寿命・・・・

寿命・・・・

2度の事故

2度の事故

社員食堂が閉鎖になり、同じ会社の製造部門に移籍したの間違いだったのか・・・・
行きつけのスナックで言われていた言葉を改めて認識させられる事に成ろうとは、事故が興るまで気付きもしなかった。
社食で働いていた頃はストレスは有ったものの製造ラインで働く事ほどのストレスでは無かったみたいだ。
私は大学時代は70年安保闘争に巻き込まれ、大学はロックアウトされ結局は"水の世界"にドップリと浸かって行ったのです。
大学の3年になった当時は大学に行きたくても学舎には入る事すら叶わない時代でした。
水の世界は若い男にとっては楽しい事が多くあり、いつしか頭は勉強からアルコールや女性の方に向いていきました。
いま考えたら当然と言われるかもしれませんね。
今になって思うと私の人生は生かされてきたのかもしれません。
その力が何で有るかは未だに判りませんが、大学生活までに既に2回も死にかけたのです。
まだ1歳の頃でしたが大病を患い、当時の金額で10000円のペニシリン注射を打ち続けたそうです。
もう60数年前ですから父の給料が10000円以下だったと聞かされました。
両親は親類や会社に多大な借金をこさえて私の命を救ってくれたのです。
その時に罹っていた医師がとても温かい人だったみたいで、なんとか健康保険でまかなえるような手続きをしてくれたと今でも母は涙ながらに語ってくれます。
もう1度は第2京浜国道でバイクに跳ね飛ばされた時の事でした。
高校3年生の9月ごろでしたが、私は自転車に乗っていました。
もちろん道路の端の方を走っていたのですが、後ろから私を追い抜こうとしたバイクのハンドルが運が悪い事に自転車の荷台に当たったのです。
バイクは横転し運転していた方は後続のトラックに轢かれて即死でした。
トラックは不意の出来事だったのですから逃げなければ良かったと思うのですが、おそらく頭がパニック状態になって逃げてしまったのでしょうね。
当然のごとくトラックは轢き逃げで追浜の方まで追いかけられて捕まったそうです。
その運転手さんの刑はどうだったのか、私には情報は入りませんでした。
私を撥ねたバイクの運転手さんは〇見警察署の交通課の巡査さんだったようです。
非番だったのですが同僚が死んだ所為も有ったのか、私は〇見警察署まで連れて行かれたのです。
その前に一応は救急車で病院に運ばれたのですが、私は全く怪我も何事も無かったのは不思議な事でした。
警察署では同僚が死んだので私の自転車が急によれた為にその方は避けようとしての事故としたかったみたいです。
取調室に連れて行かれ、当時の状況を何度も聞かれました。
しかし跳ね飛ばされた瞬間の私は全く記憶もなく、色々と質問をされても答えようが無かったのです。
でも目撃者が数人いてくれたので私の責任は無いと判ってもらい開放されました。
目撃者の一人ですが私の家に配達をしてくれていた米屋さんの方の目撃談には私も驚かされました。
撥ねられて15mぐらいは飛んだそうですが、道路から外れるでもなく真っ直ぐに一直線に飛びながら空中で1回転して落ちる時はお尻を支えられるようにフンワリと着地したそうです。
その後の事ですが亡くなられた親御さんから随分と手紙が送られてきました。
内容は『私がその場に居なければ、息子は死ななかった!』と言うような内容だったそうです。
私の両親は、その手紙は一切見せてくれませんでした。
それなのに親の意向とは逆に大学を中退したり、家出をしたりと随分といい加減な生活をしました。

中退をするまで

入学してからの私はそれなりに頑張って勉強はしていました。
其処の大学は薬科大でしたが、他の薬科大学と大きな違いが有りました。
他の薬科大学は共学や女子部だけの学校が殆どでしたが珍しく男子部・女子部が別の場所だったのです。
今でこそ八王子の方で共学に成っていますが、当時は女子部は上野で男子部は大久保に有りました。
当然ながら授業風景は殺風景な感じです。
女子と接する機会も殆ど無いのが現実です。
高校まで共学だった私にとっては今まで経験した事の無いような学生生活でした。
唯一部活動だけが男子部・女子部の接点でした。
その所為も有ったのでしょうが(言い訳に成りますが)、私は合唱団に入部しました。
これで少しは楽しい学生生活が過ごせるかと勝手に思っていました。
1年・2年は勉学に励みながら部活動でも、それなりには充実した生活をしていたと思います。
しかし70年安保闘争と言う激しい波が大学にも波及してきたのです。
良いにつけ悪いにつけ当然ですがその波の影響はかなり受けたのです。
学生運動の思想に反対にしろ賛成にしろ私達若者には大きい影響がありました。
特に新大久保という立地もあり、薬科大学と言う薬品に囲まれた環境にも在ったので、他大学の運動家たちから鉄パイプ爆弾を作るような要請も有ったみたいです。
今でも大手の読〇新聞の一面にも取り上げられた大学だったのです。
学校もロックアウトせざるを得なかった時代でした。
学校側の閉鎖だったので授業も開けない時が過ぎて行って大学から遠のいていく自分がいました。

寿命・・・・

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 成人向け
更新日
登録日
2013-02-22

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