困るから、ちゃんと自己紹介だけはしておくわ。FBIのシンシア・ハーディ。ヘクター・ロンバード捜査官と一緒に、全米を徘徊している殺人犯・ザッパーを追っていたわ」
「そうかよ」
IDナンバーの横には、シンシアの写真が収まっている。今のセミロングとは違い、この写真を撮った当時は髪を束ねていたらしい。
「ヘクター捜査官は、わたしのアカデミー時代からの教官で、ザッパー事件特別捜査班の主任として、三ヶ月前まで捜査の指揮をとっていたの。【マンティコラ】事件でのあなたの話は何度かヘクターから聞いていたわ、マックス」
「光栄だ。でも、握手のために、手錠を外したりはしてくれないんだろう?」
「手錠は外してあげるわ。もう少ししたらね。マヤ、あなたの方は山ほど質問があるわ。それに答えない限りは、手錠は外す気はないから覚悟することね。あなた、ヘクターから離れて、なぜひとりでNYCに残ったの?」
「ヘクターの命令よ。事情があって、彼が先にNYCに向かって、後を追ってあたしがここに着いた」
「あなたが受けた指示の内容は?」
「人探し。あたしの能力で探せることは探せるだろうけど、NYは詳しくないから。それで、マックスを頼れって言われたの」
「そう」
シンシアは、冷かな声で言った。
「で、・・・・・それなのにあなたたちは、なんで明らかに別行動をしてるのかしら?」
「知るかよ」
マックスはマヤを一瞥してから言った。
「そもそも、こいつが何も事情を説明しないから悪いんだぜ。大体、突然人の家に無断で侵入した得たいの知れない人間をどうやって信用しろって言うんだ」
論駁にマヤは視線をそらして、完黙を決め込んだ。
「不法侵入なら、あなたも彼女のことを言う権利はないわよ、マックス。二週間の停職処分中、街中で銃を振り回して容疑者を暴行、とても正気の沙汰とは思えないわね」
「余計なお世話だ」
マックスは怒鳴り声を上げた。
「なぜ、無関係のおれを巻き込む? そもそも、おれには関係ないんだ。ヘクターも、そのザッパーって殺人鬼の話も」
「わたしはともかく、少なくとも、ヘクターはそうは思っていなかった。そうなんでしょ、マヤ?」
「そうね、たぶん」
マヤは曖昧に肯いてみせた。
「マックスの家に入ったとき、ヘクターを見たし、それはそう昔のことじゃなかったから」
「どれくらい?」
「本当に、ごく最近よ。いつとは言えないけどごく近いうち」
「やつは、おれのうちになんか来ていない。でたらめ言うなよ」
「残念ながら、でたらめじゃないわ。彼女に限りね」
ため息をついてマヤの話を擁護したのはマヤ自身ではなく、なぜかシンシアだった。
「マヤ、本当なのね? じゃあ、あなたはヘクターとNYで別れた。その際、ヘクターは人探しをする前に必ずマックスに会うように指示をした。そしてそれは、ヘクターが彼になんらかの大切な役割を与えたから、そう言いたいのね?」
「そうよ」
シンシアの質問に、マヤはあっさりと肯いた。
「もともと、ただの探しものだけなら本来、あたしだけで何とか出来るの。それでもマックスに会えと指示したのは、ヘクターが彼の周辺を【視ろ】と言うこと。そう指示したと解釈したからこそ、無断で彼の部屋に入ったんだけど」
「ヘクターは確かに、あなたに【視ろ】と、そう言ったのね?」
「ええ」
二人は完全にマックスを置いて話に夢中になっている。なぜだかは分からないが、彼らはヘクターが【視ろ】と言ったことを異常に重要視しているように、マックスには聞こえた。
「おい、ちょっと待て。いったいどうしてそうなる?」
ついにマックスは声を張り上げて、その沈黙を破った。
「おれは、本当にヘクターから何かを頼まれたりなんかしていないし、今は引き受ける気もない。本人がさっきから主張してるんだから、どうかそれを信じてくれよ。お前らおかしいぞ。さっきから、本当に何について、話をしてるんだ?」
シンシアは今初めていたことに気づいたように、マックスを見ると、そうだったわ、と声を漏らし、
「分かってる。あなたにも、事情が分かるようにおいおい、順序を追って話をするわ。幸い、ここからロングアイランドまで話をする時間は十分あるでしょうし」
「おい、なんだって! ロングアイランドだって?」
マックスはマヤをおしのけて窓の外を見た。マヤは自分の側から外を見ればいいのに、と言う風に迷惑そうに彼を睨みつけている。
「ああっ、なにやってんだ! ふざけんなっ! ニューヨークに帰せ! すぐだ! 今、すぐにだ!」
「帰してもいいと思ったけど、そう言うわけにはいかなくなったわ。・・・・・・マヤの話を聞く限りでは」
「なんでだ!」
納得いかない、と言うように今度は、マックスがマヤの顔を睨みつけた。
「シンシア、状況が大きく変わった、そう言ってたよね」
マヤはそ知らぬ顔で話題を変えた。
「ええ、緊急事態よ。至急、あなたの能力が必要なの」
「だから能力ってなんなんだ?・・・・・・不法侵入の能力か?」
遠のいていく摩天楼の明かりをバックに見ながら、半泣きの声で、マックスが言った。
「ああ、それも説明する必要があったわね」
「説明しなくていいから、ともかくおれを降ろせ」
「シンシア、別に説明する必要はないと思うよ」
マヤが言った。
「聞くより、見た方が早いし」
 「そんなの知るか」
 マックスは完全にへそを曲げていた。

それにしても、シンシア・ハーディの運転はひどいものだった。
NYCを出て、今から朝までにアッパー・ブルックスヴィルに着くにしても、例えば無茶な追い越しをかけたり、麦畑を走るトラクターのように車線の不安定な走行をしたり、無意味なブレーキをかけたりするなど、道路保安官を挑発するような運転は必ずしもする必要はないとマックスは思った。
わざと不良運転をしていることでもない証拠に、走行中のシンシアは目立って無口になってきていた。マックスは彼女が運転に集中せざるを得ないそのときまでに、大体の事情を聞くことが出来てよかったと心底、思っていた。決して納得はしていないが、確かに、今が彼女たちにとって、急を要する事態だと言うことは十分伝わってきたからだ。
「つまり、こう言うことか」
マックスは聞いた。シンシアは注意をこちらに向ける素振りこそしなかったが、もちろん、聞こえていないはずはないと、マックスは思って、言った。
「ヘクターは、個人的に捜査方針を決め、あんたたちとは別行動をとっていた。その捜査の過程で、ザッパーに殺された、と」
「八割はあなたの言う通りよ。ただ、残りの二割はまだ推定でしかない。ヘクターは事件を調べていて、殺された可能性が高い。そして、殺したのはザッパーかも知れないし、別の人間の可能性もある。もっと言えば、この二割の推定を特定に変えるために、今、わたしたちはマヤの力を必要としている、と、そう言うわけ」
「この女は、いったい何者なんだ?」
「ヘクターは約百五十日前に、特別捜査班の主任を降り独自に捜査を進めていた。彼女・・・・・・マヤは、ある機関から条件付でヘクターに貸し出された特別なパートナーよ。ヘクターは彼女を連れて、この三ヶ月の間、捜査を続けていたらしいの」
陸軍のジープ並みのアップダウンの中で、シートにもたれて、マヤは子猫のように眠っていた。東洋人が同じ傾向があるが、その寝顔は起きているときよりも、遥かにあどけないものに見る者には映った。
「道理でな。年齢や雰囲気からしても、警察官じゃねえと思った」
マヤは、どうみても二十歳そこそこにしか見えない。
「映画かなにかで見たぜ。FBIの特別捜査官になるのにはやっぱり、それなりのスキルとキャリアが必要なんだろ?」
「確かにね」
シンシアは、詳しくは語らず、微笑しただけだった。
「ただキャリアとスキルを言うなら、彼女は他のどの捜査官にも真似できない力を持ってるわ」
「・・・・・・だからこそヘクターは抜けるとき、こいつを連れていったわけか」
「もちろん、理由はそれだけじゃないけどね。彼女はさっきも言ったとおり、特別なテストケースなの。扱い方を間違えると、非常に大きな問題になる可能性があるから、ヘクター以外は彼女を扱えなかったのよ」
「だろうな。もう、おれは十分ひどい目にあってる」
うんざりだ、と言うようにマックスはぼやいた。
LAガーディア空港の横を通り抜け、ロングアイランドロードに入ろうとする頃、マヤが小さくあくびを漏らして目を開いた。
彼女が目を覚ますと、シンシアは助手席から、手錠の鍵とまとめてあったクリアファイルのケースを放って寄越した。瞳からこぼれた涙を拭った彼女は、手錠がついたまま両腕を大儀そうに伸ばしながら、ファイルを読み始め、中から取り出した何枚かの鑑識写真に写った死体の様子を、しばらく真剣に眺めていた。
「国道で発見された死体は、四十代男性のもの、所持品はなし。人種は白人だけど、人相が判断できない状態に破損していて、個人の認証は難しいそうよ」
「指紋や歯型は?」
「地元警察が死体を照合して、身元の特定を急いでいる。・・・・だけど、あなたが前に言っていた事態がまた起こっていないとは、全然、言い切れないでしょう?」
「どう言うことだ」
マックスが遺体検案書を覗きながら口を挟んだ。
「指紋や歯型は無事だったんだろ? FBIに残ってるヘクターのデータベースと照合すれば、本人かどうかの判断は出来るだろう」
「理由は後で説明するわ、マックス。ただ、今言えることは、この遺体がヘクターであるかどうか判断することが、時を追うごとに難しくなる可能性があると言うこと。だからこそヘクターはわたしに、マヤを連れて至急こちらへ来るように連絡をとったんだと思う」
「そのようね」
マヤは言った。相変わらず、頭に入っているのかどうか分からないような顔で、報告書を見比べている。
「知っての通りテロリストか州を越えた凶悪犯の事件でない限り、地元警察はFBIの介入を許さない仕組みになってるわ。この遺体がヘクターかそうでないか、またはヘクターの担当していた事件と関係あると立証できない限りは、わたしたちは彼を、本格的に調べることは出来ないし、ヘクターの足取りを知ることも出来ないのよ」
「ヘクターのやつは、具体的にはなにをしてたんだ?」
資料を読んでいたマヤが答えた。
「エラ・リンプルウッド事件についての調査をしていた」
「エラ・リンプルウッド事件?」
「ザッパーの起こした中でも初期の五番目の犠牲者の事件のことよ。この名称はヘクターが便宜上、そう呼んだもので、FBIは公式にはこの事件に対して特別な見解は公表していないんだけど」
ただこの事件は、ヘクターがまだザッパー事件の特別捜査班主任を担当していた時期に、いくつかの報告書を提出しているとシンシアは付け加えた。もちろん、これらの捜査方針を示した内容は、外部には公表されていない。
「当初、四人の無関係な男女をボストン近郊で殺害したザッパーが、メイン州からその狩場をニューヨーク州に移して、初めて州を越えて犯罪を行ったケースであると言う以外に、捜査班はこの事件に、個別的な関心を払っていなかったわ」
「・・・・・ただ、ヘクターにしてみれば、はじめから気になる点はいくつかあったみたいだけど」
マヤが言った言葉に、シンシアも同意した。
「確かにそのようね。ザッパーの起こした事件全体の捜査を進めていく過程でヘクターはこの事件に特に関心を寄せ、徹底的に疑問点を洗いなおしたわ。彼が報告書で、疑問として問題にしたのは、主に三つの観点だった。最初の報告書で問題にしたのは、ザッパーが犯行を行う舞台を、マサチューセッツ州から、コネチカットを越えて、なぜニューヨーク州に移したかと言うこと」
また、都市部で犠牲者を物色していたザッパーが、人里離れた土地に邸宅を構えるエラ・リンプルウッドをなぜわざわざ狙うことになったのか、と言うことにも、彼は言及していた。
「でもこの点については、捜査班の中でもいくつか反論はあったし、わたしも求められていくつかの批判をした。それを否定することを一貫してヘクターはしようとしなかった。本部内でも出た批判として主な論点は、まず、ザッパーは犠牲者を、別に辺境で物色するような真似はしていないと言うこと」
エラ・リンプルウッドは、北米でも有数の認知心理学者の一人で、ボストンやマサチューセッツ、ニューヨークの各大学にも顔を出す機会を持っていた。また彼自身、カウンセラーとして多数のクライアントを抱え、活動の拠点は主に都市部に持っており、犯人がエラに目をつけたのは、都会である可能性が高く、遺体をわざわざ別荘に運んだことにそれほどの意味はないのではないか、と言うのがこの議論に対してなされた批判の要点であったと、シンシアは言った。
「確かに、犯人がエラをニューヨーク市などの都会で目をつけたとしても、それはわざわざ田舎のブルックスヴィルの別荘で遺体を発見させるように仕向ける必然性はない、と言う疑問は残った」
しかし、犯人は対岸のコネチカット州ハートフォードの港から船でニューヨーク州に入った可能性もあり、ニューヨーク市へ移動の途中にブルックスヴィルの別邸で休養をしていたエラに目をつけたのではないか、と言う経緯を割り出した、ある捜査員によって、この議論は終息に向かったらしい。
「次に彼が問題にしたのは、エラの年齢。彼は事件当時五十三歳で、今までの被害者の中では際立って最年長だった。これまで物色された被害者の平均年齢は三十一、二歳、プロファイリングでは、同年代の白人の男性を指し示していたわ。その基礎的なデータの中から、エラだけが除外されていた」
だがこの論点はやがて、時間が解決してしまうことになる。ニューヨーク州へ犯行の拠点を移したザッパーは、やがて幅広い年齢層に対しても、その標的を広げ始めた。
「現在、ザッパーは当初の分析の予想を大きく超えて、その犯人像も特定不能になってきている。確かに本部では毎週のように、目撃情報や重要な証言が寄せられ、公表しないけど、ときには犯人らしき人物の特定には至ることが今でもあるわ。でもその都度、証拠不十分やそれ以外、別の犯行との状況の辻褄が合わずに解放されるケースがいまだに相次いでいるの」
「模倣犯も続々と登場してきてるらしいしな。新聞で見た」
マックスの指摘にシンシアは、重いため息をついた。
「多くの場合、こうした事件にはいたずら目的や犯人を崇拝するあまりに犯行を真似る模倣犯が出るけど、それが現在に至るまでこの事件についてはさらに混乱に拍車をかけていることも事実よ。そして最後の報告書に指摘されているヘクターの最後の見解、つまり結論は、その混乱が捜査陣にまで影響を引き起こしたその最たるものと見なされることになった」
「最後のひとつはなんだ?」
マックスが聞いた。この答えにマヤが答えた。
「・・・・・エラ・リンプルウッド本人を、事件のもっとも重要な関係者、つまり首謀者と位置づける説」
「無茶だぜ。おれだって思う。・・・・・・さすがにそいつは」
さすがにマックスも呆れて言葉を失い、肩をすくめた。
「つまりこう言うことか? ヘクターはエラが本当はザッパーだと、こう主張したわけか」
「正確には彼の主張はあなたが思っているものと少し違うわ。でも、クレイジーだと言うでしょうね。ヘクターはそう言う非難を受けたし、げんにその見方を推し進めたせいで、上層部は彼を見放すことになったの。ちなみに言うと、今、わたしの上にいる上司のエインズワースは、ヘクターが降りてから、三人目の担当者よ」
マックスは首を振り混乱を振り払うと、苦笑しながら言った。
「なあ、だいたい、エラの遺体は発見されたんだろ?」
「そう」
マヤが言った。
「エラ・リンプルウッド博士は、アッパー・ブルックスヴィルの森の中にある所有の邸宅のひとつで、椅子に縛りつけられ、全身に十三発の弾丸を受けて死亡していた。発見者はサッシのガラスが割られたことで、警報が鳴り駆けつけてきたセキュリティ会社の警備員、身体的特徴と現場に残されていたテープの肉声から、遺体はエラ本人のものと断定された」
「ヘクターはテープの肉声の解析を行い、このテープはエラ自身が捏造したものだと主張したわ。もちろん、立証は不可能だった」
「でも、当局も遺体の損傷がひどく完全な指紋や歯型も検出出来ず、エラ本人ではない、という証明も出来なかったことを隠していたはずよ」
マヤが反論する。
「検証不能な事実は証拠にならないわ。それにそもそも、事件に直接の関係がないとすれば当局はさして注意を払わないし、検証の必要性も感じない」
その点についてはシンシアは、冷ややかな態度で抗弁した。
「この件でヘクターの報告は却下され、ついで彼は、捜査担当を外されたわ。指導力と統率力の問題から、チームを維持していくのに重大な欠陥があると、彼は糾弾される羽目になった。もちろん、ヘクターは報告書の内容を主張するにあたって、エラ・リンプルウッドの身辺調査をわたしの目から見ても過剰なまでの執拗さで行っていたわ。実際、彼は精神的な問題を抱えていたことは確かだし、続発する事件を放置して、捜査主任は現実逃避をしている、危機感を覚えた部下たちにそう糾弾されても反論の余地はなかったの。こうしてついに彼は担当を降り、わたしたちの前から姿を消した。それが三ヶ月前の彼の姿よ」
「で、ヘクターはその三ヶ月間、いったい何をしていたんだ」
「わたしも詳しいことは知らないわ。でも折に触れて、彼から連絡を受けていたから、ある程度のところまでは知っている。ワシントンから、ザッパーの犯行状況とは逆行する形で西海岸をめぐり、シカゴを経由して、ニューヨークに戻ってきた、と彼の口から直接聞いたの。どうも話によると、彼はカウンセリングでエラ・リンプルウッドとかかわりのあったクライアント全員をあたっていたみたいだけど」
「・・・・・・・もちろん、それだけじゃないんだけどね」
マヤの言葉に、マックスが訝しげな顔で聞いた。
「大体、なんでそんなことを?」
「それについては、わたしにも心当たりのないことじゃないわ」
饒舌に議論していたシンシアはそこでなぜか言葉を濁した。
「だけど、その点については、追い追い、話をしましょう。まず確認しておきたいのはとにかく、ヘクターの行方が分からない今、わたしたちは力を合わせなくてはならないと言うこと。協力してくれるわね、マヤ」
「ええ」
マヤは一呼吸遅れて、首肯した。
その声の響きと表情に、仕方ない、と言うニュアンスが含まれているのが、マヤの隣にいたマックスにはよく分かったが、自分に関わる問題とも思えないので、さしあたってここは、指摘せずに見ないふりをしていた。

3.プロダクト・キー

パイピング・ロックロードを北上した森林地帯の中にエラ・リンプルウッドの別邸がある。三人がここに着いたのは、もう夜も更けてからのことだった。
「よし、じゃあ今日のところは街に戻って明日にしようぜ」
マックスは一応聞いてみたが、誰も同意するものはいなかった。
「死亡推定時刻は夜明け頃、見ての通り、下は町になってるんだけど」
リンプルウッドの邸は、小高い丘の中の森に入り込むようにあって、その眼下には、小さな町がある。町明かりはこの邸がある坂のほぼ真下の裾野辺りまで続いていた。
「近くの住民が、ここから銃声が聞こえた、と証言しているわ。国道で発見された遺体に撃ちこまれていた弾丸と銃声の数は、ほぼ一致するし、遺体の足の爪や皮膚にこの屋敷で使われている、絨毯の繊維と思われる物質が検出されたそうよ」
「ヘクターはこの邸に侵入していたのね?」
「わたしに掛かってきた電話の内容では、そう言うことになるわ。それにリンプルウッド邸を調べていたら、庭の茂みの中にこれが落ちてた」
と、言って、シンシアがマヤに手渡したのは、FBIの捜査官の身分証だった。芝と泥に汚れた形跡がある。一目でヘクターのものであることが分かった。
「遺体は服を剥ぎ取られて、ここから車で運ばれた」
「そうよ、マヤ。殺害現場はだから、この付近のどこかだと考えて、わたしはいいと思う」
「そう」
マヤは、辺りを見回してから言った。
「じゃあ、自由に調べても?」
「そのための許可はとってきたわ。どうぞ遠慮なくやって」
シンシアは答えた。
ゲートから中に入ると、レンガ造りの路は二本に分かれている。まずひとつは一階のガレージに繋がっていて、そこはシャッターが下りていた。もう一つは緩やかなスロープを伝って、二階にある玄関に通じている。シンシアはゲートを開けると、車をすぐ前に停めている。見上げると、羽虫がたかった芝生の上の外灯が煌々と辺りを照らしていた。
玄関の鍵は硬く閉まっている。
「おい、本当に中に入れるのか?」
マックスの質問にシンシアは黙って、指をさした。リヴィングのサッシのガラスが破壊されているのが見える。
「誤解しないで欲しいんだけど」
と、シンシアは言った。
「発見時にはすでに破壊されていたのよ」
「・・・・・・ヘクターにね」
珍しく断定的な口調で言うと、マヤはサッシを開けて中に入った。
「マヤ、ヘクターはあなたと別れた後、まっすぐここを訪れているわ」
「記録があるって言ったけど、それはレンタカーの記録?」
「そうよ」
言うと、マヤは足音を立てずにフローリングの床の上を歩いた。階段は下のフロアから吹き抜けになっていて、大きな白い壁の空間には、巨大なカンディンスキーのリトグラフが掛けられている。そのすぐ真下に立ち止まると、マヤはインテリアの一部になったかのように、しばらく動かなかった。
「もう、質問はない?」
マヤは答えなかった。
「なあ、一体なにが始まる?」
手持ち無沙汰に耐え切れず、マックスが聞く。
シンシアは静かにして、とポーズをとってそれを制した。
「マヤ、もう質問はいいかしら? これ以上の先入観をあなたに与えたくないわ」
「あとひとつだけ、聞いておきたいことがあるの」
そのとき、背後に立ったシンシアを振り返らないままで、マヤがつぶやくように言った。
「なに?」
「あなたは確か、信用していなかったはずよ。あたしのこと」
「あれは、裁判官や陪審員を納得させられる力がない、そう言っただけのことよ」
シンシアは言った。
「真実を知るためには、今のわたしは手段を選ぶつもりはない。だから今、あなたがすべきことは、目の前にいる二人を納得させること、ただそれだけだと思って」
「OK、それが任務ね」
マヤは言った。暗闇の中で微笑したらしいが、マックスにはよく見えなかった。少し目は慣れてきてはいたが、部屋の電気をつけることが不都合な理由があれば、ペンライトのひとつでも持っていなければ、探し物など到底出来ない闇の中だった。その中でマヤは次に、マックスの前で驚くべきことをした。
闇の中で、彼女は手探りもせず、そのまま歩き出したのだ。
「こっちみたい」
来い、ともマヤは言わなかった。影は階下へ降りていく。あっと言う間に消えた。まるで自分の家のようなそれは無造作さだった。一方、シンシアとマックスは壁に頼りながら、階段を慎重に降りていく。
なにが起こってるんだ? 
マヤの姿が階下のリヴィングからも消えると、シンシアは持参したペンライトで足元を照らし始めた。階段を降りると、観葉植物の葉の陰に隠れていたスウィッチを探し出して、ライトをつける。
「見えてるのか?」
「ええ、見えた。ヘクターはやっぱりここに来ていた」
シンシアは言った。だが、それはマックスが聞いた意味と、少し違う意味のようだった。
「探し物が見つかった」
やがて奥で、マヤの声がした。地下の書斎の入り口だった。彼女は、クローゼットに掛けられていたらしい一着のスーツを持って現れた。
「・・・・・・・・見て」
色の合わない上着をのけると、シャツとズボンにそれぞれ大きな血痕と焼け焦げの穴が開いているのが、はっきりと確認できた。
3‐1
マヤが発見した着衣はすぐに、ブルックスヴィルの警察署に搬送され、そこで遺体との比較、検証がなされた。
「サイズや弾痕の位置、それに衣類に付着した血液からしても、着衣は遺体のものと一致したわ」
「ヘクターじゃない」
言うと、マヤは衣類の胸ポケットに入れられていた運転免許証をシンシアに渡した。ジョン・シュメリット。そこにあったのは、ヘクターとは似ても似つかない男の顔だった。
「彼はあの邸でヘクターに撃たれた。だから国道に放置されていた遺体は、彼の犠牲者。ここから、信じる信じないは、あなたの自由だけど」
「もちろん、信じるわ。だって、あなたが【視た】んだから」
「それ、偽造よ。どう見てもプリントが不自然だし」
ええ、とシンシアは言うと、マヤから受け取ったシュメリットの運転免許証を証拠品の袋に入れた。
「なあ、そろそろ説明してくれよ」
話の切れ目をうかがって、マックスが口を挟んだ。
「あんたらは【視る】って言った。こいつは一体、何者なんだ?」
「彼女は【追跡者】よ。・・・・・現場に遺された【視線】を感知するESP(超能力)捜査官」
「テレヴィとかで見る、夢で犯人の顔が分かるとかってやつか?」
マックスは驚いて、マヤの顔を見直した。
「別に超能力でもないし、まして、あたしは、捜査官じゃない」
マヤは、なぜかそこは頑なに首を振った。
「それだけは勘違いしないで」
「でも、あなたを頼りにしてヘクターが捜査を進めていたこと、これは事実でしょう?」
「捜査をするのは、彼よ。あたしはただのツールに過ぎないの」
ため息をつくと、マヤは言った。
「あたしが感知できるのは、ある特定の条件を満たした個人の見た【視点】よ。その人が見た過去の視線そのもの、さらに調子がよければ経験した感覚までリアルに再体験する。感知の範囲と感度は、その適合条件に探す当人が合えば合うほど強くなる」
マヤはペンをとってそこに、アルファベットを走り書きした。四つの大文字を持つそれらはS・S・E・L=Still Some Eyes Looking(まだ、誰か見ている)と、読めた。
「ヘクターとはずっと行動していたし、彼のこともよく分かっているから、あの邸に来たときにすぐに見えたわ。国道で発見された男は彼に撃たれた。あの晩、エラの別邸には二人の侵入者がいた。ヘクターが先、後にこの自称、ジョン・シュメリットが入ってきて二人は争った」
「現時点で、立証可能な根拠はない。でも、信じるわ」
シンシアは言い、携帯電話を取った。
「追うのは、ヘクターのレンタカーね?」
マヤは肯いた。手配のために、シンシアはその場を離れた。ちらりと、マヤはマックスを見た。確認するように、
「今度は、納得いった?」
「ああ、とりあえずはな」
マックスは、凝った首を押さえると、苦笑して肯いた。
「信じざるをえねえだろう。目の前で超能力捜査を見たんだ」
「だから、別に超能力なんかじゃないし、捜査官でもない」
マヤは、なぜか不満そうに言った。
「だが、結局、ヘリックスは見つからなかったのか?」
「ええ。似顔絵だけだと、足取りを追うには限界があるわ。でも、あなたが紹介してくれたお友達のお陰で、レスリー・イルにはたどり着けたわ」
「イルは、ヘリックスのなんだったんだ?」
「彼は代理人よ。でも、ヘリックスのじゃない。ヴィトー・マルコーと言う男のものだった」
「マルコーだって?」
マックスは、はっとして言った。
「ヴィトー・マルコーを知ってるのか?」
ええ、とマヤもマックスの意外な言葉に目を見開いてみせてから、静かに肯いた。
「ヴィトー・マルコーは、チェサピークって言うマフィアの下請けの死体処理係だった」
そこで初めて、マックスは自分の経緯をマヤに話した。
「やつはチェサピークから脅迫されて、マフィアが出した遺体の身元を消去するビジネスを請け負っていた。だが、やつはある日突然、姿を消した。おれは、チェサピークに弟のカールが作った借金五万ドルのかたに、そいつの行方を追う仕事をしていたんだ」
「ヴィトー・マルコーは、エラ・リンプルウッドの元・患者の一人よ。彼はエラからある役割を割り振られたひとり、つまり、エラ・リンプルウッドの代理人のひとりが、彼だった」
「マルコーが、エラの代理人だって? どう言うことだ?」
マックスは訝しげに首を傾げた。
「あたしも詳しいことはヘクターから聞いていなかった。でも、あたしたちがこの三ヶ月、全米各地に散らばったエラのクライアントを追い続けたのは、そのためなの。エラに選抜された特定のクライアントが、彼からある役割を委託されて、各地である仕事をしていることにヘクターは気づいていた。彼は、マルコーのような人たちを【代理人】と呼んでいて、その行方を追い続けたわ」
「その役割ってのはなんなんだ?」
マックスが聞こうとしたときだった。
「ヘクターが乗って逃げたと思われるレンタカーがクイーンズの倉庫街に乗り捨てられていたのが発見されたって」
シンシアが戻ってきて、二人に言った。
「まだ、どう受け止めていいのか分からないけど、とにかく、ヘクターは生きている、そう考えていいわね」
「なあ、それよりえらいことになってるぜ」
「聞いてたわ」
シンシアは肩をすくめてため息をついた。
「ニューヨークシティに戻りましょう。まずは、そのレンタカーから追跡して、ヘクターを確保することが最優先よ」
「OK。それなら、さっさと戻ろう。・・・・・ただ帰りは、頼むからおれに運転させてくれ」
「マヤ、あなたは?」
「あたしも異存はないわ。でもその前に、あなたとマックスに後もう一つだけ、確認しておいてほしいことがあるの」
マヤが決心したように言い出した。
「なに? 今出来ることならなんでもするわ」
「すぐに、FBIに電話して。なるべく早く折り返しで、至急、調べてほしいことがあるの」

「なあ、シンシア、君はいったい、なにをしているんだ?」
FBIニューヨーク支部のデスク。ウエンブリー・ガーラントは、いらだちを隠さずにため息をつくと、シンシアからの電話をとった。
『ガーラント。あなたに迷惑をかけたことは心底、謝る。今はそれだけしか言えないわ。でも、本当にごめんなさい』
「・・・・・・・・おれのことはどうだっていいけどさ」
アイリッシュ系の特徴的な濃い眉をひそめて、ガーラントは言った。甘いマスクだが、その誠実そうな印象は、結局は女性を許すことで今まで自分に損を抱えてきた男の顔だ。
「いったい、今どこにいるんだ? ロングアイランド?」
支部のホワイトボードには、大きな北米大陸の地図の上に、ザッパーのここ一週間の動きがペンで書き込まれたものが貼られている。
「先週は、ワシントンDCとサクラメントで遺体が発見された。今度はまた、ニューヨークかも知れないって、君は主張した。そこで君と僕が派遣されたんだ。ザッパーをいつ次の犯行を開始するか分からない。なのに君は、なぜ、辞めたヘクターの行方なんかを追ってるんだ?」
『事情があるの。・・・・・・それも、とても差し迫った』
シンシアは、切迫した口調で困り顔をしているガーラントに畳み掛けるように言った。
『至急、調べてほしいことがあるの。出来たらそっちに行く間に、折り返し電話をもらえると助かるわ』
「なんだって! 今からかい?」
ガーラントは目を剥いて、声を上げそうになった。
 『あなたしか今、頼れる人はいないわ。事情は必ずそっちに行ったときに話すから、まずは引き受ける、とそれだけ言って』
 「分かったよ」
少し考えてから、ガーラントは言った。
「で・・・・・・なにを調べれば、君は戻ってくるんだい?」

「あなたの言うとおり、手配したわ。すぐ連絡あると思う」
シンシアは電話を切った。今、彼らは、ロングアイランドから、車を飛ばして夜明けごろまでにNY市まで戻ろうとしている。マックスがハンドルを操っている。通話の終わりを待って、後部座席に座っているマヤに耐え切れなくなったように質問をぶつけた。
「結論を言えよ。ヘクターは一体、エラのなにを追ってたんだ?」
「正確には結論と呼ぶには、まだ程遠かったわ」
マヤは、首を振ると、残念そうに言った。
「でも、ヘクターはかなり近いところまで掴んでいた。【代理人】の仕事は、ヴィトー・マルコーについて、あなたが調べていたことと関係のあることよ」
「なんだって? どういうことだ?」
マックスは先を急がせるように、聞いた。
「不可解な、それも大量の失踪者の続出」
それに対してマヤは、ゆっくりと丁寧な語調で答えた。
「ヘクターは、あるきっかけでエラが担当していたクライアントたちの周辺で、大量の身元不明、不可解な失踪者が続出していることを突き止めたの。そして、それはエラが彼らに与えた役割・・・・・彼らの多くは、その役割を利用して多くの犯罪行為に積極的に加担して、任務の遂行と実益に役立てていた」
「・・・・・つまりこう言うことか」
マックスの言葉を、マヤの隣のシンシアが引き取って先に言った。
「つまり、エラはなんらかの方法でその不可解な失踪者を大量に出すやり方を彼らに指示し、エラの【代理人】である彼らはその方法を使って、死体の身元処理などの非合法行為に積極的に加担していたと、そう言うわけね?」
「その通りよ。例えばマックス、あなたが今追っているヴィトー・マルコーだけじゃなく、ヘクターが調べたところ、彼が過去に取り扱った事件にも、いくつかその事例があった。ヘクターが注目していたのは、ラルフ・トーレス。彼もエラの【代理人】の一人だった」
「誰なの?」
マヤの出した名前にマックスは思わず息を呑んで言った。
「・・・・・・【マンティコラ】の主要メンバーの一人だ。やつは巧妙に個人情報を操作して、年間百件以上の未成年者の略取に関わっていた。おれは、やつをマンハッタンのアジトで逮捕して、今も、州刑務所にぶちこんである」
「ヘクターはラルフへの尋問と事件の再捜査について、あなたに協力を要請しようと、ずっと考えていたわ」
「ああ、あいつの手口なら、おれほど詳しい人間はニューヨークにはいねえからな」
と、マックスは言った。
「だが、それにしてもラルフのやり方は恐ろしく巧妙だった」
マックスによると、ラルフは州からの補助金めあての偽の里親候補を上手く使って、裏ヴィデオの役者を調達していたらしい。ただ、無理やりヴィデオに登場させられた少年少女たちの中には、どうしても身元の確認がとれず、誰だかどうしても立証できなかったものも多く含まれており、立件に至らなかった案件がいくつもあったと言う。
「おれたちはやつが調達してきた未成年の行方を消し去る方法を、どうしても見つけることが出来なかった。結局、チャイルドポルノの販売でしか証拠が揃わず、やつを一生ムショにぶちこんでやることが出来なかったんだ」
「ニューヨークに限らず、ここアメリカで失踪者やまたは身元不明の遺体が、そのまま事情が掴めずに処理されるケースは多いけど、少なくとも統計に現れる総数の六割近くに、エラの代理人が関わっていた可能性が高い、と言うことを、ヘクターは主張していたわ」
「・・・・・・だが、それにしてもそこまで割れてるならなぜ、ヘクターはFBIの本部に駆け込まずに、リンプルウッド邸に行ったんだ?・・・・・・・それで、何の理由があって正体不明のあの男を殺し、姿を消した?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
当然のマックスの最後の疑問に、マヤは答えを持たない様子だった。無言でただ、首を振った。
「・・・・・・マックス、あなたが先に挙げた【マンティコラ】の事件についてもそうだけど、残念ながらこの話は決定的に物証が薄いのよ。例えば、ヘクターがリンプルウッドに疑いを持った件でも、わたしたちFBIは、故人の名誉毀損を訴えてくる懸念がある、リンプルウッドの遺族側に対して、対抗する証拠物件を持つことがついに出来なかったのよ」
言葉を選びながら、マヤが口を開く。
「あたしが具体的に話を聞いていたのは、彼ら【代理人】がどのようにして、エラから受けた任務を遂行し、身元不明の失踪者を生み出していたのか、その方法についてのごく限られたことだけだったの。彼らは非常に特殊な方法でこの世に生まれた人間たちの履歴を綺麗に、地上から消去していったわ。ヘクターはその方法のことをある、ひとつのコードネームで呼び習わしていたわ」
そのときだった。シンシアの携帯電話がバイブし、彼女はあわててそれを手に取った。
「ガーラント、調べてくれた?・・・・・・ええ、今、ニューヨーク市に戻ってくるところよ。クイーンズにヘクターが乗り捨てたレンタカーが発見されて今、そこに向かってるの・・・・・・で、結果はどうだった?・・・・・え・・・・・・」
電話口から発せられたその結果を聞き、シンシアは思わず蒼白になって絶句した。
「うそ・・・・・・どう言うこと? ガーラント、ふざけないで。いい加減なことを・・・・・・言わないで。あなたも、わたしも彼が存在していたことはよく分かっているし、彼の家族やハートフォードの家のことだってよく知ってる・・・・・・だからお願い、冗談だって言って」
「どうした? いったい、なにがあったんだ?」
シンシアは、混乱したまま電話を切った。前髪を掻き毟って、処理できない気持ちの氾濫に悶えるような仕草をした。
「シンシア? お前、どうしたんだ。早く話してくれよ。気になるじゃねえか」
マヤだけがその結果を予想していたのか、なんの表情も浮かべない顔で、じっと、手で顔を覆っているシンシアの様子をうかがっていた。
「マヤ・・・・・・」
大きく息をつくと、シンシアは聞いた。
「あなた、ずっと・・・・・・全部知っていたのね?」
「ええ」
マヤは静かな声で、こう答えた。
「おい、マヤ、どう言うことだ?」
「ありえない」
混乱の正体を象徴するかのような言葉を、シンシアは使った。
「どうした?」
「消えてるのよ」
シンシアは呻くような声で、言った。
「すべてよ。FBIに残っている個人記録も。社会保障番号も、出生記録さえも、ヘクター・ロンバードと言う人間の名義のありとあらゆるものは・・・・・・・すべて」
「おい、嘘だろ?・・・・・・・」
マックスは、首を振りながら言った。首に嫌な汗をじっとりと掻いているのが、自分でも分かった。
「ありえねえ」
「嘘じゃない」
愕然としながらも、シンシアは事実を認めるように言った。
「消えた。ヘクターの存在自体がこの国から、消えたの」
「嘘だろ」
その言葉を、マックスも繰り返すしかなかった。
「シンシア、確かにあなたの言うとおり、ヘクターが気づいていた真相に、今のところ何一つとして証拠はない」
マヤは言った。その頃には、この場にいる誰もが言葉を失って、マヤの声は墓場で死人に耳打ちするようにそっと、響いた。
「でも、証拠も何もかも、すべて消えてしまう、そのこと自体がすでに問題なの。だって、この国で自分が誰であるのか証明できない、と言うことは、この国で自分の存在自体がすべて消えてしまう、と言うこと。それに等しいのだから」
「・・・・・・・・・・」
「さっきの話の続きよ。ヘクターはこの現象の原因を、こう呼んでいたわ」
マヤは続けた。それは静かだが、不気味な内容の詩に似ていた。
「現実世界に存在する自分、という名の記録の集積からの逃避。その手段は、島に見まがう巨大な海亀のように、広大な仮想の世界に潜み移動し続けている。迷える人間はゆく。ゆくために逃げるのだ。・・・・・・・・それは、『亀の島への逃避(タートルランズ・エスケイプ)』」

ヘクター・ロンバードがエラ・リンプルウッド邸からその消息を絶って、ちょうど三十時間後の昼のことだった。ニューヨーク州立刑務所から、ある収監者が出所していた。
薄いブルーの囚人服を着替え、ブロンドの巻き髪の生え際の辺りをしきりに気にするその男は、本来なら、まだ、五年の刑期が残っていた。
刑務所で入れたお手製のボールピアスのついた唇で、上半身をチョッキのように埋め尽くした蛇のタトゥーのあちこちにキスしながら、彼はゆっくりと保釈のための準備を整えていた。保釈請求のための書類に記載された名前は、ラルフ・トーレスだ。
二時間後、口笛を吹きながらイースト川河岸を眺めて歩くラルフを、横を通った黒いフルストレッチのリモから男が、窓を開けて呼び止める。
「ラルフ・トーレス」
トーレスは、一瞥すると無関心を装ってまた歩き始めた。
「どうした、気分でも悪いのか?」
「馬鹿言うなよ」
一見人懐っこい童顔に笑みを浮かべると、トーレスは振り返った。
「その逆さ。ほっといてくれよ」
相手の男はにこりともしなかった。静かな声でこう言った。
「遠くへ出る。車が苦手なら、今のうちに言うことだ」
男の指示で、リムジンの後部座席のドアが開いた。行きかけたトーレスは、駆け足でそこに乗り込んだ。着ているジャケットの襟を直しながら、トーレスは耳やかましいほどの声で弁解をした。
「許してくれよ、冗談だよ! あと少し、シャバの道を歩いてみたかっただけだって」
と、トーレスは司法取引で自分の減刑を申請してくれた男の顔を見上げた。すでに何度か接見したので、名前は知っている。そう、確か、リプリー・レベッカーだ。
「さあ、リプリー、おれに最後の頼みってやつを言ってくれ。約束だ。シャバに出たら、おれは何でもあんたの言うとおりにする。その代わりにおれに、新しい身分と生活をくれるんだろ?」
「概ね、君の言うとおりだ。条件を確認しよう」
と、リプリー・レベッカーは言った。
「まずひとつ、君は私たちに指示したものを引き渡すこと。そして、それにまつわることで、君が知っていることをすべて証言する」
「ああ」
「そして、次にこの取引がなされた後は、私たちが用意した新しい身分と生活に溶けこみ、過去、ラルフ・トーレスであったことその一切を忘れること。それでいいな」
「誓うよ」
証人宣誓のポーズを真似て、トーレスは言った。
「星条旗に誓うんだったか、それとも聖書か?」
「どっちでもいい」
リプリーは言うと、車のスタートを指示した。
「まずは、【プロダクト・キー】だ」
「分かったよ、そう焦るな。説明がいる」
両手を広げると、トーレスは言った。
「・・・・・ひとつ断っておくけど、こいつを渡したところで、秘密のすべてに近づけるわけじゃないし、おれがあんたに話した以上のことが分かる保障はない。ここまではいいかい?」
「ああ」
リプリーは、穏やかに微笑して肯いた。
「【代理人】はあくまで【代理人】なんだ。代理人の仕事は、与えられた仕事だけを完璧に遂行することだ。・・・・・・まあ、おれは途中で出来なくなったけど」
トーレスは独り言を言ったが、リプリーはそれには触れなかった。
「次は?」
「もう一つは、【代理人】はあくまでおれだってことだ。これは別におれの命を安全に保障するためのはったりでもないし、もちろん、でたらめでもない。エラが言ったことだ。・・・・・・だから、例えばおれに代わってあんたがその役に納まろうとしても、たぶん、それは徒労に終わるだろう。その上で取引をしてくれ」
「ああ、納得しているよ。他には?」
一気に話したトーレスは大きく息をついてから、言った。
「ないよ。それさえ納得してくれれば、おれからは取引に、なんの異存もないし。じゃあ、それでいいのかい?」
リプリーは黙って、利き手を差し出した。トーレスは額の汗を拭って、しっかりと、その手を握った。
「契約成立だな」
二人は満面の笑みを浮かべていた。
「緊張したぜ」
トーレスは、大げさに息をついてから言った。
「やっぱり、弁護と契約は、弁護士にやらせるべきだな」
「書類を作成する。内容については、弁護士と検討するといい」
リプリーはにこりともせずに、そう言った。
「・・・・・・では、キーをいただこうか」
三十分後、フルストレッチはハドソン湾沿いに移動し、ちょうどブルックリン橋に差し掛かっている。その間、リプリーは二件ほど電話をかけ、それを尻目にトーレスは、車内に冷やしてあったシャンパンとキャビアで、久しぶりの外の生活を満喫していた。
「ひとつ聞いていいか、トーレス」
やがて、電話を終えた唐突にリプリーが聞いてきた。クラッカーにたっぷりと盛り上げたキャビアを頬張ったトーレスは上機嫌で答えた。
「なんでもいいぜ。だがもう、金になりそうなことはみんな、喋っちまったぞ」
「君は子どものとき、どう言う性格の子だった?」
「ガキのときか? なんでだ?」
トーレスは叫ぶように聞き返した。
「世間話だ」
リプリーの言葉に安心したのか、トーレスは肩を崩して、
「そうだな、今とは、まるで違うことは確かだな。暗くて、うじうじしてて、女みたいに色白だったから、そのまま大人になって刑務所にいったらさぞモテただろうな」
「お前の扱ってた商品でも人気品目になったかもな」
「失敗したな。撮っとけばよかった」
トーレスは酒臭い息を吐くと笑みを浮かべて、うそぶいた。
「今なら、分かる気がするよ。ズボンを脱がしてやりたくなるガキの気持ちってのがな」
車は倉庫街に着いた。
リプリーと運転手、トーレスの三人がそこに降り立つ。
「さあ、新しい人生が始まる。これで、ニューヨークともおさらばだ」
ほろ酔いのトーレスは嬉しそうに辺りを見回していた。
「船だろ? なあ、で、ここからどこに連れてってくれる? マイアミか、メキシコあたりか?」
「残念だがトーレス、どちらの希望も叶えられそうにないな。実はついさっきだが、緊急事態が発生してね」
「・・・・・え・・・・・・」
トーレスは動揺した。突然のことで、事態の把握が出来なかった。ただ、ここに来たときから、例えばこの場所からニューヨークを去るには、マイアミかメキシコに行くという選択肢の他にある、と言うことにはようやく気づいた。
「・・・・・・・嘘だろ?」
リプリーの背後で、二メートルはありそうな黒人の運転手が、ショットガンを構えて立っている。
「待ってくれ」
二人の間で首を振りながら、トーレスは自分が救われる手段を必死に探した。見るほど、リプリーは無慈悲な顔をしていた。それは、最初に刑務所で彼と接見したときの印象をまったく修正しなくてもよかった、と言うことを思わせるのに十分な表情だった。
「ジョン・シュメリットが死んだ」
リプリーは契約破棄の理由を簡潔に説明した。
「ブルックスヴィルのエラの別邸だ。彼は殺害されて、【プロダクト・キー】を奪われた。新しい【代理人】が、私たちには必要だ。そのことは、君も分かってるはずだろう?」
トーレスは泣き声をあげて、抗議する。
「説明を聞いてなかったのかっ、おれ以外の・・・・・・」
「大丈夫、お前以外の人間が【代理人】になったところで、問題は起きない。それはシュメリットのときに実証済みだ。そもそも、君に与えられた仕事の内容に、私たちは最初からさほどの興味を示していない」
「助けてくれ」
無駄だと知りながら、トーレスは最後の懇願をした。
「だめだ」
次の瞬間、トーレスは姿勢を低くして、背後に走り出そうと努力した。もし、トーレスのタイミングがもう少し良くて、映画の主人公のように運がよければ、弾丸を避けてトーレスはコンテナの陰に隠れることが出来たかもしれない。
しかし、リプリーからしてみれば、それは身体の緊張や目線から予想された動きに過ぎなかった。
ほぼ同時に、スプレー缶が破裂したような音がして、トーレスは身体に何かを抱え込むようにして転倒した。
リプリーは射撃のために少し腰を落としただけで、その立ち位置はほとんど変わっていない。人間を射殺することを訓練し経験を積んだ無駄のない動きだった。
最期の十五秒間、トーレスはリプリーの足元で一回転半して、空を見上げていた。驚愕の表情をしていた。なにを見ているのかは分からないが、天から、よほど恐ろしいものが迎えに来たのだろう。叫びだしそうな顔をしていた。しかし痙攣した唇はうわ言を漏らすかのようにしか動かず、やがてその痙攣は全身に伝わると、生還のために身体が行う最期の抵抗は徐々に失われていった。
「顔は中で潰そう。身体の方も念入りに焼くんだ」
心臓に命中した痕跡のこげ穴を確認しながら、リプリーは言った。サイレンサー付きのベレッタをホルスターに仕舞い込んだ。ショットガンを肩にかけた後ろの男が聞く。
「次は誰がトーレスになるんです?」
「さあな。別にいいぞ? 君でもな」
興味なげに言うと、リプリーはもう歩き出していた。倉庫のひとつ、すでにシャッターは開けられている。男は軽々とトーレスの遺体を担ぎ上げた。どこかに電話をかける。
「おれだ。ひとつ、空席を作った。もう、次の準備に掛かってくれ。遺体はこっちで始末する。【代理人】の代役の手配が済み次第、また連絡をくれ」

 「【プロダクト・キー】?」
 「ヘクターが調べたところによると、ヴィトー・マルコーたち、【代理人】と呼ばれる人たちの何人かは、TLEを使用するための特殊なキーを持っていたわ」
 タートル・ランズ・エスケイプ=TLEについて、マヤは知っていることをすべて話した。
 「TLEは、エラ・リンプルウッドが開発した究極の人工知能システムの名前なの。それがどう言う仕組みで、どのように使用するのかは分からないけど、これを使用することでこの世に電子情報として存在する特定個人のすべての記録は、完全に抹消される。彼ら、【代理人】と呼ばれる人たちは、そうやって大量の失踪者を生み出す使命をエラから請け負っていたの」
 「それなら、【プロダクト・キー】って言うのは、そのシステムを使用するためのパスワードのこと?」
 シンシアの問いに、マヤは首を傾げた。
 「恐らくそうだとは思うけど、確かなことはなにも言えないわ。エラは、彼自身が長年かけて選定した【代理人】たちにシステムの利用方法と【プロダクト・キー】を与えた。言葉どおりなら、それはTLEと言う【製品】を使用するためのパスワードと考えるべきなんだけど、そうすると二つ、疑問点が出てくるわ」
 「なんだよ」
 「ひとつは、エラは【代理人】の中でも、さらに選ばれた人間にしか、【プロダクト・キー】を付与していないこと。少なくとも、あたしたちがこの三ヶ月間に接触した十四人の【代理人】のうち、【プロダクト・キー】の存在を知っているものはその半数ほどで、彼らの中で実際にキーを持っているものは、そのうち一人しかいなかった」
 「・・・・つまり、【プロダクト・キー】はなくても、TLEは使えるってことか」
 マヤは肯き、
 「【プロダクト・キー】を持つ【代理人】には、特殊な方法で身体のどこか、眼球や唇の裏などに、それが印刷されているんだけど、キーがなにを意味しているのか、理解している人間は一人もいなかったわ」
 「もうひとつは?」
 「そもそも、プロダクト【製品】と言うけど、TLEそのものを、すなわち【代理人】が、TLEの入った、それらしいデータ媒体を所持していないこと。彼らは失踪者を大量に生み出すというその任務を遂行するにあたって、大抵、非合法の機関の犯罪行為に関わっている場合が多いんだけど、押収された証拠物件の中にも、また捜査資料にも、そうしたものが存在した形跡はなかったの」
 「・・・・・確かに、トーレスを挙げたときにも、そんなものは見当たらなかったぞ」
 「マヤ、まさか、あなたの能力でも、それを遺棄した場所を特定出来なかったの?」
 「ええ、発見できなかった。でも、ヘクターからすれば、これは逆にある仮説の裏づけになった。すなわち・・・・・・電子情報は【代理人】の手元には一切存在しない、エラはTLEそのものを彼らに与えていないとするならば」
 「まさか・・・・・・・」
 マヤの示唆に、シンシアは、はっと息を呑んだ。
 「TLEそのものは、例えばインターネット上のどこかに、存在するってことね?」
 「その通り。彼らはパソコンを使ってその作業を行っていたし、後考えられるとすれば、なにか特殊な方法で外部とアクセスしたと考えて間違いはないとヘクターは考えた。結果的に、ヘクターは、【代理人】のひとりと取引を行い、どうにか、TLEまでのアクセスには成功したらしいの。そして複数のサーバーを経由して、今は、ニューヨークにいるヘリックスと言う男が、そのシステムを管理していると言うことも」
「・・・・・・マヤ、それであなたは、彼にヘリックスを探すように指示されていたわけね?」
「そうよ。ヘクターは先にニューヨークに到着していて、ヘリックスを見つけたところで連絡をするように言われてたから、そのときはあまり気にしていなかったの。確かにこれまで手分けをすることは多かったけど、今回、彼は先に着いて、ニューヨーク市でヘリックスを探しているはずだとあたしは思ってたから・・・・・・」
「問題はどうして、やつが突然ロングアイランドにあるエラの別邸に足を運んだか、だな」
「たぶん、マヤに指示をして先にニューヨークに到着したときに、なにかに気づいたのね。わたし、彼がシカゴを発つ前に、空港から連絡をもらってるわ。なにか、とても大事な用事があるらしくて、至急、どうにかニューヨークに来れるように都合をつけてほしいと頼まれたの。ちょうど、捜査班がもう一度ニューヨークに目を向けはじめていたから、すぐに向かえたんだけど、彼、指定した場所には来なかった。記録を追ううちに彼が、ブルックスヴィルのエラの邸に向かったことを突き止めたんだけど・・・・・・まさかそこで、遺体があがるとは・・・・・・思ってもいなかったわ」
クイーンズで発見されたレンタカーは、確かにヘクター・ロンバードが、ブルックスヴィルからここまで運転してきて遺棄したと言う事実を指し示していた。
「レンタカーから採取した指紋は、このヘクターの身分証に残っていたものと、国道で発見された遺体のものとを採取して、FBIで検証してみるわ」
「お願い」
「・・・・・・分かったわ」
「どうかしたの?」
「・・・・・いいえ」
あまりにも予想外な事実の展開に、シンシアは驚く言葉を失っていたが、ヘクターの身元を確認するまでの一連の作業が彼女の気を紛らわせていたのか、今頃になって混乱が蘇ってきたのかもしれない。
「ちょっと今・・・・・・なんて言ったらいいのか、言葉が浮かんでこないのよ」
シンシアは言うと、大きく息をついて髪をかき上げた。
「あなたの気持ち、分からなくもないわ」
別れ際、慰めるようにマヤが言った。
「TLEの存在が分かってからは、ヘクターは極力、周りの人間を巻き込まないように努力してきた。だから、本当は彼もあなたに知らせる気はなかったと思う。それはヘクターの口から、ずっと聞いていたから確かよ」
「でも出来れば早く、知らせてくれるべきだった」
なにかを振り払うように首を振ると、シンシアは言った。
「とにかく、手分けしてヘクターを探しましょう。彼は、マンハッタンのどこかにいるはず」
「まずはヘリックスを探すことが出来れば、ヘクターに追いつくことが出来るかもしれない」
「・・・・・・そうね」
マヤの意見に、シンシアは賛成し、
「マックス、あなたはマヤと、その仕事にかかってくれる?」
「ああ、分かった。まあ、任せてくれ」
マックスは肯いた。
「わたしは、まずこの件を報告するためにエラ・リンプルウッド事件をもう一度洗いなおしてみるわ」
シンシアの言葉に、なにか胸に期するものを感じたのか、マヤは少し躊躇するような顔つきになったが、やがて思い直したのか、
「気をつけて」
「大丈夫よ」
その言葉にか、さっきのそのマヤのした表情に対してか、彼女は複雑な笑みを返してから、
「なにか分かったら、お互いに連絡を取り合いましょう」

4.秘密の入り口

「見ろ」
白いペンキの剥げたドアの上部に貼られた赤い紙を、指で叩いてマックスは言った。
「コート・オーダー(強制立ち退き命令書)。手遅れだ」
「あたしが見たときは、そんなものはなかったけど」
見ると、執行の日付は昨日になっている。マックスは首を傾げた。
「おい、ソロス。お前、本当にここに彼女を案内したのか?」
「でたらめじゃないよ! ちゃんと案内したってば」
ソロスは、半ブロック先から泣き叫ぶように言った。彼がマヤを部屋に連れ込む前になにをされたのか、今日呼び出したときのおびえ具合でマックスには大体の想像がついたが、どういう風にしたのかを、本人に確認することは恐ろしくて出来なかった。
「もう、勘弁してくれって! なんでもう一回案内させるんだ!」
「ソロスは、ああ言ってる」
「彼が嘘を言ってないことは、理解してるわ」
証言の裏はとれていると、マヤは言った。
「管理人の証言によると、ヘリックスはヘクターがニューヨークに現れたその晩に、こっそりと姿を消したそうよ。もともと部屋代も滞ってて、中を様子からして、どうもここには帰ってこないつもりで出て行ったのだと言うことが何となくわかったから、勝手に部屋を引き払う手続きをとったみたい」
「そもそもそのヘリックスって言うのは何者なんだ?」
マックスは路地の向こうに声を投げた。
「芸術家崩れの貧乏人さ」
ソロスの声が返ってくる。
「おれの知る限りじゃな」
ソロスの話では、ヘリックスがこの辺りに住み着いたのは、三年ほど前のことらしい。なんでもヨーロッパではそこそこ活躍していたイラストレーターらしく、一時期はそれなりに仕事にも精を出し、羽振りも悪くなかったようだが、ドラッグでバランスを崩し、それとほぼ同時にすべてを失った。
「特にここ一年ほどは、口には出せないくらいひどかった」
通りを南に出ると、レキシントンアヴェニューだが、ヘリックスはそこで一日中、道路に座ってぼーっとしているのが目撃されていた。ときに冴えていることがあったが、ほとんどは放心状態に近く、警官に保護されることもしばしばあったと言う。
「時計ひとつ、財布ひとつすら、身につけてねえんだ」
路上強盗すらも、しまいには相手にしなくなった、とソロスはうそぶいた。
「まあ、それでも、街を一日かけて廻れば、食うには困らないのがニューヨークさ」
ヘリックスが出て行った件については、ソロスも一応の見解を持っていた。
「インスピレーションが来るんだ」
そう言って、ヘリックスは用事もないのにどこかへ飛び出しては、十日間くらい、行方不明になることが何度かあったと言う。
「そんときは、ドラッグもなにも必要ねえらしい」
なにしろとんでもなくハイなんだ、と、実際その状態のヘリックスと話したことがあるらしい人間の証言を、ソロスは述べた。
「で、よく部屋を追い出されなかったな」
「不思議と、どこからか金を手に入れてくるつてはあったらしいぜ。行方不明にはなるんだが、家賃は追い出されねえ程度には払ってたとさ」
「どうやら、ヴィトー・マルコーは、ヘリックスの【代理人】だったみたい」
マヤが気づいたように言った。
「部屋の中を見せてもらったの。彼、パソコンどころか、電気や水道代も、ろくに支払っていなかったらしいわ」
「つまり、マルコーは【代理人】の【代理人】をやってたってことか?」
マヤは肯いた。
「だが、【管理人】の仕事はどうする? パソコンがなきゃ、TLEにアクセスすることさえ出来ねえんだぞ」
「だから、パソコンが自由に使える人間が必要だったんでしょう? 恐らく、彼が行方不明になっている期間は、TLEに関係した仕事をしていたんだと思うわ。マルコーと接触していたのか、それとも、別の人間に会っていたのかは分からないけど、定職のない彼が、収入を得て、ここに居を構えていられたのも、そのためだと考えるのが妥当ね」
言うと、マヤはドアノブに手を掛けようとした。
「待てよ、無許可で入るつもりか?」
マックスは思わず止めた。
「このアパートの大家が、鍵を持ってるはずだ」
「あなた、停職中でしょ?」
こっちの方が早いという風に、マヤは針金を二本取り出した。手馴れた仕草で鍵を開ける。空室の間、侵入者がないように取り付けられた鍵は、数分であっさりと陥落した。
「前に来たときは、中には案内してもらって入ったんだろ?」
「適当に嘘を言ってね」
マヤの言葉に、マックスが肯く暇もなかった。
「でも、もしかしたら強制執行が行われてから、部屋の様子も変わったかもしれないし」
だが、マックスが見る限り、中はマヤの期待に反して、完全に何も手がかりは得られそうにない様子に見えた。
「なんにもない」
ワンルーム、左手にキッチン、右側がシャワールーム。板張りの床は絨毯をひいてあった形跡があるが、すでに家具はひとつもなく、置かれたものの形に跡が残っているだけだった。
「あたしが来たときと、あまり変わりはないかも」
辺りを見回してマヤが言った。正直なところ、入り口から一通りみれば分からないところはなさそうだ。マックスも中に入り、探ってみるが、なにかが隠されているかもしれない、と探す努力をさせるのに十分な場所が、中を探って見つかるとは到底思えなかった。
「お前はここで、なにを見たんだ?」
「ヘリックスがここで、最後にみたいくつかの印象」
ベッドがあったらしい、四つの足の跡あたりに立って、マヤは言った。
「あたしが来たときにはまだ、数点のキャンバスがここにあったわ。彼はそれを眺めてから、荷物をまとめて外に出た。時間は夜、十八時より少し前。あなたが今立っているキッチンの壁の上辺りに置いてあった時計が出かける直前に目に入った」
「それから?」
「外はもう、日が暮れていたわ」
マヤは、マックスの横を通り、ドアを開けた。マックスは黙って彼女の後を着いていく。
「彼は戸口に立ってから、外をうかがった。そして、何度か振り返りながら、通りを歩いていった。地下鉄に乗るため。ポケットの小銭を数えた。途中で、部屋に鍵を掛けるのを忘れたらしく道を戻りかけた」
いきなり出てきたマヤに、ソロスが怯えた顔で飛びのいた。その少し先で、マヤはマックスを振り返った。
「それで?」
「理解できるのは次の三つの事実よ。一つ、彼はとても焦っていた。彼の視線は部屋にあった唯一の時計に、実は何度も視線を走らせている。荷物は出かける直前にまとめたから、彼の身に起こったのは突発的な事態だということが分かる。二つ目」
言うと、マヤはポケットからなにかを取り出してマックスに投げだした。空中で受け取ったマックスは手の中でかちゃり、と鳴る憶えのある音を聞いた。みると、それはこの部屋の鍵のようだった。
「彼は二度と、ここへ戻るつもりはなかった。だから出て行きかけたところで、部屋に鍵を掛け忘れたのを思い出して振り返ったけど、思い直して、アパートの鍵をここから投げ捨てた。それはそこの側溝で拾ったものよ」
「三つ目は?」
「合い鍵がなくてもその部屋のドアを開ける方法」
マヤは微笑して、
「防犯のため施錠したのは大家でしょうけど、この部屋のこの鍵は、見た限りでは、今、あたしが開けた方法で少なくとも五回は、開錠されてるようね」
「分かった。少なくとも、うち一回はこいつだ」
マックスは、事情が分からずきょとんとしているソロスを呆れ顔で見て言った。

ソロスと別れると、二人はセントラルパーク東通りに突き当たるまで歩いていった。
「ヘリックスが向かったのは、セントラルパーク。彼はそこで、メトロに乗り換え、ダウンタウンのブロックへ向かった」
「それからは?」
「さあ」
マヤは肩をすくめて、首を振って見せた。
「これ以上はわからない。情報不足よ」
「そいつの視線なら、なんでも見えるんじゃねえのかよ」
「そんなわけない。あたしの能力は予知能力者やサイトレーダーと違って、霊感は必要ないの。大切なのは印象」
「よく分からねえな」
マックスは言った。
「超能力じゃないのか?」
「簡単に言うとあたしの能力は、感覚記憶の情報を読む力なの」
ため息をついて、マヤは言った。
「視覚に限らず、人間が五感の届ける情報を確かな記憶として保存するには、感情と言うツールが非常に重要な役割を果たすと言われているらしいの。感覚器から発信された情報はまず、ごく簡単な記憶として一時、保存される。これを感覚記憶と言うそうよ。例えば視覚をデジタルカメラに喩えると、記録した映像は、まず一時メモリとして、ハードディスク、つまり脳のある部分に一定期間保存されるとイメージして」
「それなら分かりそうだ」
「じゃあ、マックス、そこからも同じよ。デジタルカメラで一時的にメモリに保存された映像が、選別されてメモリースティックに容れられるように、感覚記憶も、必要に応じて脳の皮質の色々な部分に照射されて保存されるの。このシステムはカメラの現像と同じで、より強烈な光を当てればより鮮明にプリントが残り、保存する力も高まる仕組みになっているわ。また、その記録は使用頻度に応じてより鮮明に保持できる力も内容の充実度も変わっていく。つまり、その記憶を使う機会があればあるほど、保存される力は強くなっていくわけね。心理学ではその度合いに応じて、これらを短期記憶、長期記憶として区別している」
「そこまでは、なんとなく分かったよ。で、それがお前の能力となんの関係があるんだよ?」
「デジカメの話に戻るわ」
マヤは言うと、
「マックス、あたしたちも記憶のメカニズムと同じく、デジカメで撮った映像は、必要に応じて記録に残すわ。その中でも、特に重要なものはプリントしたり、バックアップを作ったりして念入りに保存する。そのとき、あなたはどうやって必要なデータを選ぶ?」
マックスは少し考えた後に言った。
「人による・・・・・それぞれ、好みじゃねえかな」
「その通り、好みよ。脳も、必要な情報を好みに応じて、振り分けていく。但し、脳は正直だから、好みばかりではなく、その逆、とても嫌な出来事に対しても同じように作用するの。嬉しかったり、感動したりしたことだけでなく、とてもショッキングで、悲しい出来事もそうであるほど、鮮烈に憶えて忘れられないでしょう? つまり、強烈な出来事で感情が刺激されるほど、記憶は強く刻まれる仕組みになっているの。これは記憶を司る海馬と言う部分が、セロトニンという物質を使って、感情の上下や気分をコントロールしているためで、記憶と感情はそのために連動しているというのが、最近の仮説なんだって」
「で・・・・・お前はつまり、その記憶を覗くのか?」
「いいえ、あたしが見れるのは、そのときに脳に一時的に保存されてハードディスクに刻まれた記憶だけ。ハードディスクは不必要なデータを消去した後でも、再生ソフトをかけると復元するように、そこには記憶の元素が焼きついている。あたしが読み取るのはそこなの。だから、それは、より強い印象を持った体験であればあるほど、鮮明に読み取れる理屈になる」
「・・・・・分かった、もういい。だから、断片的にしか見られない、そう言うことなんだろ?」
「そうよ。そのために、彼らと違ってあたしには、出来るだけその人のデータが必要なの。彼らからデータを読み取って、実際のあたしの視覚にフィードバックする。HDの復元プログラムのように、感覚そのものを再現することによって他人の記憶を追体験する能力なの。だから、記録されている映像やプロフィール、実際に会った印象・・・・・・・イメージがリアルであればあるほど、追跡の能力は高まると言うわけ」
「百二十分歴史の講義を受けた気分だ」
マックスは顔をしかめて頭を押さえた。
「勉強嫌いだったの?」
「見て分からないか?」
マックスは肩をすくめ、
「まあいいや、ヘリックスの話に戻ろう。つまり、お前の話だと、やつは緊急事態が起きて、急遽ここを出て行かなければならなくなった事情が出来た。そこでとるものも取り敢えず、自宅から逃げた。そう言うことだな」
「あなたの言うとおり、彼は逃げた。そしてそれは時間的にみて、ヘクターに起こった緊急事態とも符合しているわ」
「で・・・・・・・いったい何があったんだよ」
二人は、まだそれに明確な答えを出すことは出来なかった。
「ヘリックスが【管理人】だと証言していたのは、マルコーか?」
「ええ、ヘクターの話だと、そうらしいわ。彼はラルフ・トーレスからマルコーが仕事を請け負っている【代理人】の名前と、ヘリックスが【管理人】でもあることを聞いたらしいの」
「【マンティコラ】の全盛期にニューヨークでは、マフィアの下部組織が積極的に流通に関わっていたからな」
新しいおれになるんだ。
ヴィトー・マルコーの言葉が、そのとき、マックスの思考に入り込んできた。思いがけずその言葉をつぶやいたマックスは、はっとした顔でマヤに見られた。
「今、なんて言ったの?」
「新しいおれになる。マルコーの言葉だ」
マックスはもう一度同じことを繰り返すとそう言った。
「失踪前、マルコーはなにかを発見したと、周りの人間に言ってたぜ。それは、TLEに関することと考えて間違いねえだろう」
右手にメトロポリタン美術館が見えてくる。建物のある通りに差し掛かったとき、マヤがふと、その身体をこちらに寄せてきた。はじめは前方から歩いてくるトルコ系の観光客の集団の進路から外れるためにその行動をとったのだとマックスは思ったが、マヤは恋人がそうするように、ごく自然に彼の腕をとると、頬に軽くキスするような距離で、突然、こう囁いた。
「・・・・・・尾行けられてる」
「誰だ」
と、言うようにマックスは目線で聞いた。小声でマヤは言った。
「後ろのカップルより、二人後ろ。パープルのパーカー、フードを被った男」
突然、マックスは後ろを振り返ってみた。
尾行者は素人だった。如実に反応した。ナップザックを背負った日本の大学生風のカップルの後ろ、パーカーのフードを被った白人の男が、マックスの急激な動き方に驚いて、肩を緊張させて身構えた瞬間が見えた。年齢不相応のツーピースを着た中年女性の陰に隠れたが、すでに遅すぎた。
「ナイフを呑んでる」
マヤは言った。さっきの様子では手元は両方とも、パーカーのポケットに突っ込んでいて、見えなかった。マックスは聞いた。
「どうする?」
「事情を聞くわ」
マヤは別に、緊張した風もなく、やはり眠そうな声でそう言った。
「合図したらあそこの角まで走って」
身体を離して少し後ろに回ると、とん、とマヤは肘で合図をしてきた。その瞬間、マックスは走った。人ごみを掻き分けて、全力でダッシュする。振り返ると、相手はついてきたが、不思議なことに、マヤの姿はどこにも見当たらなかった。
指定されたところの角に着くと、マックスは立ち止まって息を潜めていた。恐らくマヤがここに上手くおびきだしてくれるのだろう。角から現れた気配に、マックスが飛び出そうとしたそのときだった。
「もう、いいわ」
マヤの声が聞こえてマックスは驚いた。みると、パーカーの男がマヤに背後を取られて、両手を頭の上にしたままでこちらに歩いてくる。マックスは、苦笑して肩をすくめた。
「出番なしかよ」
男が所持していたのは、刃渡りの長いタイプのフォールディングナイフだった。後ろからでもこれで肝臓を一突きできる。
「知り合い?」
マヤは聞いた。彼女に見覚えはない、そう言うことらしい。マックスはフードの下から覗き込んで、
「・・・・・・残念だが」
「あなたも知らないのね」
「顔見知りだ」
マックスは言った。ため息をつくと男の胸倉を掴み、一発殴った。
「レコ、お前を探してたんだ。カールをどこへやった?」
レコと呼ばれた男は、切れた唇を押さえると、怒りに震えているマックスの顔を反射的に睨み返した。

ジョン・シュメリットの遺体とエラ邸での出来事の一連の処理を行った後、NY市立図書館の広場前で、シンシアはガーラントと会うことにした。ガーラントは、予定より十分ほど早くやってきた。一方、館内にいたシンシアは携帯電話の電源を切っていて、約束の時間になったことに、五分ほど気づかないで過ごしていた。
「シンシア」
ガーラントは屋台のタコスと飲み物を買って、ずっと一人で待っていた。シンシアの姿を見つけると、あわてて荷物を抱えて駆け寄ってきた。
「待たせてごめんなさい、少し、調べ物が長引いたわ」
「それより教えてくれよ。今、いったい何が起こってるんだ?」
「わたしにも、まだよく分からないのよ」
二人は、お互い同時に同じ仕草で首を傾げたのを可笑しがった。
「消えたヘクターの個人情報は、今、復旧に大忙しだよ。データを取り扱っていた担当者の責任も追及されている。復旧に際してはハートフォードから、彼の家族に来てもらって、出来る限り早く元あった情報の再現に努めるつもりだけど」
TLEによって消去されたヘクター・ロンバードの記録は、やはり電子化された情報のすべてに及んだようだ。FBIの本部が保持している彼の個人情報だけでなく、出生記録に職歴から納税記録、はては彼名義にしていた銀行口座までもが過去の履歴に渡り、最初から存在しないことになっていたらしい。
「君の言うとおりなら、そのTLEと言うウィルスソフトは、前代未聞の恐ろしい情報兵器になりうるものだよ。僕の調べた限り、システムには外部からなんら干渉を受けた形跡すらなかった」
「エラ・リンプルウッドがなんらかの目的のためにそのソフトを開発して、各地の自分の代理人に大量の失踪者を生み出させていた。そこのところまで、ヘクターは突き止めていたらしいの」
「それも聞いたよ。恐らく途方もない話だ」
ガーラントはため息をつくと、
「・・・・・問題はエラがTLEによって何をしようとしていたのか、それとザッパーの一連の事件にはどう言う関係があるのか、と言うことなんだろうけど」
手提げバッグに用意していたファイルをシンシアに渡した。それらはFBIの公式な資料と言うよりは、ヘクターが私的に保管していた資料群をファイリングしたものだった。
「僕も君に話を聞いてから、エラの事件はみた。まずやったことはエラ・リンプルウッドの遺体の検案報告書の再確認だった。でも、確かにこの事件で死んだのはエラ本人に間違いなかったよ」
「それはわたしも同じことをしたわ。あの事件でエラは死んだ。遺体は今も、ロングアイランドの墓地に眠っているはず。ただ、それだけで、一連の事件の関係性が切れたわけじゃないでしょう?」
「分かってるさ。ザヘル・ジョッシュのことだろ?」
ガーラントは気にかかる苦笑をみせて、肩をすくめた。
「ザヘル・ジョッシュは確かに、エラが長年かけて付き合ったクライアントの一人で、成長してハーヴァード大学に十六歳で入学後、飛び級を繰り返し、MITで博士号までとったまだ若干二十二歳の天才だった。彼は、エラを崇拝するほどに尊敬していたけど、ヘクターが彼こそザッパーであり、エラ・リンプルウッドが自分の空想を実現させるために犯罪を実行させた、と言う結論はどう見てもこじつけだったと思うけどね」
「確かに、当初、ヘクターが彼に目をつけたのは行き過ぎだったと思うわ。でも、ヘクターはまず、エラが境界性人格障害の性向があるザヘルの攻撃的で病的な妄想をコントロールしようと長年努力していたことに着目していた。そしてそれが逆にザヘルを暴走させる結果になってしまい、ザッパーの五人目の犠牲者になったのではないか、と言うことを嫌疑の第一の仮説としていた」
「だが、その件では証拠が揃わず、ザヘルを逮捕出来なかったことがヘクターを暴走させた。しかも彼を拘留中に、マンハッタンで二件のザッパーによる犯行が発生し、結果的にザヘルのアリバイを立証することになってしまった、そのことがヘクターにとって、最後の駄目押しになった。その経緯は、他でもない、君が一番よく知ってるはずだ」
「ええ、憶えているわ。そう、ヘクターに駄目押しの一撃を与えたのは、わたしと・・・・・・あなたの二人だったことをね」
「あのとき、どう客観的に見ても、ヘクターの話は途方もなかったし、彼は精神的にも追いつめられて、明らかに常軌を逸してた」
「そうね。わたしも、ヘクター自身のために・・・・・・彼は事件を降りるべきだと、あなたと判断したからこそ、踏み切ったことだったし、その判断に間違いはなかったと思う」
シンシアは切なげに眉を歪めると、振り払うように首を振った。
「でも、それは過去の話よ。わたしたちは、ようやくヘクターに追いつくことが出来た。エラは確かに、巨大な計画を画策していたし、全米に散らばったTLEの【代理人】によって、それはまだ進行中と考えていい。今、わたしたちがすべきことは、せめてわたしとあなただけでも、ヘクターに対して自分たちが犯していた過ちを認め、真相の捜査に全力を尽くすことしかないわ。そのためにはまず、エラがTLEを使っていったいなにをしようとしていたのか、そこを突き止める必要がある。それには、彼の意志にもっとも近かったと思われるザヘル・ジョッシュを調べることが先決じゃないかしら」
「だけど」
「確かに心理学者として、エラは際立っていたけど、情報技術に関してはザヘルの右に出るものはいなかった。例えば図書館で調べたんだけど、エラとザヘルは、七年前協力して、独自の理論を実現した人工知能の開発に成功しているの。少なくとも、TLEは彼の協力なくしては完成に至らなかったと考えて間違いはないわ」
「ただ、そのザヘルだって、今、消息が分かってない」
「でも、過去の足跡を追うことで真相には近づけるはず」
シンシアは言うと、ファイルの中身を開いた。そこにザヘルの写真がプリントされている。気弱そうな笑みを浮かべた、太い栗色の眉毛が印象的な青年の姿があった。
「・・・・・・・・・・・・」
「なあ、シンシア」
すでに資料に没頭しているシンシアの姿を心配そうに眺めていたガーラントは、ふいに口を開いた。
「なに?」
シンシアはそこから顔を上げずに聞いた。
「この件について、僕の意見も聞いておいてほしいんだけど」
「話して」
予感はあった。その中で、シンシアは聞いた。
「ヘクターに対する自分の罪を償うために事件を追うなら、君はこの件に、あまり深入りしないほうがいいと、僕は思う」
「なぜ?」
「はっきり言って、君は罪悪感から事件を追っている」
「違うわ」
言下に、シンシアは否定した。
「わたしはただ、自分のすべき仕事をしているだけよ」
「それならいいけど」
その反応の速さのわけを、ガーラントはよく知っていただけに、切なそうに顔を歪めた。もちろん、彼女にここで本心を言わせることは不可能だと、彼にはよく分かっていた。だからこそ、はっきりさせておきたいことがあって自分はここに来た。そのように、断った上で、ガーラントはシンシアにこう、言った。
「僕が君に協力するのは、君を納得させるためでしかないと言うことを、くれぐれも忘れないでくれよ。君は今、【追跡者】の彼女と行動をともにしているんだろ?」
「確かにそうだけど、そんなこと今、関係あるとは思えないわ」
「彼女だって君に、なにかして欲しいと望んだことはないはずだ」
「・・・・・・・・・・・・」
「ヘクターの件について、正直君は、自分を責めすぎてると、僕は思うけど」
シンシアは応えなかった。代わりに、ガーラントの言うことを否定するように首を振ったが、反駁はしなかった。やがて、ただなにかを言わなければいけない義務感に駆られるように、ためらいがちに口を開いて、
「あなたに迷惑を掛けていることは・・・・・理解しているし、その点については、すまないとも思ってるわ。・・・・・・でも」
「確かに君に協力するのは、僕自身もヘクターや彼女に対して、こうなってしまったことに責任を感じているからではあるけど、話を聞くほどにこの事件は個人的な感情だけで、処理出来るほど小さなものじゃないことは明白だ。それは、君が一番よく分かっているはずじゃないか?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「本来なら、この件はもうすでに僕たちの手に負えなくなっている可能性がかなり高い事件になっている。・・・・・僕も、いつまでみんなや上司に黙っているべきなのか・・・・・・正直考えているところなんだ。・・・・・・そのとき、ヘクターばかりでなく、君まで犠牲にはしたくないんだよ」
「ありがとう、ガーラント」
ようやく、シンシアは言った。
「あなたには感謝してるわ」
「感謝する必要はないさ」
ガーラントは小さく首を振ると、言った。
「一応、忠告もした」
「また、連絡するわ」
シンシアが差し出した手を、彼は、握り返した。
「そうしてくれ。僕はいつでも、待ってるから」
それからガーラントは、二度は振り返らずに車に乗った。

「マックス、彼を紹介して」
マヤは、椅子の背もたれにしっかりと拘束された男を一瞥すると、マックスに言った。彼女がした、拘束はやはり完璧だった。さっきの手際と言い、ただの超能力者にしては手馴れすぎている、とマックスは思った。やはり、彼女自身が言うとおり、マヤは捜査官ではないのかもしれない。これは便宜上の意味だけではなく、その本質からしても、その通りなのかもしれないと言う意味でだ。どこか、マックスやシンシアとは違う空気を、彼女は持っている。
「カールの馴染みだ。いなくなった弟の真相にたぶん、絡んでる」
「誤解だ」
レコは吠えつくように、言った。マックスはその顔をもう一度、右フックで殴った。
「聞いてねえよ。それに喋るなら、もう少しマシなこと喋れよ」
マヤは自分には関係ないと思ったのか、あくびを漏らすと、キッチンでコーヒーの準備をしている。マックスは自分の分も頼むと、キッチンに断ってから、
「誰だ? まあ、だいたい察しはついてるが」
「じゃあ、聞く必要なんかないんじゃないのか?」
ふてくされた顔で、レコは吹いた。
「ウィルダムスのクソ野郎に言っとけ。今は、お前に関わってる暇はないってな」
「自分で言えよ。びびってなければな」
「お前はカールの居所を知ってる」
マックスは言った。もう一度殴ろうと思ったが、これ以上はあまり効果がなさそうだと考えて、思いとどまった。
「知るか」
レコは、顔をしかめ、血の混じった唾を吐くと言った。
「知ってることは一つだけだ。カールが消えたのは、あんたが金を出さなかったからだってことだ。やつはいつも、あんたのことを愚痴ってたぞ。自分勝手で、何も知らないくせに、いつも自分だけがこの世で一番正しいと思ってる。そういうやつをなんて言うか知ってるか? おれは知ってる。偽善者だ」
「やめて」
マックスはその瞬間、目の前にいる男のあごを蹴り上げそうになったが、マヤに止められて引き下がった。
「邪魔すんな。お前にはなんの関係もないことだ」
「これ以上、あなたのやり方に効果があるとは思えないから止めたの。それに、レコ・・・・・彼と話が出来なくなったらあたしも困るし」
「なんだって?」
まだ怒りが収まらないマックスに、コーヒーの入ったマグカップを差し出すと、マヤは言った。
「あたしにも関係がある。そう言ったのよ」
沸騰した湯が入ったケトルを持ったまま、マヤは縛りつけられているレコの前まで行くと、その特殊な能力をもった瞳で、じっとレコの青い瞳を覗きこんだ。
「こういう時は、顔色を見るの」
マヤはマックスに振り返ると、研修の教官のように言った。
「例えば・・・・何を隠してる?」
レコは不機嫌そうに顔を歪めてマヤを睨みつけたが、異質な空気を感じると、怪訝そうに顔を反らした。しかしその目は落ち着きなく、動き続けている。みて、とマヤはレコの様子に注意を促して、
「彼は今、不安にさいなまれているわ。なぜか? これから、拷問を受けることを怖れているから? ただ、それだけだからじゃない。もしかしたら喋らざるをえなくなる事態が来そうなことに怯えているのよ。・・・・・・・・そう、捕まることを想定してなかったから、ナイフ以外に所持している証拠を、隠す暇もなかった」
言うと、マヤは突然、レコのズボンのポケットを探り、その中から折りたたまれた二枚の写真を取り出してマックスに手渡した。レコが抗う暇もない早業だった。マックスは、それをみて少し驚いた。一枚目はマックスだった。それは予想通りだったが、しかし、二枚目の写真がマヤだとは思ってもいなかったからだった。
「見た? あなたの狙いは、マックスだけでなくあたしも含まれてる。あたしが聞きたいのは、このことを誰に頼まれたかって言うこと」
「マックスが知ってる」
視線を反らして、レコは言った。しかし否定する語調と雰囲気は、さっきと比べると、大分弱いものになっていた。
「あたしは知らないし、それはマックスが推測したこと。それにあたしは、あなたの口から直接聞きたいの」
今度は、レコのズボンにマヤは手をかけた。ベルトを緩め、中身を露出させる。そして反対側の手で焼けついたケトルを近づけた。
「お、おい、何をする気だ」
「あなたが口にするのはあたしが聞きたいことに関することだけ。まず、頼まれた仕事の内容、依頼人の名前。・・・・・・・それに、カールに関して、あなたが知っている事情のすべてよ」
「・・・・・・やめろ」
細長いケトルの口からは、煮えたぎった熱湯の飛沫が間欠泉のように噴出してくる。どこにその中身を注ぎ込まれるのか、ズボンの中身を露出させられたレコには十分想像がついた。
「なにしやがる」
強がるが、レコの目はそこに釘付けになっていた。マヤはゆっくりとした仕草でため息をつき、
「困ったわ。彼、あたしの話が聞こえてなかったみたい」
「マヤ」
さすがにその様子を目の当たりにして、マックスは立ち上がりかけた。
「コーヒーのお代わりなら、向こうよ。マックス」
ケトルを持ち上げると、マヤは、のんきそうな声で言った。
「これ、お湯じゃなくて油なの」
次の瞬間、レコは絶叫して助けを求めた。
「分かった! 話をする、マックス! 許してくれ! だから、早くこの女を止めてくれっ、こいつ、本当にいかれてる! このままだと殺されちまう!」
十分後、レコは汗だくの額を拭うことも出来ず、憔悴した表情のまま、水を一杯飲まされてどうにか呼吸を整えた。
「・・・・・・いかれてやがる」
「文句はおれじゃなく、こいつに言えよ」
マヤはキッチンで油を処理するとわざと詰まらなそうに、肩をすくめてみせた。ただ脅しではなく恐らく、マックスがいなかったら躊躇なく、拷問を開始した可能性は高かった。
「次は止めないし、止まる保証もしない。お前のナニが中華料理みたいに煮えたぎっても誰も止めないってことだ。それでもいいなら・・・・・そうだ、話さなきゃいい」
マックスに言われ、レコは観念したように口を開いた。
「・・・・・・チェサピークだ。あんたたちを殺せと言われた」
「おれか?」
「もう一人知らない女・・・・・・そいつも一緒に」
「理由は?」
「知らない。とにかく、やれ、そう言われただけだ」
今度は、嘘を言っている様子はなかった。マックスはマヤにも確認したが、彼女も同意見のようだった。
「カールの話をしろよ」
「おれとカールは、突然、借金を背負わされてた。理由は違うが額は同じ、五万ドルだ」
「なぜだ?」
「知らねえよ! ある日、借用書を突きつけられて、八番街にあるやつらのオフィスに連れて行かれたんだ。そしたらそこに似たようなやつらが集められてて、そこで試験を受けさせられた」
「試験だ?」
マックスとマヤは怪訝そうに顔を見合わせた。マヤが聞いた。
「試験って、どんな?」
「よくわからねえ、知能検査みたいなやつだよ。二時間かけて、子どもの頃、どんな人間だったのか、怒りっぽいか、とか個人的な質問をされた。どう採点されたのかはわからねえが、その場で何人かは選ばれ、残りは帰された。カールは試験に受かったみたいだったが、おれは、落ちた。・・・・・本当に、カールとはそれっきり会ってねえんだ」
「それで・・・・・・試験に落ちたお前は借金の代わりに、お前はおれらを狙えと言われたってわけか」
ああ、と言うと、レコは、かすかに肯いて見せた。
「おれだって、本当は今、普通に暮らしてたんだ。借金なんか、するはずがなかった」
「カールも同じなのか?」
「ああ、やつだって馬鹿じゃない、身に覚えのない金だ。あすこに来たやつは、大体みんな、似たような事情だったんだって」
「おい・・・・・・・これは、どう言うことだ?」
マックスの口から出たその言葉は詰問するものではなく、純粋な疑問形だった。
「少なくとも、カールが消えた件も、TLEが関わっているってことだと思うけど」
「そんなことは分かってるよ」
言ってから、マックスはもう一度同じ言葉を言った。
「そんなことは、分かってる」
「じゃあ、なにが分からないこと?」
「いいか、マヤ」
無意味に肯いてから、マックスは考えた。
「お前はヴィトー・マルコーを追ってた。だから、レスリー・イルを追っていて、おれとかち合った。チェサピークに狙われるのに、なんの不思議もない。だが、おれは、そのチェサピークから、ヴィトー・マルコーを探す仕事を請け負った。そして突然そいつに命を狙われるようになった。一体、これは、どんなざまだ?」
「たぶん、状況が変わった」
マックスの第一の疑問に、マヤは簡潔に答えた。
「チェサピークも、見ての通り、あなたも」
「ああ、確かに、そうだ。だが、重要なのは状況がどう変わったのか、それが分からないことだ」
ぐったりしているレコにもう一度聞いた話では、借金を背負わされた連中のうちで【試験】に合格しなかったものたちは、それぞれ不審な雑用を言い付けられたと言う。
「もしかしたら、マルコーを消せ、と言われてるやつもその中にいたかもしれねえな」
その点に関しては、レコは否定も肯定もしなかった。げんに最初、レコは、ヴィトー・マルコーの捜索組にいたらしい。そこでの命令は、生死は問わない、しかし、なるべく生かせ、と言う方針だったと言う。
「あんたたちの担当に回されたとき、向こうに比べりゃ楽な仕事だ・・・・・・そう、言われたんだ」
レコの言葉を、マックスは思い出した。
「本当に鉄砲玉に使われたやつらも、中にはいたらしいからな」
「マフィアが人を殺すとき、主な動機はただ、ひとつだ」
「秘密を知られたときね?」
マックスは肯き、
「だが、おれは、まだその秘密は知らない」
「でも・・・・・・その入り口には立っているわ」
「ああ、誤解されたんだろう。もっと秘密の奥にいる、お前と合流したことでな」
「でも、と、言うことは逆に考えれば少なくともチェサピークは、あなたに嘘をついていたことになるわ」
「その通りだ」
マックスは、顔をしかめて言った。
「やつは、マルコーの死体処理の方法を本当はすでに知っていたんだ。そして、マルコーを追っている本当の理由は、やつがTLEに関するなんらかの秘密に気づいたからだ」

5.エラ・リンプルウッドの秘密

『シンシアよ。・・・・・・TLEとエラについて、重要な証拠が発見できそう』
「こっちもだ」
マックスは、エンジンを掛け、電話を助手席のマヤに渡した。
「マフィアに命を狙われた。NYのチェサピーク・ファミリーよ。平気・・・・・いつものことだし。それより、彼らの【代理人】は、TLEに関して、なんらかの秘密に気づいていたわ。名前は、ヴィトー・マルコーよ。・・・・・・・ええ、あたしが追ってた。彼が残した言葉に、どうやらヒントがありそう」
マヤの淡々とした報告に対して、シンシアはやや興奮気味だった。
『こっちもすごいことが分かったわ』
「どうかしたか?」
漏れた声を聞き、マックスが言った。
『ある論文を発見したの。TLEの元となる、情報技術の基礎理論。専門家にも聞いたんだけど、TLEの原型とも言えるプロトタイプのシステムの開発が、今から七年前に提案されている。分野としては学習機能を搭載した人工知能による情報管理システムなんだけど、名前も似通っているし可能性は高いわ』
「エラが開発したものね?」
『正確には少し違う。エラ・リンプルウッドと、ザヘル・ジョッシュとの共同研究』
「ザヘル・ジョッシュ?」
「エラの元・患者よ。天才的なCEで、十代でMITの博士号をとった」
その名前を聞いたとき、なぜかマヤの顔が少し曇ったのをマックスは見逃さなかった。それは、シンシアがエラの事件を再調査すると言ったときと、似たような雰囲気を持った間だった。
『ザヘルはこのシステムに知能を与え、最終的には人間の管理なく、システムそれ自体が自身をまったく自由に管理することをその理想形とした。それには、システムが司る認知の自己変革と保持のバランスのとれる完璧な人格の構築が問題だと、エラは結論づけているの』
「つまり、TLEはザヘルが作ったと言うことか?」
『いいえ、彼はアシスタントに過ぎなかった。確かに年齢不相応な情報技術と知能を持っていたけど、エラは一万人に一人の感性と才能の持ち主だった。彼の十代は、ザヘルのそれとは比べ物にならない神童ぶりだったそうよ』
「ザヘルは今、どこにいるの?」
『調べたところでは、行方不明』
「マヤ、おれたちは取り敢えず、いなくなったマルコーの行方をもう一度追ってみると伝えておいてくれ」
「そうね。恐らくその方向にカールもいると思うし」
いくつかの確認をした後、マヤは言った。
「シンシアは、もう少しエラの足跡を調べた後、ザヘル・ジョッシュの行方を追うって」
「了解」
マヤは電話を切った。そのとき、ビルの谷間から日暮れの光が射しこんでくるのが見えた。ハンドルを握りながらマックスは逆光に思わず目を細める。もう三十分もすれば、日が落ちるだろう。
「どこかで夕飯でも食おう」
マックスは言うと、交差点でハンドルを切った。

「なんだよ?」
「ん?」
ハンバーガーのトレイを持って席についてから、なぜかマヤはじっとマックスの顔を見ていた。マックスの何を観察しようとしているのか、その様子は、さっきレコを拷問しようとしていたマヤを彷彿とさせるようで、少なからず彼をぎょっとさせるに十分だった。
「なあ、さっきから、なぜおれを見てるんだ?」
「え?・・・・・・ああ」
言われてから、マヤは初めて気づいたような顔をした。
「こんなことは言いたくねえけど、お前に見つめられると、落ち着かない気分になるぜ。・・・・・・その・・・・・なんか見透かされてるんじゃねえかってな」
「あたしだって、別に人の心を読むわけじゃないわ」
マヤはストローに口をつけてから首を振り、
「レコには、ただカマをかけてみて、ただそれが成功したって言うことだけの話。むしろ、他人のことって分からないことの方が多いの。例えばさっきの、あなたのこととか」
「さっきの?」
マックスは少し考えてから、
「・・・・・ああ、レコのことか。あの後、やつを逃がしたことが、そんなに不思議か?」
マヤはこくりと肯いた。
「で? お前としては、何か後でまずいことでもあるのか?」
「別に、そうじゃないけど」
珍しく、マヤは顔を曇らせると、戸惑うような口調で言った。
「ただ・・・・・・純粋に不思議だったから」
「普通、裏切り者は殺すもんか?」
その言うことが、あまりに的を射ていたのか、マヤはそこで、はっと目を見開いてマックスの顔を見返した。
「まあ、別にお前がたぶん住んでいた世界のことを、好んで詮索したり、どうこう意見を言う気はねえけどな」
煙草に火をつけると、マックスは薄く白い煙を吐いた。
「確かに、あいつはおれとおれの弟を裏切ったかもしれない。でも、別に殺すほどじゃない。気の済むまで殴ったから、これ以上、なにかする必要もねえし」
「・・・・・・・ふーん」
マヤは納得していないように、マックスには見えた。
「突き詰めれば、別に理由はねえよ。カールだって、あいつだっておれはガキの頃から知ってる、だからなんとなく助けただけだ。それに・・・・・・・おれは気まぐれなんだ。こう言うときじゃなくても、やっちゃいけねえって言われたことを特にやりたくなる」
「別に不満なわけじゃないわ。・・・・・これから何度も言いそうだけど、ただ、不思議だと思ったの」
「不思議ってどこがだよ?」
「なんとなく。あなたの行動、少し矛盾してるところがあるから」
「悪かったな。おれは生まれつき、こう言う性格なんだ」
マックスは苦笑すると、大きく息をついた。
「たまにこうすべきだってことに、ふと逆らいたくなる。そんときは別になにも考えてないんだけど、やりたくなるんだ。お陰で、スクールカウンセラーには思いっきり目をつけられた。学習障害児だってな」
「それも子どものときからの癖?」
マヤに指摘されて、マックスは気づいたように視線を下げた。さっきから、車のキーを手の中で転がしていた。せわしなく、かちゃかちゃと音をさせる。膝の貧乏ゆすりが、それに連動していた。
「ああ、そうさ。これでしまいにはそこら中走り出すのさ。よく、教室を叩き出されたもんだ」
「そう」
「・・・・・・まあ、お前だってあるだろ? ひとつくらい、親に直せって言われた癖が」
「ないわ」
即答した後、マヤは少し俯いた。その後、ぽつりとつぶやくように、漏らした言葉の響きが印象的だった。
「あるわけないでしょ。さっきのことも・・・・・・じゃなかったら聞かない」
「なんでだよ」
「あたしには理解できないから。たぶん」
「そうか?」
それは一見すると、無邪気すぎるような、ひどく頼りない年齢相応の若い女性の表情のように見えた。数時間前まで接していたのと、同じ人間とはとても思えない。どこか不思議なアンバランスさがマヤをどこか、浮世離れさせているのかもしれなかった。
マックスはやや呆れた顔で言った。
「まあ、おれにしてみれば、お前のが絶対、変だけどな」

ステンレスの解剖台の上にエラ・リンプルウッドの遺体が横たわっている。二本の鎖骨に沿って、喉元から一直線に落ちていくY字切開の縫い目がまだ、生々しい。代謝を失った皮膚は白蝋のように瑞々しさが抜けて萎み、眼窩骨の輪郭がくっきりと浮き出てくる。右目にぽっかりと開けられた穴は、弾丸が入り込んだ痕だ。
エラは、全身に総計十三発の弾丸を受けて死亡した。外傷性のショック死が死因の欄に記入されている。これを実行した人間は、一発も外していない。すべては、テープに被害者自身の声で録音した予定通りに行われた。ただ撃ちこまれた弾丸は、一メートル以内の近射となっている。エラの体内と発見現場となったエラの邸で、その十三発は全弾回収されている。
エラ・リンプルウッドは確かに死んだ。それは、間違いない。毛髪や指紋、DNAなど、集められた鑑定の結果や関係者の証言は、少なくとも一ダース以上の人間、それもプロフェッショナルが確信をもって法廷にも提出できる内容だ。シンシアは実際、この事件の現場を踏んでいるが、もう一度、捜査資料を再確認したところで、その見解はどうしても変わりそうにはなかった。
だが、マヤは言った。TLEに関して今、起こっていることはすべて、エラ本人の指示による仕事だと。それは一貫して、ヘクターの見解でもあった。シカゴからヘクターの最後の連絡をもらったときに、シンシア自身がヘクター本人の口から、それを聞いている。
「間違っていなかった。私の考えは・・・・・・二つの意味で。ひとつはこれが、依然、エラを中心とした事件であること、そしてもうひとつは、君たちが関わるのはまだ、早かったということだ」
まだ、早かった。そう言っていたヘクターが消え、シンシアは事件に入り込むことになった。なにが起きているかは、まだ、分からない。だが、マヤの話すとおり、エラの【代理人】はまだ仕事を続けており、すべては彼に繋がっている。
ただ、ここではっきりとさせておきたいことは、エラ・リンプルウッド自身はすでに、完全にこの世には存在しないと言うことだ。その上で厳然としてTLEはこの世界の中でその創られた目的に沿って、そのなんらかのものを達成しようとしている。エラの構想と指示に従ってすでに多くの人間が動いている。これは間違いない。
問題はエラの遺志を汲む人間がなにを行おうとしているのか、そしてそれは、ザヘル・ジョッシュなのか、まず、シンシアが見極めるべきところはそこだった。
シンシアはホテルに戻ると、ガーラントから受け取った書類を、一通り吟味していた。今もう一度ザヘルに関して、ヘクターが掛けた嫌疑の内容を見る限りは、ほぼ完璧に証拠は揃っていると言えた。ザヘル拘留中にザッパーが犯行を重ねなければ、ヘクターは十分に彼を追い詰めることが出来た可能性が高い、とシンシアは思った。
ヘクターはエラが、ザヘルの持っていた攻撃的な妄想を開放し、完全にコントロールしようとする過程で、結果的に彼を暴走させてしまったことが、ザッパーの誕生に到った、と言うことを立証することに成功しかけていた。そのことは改めてシンシアにヘクターの捜査官としての直観力が並外れていることを新たに認識させた。
具体的に言えば、ヘクターがザヘル犯人説を唱えるにあたって発見した証拠のうち、ザヘルの筆跡で描かれた日記の中に、幼児から、自分の名前のアナグラムである『ザッパー』を登場させていることを発見したことが、事件の動機の解明の非常に大きな裏づけになっていた。事実、ヘクターはザヘルに自分の中にある【暴力的なヒーロー】の存在を、一度は認めさせているのだ。
ヘクターはザヘルの、すでに故人となった過保護な母親の養育が、彼に境界性人格障害になるきっかけを与えたのではないか、と言うことを指摘し、そこから他人を支配したいと考える暴力的な妄想が生まれるようになった、とする仮説を構築したのだ。
人格の独立と発達に際して、偏った干渉やまったくの無関心に晒されて育った子どもは概して他人に、極端な期待や敵愾心を持って人格を形成する危険性があり、結果、対人関係に主に問題を持つことが多い彼らは、境界性人格障害と診断される。
ザヘルの中の【暴力的なヒーロー】は、現実世界で、彼が極めて弱い対人関係(いじめを受けていたなど)やコミュニケーション能力の低さ(どもり、対人恐怖など)に苦しめられていたことへの反動として登場したものだと、ヘクターは考えたのだ。
FBIの行動分析で行けば、この事件の犯人は、犠牲者に自分の死に方を確認させ、完全な服従を強いる【秩序型】のサイコキラーだと、当初から考えられていた。彼らは計画を得て周到に犯行を実施し、その手際には抜けが少ない。犯行の前後でモチベーションが大きく変わり、どちらかと言えば、場当たり的で衝動的な犯行を繰り返す【無秩序型】とは対照的に位置づけられている。ザヘルの中に幼児から現れている【暴力的なヒーロー】=ザッパーとは、前者の行動パターンは確実に一致していたのだ。
ただ、もちろんヘクターにも弱みもあった。初めの五件の犯罪のうち、少なくとも半数以上にザヘルのアリバイが立証できる可能性が出てきていたのだ。証人の中には、五件目のエラ本人も含まれていた。
「動機だけをクローズアップして、ザヘルを犯人と決め付けるのは得策ではありません」
シンシアはそのとき、自分がそう主張したその声を、今はっきりと思い出している。二件目の犯行の被害者が大企業の経営者の娘で、事件の関心は一層、大きくなっていた。実はザヘル拘留までは、この連続殺人犯の名前はザッパーとは呼ばれていなかった。どこからか、ヘクターが調べた内容がマスコミに漏れたのだ。ザッパーと言うまだ確定していない殺人者の名前が一人歩きし始めた。
シンシアやガーラントは、ヘクターが後に退けなくなり、逮捕を焦っていると言うことに、大きな危険性を感じながら捜査を続けていた。日増しに捜査の不手際や遅延がマスコミに叩かれるようになり、誤認逮捕の続出がそれに拍車をかけ、連日の不眠不休の活動がシンシアはじめ、捜査員たちの精神力を削っていった。
シンシアの目から見て、ヘクターがおかしくなりだしたのは、その直後、ザヘルの逮捕・起訴を主張しだしてからだ。
ザヘルが拘留された後、彼の身辺をいくら探しても見つからなかった、犯行に使われた銃から発射された同じ弾丸が、マンハッタンで太腿に、五発の弾丸を撃ち込まれて殺害された男性の中から大量に見つかったのだ。
「犯人はエラだ。エラがすべての根源だ」
ヘクターが提示した第二の結論は、すでに自己矛盾の産物としか思えなかった。当初、エラはザヘルの暴走を予感しながら、それを止められなかった犠牲者であると、ヘクター自身が推理したのだから。それが、もともとザッパーを操っているのが、エラであり、ザヘルこそが、この事件で逆に被害を受けた犠牲者であると言うヘクターの新たな見解は、何より身内である捜査班内部を困惑させた。
「それでは、ザッパーは誰なんですか、主任。ザヘルでもエラでもないとすれば、ザッパーは一体、どこからやってきたんです?」
シンシアは、あるときヘクターにそう詰め寄ったことを憶えている。そのときの、ヘクターの混乱した表情の変化すら、はっきりと。
「ザッパーはザヘルだ」
ヘクターは言った。
「エラの指示によって、ザヘルから産み出された」
「ザヘルには、アリバイがあります」
シンシア自身、このときすでにかなり追い詰められていた。それは認める。だからこそ、耐え切れなくなって食い下がったのだ。
「主任、あなたを捜査官としてわたしは尊敬してきたわ。だからこそ、はっきりと言わせてもらいます。・・・・・・あなたは、もう、この捜査を続行することは・・・・・不可能だと思います」
はっとした顔で、ヘクターは顔を上げた。シンシアは、彼が、これほどの頼りない顔をしたのを初めて見たと、今でも思っている。
そしてヘクターは捜査班のオフィスから姿を消した。ほどなく、FBIも辞めたと言う噂も流れていた。ヘクターがいなくなってからの最初の一ヶ月間は、まさか、彼が個人的に捜査を進めていたとは、まったく思いもしなかった。
私の考えは間違ってはいなかった。
シンシアの中の最新のヘクターは確かにそう言った。エラを追ってきたヘクターは、TLEとその裏にある巨大な何かにたどり着いた。それまでの彼の思考の足跡に間違いはなかった、とするなら、彼が残していったものすべてにそのヒントがあるはずだ。それに気づくのが、シンシアにはまだ早かった。彼はそう言っていたのかも知れない。ただ、ザッパー=ザヘルも、ヘクターの混乱の果ての産物なのか、それともなんらかの真理に到達するための途上の道筋だったのか、現在のシンシアにもその判断はつきにくい。
マヤは、ヘリックスに会えと言われていた。しかもヘリックスの代理のマルコーと言う男は、TLEについて何か重大な秘密に気づいてその姿を消した。マルコーを利用していたマフィアが全力でその足跡を追うほどの何かを、彼は発見したのだ。
実はあれから、マルコーの履歴をシンシアはもう一度、調べさせてみた。すると予想した通り、警察内部に存在するはずのマルコーのデータは跡形もなく消え去っていた。マルコーは、ヘクターと同じ消え方をしている。言うまでもなく、TLEの仕業だ。
いずれにしても、TLEは、単なる社会から個人を電気的に抹殺するためだけのものではないことは確かだ。姿を消したものから、そのことに気づいているのかも知れなかった。つけても、彼らはなぜ、その存在が消滅するような事態に至ったのだろう? 煙のように消えてなくなってしまわなくてはならない理由は?
ヘクターが残したファイルをベッドの上で読んでいたシンシアは、ふとあることに気づいた。念のためにもう一度、ファイルを一から終わりまで、流し読みしてみる。どう見ても、足りなかった。そこから、ヘクターの最後の報告書とザヘルの主張をまとめた書類が消えていた。それらはヘクターが、シンシアとガーラントに、厳重に保管を頼んでいたものの中でもっとも重要と思われるものだった。
時間は、二十三時になっていた。ガーラントはまだオフィスにいるのだろうか。シンシアは電話をとった。
「ハーディよ。ガーラント、ごめんなさい。今、いいかしら?」
『問題ないよ』
すぐ、ガーラントの声が聞こえてくる。少し眠気を帯びた声だった。寝起きか、もしかしたら仕事から帰ってうとうとしようとしていたころかも知れない。
『仕事が終わって、残念ながらずっと一人だ。何の用?』
「・・・・・・あなたから受け取った書類なんだけど、実は中に不足があったの」
『どんな?』
「ヘクターのザヘル事件に対しての最後の見解をまとめたものよ。あれには、ザヘルの供述内容や、エラについて彼が調査した結果の内容が記載されていた。それが、見当たらないのよ」
『それか』
ガーラントは少し考えてから、物憂そうに言った。
『・・・・・・たぶん、入れ忘れたんだと思う。発見したら折り返し、連絡するよ』
「すぐに必要なの」
『分かったよ。たぶん、ヘクターの私物の残りはニューヨーク支部で管理してると思うから、明日探して君のところへ持っていく。それでいいだろ?』
「いいえ、それならわたしが直接取りに行くわ」
『なあ、シンシア、局内での君の立場を、君が自分で理解しているとは、僕には到底思えない』
シンシアは逸る気持ちをため息で抑えて、
「どうすればいい?」
『僕が場所を指定するよ』
ガーラントは言った。
『明日、めどがついたら連絡する。昼までには会おう』
「分かったわ」
ありがとう、ガーラント。そういう前に、電話は切られた。

シンシアとの通話を終えたガーラントは、向こうの音声が途切れたのを知ると、ひとり、重い息をついた。人が増えてきたのに気づき、ふとステージに目をやる。ちょうど、サックスプレイヤーが入ってきたところだった。
背後のカウンターに座っているリプリー・レベッカーに向かって、合図をする。リプリーは、歩み寄ってきてガーラントの肩を抱き、まるで仕事を終えてもうプライヴェートだとでも言うように、話しかけた。
「終わったか?」
ガーラントは無言で肯いた。耳の奥にまだ、シンシアの声が残っていた。
「二時間後だ。これで重要な証拠品のひとつが、新米捜査官のへまと言うやつで、消失し、君の妹の容疑がひとつ消える。さらに真犯人が出頭して犯行を自供。麻薬所持でひき逃げ殺人、少なくとも十五年の刑が帳消し、無実で釈放まであと一歩だ」
言うと、リプリーは相好を崩し、ガーラントの肩を叩いて、
「そんな顔するなよ。大丈夫だ、もうなにも頼みはしないさ」
「彼女を頼む」
「傷つけやしないさ。ただ、提案するだけだ。彼女に、私の話に少し耳を傾けて欲しいんだ」
「こんな真似をしてもか?」
眠たげな瞳で、リプリーはガーラントの顔を見上げた。そこは、薄く濁って、なんの感情も映し出してはいなかった。
「言えた義理じゃないことは、分かってるさ」
まるで同僚のように、リプリーは言うと、
「君は疲れてるんだ、ガーラント。・・・・・・勤務は終わりだ、一杯やるといい」
「・・・・・・・・・・・・・」
「君はゲームから降りた。彼女は乗った。私たちはそれを受け入れる。ただ、それだけのことだ。なにしろ、駒はいくつあっても足りないのだから。私のせいじゃない。そう言う仕組みにしたのは、・・・・・恐らく、エラだ」

「ヘクターは、君を優秀な後任として期待していたぞ。彼が抜けた後、捜査を立て直せるのはシンシアより、むしろ君だと言ってた」
「別に、そんなこと今さら聞きたくもないさ」
「追従を言う気はない。どうとるかはそっちの自由だが」
「本当に彼女の身の安全は保障してくれるんだろうな」
「私が出来る範囲ではな」
リプリーは肩をすくめ、その場を立ち去っていった。ガーラントはそれまで、あの男の目を見ることすら出来なかった自分を言葉もなく恥じるように、じっとグラスを見つめていた。

次の日、マックスは早朝から五件の電話の着信の対応に追われていた。休職中で特に抱えている事件もない、彼には右のような事態はありえないことだったが、それがすべて同じ着信からの呼び出しであったことを聞けば、誰もがその事情に納得がいく。
「だから所在を報告しなかったことは謝りますよ。でも・・・・・」
マックスが、夜勤明けの出勤でじりじりしているフォスターに対して、可能な限りの言い訳を駆使している間、マヤはソファにもたれて、テレヴィを見ていた。
フォスターが昨夜駆りだされたハドソン湾からあがった変死体のニュースが、ちょうど流れていた。ガソリンをかけて焼かれた、恐らくマフィアだと思われる白人男の遺体の身元を確認するために、地を這うようにして、市警は朝から証拠品集めに奔走したが、結局該当者が発見できず、捜査は無駄骨になりそうだ、と言う、キャスターの顔を、マヤは八方弁解しているマックスを一瞥した後、興味深そうに覗きこんでいた。
「終わったの?」
「おれのキャリアがな。首になるかもしれねえ」
言ってから、冗談だ、と訂正してマックスは息をつくと、
「まあ、なんだ、別に問題はねえよ。・・・・・それよりニュースに出てる水死体、マルコーじゃないだろうな」
画面をじっと見ていたマヤは、首を振った。
「違うと思う。年齢も違うし、体格もまったく」
「ニュースでやってたのか?」
マヤは、ジョナサン・キンブルと言うプレートをつけた金髪の比較的体格のいい女性キャスターを指し、
「あのキャスター、現場に一番早く到着してるわ。搬送された被害者を見てる。遺体の腕には大きな図柄のタトゥーもあったわ」
「チェサピークの仕業か?」
「さあ? でも可能性は否定できないところね」
「・・・・・・・タトゥーか。どんなだ?」
「気になったんなら、描いておくわ。紙と鉛筆でもある?」
マックスは戸棚からそれを用意してマヤに手渡すと、
「なあ、ここが重要なところなんだが」
言うと、マックスはテレヴィを指し、
「チェサピークは確かに最初からマルコーを消そうと考えていた。その際、おれに命令したのは、マルコーから死体処理の方法を聞きだすこと、もっと言えばTLEのことだ。つまり、おれに依頼した時点で、やつは本当にはTLEのことは知らなかったのかもしれない。ここまではいいな?」
「ええ、それはあなたの言うとおりだと思う」
「そうか、ならその先を話していいな。だからこそ、チェサピークは停職中とは言え、警官のおれに明かさなくてもいい秘密を明かし、マルコーを探させたんだ。カールの借金をネタにしてな。あのとき、確か、やつは生け捕りに拘っていた。この時点ではチェサピークは、マルコーから、直接聞き出したい事実があった。それはTLEそれ自体のことだった。違うか?」
「つまり、なにが言いたいの?」
「やつの態度の変化のことを言ってるんだ。今になって、やつはおれたちを消そうと考えた。これはもう、やつが知りたいことを知り、余計な深入りをしたおれたちが邪魔になった。つまり、やつはすでにマルコーを見つけてるんじゃねえかと思うんだが」
「・・・・・・・・・・」
「やつはマルコーから、TLEのこと、やつが掴んだ新たな事実について知ったんだ。おれが、マルコーが言ってたと話したこと、憶えてるだろ?」
「新しい、おれになる?」
「そうだ。TLEには次の段階がある。今、消されている人物はそれに気づいていたはずだ。だから、消えた。ヘクターもヘリックスも、マルコーも、すべてだ」
「でも、TLEで消えた人たちの追跡は、難しいわ。今のところ、手がかりは全くないし」
「いや、だが実はそうでもないんだ」
と、そこでマックスは手を振り、
「気は進まないが、ずっと考えていた。ひとつだけ、まだあたっていない場所があった。今日はそこに行く」

その頃、セントラルパークの南西側の入り口にある、タイムワーナーセンターのツインタワー広場の前で、シンシア・ハーディは時間を潰していた。ホテルから、ここまで歩いてくる間のうちに、彼女は二件の電話を受け取った。
ひとつは、ガーラントからだった。なぜか時間は夜明け前頃になっており、指定の時間と場所だけが伝言サーヴィスに残されていた。彼はひどく酔っていたらしく、声の調子も、悪そうな印象だった。出かける前に、彼女はガーラントに了解した旨を連絡しようとしたが、いまだになんの応答もないことが気がかりだった。
もうひとつは、シャワーを浴びている間に来たもので、マックスからの電話だった。シンシアはガーラントからの電話と早とちりして出て、マックスにため息をつかれた。
『・・・・・・男と徹夜してたんじゃないだろうな』
「冗談言わないで。それより、なにか進展があったの?」
『進展はこれからだ。そいつは出たら連絡するよ。それより、いいからテレヴィをつけてみろよ』
シンシアはテレヴィをつけた。ハドソン湾で身元不明の焼死体が上がったニュースが彼女の目に飛び込んできた。
「これ、もしかして・・・・・・」
「チェサピークかもしれない」
否定はしない、と電話の向こうのマックスは答えた。
『昨日のこともある。その可能性は否定出来ないが、問題はそっちじゃない。おれが言いたいのは、遺体はラルフ・トーレスかも知れないってことだ』
「まさか・・・・・・・・・」
『いいから聞け。証拠がある』
マヤがニュースを見ていてキャスターの瞳に映った遺体の姿を、断片的にだが、目に捉えたと言う。
『こいつに、その映像を簡単にスケッチしてもらったんだが、おれはタトゥーの図柄に見覚えがあるんだ。あんた、出来たらすぐにでも、ラルフ・トーレスに関する公式記録を照会してくれないか?』
「彼はまだ、州立刑務所に収監されているはずよ」
『やつが豚箱でまだ大人しくしてたら、あんたの勝ち、そうでなかったら、すぐに連絡をくれよ。たぶん、この件に関係があることだったら、やつの個人データはすべて消えているはずだ』
「待って。それは、本当にチェサピークの仕業なの?」
『あくまでも、可能性は高いってだけの話だ。昨夜も話した通り、TLEの関係者の命を、チェサピークは狙っている可能性がある。それとも他に心当たりがあるのか?』
「いいえ」
少し考えた後、シンシアは首を振った。
「ラルフの件はすぐに調べてみるわ。他になにかある?」
『おれたちはチェサピークを叩いてみる。そのために今日は、少し行くところがある』
「どこに行くの?」
マックスは口ごもった後、
『・・・・・・結果が出たら、ついでに知らせてやるよ』
それはひどく一方的な連絡だった。
マックスの行き先に、シンシアは大体の見当がついていた。
それより、問題はマフィアが動き始めていることだ。今朝の遺体がもし、ラルフのものだったとするならば、ヴィトー・マルコーもマフィアの手ですでに消された可能性が高いのだ。と、すればもう、ヘクターも手遅れになっているかもしれない。ヘクターがどうしても、と彼女をニューヨークに呼んだのは、命の危険を感じていたせいに間違いはなかった。
ただ、まだ救いはある。マフィアとのつながりを立証できれば、FBIとしてはこちらから動くことが出来る。ともかく、まずTLEを見つけることだ。こちらの手持ち札は驚くほどまだ少ない。
ガーラントが指定してきたこの広場は、中央のロータリーからセントラルパークウエスト、サウス、そしてブロードウェイに繋がる表通りだ。そう言えばあの日、ヘクターが指定してきたのは、この広場のウエスト側の入り口付近だった。
確かに、ヘクターと待ち合わせをしていた事実を、ガーラントには話したが、落ち合う場所までは話していなかったことを、シンシアは、なぜか今になってふと思い出した。偶然なのだ。内容の合法非合法を問わず、ニューヨークには最適な待ち合わせ場所は、無数に存在する。
時間まで五分。シンシアは、頭上のツインタワーを見上げてから、視線を公園側に移した。秋の空は羽根のような薄い雲がそよぎ、澄んで高かった。その下では紅葉しかけた楓が木漏れ日をきらめかせ、わずかに風にそよいでいる。
そのとき、ロータリーに無数に停まったイエローキャブのひとつから、ブロンドの短い髪の毛をカールさせた中年の男が降り立ったのに、シンシアはあまり警戒を寄せていなかった。無数に人が往来するこの街で、感覚器に飛び込んでくるすべての情報を精査することは、人間の脳にとって不可能に近いし非効率だ。
それに彼女が待ち合わせをしていたのは、アイルランド系の栗色の髪をした若い男で、少なくとも四十代後半には達している中年男ではなかった。だからもし、その男がダークスーツを着こんで、ズボンの裾の下に鉄板を仕込んだブーツを履いていたとしても、決して異質だとは思わないし、気には留めないものだ。タクシーから全裸の男が降りてきたとしても、それは同じことだからだ。
「ハーディ捜査官」
後ろからの声に、シンシアは思わず振り向いた。そこに背の高い黒人の男が立っていた。シンシアは逆光に顔をしかめてからその男の顔を見上げると、不信感を露わにして聞いた。
「なにか」
「お迎えにあがりました」
事態が掴めず、シンシアは、え、と聞き返したきり、返事が出来なかった。
「どう言うこと? わたし、あなたに用事はないわ」
「私たちは、ある。シンシア・ハーディ特別捜査官」
背後からの突然の声に、シンシアは驚いて振り向いた。そこに黒いスーツの痩せた男が立っていた。
「あなたたちは?」
シンシアは二人を交互に見返して、聞いた。男たちがさりげなく、自分の進路を塞ぐ位置に立っていることに、彼女は気づいていた。男は静かな笑みを浮かべて手を差し出した。
「リプリー・レベッカー、国家安全保安局。ウエンブリー・ガーラント捜査官はこの件は我々に任せて本来の仕事に戻った」
「でたらめを言わないで」
シンシアは、リプリーの手を払いのけると言った。
「この件も、彼の本来の仕事のはずよ」
「ヘクター・ロンバードの行方と、エラ・リンプルウッド事件については、君たちFBI特別捜査班の担当する内容ではないはずだ」
「それは、CIAだって同じはず」
避けようとする手をリプリーは掴み、囁くように言った。
「TLEについては、以前から私たちの管轄だ」
「わたしがそんなもの知らない、そう言ったら?」
シンシアはわざと、とぼけてみた。しかし無駄なようだった。リプリーは、事実を厳然と述べ、首を振った。
「ここ三ヶ月のヘクター・ロンバードの動きは、すべて我々に監視されている。LAでもシカゴでも、マイアミでも。もちろん、ここニューヨークでもだ。無駄な足掻きはやめることだ」
背後にいた黒人の男が、黒いキャデラックを回してくるのがシンシアにも見えた。
「もちろん、知らん顔をするのは君の自由だ、ハーディ。今のうちに忠告だけは、しておこう。ガーラントのように、すべてを忘れて成果の上がらない捜査に戻るのもそれはそれで間違いではない」
「じゃあ、あなたは一体なにを知っているの、レベッカー?」
ここは、観念するしかなかった。深く息をついて、自分の高ぶりかけた心を落ち着かせると、シンシアは言った。
「TLEに関することはほとんど、すべて」
リプリーは言った。言ってから自分で、まったく面白くないジョークを言ったというように、両手を広げてみせた。
「と、言いたいが、まだそこまでじゃない。ただ、少なくとも、君が知りたいことには答えられるだろう」
「分かったわ」
シンシアの目の前で、後部座席のドアが開いた。先に乗れ、ということなのだろう、ブリーフケースを抱えて、彼女はそれに乗り込んだ。

マックスはマヤを連れて、市警本部の遺体安置所に現れた。昼番の担当者が、リック・ライリーだったのは彼にとっては幸いだった。
「いいかマックス、おれは休憩をとる。だから、三十分だ」
「大丈夫なの?」
セントラルパークの貯水池に遺棄されていた頭蓋骨の洗浄を終えたリックはちょうど、コーヒーを飲みに行くところらしかった。マヤの質問にマックスは白衣を脱いだリックの背中を一瞥して答えた。
「いいのさ、停職処分の刑事と資格を持たない超能力者の少女一人に不法侵入を許すくらいなら、利子で賄える」
「利子だって? 規則違反がばれたら、チャラくらいじゃ済まさないからな」
マックスの言葉を聞き捨てならないと言うようにリックは、
「週末、レッドソックス戦だ。次はほえ面をかかしてやる」
捨て台詞を吐いて去っていった。マックスは遺体を冷蔵してある保管庫の日付を確かめるとバーに手をかけて、マヤを振り返った。
「よし、かかろう。それらしい死体があったら言えよ」
「探すのはマルコーね?」
「・・・・・・いや、それだけじゃねえ」
マヤの質問に、マックスは少し言葉を濁した。
「なあ、もう一度確認しておくが、お前、遺体の眼球も読めるんだな?」
「読むだけならね」
マヤは言うと、物憂げにため息をついた。
「ただ、見るのは必要な遺体の目だけにしてほしいわ。そうそう何度も、他人の『死』を追体験したくないから」
「それはそれでスリルがありそうだけどな」
苦笑したマックスの手で保管庫が開けられ、遺体を入れた緑色のカヴァーが現れた。
「リックによると、今朝、こっちにあがってきた変死体だけで、五体ほどあるらしい」
「マルコーが失踪して十日以上経ってるんでしょ?」
「だが、チェサピークがおれに、マルコー捜索を依頼したのは、三日前のことだ。もしやつが死んでいるとするなら、遺体はそれほど古くはないはずだ」
「遺体が発見されてここに運ばれてきていたら、の話だけどね」
マックスは日付を確認しながら、マヤといくつかの身元不明の遺体を確認した。幸い、遺体の面相が確認できないような死因のものはなかったが、結果は芳しいものではなかった。
「どうやら、見当たらないようね」
「可能性は可能性だ。安心した部分もある」
「おいマックス、今朝、お前んとこの担当者が上げてきたハドソン湾の変死体なら、こっちにないぞ。解剖台の上だ」
コーヒーカップを持ったまま、リックが戻ってきて言った。みると、手術室の半開きになったドアから、炭化した男の腕を確認することが出来た。辛うじて残った皮膚のタトゥーの図柄は蛇で、マヤが描いたそれと、寸分違わない図案だったことに、マックスは今さら舌を巻いた。
「マヤ、見てこいよ」
バーガーショップで食事中、心臓発作で死亡したヴェジタリアンの女性の遺体を覆うカヴァーのジッパーを上げながら、マックスは言った。
「ねえ、顔はどのくらい残ったの?」
マヤの質問に、リックはなぜか嬉しそうに答えた。
「ほとんど骸骨だよ。見たいかい、お嬢さん。ガソリンぶっかけられて焼かれてるんだ。眼球も炭化しちゃって、人相はほとんど残ってないよ」
「それなら、見ても無駄ね」
マヤはため息をつくと、マックスを振り返った。
「無駄骨か」
「マルコーもヘリックスも、ヘクターも身元不明遺体の中にはなかったわ」
言ってから、マヤはマックスの心を見透かすように付け加えた。
「もちろん、あなたのカールの遺体もね」
「ああ、そうだな」
マックスは舌打ちをした。彼女といて分かったことだが、いつも考えていることを覗かれる可能性があると言うのは、あまりいい気分とは言えない。
「いったい、なんの用事なんだ、マックス?」
「家族を捜してたんだよ。ずっと帰ってこないから、もしかして死んだのかと思ってここに来たのさ」
「カールとスヴェンナが? 冗談だろ?」
爆笑すると、リックは肩をすくめた。逆にマックスは興ざめた。
「冗談でほっとしてたところさ。マヤ、行こう。外れだ」
そのとき、突然、マヤが言い出した。
「待って。そうとも言い切れないわ」
「なにがあった」
マックスは、はっとして動きを停めた。どうやらこっちは、冗談ではなさそうだった。
「紙とペンをくれない? それと、テーブルと椅子も」
「え? どうかしたのか?」
一番事情を理解していないリックが、すぐにマヤの要望をかなえた。するとマヤは椅子を引き寄せて、素早いタッチでなにかを描き始めた。
「ここに見るべき遺体はなかったんだろ?」
「あたしたちが知ってる顔はね」
輪郭線からして、人物ではなくどこかの風景を描いているようだ。イチョウの木、フェンス、錆びついた大きな看板の裏、ビルの裏口に一台のバンが停まっている。スーツを着た数人の男が、背後のドアを開けて、ヴィニールのカヴァーに包まれた何かを建物の中に運び込もうとしている。
「バンから合計三名、入り口から二名の合計五人。ここになにを運び込もうとしていたかは、だいたい想像つきそう」
「おい、こいつはもしかして・・・・・・」
「遺体の眼球に焼きついた出来事よ。つまり死ぬ寸前、この人は相当ショッキングな事実を目撃していたってこと」
「へえ、上手いんだな? 彼女、美大生かなにか?」
「黙ってろ、リック」
マックスはリックを肘で押しのけて、
「これじゃ分からない。もっとないのか」
「大丈夫。まだ、先があるわ」
マヤは一枚目を手渡して、二枚目を描き始めた。今度は精度が上がったのか、一枚目よりも時間が掛かった。同じ構図だが目撃した人間が近づいたせいで、さっきよりアップになっており、男たちが荷物のカヴァーが外したときの中身がはっきりと見えている。
運び込まれていたのは、裸体の男だった。扱いや持ち上げられている身体の様子からも、もちろん、遺体であることが分かる。表情は確認出来ないが、特徴的なはげ頭がマルコーに似ているような気がした。マックスは声を上げそうになり、息を呑んだ。
「たぶん、マルコーね」
「だが、なぜこんなところで遺体を確認してる?」
マヤは黙って、遺体の右端の背後、二人の男の真ん中に、取り押さえられている男を指差した。
「見せしめね。これから、彼も同じ運命になるってこと」
男の表情は遠くて確認できなかった。しかし、二つの点で周りの人間と違いがあることが一目で分かる。
「黒人だ」
「そう、イタリア人ではなさそうね。それにファッションから考えても、恐らく年齢も若いわ」
押さえつけられている男は、ヤンキースのジャンパーに、古びたジーンズを履いている。遺体を前にして、腰が引けているのか、若干、両足を引き気味にしている。
「・・・・・・カール」
この場合、もっとも可能性としてあってはならない最悪な結論が、直感としてマックスの口からこぼれ出た。カールだ。カールに間違いない。なぜか、マックスには見れば見るほど、そう思えてくる。
「カールだ」
「可能性は高いわ。つまり、実はもう、マルコーだけじゃなくてカールもチェサピークの手の中にあるかもってことね」
「どこだ、マヤ・・・・・・・これは一体、どこなんだ?」
マヤに掴みかかりそうな勢いで、マックスは聞いた。
「死体に聞いて」
「これを視た遺体はどこだ?」
マヤは、保管庫の方を振り返りながら、言った。
「確か、バッテリー公園で死んでいたホームレス。・・・・・右端の奥、三番目」
「どいつだ」
マックスは思わず、リックの肩を掴んでいた。
「なんだよ! あのユダヤ人の爺さんがお前の弟なのか?」
「そうだよ。その爺さんが発見されたのはいつだ?」
「昨日の晩だよ・・・・・痛いって。でも、誰かに危害を加えられた様子はなかったぞ」
「出せよ」
リックはマックスの剣幕に、急いで遺体を捜し出した。二年ほど風呂に入っていなさそうなひげ面の老人の遺体を前にマックスは顔をしかめることも忘れていた。マックスは遺体に致命傷がないことを確認してから、リックに聞いた。
「こいつの死因はなんだ?」
「心臓発作だ。バッテリー公園のベンチに倒れこんでたんだ」
「死亡してからどれくらいだ?」
「死後、一時間も経ってなかったよ。カップルが見つけた」
「あちこち、擦り傷だらけね」
マヤは死体を改めながら、言った。
「どっかから逃げてきたんじゃないか? 強盗にでも襲われて」
二人の異常な執着に、リックはとうとう不気味さすら感じながら、叫ぶように言った。
「なんなんだよ! お前ら二人とも、爺さんの兄妹か?」
「最後の頼みだ、リック。お前が書いた、こいつの報告書を見せてくれ」
「分かったって」
リックの疑問は解決しなかったが、お陰で彼は利子だけでなく、賭け金まで返済することが出来た。
一時間後、マックスとマヤはバッテリー公園に足を運んでいた。ユダヤ人の老人が倒れていたアッパー・ニューヨーク・ベイに面したベンチに今はバックパックを背負った、旅行者風のイギリス人カップルが座って話をしていた。
「どけ。どかないと、ぶっ飛ばすぞ」
「なんだよ」
迷惑そうに口を尖らせる二人をマックスが追い散らしている様子を、なぜかマヤは遠まきに眺めていた。
「おい、マヤ、なにもたもたしてるんだ?」
「・・・・・あたしまで殴られたら困るし」
「冗談はいい」
マックスは腹立たしげに言うと、マヤがスケッチした二枚の絵を振り回し、
「たぶん、この近くだ。あの爺さんの心臓だ、全力疾走しても数マイルがいいところだろう」
「近くは分かってるわ。ただ、ここからはちゃんと推測しないと。あの場面が目撃された場所は、確かにここから、恐らくそれほど離れていないわ。彼・・・・・・あのホームレスは、あの自由の女神を左手に走ってきたから・・・・・たぶん東側の入り口から入ってきて、ここで力尽きた」
ベンチはT字路の付け根になっていて、スカイスクレイパーの林に入っていく一本道の先には、一五二四年にニューヨークを発見したフィレンツェの探険家ベラノザの彫像が立っている。マヤはマックスを後に、そこまで歩いていき、やがて彫像の広場に繋がるいくつかの道のうち、サウスストリートに出る通路を選んだ。
「こっからどこだ?」
「あそこの対面の路地から外に出てきた」
マヤは信号を渡り、路地の中を位置からして北上していった。時折、右手にさっき出てきたサウスストリートが見える。老人は真夜中、路地から路地を伝って、フルトンストリートのフィッシュマーケットやマンハッタン橋の辺りを通り抜け、バッテリー公園まで、一マイル半(約二キロ)ほどの道のりを全力疾走してきたらしい。
「おい、この先は」
リトルイタリーにぶつかった。三色のイタリア国旗の垂れ幕が掛けられたこの小さな街区の路地のひとつで、マヤとマックスは、立ち止まった。
「見て」
マヤが言った。コンクリート壁に穴が空いている。塗りが古くあちこち崩れがあるので、日の射さない小道では見えにくいが、どうやら発射された弾丸が、そこに喰い込んでいるらしい。
「ここまでは追いかけてこられたってわけか」
「すげえな、お前」
角から顔を出してマックスは言葉を失った。そこが、マヤが描いた絵と構図までぴたりと一致していたからだ。
「別に褒めてもらわなくてもいいわ。ただの事実よ」
ハグしようとする勢いのマックスにマヤは、迷惑そうに言った。
やや入り組んだ路地の中に小さなビルがあり、車道に面した道の裏手、やっと一台バンが停められそうな十字路の角に入り口があった。表通りに向けて置かれている看板は、どうやら肉屋のもののようだ。
「それより期待しないほうがいいかもよ。もう半日近く、時間が経ってるし、時間的に考えて二人とも処理されてる可能性が高い」
看板を一瞥して、マヤは不気味なことをぼそりとつぶやいた。
「もしかしたら、売られちゃったかも」
「カールが生きてるかもしれない。問題はそこだ」
止めても無駄なようだった。マヤはため息をつくと、遺体が搬送されたと思われる入り口を眺めてから、
「でも、入るなら協力するわ。誰かいるかもしれないしね」
「そいつに聞こう」
「もう売れたかどうかね?」
マックスはその問いには答えなかった。

「まず初めに言っておこう」
リプリー・レベッカーは、静かな声で言った。
「こっちは君に危害を加える気はない。むしろ、もともと、協力関係にあったかもしれないからな」
「そうなの? 残念だけど、まったく知らなかったわ」
挑発するように、シンシアは言った。
「知らないのも、無理はない」
リプリーは飽くまで紳士的だったが、無駄な笑顔をこぼすことはまったくなかった。熱しても、冷やしても常温の水のように変化のない表情をしている。そうした人間の多くは、よほど自分に自信があるのか、または相手がどう自分を取ろうとまったく気にしない、つまり、他人のことはどうなってもいいと考えているかのどちらかだと言うことを、シンシアは経験から理解をしていた。
「この三ヶ月、ヘクター・ロンバードは私の監督下にいた」
「彼は、FBIよ」
「確かにそうだ」
シンシアは言った。リプリーは、と気のない相槌を打ち、
「いや、そうだった、そう言うべきだろうな。エラ・リンプルウッドが進行している計画をこの三ヶ月でヘクターはほぼ完全に炙り出してくれた。本当に彼は実に優秀な捜査官だ。FBIがなぜ彼を担当から外したのか、私には到底理解が出来ない」
「あなたと話すことがあるとしたら、質問することはただひとつよ、リプリー捜査官。ヘクターをどこにやったの?」
「話は最後まで聞くことだ、ハーディ捜査官。彼は優秀すぎた。下働きには向かないタイプらしい。気がつくと、どうやら私たちの手の届かないラインまで突出していってしまっていたみたいでね」
シンシアは、無言でリプリーを睨みつけた。ここで初めて、リプリーは苦笑ともとれる微笑を、唇の動きだけでした。
「分からないかね? つまりこう言ってるんだ。私たちCIAも、失踪したヘクター・ロンバードの行方を捜している。彼はTLEのもっとも重要な部分の真相まで到達していた、これは確かだ。だが肝腎の核心に迫ったとき、彼は捜査官の一人を殺して逃亡した」
言うと、彼は一枚の書類をシンシアに手渡した。そこにヘクターの代わりにブルックスヴィルで死んでいた男の免許証とまったく同じ顔がプリントされていた。
「ジョン・シュメリット。君たちが、エラ・リンプルウッド別邸で発見した男の名前だ」
「指摘されて調べたわ。免許の名前はまったくの偽造だった」
「当たり前だ。この写真の男は、CIA捜査官の一人で私の部下だった男だ。本物のジョン・シュメリットは、中古車のセールスマンなどではなく、デンバーに住む文化人類学者の大学講師さ。言うまでもなく、エラの【代理人】の一人だ」
「ジョン・シュメリットなんて人間は、記録に存在しなかった」
「もちろんだ。シュメリットを探そうとしても、すでに合衆国には影も形も存在しない。彼は・・・・・そう、亀の島へ旅に出たんだからね」
「まさか」
とシンシアはここではっとして、
「まさか、本当のシュメリットは、あなたたちが殺したの?」
その問いに、リプリーは否定も肯定もしない仕草を返しただけだった。
「事情があった。理由については君に説明する気はない。話したところでここで理解してくれとも、別に言う気はない」
シンシアは、自分の声が少し震えているのを知っていたが、口を開いた。
「・・・・・・あなたたちは、なにをしようとしているの?」
「君たちと同じだよ。この国のためだ」
リプリーは水のように柔らかな声で言った。
「TLEについて話そう。エラ・リンプルウッドが作り上げたTLEは使い方しだいによっては、合衆国だけでなく世界中のオンラインに影響を及ぼす可能性のある情報兵器になりかねない。・・・・・いや、すでになっていたんだ」
シンシアは言葉を失っていた。
「実はエラが殺害される半年前から、私たちは内偵を進めていた。エラにはペンタゴン(国防総省)に入り込んで不正に国防に関する極秘情報を持ち出した疑いが掛けられていてね。彼はそれを、自分の愛弟子で元患者だった、ザヘル・ジョッシュにやらせたと言うことが判明し、CIAは確実に彼を拘束する準備を整えていた」
「・・・・・・・・・・」
「今、私は国家の極秘事項を話しているんだ」
もっと驚けよ、と言う風に、リプリーはシンシアを指差すと、
「エラが盗んだ情報はこの国のセキュリティシステムに関するものだった。彼はそれを使ってTLEを創り上げ、合衆国中のパーソナルデータに、自由に不正なハッキングをかけるシステムを実現した。それは今、こうしている間にも着実にその動きを続けている。全米各地に散らばった、【代理人】と呼ばれる元・患者たちを利用してね。私たちは、その【代理人】を調査していくことで、どこかで今もなお稼動し続けている、TLE本体の在り処を追跡してきた」
リプリーはそこまで話すと、足元のケースから大きなクリアファイルを取り出して、シンシアに手渡した。そのたたずまいに、彼女は見覚えがある。シンシアは思わずそのファイルを掴み上げた。
「君たちがヘクター・ロンバードに対してどんな評価をしているのかは知らないが、彼が主張したことは、すべて正しいことだ」
「・・・・・・・あなたたちがこれを?」
「ああ、彼の調査内容を基礎として、私たちがほぼ完全なものにしてある。この三ヶ月のヘクターの成果だ。【追跡者】のお嬢さんも、彼の役に立ってくれたようでね」
「マヤを知ってるの?」
「知ってるも何も、彼女をヘクターのところに連れてきたのは、私だからな」
リプリーは肩をすくめてみせた。シンシアはこのとき、水のように捉えどころのない目の前の男の雰囲気が、何より、マヤに似ていることにようやく気づいた。
「だがやつも、本当には彼女を信頼してはいなかったようだな。【管理人】と自分がコンタクトをとっていたと言うことを、どうやらヘクターはマヤには告げてはいなかったようだ」
ファイルを開いたシンシアの前に、もう一枚の写真が置かれた。
「ちなみにこれは、君とヘクターが接触するはずだった日の前日に撮影したものだ」
場所は同じ、ツインタワー前の広場。話をしている二人の人物が映っている。一人はヘクターであり、もう一人はマヤが似顔絵を持っていたヘリックスによく似ていた。
「ここから、やつは急用を思いついたと言ってレンタカーでロングアイランドに向かった。そこで私はシュメリットを護衛につけた。断っておくがここまで私たちの関係は、正直、非常に緊密なものだった」
「・・・・・・いろいろためになるお話を聞いたわ」
大きく息をつくと、シンシアは言った。
「確かにTLEの成り立ちも、ヘクターがこの三ヶ月、【代理人】を追いかけることが出来た理由も、今、ヘクターがあなたたちの手に負えなくなっているって言うことも理解できた」
「ショックを受けたんなら、素直にそう言えばいい」
「受けたショックは大きいわ。でも、真実をぶつけられることにはもう、慣れてるの。一番聞きたいのは、ではなぜ今、あなたがわたしに接触をしかけてきたか、と言うことよ」
「どこかで聞いてるかもしれないが、状況が変わったのさ」
やっとこの話が出来た、とリプリーはうそぶくと、
「ヘクターがいなくなった今、この状況では彼を追うしか、私たちに打開の道はない。それには彼の後任が必要なんだ」
リプリーの言葉に、シンシアはわざと自嘲気味に言った。
「捜査の中心から落ちこぼれたFBI捜査官が?」
「いや、真実に気づきかけている人間が、だ。そこで聞こう。これ以上の話を、君は聞きたいか?」
「ええ」
シンシアは即座に肯いた。
「ただあなたの言う関係になるかはここでは決めない」
「賢明な判断だ。だがこの先を聞けば、君はもう降りることが出来ない。なぜならすでに君のための席は、空けてあるのだからな」
「わたしが知りたいのは、ヘクターが追い続けた事実だけよ。だから、まず、話だけは聞くと言った。それから、何度も言うけど協力をするかどうかは、これからの話し次第よ。とにかく、この報告書はこちらに返してもらう」
「構わないさ。だがそれで、FBIを動かそうと考えるのはやめておいたほうがいい。上司に報告したところで、しばらく仕事を休んで、カウンセリングを受けろと言われるのがおちだ」
「無駄にはならないわ。今、マヤとマックスがチェサピークの【代理人】を調べてる」
「ヴィトー・マルコーの話か? まあ、なにも言わずにおこう」
リプリーは肩をすくめてから、
「私が言いたいのはそう言うことじゃない。頭がおかしいと君は言われるかも知れない、と私は言ってるんだ」
失笑すると、シンシアの持っているファイルを拳で軽く叩いた。
「言っただろう? ヘクターの主張していることは、すべて正しかったと」
「なにを言ってるの?」
「すべての元凶はエラ・リンプルウッドにある」
ヘクターの声が、シンシアの頭の中をよぎった。
「いいか、よく聞くんだ」
リプリーは十分に間を置くと、ゆっくりと言った。
「エラは死んでなどいない」

6.亀の島で会えたら

「弟の顔が見えたら、すぐおれに言えよ」
マックスは吊るしてある豚の凍った胴体を押しのけると、背後のマヤに言った。
「顔は、おれに似てる」
「ショックを受けないでよ」
マヤは、マックスの顔を避けると言った。
「こっちに来ないで。同じ顔があると紛らわしいから」
「マルコーのことも忘れるな。やつを見つければ、容疑をかけてチェサピークを叩くことが出来る」
「本当に? あなたは停職中のはずでしょ」
「シンシアがいるさ。チェサピークのファミリーの事件なら、FBIが動く。今朝、海岸から上がった遺体も、やつの仕業だと、おれは睨んでる。なにしろやつは、おれたちが生まれる前から、立派な人殺しだったんだからな」
「でも、そこまでして、チェサピークが手に入れたいものって何かしら?」
「知るかよ。お前が考えろ」
マックスはマヤの目から見ても、少し興奮が過剰になりだしているように思えてならなかった。
「あたしも、TLEについては、この世に存在するすべてのパーソナルデータを抹消するシステムだとしか、聞いていないわ。ヘクターは【代理人】を調べるうちに、その先を掴んでいたみたいだけど、あたしには何も教えてくれなかった」
「そんなことは関係ねえよ。ヘクターの件もカールの件も、チェサピークの野郎が絡んでる。必要なのは、証拠だ。そのために、今、死体を押さえるんだ」
「あなたの弟の死体でも?」
「ああ、そうだ」
マヤの言葉にマックスは少し動じたが、当たり前だと言う風に返事をした。
「なんか、文句でもあるのか?」
「・・・・・・・マックス、たぶん、マルコーもあなたの弟も、ここに連れてこられたと思う」
「本当か?」
マヤは肯いた。そして濡れた床にしゃがむと、冷凍肉の向こうにある解剖台と肉切り包丁の提げてある場所を指し、
「でも、もう手遅れかもしれない。さっきも言ったけど、時間が経ちすぎているし、彼らもプロだからあたしたちが人目見て、分かるような痕跡を残すへまもしないと思う。・・・・・シンシアに言って、FBIを動かす頃になったら、もう微細証拠も採取できないわ」
「証拠がなくたって、お前の証言があるだろ?」
「あたしの証言が、法廷で証拠能力を持つと思う?」
「お前もFBI捜査官なんだろ」
マヤは首を振って見せると、はっきりと言った。
「何度も言うけど、あたしは捜査官でもなんでもない。・・・・・あなたの言うとおり、司法取引を受けて、一部限定的な特権を与えられた元・犯罪者」
冷たい部屋で、二人はしばし無言で睨み合った。マックスにもう少しだけ落ち着きがあったなら、マヤの表情がいつもより躊躇を帯びて曇っていたのが分かっただろう。彼女は言わないが、ヘクターと捜査をしていて、こうした状況に何度か遭遇してきていたのかも知れないと。
「じゃあなにか?」
マックスは腹立たしげにため息をついた。息が荒くなり、声は、半分泣き声のようになっていた。
「カールもマルコーも、もうここにはいない。それだけか、分かったのは?」
マヤは、静かに肯いた。
「マルコーの死体は? それに、カールはどこだ?」
「残念だけど、たぶん今、この世に影も形もないと思う」
「カールが殺されるところをお前は、この目で見たってのか!」
マヤは無言でいた。それが答えのようなものだった。マックスは棚に拳を叩きつけた。ガラスが割れ、ガラス片が足元に散り掛かったが、マックスはその拳を引っ込めようともしなかった。
「ふざけんな」
言ったが、マックスの肩にすでに力は入ってこなかった。
「ちくしょう」
処理できない感情に翻弄される頭を抱えそうになりながら、マックスは膝を突いた。
「嘘だ」
マヤは言葉もなく首を振った。マックスは拳を床に叩きつけた。二人は、このとき完全に状況を失念していた。だから、数分前に無人と確認した店の近くに、バンが停まった音がしたのに、気づくことが出来なかったのだ。突然ドアが開き、裏口から三人の男が入ってきた。マヤは素早く対応して逃げ道を探そうとしたが、反対側の入り口からも、銃を構えたもうひとりが出てきてそれを牽制した。
シグ・ザウェルの九ミリを構えた男にマックスは見覚えがある。デミオ・チェザーレだった。カールはチェサピークのファミリーのこの男に借金を作った。確かにそう言っていた。
「どうも掃除が不完全だったらしいぞ、トニオ」
チェザーレは言った。年齢の割に声は高くて細かった。どうも、反対側の体格のいい禿げた男がこの場仕切りを任されているようだ。
「本当だ」
太った男は、銃を構えたまま大仰に肩をすくめた。
「でも、よかった、もう一度掃除する前で」
「お前ら兄弟のひき肉は不味そうだ、マックス」
「ドンに伝えておけよ。契約違反だってな」
マックスは腰をかがめた姿勢のまま、うそぶいてみせた。今の状況が絶望的だということは分かっていた。すでに、周到に退路を塞がれているのだ。
「契約のことは聞いてない。おれにとって重要なことは、金を回収することだ。マックス、お前の弟はどうしてもそれが出来なかった。たとえお前らが死んでも、五万は帰ってこない」
「借金は嘘だ」
「なんとでも言えよ。今は不法侵入のけじめをつけてもらう。それだけのことだ」
チェザーレは相手にしないと言う風に肩をすくめると、視線をマヤの方に移した。マックスの前に彼女を人質にとっておくことが得策だと考えたようだった。
「おれが誰だか知ってるか、日本人のお嬢さん?」
「デミオ・チェザーレ。チェサピーク・ファミリーの稼ぎ頭」
マヤは答えた。
「観光客じゃないようだな」
チェザーレは口笛を吹き、
「それなら、殺されても文句は言えないはずだ」
「チェサピークにはなんて言われてるの?」
「ドンの考えは、知らない。ただ、お前らを生かすなとだけは言われてる」
「じゃあ、本当になにも知らないのね?」
マヤは興味なさそうにため息をついて肩をすくめた。銃を突きつけても、まったく動じていないことに、チェザーレは違和感を覚え始めていた。反対側の手で乱暴に、マヤを引き寄せようとする。そのとき、マックスが身体を起こそうとした。
「やめとけよ、マックス。こういう時、どうしたらいいのか、ちゃんと警察学校で習ったろ?」
チェザーレの牽制球。見ているぞ。彼はそう警告したつもりだった。しかし、彼が本当に見ているべき場所は実は別だった。目線と銃口を反らしたかけた一瞬を、彼は後悔する暇もなく死んだ。
そのとき、音もなく、マヤが一歩だけ、踏み込んだ。息もつく間もないタイミングだった。マックスにはほとんど、マヤの小さな身体の上にチェザーレが身体ごとのしかかったようにしか見えなかった。マヤが左手を払い、チェザーレの右腕を弾くと同時に、引き寄せた身体に鋭い掌底を見舞ったのだ。
マヤに利き腕をとられたチェザーレのシグ・ザウェルが、耳を聾する炸裂音を放つ。弾は一番的が大きかった背後のトニオの肩肉を弾き飛ばし、血肉を飛沫かせた。
五フィート半ほどしかないマヤの、しかも女性のウエイトだ。自分よりひと回りは確実に大きいチェザーレを倒すには至難の業だが、左手で払ったときの腰の遠心力とチェザーレが体位を崩したことによって、打撃は彼の意識を断つのに十分だった。あごかと思われた掌底は、実は心臓を狙っている。チェザーレは絶息して、そのままマヤに身体を預ける形になった。それが、その後の運命を決めた。
「この野郎」
「マックス!」
合図するマヤの声を、マックスは確かに聞いた。その瞬間、全神経を緊張させて、マックスは身体を動かした。残りの二人が、銃を抜くのはそれより一呼吸、遅れていた。
二丁の拳銃が、密室を揺るがすような銃声を響かせたとき、マヤとマックスは吊られている豚の胴体の中に隠れて姿を消していた。あとには、部下の弾丸で顔の肉を抉り取られたチェザーレが、とっくに息が絶えて無残に転がっているだけだった。
「ちくしょう」
イタリア語の罵り声は、残響でまったく聞こえてはこなかった。
「ぶっ殺せっ、今すぐにだっ!」
尻餅をついたまま、トニオが怒鳴っていた。その耳障りな声だけが、やけにはっきりと響いている。
(あいつはどこだ)
マックスはマヤと逆方向に隠れたが、みるとすでに彼女の姿はそこにはなかった。腹を割かれた首なしの豚がぶらぶらと揺れているだけだ。まったく、驚くほどの早業だった。
二人の男は、発砲する前にひとりが死んだ。トニオの足元に、喉を裂かれた男の遺体が倒れこんできたのは、その直後だった。肉屋のトニオは鮮血を浴びて、狂牛病の牛のように叫ぶことしかしないし、腰が抜けて実際になにも出来ないようだった。
もうひとりの男が銃を構えている。マックスはそこを狙って九ミリで撃った。弾丸は、男の手首を吹き飛ばし、うめき声を上げて落とした銃は、トニオが拾おうとする前に駆け寄ったマヤによって、蹴り飛ばされた。
「助けてくれ」
トニオは血まみれの肩を動かして、両手を頭の後ろに上げてひざまずいていた。
「死ぬかと思ったぜ」
マックスはため息をついて首を掻いたが、まだ、足元が少し覚束なかった。いくらNYCで警官をしていても、こんな狭い部屋で、銃撃戦でしかも五人を相手にした経験などしたことがない。対しマヤは丸腰にも拘らず、呼吸ひとつ乱していなかった。
「どうする?」
「残った人に聞く」
銃をトニオの頭に突きつけ、マックスは言った。
「証言してもらうぜ。二人もミンチにしやがって」
「誤解だっ、おれはそんなことやってないよ」
「吊るしてやろうか」
「ああっ、マルコーは殺した、それは認めるよ」
トニオは、必死に何度も肯いた。懇願するようにマックスを見上げると、
「肩の肉が吹っ飛んでる・・・・・・なあ、血が出てるんだ。手を、下ろしてもいいだろ?」
マックスはその瞬間、トニオの傷口のあたりを狙ってつま先を突き刺した。トニオは呻きながら、狭い床で二回もバウンドした。持ち上げた口にマックスは銃口を突っ込んで、
「文句を言うなよ、殺されてもだ。お前はそう言う立場だろ?」
どうみても、マックスの精神状態はそのまま引き金を絞りそうな雰囲気だった。マヤが、すぐにその手を止めた。
「マックス、待って。彼、嘘は言ってないわ」
「嘘は言ってないだって?」
トニオの潤んだ瞳を見ていたマヤは言った。
「どう言うことだ?」
「連れてきたんでしょ、あなたたちがここへ」
トニオは指摘されて、呆然とマヤを見返していたが、やがてあわてて肯いて、
「あ、ああっ、そうだ。もう一人はまだ、生きてる」
「本当か?」
「見えたわ」
確かに、彼女はそう言った。カールはまだ、生きている?
「カールが二度ここに連れてこられた理由も、改めて説明してもらうわ。トニオ、彼はどこ?」
「外のバンだ」
聞く前に、マックスはドアを破って駆け出していた。

バンの後部座席から発見されたカール・リヴローチはすぐに病院に搬送された。熟れすぎたパパイアのように顔を腫らせたまま、バンの荷物置きに投げ込まれていたカールの風貌を、マックスとそっくりだと判断することには、どう見ても無理があると、マヤはひそかに思った。
だが、それにしても幸いだったのは、マフィアの拷問が彼の意識を奪うほどの致命傷をまだ与えていないことだった。改めたところ、全身の打撲傷で、急所に達しているものは取り敢えずなかったことはマックスを少なからず安心させた。マルコーと同じくあの店で解体されるまで、彼らにとっては、カールは話が出来る状態を保っていなければならない必要があったためだろう。
目の前で自分と同じ境遇の人間が一人、消えるところを一部始終見学させられたカールは、救出されたとき、助けに来たのが自分の兄だと、しばらく認識することが出来なかった。彼は動きそうもない上体でもがき、頭を振って呻いていた。パニック状態に陥らせないようにマックスが救急車を呼ぶ間、マヤがその介抱に努めていた。
「兄さん」
一応の手当てを終えたカールの病院に、スヴェンナが現れたのは、それから一時間もしないうちだった。
「大丈夫だ、カールは死なないさ」
マックスは自信をもって言った。マヤがありあわせのもので応急処置をしたのだが、お蔭でこれ以上の出血は抑えられたという。スヴェンナは小さく肯き、カールが運ばれていった集中治療室のドアを、ちらりと眺めた。それから戸口に、電話で聞いた発見者の日本人の女の子が立っているのを発見して、思わず駆け寄った。
「あなたね」
マヤが否定する暇もなく、スヴェンナは彼女の両手をしっかりと握り締めて、言った。
「ありがとう」
「え・・・・・・・・」
マヤは本気で戸惑っているようだった。なにか、手を振り払う口実を考えようとしたが、目の前の人間の感情が理解できずに処理に困っているような顔をした。本当に不可思議なやつだと、マックスは思った。彼が見る限り、今のマヤは、マフィアに銃を突きつけられたときより、なぜか、頼りない顔をしている。
「ね・・・・・・あ、マックス」
たまりかねて、マヤは言った。
「おれからも感謝するよ。お前がいなきゃ、カールを助けることなんか、出来なかったんだからな」
マックスは、自分も手を差し出した。
「でも・・・・・マルコーの死体は回収できなかったし、TLEの次の段階のことも、分からなかったわ」
「それは別の問題だ。とにかく、おれたちは、お前に感謝してる」
彼女の手を、マックスは自分から握った。華奢で、少しひんやりとした、繊細そうな造りの手だった。マヤは怖れていたが、しいてそれを拒むことはしなかった。
「カールが目覚めたら、詳しい話を聞こう」
スヴェンナに任せて、二人はロビーに出た。
「で、チェザーレのやつは結局なにも知らなかったのか」
「遺体の処理を担当したトニオから、ある程度事情は聞けたそうよ。それに」
マヤは小さな紙片を取り出して、マックスに手渡した。
「これ、カールのポケットに入ってたの」
マヤによると、それはマックスが身体の中に隠していたものらしかった。そこには走り書きの青いペン文字でこう書かれていた。

Helix 22+XX

「ヘリックスだ」
「カールはもともと、あなたのものだって言ってた」
「・・・・・・マヤ、確かお前は、おれのうちにヘクターが来たかもしれない、だからおれの部屋に入ったって言ってたよな」
マヤは、はっとして肯いた。カールにこれを渡したのはヘクターなのだ。
「つまり、ヘクターがあなたに会えと言ったのは、あなたの手を通して、これをあたしに渡すためね?」
「そうだ」
マックスはその数字が書かれた紙片をもう一度見てから、
「マヤ、お前に聞く。これは【プロダクト・キー】か?」
問いに、マヤは首を振った。
「いいえ、違うわ。あたしの知る限り、【プロダクト・キー】は、11桁の数字を示したものよ」
「チェサピークの目的はこれか?」
そのとき、トニオの悲鳴が聞こえてきた。二人は手遅れを覚悟したが、まだそうはなっていないようだった。肩の治療を受けたトニオは腕を吊っていた。その肘から、血が滴っている。一発で仕留めきれなかったので、人が集まりだしてきていた。人だかりの輪の中に、トニオともう一人男がいる。足元にマックスに手首を撃たれて入院した男がくの字になって呻いていた。
「やめてくれ、おれはまだ何もしゃべっちゃいねえよ!」
トニオはぶるぶると首を振って主張したが、相手の耳には入らなかった。ナイフを構えた指に力が入りすぎて、顔が血の気を失い始めているのだ。視野も狭く、興奮して呼吸が荒い。ひとりを刺したときに刃がずれ込んで切ったのか、指の股から血が流れている。
「どうする?」
病院で発砲は出来ない。マヤは黙って、背もたれのないパイプ椅子を手渡してきた。大体、するべきことは分かっていた。マックスは椅子の四本足のひとつをなるべく長く持って、男に叩きつけた。ナイフの刃よりリーチの長い凶器なら、危険はなかった。二、三度遠心力を利用しながら振り回してやると、ナイフを持った手で庇いながら、男はやや後退した。その間に、病室から花瓶をもってきてマヤが投げつけたらしい。
今度はそれが男の右側頭部に当たり、派手な音を立てて割れた。破片が散り、水が漏れ、どよめくように悲鳴が上がった。その中の誰よりも、トニオのものが大きかった。男は血まみれの顔をかばって倒れこんだ。その瞬間、わき腹の肝臓を狙って、マックスがサッカーボールキックを食らわし、ナイフを持った拳を上から踏みにじった。男は悲鳴を上げるまもなく意識を失った。
マックスはナイフを回収したマヤを見下ろすと、言った。
「手間が省けたな。来いよ、トニオ。話がある」
「おれは、なにも話さねえ」
「死にたくなかったら話せよ。死にたかったら、ここで殺し屋を待って、ゆっくり入院してろ」
「・・・・・・分かったよ」
トニオは観念したのか、場所を変えて話すことに結局は同意した。
「で、チェサピークはなぜ、マルコーを殺したんだ?」
「金だ」
命の安全が保障されなくなったトニオはすぐに話した。
「少なくとも、一千万は溜め込んでるって噂だった」
「どう言うことだ?」
「マルコーのやつ、失踪させた死体が持っていた口座の金やら遺産やらを、全部横取りしていやがったんだとよ」
「TLEで消えた個人データの中には、銀行口座の情報なんかも含まれてるわ」
マヤはため息をつきながら、言った。
「もちろん、データには消された痕跡がないから、最初からなかったことになって、回収なんて出来るわけないと思うけど」
「くだらねえ」
「ドンはもともと、マルコーの身元の消し方に疑問を持ってた。戸籍やら社会保障番号の登録やらが消えるのはいい。だが、消えてなくなったやつ名義の口座やら保険金の掛け金やらは、どこにいっちまうのかってな」
トニオは、はあはあ言いながら話した。
「で、ついにドンがその金を吐き出すようにやつを問い詰めたら、その晩、やつは消えちまったんだ」
「それで、いろんな人間を巻き込んで宝探しか?」
「一千万だぞ」
トニオは目を剥いた。
「そんな金はねえよ」
マックスはトニオを睨み返してから、言った。
「じゃあ聞くが、何でおれとマヤを狙う?」
「金はヘリックスってホームレスが管理してるって、たれこみがあったんだ」
「マヤ、お前はヘリックスを探してマンハッタンをうろつきまわった。そして、チェサピークに命令されてマルコーを探し回ってるおれと接触した」
「つまり、あたしのせい?」
「そうは言ってねえよ。チェサピークがカールを消そうと考えたのは、それとは別個の理由だし、おれの命も恐らくその線から狙われることになったんだろうからな」
「カールの野郎はマルコーから預かった暗号を持ってやがったからだ! 逃げようとした野郎を捕まえたときにそいつを差し出して来たんで、ドンが直々に拷問した。マルコーのこともそうだ、悪いのはおれじゃねえ。だから、助けてくれ」
「少しでも慈悲ってものにすがりたかったら、裁判で証言しろよ、お利口さん」
マックスはトニオの襟首を締め上げて、言った。
「カールの件はそれで許してやる。だが、おれたちのことと、それは別問題だ。次の質問だ。お前がTLEについて知ってることを、まず、すべて話せ」
「知らねえよ! マルコーがどうやって遺体を消してたかなんかにはおれは興味ねえんだ。おれはただ、マルコーが処理した後の遺体の処理を行ってただけだ、すべてはドンが知ってる」
マックスは、マヤのほうを見た。
「マックス、たぶん嘘は言ってないわ。・・・・・・でも、チェサピークがTLEのことを話していたのを、聞いたことはあるはずよ。そうでしょ?」
「ま、まあ、話だけはな」
トニオは、首の汗を拭いながら、言った。
「確かにマルコーがその、・・・・・・パソコンで遺体の処理をしてたことは知ってたよ。そのシステムのことも、ドンがある程度話して知ってた・・・・・・マルコーはどうやら、そこに金を隠すヒントを隠したんだって言う話だったから・・・・・・」
「それが、どんなものかは、あなたは見たことないのね?」
「ない。・・・・・・・あ。いや、見たことがある」
「どっち?」
「今、思い出したんだ。ちょっと、待ってくれ・・・・・」
「早くしろよ」
トニオは頭を掻き毟って、
「一度、おれがやってる隣でマルコーがパソコンをいじってたことがあるんだ。そんとき、少しだけど話も聞いた・・・・・そうだ!・・・・・あれは、ネット上にあって、FBIのVICP(凶悪犯逮捕計画)のサイトから入るんだって、そう言ってた」
「VICPからだって? どうやってだ?」
「知らねえよ! そこまでは興味なかったし、ちらっと聞いただけだったから、本当に今、思い出したんだ。ログインするときに、ドメイン名に何か暗号を入力する。確か、そう言うことだった」
「こいつか?」
マックスは、カールから受け取ったメモを見せた。
「いや、分からねえ。こんな単純なアルファベットじゃなくって、もっと・・・・・・長い数字の羅列だったように思うけど・・・・・・なんせ、ちょっと前に一度見たきりだからな」
「カールが回復したら、聞いてみるしかないね」
二人は、肯き合った。
「なあ、ここまで話したんだ。おれにはちゃんと、司法取引が成立するんだろ?」
「知るかよ」
マックスは、トニオの肥った顔を一瞥すると、言った。
「そいつは後でここに来る捜査官とでも相談しろよ。弁護士でも同席させてな。とりあえず、おれたちがお前をぶちのめすってことだけは諦めてやる。ここで成立した取引は、それだけだ」

リプリーと別れた後のシンシアは、五番街のネットカフェにいた。別にそこでなくてもよかった。ただ、パソコンが使えればどこでも。しかし、心理的に自分のパソコンを使うことが躊躇われたからだ。
パソコンを開き、見慣れたFBIのホームページを立ち上げる。VICP(凶悪犯逮捕計画)、重要指名手配犯の情報提供を呼びかけているホームページだ。そこで、シンシアは、普通は捜査官としてログインするためのドメイン名に、指定された名前を入力した。拒否のタグが出る。選択肢はキャンセルと再試行だ。左側の再試行を、彼女は急ぎ足で三回、押し続けた。
「TLEにアクセスする入り口は、私たちが確認しているうちでは三種類。君は、その中からもっとも馴染みがある場所から入るといいだろう」
このページを指定したリプリーの皮肉めいた微笑が、まだシンシアの頭の中にあった。確かに、皮肉な話だ。凶悪犯を逮捕しようと言うHPに、完璧な『逃亡』を手助けしようと言うページのリンクがあるのだから。
やがて画面は、アクセスエラー、検索不能の注意が出た後、見慣れないサーバーへ接続を始めた。そしてその後、いくつかのアダルトサイトの広告と思われる目に痛い色彩のタグが、数珠繋ぎに出現したのは、シンシアを少なからずいらつかせた。十以上のタグが下に連なり、バイアグラの未承諾広告が出現した頃、急に画面は抜けるようなマリンブルーの発色のページを出現させた。
目が覚めるような純白の砂を敷き詰めたビーチと、珊瑚礁のそよぐ美しい海岸にやしの木を見たとき、シンシアはもしかしたら間違えてタヒチかモルジブの観光協会に接続してしまったのではないかと、本気で心配してしまった。
八十年代風のポップな書体で書かれた【Turtle Land’s Escape】の文字の下に、シンシアはもう一度その名前を入力した。パスワードは、アルファベットに数字を合わせたもので、最初の名前のスペルに、シンシアは見覚えがあった。
頭の中でリプリーが言う。
「ドメイン名は、【代理人】の名前に11桁の数字を足したものだ。この数字がなんなのかは、君がTLEを利用するときに分かるだろう。ここへアクセスするのは、このパスワードを知っている人間であれば、【代理人】でなくとも誰でも可能だ。もちろん、TLEを利用することも」
シンシアはエンターのキーをクリックした。すると、目の前に亀の石像をあしらった白壁の門が現れ、その下にいつかマヤが言っていたTLEを象徴する説明文が書かれていた。

現実世界に存在する自分という名の記録の集積からの逃避
その手段は、島に見まがう巨大な海亀のように、広大な仮想の世界に潜み移動し続けている
迷える人間はゆく
ゆくために逃げるのだ
それは『亀の島への逃避(タートルランズ・エスケイプ)

あの能力で、ヘクターが操作した画面から、彼女はそれだけを正確に記憶していたのだろう。それは一字一句まで違っていなかった。
「まずは戻って確認するといい。それから話し合って決めることも大切だ。例えば、誰が消えるのか、とかをね」
シンシアの胸ポケットで携帯電話が震えていた。二回目でシンシアはコールに応じた。マックスの声で、ちょうど下に来ていることを告げる連絡だった。二人はすぐに上がってきた。
「TLEにアクセスする方法を見つけたんだな?」
「ええ、今、つないでるわ」
シンシアは画面を一瞥すると、マックスに向かって言った。
「ここへ来る方法については、後で説明する」
「トニオの身柄を、FBIのNY支局に引き渡したぞ」
「話は支部長とつけておいた。ちょうど今、チェサピーク・ファミリーを追っているところだから、トニオの証言はチェサピークを引っ張る口実としては、絶好のものになりそうね」
シンシアはディスプレイを指し示してみせた。
「マヤ、TLEへのアクセス画面はこれで間違いないわね」
「ええ、ヘクターがたどり着いたTLEへの入り口はそこよ」
「それで・・・・・・ヘクターはあなたには、ここまで来る方法は教えておかなかった、と言うわけね」
「そうよ」
シンシアはなぜか、そこで少し引っかかるものの言い方をした。
「これはFBIのVICPから入ったのか?」
「ええ、そうよ。ただ話によるとリンク先には他にもいくつかのサイトがあり、世界中に散らばっている。一見なんの変哲もないそこのログイン名にパスワードを入れ、特殊な操作を行うことで、このサイトに自動的にアクセスするようになっているらしいわ」
「そのパスワードは【プロダクト・キー】じゃないんだな?」
「【代理人】の名前を冠したパスワード」
シンシアは肯き、デスクの上に置かれた紙片を指差した。
「これを使えば、本人以外でもTLEに入り、いつでも利用できるそうよ」
「誰でも消せるってことか?」
「それは、断言できない」
シンシアは曖昧に答え、首を振って見せた。
「ただ、消す方法については後で説明する」
「よく、ここまで突き止めたな」
「ある人物が、接触を図ってきたの」
「誰だ?」
「この三ヶ月、ヘクターと協力関係を結びTLEとエラ・リンプルウッドを追っていた人物よ。彼は、エラとザヘルが開発したTLEの危険性に早くから気づき、FBIより先に事件を追っていたらしいわ」
そこで、シンシアは顔を上げてマヤの方を睨みつけた。
「マヤ、わたしはリプリー・レベッカーに会ったの」
「リプリーに?」
マヤはその名前に、なぜか顔色を変えた。
「リプリー・レベッカー? 誰だ、知ってるのか?」
「CIA捜査官よ。主に国際テロ組織を追ってる」
吐き捨てるように言うと、シンシアはそれと同じ匂いのする眼差しでマヤを見返した。
「あなたの事件を担当していた捜査官の名前でしょう、マヤ。あなたは司法取引を受け入れ、その能力をFBIの捜査に利用することを条件に、自由の身を許された。そこまではわたしも、ある程度は聞き知っていたわ。問題はまだ、リプリーがあなたを使ってヘクターになにかさせようとしたか否か、そのことよ」
マヤは、その問いには答えずに黙ってシンシアを見つめ返すだけだった。
「彼はヘクターに出し抜かれたことを焦っていた。だからわたしに接触したの。あなたにTLEに関する情報を極力教えていなかったのかもしれない。わたしにとって、その彼の話はあなたに疑念を抱かせた、それは確かよ」
「その件について、弁解をする気はないわ。今は話しても、言い訳に聞こえるだけだし、ヘクターがあたしにあまりTLEについて情報を与えなかった本当の理由は、彼以外には分からないと思う」
「ならひとつだけ、質問をする。これからわたしたちがやっていくためにね。必ずそれには答えてほしいの、マヤ」
「分かったわ。聞いて」
マヤは視線をそらさずに肯いてみせた。
「話してほしいのは、ヘクターより遅れてNYに来た本当の理由よ。あのとき、ヘクターとあなたは不自然なタイムラグをとり、別行動をとった。それはあなたの側に事情があったと聞いたと記憶しているけど、あなたはシカゴに留まって一体なにをしていたの?」
ややタイムラグがあって、マヤは答えた。それは少し考えた、そう言う印象を持たせる間だった。
「人と会っていたわ。どうしても外せない用事があって」
「じゃあ、あなたが誰に会ってなにをしていたのか、その詳細をここで説明することがあなたには出来る?」
「それは、出来ない」
マヤはそこで、首を振った。
「なぜなら、あたしがシカゴでなにをしていたのかを説明したところであなたにはたぶん、理解出来ないと思うし、誰に会ったかと言うことについても、恐らく同じことだと思うから」
「じゃあ、わたしを納得させられる答えを、今、ここで出せればそれでいいわ。あなたがそれを明かさなくても済むような」
「リプリーじゃない。それは、あなた以外に誰にでも誓える」
「ヘクターをCIAに引き込んだのは、あなたなの?」
マヤは、即答はしなかった。だが、それは嘘をつこうと思っている沈黙ではなく、ゆっくりと言葉を選んでいるだけのようだった。実際、彼女は焦ることなく、静かにこう語った。
「それは事実ではないし、情報をリプリーに報告していたか、とあなたが質問したがっているなら、それにも、ノーと答えるわ」
「それがあなたの答えね」
マヤは、小さく肯いた。
「リプリーと、CIAとのかかわりをむしろ積極的に利用しようとしたのは、ヘクターの方。リプリーとの接触は彼自身が主導して行っていたし、あたしはヘクターの指示を受けて、自分の能力に従って結果を出すことがその三ヶ月間だった。・・・・・・・事実はそれ以上でもそれ以下でもない、それがあたしの答えよ、シンシア」
最後の言葉がなにを意味していたのか、シンシアにはきちんと分かっていた。彼女はそこで前髪をかき上げると、大きく息をついた。
「確かに、わたしがあなたを、ヘクターを今の状況に引きずり込んだ元凶だと考えたがっている見方があることは、認識しているし、それを危険だとも思ってはいる」
「そう。それはお互いにね」
マヤも、同じため息をつくと、言った。やや疑心暗鬼になっている。急激な孤立感がそうさせる真の元凶だと、お互い自分も気づいているはずだと、マヤの言葉はそれをほのめかしていた。
「あたしたちのヘクターとの関係は似ているようで、微妙に異なっているわ。だから、こういうときは、自分のことを分かってもらおうとも考えてないし、あなたにもそれを求めようとも思わない」
「ええ、お互いに」
息をついたが、シンシアの顔の曇りは晴れなかった。それでも、大分楽にはなったらしかった。彼女は、さっきデスクに置いた紙を取り上げると、マヤに手渡して言った。
「ヘクターが撃ったジョン・シュメリットは、リプリーの部下の一人だったわ。その彼も本物のジョン・シュメリットを殺害してIDを奪っていた。彼が持っていた【プロダクト・キー】も一緒にね」
「リプリーなら【代理人】を殺すくらいのことはやりかねないわ」
「リプリーは、殺したのは自分じゃないと主張していた。それには理由があることだと聞いていたけど、まったく鵜呑みには出来ないと思う」
「つまり、ヘクターはそいつの【プロダクト・キー】を奪っていったって言うのか?」
「そうよ」
「でも、この【プロダクト・キー】はTLEにアクセスしたり、それを使う分には必要のないものなんだろ?」
「でもなんらかの意味があることは確かよ。リプリーだけでなくチェサピークもそれを血眼で捜そうとしていた」
「だがやつの狙いは金だろ? それもありもしない」
「一千万ドルなんてお金はないはずよ」
「噂は流れてもおかしくないわ。無理もないというくらい」
シンシアは、その点については、否定はしなかった。
「ただ、いずれにしても、TLEを知る人間のうちで【プロダクト・キー】に隠された謎を追求しようと考えていない人間は、今、いないくらいだと考えてもいい状況になっているわ。リプリーの話だけど、今、このキーをめぐって、全米で【代理人】同士が殺し合いすら起こすようになったそうよ。リプリーの話だと、本物のシュメリットは別の【代理人】に殺された。キーを持っていない【代理人】にね。リプリーは正確にはその男からキーを入手した」
「殺し合いだって? そりゃ、本当の話か」
マックスの言葉に、シンシアはゆっくりと、言った。
「状況が変わったのよ。文字通りね」
「確かにマルコーは新しい自分になると言った。やつは、八方塞になっていたんだ。マフィアに脅迫されて、人生をやり直したいと思っていた。確かに、それが金だと言うなら、理屈は通るかもしれないが、おれにはそうは思えなかった。なぜなら金を手にしたところで、今までの人生が消えるわけじゃないし、たかだかメキシコあたりに逃げたとしても、マフィアの手は長い」
「金を持って逃げても必ず捕まるわ」
「TLEには次の段階がある。そしてそれはもう、わたしたちの前に姿を現しているわ。リプリーはわたしたちにその次の段階に行くために、ヘクターの代わりになれと提案してきた。ヘクターやマルコーが消えたように、わたしたちもこの世から消えてしまうことになるかもしれない。協力するかどうか・・・・・・返事は今から二十時間後にすることになっているわ」
「あなたは彼を信用しているの?」
「まさか。ただ、彼が接触してきたと言うことは、お互いに利用価値があるからよ」
シンシアに渡された【プロダクト・キー】を、マヤはマックスに手渡した。彼はそれを裏返してみてみた。するとそこには、こう書かれていた。

Rullf.398263712810

「ラルフ・トーレス」
「すでに殺害されていたわ。今朝、ハドソン湾にあがった遺体がそうだった。彼に関する収監記録も消えていた。もちろん、殺したのはリプリー」
マックスは、しばらく声が出なかった。呼吸を整え、どうにか、次の言葉を口に出した。
「なあ、じゃあ、おれたちは、ラルフの代わりになるのか?」
「このキーをどのように使うのか、わたしは聞いていないけど、たぶん、そう言うことになる」
シンシアは言うと、肩をすくめた。
「だから、わたしは現時点で誰も信用できなくなったら困るのよ」

「三十時間か」
ダッシュボードの時計を見ながら、マックスは言った。夕食はまた、タコスかハンバーガーになりそうだと、彼は関係のないことを思い浮かべてみた。
「リプリーと会うのは、明日の昼ごろになりそうだな。マヤ」
返事せず、マヤは頬杖をついて夜景を眺めていた。考え事をしているような、そうでないような、本当に曖昧な表情をしていた。
日本人は表情が読みにくい。困るのはこう言うときだ。
誰の言葉だったか。マックスは昔、ブロンクスのアパートに住んでいた日本人のガールフレンドと付き合っていた友達を思い出した。それを口癖のように言っていたのが、確かそいつだった。そう言えば、彼はたった二週間でその語学留学生だったその女の子にふられたと言う話だった。
ただ、彼が勘違いしていたのは、考えが読めなくて困るのは、日本人を含む東洋人一般の特徴なのではなく、人種国籍を問わず、女性全般の特徴であることに彼が無神経であった点に原因があったことを知らなかったことだ。つまり、もともとそいつはデリカシーを欠いた男で、問題は単純なことだ。彼は、その子が風邪を惹いているときと、生理の最中にセックスを迫り、必然的にふられたのだ。
「もしなにか、面白いことを思い出したんなら、口に出さずにひとりで楽しんで、マックス」
心臓を刺されたようにどきっとした。突然、マヤが言った。
「な、なんだよ、いきなり」
別に悪いことをしているわけでもないのに、マックスは後ろめたさを感じながら、答えた。
「なにも考えてねえよ。勘違いすんな」
「少し調子が悪いの」
マヤは、苦しそうに言うと、熱っぽいため息をついた。思い当たるふしはなかったが、シンシアと話していて後半、彼女がほとんど発言せず、沈黙を守っていたことを、マックスは今思い出した。
「おい、どうしたんだよ。風邪でも惹いたのか?」
「頭が痛いだけ。ちょっと放っておいてくれたら、すぐ治るわ」
痛みが響くのか、マヤは少し顔を歪めた。うっすらと汗も掻いているようだった。
「大丈夫か」
答えるのも物憂いと言うように、マヤは首を振った。
「今からちょうど病院に戻るところだ。医者に頭痛薬でも出してもらえよ」
トニオを逮捕した後、シンシアは証人としてカールとスヴェンナにも保護の手続きをとってくれていた。チェサピークに命を狙われている今、病院は危険だ。ちょうどFBIの担当捜査官が到着したので、証人とその家族の保護に際して、すぐにこちらに来て事情を説明してほしいとのことだった。
マヤは、また車のドアの手すりに半身を預けると、言った。
「ねえ、カールとは、話は出来そうなの?」
「十分くらいなら、問題はなさそうだ。あごにボルトは入ってるけどな。お前のお陰だ」
「そう言うことじゃないわ」
マヤは、いらだったように息をついて言った。
「この紙に書かれた暗号のことよ」
「ああ、こいつのことか」
マックスはカールが所持していた暗号の書かれた紙をもう一度、マヤから受け取って眺めてみた。
「これは【プロダクト・キー】でもなんでもなかったな」
そう言えば、シンシアもその件については、首を傾げていた。
「【プロダクト・キー】についてはさっき説明したとおり、【代理人】の名前を冠した11桁のキーのこと、そしてTLEによって、個人を完全に消去するときも、一回につき一個のキーを使用することになっているわ」
シンシアの説明を、マックスは思い出していた。
「でも、これはそのためのキーでもない」
「本当か?」
「なぜなら、そのキーは22桁に及ぶすべて数字のキーだから」
シンシアは画面を使って二人に説明をした。
「TLEによって、パーソナルデータを消去するには、【代理人】がもつキーを使ってTLEにアクセスする以外に、次の二つの段階を踏む必要があるわ。①該当者のフルネームのスペルと性別を入力する、②該当者自身の解答によって作成した【パーソナル・キー】をフォームの中に打ち込む。②を行うのには、消される人自身がサイトで提供している、555問の質問に答えてもらう必要があるわ」
シンシアはその質問内容をすべて印刷したものを、マックスに手渡してくれた。ざっと見たところ、それらは、自分の性格や育ち方など、かなり単純なパーソナルな質問に対して、イエスかノーの形式で答える択一式のものだった。
「なんだ。これとほとんど同じようなものを、ガキの頃スクールカウンセラーに受けさせられた覚えがあるぜ」
「この質問によって割り出したキーを入力することによって、TLEを発動させることが出来る。消去は大体二時間程度で終わるわ」
「そんなに簡単なものなのか?」
「それによって引き起こされる結果と比較してはね」
マックスは、信じられない、と言うように肩をすくめた。しかしげんに、結果は出ている。確認しているだけですでに、三人の人間がこの世から消えているのだ。
「でも、この【パーソナル・キー】を作成するには、なかなかの手間と労力が必要になるわ。例えば消したい人間がいたとして、その当人が、自分が消されると言うことが分かっていて、こんな膨大な量の質問に答えると思う? 確かに拷問や取引など、手段はあるとしても、すべて真剣に答えるだけでも、最低でも二時間以上は必要になる」
「にしても、エラ・リンプルウッドはなにを考えて、こんなシステムを作ったんだ?」
「分からないわ。今のところはね。ただ、はっきりしているのは、この程度の手間で発動できるシステムに組み込まれている技術を転用すれば、驚異的な情報テロ兵器が作れる可能性があると言うこと。リプリーの話では、悪用されれば、世界経済がストップするほどのシステムエラーを起こす『情報の核兵器』になりうる。また逆に考えれば、テロ組織の資金や活動そのものの凍結や、逆用して最強のセキュリティシステムの構築にも役立つそうよ」
「つまり、リプリーの目的はTLEそれ自体なわけだな」
「究極的にはね。だけど、そのためにはエラがなにを考えて、TLEを計画したのかを突き止める必要がある」
「おれたちやリプリーの一歩先に、ヘクターがいる」
マックスの言葉に、シンシアは大きく肯いた。
「そしてわたしたちは皆、原点としてのエラに向かっているわ。すべての始まりに彼がいる。これはわたしたちには、今は判断のつかないことだけど、リプリーによれば、エラ・リンプルウッドはまだ、生存している可能性がある」
シンシアの言葉を思い出しながら、マックスは、ちらりとカールの持っていた暗号を眺めてみた。信号明かりで見えにくいが、しっかりとタイプされた文字にはやはり、ヘリックスの名前が冠してある。
「これだけは、確かに【代理人】のキーとも、【パーソナル・キー】とも違う」
「恐らく、【管理人】のキーよ」
マヤは言った。彼女もシンシアがリプリーに見せられた写真のことを思い出しているようだった。
「ヘクターはあなたに託すつもりで、これを渡そうと考えた。でもちょうどあなたはいなくて、カールがそれを受け取った」
「馬鹿なやつだ」
そこまで聞いて、マックスはあることに気づいた。はっとした。
「おい、やばいぞ」
「どうかしたの?」
「カールのことだ。レコの話だと、あいつは、確かチェザーレのところで【試験】を受けたはずだ」
マックスは急いで病院まで飛ばした。トラブルは起きていないうちならまだ間に合う。余計なところで、混乱を招きたくはなかった。病室には、カールとスヴェンナ、そして、シンシアから連絡を受けてきたFBI捜査官が立っていた。
「カール」
カールはベッドの上から、包帯で膨らんだ手を上げてそれに応えた。顔はかなり憔悴した様子だったが、元気そうではあった。保護を受けるとき、この担当官には事情をよくよく話しておくべきだとマックスは、思った。
「チェサピークのファミリーの襲撃を受ける前に、二人を保護しましょう。明日、お迎えに上がります」
「よろしくお願いします。少し、兄弟で話をしても?」
ギリシア系の体格のいいその捜査官は、無骨な性分に不慣れな微笑を見せて肯き、病室をあとにした。スヴェンナは兄を心配そうな顔つきで見ている。問題ない、とだけマックスは言った。
「カール、少し話は出来るか?」
「兄貴」
「気分はどうだ? 大丈夫なのか」
顔を上げたカールは、意外そうに目を見開いてから苦笑した。
「また、ぶっ飛ばされるかと思った」
「心配するな。お前もスヴェンナも、どうにか守れる手続きはとった」
「レコから、あなたの話は聞いたわ」
声の方をカールは向いた。意識は、はっきりしているようだ。
「あんた・・・・・・おれを助けてくれた」
マヤはベッドの端の壁に寄りかかって話をしている。やはり、少し苦しそうだった。マヤはポケットから紙片を取り出してみせた。
「あなたのポケットに紙が入ってたわ。これはどこから手に入れたの?」
「ああ、ヘリックスって名乗った男から、それを受け取った。うちに兄貴宛に渡してくれって、直接来たんだ。しばらく、部屋で待ってた」
「お前はなぜこいつを持ち出した?」
「そんなに重要なものだなんて、知らなかったんだ。だから、ポケットに突っ込んだまま、ずっと忘れてて・・・・・・」
「そいつを、チェサピークに発見されたのか?」
カールはギプスをかすかに動かして肯いた。
「チェザーレのオフィスで仲間と背負わされた借金を返すために下働きをさせられる予定だったんだ。なんか、変な試験受けさせられて・・・・・おれだけ違う仕事を回された。マルコーって男を捜せって」
「お前が?」
「ああ、だがその男は見つからないし、ひとりでも借金を返せなかったら皆殺しにしてやるって脅されて・・・・・うちを飛び出した日に、そいつが捕まったんだ。ちょうどおれたちの前で、そいつは拷問されてて・・・・・・」
「マルコーはなにか喋ったのか?」
カールは首を振った。
「もちろん、喋ることは喋った。だけど、意味の通じないことばっかりだった。今のおれは抜け殻に過ぎない、やがて新しい完璧な自分になるんだとか、神になる暗号を解いたとか・・・・・とにかく、滅茶苦茶だった。最後にそいつが、ヘリックスが知ってる、ヘリックスに聞けばすべてが分かるって言ったときに、おれはうっかりうちにその名前の男が来たってことを・・・・・・その・・・・・話しちまったんだ」
「それで、お前はこのざまか」
二人は苦笑しあった。
「兄貴を笑えないよ。どうやらおれも、やっちゃいけないことをやっちまうやばい男だったみたいだ」
「TLEについて、知っていることは少なそうね」
マヤは言い、涙で少し潤んだカールの瞳をもう一度覗き込んだ。カールは不思議そうに、彼女の顔を見返している。
「カールが会ったのはヘリックスか?」
「ヘクターよ。それは間違いない」
カールの瞳を見終わると彼女はまた、苦しげにため息をついた。
「シンシアの話が確かなら、タイムワーナーセンターのロータリーでヘリックスと接触を持った後に、あなたの元を訪れたと考えるべきでしょうね」
「お前が会った奴からは何も聞いてなかったのか?」
カールは記憶を探るように、顔をしかめた。
「いや・・・・・とにかく兄貴が戻ったらすぐに渡してくれって。これを他の誰にも見せちゃいけない物だって言うのもなんとなく言ってた気がするけど・・・・・・そうだ・・・・・・・この紙に書かれている場所で、兄貴と会うから、そう言ってたような気がする」
「場所? ヘクターはその場所でって言ったのか?」
「亀の島で会おう」
カールは言った。
「そこに隠されたマナがあるって。・・・・・・よく分からないけど、そんな内容だった気がする」
カールはそれから、眠たそうにあくびをするとまどろむような表情をした。見たところ、どうやら話を聞くのは、ここまでが限界のようだった。二人は捜査官とスヴェンナとの相談に任せて、ロビーに出た。
「隠された・・・・・・・マナ?」
マックスは首を傾げた。
「なんのことだ?」
「さあ、今のところは分からないことが多すぎるわ。ただ、TLEによる次の段階に関係していることは間違いないことでしょ」
マヤは、最後の方は立っているのも辛そうにマックスには見えた。
「はっきりしていることは、彼らは亀の島にこの世から完全に逃避するために行くのではないと言うこと。彼らはTLEを使ってただ消えたわけじゃないわ。なにかを手に入れにいった」
新しい自分、隠されたマナ、そのためのいくつかのキーと【代理人】。常にその先にはエラがいる。
「だが、エラは本当にまだ生きているのか?」
その問題だけが、最初からずっと解決されないままにそこに残っている。リプリーはまだエラは生きていると、シンシアに言った。
「車を出してくる」
「だめ」
そうかすかに言って、マックスを掴んだまま、マヤの身体が崩れ落ちるところを、彼は、どうにか寸前で受け止めた。その瞬間、マックスは愕然とした。マヤの身体が、驚くほどびっしょりと汗で濡れて冷えていたからだ。
「なぜさっき、言わなかったんだ」
「無駄よ。あたしの場合は」
マヤは、なぜかそう言って頑なに首を振った。
「それより、車で出ないほうがいいわ」
「どうすりゃいいんだ」
「裏口から出て」
マヤは言った。激しい頭痛に、嗚咽するようにした。
「連絡しておいた。そこにもう、人が待ってるから」
それだけ言うと、マヤは、ふっと意識を失った。マックスは彼女の身体を抱きかかえた。彼女が驚くほど軽いことに、マックスはそのとき気づいた。
人目を気にしながら、病院の裏口に出る。路地にライトブルーのプジョーが停まっていた。そこから出てきた、長身の若い男が、マックスに合図をしていた。
「あんたは誰だ?」
「話は後だ」
男はマヤの様子を確かめてから、マックスに言い、
「後部座席に彼女を乗せてくれ」
話し方や意識を失ったマヤの身体を扱う様子を見ていると、どうやら、医療関係者のもののように思えた。彼の手馴れた雰囲気をみてマックスは、条件反射的に指示通りに助手席に飛び乗った。ハンドルを握ると、彼は言った。
「すぐに出よう。部屋はもうとってある」

7.マヤの保護者

男は、レイ・ブラックウェルと名乗った。話し振りから、彼が見た目よりは少し年齢がいっていることを、マックスはなんとなく察することが出来た。
黒のジャケットに、濃いグリーンのタートルネックのセーター、黒の革パンツで蜘蛛のように長い足をぴったり包んでいる。額が広く、鼻とあごが卵型のラインを引いて一見、哲学的な近寄りがたい雰囲気を感じさせた。だが語り口や話し方のたたずまいにどこか、ひどく人を落ち着かせる空気を持っているのが、不思議だった。
「マックス、君のことは電話で聞いた。君には、大分世話になっているみたいだね」
まるで自分の娘のことを言うように、レイは言った。さらにマックスが一度、心配して後ろを振り返ったのを憶えていて、彼はこう付け加えた。
「君たちの家族のことは、もう問題ない。FBIだけじゃなく、恐らくリプリーが手を打ってるだろう」
「・・・・・・あんたは一体、何者なんだ?」
「彼女の主治医さ」
レイは後部座席のほうを一瞥すると、こう答えた。
「マヤにシカゴで会ったときには、問題はなさそうに思えたがな。NYCへ来てからかなり長い間緊張状態を持続したことが、恐らく仇になったんだろう」
「マヤがシカゴで会ったのはあんただったのか」
「そうだが」
マックスの意外そうな顔に、レイは少し戸惑ったように返した。
「なにか、問題でも?」
「いや、こっちの話だ。・・・・・それにしても、あんた今、主治医と言ったな? マヤはどこか身体でも悪いのか?」
「彼女の能力についての説明を受けたか?」
「SSELだろ? すごい追跡能力だ」
「ああ、一面を見たらそう言うことになる。しかし、過敏な感覚能力と感覚情報の超人的な処理能力には、副作用がある。ひどい場合にはそれは記憶の錯乱や意識の混濁、離人症(今、生きていることに現実感が薄れる精神症状。精神的外傷を負った患者によく見られる)を引き起こし、究極的には自我の崩壊に至る可能性も否定できない。もちろん、DSM(アメリカ精神医学会の診断マニュアル)には、記述はないが、僕はこれを便宜的に超感応人格障害と呼んでいる」
「もしかして、あんた精神科医か?」
「そうだが? こっちも別に問題ないだろう?」
マックスは、驚いたその顔のまま肯いた。
レイはセントラルパークウエストにある邸宅に車を停めた。
「ここはあんたの家か?」
「借家さ。治療をするのには、あまり雑音が入らない方が、都合がいいからな。マヤを運ぶのを手伝ってくれるか?」
マックスはさっきと同じようにマヤを抱え上げた。体温は汗を掻いたお陰で下がってきてはいたが、頭が痛いのか時折、目を閉じたまま顔をしかめて、うなされるようなうわ言も聞かれた。
レイがインターホンを鳴らすと、中から艶のある黒い髪の毛をポニーテールにした、十五、六歳くらいの少女が出てきた。グリーンの濡れた瞳が大きく、それに比して目鼻やあごの造作の小ささが、どこか子犬をイメージさせる。彼女はマヤを知っているのか、マックスに抱えられて玄関に入ってきたマヤの名前を呼び、心配そうに駆け寄ってきた。
「ルナ、部屋は空けてあるな?」
「うん、大丈夫だよ」
彼女は目が覚めるような明るい声で言った。
「おい、どうやって治療するんだ?」
「外科手術をするわけじゃない。行動技法で、状態を安定させる」
レイはここまで来ると、それほど焦った様子はなかった。マヤをカウチのある一室に寝かせ、しばらく処置をしただけだった。別に薬を飲ませたわけでもない。しかし、やがてマヤの呼吸は静かになり、眠りも安定したものになった。
「なにをしたんだ?」
「別に大したことはしていない。平穏に眠らせただけだ」
「それで大丈夫なのか?」
レイはこともなげに答えた。
「彼女の場合、私たちが普通は遮断したり、省略したりしてしまう外界からの情報を無限に取り入れて意識化してしまうんだ。膨大に、いつまでも脳に入り込んでくる情報を受容したままにしていると、処理が追いつかずに、オーバーフロー、パソコンで言うフリーズの状態を引き起こすのさ。だから、僕はただ催眠術によって、彼女の精神状態を沈静化し、感覚を遮断することで一度、休眠状態にした。今からリラックスして、少し寝れば問題はないだろう」
「あいつ、よく眠たそうにしてたけどな」
マックスの言葉に、レイは肩をすくめた。
「CIAの監視や、マフィアの追跡の脅威に晒され続けていてかい? 残念だが、彼女もそこまでタフじゃないさ」
そのときルナと呼ばれた少女が、コーヒーの用意をしてくれた。マックスは勧められて、ソファに座った。
「さっきの話だが、マヤが僕に会ったことを君たちに秘密にしていたのは、ひとつにはそう言うためだ」
「巻き込まないためか?」
「そんなところだ。彼女は、もともとリプリーとの取引で事件に関わっていた。ヘクター捜査官は彼女のことをよく理解してくれていたが、彼がいなくなったとき、マヤは随分戸惑っただろう。マックス、君がいてくれて本当によかった」
レイはその手を差し出した。
「あんたらはどうか知らないが、おれは巻き込まれた口だ」
「それでも、僕としては君に感謝したい」
マックスはしぶしぶ握手に応じると、照れくさそうに毒づいた。
「こっちはヘクターのせいで散々だ。やつは、マヤにほとんどなにも伝えずに消えちまったぞ」
「君たちには不都合極まりないと思うが、彼女の主治医としてはそれでよかったと思ってる。ヘクターは、マヤをこの陰謀の本筋になるべく関わらせないようにしてくれていたんだろう」
「それを信じてない人間もいるがな」
「シンシアのことか?」
レイは、マックスの言葉を聞き、複雑そうな苦笑を浮かべた。
「仕方ないさ、彼女の側にも色々と無理からぬ事情がある。ある意味でヘクターをFBIから追い出したのは、マヤに原因があったことだったからね」
「そうなのか?」
「ああ、ヘクターはマヤの能力の使い方を誤ってしまったんだ」
レイが顔をしかめたのは、熱いコーヒーで火傷しそうになったせいではなかった。
「彼の失敗は、ザヘル・ジョッシュを起訴するにあたり彼女の能力を証拠固めに採用しすぎたことだ。知っての通り法廷では、正規の法的手続きをもって提出された証拠にしか証拠能力はない。ましてや、もともとは犯罪者だった人間の証言ともなると、捜査の方針それ自体が疑われることは避けえないことだろう」
「待ってくれ」
マックスは、そこで話を止めた。
「シンシアにヘクターはザヘルを有罪に出来なかったと聞いたぜ。つまり、実際には法廷まではいかなかったはずだろう?」
「検察が直前でストップをかけたのさ。ヘクターの精神状態を理由にしたが、真の理由のひとつは、このことがマスコミに漏れそうになっていたからだ。ヘクターをクビにすることで、上層部は事態の収拾をはかったと言うのが、どうも真相のようだ」
「つまり、捜査よりも政治を優先したわけだ」
「そんなところだ。シンシアもその件はよく知っているはずだ。ヘクターを追い出したのはマヤだとね。彼女にわだかまりを持つようになっても、それは仕方ないことだ。確かに、非常に残念なことではあるが」
「下らねえことだ」
「ただ、もともとは、マヤの捜査への協力は限定的なものだった。追い詰められて、彼女を巻き込んだヘクターにも責任はある。マヤが自分で言うように、彼女は超能力者じゃない。常人離れした素質はあるが、後天的にそれが極限まで訓練される環境を与えられて、歪んだ発達を形成したものに過ぎないんだ」
「・・・・・・まあ確かに、変なやつではあるがな」
マックスは苦笑するしかなかった。たぶん、似たような、いや、優に数倍の苦労を目の前の精神科医はしたのかもしれないと思うと。
「生育環境が極端に偏りすぎていたことが原因だ。彼女は生まれたときから、こうなるように運命づけられていたようだからな」
「生まれたときからそうなのか」
想像もつきそうになかった。マックスは、小さく首を傾げると、哀れむように大きくため息をついた。
「彼女のいた組織はF機関と言う。イタリア系、ロシア系、ユダヤ系などのマフィアや中東、コソボ、ソマリアなどの国内外のテロ組織から依頼を受け、地の果てまで目標を追跡して殺害する、請負専門のプロ集団だった」
レイは、話しにくそうに言葉を選びながら話を続けた。
「この国でF機関と言えば、戦時中に大日本帝国に情報を流していた日系メキシコ人フランコの諜報機関だが、マヤのいた組織はその流れを汲むもので、旧陸軍にいた日本人が作ったものと言う情報がある。壊滅したのは二年前だが、たぶん、彼女は十歳になるかならないかくらいの頃から、暗殺の追跡をやらされていたはずだ」
「嘘だろ。そんなガキの頃からかよ」
「東アジアや中東の内戦地帯にいけば、十代の少年兵は沢山いるさ。不幸なことに、彼らは十代の後半にして、立派な戦場経験者になる。彼女も恐らく二十歳になるかならないかくらいだが、すでに地獄は経験しつくしたはずだ」
レイもやりきれない表情で言った。
「あいつに家族はいるのか?」
「いいや、血縁者と言う意味では、今一人もこの世にいない。どころか社会保障番号も戸籍も無いので、誰だか分からないのが本当のところだ。だがマヤが認めてくれているならの話だが、もしいるとするなら、僕とルナが今の彼女の家族だろうな」
「そうか」
「だからか・・・・・・ともかく、彼女は、家族に興味を持っている。なにしろ、最近出来たばかりだからな」
「へえ。それでか。道理でおれのことをじろじろ見ると思った」
マヤがなぜ興味深く、自分や兄妹のことを観察していたのか、マックスは少し分かったような気がした。
「まあね。彼女は、家族と呼べる社会の中で育ったことがなかった。なにもかも、これからなのさ。だから、僕たち家族としては、彼女がとにかく、早く無事に帰ってくることを祈るだけだ」
それからマヤは二時間ほど、熟睡して身体の熱も冷めたようだった。汗を掻いた衣類を取り替えるため、ルナに準備をしてもらい、シャワーを浴びた。その間、レイは馴れた手つきで夕食を作った。
「落ち着いてゆっくりするといい。ここの安全は保障されている」
その合間にレイは振り返ると、時間を上手く潰せずそわそわしているマックスに声をかけた。
「明日は、リプリーに会うんだろう? 食事をしたら、君も眠った方がいい」
「ああ、すまねえ」
「リプリーは強敵だ。せいぜい出し抜かれないようにすることだ」
「どうも、あんたもただの学者じゃなさそうだな」
「ノーコメントだ。それが返事になると思うが」
レイは曖昧な微笑を浮かべると、肩をすくめた。後で聞いたところによると、そのときマックスの背後を、シャワーを浴び終えたマヤが、バスタオル一枚羽織っただけで無造作に通り過ぎていたが、彼はあえて黙殺したらしかった。
「異端と言う点では、エラ・リンプルウッド博士にはシンパシーすら感じるよ。・・・・・・・たぶん、察しているだろうと思うが、僕にも人に言えない経歴の一つや二つはあるからね」
小判型にカットされた小さなバゲットのガーリックトースト、オリーヴオイルで軽く炒めたポテトとベーコン、ニンニクの青い若芽などをどろりとしたトマトソースで和えたスペイン風のオムレツ、サラダはルッコラとチーズ、レタスにレモンベースの薄いドレッシングがかけられていた。セロリと鶏肉が煮込まれたスープに温かい芳香がたちのぼっている。
考えてみればしばらくまともな食事をしていないマックスとしては、ありがたいと言うほかはないメニューだ。
に、しても奇妙と言えば、奇妙な感覚がある。しかし、そのメンバー構成はともかく、家族が集まって食卓を囲むような雰囲気に、マックスは不思議と安らぎを覚えたのだと自分で気づくまで、少し時間が掛かるほどだった。やがて、空いていた椅子に全員が席に就くことになる。
「マックス、助かったわ」
マヤは、新しいブラウスとジーンズに着替えてきた。相変わらず、ラフな格好だ。よく休んだらしく、ルナと親しそうに話していたが、やはりその表情はやや眠たそうにみえた。
「感謝する。おかげで死なずに済んだ」
「それはお互い様のはずだ」
「ともかく、お礼は言っておくわ。ありがとう」
マヤはそこで、マックスが知る限り初めて普通に微笑した。
「もう、大丈夫なのか?」
「あと少し寝ればね」
マヤは、言った。ついたため息はさっきより、数倍軽かった。
「さあ、食事をしよう」
レイが言った。マックスと彼の前にはグラスが置かれ、スペイン産の赤ワインが注がれた。
「これから、まだ二人にする話もあるからね」

多くの人が行きかうNY支部のオフィスを出ようとしたガーラントは、ロビーで足を止めた。入り口のエレヴェーターの前にシンシアが立っている。彼女は時計をみる仕草をしてから、
「たぶん、ぴったりよ。計算してきたから。今日の仕事を終えて、これからゆっくり食事をするには」
外はもうすでに日が暮れかけていた。コートを羽織ったガーラントは、バッグを片手に横を通り抜けようとする。
「時間は?」
「悪いね。本当に食事はとれないんだ」
ガーラントは言った。同じように時計を見る仕草をした。
「残念だが、君の予想は外れた。ザッパーは西海岸に戻った。今夜の便でNYを出なければならない。クビになりたくなきゃね」
「なくなったファイルは受け取ったわ。ただし、あなたではなく、CIAのリプリーと言う男から」
「弁解する気はないよ。君を売るのに僕には理由があったまでだ。ビジネスだ。そして、僕たちはお互いに違う道を選んだ」
「・・・・・あなたを責める気はないわ。ただ、お礼がしたかっただけ。チェサピーク・ファミリー事件の証人保護の手続きをとってくれたのは、あなたでしょう?」
「それも礼を言われる筋合いはないことなんだ」
ガーラントは乾いた笑い声を立てて、言った。
「ここの支局では、ファミリーの資金源に関わる別件で、もともとファミリーを追ってたんだから」
シンシアは手を差し出したが、ガーラントはそれに応じることはなかった。出来なかったと言うのが、本来正確な表現だった。彼女との握手を拒んだとき、拒否ではなく罪悪感を含んだガーラントの一瞬の表情に彼女は気づくべきだった。
だが、シンシアの方は自分の方で、そこまでの余裕はなかった。彼を責める気は本当になかったことを証明したいだけだったが、それが裏目に出たのかもしれないということを、シンシアは今さらながら、後悔していたからだ。
お互いに敵意はないはずなのに、どうしてかいつも二人は噛み合わないで来てしまった。不思議だが、こう言うことはよくあるものだ。
「この際だから、正直な気持ちを言うよ。僕はいまだに君がヘクターを追いかけようとしていることに、ずっとストレスを感じ続けてきた。彼は確かに優秀だった。捜査官としても、たぶん、一人の男性としても、君には僕よりヘクターが魅力的に映ったのかもしれない。そう思うとやりきれなくて、消えてしまったヘクターに対して・・・・・・嫉妬すら感じる瞬間があったことは事実だ」
「ガーラント」
はっとしたように、シンシアは顔を上げた。
「やめて」
「いや、話させてくれ」
ガーラントは、押し切るように言った。
「僕は君がヘクターと【追跡者】の彼女への罪悪感から、償いの意識で、事件を追っている、そう君に言ったと思う。そう言って君に今、していることを止めさせようとした。だが、罪悪感なら僕が持つべきだ。そのことを僕ははっきりさせないままでいた。今、きちんとそれを認めなくてはならない。彼の報告書をことごとく握りつぶす証拠を提出したのは・・・・・・どう弁解しても、僕だ」
「それは、違うわ」
ガーラントの言葉に、シンシアは強く首を振った。
「ヘクターは、あのとき誰かに止められるべきだった」
「そうかもしれない。だが、少なくとも、担当を外されるような大打撃を受けずに済んだ可能性もあった。まだ、彼がザッパーの真実を追える余地は残されていたんだ。僕はそれに見てみぬふりをした。破滅を知りながら、それを放置したんだ。分かっていると思うけど、君とは違う意味でね」
シンシアはそれ以上言葉にならずにいた。彼女はただ、感情と理屈の葛藤に相反して、小さく首を振り続けるだけだった。
「君の言う通り、ヘクターの見解がすべて真実だとすると、これから僕が行くのは、たぶん、不毛の土地になるだろうね」
ガーラントは苦笑して言った。
「エラは生きているんだ。この事件に関して重要なことはすべて、今からこのニューヨーク州で起こる。犯行から五年、飽きもせずザッパーは全米に、だらだらと、犠牲者の遺体とお粗末な模倣犯をばら撒き続けるだけなんだ。でも、やることはないわけじゃない。遺体清掃係だって、まだまだ必要になるだろうし」
シンシアを通り過ぎ、ガーラントはエレヴェーターのスウィッチを押した。そのとき、ガーラントは彼女の胸にひとつ、古い封筒を押しつけていった。
「君のことは、リプリーが上手くやってくれるはずだよ。すぐに君も、この事件の担当を外されると思う。そして、僕は甲斐のない犯人探しを続けるさ」
エレヴェーターのドアが閉まったとき、彼はすでに別の方向を向いていた。振り向いたシンシアとは、目を合わせることはもうなかった。
五分して、シンシアは外に出た。ファイルを抱えたまま、車を探そうと駐車場に向かって歩く。すれ違う人の中で、彼女はふいに自分の名前を呼び止められた。
「シンシア」
そこに、二人の子どもを連れた女性が立っていた。栗色の長い髪の襟足に軽くパーマをかけ、スーツ姿の職員が多く出入りする中で、やや色調は暗いがシックな印象を与える控えめなドレスを着ている。古風で家庭的なそのイメージは、シンシアの中で、彼女と自分の決定的な本質の違いとして、会うたびに認識させられるものになっていた。
「エルナ、来てくれたのね」
シンシアは自分の中でも努めて明るい声を選んでそれに応えた。
「ガーラントから、話は聞いたわ。ヘクターは生きているのね?」
「ええ、わたしたちはこれからNYCでヘクターを探します」
なぜか、彼女の前に立つと自然と、シンシアは明るく振舞う必要性を感じてしまうのだ。
「今、主人になにが起きているのか、わたしたちにはまったく分からない状況なの」
「生活上、なにか不便なことはない? 例えばお金のことか」
「ええ、今のところは。主人の名義のものはすべて消えてしまったと聞いたんだけど、彼が大分前から預金を分散してくれていたから、当面のお金には困ることはなさそう」
ヘクターらしい配慮だ。シンシアは、思わず微笑した。
「それ以外にも、心配事があったらなんでも相談して」
「信頼してる。でも、誰も話してくれなくて、ずっと不安なのよ。いったい今、どうなっているの?」
エルナは本当に不安そうに、シンシアに訴えた。
「わたしも、子どもたちも彼がどんなに家に帰って来なくてもこんなことはなかったから、本当に戸惑っていて」
シンシアとエルナの足元には、ヘクターの十歳の息子と五歳の娘がなんだか落ち着かない様子で、大人たちを見上げていた。
「ねえ、ママ、パパはいつになったら帰ってこれるの?」
「大丈夫。もうすぐよ、ケイン、カミラ」
シンシアはしゃがみこんで、二人の子どもたちの髪を撫でた。特にケインはヘクターと同じ、栗色の髪をしていた。しばらく会っていなかったが、年頃になると、その風貌もヘクターにとてもよく似てきた。カミラは人見知りが激しいらしく、シンシアの手を避けて、ちょこちょこ後退して、エルナのスカートに裏からしがみついた。
「彼がずっと悩んでいたこと、わたしも知っていたわ」
担当を降りた後、ヘクターはカウンセリングを受けている。正確には受けさせられた。エルナはその当時のことを言っているのかもしれない。思い出すとき、若い頃から白皙で滑らかな額に苦悩のしわが深く浮かんだのがシンシアには印象的だった。
「ヘクターは、本当は家族を大切にしたかった人だと、わたしは信じてるから、捜査は別の人に任せて、しばらくゆっくりと休めばいい、そう言ったんだけど・・・・・彼、聞く耳を持たなかったわ。カウンセリングに通っているって言っていた間もずっと・・・・・・図書館やネットカフェで調べ物をしていたみたいなの」
「彼には、信念がありました・・・・・いえ、今もあります」
そうね、と、エルナは穏やかな笑みを浮かべて同意して、
「ただ、本音を言うと、わたしは家族とのことを優先してほしかったわ。何度も離婚の話も出たけど、・・・・・・・今のところ、その都度、乗り切ってきたんだから。でも、あの人が何かに熱中して、それが今にも上手くいきそうになってる、そんな彼を止めることが、わたしには出来なかったの。今、後悔しているとしたらそのことが、とても気にかかってる」
「問題ない、エルナ」
シンシアは言った。自分でも思った。まったく、話を途切れさすようなタイミングになってしまった。
「ヘクターは必ず戻ってくるわ。・・・・・・彼は、家族を大切にしない人じゃなかったはずよ」
たぶん、エルナがなにを言おうと、シンシアはこう言ったに違いなかった。これしか、彼女と話せることはないのだ。特に今。ガーラントに自分の本心をえぐられた今では。シンシアに出来るのは、内側から血を滴らせて広がる生傷を糊塗するために、とにかく自分自身を偽ることしか、方法はなかった。
「ありがとう、シンシア」
エルナは、何の躊躇いもなく、笑顔でその手を差し出す。
「でも、あなたも無理はしないで」
本当はその手に、ガーラントとは違う理由で、彼女は応じることは出来なかった。
「約束よ」
「ええ、約束します。必ずヘクターを連れ戻す」
とにかく、笑顔で別れた。
不思議な関係だ。お互いにヘクターを取り巻く同性であることを意識したり、言い出したりしたことは一度もない。エルナは今でも、シンシアの言葉を疑わないだろう。無理もないことだ。そうやって十年近く、この関係は続いている。シンシアは彼女の前でも、たぶん、実際にも常にヘクターのよき教え子であり、優秀な部下だった。
揶揄や憶測、ときには中傷に晒されたこともある。しかし、キャリアを傷つけることなく、いつでも毅然としていられたのは、ヘクターがその一線を守りきったお陰に他ならない。事実、そのためにシンシア自身も、軽く見積もって一回りは年上のヘクターを男性として意識する瞬間は、ほとんどなくなっていったのだ。
確かにノーと言ったのはヘクターだ。しかし、シンシアはそれを実際に聞いたわけでもなく、試してみたわけでもなく、自分からアプローチしてみたことは一度もない。シンシアがこの問題についてしたことは、一方的に提示された立ち入り禁止を、ただなんとなく受け入れていたに過ぎなかったのだ。
ただしここが重要なところだが、人間はノーと言われなければ、自分のよい方向に事実を想像していく生き物だ。たとえそれが、可能性の薄いことだとしても、シンシアの中には、最初に抱いたほどではないにしても、男性としてのヘクターの像があったことは、否定できない。えてして想像と希望は、変えることの出来る可能性の低いものに、注ぎ込まれて思わぬものに化合していくものだ。
変わる勇気のないものでも、変化を想像する自由くらいは許されている。禁じられた想像は常に甘美だ。だが、現実がそれほど甘美でないことくらいは、自分でもちゃんと分かっているつもりだ。
だからそれがもし、本当に具体的なイメージをもって彼女の前に現れたとき、彼女はただただ、混乱してしまうかもしれない。実際に今の瞬間が、実はそうだった。
自分の中にある最小のはずだった可能性が、いつの間にか芽を出して育っていたことに、シンシアはまだしばらく見てみないふりをしていなくてはならなかった。エルナとのやりとりの中で感じる緊張感は、無意識にそれを現していたに違いなかった。
エルナとヘクターの子どもたちを見送ると、シンシアはすぐにホテルに車を飛ばした。ひとりでいることと、可能な限り寝ることが、この場合、最大の特効薬だと言うことを彼女はよく知っていたからだ。

それにしても、静かな食事だった。外で雨が降り出したのが、はっきりと分かるくらいに感覚が澄んでくる。普段は気にならない小さな音が意識の中に飛び込んでくるのが、奇妙だが、どこか安らぐ感覚の正体なのかもしれないと、マックスは思った。ただ、ひどくこなれたその雰囲気の中に、彼は、半分落ち着かない気分でいることが、この場合、少し問題だった。
「どうかしたかい、マックス」
「なにか苦手なものでもあった?」
マヤがなぜか嬉しそうに聞いてきた。
「ああ、食べてるよ」
マックスは、頭を掻きながら言った。
「だが、それにしても、ちゃんと調理したものを食ったのは、久しぶりでね」
「口に合わないとか?」
「いや、そんなことないさ。腹がびっくりするほど美味いよ」
「見ての通り、僕たちは本当の家族じゃないが、一応、こうして当たり前のことは、当たり前にするのさ」
「それも治療か?」
「どうかな」
レイは、静かに微笑した。
「こんなことは本来、呼吸するのと同じようなことだからね。エラの話をしようか」
「あんたは、エラを知ってるのか?」
「いや。直接はないが、まあ、人よりは知っているつもりだよ」
レイは言うと、マックスのグラスに残りのワインを注いだ。
「エラは、神がかった直観力を持った研究者だった。もともとの専門は、精神医学から脳神経科学だったようだが、遺伝子研究などのバイオ分野でも実績を残している。彼の前半生は、例えば交流電流を発明したニコラ・テスラの再来とも呼ばれるほどの成果を期待される輝かしいものだった」
「つまり、天才だってことだな?」
「ひとくちに言えばそうなる。但し、天才には二つのタイプがある。それが、一般的に受け入れられるものとそうでないものだ。エラが、そのどちらかは説明するまでもないだろう」
「エラも、そのテスラって学者もどれだけ凄いのかは分からないが、TLEのようなとんでもないシステムを作るだけの知能があったってことは、なんとなく伝わったよ」
「神がかったインスピレーションは、もっとも得がたいものだが、時代を通り過ぎてしまうと、それは狂気になる」
レイは、ため息をつくと、言った。
「テスラがそうであったように、エラも次第に異端の方向に走った。おかしくなったのは、彼がかつてない完璧な人工知能の開発に着手するようになってからだったと考えていいだろう」
「シンシアからそれは聞いたわ」
マヤはナプキンで口を拭くと、言った。
「TLEは、その完璧な人工知能に関する理論が元になってるそうよ」
「だがそれにしても、完璧って言ってもな。あまり、想像がつかないな」
「確かに、最新の無人戦闘機に搭載される人工知能にしても、現在、研究されているのは与えられたデータに対して、データの収集と確率に基づいた機械的・画一的な判断よりも、柔軟で機に応じた人間的な判断や行動を行うことが出来ると言うのが、その理想形のようだ。SFの世界で造られていた人工知能を持ったロボットが、現実の世界に登場したとき、彼らが目指しているものは、結局は神の似姿にしてその作品である人間だった。つまり、人工的に作られた知能がより完璧になると言うことは、ほぼ人間になり、限りなく人工物によって、自然物の人間を作ると言うことになるわけだ。では、どのような人格を持った人間が完璧か、と言うのが、エラが考えたことだったらしい」
「ありえないぜ」
馬鹿馬鹿しいと言う風にマックスはため息をついて言った。
「つか、どんな馬鹿な親でもそんなことは考えねえだろう」
「まったく、君の言うとおりだ」
レイは、否定はしなかった。
「確かにそんなもの、誰にも規定することなど出来はしない。そもそも、判断基準などどこにもないものだ。この理論が立ち上げられた当時、エラは完全な異端児の扱いを受け、学会からは追放同然の状態、以後は表の学会から消えた」
「当たり前だ。完璧な人格なんてな」
「ただ、例えば軍事に目的を絞った場合、これに賛同するスポンサーが現れたとしてもおかしくないだろう。これまで異端過ぎて、誰にも注目されなかったエラだったが、追放後、窮迫した彼に莫大な資金を投入してくれるスポンサーに出会った。エラの資産が膨れ上がり、各地に別邸や拠点を持ち、自分の理論を実現するチャンスを得たのは今からちょうど十五年ほど前のことになる。それから一気に、彼は学者としても注目されだした。後に教え子で自分のクライアントでもあったザヘル・ジョッシュと組んで、完璧な人工知能を開発した背景には、どうもこうした経緯があるようだ」
「なるほど、そこまでは分かった。だが、その人工知能とやらの研究から、どうやってTLEにつながる?」
「リプリーにも聞かれたことだが、僕の見解でよければ言おう。だが恐らく、それを知るには、エラが提唱した人格理論について、一応の知識が必要になる」
レイは食器をキッチンに片づけ、ルナに洗い物をしてくれるように頼んだ。あまり難しい話に耐えられなくなっていたので、彼女は、すぐにそれに取り掛かってくれた。
「まず、人格と言うものについて説明しよう。心理学では、人格=パーソナリティを、個人の一貫した行動を司るものと定義している。性格、気質、性質、同一性などこれを表現する言葉は多いし、その発達についても理論は多いが、かなり大まかに言うとこう言う感じだ。これはいいかな?」
「ああ、ある程度、なんとなくはな」
「単純に例をあげて説明しよう。これにはある出来事に対するその人の反応を例にとると非常に分かりやすい。想像してみてくれ。
君たちが路を歩いていて、ボールが飛んできたとする。それが君たちの足元に落ちて泥がはねた。向こうからボールを失投した人間があわてて駆けてくる。君たちをAとして、この出来事をBとしよう。Aに対して、Bと言う刺激があった。それによって引き起こされる反応、つまり結果をCとする」
「ああ」
二人は同時に答えた。
「ではそのとき、君たちだったら、それぞれどんな反応を返す?」
「そいつを殴る。来た瞬間にな」
マックスは即答した。
「マヤ、君は?」
「相手の態度しだい。ちゃんと謝ってくれたら、別に気にしない」
「わたしだったら、びっくりしてそこから逃げちゃうな」
キッチンからルナの声がした。
「上手く答えが割れたね。つまり、当たり前のことだが、Cという結果は、Bが同じなら、A次第と言うことになる。重要なのは、君たちが今、自分の状況に即して、自分にもっとも自然な行動をそれぞれ選択したと言うことだ。もちろん、これはAの条件が変化すればまた変わる。例えば、Aが同条件、つまり同一人物でも君たちの精神状態がいいか悪いかによって多少の変動はあるが、一貫してほぼ一定の幅で変わらないものだ。この判断を行う能力のことを認知といい、その判断基準を司っているのが人格、すなわちパーソナリティだ」
「つまり、自分の中の判断のルールのことを言うのね?」
「おおむね、その通りだね」
マヤの言葉に、レイは肯いた。
「ただ、僕はさっき人格を一貫したものだと言ったが、これはまったく変わらないものではなく、生まれたとき、その元になるものを遺伝子として受け継いだ後、育った環境や置かれた状況に応じて、それこそ無限に変化し、現在ではその発達は死ぬまで続くと考えられている。例えば、非常に単純に考えて、車の免許をとる前と後では、道路に対しての考え方はまったく変わるだろう?」
「マナーの悪いドライヴァーを憎んでいたのが、信号無視する歩行者に悪態をつきたくなる」
「人生には無数のファクターがある。その中で現れる結果は予想するのも物憂いほどだろう。掛け算に喩えれば、答えは同じ数でも無数の計算式、もとの数は同じでも、無数の解が存在することになる。心理学では無謀にも、これらを類型的に捉えようという試みがなされてきた。それが、パーソナリティ理論だ」
「それ、どこかで聞いたことがある。確か、ケツの穴が関係してるんだ」
「マックス、知ったかぶりするなら、もう少しましなこと言って」
マヤとルナは露骨に嫌な顔をした。あわててマックスは言った。
「待てよ。嘘じゃないだろ?」
「・・・・・・肛門固着や口唇性格のことを言っているなら、それはフロイトだね」
「ほら、見ろ。おれだって、勉強したんだ」
マックスはなぜか、上擦った声で威張った。
「人格の研究は十九世紀からある。フロイトだけでなく、ユングやアドラー、有名なところでは肥満や筋肉質などの体型で人格を分類したクレッチマーと言う医師もいる。彼らは性格類型論、例えば社交的なのか、内向的なのか、と言ったようなある一定の分類基準に応じて人格を判断しようとした人たちだ。ただ、もちろん、今挙げた理論は現在では信用されなくなってきている。本来その理論はそれほど単純じゃないが、例えば五十六億人いる人類をABCの3タイプに分類しようと思っても、それは無茶な話だと言うことは分かるだろう?」
「ああ、理解できるね」
「廃れてしまった人格研究は、七〇年代に認知心理学の登場とともに再び姿を現す。認知心理学とは、コンピュータ、すなわち人工知能の仕組みを通して、人間の人格に迫ろうと言う考え方から来ていた。ここで現在まで行われている研究方法は、調査と分析だ。例えば、「悲しいとき、あなたは泣きますか」などと言ったある一定の傾向に対するアンケートの結果を集計した膨大なサンプルデータを分析し、確率を積み重ねていくやり方から、傾向を割り出してきた。ただ、こうしてひとつの結論らしきものにたどり着いても、その背後にある巨大なものの中では、本当にほんの一部分がやっと分かるらしい、と言うようなものが現状だ」
「考えるだけで、頭が痛くなるな」
「小さすぎる確率の積み重ねが地道にひとつの事柄の実証に繋がるのは、どんな学問にだって同じことが言える。だが、エラはその中で、人間のパーソナリティを、22桁の数式で表すことにより、再現が可能だと言う理論を発表したんだ。それもわずか、555問のテストの実施によってだ」
「え・・・・・・・」
「嘘だろ」
マックスとマヤは、顔を見合わせた後、口々に言った。
「レイ、それ、本当の話?」
「ああ、真実だ。彼は、その22桁の暗証番号によって、彼自身が開発した人工知能に、分析した人格を100%再現できると豪語していた。ただそれが実証されたと言う話は聞いてない」
「それで、彼はどうなったの?」
「もちろん、当時の学会は紛糾し、結果、エラは異端として排斥の憂き目にあったさ。だからその当時の彼の理論と論文は、現在行方不明になり、所在が分からなくなっていると言われている。例えば、エラが被験者に対して実施した555問の質問項目もだ」
「レイ、これTLEで使用されていたものよ」
マヤは、レイにシンシアから受け取ったプリントファイルを手渡した。彼は、まさか、と言うようにこちらを見返した。
「シンシアによると、555問あるそうよ」
レイは驚きを隠せないまま、ページを手繰り、行きつ戻りつしていたが、やがて、
「・・・・・・・確かに見たところ、これがそうだと考えるべきだろうな」
「内容はどんな感じなんだ?」
「見たところ、普通の検査に使われるものとそう変わりはないな。555問と言うと膨大な量に聞こえるかもしれないが、実際、今も人格検査に一般的に使われているMMPI(ミネソタ多面人格目録)は、550項目の質問内容から構成されている」
「でも、エラはそれで完璧な人格と言うものを作ろうとしていたことは事実でしょ?」
「完璧な人格と言うが、そんなものは存在しないし、これもさっき言ったと思うが、こう言ったテストは、パーソナリティに対してある一定の傾向を知るために作成されるものなんだ」
「ちょっと待て。話が飛んだが」
マックスが話を止めた。
「どうした?」
「つまり、エラがTLEを使って【代理人】に失踪者を発生させている目的ってのはまさか、このテストを受けさせるためなのか?」
「そうか」
マックスの言葉に、はっとしたように二人は顔を見合わせた。
「サンプルデータの集計か。確かに学者は、どのようにサンプル、すなわち、協力してくれる被験者を集めるのは、もっとも神経を遣うところだ」
「でも、質問の内容は見たところ、他愛のないものよ。マフィアや人身売買組織なんかに協力してもらって、こんな手間をかけて集めなくてもいいと思うけど」
「どこの誰からどうやって、データを採集したか、と言うのも、データの信頼性には非常に重要になってくるんだ」
レイは、マヤの質問に答えるようにして、言った。
「こうした質問紙形式のデータの欠点は、受ける人間の精神状態によって回答が左右されることだ。例えば、このテストに自分を偽って答えたところで、被験者にはなんのリスクを生むこともないからね。たぶん彼らが集めてきた人間たちはいずれも極限状態まで追い込まれた人たちの傾向が強い。正確性はともかくとして、データの貴重さとしては、得がたいものであるとは言える。普通に実施したアンケートでは絶対手に入らないだろう回答が得られる」
「消えた人間は嘘を答えなかった連中か」
「一概には言えないが、それをチェックする機能もTLEにはなんらかの形で存在する可能性があるな。君たちの話では、このTLEによるテストを受けたが、【試験】に失格して帰ってきた人間もいるんだろ?」
「ああ、いたよ。だがよ、本当に答えが真実かどうかをチェックする方法なんて実際にあるのか?」
「質問の内容を見る限りでは、あたしはないと思う。答えた本人にしても、嘘を言ってるかどうかなんて分からない質問もありそうだし。たぶん、TLEは必要となるデータを採取するための基準を持っていて、その範囲内で人を消しているんじゃないかな」
「確かに。ある目的のために必要な回答者をチェックして選んでいると考えるほうが、現実味はあるな」
「レイの言うとおりなら、たぶんこう言うことね」
レイの言葉に確信を得て、マヤは言った。
「エラは完璧な人格などと言う曖昧なものじゃなくて、もっとはっきりとした何かを手に入れようと思ってTLEを作った」

翌日、マックスはもっとも早く起きた。
誰かの家でこれだけ熟睡したのは、久しぶりだった。それにしてもよく寝た。起きたとき、時間も場所もわからないくらいの眠りは最近なかった。たぶん、あれほどよく眠れたのは、理由は分からないが、数えてみると、ちょうど十年以上ぶりくらいに違いなかった。
日は昇っていたが、まだ、誰も起き出していないようだ。あれから、レイとウイスキーを少し飲んだが、酔いは残らず吹き飛んでいた。マックスはソファの背もたれに手をかけ、リヴィングでタバコをくわえかけた。だが、マホガニーのテーブルの上の彫像型の卓上ライターに手を伸ばす前に思い直して、結局、外に出ていった。
通りに出ると、マックスは道路を挟んで自分が今出てきた場所を見上げてみる。
レイ・ブラックウェルが借りたのは、夜はあまり気づかなかったが、外観をみても古めかしい旧家だった。地代が世界一高いニューヨークでは、再開発が進みすぎて、例えば禁酒法以前から建っていたような邸宅は、今や珍しいものになってきている。見たところこの家は、築百年以上は経っていそうだ。
そう言えば、年代もののチーズのように変色した純白とは言いがたい漆喰の壁と、古い木材の出すやや湿った温かい匂いが、家中を包んでいた。よく眠れたのは、外との流れている時間の速度の違いのせいかもしれない。
マックスは、通りを東に歩き出した。ここがウエストなら、東西に走っているストリートを東に行けば、セントラルパークにぶち当たるはずだ。甘い見通しをした。だが、本来、散歩は甘い見通しを楽しむものべきものなのだ。マックスは口笛を吹きながら、適当に歩き始めた。
途中のストアで新聞と野菜ジュースを買った。一面のザッパーのニュースがひと際目を惹いた。今度の遺体は、ネヴァダ州の国道で見つかったらしい。砂漠のモーテルの廃墟に放置された初老のギャンブラーの男の遺体。犠牲者は太ももをネズミに齧られ、足の指にくくりつけられたテグスの先に結ばれた銃の引き金をひかされた。マフィアの処刑を思わせる残虐さだったと言う。
ヘクターの言うことがすべて正しいと言うシンシアの意見を肯定すれば、ザッパーはザヘルになる。エラは彼に、TLEの開発以外にどのような役割を課したのか。マックスはシンシアほどヘクターを信頼していない。どうしても、無理があることが多すぎる。ヘクターが追及したようにザヘルの犯行を立証することは、やはり、物理的に不可能なのだ。
ただ、今行方不明のザヘルが、ネヴァダ州にいるとしよう。彼がザッパーだとして、犯行を重ねることにそもそもどんな意味があったのだろうか。それはTLEのために違いない。もっと言えば、エラの意志だ。また、すべてはエラに行き着く。エラは死んでいるはずだ。まったく、なにもかも錬金術師の暗号のように矛盾しあったままだ。迷って進んでも、いつも入り口に立つ。ヘクターはそのどこに最後の抜け道を見つけたのだろうか。
パークの西側の入り口が、マックスの前に現れたとき、彼はあるものを忘れたことに気づいた。ライターはある。でも、それは上着のポケットに、ライターと同じように入れたまま、ずっといたもののはずだった。
そのとき、こつん、となにか硬いものがマックスの背中に当たった。一瞬だけ、彼は、背筋を逆立たせた。まだ温まっていない自分の筋肉が緊張するのが、自分でも分かった。
「手を出して」
その声を聞いて、彼はふっとため息をついた。鎮圧された車上荒らしのように壁に顔を向けて、頭の後ろに両手を出した。
「撃たないでくれ、今、ポケットに20ドルもないんだ」
「じゃあ、死ぬしかないわね」
マックスは苦笑して、マヤの手から携帯電話を受け取った。反対側の手に紙コップのコーヒーも持っていた。
「起きてたんなら言えよ」
マヤはにこりともせずに答えた。
「よく寝てるから起こさないであげたの。突然出て行くから、びっくりしたわ」
部屋が静かだったが、どうもそれは誰もいないせいのようだった。
「鍵を閉めるのを忘れた」
「鍵はあたしが預かってる。二人とも、もう行ったわ。今日中にはボストンだって」
「そうか。なんか、言ってなかったか」
「別に。早く仕事を済ませて戻って来いってだけ」
不思議な一夜か。まったく、それに相応しいかのように、幻のように、彼らはいなくなっていた。
「コーヒー、おれにもくれよ」
「そこの屋台で売ってるわ」
言って、マヤは、カップに残ったコーヒーを飲み干した。昨日は違うように見えたが、彼女はすでにもとのクールで不可解な人間に戻っていた。後に残ったコーヒーの温かい残り香に舌打ちをしながら、マックスは携帯電話のディスプレイを開いた。
「どこかに電話するの?」
「いや」
着信がどこからも入っていないのを確認して、彼はジャケットの中にそれを突っ込んだ。
「カールとスヴェンナなら、大丈夫よ。たぶん、リプリーなら問題なく、上手くやると思う」
「いや、そう言うわけじゃないさ」
マックスは首を振った。
「昨夜のこと?」
マックスは答えなかった。すぐ先で信号が青になった。マックスはマヤを振り返ることなく、歩いてそこを渡ってパークの入り口の屋台を目指した。しばらくして、マヤがもう一度同じことを聞いた。
「急に聞いて気に障ったんなら、謝るわ。忘れて」
「いや、違う。そうじゃねえよ。ただ、思い出してただけだ」
マヤの言っていることがあまり的を射ていたので、マックスにはすぐそうだと答えることが出来なかったのだ。
「おれは、確かに家族のことになると異常になる。そのことはお前にも詫びとかなきゃと思ってたんだよ。あのときも、トチ狂ってて、お前がチェザーレが来ることに気づくのがもう少し遅かったら、今頃おれたちはこんなところでコーヒーなんか飲めなかっただろうしな」
「現実に、もしもはない」
彼女なりに気を遣っているのだろう。マヤは首を振ると言った。
「ただ、結果があるだけ。気にしてないわ。経験上」
それにしても、レイ・ブラックウェルは確かに、不思議な空気感のある精神科医だった。彼の前で落ち着かない自分の気持ちをマックスは別に話したと言う実感をもっては話していない。
「問題は君の抱えているその症状よりは、むしろ過去にまつわることだろう。・・・・・・・たぶん、それとは、君は何度か話をつけていると僕は思うが」
「どうかな」
マックスは笑い飛ばすように言った。別に、はぐらかそうと思ったわけではない。ただすでにここで防御反応が出来上がっている、そのこと自体が問題なのだ。
「家族に関して、おれが異常だってことは自分でも、承知している。でも、あんたの言うとおり、問題はもっと根深いところにあって・・・・・・人に話すようなものじゃないものだと思ってたから」
「それについて、きちんと家族と話は?」
「いや」
「例えば、君の弟のカールとは?」
「カールとは話してない。でも・・・・・一番ぶつかる。たぶん、お互いに当惑しているからだ」
「亡くなったあなたのお兄さんや、ご両親に対して?」
「そうだろう。おれとおれの兄貴は・・・・・お袋と親父にそれぞれ違う意味で特別扱いされてたからな。兄貴は遺伝子に障害を持っていて、おれは・・・・・・見て分からないかもしれないが、実は中枢神経系の障害を持ってる。だがおれの症状は、ほんのつい最近まで、障害だと認められないものだった」
常用している薬を見ただけで、レイは一発で見破った。
「ADHDかい?」
「当たりだ。だが、この薬は他の精神疾患にも処方されているはずだが」
「君はうつ病や双極性障害には見えない。今でもこれを?」
マックスは静かに肯いて、言った。
「今でも、少しいらいらすると自分を見失う。考えがまとまらなくなったり、約束事を忘れたり、頭が真っ白になって暴れそうになる。そんなときは、薬が必要になる気がするんだ」
「中毒性のある薬だ。依存症に移行する場合がある」
「やめておいたほうがいいことは分かっている」
マックスは念を押すようにそう、付け加えた。
「確かに、ADHDの症状は、幼児から思春期に至るまでと言われるが、成人にいたるケースも珍しくない。そしてそう言う場合、生まれつきの性格として、周囲から誤解されることが多い」
「ああ、そうさ。おれがおかしいってことは、八年生のとき、スクールカウンセラーに指摘されてようやく分かったことだ。だから両親は兄貴の生活に全力を傾けたが、それまでにおれにはすっかり呆れ果てていたのさ」
「ADHD(注意欠陥/多動性障害)は、中枢神経系、特にアドレナリン受容体の機能不全だが、一箇所にじっとしていられなかったり、約束事を忘れたり、すぐ気分が変わって移り気になるなどの症状が出るために、家族の育て方や教育の問題に転換されやすい障害だ。認定が難しいために、学習障害と同じく、障害を見極めるのには、まだまだ議論が必要な発達障害だが」
「学者の話はある程度は理解しているし、本も読んだ」
レイの話を遮るように、マックスは言った。
「だが別にこの障害のことを知ったからと言って、おれは誰かに助けてもらおうなんて思ったことは一度もなかった。ただ、そのことで、おれたち兄弟全員を平等に扱ってもらいたかっただけさ。それをお袋にも親父にも訴えることが出来なかったことだけが今でも後悔していることだ」
「マックス、それは長い時間のかかることだ」
「分かってる」
マックスはなにかを振り切るように首を振った。
「だが、おれたちの間には、その暇もなかったんだ」
「なぜ?」
「家族は」
マックスは言った。胸の奥から浮き上がってくるように立ち現れるだけで言葉にしがたかったその気持ちを、明確に表現したのは、ここ十年で、これが初めてのことだった。
「おれの家族は、おれが警官になったその日に、二人は、兄貴をロングアイランドビーチに一週間の旅行中に、車ごと崖下に転落して死んだんだ。おれがこの仕事に入ってから初めに見た死体は、おれが愛していた家族のものだった。それで、残った家族にも、おれの本当の気持ちを話すことはもう、永遠に出来なくなったんだ」
「マックス」
風景も周りの音も、吹っ飛んで耳に入っていなかった。ただ、夢の中から現実の朝の世界に通じる道のりを通り過ぎるために、足を動かしていたような、そんな実感だけが残っていた。
「本当に大丈夫?」
心配して自分を見上げるマヤの顔に、マックスはほとんど注意を払っていなかった。
「マックス、あたしはたぶん、あなたが感じてきたほとんどのことを、経験せずに来たわ。でも、苦しかったら言って。あたしでよかったら話を聞く」
「ああ・・・・・・・」
唇からかすかに漏れたような言葉は、外界に影響を与えていないようだった。話し終えたとき、響いてきたレイの声がまた蘇る。
「君を取り巻く人たちが今まですすめてきたように、君に無理にカウンセリングを受けろとは、僕は言わない。ただ、話をするのは決して悪いことじゃない。・・・・・・ただ、確かにそれが君自身の家族とだったら、申し分ないことではあると思うけどね」
「おれは今、自分が何者だか、どう振舞うべきなのか、正直よく分からない。カールとも、スヴェンナとも、お互いにそうなんだと思う。ただ、おれが願うのは、誤解を抱えたまま二度と家族を失いたくないと言うこと、ただそれだけなんだ」
「マックス、話してくれて嬉しいよ」
レイは長く深い息をつくと、最後にこう言った。
「僕たちは水のようなものだ。容れる容器が存在するから、その形を知ることが出来る。だがそれはその形でもある、と言うだけで決してすべてではない。今夜君が話したことも、新たに理解しただろうことも、たぶん、君のある尺度からの一部に過ぎない。だが、君は一歩踏み出した。そこから先は君と君の家族次第になるが、とにかく、踏み出したことは確かだ。勇気の要ることだろうが、なにか、また話をしたくなったら、ぜひ、連絡をくれてかまわない」
マックスは正式な返事をしたかどうかは憶えていない。悪い気分はしなかった。ただなぜその話が誰かに出来たのか、彼には本当に不思議だった。ライターを取り出したときに分かったが、ポケットには、レイ・ブラックウェルの名刺がちゃんと押し込まれていた。
マヤはまだ心配そうに、マックスを見ていた。マックスは、わざと大げさに顔をしかめると、首をさすりながら言った。
「問題ないさ。・・・・・・ただ、少し寝すぎただけだ」

タートルランズエスケイプ(上)

上巻はこの辺りで終了です。こんな感じでしたがいかがでしょうか。シリアスなサイコホラーもの、と言うことで書いてみた作品ですが、暗号ミステリや海外ドラマのめまぐるしく変わる展開やアクションなどを盛り込んだので、内容的にはかなりお腹いっぱいなお話になっております。複雑な内容に係らず、ここまで読んで下された方、本当にありがとうございます。これに懲りずに下巻にも手を伸ばして・・・・頂けることをお願いして、一先ずあとがきに替えさせて頂きます。

タートルランズエスケイプ(上)

タートルランズエスケイプ。それはネット上に浮遊する運営者不明のHP。そのサイトを利用すれば、現存するあらゆる個人情報を消去することが出来る。全米で無差別に犯行を行うシリアル・キラー、ザッパーを追っていた特別捜査官ヘクター・ロンバートは捜査中、ニューヨークで忽然と姿を消します。 後輩捜査官のシンシアは、NY市警のマックス・リヴローチ、そしてヘクターが信頼していた元テロリストの超能力捜査官マヤとヘクターが残した手がかりを元に事件を追います。ザッパーの正体とは。犯罪者と捜査官を煙のように消してしまったタートルランドエスケイプとは。長いので上下収録になっております。どこかで見たな、と言うキャラがちょこっと出演していますがあくまで無関係と言うことで・・・

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • アクション
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. イントロダクション
  2. 1.路上犯罪捜査官マックス
  3. 2.ザッパーが殺したのは
  4. 3.プロダクト・キー
  5. 4.秘密の入り口
  6. 5.エラ・リンプルウッドの秘密
  7. 6.亀の島で会えたら
  8. 7.マヤの保護者