リセット

 

菊池マリアの章

 あ……あん……
 ……じゃあ入れるよ。
 あ、ゴムつけなくていいよぉ
 え?
 今日安全日だから。
 そうなの。じゃあ。
 男は嬉しそうにそう言った後、私の中に男性器を挿入した。男は生で出来る事を喜ぶ。この男もやはりそうだった。
 演技のあえぎの中、男は早々と私の中に果てた。私にとってSEXは苦痛以外のなにものでもなかった。
「じゃあ、私シャワー浴びて来るから」
「うん。凄く気持ち良かった。これ少ないけど」
 男はそう言って、三万円をテーブルに置いた。たったの三万円が私の値段なのかと思うと、涙が溢れてくる。
「お金なんかいいよぉ」
 私が少し甘えたような声で返答すると、男は視線をそらし照れたように笑った。腹の底から激しい吐き気が込み上げてくる。
「いや、貰っておいてよ。あ、後さ、携帯の番号教えてくれる?又会いたいからさ」
 男は、自分の携帯を取り出した。しがないサラリーマンの分際で、先月発売した最新の携帯電話を持っていた。
「私携帯持って無いんだぁ。ごめんね」
 私はくるりと踵を返すと、シャワーを浴びに風呂場へ急いだ。洗面所に入ると、私はドアの鍵を閉めた。履いていたパンツを脱ぐと、どろりと男の精液が腿を伝わって足元の床に垂れた。そのあまりの気持ちの悪い感触から私は洗面台に嘔吐した。何回目かの嘔吐の後、もう吐くものがなくなったのか、黄色い胃液が少量出た。まだ吐き気は残っていたが、あの男の精液を早く洗い流したかった。私は急いで風呂場へ入ると、熱いシャワーを出しっぱなしにして、肌が赤くなるほどボディソープで身体をこすった。
 シャワーを浴びてから部屋に戻ると、男は裸のままベッドに寝ていた。先程、男の目を盗んで飲んでいたビールに睡眠薬を入れておいたからだ。私は男の背広から財布と携帯を抜き取った。それをセカンドバックに入れてから、私はそっと部屋の外に出た。 
 エレベーターに乗りながら、財布からお金を抜き取り、財布自体はエレベーターの床に投げ捨てた。それから携帯の電源を入れた。待ち受け画像は家族で写っている写真だった。奥さんと、まだ小さい女の子の三人で撮った写真のようだった。写真の三人は笑いながら私を見つめていた。
(へどが出る)
 私はプロフィール画面を探し出し、そこの自宅と思われる番号に電話をかけた。数回の呼び出しの後、女の子が電話に出た。
「ごめんね、お母さんに代わってくれるかな?」
 私がそう言うと、女の子は恐らく母親に言っているのだろう
「パパじゃないみたい」と言った。良心がズキンと痛んだが、先程の男との行為を思い出し、良心の痛みを奥に押しやった。
「はい、代わりましたが……」
 いぶかしそうに電話に出た所からすると、恐らくかけてきた相手の番号が出るタイプの電話なのだろう。
「奥さんですか?」
「はい。あなた誰ですか?その電話主人のでしょう?」
 怒りからか、それとも恐怖からか彼女の声は震えていた。
「私、あなたのご主人と寝ました」
「誰なの!あなた!きちんと説明しなさいよ!」
(ばっかみたい)
 受話器の向こう側では、女がまだ怒鳴っていた。
 私は乱暴に電話を折りたたむとそれを道路の真ん中に投げた。しばらくしてから猛スピードで走り抜けていったトラックによって、携帯は粉々に踏みつぶされた。
(いい気味)
 立ち去ろうとしたその瞬間……ドンという大きな音とともに、先程のトラックの運転手が車をとめ、外に出て来るのが見えた。
「大丈夫ですか!」
 あきらかに狼狽したトラック運転手は、倒れている男にそう声をかけた後、携帯電話でどこかに電話をしていた。トラックの運転手は道路に倒れている男を引いたのだろう。倒れている男の頭から流れ出るどす黒い血が、アスファルトに吸い込まれていくようだった。
「あの……」
 突然後ろから声をかけられたので、ひっと小さな悲鳴をあげてしまった。振り向くと、二十代前半と思われるスーツを着た男が立っていた。
「あの、菊池……マリアさんですよね?」
「え?何で私の名を……」
 そう答えた後、しまったと思った。
 もしかしたらこの男は、私が今まで復讐の為に寝てきた男達の誰かが、仕返しをする為に雇った探偵かも知れないと思ったからだった。
「良かった。やっと出会えた。僕、あなたの事探してたんです」
 男はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。

 ネットカフェのリクライニングシートに腰をおろしてからも、ずっと先程の事を考えていた。男は岡崎健司といった。だが、そんな名前は一度も聞いた事が無かった。
 岡崎はおごるからと言い、一緒に近くのレストランに誘ってくれた。とくにお腹が減っていたわけでは無かったが、何故私の名前を知っており、そして探していたのかを知りたかったので、岡崎の誘うままにレストランについて行った。レストランでの会話は他愛もない物で、私の好奇心を満たす物は無かった。そこで私は直接聞いてみた。何故私の名前を知っているんですか?と。岡崎の動きが一瞬止まった。慎重に言葉を選んでいるようだった。
「僕、ずっとあなたを探してたんです」
 ずっと探していた。岡崎はそれだけ言うと、食後のコーヒーを急いで飲み干してから席を立った。私も岡崎の動きにつられるようにして、一緒に席を立った。
 店を出てから岡崎は一言もしゃべらなかった。私達は無言のまま駅まで一緒に歩いて行った。駅に着いた彼は、じゃあと言っただけで、足早に改札に向かって歩いて行ってしまった。ぽつんとそこに残された私は、とりあえず今晩の寝床を探して、駅近くにあったこのネットカフェを見つけたのだ。
 私はあの日以来家には帰っていない。母は鬱になってしまったし、父は時々しか家には帰ってこなくなった。今はもしかしたら家には全く帰って来ていないのかも知れない。レストランで食事をしている時、もしかしたら岡崎は私の事を心配した父か母が雇った人間かとも思ったが、だったら悠長に食事などしないで、直ぐに私を両親の元に連れて行くだろう。大体においてあの人達が私を心配などするはずは無かった。厄介者の私が居なくなって、良かったとさえ思っているのだから。
 ではそう考えると、彼は一体何者なんだろうか?私はそんな事をぼんやりと考えながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 朝六時に私はネットカフェを出た。とりあえず、昨日復讐をした男達の詳細を手帳に書き込んでいった。最後に抱かれた中年の男で、ちょうど八十人の男と寝た計算になる。この内、何人の男に感染させることが出来たのかは分からないが、できれば全員の男に感染していればいいと思った。
 私がエイズに感染したと分かったのは、ちょうど半年前だった。その日体調が悪く、念の為におこなった血液検査から感染が発覚した。後日私一人だけが別室に通され、そこで医師から伝えられた時、男性経験も無いのにそんなはずはありません。という言葉を言いかけて、はっと口をつぐんだ。男性経験は一度だけあったからだった。
 あの日の事は、今思い出しても吐き気がする。高校三年の熱い夏の事だった。
 私はその日部活で遅くなり、普段は通らない近道を通った。小さな林を抜けると、民家を通って帰るよりも五分ほど早く帰れるからだ。
 林を小走りに走っていた時、突然腕を掴まれた。そしてそのまま林の奥に連れ込まれた。男の顔は暗闇で見えなかったが、浮浪者のようなすえた汗の臭いだけは、今でもはっきりと覚えている。抵抗する私を男は何度も殴り、やがて抵抗するのを諦めた私の制服を乱暴に引きちぎり、身体中をなめまわされた。そして無理やり犯されたのだ。
 医師からエイズだと告知されたショックと、あの日の事を思い出した私は、その場にしゃがみ込み激しくおう吐した。それを見た医師と看護師はまるで養豚場の豚でも見るような目をしながら、しゃがみ込んでいる私の方に雑巾を放り投げた。嘔吐したものを掃除して感染したら嫌だとでも思ったのだろう。私は床を乱暴に拭いた後、雑巾を部屋にあったゴミ箱に投げ捨て、金も払わずに病院を出てそのまま家に帰った。
 家に帰った私は、あった事を全て両親に話した。今思えば、誰かに慰めてもらいたかったのかも知れない。泣きながら告白する私に対して、父は腕を組んだまま何も言わず、そして母はずっと声をあげて泣いていた。その日を境に、父は家に時々しか帰ってこなくなり、母は極度の鬱状態になり、私が話しかけても何も返答をしなくなった。
 私は家に置いてあったお金を財布に詰め込むと、そのまま家を出た。家を出た私は、女性を性的処理の道具としか見ていない男達に復讐しようと心に決めた。エイズを一人でも多くの男に感染させる事が、今の私の生きがいになっていた。
 私は公園の障害者用のトイレに入り、そこで服を着替えた。胸の部分がはだけた服と、しゃがむとパンツの見えそうな短いスカートを履いた。この格好で街を歩くと、何人もの男にナンパされる。そして私はナンパされた男について行き、SEXをするのだ。その行為自体になんの喜びも無い。ただ復讐したいという気持ちだけが私をつき動かしていた。やや濃い目に化粧をした後、トイレを出て繁華街の方へ歩いて行った。
 なめまわすような男達の視線を感じながら、声がかかるのを待っていた。数百メートル程歩いた時、遊び人風の長髪の男が私に声をかけた。ヘラヘラと笑いながら、言葉巧みに私をホテルに連れて行こうとしているのは明らかだった。私はわざと、舌足らずの甘えたような声を出した。男は私のまんざらではない様子をみて、満面の笑みを浮かべた。そしてホテルに行こうというような事を言った。私は軽くうなずき男の後を付いて行った。
「おい、ちょっと待てよ」
 後ろから突然声がした。私が振り向くとそれは昨日の岡崎だった。少し前を歩いていた長髪の男は、うっとおしそうに振り向き、それから岡崎の方に、よたりながら歩いて行き、胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「なんか文句あんの?あんた」
 長髪の男は、顔がくっついてしまうのではないかと思うぐらい自分の顔を岡崎に近づけた。
「その娘、僕の知り合いなんですよ」
「だからなんだってんだよ」
 男は両手で胸ぐらを掴み、上にぐっと押し上げた。
「今、警察が来ますよ」
 岡崎はそう言って、右手に持った携帯電話を上に持ち上げた。携帯からは警察官の物と思われる声が周囲に小さく漏れていた。
「あなたと彼女のやり取りを見て、すぐに警察に電話しましたから、後数分で着くって言っていますよ。どうしますか?暴行の現行犯ですよ。あなた」
 それを聞いた長髪の男は、あわてて胸ぐらをつかんでいた手を離し、なにやら捨て台詞を吐きながら人ごみの中に消えていった。
「マリアちゃん大丈夫?」
 岡崎は、乱れた上着を直しながらそう言った。
「なんで、私の邪魔をするの!?」
 私は持っていたセカンドバックを、地面に叩きつけた。
「だって、マリアちゃんちっとも嬉しそうじゃなかったじゃない」
 岡崎はそう言って、私の顔を覗き込んだ。確かに彼の言うとおり、あんな男に抱かれる事は苦痛以外のなにものでもなかった。
「じゃあさ、お詫びに何かおごるよ」
 岡崎はそう言って、駅の方へ向かって歩いて行った。
「ちょっ、ちょっと待ってよ」
 私は訳も分からないまま、彼の後について行った。駅についた私は、そのまま彼の促すままに電車に乗った。
「今日、仕事じゃないの?」
 吊革につかまりながら、彼にそう言った。
「今日は有給を取ったんだ」
 窓の外を見ながら、彼はそう答えた。何となくそれ以上聞く事が出来なかった。
「着いたよ」
 それはホームから海が見える、郊外の駅だった。
「ここね、落ち込んだりした時によく来るんだ。海を見てると、なんか元気にならない?」
 彼はそう言うと、嬉しそうに海に向かって歩いて行った。途中干物屋さんでイカの干物を買った。外には七輪が置いてあり、購入した人がそこで干物を焼いて食べれるシステムになっていた。パチパチとイカの焼けるいい匂いが漂ってきた。
「おいしそうだろ」
「うん」
 私は素直にそう思った。
「さて、そろそろ焼けたよ。あ、待ってここで食べるんじゃないんだよ。こっちこっち」
 焼いたイカを持ったまま、私達は更に海側に歩いて行った。
「後ね、へへ。マリアちゃんも飲めるんだろ?」
 彼はそう言って、海沿いの自動販売機でビールを二本買った。
「ここが一番の絶景スポットなんだ」
 確かにそこは一面海を見渡せる場所だった。ベンチなどはないが、適当な岩に腰を下ろし、私達はイカをかじりながらビールで乾杯した。
「ぷはぁー。いや、しかし昼間から飲むビールはきくね」
 彼のそう言った後の顔がおかしくて、私はおもわず飲んでいたビールを吹き出しそうになった。
「ねえ、どうして私の事探してたの?」
 私は昨日から考えていた疑問を、思い切ってぶつけてみる事にした。彼は少し逡巡した後、静かに話し始めた。
「実はさ、僕。マリアちゃんの事ずっと前から知ってたんだ」
「え?」
「君が高校に入学した時、僕も新社会人でね。田舎から上京して来たんだ。初出勤で緊張してたんだけど、駅に向かう同じ道を、真新しい制服を着て同じく初登校している女の子がいた」
「もしかして、それが私?」
「うん。そう。僕は毎日会う君に少なからず親近感を抱いていた。そしてなんとなく気になる存在になっていった」
「……」
「だけどさ、いきなり見ず知らずの人間に声をかける事は、田舎者の僕には出来なかったんだ。で、まごまごしているうちに、君と突然会えなくなった。毎朝同じ時間に同じ道を通っているはずの君が、忽然と消えたってわけ」
「……学校辞めたから」
 私はそういうのが精一杯だった。本当は辞めたんじゃない。私はあの夜。見知らぬ男に犯されたあの夜から、学校に行く事が出来なくなったのだ。
「そうだったんだ……最後にマリアちゃんを見たのは、夏頃だったかな……。その日どこにもよらずに真っ直ぐ家に帰ったんだけど、帰り道で君を見かけた。夜に見かける事はめずらしかったから、あの日の事は良く覚えてる。確か君は、いつもの道じゃなく林を通って帰ってた」
 あの夜だ。と思った。
「それが最後だった。それから僕は朝早く起きて、いつも通る道で君の事を待ってた。だけど一度も会えなかったんだ」
 彼はそう言ってから、ビールをぐいっと一気に飲み干した。
「でさ、どうしても諦められなかった僕は、同じ制服を着た高校生に君の事を尋ねたんだ。この近所に住んでいて、最近来なくなった髪の長い女の子の名前を教えて下さいってね。最初は警戒していた子達も、僕が芸能プロダクションのスカウトの者だと言った途端、ころっと態度を変えたよ。あ、スカウトっていうのは、もちろん嘘だけどね」
 彼はそう言って、クスクスと笑った。
「で、私の名前を知ったってわけ?」
 彼は私の問いかけには答えずに、イカを一口かじった。
「僕さ、マリアちゃんの事好きだよ」
 彼は海を見つめながらそう言った。
「ずっと好きだったんだ。で、この前の夜にやっと君を見つけた」
 彼はそう言った後、私の方を向き、とびっきりの笑顔を見せた。

 それから毎日、彼はどこからともなく現れ、私を色々な所に連れて行ってくれた。最初は誘われるままについて行っていただけだったが、次第に彼の事が気になるようになっていた。朝目覚める度に、彼と会える事が嬉しかった。彼と手をつないで歩いていると、ドキドキしたし、彼の事を考えただけで、胸が苦しくなった。
 だけど、そんな甘酸っぱい気持ちとは裏腹に、いつか彼が私を抱こうとする時が来ることが怖かった。大好きな彼に病気をうつすことは出来ない。だが、理由もなくずっと拒み続ける事は不可能だった。いつか彼に話さなければならない時が来る。その事を考えると気持ちが沈んだ。もし自分がエイズだと伝えたら、彼はどんな顔をするのだろう……。いつか病院で経験した、まるで汚い物をみるような目をするのだろうか……。もし彼がそんな目で私を見たら……。そう考えただけで、このまま死んでしまいたい衝動に駆られた。
「おはよう」
 彼は軽く右手を上げた。
「……おはよう」
 私は彼の顔を見る事が出来なかった。
「ん?どうしたの?気分でも悪いの?元気ないな」
 彼はそう言って笑った。
「ううん。元気だよ」
「そうか」
「うん」
 私は無理して作り笑いをした。
「今日はどこに行きたい?」
「どこでもいいよ。健司君がそばにいてくれるだけで」
「そっか。じゃあ歩こうか」
「うん」
 私達は特に目的もなく、そのまま銀杏の並木道を無言のまま歩いた。
「ねぇ」
「ん?」
「もし私が大病を患っていたらどうする?」
 胸が苦しかった。たったの一言を発するのさえ、力を振りしぼらなければならなかった。
「病気?」
「うん、そう」
私は無理して明るくそう答えた。
「別に関係ないよ」
「じゃあその病気が治る見込みのないものだったら?」
胸の苦しみは更に強くなっていた。
「……それでも関係ないな」
「じゃあさ、健司君にもうつっちゃうとしたら?」
「もしそうだったとしても、僕の気持は変わらない」
彼は宙を凝視したまま、力強くそう言った。
「……あのね」
「ん?」
「私……エイズなんだ」
 遂に言ってしまった。きっと健司君は私の事を嫌いになっただろう。そう思ったら、怖くて目を開ける事が出来なかった。
 そのまま目をつぶったままでいたら、ふわりと健司君の匂いがした。そしてぎゅっと私を抱きしめてくれた。そして、優しく唇にキスをしてくれた。
「ごめん。今までだまっていたけど実は知ってた。君の事を探してた時にさ、同級生の女の子が、マリアはエイズになったみたいよって言ってたのを聞いてしまったんだ。その時は単なるうわさ話だと思っていたんだけどね」
 彼は私を抱く手を更に強めた。健司君は私がエイズだって知っていて、それでも私を探していてくれたんだ。そう思ったら、自然と涙が溢れて来た。
「勇気いったろ。告白するの」
「ううん。でも良かった。言えて」
「……なあ、僕と結婚してくれないか」
「え?」
「もうマリアと離れたくないんだ」
 彼はそう言って、もう一度私にキスをした。私は彼の背中に手を回し強く抱きしめた。その数秒後、抱きしめていた手が、ふっとまるで風船を抱いているように軽くなった。あれ?と思って彼の胸から顔を上げると、彼は泣いていた。心なしか彼の顔が透けて見えるようだった。
「……なん……で……いま……なん……だ」
 彼の顔は、いや顔だけじゃなく、手や足も見る見るうちに透明になっていった。
「嫌、なにこれ。健司君。待って、行かないで。私を置いて行かないで」
 私はもう消えそうになっている彼に抱きつこうとしたが、空気を掴んでいるように、まるで感触が無かった。消えそうになっていた健司君の口が開く。もはや声は出ていなかったが、あ・・・・・・い・・・・・・し・・・・・・て・・・・・・る。と言っているのが分かった。
 ふわりと、主人を失った彼の衣服だけがゆっくりと地面に落ちた。私は地面に膝をつき、残った衣服をかき集めそれを抱きしめた。ほんのり健司君の匂いがした。私は人目もはばからずに何時間も声をあげて泣き続けた。

岡崎健司の章

 彼女はいつも同じ時間、同じ場所を通る。僕は彼女の少し後ろを歩き、同じ歩調で駅に向かう。残念ながら乗る電車は違っていたが、それでもホームを挟んで、電車を待っている彼女を見ているのが好きだった。これまで二年以上この状態が続いていた。これまで何度も声をかけようと思ったが、田舎者の僕にはとてもそんな勇気はなかった。
 しかしどうしたことだろう。ここ数週間、彼女の姿を見かけなくなった。気になった僕は、毎朝彼女が通る道にあるベンチに腰掛け、出社ぎりぎりの時間までそこで粘るという毎日が続いた。缶コーヒーをすすりながら道行く人を見ていると、実に様々な制服を着た高校生たちが行きかう。
 最初に彼女を見たのは、初出勤の日だった。着慣れないスーツに袖を通し、緊張しながらこの道を歩いていたのを思い出す。普段スニーカーしか履かない僕にとって、皮靴は歩きずらかったのだろう。小さな溝に足を取られ、転んでしまったのだ。周りの人間は転んだ僕を見てクスクスと笑うだけだったが、一人の女の子は違った。転んだ僕に、大丈夫ですかと声を掛けてくれた。そして、自分のハンカチを取り出しそれをベンチの横にある水道で濡らし、すりむいた手を拭いてくれた。田舎者に冷たい都会のコンクリートジャングルで、初めて触れた人間らしい温かさだった。
 僕はそれ以来、自分でも気が付かないうちに彼女を目で追っていた。最初の一週間位は、この前のお礼を言おうと思っていたのだが、声を掛けるだけの勇気は無く、そうこうしているうちに一ヶ月以上が経過してしまった。さすがにこの頃になると、僕の事は忘れているだろうと思い、益々声を掛けるきっかけを失って行った。それでも僕は、彼女の事がどんどん好きになっていった。例え付き合う事は出来なくても、こうして彼女と一緒の道を歩き、彼女の日常のほんの少しの時間を共有出来れば、僕はそれで幸せだった。
 だが突如として、そのいつもの日常が奪い去られた。我ながらまるでストーカーのような自分の行動に嫌気がさしたが、今の自分にはこうしてベンチで彼女を待つしか方法が無かった。蒸し暑い夏が過ぎ、やがて季節は木枯らしが吹く季節となった。それでも彼女がこの道を通る事は無かった。もしこのまま三月を迎えると、彼女を知る同級生達は卒業を迎え、益々彼女の手がかりをつかむ事は難しくなるだろう。気持が焦り始めた僕は、自分でも信じられないような行動を取った。それは彼女と同じ制服を着た女子高生に声を掛けるというものだった。
「あの……」
 恐る恐る声を掛けると、最初の数人の女の子達は、無視したり、あからさまに汚い物でも見るような目でこちらを一瞥してから、足早に立ち去って行った。自分でもあきらめかけていた時に、偶然彼女と同じクラスだという女子に出会う事が出来た。
「で、おじさん。一体何なの?」
 最近の流行りなのか、目の周りをパンダのように、真っ黒に化粧した女子が、訝しそうにそう言った。
「あ、申し遅れました。私、岡崎プロダクションの取締役の岡崎と言います。平たく言いますと、アイドルのスカウトです」
 僕は咄嗟に嘘をついた。だが、この嘘は彼女にとっては効果的だったようで、しかめっ面が急にぱぁーと笑顔になった。
「おじさん。あ、おにいさん。芸能人のスカウトなんだぁ。ね、マリアなんかよりもさ、私の方が絶対に可愛いって。ね」
 彼女はそう言って、僕にウィンクをした。
「マリアっていうの?彼女」
「うん。菊池マリア。この道を通る三年は私とマリアだけだから、間違いないと思うよ。でもさ……」
「でも?」
「うん。マリアはやめといたほうがいいよ」
「なんで?」
「昨日さ、ウチのガッコの裏サイトにさ、マリアの悪口書かれててさ」
「裏サイト?」
「そう。それでね……彼女エイズなんだってさ」
 ハンマーで、おもいっきり横っ面を殴られたような衝撃を受けた。
「エイズ!まさか!だって単なるうわさだろ」
「かもね。でもそうじゃないかも知れない」
「そ、その裏サイトって誰でも見られるのか?」
「ああ、ウラル教えてあげよっか?」
「ああ、頼む」
 彼女は右手を差し出した。
「幾ら欲しいんだ」
「一万でいいよ」
 僕が万札を差し出すと、お相撲さんが取り組み後に見せる、あのお決まりのポーズを取りながら受け取った。
「はい。これだよ。あたしのメルアドも書いておいたから、マリアを諦めたら、あたしに声掛けてよ。昔からアイドルに憧れてたんだ」
「とにかくありがとう。今夜にでも見てみるよ」
 僕はそう言って、足早に彼女の元から立ち去った。会社に向かう途中、そして会社についてからも、僕はずっと彼女の事を考え続けていた。もし彼女がエイズだというのが本当なら、僕はもうこれ以上深入りしない方がいいのではないかとも考えた。だが無理だった。理屈じゃないんだと思った。彼女がエイズだと知って気持が覚める位なら、所詮その程度の思いだったという事になる。僕は生れて初めて本気で恋をしていた。その思いは彼女の状態が変わったからといって、覚めるものではなかった。仕事が終わるのは、大体夜の六時位だ。その頃になると同僚は次々と退社していく。
「あれ?岡崎さん。残業すか?」
 今年入社した、後輩の飯田が僕に声を掛けた。
「ああ、部長から頼まれた分もあってね」
 僕は嘘をついた。
「そうなんすか。大変すね。じゃあ頑張ってください」
 飯田はそう言って、そそくさと退社していった。周りのデスクに人が居なくなったことを確認してから、今朝女子高生から教えてもらったURLを慎重に打ち込んでいった。エンターキーを押すと、急に真っ黒な画面になった。そこにびっしりと白い文字が打ち込まれていく。開いてから数分しか経っていないというのに、すでに数十件のコメントが打ち込まれていた。
≫でもさー。びっくりしたよねー
≫あーマリア?
 マリアという彼女の名前を見つけた僕は、画面に釘づけになった。
≫そうそう
≫エイズってやつでしょ
≫乙
≫乙
≫www
≫ざまーみろって感じ?
≫ホントホントw
≫お嬢様ぶってたしねー
≫きっとさ、そういう運命ってやつじゃね?
≫だなー
 今朝聞いた情報だとはいえ、あまりのショックの為に震える手で「それは本当の事なんですか?」と打ち込んでみた。
≫ってかあんた誰?
≫あー朝のおじさん!間違え、おにーさんでしょ?
≫おじさん?
≫はい。そうです。その噂は確かな事なのですか?
≫ってかさ、おっさんが入ってくんじゃねーよ。うぜえ。
≫あ、でもね。おじさん芸能人のスカウトなんだよぉ。
≫まじかよ!
≫あ、はい。本当です。以前通学途中の菊池さんをお見かけしまして、それで是非当プロダクションにと思いまして。それで、あの菊池さんが病気というのは確かな情報なのですか?
≫マリアがエイズってのはホントだよ。ウチのババアとマリアのオヤジが不倫してんだよ。で、ババアがマリアのオヤジから聞いた話だから間違いない。
 急に顔から、血の気が無くなっていくのを感じた。彼女は本当にエイズだった。医学の知識の無い僕でも、エイズが不治の病だという事ぐらいは知っていた。ショックの為ぼぅーとしながらも、それでも僕はキーボードを打ち続けていた。
≫それで、彼女は今どこにいるのですか?
≫ハア?おっさんバカじゃねーの?エイズなんだよ。エイズ。
≫もう諦めた方がいいんじゃないかなぁ。
≫あたしもそう思う。
≫ってかさ、そっち方面で売り出すとか?
≫あー。そういう戦略?悲劇のヒロインみてーな?
≫ww
 僕は、もうそれ以上彼女達のやり取りを見続ける事は出来なかった。クラスメイトが病気だというのに、それを話のネタにし、馬鹿にする。今どきの女子高生には人間の血が通ってないのだろうかと思った。
≫あの、私、昨日菊池さんを見ました。
≫誰だこいつ!
≫うぜえ
≫昨日夜九時頃だと思いますが、塾帰りにS市の繁華街で彼女を見ました。
≫本当にありがとう。さっそく行ってみます。
 書きこんでくれた彼女が誰なのかは分からないが、それでも僕は彼女に感謝した。S市なら会社から電車で一本だ。僕は急いでコートを羽織り駅に向かって走った。
 走りながら僕は彼女の事を考え続けていた。今僕を動かしているのは同情なのではないのかと。単に彼女がエイズにかかっているから同情していて、そういう自分に酔っているのではないのかと。もしかしたらそうなのかも知れない。だけど、もしそうだったとしても、彼女を放ってはおけない。駅に向かって走る速度をさらに上げた。
 S市に着いた僕は、まず繁華街をうろついてみたが、彼女らしき人物は居なかった。それから近くの公園や駅周辺も探して見たがやはり見つからなかった。
(もしかしたら、移動したのかも知れない)
 歩き疲れた僕は、人目もはばからず歩道に直接座った。コートを通してアスファルトの冷たさが伝わってくる。この冷たさは直接東京の人達の冷たさだと感じた。しばらくそのままの体勢でいたが、このままここにいてもどうにもならない。僕は意を決して立ち上がった。ふと顔を上げた僕は、車道の向こう側を歩いている女の子に目が止まった。
(彼女だ)
 見間違うはずの無い、何年も見続けた彼女がそこにいた。僕は吸い寄せられるように走り出していた。
 その瞬間。激しい衝撃と共に、急に周囲の音が消え去り無音の世界になった。身体が宙を舞っていた。もう少し手を伸ばせば届くのではないのかと思うほど、星が近くに見えた。

 気が付くと、僕はパイプ椅子に座っていた。周りをゆっくりと見回すと、どこかの会社の一室のようだった。
 部屋に一つだけあるドアが突然開き、スーツを着た男性が中に入って来た。
「えっと、あなたが岡崎健司さん?」
 黒ぶちの眼鏡の位置を、右手で直しながらその男はそう言った。
「はい。そうですが……ここはどこですか?」
「ここは、あの世ですよ」
「え?あの世?」
「ええ、もちろんきちんとした呼び名はありますが、人間界ではそう言うでしょ。岡崎さん、あなた死んだのですよ」
 その男は口では笑っていたが、眼鏡の奥の目は笑っていなかった。
「死んだ……」
「ええ、トラックに撥ねられてね」
 自分が死んだ。その言葉に未だ実感はなかった。  
「でも、あなた運がいい」
「え?」
「実はですね。今年から法改正がありまして、もう一度人生をやり直す事が出来るんですよ」
「人生を……やり直す」
「ええ、何故ならここ数年、こっちの世界では鬱病の患者が増えましてね。で、これがどうやら人間界での無念さといいますか、生前やり残した事があるという後悔から、鬱になってしまうようなんです。で、その原因を取り除く為に、リセット法という法律が出来たんです」
「リセット法」
「はい、読んで字の如し。一度死んだ事をリセットして、その方の後悔している人生まで戻っていただいて、そこからやり直せるのです。で、あなた人生に後悔してますか?」
「後悔って急に言われても……あ、後悔、あります!あります!」
 僕はそう言って、座っていたパイプ椅子から立ち上がった。急に立ち上がった為、パイプ椅子は反動で後方に大きく倒れた。男は僕が急に大声を上げたせいだろうか、眉をしかめた。
「道の向こう側に彼女がいたんです!」
 僕はジェスチャーを加えながら、今までの経緯を説明した。ずっと菊池マリアという女性を好きだったこと。そして急に居なくなった彼女を探しており、やっとあの日見つけた事。
「ふむ。あなたの状況は分かりました。でも残念ながらリセット法を許可するのは私ではありません。私は単なる職員なんです。このあなたの訴えを上に報告してみますね。ではこのまましばらくお待ちください」
 男はそう言って、部屋を後にした。
 
 それからどれ位の時間が経過したのだろう。壁にかかった時計のカチカチという音がやけに耳ざわりだった。
 ドアが開き先程の男が戻って来た。
「許可がおりましたよ」
「という事は……生き返れるってことですか?」
 僕は先ほどから疑問に思っていた点を率直に尋ねて見た。
「残念ながらそうではありません。リセット法が適用されている間、あなたには生前の身体をコピーした、仮の身体が与えられます。そして、後悔していると思われる原因が取り除かれたと上の人間が判断した時点で、仮の身体は消去されます。ここまではいいですか?」
 眼鏡の位置を直しながら、男はそう尋ねた。
「なんとなく……」
「では続けます。リセットされた人生の際、もっとも気をつけて行かなければならないのは、自分自身との接触です。リセットの期間中、その世界には、事実上二つの魂が存在する事になります。これは非常に危険な事なのです。例えば、磁石のS極とS極を近付けるとどうなりますか?」
「S極とS極ですか……えっと反発し合います」
「ええ、その通りです。これが磁石程度の力であるのなら制御できますが、それがもし生きた人間の魂だとどうなるか……そのエネルギーは図り知れません。もしかしたら地球その物が消え去ってしまうかも知れません。勿論今まで誰も試した事はないので、理論上はですが……。ですから、過去の自分に近づく事はけっしてしてはいけません。トラックに引かれそうになっている自分を、とめるために行動したりする事は当然ながらいけません。その点はご理解いただけましたか?」
「あ、はい」
 納得するより他はないのだろう。
「ではあなたを、菊池マリアさんを見かけた時間に戻します。ただ、時間の誤差は多少ありますので、お気を付け下さい。では悔いの無きようによろしくお願い致します」
 男がそう言うと、急に目の前がチカチカし始めた。それはまるで放送が終了したテレビ画面の砂嵐のようだった。

 気が付くと僕は、夜の繁華街の雑踏の中にいた。
(ここは……)
 思い出した。あの夜、彼女を見つけた場所だった。先程の出来事が夢だったのか、それとも現実の出来事なのかは分からないが、とりあえず彼女を探す事が最優先だと思った。
 繁華街を過ぎると、急に人気がまばらになった。
(確かこの道を曲がった所で、彼女を見たはずだ)
 曲がり角を曲がった途端、足がひとりでに止まった。いや、止まらざるをえなかったのかも知れない。なぜなら数メートル先に、道に座り込んでいる自分自身がいたからだ。
(夢じゃなかったのか……)
 その瞬間、愕然とした。今から数分後に僕はトラックにひかれて死ぬのだから。
 僕は自分に見つからないように、そっと逆方向に向かって歩いて行った。数十メートル先まで歩いて行くと、そこに歩道橋があったので、それを利用して道の反対側に移動した。垣根からそっと道の反対側を覗くと、道路にだらしなく座りこんでいる自分が見えた。しばらく見ていると、彼は急に立ち上がり、まるで走って来たトラックに吸い寄せられるように道路に飛び出すのが見えた。
(うっ)
 僕は思わず下を向いた。分かってる未来だとはいえ、自分が引かれる場面を直視する事はさすがに出来なかった。
(そんなことよりも……)
 僕は視線を、生前の自分が見ていた先に移した。
(僕は彼女に会う為にここにいるんだ)
 そう一人ごとをつぶやきながら、驚きのあまり立ち尽くしている菊池マリアの元に走った。

 それからの自分の行動は、あまりの緊張の為か、ぼんやりとしか覚えてはいなかった。とりあえず自己紹介はすんだ。告白は次の機会でも遅くはないだろう。そんな事を考えていたら、いつの間にか駅に着いていた。
「……じゃあ、又」
 僕はそう言って、とりあえず彼女と別れた。
 改札に向かった僕は、キップを買うふりをして柱の陰に隠れた。先程のファミレスでの会話からすると、彼女はしばらく家には帰っていないようだった。ホテルに毎晩泊るのは、金銭面から考えても長期は不可能だ。部屋を借りるにも未成年では門前払いだろう。恐らく彼女はネットカフェ等の仮眠室で、睡眠を取っているのだろう。場所によってはシャワーが設置されているカフェもあると聞いた事がある。僕と別れた彼女は、ふらふらと夜の繁華街に消えた。そっと後をついて行くと、予想したとおり駅近くのネットカフェに入って行った。彼女がカフェに入るのを確認した後、僕はそこからほど近いビジネスホテルで一息ついた。

 朝五時に目が覚めた。急いで身支度を整え、ビジネスホテルを後にした。ネットカフェは時間によって料金が加算されていく仕組みだ。出来たら彼女も出費は最低限にしたいと考えているはずだと思ったからだった。ネットカフェの真向かいにある、さびれた喫茶店でモーニングを頼もうとした時、彼女がビルから出て行くのが見えた。
「あの、すいません。急用が出来たのでキャンセルしてもらえますか?」
 店員は軽く眉をしかめたが、明日又来ますからと言って店員の返事を待たずに店を後にした。彼女は公園のベンチに腰掛け何かをメモしているようだった。そして同じ敷地にあるトイレに入りそこで着替えをすませ、繁華街の方へ歩いて行った。まるで売春婦のような、極端に胸の開いた服と短いスカートの上に、恐らく偽物だとは思うが毛皮のコートを羽織っていた。胸騒ぎがした。彼女がエイズという噂。もし、あの噂が本当だとしたら……。そしてもし自分がエイズに感染したとしたら、どうするのだろうと考えてみた。そして嫌な予感がした。もしかしたら彼女は、自分がエイズになった事で自暴自棄になり、不特定多数の人間に感染させようとしているのでは無いのだろうか。もしそうだとしたら、あのまるで男を誘うような服装もうなずけるものだった。そして嫌な予感は的中した。彼女は長髪のチンピラのような男に声を掛けられ、その男の後をついて行こうとしていた。
「おい、ちょっと待てよ」
 それからの自分の行動は、まるで自分とは思えなかった。こんな勇気が自分にも出せるのだと、長髪の男から彼女を守るために行動している自分を客観的にみているもう一人の自分がいた。
「大丈夫?」
 長髪の男が雑踏に消えてから、僕は彼女にそう尋ねた。
「ねえ!どうして私の邪魔をするの!」
 彼女は怒って、自分のバックを地面に叩きつけた。
「だってさ、マリアちゃん。全然嬉しそうじゃなかったよ」
 僕がそう言うと、彼女は下を向いた。彼女の長い髪が前に垂れ下がり、表情まではうかがえなかった。
「じゃあさ、お詫びになんかおごるよ」
 僕は彼女に先立ち、足早に駅に向かって歩いて行った。
「ちょっと待ってよ」
 彼女はそう言って、後ろから付いて来た。
「あ、そうだ」
「今度は何?」
 彼女は少しいらだった様子で、そう答えた。
「ちょっと来て」
 僕はそう言って、目の前にあった洋服屋に、無理やり彼女を連れていった。
「ちょっと、なにするの!離して!」
 引っ張っていた僕の手を振りほどいて、強い口調で彼女はそう言った。
「その服似合わないよ。お金は僕が出すから好きなの選んできなよ」
 僕がそう言うと、彼女は少し逡巡していたが、しばらくするとポツポツと洋服を手に取って見ていた。
「ねえ、ほんとにいいの?」
「うん、いいよ。もう使い道もないし」
「え?」
「ああ、なんでもないよ。じゃあ、さっそく着替えてきたら」
 僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに頷いてから、ロッカールームに消えた。告白する場所は、ずっと前から決めていた。僕が落ち込むとよく行く海。あの僕だけの秘密の場所を彼女にも見せてあげたいなと思っていた。途中焼いたイカとビールを買った。イカを一口かじると、彼女は嬉しそうに微笑み、おいしいと言った。
「やっと、笑ったな」
 僕がそういうと、彼女は恥ずかしかったのか、眉間に皺をよせて、そっぽを向いた。
「なんで、私の事探してたの?」
 そっぽを向いたまま、彼女はそう言った。
「ずっと前からマリアちゃんの事知ってたんだ」
 驚いた表情で、彼女がこちらを向いた。
「僕ね、マリアちゃんの事好きだよ」
 彼女が僕の事を凝視しているのを横目に感じながら、それ以上何も言わずただ海を眺めていた。しばらくこちらを凝視してた彼女も、それ以上追及する事無く、陽光を浴びてキラキラ光る水面を一緒にずっと眺めていた。

 毎朝目が覚める度に、彼女の事が好きになっていった。彼女の事を考えただけで嬉しくなるし、心がときめいた。毎日彼女と色々な場所へ遊びに出掛けた。そして色々な話をした。子供の頃の話、昔好きだった人の事、自分の全てを知ってもらいたかった。彼女は熱心に話す僕の事を、微笑みながら見つめてくれた。何度目かのデートの時、帰り際にそっとキスをした。彼女は僕にしっかりと抱きつき、急に嗚咽を上げ始めた。
「ごめん。びっくりした?」
「……ううん」
 彼女はそれだけ言うと、僕にぎゅっと抱きついてきた。ふんわりとシャンプーの匂いがした。あれほどあこがれた彼女が今自分の目の前にいる。僕はそれだけで幸せだった。マリアを抱きしめる手を強めた。
「じゃあね」
 マリアは悲しい顔をしていた。別れ際は特に辛かった。彼女がネットカフェに泊まっている事は知っている。自分も同じ場所で寝れば、二十四時間彼女といられる。だけど何故かそれを言い出す事が出来なかった。僕はマリアと別れた後、いつものビジネスホテルに戻った。
 もしマリアに、一緒に一晩を過ごさないかと言ったら、どんな顔をするだろう。ホテルのベットに横になりながら、ふとそんな事を考えてみた。普通の状況なら、応じてくれるかもしれない。だが、もしあの噂が本当だとしたら……。マリアはどんな顔をするのだろうか。彼女の心の痛みを考えていたら、自然と涙がこぼれた。
 次の日、いつものように、彼女に会いに行った。銀杏の並木道を歩いていると、黄色く色づいた葉っぱが僕の顔に優しくふれた。どうしてなんだろう。彼女を想っていると、自然と心が優しくなる。道行く見ず知らずの人でさえも、幸せになって欲しいと心の底から思った。
「おはよ……」
 いつもの公園のベンチに、彼女はいつものように座っている。
「やあ」と僕は軽く手をあげる。「どこに行きたい?」
「健司君と一緒なら、どこでもいい」
「じゃあ、歩こうか」
「うん」
 僕達は、手をつないで銀杏の並木道を歩いた。繋いだ手から彼女の温もりが伝わってくる。いつまでこの幸せは続いて行くのだろうか。この身体は仮の物だとあの時に言われた。という事はいつか彼女と別れなければならない時が来るのだろうか……。その時の事を考えると胸が苦しくなる。僕は深くため息をついた。
「どうしたの?」
 心配そうに彼女が覗き込む。
「ああ、なんでもない。ただ……」
「ただ?」
「幸せだなって」
「……うん。私も」
 それから僕達は、無言のまま並木道を歩いた。ザクザク。ザクザク。黄色い銀杏の葉っぱを踏みしめながら歩いて行く。ザクザク。ザクザク……。いつまでこうして彼女と歩いて行けるのだろう。
「ねえ」
 彼女が突然口を開く。
「ん?」
「私が病気だったらどうする?」
 胸がずきんと痛んだ。もうそれ以上言っちゃ駄目だ。そう言おうとしたのに、声が出なかった。
「あのね……」
 胸の鼓動が高まる。もう普通に息をしているのさえ苦しくなった。
「私、エイズなんだ」
 その瞬間、全ての風景が静止した。あれほどうるさかった、街の音も全て消え去った。彼女は誰にも知られたくない秘密を、この僕に話してくれた。告白するのにどれだけ勇気がいっただろう。彼女の小さな心は、どれだけ傷ついたのだろう。その事を考えたら、胸が張り裂けそうだった。うつむいたまま、その場に立ち尽くしている彼女を僕は強く抱きしめた。
「結婚してくれないか」
 同情なんかじゃない、素直な本気の気持ちだった。
「もう、マリアがいてくれないとダメなんだ」
 彼女は泣いていた。そしてこれ以上ないという位強くしがみついてきた。そんな彼女をとても愛おしく感じた。
「好きだよ」
 そっと彼女にキスをした。
「私も」
 マリアはそういって、さらにキスを求めて来た。僕達は人目もはばからず、強く抱きしめあい、そしてキスをした。

「……お取り込み中の所失礼いたします」
 スーツを着た、男がそこに立っていた。
「どうやら時間のようです。あなたの願いはとげられたんじゃないでしょうか?」
 眼鏡の位置を戻しながら、男はそう言った。
(なんで今なんだ)
 そう言おうと思ったが、上手く言葉を発する事が出来なかった。
「上の決定でしてね。私にはなんとも言えません」
 急に、彼女を抱いていた腕の感覚が無くなっていく。マリアは泣きながらこちらに向かって何かを叫んでいた。彼女の顔が徐々に薄れていく。同時に街のざわめきも、そして風景も……。
(僕は死んだんだ)
 薄れゆく意識の中、僕はそう実感した。

エピローグ

 私は焦っていた。今までこんなに部活が遅くなった事は無かった。駅の時計を見ると、すでに九時を回っていた。
(お父さんとお母さん、怒ってるだろうな)
 父はとても厳格な人だった。私が遅くなった事で、母に怒りをぶつけているかも知れない。とにかく早く帰らなければと思った。
(よし)
 私は普段は通らない、近道を通る事にした。
「そっちは行っちゃだめですよ」
 振り向くと、二十代前半のスーツを着た男性がそこに立っていた。
「あ、いや、僕じゃなくてですね、えっと、菊池マリアさんですよね?あなたのおばあさんという方に頼まれまして、孫が危ない道を通らないように注意してくれって言われたんです」
「おばあさん?家にはおばあさんはいませんけど」
「あれ、おかしいな……確かに頼まれたんですよ。白髪でしたけど、顔はあなたにそっくりでしたし間違いないと思うんだけどな」
 その男性は、辺りをキョロキョロした後、ばつが悪そうに頭をかいた。
「うふふ」
 彼の少年のような仕草に、私は思わず笑ってしまった。彼も私につられて笑いだした。
「でもね、本当に危ないですよ。その道、最近チカンとか出るみたいだし」
「そうなんですか?」
「ええ、あの……良かったら、僕送って行きますよ。帰り道同じだし」
 彼はそう言って、にっこりと笑った。

リセット

リセット

菊池マリアは高校三年の熱い夏の夜、見ず知らずの男にレイプされ、それによってエイズにかかってしまう。自暴自棄になったマリアは、男は全て敵だと考え、自分の人生を台無しにされた復讐をする為に、売春を繰り返し仲間増やしをし始める。そんなある日、岡崎健司という男に出会う。岡崎はずっと前からマリアの事を知っていると言い、好きだと告白される。次第に岡崎に惹かれていくマリアだったが、自分がエイズである事をいつか告げなければならないというジレンマと戦う。遂に自分がエイズである事を告げた時、すうっと岡崎の身体が半透明になり、着ていた服だけを残し、マリアの目の前から忽然と消えてしまう。岡崎は一体何者なのか?そしてマリアはどうなってしまうのか?驚愕のミステリー。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 菊池マリアの章
  2. 岡崎健司の章
  3. エピローグ