空白

藤井昭宏の章

 僕が自分の部屋に引きこもるようになってから、母は急に冷たくなった。話しかけても返事もしないし、こちらを振り向く事すらしなかった。もしかしたら、僕がこんな風になってしまった為に、心が壊れてしまったのかも知れない。そう言えば、最近は化粧もほとんどしなくなったし、髪も整っていない時が多かった。でも時おり、僕が寝ている時にそっとベッドの横に座り、子守唄を歌いながら髪を優しく撫でたりしてくれる事もあった。でもそんな時は、決まって母は泣いていた。母の嗚咽で目が覚めた僕は、ぎゅっときつく目を閉じていた。起きた事を悟られないように、母が立ち去るのを息を殺してじっと耐えていた。
 
 ある日、気紛れから自分の机の上を掃除する事にした。普段から母が片付けてくれているので、それほど散らかっている訳では無かったが、母が掃除をすると、自分の思った通りの位置に物が配置されていなかった。だから僕は本来そこに存在しなくてはならない位置に、そっと物を移動していった。鉛筆削りは右はじ、ペンスタンドはここ、電気スタンドは左はじに……。そんな風に移動していったら、やっと使いやすい僕の机の上になって、何となく妙な達成感すら覚えた。机の上を整頓したら、すぐ横にあるチェストにも目がとまった。チェストの上には大学の資料やら、履歴書などの類がそのまま積み重ねてあり、埃をかぶっていた。
「もう、大学に行く事は無いんだろうな」
 僕はそう独り言をつぶやいた。高校を卒業したら、近くの大学に入学する予定だった。だが卒業式当日、僕は急に、そうあまりにも急に外へ出られなくなったのだ。何故なのか今となっては分からない。たぶんきっかけは些細な物だったのだと思う。だけどあの時の僕にとっては、それはとても重要な事だったのだろう。いずれにせよ、僕の時間は卒業式のあの日以来止まったままだった。僕は資料の一つを手に取ってみた。埃が、綿のように積もっていた。僕は息を吹きかけその埃を飛ばした。表紙にはキャンパスだろうか。笑顔でこちらを見ている学生達が写っていた。僕はその笑顔から目をそらした。そして、まるで無かったかのように、それをチェストの空いたスペースに置いていった。僕はまるで機械にでもなったかのように、非常に規則的な動きで、それを一つ一つこなしていった。埃を払い、それをチェストに置く、埃を払いチェストに置く……。いつの間にか高く積み重ねられた資料は、チェストに全て移動した。
ふと目をやると、資料が積み重ねられていた場所に、一枚の寄せ書きがあるのが目についた。置いた本人でさえ、そこにあった事すら忘れていただろうその寄せ書きには、中央に三年F組と書かれており、その周りにクラスのみんながそれぞれ担任の教師に向けた感謝の言葉がつづられていた。それは高校の卒業式の日に、僕が先生に渡すはずだった寄せ書きだった。
 手にとって寄せ書きの一つ一つを読んだ。そこには懐かしい名前があった。密かに想いを寄せていた女の子の名前もあって、彼女の書いた部分を読む時は、少し胸がときめいた。仲が良かった友人の名前もあり、特徴のあるその文字はとても懐かしい気持ちにさせた。僕の時間が止まっている間、彼らはそれぞれの人生という時間の波を懸命に泳いでいたのだろう。彼らが今の僕の姿を見たらどう思うのだろう?哀れだと同情するのだろうか?それともさげすみの目で見るのだろうか?いくら想像しても、答えが出るはずは無かった。 
全てを読み終わった時、右はじの空白がとても気になった。誰かがそこに書き込むはずだったのに、それを書き忘れているようなそんな空白だった。その時あっと思った。この空白に書き込むはずだったのは自分自身だったと言う事に。 
 僕は学級委員を任されていた。と言っても立候補した訳ではない。友人の何人かに推薦され僕がなる事になった。普通はクラスの中でも人の上に立つのが得意な人物か、もしくは内申書の内容を少しでも良くするという、不純な動機から立候補する者が現れてもいいものだが、残念ながらうちの学級にはそういう人物はいなかった。それで、おとなしくて拒否する事の出来ない僕が推薦された。めんどくさそうだったので、あまり気は進まなかったが、特に断る理由も見当たらず、その場の雰囲気で承諾してしまった。そんなスタートだったのだが、意外とクラスの裏方の作業をしたり、それぞれのクラスの学級委員が集まって議題を出し合う集会など、とてもやりがいがあって面白かった。コツコツと地味な作業をこなす事は、あんがい自分にあっていたのかも知れない。
先生に寄せ書きを書く事を提案したのも僕だった。ある時、何かの用事で先生の自宅にお邪魔した時があった。通された居間に、歴代の卒業生達の寄せ書きが大事に額に入れられて飾られていた。その寄せ書きを見ながら飲むビールは最高だ。などと、先生が嬉しそうに言っていたのを今でも良く覚えている。そこで、卒業式を控えたある日、僕はクラスの皆に寄せ書きを書く事を提案したのだった。全てのクラスメートが書き終えた寄せ書きは、最後に僕の所に回って来る予定になっていた。二、三日で戻ってくると予想していたのだが、一週間が過ぎても戻って来なかった。いよいよ明日卒業という時になって、やっと僕の元に戻ってきた。自宅に持ち帰り、いざ書こうと机に向かったのだが、中々良い文が浮かばなかった。悩みに悩んだ挙句、結局その日は書けずに卒業式当日を迎えてしまった。僕は学校に着いてから書こうと、内容を色々思案しながら学校に向かって歩いて行った。
……だが、結局僕は学校にたどり着く事が出来なかった。そのまま家に帰ったのだろうか?一生懸命思い出そうとしても、その時の記憶だけがすっぽりと抜け落ちてしまったように、全く思い出す事が出来なかった。寄せ書きに書き込む文章が思い浮かばなかったので、学校の門をくぐる事が出来なかったのだろうか?
「もしかしたら、引きこもってしまったのはそんなくだらない理由なのかもしれないな」寄せ書きの小さな空白を眺めながら、僕は誰に言うでもなくそう独り言をいった。
 それから僕はずっと、寄せ書きの空白の事ばかり考えた。先生はこの寄せ書きを受けと
る事を本当に楽しみにしていたに違いない。
「寄せ書きを見ながら飲むビールは最高なんだよ」
 嬉しそうに、そう僕に言った先生の笑顔が、目をつぶると浮かんできた。僕は自責の念
に駆られて、胸が苦しくなった。全てを忘れようと布団をかぶって寝ようとしたが、その
日はほとんど眠れなかった。
 それからも、机の上に置かれた寄せ書きは、時おり僕の心を悩ませた。空白の部分を埋
めて、母に届けてもらおうかとも思ったが、僕の事をずっと無視し続けている母に、そん
な事をお願いする事など出来るはずもなく、ただ漠然と時だけが過ぎていった。
 空白の部分に書き込もうと決意したのは、寄せ書きを見つけてから数日が経過した時だ
った。だがいざ書き込もうとすると、上手い言葉が見つからなかった。あの時と同じだと
思った。数時間机に座って、空白の部分とにらみ合いが続いた。やっと書き終わった時は、
もうすっかり日が暮れていた。先生に対する感謝と謝罪の言葉。僕にしてはとてもよく書
けたと満足した。
 ただ問題は、この寄せ書きをどうやって先生の自宅に届けるかという事だった。頼める
ような友人や知人などいないし、いたとしても説明するのがめんどくさかった。頑張れよ
とか、親に心配かけるなよとか、分かった風な口調で説教をされる事は避けたかった。
他に考えられるのは郵送だが、もし郵便で送るとしても、ポストまでは自分の足で行かなくてはいけないだろう。この部屋を出る事が、僕に出来るのだろうか?色々考えると絶望的な気分になった。とにかくグダグダ考えても答えは出ないだろう。僕は時の止まったこの部屋を出る決意をした。だがそれは、僕にとってとても大きな決断だった。
 もし部屋を出るとしたら、それを親には知られたくなかった。昼間なら父親は仕事で居ない。あとは母親だが、母も週に二度ほど知人の仕事を手伝っていた。もし部屋を出るとしたらその時しかないだろう。時の止まったこの部屋を出る事を考えると、足がすくみ、心臓がぎゅっと締めつけられるような気分になった。
 決意から数日後、その日はやってきた。僕は手のひらに、じっとりと汗をかいていた。部屋を出るのは正直怖かった。だが僕は決意したのだ。そう自分に言い聞かせた。
まずはじめに、寄せ書きの色紙を紙袋に入れた。そして髪にクシを入れ寝癖を直した。あとは部屋を出て洗面所に向かい、顔を洗い、歯を磨かなくてはならない。だが、部屋のドアノブに手をかけた所で身体が硬直した。
そのままの姿勢で数分が過ぎた。手に持ったドアノブは僕の汗でびっしょりと濡れていた。やはり無理かと諦めかけた時、クラスのみんなに囲まれて嬉しそうにしている先生の姿が目に浮かんだ。僕はドアノブを持つ手に力を込めた。
 久しぶりの外は、何だか穏やかな空気に包まれていた。桜の咲く季節という事もあるのかも知れないが、草花の匂いが芳しかった。僕はあれから、何度もつまずきそうになりながら、不器用に階段を降りた。そして洗面所で身支度を整えてから家を出た。家の外に出る事も難しいかと予想していたが、一旦部屋の外に出てしまうと、それほど苦にならずに外出する事が出来た。
 僕が通っていた高校は、電車とバスを乗り継いで自宅から一時間弱の道のりだった。バスの乗車券がまだ使用可能だったので助かった。財布の中には小銭しか入っておらず、電車賃を捻出するのがやっとだったからだ。
電車は思ったより空いていた。通勤時間帯では無いからだろう。一つの車両に数人しか乗っていなかった。電車を降り、バス停に向かった。いつもは人でごったがえしているバス乗り場も閑散としていた。朝の時間以外は一時間に二本しか運行してないようだったが、運が良い事に、すぐにバスは到着した。僕は後ろのタイヤのすぐ上の一人用の座席に腰をかけた。この座席はタイヤの丸みのせいで、足を曲げて座らなければならなかったのだが、何故か小さい頃からこの座席がお気に入りで、空いてると必ず座っていた。
 ぼんやりと窓から流れる景色を眺めていると、通学していた頃とほとんど街並みに変化は無いように感じられた。学生の頃は、駅と学校の往復だけで途中下車はした事は無かったが、今度機会があったらこの街並みをゆっくり散歩でもしてみようかなと思った。
 突然目の前に、何かが近づいてくる気配を感じてそちらを振り返ると、僕が座ってる席に、太った中年女性が座ろうとしていた。僕はあわてて座席を立った。中年女性はまるで僕の事など全く眼中に無いかのように、僕が先程まで座っていた座席に腰をおろし、携帯をいじりはじめた。ほとんどの席は空いているのに、何故僕が座っている席に無理やり座るのだろう。僕は文句を言おうとしたが、そのまま何も言わずに二個後ろの席に座った。僕は昔から争い事が嫌いだった。大声を上げたり、相手をののしったりするのは苦手だったからだ。喧嘩になりそうな時はいつも自分から先に折れた。他の人は僕の事を優しいと評価するが、僕はそんななさけない自分が嫌いだった。
しかし自分の座りたい席なら、例え誰かが先に座っていたとしても、無理やり押しのけて座る。幾ら歳を取ってもこんな人にはならないぞと心に誓った。バスに乗っている間中、僕はそのおばさんの後頭部をずっと睨み続けていた。
 高校の近くの停留所にバスが止まった。降りる時も先程のおばさんを睨みつけたが、僕の視線など全く気にもとめずに、先ほどと同じように携帯をいじっていた。僕は聞こえるように大きくため息を一つついてから、バスを降りた。
 久しぶりに見る高校は、とても懐かしく思えた。校舎の周りに植えられた桜の木が満開だったせいか、校舎の壁が淡い桃色に見えた。
 僕はまず初めに、事務員室に校舎内に入る許可を取りにいった。事務員室は、門をくぐるとすぐに見えてきた。銀縁の眼鏡をかけた見覚えのある事務員がそこに座っていた。
「あの、すいません。僕、去年までここの生徒だった藤井と言いますけど、斉藤先生にお渡ししたい物がありまして……」
 事務員のおじさんは、まるで僕の声が聞こえてないみたいだった。もう一度大きな声で呼びかけようとした時、おじさんはガクンと前に大きくうなだれた。思わず小さく笑ってしまった。春の陽気のせいだろう。彼は昼寝の真っ最中だった。起こすのも悪いので、そのまま静かにその場を立ち去った。本来は許可証のような物をもらう必要があるのだろうが、もし何か言われたら仕方がない。うっかりしていたとでも言うしかないだろう。
 靴を脱いで校舎の中に入った。久しぶりの学校は独特の匂いと雰囲気に包まれていた。何故か妙に緊張した。自分がほんの一年前に、ここに毎日通っていたのだと思うと、何か不思議な気分になった。
校舎の中に入ってから、僕は大事な事を聞き忘れていた事に気が付いた。先生が担任をしているクラスが分からなかったのだ。もう一度引き返して事務員のおじさんを起こそうかとも思ったが、何となくやめる事にした。単に面倒くさかっただけなのかも知れない。恐らく先生は三年を教えているに違いないという、根拠のない確信を元に、三年のクラスの階に向かった。
 三年のクラスは校舎の四階にあった。AからGまで七クラスあり、僕が高校生の頃はF組だった。最近ずっと部屋の中に引きこもっていたせいか、四階まであがっていくのも大変だった。僕は息を切らしながらも、何とか四階までたどり着いた。各階には小さな踊り場があり、そこから廊下に繋がっていた。廊下は左右に分かれており、左側にAからDまでの四クラスがあり、右側にはEからGまでの三クラスがあった。学生時代、階段をのぼりきるといつも右側に向かっていた癖で、僕はこの日も自然と右の方に歩いて行った。E組を過ぎ、三年F組というプレートがかけられた教室が近づくと、とても甘酸っぱい気分になった。あの小さな箱の中には僕の青春が詰まっているのだ。僕が置いてきた何かがあそこには今でも存在している。僕は一つ歳を重ねたが、実際にはまだ卒業してはいないのだ。
 F組の教室からは、懐かしい声が聞こえてきた。お世話になった先生の声だった。卒業式をボイコットした僕を、先生はどんな顔で見るのだろう。歓迎してくれるのだろうか?それとも冷たい目で僕を見下すのだろうか?僕は期待と不安が入り混じった気持ちで、授業が終わるまで廊下で待つ事にした。冷たい廊下に膝を抱えて座っていると、まるで審判の日を待っている罪人のような気分になった。
 やがて授業が終わったのか、教室の中がざわめき出し廊下に数人の生徒が出てきた。授業中トイレを我慢していたのか、急いでトイレに向かって走って行く生徒もいた。僕は立ち上がり、教室の入り口を凝視した。数秒後、先生が教室から出てきた。先生は僕に気がつかずに階段の方に向かって歩いて行ってしまったので、僕は急いで先生の後を追い、「先生!」と声をかけながら、近づいて行った。
先生は一度振り返り、目の前にいる僕に全く気がつかずに、あらぬ方向を見ていた。やがて不思議そうに首をかしげるとそのまま踵を返して立ち去ろうとしていた。僕はとても悲しい気分になった。先生は卒業式に出なかった僕を、まるでこの世に存在していないかのように無視しているのだ。ある意味でそれは、説教をされたり、冷たい視線を浴びせられる事よりも辛い事だった。僕は一瞬で身体の力が抜け、持っていた寄せ書きを廊下に落としてしまった。だが僕はそれを拾い上げる事が出来ずに、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
 色紙の落ちた気配に気がついたのか、先生は歩き出そうとしていた足を止め、こちらを振り返り寄せ書きを拾い上げそれを眺めていた。みるみるうちにその顔は驚愕の表情に変わり、内ポケットから携帯を取り出すとどこかに電話をかけていた。僕は電話をかけている先生を見ながら、ただぼぅーとしていた。まるでテレビドラマの一場面を見ているように、先生の激しく動く口だけを見ていた。
やがてテレビのスイッチを消した時のように、急に目の前が暗くなった。あまりのショックの為に気を失ったのかも知れない。薄れゆく意識の中で、自分の使命を果たす事が出来た事だけには満足していた。
次に気が付いた時には、壁もベッドも全て真っ白な部屋で僕は寝ていた。そのままぼんやりと白い天井を眺めていると、白い服を来た数人の男女が入って来て、寝ている僕を取り囲んで何かを話していた。何を言っているのか聞きとろうと耳を澄ましていたが、何を言っているのか理解できなかった。白い服を着ているというのは僕の錯覚で、もしかしたらこの人達は天使なのかも知れない。だから僕には彼らが何を言っているのか分からないのだ。そして再び意識が遠のいていった。
 次に気が付いた時には、同じ白い部屋の中に、大勢の人が僕を取り囲むようにしてこちらを見下ろしていた。僕が驚いて何度か瞬きをすると、その度に歓声が上がり、その後ろに立っていた人が、大きな声を出して歓声を静めた。皆一様に人差し指を口にあて、静かにというジェスチャーをしていた。僕を見ている人達は、それぞれが嬉しそうな笑顔を浮かべ、固唾を飲んで僕の事を見守っていた。僕は彼らが何者で何を目的としているのかを訪ねようとしたが、上手く言葉が出て来なかった。やがてまた目の前が暗くなった。
 次に気が付いた時、前よりも僕を取り囲む人の数が増えていた。僕が何度か瞬きをすると、それに気が付いた人が他の人にそれを伝え、さらに僕の周りに人が集まって来た。
「藤井!先生の事が分かるか?」
 僕の目の前には、先生の顔があった。勿論分かります。と声に出したつもりだったが、唸り声のような物が口から発せられただけだった。
「これ、お前の字だよな?」
 先生はそう言って、僕にあの寄せ書きを見せ、僕が書いた部分を指差していた。そうです。と言ったが、やはり唸り声しか出なかった。
周りにいた人達は、高校の時のクラスメートだった。もしかしたら全員いるのではないかと思えるほど、沢山の人で部屋はごったがえしていた。一人の女子がすすり泣きを始めると、それにつられるようにして他の数人の女子も泣き始めた。気が付くと泣いてはいないものの、目を真っ赤にしている者や、わざと遠くを見ている者もいた。先生も泣いていた。それに母も……。母の涙はいつも僕が見ていたような、悲しそうな涙では無かった。母は泣いていたが顔は笑っていた。
「じゃあ、藤井の卒業式をこれから始める。おい、田中頼んだぞ」
 先生がそう言うと、田中はすっと前に出て一つ咳払いをした。急に部屋の中が静かになった。
「ではこれから、卒業式を始めたいと思います」
 田中がそう言うと、先生がどこからか一枚の紙を取り出した。先生が田中を見ると、田中は大きく頷いてから、もう一度咳払いをした。
「卒業証書授与。呼ばれたら生徒は前に出て下さい。藤井晃広」
 僕の名前が高らかに呼び上げられると、そばにいた女子がベッドのリクライニングをゆっくりと起こしてくれた。それは僕がずっと想いを寄せていた鈴木さんだった。僕は、はいと返事をし(実際には唸り声だったが)卒業証書を受け取ろうとした。だが手が思ったように前に出せなかった。自分でも驚くくらい、ゆっくりと右手だけを前に出す事が出来た。その手を先生は握りしめ、そっと卒業証書を手に持たせてくれた。先生の目には涙が浮かんでいた。周りのみんなも泣いていた。
「卒業おめでとう」
 先生が涙声でそう言うと、みんなが一斉におめでとうと言った。僕はやっと卒業出来たんだ。勇気を出して、あの部屋を出て本当に良かった。みんな本当にありがとう。

斉藤正昭の章

「あなた、今夜のビールはどうなさるの?」
 妻がそう俺に尋ねた。
「お茶でいい」
 妻の顔を見ずに、素っ気なく答えた。
「禁酒の約束?」
「ああ」
「じゃあ、私が飲んじゃおうかしら」
 妻はわざと浮かれたような口調でそう言った。
「勝手にしろ」
 妻はそう言いながらも、ビールが冷蔵庫に溜まってくると自分で飲むのではなく、息子夫婦の所にこっそりと持って行っているようだった。この前息子がうちに来た時に、そんなような事を俺に言っていたのを思い出す。
俺が禁酒をしている事を知っていて、妻は必ず毎日晩酌用のビールを買ってくる。最初は俺の禁酒に対する嫌みかと思ったのだが、恐らくそれは俺に対する愛情表現なのだろうと最近は思っている。飲まないと分かっていながらもビールを用意する。それは俺の事を変わらず愛しているという妻の意思表示の様に思えた。
 俺が禁酒をしたのは今から一年ちょっと前の事だ。それまで俺は、歴代の卒業生達が送ってくれた壁にかかった寄せ書きを見ながらビールを飲むのを一日の楽しみにしていた。寄せ書きの数は、俺の教師としての歩みの全てだったし、成し遂げた事柄の全てだった。だが壁には、ちょうど色紙一枚分のスペースだけが空白になっていた。
去年の卒業式の日に事件は起こった。当時学級委員だった藤井という生徒が、数人の少年達から暴行を受けたのだ。その少年達は、在校中に校則を破り退学させられた子供達だった。彼らは互いに連絡を取り合い、その日卒業式をメチャクチャにしてやろうと乗り込もうとしていたようだった。そこへ運悪く、登校中の藤井が奴らの一人にぶつかってしまった。藤井は懸命に謝るが、元々卒業式をぶち壊してやろうと思っている連中だ。手始めに藤井を血祭りにあげてやろうとでも思ったのか、謝る藤井を数人で殴る蹴るの暴行をした。やがて奴らは藤井が大事そうに抱えていた、俺に送るはずだった寄せ書きに目を止めた。だがよこせと言われても、藤井はそれだけは決して奴らに渡さなかった。激怒した奴らは更に激しく藤井に暴行を加えた。しかしそれでも寄せ書きを渡さなかった藤井に、よほど頭に来たのか、奴らの中の一人が近くの工事現場から鉄パイプを持ってきて、それで藤井を思いっきり殴った。一度殴った事でそいつの中で何かが弾けたのかも知れない。奴はその後、無抵抗の藤井を何度も何度も鉄パイプで殴りつけた。その愚行は連絡を受けた警官が現場に到着するまで続けられた。警官が鉄パイプを持った少年を羽交い絞めにし、ようやくその殺人ショーが幕を閉じた時、藤井はぴくりとも動かなかった。ただ頭から流れる赤い血だけが、地面に広がって行くのを、周りの人間は呆然と眺めていたそうだ。
やがて救急車が到着し藤井は病院に搬送されて行った。担ぎ込まれすぐ、藤井は緊急オペになった。だが医師達の健闘空しく、藤井の意識が戻る事は無かった。藤井はただ生きているというだけの、無意識の世界の住人になった。
卒業式が終わり、急いで駆けつけた俺に藤井の母親はすがりつくように懇願した。息子が書いてない部分を必ず書かせてから持って行かせますので、それまで待って下さいと。藤井の母親は寄せ書きの色紙を大事そうに抱えながら俺にそう言った。俺は「はい」と言うのが精一杯だった。慰めの言葉一つ思い浮かばなかった。だからと言ってすぐに立ち去る事も出来ず、静まり返った病室でただ時が過ぎ去るのを待っていた。
俺はその日から酒を飲むのを止めた。藤井は必ず意識が回復して、俺の所にあの寄せ書きを持ってくると信じている。だからその日まで俺は、自分の一番の楽しみを控えているのだ。
「じゃあ行って来る」
 俺がそう言うと、妻は奥から鞄を持って来た。
「あなた、いってらっしゃい」
 妻はそう言って、俺に鞄を渡す。何十年も続く朝の儀式だった。
 いつの頃からか俺は、三年生ばかりを教えるようになった。受験や就職といった難しい問題を若い教師に任せておけないと、親達から苦情が出たのが発端だと思うが、真相は分からない。たまには初々しい新入生を教えたいと思う時もあるが、卒業を控えた生徒を教えるのは、やりがいのある事なのでまあこれはこれで満足している。今年はF組の担任になった。F組の教室はどうしても藤井の事を思い出してしまうので、個人的には避けたかったが、上の決定には逆らえない。
「先生。おはようございます」
 そう挨拶して数人の生徒が風のように走り去っていく。桜はもう時期的に終わりを迎えていたせいもあり、花びらが舞い落ちていた。その桜の花びらのじゅうたんを俺は歩いて行った。あと何回こうしてこの学校の桜を見る事が出来るのだろうか。定年を数年後に控えた俺は、何となくそんな事をぼんやり考えていた。

 二時間目の授業が終わった時に、不思議な事が起きた。職員室に戻ろうと廊下に出た時、ふいに名前を呼ばれた気がして後ろを振り返るとそこには誰もいなかった。だが廊下には一枚の色紙が落ちていた。拾い上げて見ると、なんとそれはあの藤井が居た頃のF組の寄せ書きだった。俺は最初、誰かのいたずらだと勘ぐった。生徒達の癖のある文字は、一年間クラスを見てきた俺にはすぐに個人を特定出来た。各個人の筆跡を全て真似るのは、出来なくはないだろうがとても難しい事に違いない。色紙には懐かしい癖のある文字が並んでいた。間違いなく一人で書いた物では無いだろう。もしかしたらクラス全員で俺にいたずらをしているのかも知れない。何故なら、その色紙には未だ意識が戻らない藤井晃広の名前がつづられていたからだ。だが、もしそうだったとしてもやはり変だった。藤井の文章には明らかに他の文字とは違い、真新しいインクの雰囲気があった。まるでついさっき書き込んだ物のように見えた。
「まさか……な」
 俺はそう独り言をつぶやいた。藤井の意識が回復し、これを書いて持って来たというのだろうか?それとも藤井が書いた物を誰かが届けたのだろうか?もしそうだったとしても、なぜ廊下に落として去っていくような事をするのだろう。俺に会えない理由でもあるのだろうか?様々な思考が頭をよぎったが、幾ら考えてもその疑問が解決する事は無かった。俺は携帯を取り出し、アドレス帳の画面を開いた。確か藤井の自宅の番号を入力しておいたはずだ。俺は藤井の自宅に電話をかけた。数回の呼び出しの後、藤井の母親らしき人物が電話に出た。
「もしもし。私、藤井君の担任をしていた斉藤ですが……」
 そこまで言ってから、この状況をどう説明しようか迷ってしまった。
「何かあったのですか?」
 藤井の母親の声には、警戒の色が伺えた。
「あ、いや……そのですね……藤井君の意識が戻ったんじゃないかと思いまして」
 俺は訳もなく、どぎまぎしてしまった。
「息子は相変わらずです……」
 藤井の母親はそう言ったまま黙り込んでしまった。やはりこれはいたずらなのかと、ほっとしたような、残念なような不思議な気分になった。
「突然お電話してしまい、申し訳ありませんでした。実はあの時の寄せ書きが、先程廊下に落ちてまして、そこに藤井君の名前もあったので、もしかしたら意識が回復したのかと思ったのですが、どうやら達の悪いいたずらのようです。本当に困ったもんだ」
俺はそう言って、間が持たなかったからだろう。意味も無く笑った。
「色紙に息子の名前もあったのですか?」
「え、ええ。でも意識が戻って無いなら、誰かのいたずらだと思いますよ」
「一応確認してきます」
 彼女はそう言って、受話機を置いた。保留になっていなかった為、階段をスリッパで上り下りする音が、かすかに聞こえてきた。
「ありませんでした。確かにチェストの上に置いたんです」
 数分後、再び受話機を持った彼女は、興奮気味に俺にそう言った・
「無いとは、寄せ書きがですか?」
「そうです」
 一体どういう事なのだろうか?藤井の母親が嘘をついているとは思えなかった。
「最近変わった事とかはありませんでしたか?」
「そう言えば……」
 彼女はそう前置きしてから、最近の出来事を話し始めた。彼女の説明によると、自分では掃除した記憶が無いのに、机がいつの間にか整頓されていたり、物の位置が微妙に移動していたりしていたそうだ。単に疲れて自分で掃除した事を忘れただけだと思っていたが、もしかしたら息子の意識が回復してる時があるのかも知れないと言っていた。とにかく一度お宅にお邪魔しますと言ってから、俺は電話を切った。
それから数時間後、仕事が終わり自宅に戻っていた最中に、再び藤井の母親から電話がかかってきた。藤井が突然発作を起こし、病院に搬送されたと言うのだ。俺は寄せ書きの事もあり、クラスのムードメーカー的な存在だった田中に電話をかける事にした。田中とは卒業式の日以来交流は無かった。
「私、田中君の担任をしていた斉藤と申しますが……」
 そこまで言った時、受話機の向こう側で笑い声が聞こえた。
「先生、なに堅苦しい挨拶してんだよ」
 田中は学生の頃とほとんど変わらない口調でそう言った。俺は少し安心した。
「お前、そんなに笑うなよ。俺だって久しぶりに電話をかける時は緊張するんだよ」
 俺も一緒になって笑いながら、そう言った。
「それで、どうかしたの?」
急に田中の声のトーンが低くなったので、俺は笑うのをやめた。
「今日な、ちょっと不思議な事があってな」
「不思議な事?」
「ああ、お前達が書いてくれた寄せ書きの事覚えているか?」
「うん、勿論覚えてるよ」
 田中はそう言ったまま、黙り込んでしまった。田中は田中で、あの日の事や藤井の事をこれまで気にかけていたのだろう。
「二時限目の終わりにな、誰かに呼ばれたような気がして振り返ると、廊下にお前達が書
いてくれた寄せ書きが落ちてたんだよ」
「寄せ書き?寄せ書きは藤井の親が持ってるんじゃなかったっけ?」
「俺もそう思ってな、すぐに藤井の家に電話をかけたんだよ。そうしたら置いていたはずの場所には寄せ書きは無かったって言うんだ」
「誰かが盗んだって事?」
「分からない。ただ、最近部屋の物の位置が変わったり、机の上が整頓されてたりしてい
たそうだ」
「藤井がやったの?」
「どうかな、お母さんが見ている限りは、意識は回復してないみたいだが……」
「もしかしたらあれじゃないの?幽体離脱的な感じでさ、魂だけがこうふわふわぁーと」
 田中は冗談っぽくそう言った。
「まさか、そんな非科学的な事は無いだろう」
「冗談だよ。すぐ先生は真に受けるんだから。で、いま藤井は?」
「それがな、さっき藤井のお母さんから電話があって、突然発作を起こして病院に搬送されたみたいなんだよ。田中、クラスのみんなに連絡してくれないか?」
「分かった。先生は先に病室に行ってよ。俺も後から行くから」
「頼んだぞ。病院は学校の近くの総合病院みたいだ。藤井の病室は向こうに行ってから聞いてくれるか?」
 俺がそう言うと、田中は分かったと言って電話を切った。俺は自宅には戻らずそのまま藤井が運ばれた病院へ急いだ。病院に向かう途中、田中が言った幽体離脱という言葉が、頭を何度もよぎった。

 病院は夜八時を回っているせいか、ロビーには人が数人いるだけだった。面会時間は九時までと入り口に大きく書かれている。もうそろそろ見舞いに来た人達が帰宅する時間帯なのかも知れない。
 受付の女性に、藤井の名前を告げると親切に病室を教えてくれた。お礼を言ってその場を立ち去った。
 病室には藤井の両親がすでに来ていて、心配そうに息子を見つめていた。入り口で、失礼しますと俺が言うと、藤井の母親が夫に、俺が担任だった事を手短に説明していた。
「はじめまして、昭宏の父親です。息子がいつもお世話になっています」
 藤井の父親はそう言って、頭を下げた。
「お初にお目にかかります。以前藤井君の担任だった斉藤です」
 俺もそう言ってから一礼した。
 藤井は少し落ち着いたのか、小さな寝息を立てて眠っていた。
「先生から電話があった後、大変だったんですよ。声を出して暴れて」
 藤井の母親は息子を見ながら、俺にそう言った。
「意識が戻ったんですか?」
「先生の説明だと、まだ分からないそうです。これから精密検査をして詳しく調べるみたいですけど。本当に困った子だわ」
 ご両親共、そうは言いながらもどことなく嬉しそうだった。今まで声を出したり動いたりした事すら無かったのだから、それも当然かも知れない。
「あ、これなんですよ。電話でお伝えした色紙は」
 俺はそう言って、色紙を母親に手渡した。
「間違い無いです。うちから無くなった寄せ書きだわ」
 しばらく色紙に目をやった後、確信をこめて彼女はそう言った。
「なんでそんな風に言い切れるんだ?」
 夫が妻に疑問を投げかけた。
「私、何度も何度もこの寄せ書きを見ては泣いていたんだもの。昭宏のクラスメートが書いた言葉、その位置ですらも記憶の中に残ってるの」
 なるほどと俺は思った。恐らく誰よりも彼女がこの色紙の事をよく知っているに違いなかった。その彼女がそう言い切るには、それだけの確信があるからだろう。
「あ……」
 突然、彼女は小さな声を漏らし、泣き始めてしまった。その視線の先には、藤井が俺にあてて書いた部分があった。
「あ、ここみたいだよ。失礼しまぁーす」
 田中が連絡して集まった元生徒数人が病室を訪ねて来た所だった。藤井の母親は急いで涙を拭っていた。俺は口に人差し指を当てて、静かにするようにジェスチャーで彼らに伝えた。
 その時だった。今まで静かに寝ていた藤井が突然目を開けて、うなり声を発したのだった。その場にいた全員は自然と藤井のベッドの周りに集まり、固唾を飲んでその動向を見守っていた。藤井の目の焦点は合っていなかったが、ゆっくりと左右に目を動かしていた。そして時々、何かを語りかけるようにうなり声をあげた。
「あ、俺、先生呼んできます」
 田中はそう言って、足早に部屋を後にした。 
「昭宏、お母さんの事分かる?」
 藤井の母親の問いかけをきっかけにして、皆それぞれが藤井に声をかけた。藤井は俺達に答えるかのように、何かを言っていた。藤井の意識は回復しつつある。俺は漠然とそう思った。

 病室を出た俺たちは、一階のロビーに移動した。皆連絡を受けて急いで病室に来てくれたのだろう。腹が減ったという会話が聞こえた。そう言えば俺も食事はまだだった。
「ラーメンでも食っていくか?先生おごってやるぞ」
 俺が田中達にそう言うと、彼らは顔を見合わせた。
「先生、俺達もう働いてる者もいるしさ、逆に先生にご馳走したいんだけど」
 田中がそう言うと、他のみんなもうんうんとうなずいた。
「いや、それはさすがにまずいだろ」
「先生、お世話になったんですから、たまには恩返しさせてください」
「そうだよ!人の好意は素直に受け取りなさいって先生が俺達に教えてくれたんでしょ」
 生徒達にここまで言われると、おごってもらうしかないようだ。こいつらも大人になったなと感じた。
 田中が近くに美味い店があるからと言ったので、田中の案内でその店に向かうことになった。
「何名様ですか?」
 洒落たバーのようなたたずまいの店だった。とてもラーメン屋とは思えない。
「六名です。できたらテーブルがいいんだけど」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
 店員に案内された席はちょうど六人掛けのテーブル席だった。隣のテーブルとの間に木で出来た仕切りがあり、みんなで話すにはちょうど良いかも知れない。
「ここ良く来るのか?」俺がそう聞くと、田中は「まあね」と答えた。
「ここの特製チャーシューメンが絶品なんだよ」
 田中のお勧めなら間違いないだろうと、全員がそれを注文した。
「例の寄せ書きって、まだ先生が持ってるんですか?」
 鈴木陽子が俺にそう尋ねた。彼女は学生の頃から好奇心旺盛な子だった。この手の話は彼女の興味を引くのだろう。きらきらした瞳で俺を見つめている。
「実は病室を出る時に、藤井のお母さんに渡そうと思ったんだが、息子の書き込みがある今は、先生が持ってるべきだと言って受け取ってくれなかったんだ。ほらこれだ」
 俺が色紙をテーブルの上に出すと、乗り出すように皆が寄せ書きに注目した。
「うわぁ、懐かしい。私これ書くのに二時間近くかかっちゃったんです。何を書こうか、いざとなると凄く悩んじゃって」
 鈴木は笑いながらそう言っていたが、藤井の書いた部分に目が止まった時に、急に笑うのを止めた。
「これ…藤井君が書いたと田中君から聞いたんですが、どうやって書いたんですか?」
 鈴木は藤井の文字に目を落としながら、俺にそう聞いた。
「分からない。母親が見てる限りでは意識は回復してないらしいんだが」
「最近藤井の部屋で変わった事があったんだってよ」
 田中がそう言うと、皆一斉に田中に視線を移した。
「変わった事って?」
「藤井の意識は回復してないのに、部屋の物の位置が変わっていたり、机の上が整頓されていたらしい。だから先生にも言ったんだけどさ、藤井の魂は幽体離脱的な感じで身体から抜け出してさ、まず色紙に文字を書き、その後この寄せ書きを学校まで運んだんだと思うんだよ。いやぁ大変だったと思うよ。魂なのに色紙を運ぶのはさ、相当重かったでしょ」
 また田中の冗談がはじまったと、ほとんどの者は苦笑いを浮かべていた。
「それありうるよ」
 鈴木だけは笑っていなかった。テーブルの色紙を凝視したまま、真剣な表情でそう言った。
「いや冗談だよ。真に受けないでよ」
 田中があわててそうフォローしても、鈴木の表情は変わらなかった。
「OBEって言うの」
「OBE?」
「オウトオフ・ボディ・エクスペリエンスの略よ」
「えっと、ボディは身体だから、身体の外に出る……エクスペリエンスってなんだっけか?」
「経験とか体験って意味ね。要は自分の身体から魂が抜けだす体験。体外離脱って事ね」
「鈴木、お前マジに言ってんの?」
 田中がいつもの茶化すような口調でそう言っても、鈴木は表情を変えなかった。
「私、田中君からこの話しを聞いた時から、藤井君は幽体離脱かも知れないってずっと考えてたんだ。実際に科学的にそういう事を研究してる人達がいてね、ほとんどの学者は実際にはそれは脳の錯覚だと考えてる」
「錯覚?」
「うん。そういう不思議な体験をする人っていうのは、大病や大けがをした時が多いのね。それは死に向かうプロセスを脳が何とか理解しようとしているから起こると考えられてるみたいなの。えっとそうね、分かりやすく説明すると、バーチャルリアリティのヘッドセットを付けて、昔に撮った自分を再生したら、自分の姿が目の前に現れるでしょ。それは実際には単なる映像なんだけど、もしヘッドセットを付けてる自覚が無かったらどうかしら?あたかも自分の身体から魂が抜けだして、自分を眺めてるような気分になるでしょ。つまり仮死状態のときには、脳の中でこうした映像が再生されているのでは無いかっていうのが科学者達の見解みたい」
「なるほど……でもさ、藤井の場合は実際に見てるだけじゃないぞ。文字を書いたり、色紙を運んだりしてるよ。これはどう説明するのさ」
「うん、だからね、藤井君の場合はこうした錯覚のようなものでは無く、本当の幽体離脱なんじゃないかって思ったの」
「本当の幽体離脱……」
「お待たせしました」
 鈴木の話しを聞いて静まり返った所に、さきほど注文したラーメンが運ばれてきた。
「とりあえず食べようよ」
 田中がそう言うと、皆一様にラーメンをすすりはじめた。確かに田中がお勧めするだけの事はある。麺もシコシコしていて美味いし、スープもくどすぎず、さっぱりとした味わいで、これなら毎日でも食べられると思った。
「でさ、さっきの話しなんだけど、幽体離脱って本当に出来るのか?」
 田中が鈴木にそう言うと、鈴木はラーメンを食べる手を止め、バックの中から何かを取り出した。
「モンロー研究所っていうのがあってね。今タブレットでググるから」
「鈴木、それは一体なんだ?」
 俺がそう尋ねると、鈴木では無く田中が横から口を挟んだ。
「先生、タブレットも知らないの?生徒に笑われるよ。パソコンみたいにネットの閲覧が出来るんだよ。パソコンよりも持ち運びに便利だから最近よく売れてるみたいよ」
 鈴木がパソコンの画面だけのような物に指で器用に触れると、画面が切り替わりモンロー研究所の説明文が現れた。最近は便利な物が出来たなとしみじみ思った。画面には次のように書かれていた。
モンロー研究所は、故ロバート・モンロー氏により一九七九年に米国ヴァージニア州に設立された。ロバート・モンローは四三歳の時に不思議な体験をする。いわゆる幽体離脱の体験だった。ある晩寝室で寝ていた時、激しい衝撃を片方の腕に感じて目を覚ますと、自分が床に寝ていた。「ベッドから転げ落ちてしまった」と思ったのだが、不思議なことに目の前にはシャンデリアがあった。実はベッドから転げ落ちたのでは無く、自分と妻が寝室で寝ている姿を、天井から見下ろしていた事に気付き大変驚いたらしい。その後、彼は体外離脱、意識状態の変化などについての研究を始めたらしい。
 彼はヘシミンクという特定の音の周波数を組み合わせることにより、人の意識状態のコントロールを可能にする音響技術を研究開発したらしい。それを用いる事により幽体離脱も可能であると書かれていた。
「本当にヘシミンクを使ったら幽体離脱が出来るのかは私には分からないですが、人は何らかの要因によって幽体離脱出来るとは思ってるんです。特に大病や大けがという状態に陥っているとその可能性は高まると思うんです。つまり藤井君のような状態です」
 鈴木は真剣な表情で俺にそう言った。
「なるほど、じゃあ藤井はその何かしらの要因によって、急に幽体離脱を出来るようになったって事か……。何かの音楽でも聞かせたのかな」
 俺がそう言うと、鈴木は「そうかも知れません」と言って頷いた。鈴木の話しはとても信憑性があった。幽体離脱と言うと、非科学的な物かと頭ごなしに思っていたが、色々な研究が重ねられているんだなと思った。勿論全てを鵜呑みにする事は出来なかったが、もしかしたらそうかも知れないと思わせる何かがあった。
「さて、そろそろお開きにするか」
 俺がそう言うと、みんな帰り支度を始めた。久しぶりに見た元生徒達は、とても立派になっていた。俺はそれがとても嬉しくもあり、少し寂しくもあった。
 約束通り、元生徒達は俺の分の会計を支払ってくれた。俺は彼らに「ありがとう」とお礼を言い、いくぶん恐縮しながらその場を立ち去った。一人で家路に向かう間、先程のモンローの研究の事を思い巡らしていた。
 
 その日から藤井は、素人目にもはっきりと分かるほど順調に回復していった。最初は目を開いたり、左右に瞳を動かして辺りを見まわしたりする程度だったが、徐々にこちらの問いかけに反応するくらいまで回復した。俺が田中にその事を伝えると、恐らく彼が皆に声をかけてくれたのだろう。その晩に俺が病室を訪れると、病室に入りきれない位の元生徒達が集まっていた。
「先生ごぶさたしております!」
一人の生徒が俺に挨拶すると次々と他の者も挨拶をしてきた。俺が彼らに声をかけようとした時、病室の中で歓声が湧きあがった。
「みんな静かに!」
田中がそう言うと、水を打ったように静かになった。
「藤井が瞬きしてる」
田中のその言葉をきっかけに、俺の周りにいた生徒達が一斉に藤井のベッドの方へ向かって行った。俺もつられてベッドの方へ向かって行った。
 ベッドに寝ている藤井は確かに目を開け、時折瞬きをしていた。昨日まではどことなくぼんやりと焦点が合っていないような感じだったが、今日の藤井の目にはどこか生気があった。
「誰か医者を!」
 俺がそう言うと、廊下側にいた数人が顔を見合わせ、やがてその内の二名が医師を呼びに行った。医師が来る間、病室に残った者達が藤井に声をかけていた。その度に藤井は声をかけている者の方にゆっくりと目をやり、ぼんやりと眺めていた。話しを理解しているのかどうかまでは分からなかったが、今までは反応すらしなかった状態と比べると大きな変化だと思った。
 やがて医師が数人の看護師と共に病室を訪れ、俺達は自然と病室の外で待機する感じになった。
「なあ先生。藤井さ、もうちょっとしたら普通に起き上がりそうじゃない?」
 田中はそう言って笑った。
「そうなって欲しいな」
 俺がそう言うと、地面を見つめながら田中は大きく頷いた。
「藤井ってさ、まだきちんと卒業してないんだろ?」
「ああ、証書だけは事件があった日にお母さんに渡したけれどもな」
「俺達だけでもさ、藤井の卒業式をやってあげようよ」
「卒業式をか?」
「あいつ卒業式の日からずっと意識が無かったから、その間の時間がすっぽり抜けちゃってるわけでしょ。その空白の時間をゆっくりでもさ、俺達が動かしてあげたいんだよ」
 田中は俺の方を向いて、熱っぽくそう言った。こいつのこういう所が皆に慕われてるんだろうなと微笑ましくなった。
「たまにはお前も良い事言うな。医者と藤井のご両親に許可を得ないとならないと思うが、俺が掛け合ってみるよ」
「たまにってのは酷いな」
 田中はそう言って、頬を膨らませた。その表情を見て、周りで聞いていた者達が一斉に笑った。田中も俺も、つられて笑った。早く藤井も、こいつらと一緒に笑えるようになって欲しいと俺は心から願った。
 次の日、まず藤井の両親に卒業式をさせて欲しいとお願いすると、快く承諾してくれた。藤井の母親は、明日にでも自宅から卒業証書を持ってきますと言ってくれた。問題は医師の許可だが、これも意外とあっさりと許可された。藤井の様な状態の患者は、周りの影響によって医師が思ってもみなかったような回復を見せるらしい。逆に、これからも藤井に関心を払って欲しいとお願いされてしまった。いささか恐縮しながら医師の元を後にすると、俺は田中に許可が降りた事を電話した。田中に、他の皆が集まりやすい曜日を聞くと、日曜日だと言うので、藤井の卒業式を次の日曜日に行う事にした。時間をどうしようかと
俺が言うと、田中は午前九時からが良いんじゃないかと言った。午前よりも、集まりやすい午後の方が良いんじゃないかと提案してみたが、卒業式と言えば午前中でしょ。どうせなら藤井も、きちんとやって欲しいと思ってるに違いないと指摘され、確かにそうだと妙に納得してしまった。俺以上に田中も藤井の事を考えているんだなと思った。恐らく他の皆も同じ気持ちだろう。どの年の教え子も皆一様に可愛いが、こいつらは格別だ。だからこそ、あの空白の壁にこいつらの寄せ書きを飾りたいと心から願った。

 次の日曜日、打ち合わせがあると言うので早めに病院についたつもりだったが、すでに主要メンバーは集まっていた。
「やっと来たよ」
 田中が冗談っぽくそう言った。
「すまんな。自分では早く来たつもりだったんだが」
 俺は平謝りした。
「先生、これが今日の大まかな流れです」
 鈴木から渡された卒業式のしおりは、堅い紙にきちんと印刷された立派な物だった。
「これは、随分本格的だな」
 俺がそう言うと、田中は得意げな顔をした
「実はさ、取引先の印刷会社の社長に藤井の事を言ったら、俺にもその卒業式の手伝いをさせてくれって言ってくれてね、このしおりを無料で作ってくれたんだよ」
 しおりの表紙には、藤井昭宏卒業式のしおり。と金色の文字で印刷されていた。表紙を開くと開始時間や誰がそれをサポートするかなどが書かれていた。司会進行だけでは無く、藤井のベッドの背もたれを上げる人などまでが事細かに設定されていた。
「司会進行が田中なのは分かるが、鈴木のやる事が多すぎないか?ベッドの背もたれを上げた後に、花を渡したり、その後の食事の世話係も鈴木になってるぞ。他の者が変わってあげたら良いんじゃないのか?」
 俺がそう言うと、田中は俺を脇に連れて行き、小声で「実はさ、藤井は鈴木に想いを寄せてたんだよ。だから鈴木に無理言って沢山やってもらってる。特に藤井に接したりする役目にさ。勿論鈴木はそんな事知らないし、絶対ナイショにしておいてよ」
「そこの二人、なにこそこそやってるの?」
 鈴木に言われ、俺達は打ち合わせしてる所に戻った。クラスの事は何でも知っている気になっていたが、意外と知らない事も多いんだなとあらためて思った。打ち合わせの輪に戻った田中と目が合うと、よろしく頼むよという意味なのか、俺に軽くウインクしてみせた。
 打ち合わせは一時間程で終わり、数十分後にはいよいよ藤井の卒業式が始まる。俺達は病室へと移動した。
病室に入ると、折り紙で作った色とりどりの輪が飾りつけられ、病室の一番目立つ壁には「藤井昭宏卒業式」と大きく掲げられていた。その下には豪華な花瓶に活けられた美しい花が飾りつけられていた。藤井はまだ寝ているのか、目をつぶり小さな寝息を立てていた。
「藤井、自分の卒業式って事分かるかな?」
 田中が俺の横でそう言った。
「あれからも徐々にだが、回復の兆しを見せているから、きっと理解しているさ」
 事実、藤井はあれから素人目にも分かるくらい回復していた。瞬きで反応した次の日には、俺達に返答しようと、一生懸命反応していた。さすがに言葉は発してはいなかったが、呻きのような声を漏らしていた。赤ん坊が徐々に言葉を発していくように、藤井もきっと時間はかかるかも知れないが、いつか普通に会話が出来るようになるとその場に居た全員が思った。それを見た医師も驚くべき回復だと驚いていた。藤井の俺達への想い。そして俺達の藤井への想い。これがあれば絶対に藤井は回復するだろう。
「先生、藤井が目を覚ましたみたいだよ」
田中にそう耳打ちされてベッドの方へ目をやると、いつの間にか藤井は目を覚ましていた。全員の顔を確認するように、ゆっくりと辺りを見回していた。
「じゃあ、藤井の卒業式をこれから始める。おい、田中頼んだぞ」
 俺がそう言うと、田中はすっと前に出て一つ咳払いをした。急に部屋の中が静かになった。
「藤井君、これからあなたの卒業式が始まるわよ」
 鈴木はそう言って、手に持ったリモコンのボタンを押し、藤井のベッドの背もたれを上げた。
「第一回、藤井昭宏卒業式をこれから始めます」
 田中がそう言うと、皆姿勢を正して次の言葉を待った。
「卒業証書授与、生徒は名前を呼ばれたら返事をしてください。藤井昭宏」
 田中はそう言ってから、心配そうに藤井の方を見た。勿論俺も、他の皆も固唾を飲んで藤井の方を見ていた。それからしばらくしてから藤井は小さな唸り声を発した。その瞬間小さな歓声が上がり、田中がそれを手で制した。
「先生、お願いします」
 田中に促され俺は鞄から、事前に藤井の母親から渡された卒業証書を取り出した。
「藤井、卒業おめでとう」
 俺はそう言ってから、卒業証書を藤井の目の前にそっと差し出した。藤井はその差し出された証書を見つめ、懸命にそれに手を伸ばそうとしているように見えた。やがて右手がかすかに動いた。俺はもういてもたってもいられず、その手を握りしめ証書をもたせてやった。
「卒業おめでとう」
 俺がそう言うと、周りの皆も次々とおめでとうと言った。歓声と拍手。藤井の空白だった時間に、そっと今という風が流れ込んでいった。藤井は何かを言いたげに小さな唸り声を発していた。やがて歓声はすすり泣きに変わっていった。俺も藤井の両親もその場に居た全ての人間が泣いていた。
 それからしばらくして、藤井はそっと眠りに入った。申し合わせたわけでは無いのだが、それから程なくして解散という感じになった。皆、藤井の眠りを妨げたくないと気をきかせたのだろう。いきなり多くの情報が頭の中に入り込んで藤井も疲れたに違いない。
「先生、俺達また時間見つけて藤井のお見舞いに来るよ」
 後片付けの為に数人が残って、ほとんどの者は、病室を立ち去った。先程までごった返していた病室が急に静かになると、意味も無く寂しく感じる。
「あの、この度は昭宏の為に、色々としてくださってありがとうございました」
 藤井の母親はそう言って、俺達に深々と頭を下げた。
「いえ、これは俺達が望んだ事ですから」
 俺がそういうと、田中も鈴木も頷いた。
「私、昭宏はもう二度と目を覚まさないって諦めてたんです。親として失格ね」
 藤井の母親はそう言って、寝ている藤井の髪をそっと撫でた。そして、ふうーっとため息を一つ漏らしてから、話しを続けた。
「でも、先生から寄せ書きの事で連絡をもらった日から、昭宏はどんどん回復していった。最初は先生が何をおっしゃっているのか分かりませんでした。もしかしたら、悪い冗談をおっしゃっているのかとも思いました。でも、部屋にあったはずの寄せ書きはどこにも見当たりませんでした。もし先生がおっしゃっている事が万が一にでも本当の事だったら、私達が見ていない時に、昭宏が目を覚まして寄せ書きを持って行ったのなら。そんな事を考えると夜も眠れませんでした」
「俺も最初誰かのいたずらだと思いましたし、信じられないのも無理はありません。不思議な事もあるもんだと、俺達もあの後話していたんです。」
 俺はそう返答した。
「もしさ、藤井が何らかの方法で動く事が出来たとして、やっぱそれって鈴木が言ってたヘシなんちゃらってやつのせいのかな」
 田中はそう言って、鈴木の方へ目をやった。
「ヘシミンクの事ね」
「ヘシミンク?」
 藤井の母親は不思議そうな顔でそう言った。
「ええ、これは単なる一つの可能性に過ぎないんですが……」
 鈴木はそう前置きしておいてから、俺達にしてくれたようにヘシミンクに関しての説明をしていった。藤井の母親は最初は黙って聞いていたが、途中質問などを挟んだりして鈴木の説明に聞きいっていた。
「じゃあ、昭宏は幽体離脱をして先生に寄せ書きを持って行ったのかしら」
「ヘシミンクの説明によると、特定の音の周波数を組み合わせることにより、人の意識状態のコントロールを可能にするとあります。先生が寄せ書きを受け取った日から少し前に何かの音楽を聴かせたって事はありますか?もしくは外で工事等があって部屋に大きな音が聞こえていたとか」
「部屋で音楽はかけてはいなかったわ。この子、あまり音楽を聞く子じゃなかったし……工事も特に記憶に無いわね」
「そうですか」
「私がした事と言えば、この子の髪を撫でながら、子供の頃にしてあげたように子守歌を歌ったぐらいかしら」
「子守歌ですか?」
「ええ」
「それ、聴かせていただけませんか?」
「え?今ここで」
「ええ」
「ちょっと恥ずかしいわ」
 藤井の母親は少しためらっていたが、しばらく藤井を見つめた後、目をそっとつぶり子守歌を歌い出した。優しく息子の髪を撫でながら歌うその子守歌は、見る者の心を落ち着かせた。
やがて藤井の母親は辛かった日々を思い出したのか、徐々に声が震え、涙声になりながら子守歌を歌った。それは以前何かの番組で見た、二つの声を同時に発する事の出来る部族が奏でる音楽のようでもあった。確かコーミーという名前だったと思う。低い声で歌われる子守歌に重なるように泣き声が重なる。その今までに耳にした事の無い音に、その場にいた俺達は目をつぶり聴きいった。
 何かの気配に気づき、俺が目を開けると藤井の寝ているベッドの上にぼんやりと白い靄の様な物が見えるのに気が付いた。じっと目を凝らして見ていると、その靄は徐々にはっきりとした人の形になっていった。それは紛れも無い藤井の姿をしていた。田中と鈴木は目をつぶっているので気が付いていないようだ。目を開けていた俺だけが気が付いていた。薄透明な藤井は俺の方をじっと見つめ、何かを言っていた。
「あ・り・が・と・う」
 藤井は確かにそう言っていた。
「おい、藤井!」
 俺が声をかけると、薄透明な藤井は瞬時に消え去った。
「先生、どうしたの?」
 鈴木が不思議そうに俺にそう問いかけた。
「いや、何でもない」
 俺は今見た不思議な現象を、何故か言う気になれなかった。何となく言ってしまったら藤井が二度と意識を取り戻さないような気がしていた。
「ま、藤井の意識が完全に戻ったらさ、本人に直接聞けば良い事じゃん」
 田中がそう言った。
「そうね。藤井君が回復したら、回復祝いって事でクラス会を開くってのはどう?その時にじっくり聞きましょうよ」
「おお良いね。その時は俺、幹事やるよ」
「田中君しか幹事出来る人いないでしょ」
「それもそうか」
「先生、真相は藤井君の意識が戻ったら直接本人に聞くって事でいいですか?」
「ああ、そうしようか」
 俺が上の空で答えたのを悟られたのか、田中と鈴木は首を傾げ不思議そうな顔をしていた。
「じゃあ、俺達はそろそろおいとまします」
そう言って、二人は病室を去った。藤井の母親も食事を作る為に、一旦自宅に帰ると病室を去った。病室には俺と藤井の二人だけになった。
「なあ藤井、俺にありがとうって言ってくれたのか?」
 俺の問いかけには藤井は答えなかった。
「やっと空白だった俺の壁に、お前達の寄せ書きを飾る事が出来るよ。俺の方こそありがとうな」
 俺がそう言うと、薄っすらと藤井は微笑んでいるような気がした。

一年後

「あなた、また寄せ書きを見てるの?」
 妻が呆れ気味にそう言った。
「ああ、悪いか。これは俺の宝物なんだ。これを見ながらのビールは美味いぞ。どうだ、お前も飲むか?」
 俺がそう言って空のコップを差し出すと、妻はそのコップを受け取った。俺が注いでやると、妻も俺のコップにビールを注いだ。
「藤井君でしたっけ、あの子来週退院ですってね」
「ああ、もうほとんど松葉杖無しで歩けるようだ」
 藤井はあれから順調に回復していった。俺が時折病室を訪ねると、元クラスメートの誰かが必ず病室に来ていた。俺も長年教師をやっているが、あれほど仲間想いの生徒達が集まっていたクラスは無いだろう。田中は退院祝いだと、さっそくクラス会を開くと張り切っていた。もしかしたら全員集まるんじゃないかと俺は思っていた。
「壁の空いてる部分が埋まって本当に良かったわね」
 妻は寄せ書きの飾ってある壁を見ながらそう言った。
「いつまでも空白のままって訳にはいかないからな。この壁が全部寄せ書きで埋まるまで、俺は教師を続けるよ」
 俺がそう言うと、妻は何も言わずに微笑んだ。

空白

空白

卒業式の日から、何故か部屋を出ることが出来なくなってしまった藤井昭宏は、恩師に渡すはずの寄せ書きを渡せなかった事を後悔していた。ある日、寄せ書きを渡す為に部屋を出ることを決意する。だが外の世界は、まるで藤井の姿が見えていないかのようだった。やっと恩師に寄せ書きを渡す事が出来た瞬間、彼は意識を失ってしまう。次に気がついた時には病室のベッドの上で自分の卒業式が行われる所だった。 不思議な体験の裏に隠された謎に迫るミステリー。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 藤井昭宏の章
  2. 斉藤正昭の章
  3. 一年後