SARABA 高円寺

(1)
 
能登有料道路の下をくぐり、内灘の放水路脇の浜辺に出た。4月半ばの日本海はまだ波が荒く、体にぶつかる風は冷たい。海水を手ですくい口に含む。やっぱりしょっぱい、と思う。4か月の間、7階の病室の窓から冬の海を眺め続けた蓮二にとって、砂に靴をうずめながら眺める海は、ようやく自分を生きた心地にさせてくれるのだった。病院から出たばかりの蓮二は、兄の寛一に頼んですぐ近くの浜辺に連れて行ってもらった。27歳の青年が精神科の病室から毎日海を眺めて過ごすということは、受け入れがたい現実であった。病室で海鳴りを聞きながら一冬を過ごした。
 ポケットからショートホープを一本とりだして火を点けた。思ったよりも太く感じるタバコをくわえると、控えめに煙を吸い込んだ。軽い眩暈を覚えながら、気持ちが持ち上がるのを感じた。
「蓮!行くぞ!」
 と背後から兄の呼ぶ声が聞こえた。退院手続きの為に来てくれた兄の寛一の車に向かって踵を返した。
 車が病院の前を通り過ぎてしばらくすると、寛一が口を開いた。
「親父もお袋も、お前の顔なんか見たくないとさ」
 蓮二は返事をせずに流れる窓の外の景色を眺めた。
 30分程走り、実家の前に着くと、
「もう絶対に薬なんかやるなよ」
 と寛一は言った。寛一は実家の玄関で大声で何かを言い、車から蓮二と蓮二の荷物を降ろすと慌ただしくどこかへ行ってしまった。
寛一は両親に代わって、半狂乱になって病院に担ぎ込まれた蓮二の入院の手続きから、主治医との面談などをしてくれた。寛一は生真面目な性格で、自営でテナントクリーニングがメインのビルメンテナンス業をやっている。
蓮二が空を見上げると、頭上高くを鳶が飛んで行った。
退院して実家に戻った蓮二を待っていたのは、話の合わない両親との生活と、リハビリの毎日だった。
父親は県庁に勤める公務員で、母親は市内の中学校に勤務する国語の教師だった。生真面目な両親は、息子が麻薬に溺れたという事実をどう受け止めてよいか分からず、また、10年ぶりに帰ってきた息子とどう接して良いかも分からない様子だった。退院してきた最初の晩の食卓で、最初に父親が言ったセリフは、
「他人様に迷惑をかけるな」
だった。蓮二の両親は酒もタバコもやらない。高校を卒業した時分、両親から発せられる空気から逃げ出したくて家を出たことを思い出した。覚醒剤で身を持ち崩すまで、一度も実家に戻ったことはなかった。

(2)

 主治医は退院前の面談でリハビリについて、
「社会復帰すること。働くのが一番のリハビリです」
 と言った。
 蓮二はすぐに兄の寛一のビルメンテナンスの仕事を手伝うようになった。ワンボックスにポリッシャー(床を磨く機械)や洗剤を積みこみ、テナントに向かう。照明や床の埃を落とし、床全体を掃除機で吸う。モップで床を磨き、乾燥したら、フラッシュモップで樹脂ワックスを塗る。この単調な作業の繰り返しであるが、仕事として行うはなかなか大変な労働である。覚醒剤の副作用で幻聴、妄想、集中力の低下といった症状を抱えている蓮二にとっては、寛一からなかなか「よし」と言ってもらえず、厳しい現実であった。
 おぼろげにロック歌手になることを夢見て、怠惰なヒモ生活を送ってきた蓮二にとって、規則正しい生活と週6日の肉体労働というものは、耐え難い苦痛であった。
 休みの午後、ふとした瞬間に、逆らいようのない覚醒剤に対する欲求に襲われ、女の太もものつけ根に覚醒剤を打ち、自分のペニスの先に注射針を突き立てるという情景が眼に浮かんでくる。喉を掻きむしり、幻視を伴うぞわぞわとした悪寒に襲われながら苦悶に耐えるのであった。『ひとりになるな』と頭に声が響く。
 昨年の夏前には幻聴が始まっていた。当初は生活の何の支障もなかったが、ある日、自分と世界を区切る境界が弾けて消える感覚を覚えた直後から、幻聴は激しくなり、自分の現状とかけ離れた妄想を抱えるようになった。
 雑踏ですれ違う人々が公安警察官やCIAのエージェントに見えるようになった。マクドナルドでハンバーガーを食べていると『殺してやる』と悪意に満ちた怒声が頭のなかに響くようになった。食欲は落ち、自己管理能力は著しく低下していった。自分に小遣いをくれる人妻のマンコをひたすらなめ続け、セックスが終わると、
「俺はCIAに雇われた工作員なんだ。そろそろ自分の口座に捜査費用が振り込まれるはずだ」
 と口走り、女から
「あんたおかしいよ。病院行って」
 と言われた。
 9月になると、『殺される』と思うようになり、新宿警察に行って、アルバイト先の全く関係のない人間を殺人犯に仕立て上げ、
「自分も命を狙われているから、そいつを捕まえてほしい」
 とまことしやかに、警官に訴える始末だった。今になって思えば、あの時点で自分が警察に捕まってもおかしくなかったのに、と思い、苦笑いしてしまう蓮二だった。
 頼りにできる友人もなく、ほうほうの体で、金沢に住む兄、寛一を訪ねた。7キロもやせて目の血走った蓮二は、兄の寛一に車に押し込まれ、大学病院の精神科に入院したのであった。
 ビルメンテナンスの仕事を手伝うようになり半年もたつと、体つきもしっかりとしてきて、もう病人には見えなくなった。
「ようやく人並みの顔つきになってきたな」
 と寛一は目を細めて笑った。

(3)

 10月に入り、蓮二は在来線と新幹線を乗り継ぎ、東京に向かった。バンド仲間で一緒に覚醒剤をやっていた、ベーシストのヤスに会うためである。1週間前に電話をしたら
「元気だったか?いきなり居なくなっちまってさあ。ピュアなやつ用意しとくからさ、ぱあっとやろうぜ」
 と陽気に言っていた。
 新幹線の車窓から埼玉の田園を眺めながら物思いに耽った。蓮二は退院後の生活の中で、単調な毎日のありがたさと人と繋がって生きていくことの大切さと大変さを知るようになった。一緒に刹那な毎日を送っていたヤスにもなんとか更生してもらいたいと思ったのである。しかし、東京駅が近づくにつれ、昔の甘美で怠惰な時間を体が思いだし、ミイラ取りがミイラになるのではないかと、恐怖を感じた。
 おそらく、蓮二が、幻聴と妄想に囚われて生活する苦しさと、病室のベッドの上で初めて受け入れる現実について語っても、ヤスは耳を貸さないであろう。あまつさえ、ヤスは自分に向かってこう言うのだ。
「お前、日和ったなあ」
 と。
 高円寺の改札を出ると午後4時だった。約束までの1時間半のあいだ住み慣れた高円寺の商店街を歩き、懐かしい景色となってしまった街の景色に包まれて、涙ぐみすらした。毎日のように通っていた喫茶店の奥の席に座り、味気のないコーヒーを飲みながら思った。あの日病室のベッドの上で、現実を受け入れた瞬間に、自分の青春は終わり、現実が始まったのだ、もうこの町に戻ってくることもないのだ、と。
 あずま通り商店街から早稲田通りに出て、みずほ銀行のところから庚申通り商店街に入った。高円寺の改札に戻り、ヤスが来るのを待った。
 どうせ時間にルーズな俺たちだからと思って、6時までまったが、ヤスは現れなかった。携帯電話もつながらない。ドラマーのタツに電話がつながり、ヤスに会うために高円寺に来たことを話したが、
「俺も、レンジが田舎に帰ってからすぐに函館に帰ってさあ、全然連絡取ってねえんだわ」
 と言われた。ヤスのバイト先のバーに連絡してみたが、「ずいぶん前にやめた」とのことだった。
 1時間待ってもヤスは現れず、蓮二は仕方なく駅を離れて、中通り商店街を歩いて、以前よく通っていた沖縄料理屋に入った。沖縄料理屋は週末の賑わいで混雑していた。カウンターの隅っこに座り、オリオンビールを頼んだ。
 ヤスに会うことはもう二度とないだろうと直感していた。柔らかく煮込まれた角煮と琉球焼酎を頼む。早いうちに酔っぱらってしまいたかった。三線の柔らかい音色と喧騒に包まれながら、
「もう戻れない」
 と呟いた。もう、あの季節の出来事はすべて過ぎ去ってしまったのだ。北新宿のホテルでチェックインすると、蓮二はシャワーも浴びずにベッドに倒れこんだ。枕に顔を押し付けて泣いた。こんなに悲しいことはないと、嘆いたが、涙はすぐに枯れて乾いてしまった。

(4)

 金沢に戻り、蓮二は東京での出来事を忘れて毎日を過ごした。少しずつ両親との会話ができるようになり、親子関係をやり直している。仕事仲間とも酒を飲みに行くようになり、毎日が充実していることに気が付いた。
 ある日、
「そろそろ、自分の仕事を探したらどうだ?」
 と、寛一に言われ、職安に行って相談に乗ってもらった。介護施設で働きながらヘルパー2級が取得できるという話を聞いて、面接を受けた。
 蓮二は今、認知症対応共同生活施設で働きながら、ヘルパー2級の口座に通っている。年齢も性別もバラバラの人たちと親しくなり、共通の目的を持って勉強する楽しさを知った。介護の仕事は給料も安く、大変だが、今のところ「嫌だ」と思ったことはない。どうやら性に合っているらしいと、ひとり笑ってしまう蓮二だった。

 蓮二が退院してから1年半が経った。家に帰ると手紙が届いていた。汚い字で書かれた封筒の裏を見ると、差出人はタクであった。住所は書いていない。
 部屋に入って便箋をひろげた。
「蓮二へ。去年蓮二から電話がきたとき、実はヤスは函館に来てた。あいつ、俺たちが東京を離れてからシャブの売人になっちゃってさ、組のトラブルに巻き込まれてトンズラこいたんだよ。そのときシャブの上がり持ち逃げしたもんだから、追われちゃって大変だった。実家に戻るわけにも行かないし、函館に来たんだよ。こっちに来られたって俺だって巻き込まれちゃうだろ?仕方ないから、友達の車で札幌まで逃がしたんだけどさ。たぶんヤスにはもう会えないと思う。」

 その年の暮れに、ボーカルをやっていたシライから連絡が来て、金沢で再開を果たした。片町のバーでバーボンを飲みながらシライに、タクから手紙が来たことを話した。それを聞いてシライは、
「実はヤスにシャブの話を持ちかけたのはタクなんだ。ヤスがタクの彼女に手を出してさ、タクもだらしねえからヤスにも女にも文句言えなくてさ、腹いせにヤスに道踏み外させたんだよ。タクの知り合いが大口でシャブ卸してたからさ、その知り合いがトラぶって逃げなきゃならなくなったときに、タクがヤスをハメたんだ。ヤスに安値で大量に卸させて、ヤスを大元に仕立て上げたんだ。ヤスがテリトリー外で筋通さずに売してるって、抗争相手のチンピラに密告こんでさ」
 店を出てタクシーに乗るとき、シライは言った。
「お前、体壊すだけですんでよかったな」
 シライと別れた蓮二は別の店で飲みなおし、泥酔した。店を追い出されると、雪が駸々と降っていた。
 あちこちに体をぶつけながら歩き、蓮二は真っ白な雪の上に嘔吐した。

SARABA 高円寺

SARABA 高円寺

後ろ向きに走り抜けたあの季節。蓮二は忘れられない日々を懐かしみ旧友に会いに行くが、あとで知らされたのたは、友人の身に起きた悲惨な出来事だった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-24

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