人間模様

蝉が五月蝿く鳴いている。

~プロローグ~
蝉が五月蠅く鳴いている。今年一番の猛暑。僕はエアコンで冷え切った部屋の中から、汗を流しながら通りを歩く人々を眺めている。この優越感が堪らなく好きだ。笑いが止まらない。これから何かが起こる。そんな気がする。僕は何気なく後ろを振りかえる。床には赤が広がっている。そして、そこには先程まで美しく微笑んでいた僕の彼女が横たわっている。彼女は無残な姿だが、僕は歓喜に満ちている。目を閉じるとあの惨劇がよみがえってくる。



~夏~
僕は中学生だった。何も予定が無く持て余していた夏の休暇を、叔父の家で過ごそうと僕はバスに飛び乗ったのだ。あの日もこんな猛暑だった。
バスの中にあまり乗客はいない。僕は一番後ろの席に座った。隣の席には小学校一・二年生ぐらいの女の子が一人でちょこんと座っていた。
「君、一人?」
僕は尋ねた。
女の子は答えない。ただぼんやりと窓の外を眺めている。退屈しのぎの唯一の希望であるはなし相手もいないならしかたがない。僕も窓の外を眺めるに徹した。バスは都会の町並みの中を走っている。過ぎてゆく人々はみな気怠そうに汗をたらしながら歩いている。そんな人々を追い越していく冷房で寒過ぎるくらいのバスの中。何故だか僕は優越感に浸っていた。すると突然、女の子がはなし始めた。
「…お母さん…いないの。お父さんはお仕事が忙しいからね、なっちゃんはおばあちゃんのところに行くの。あのね、おばあちゃんのおうちには犬が3匹いてね、かわいんだよ~」
さすがに女の子も退屈してきたのか、先程とは打って変わっておしゃべりになった。ニコニコ笑いながら僕を見ている。
「…なっちゃん…って君の名前?」
僕はなにを話せばいいのかわからず咄嗟にそう尋ねた。
「うん、そうだよ。みんななっちゃんってよぶよ!」
「そうなんだ…。」
「うん!お友達も、お父さんもみんなそうよんでくれるんだよ!最初はおばあちゃんが…………」
途中からは良く覚えていない。気がつくと僕は夢の中にいた。そこには見慣れた男の子がひとりで立っている。僕だ。これは昔の記憶なのだろうか・・・。そうだ。いつもひとりだった。学校ではいつも一人ぼっち。家でもいつも除け者。孤独は好きだった。むしろ孤独になりたかった。だからひとりでいるのも苦ではなかった。しかし同時に孤独を恐れてもいた・・・。思えば僕は兄だけには心を開いていた。兄はいつだって僕を支えてくれて、いつだって信頼できる人だった。けれども5年前のあの交通事故が兄の命を奪っていった。僕は絶望を知った。本当の孤独を知った。本当の孤独を知った僕は、孤独になりたいなどという気持ちを抱くことは二度となくなった。あれから5年も立った。傷は癒えたが、兄の悲惨な最期の姿が目に焼き付いて離れない。こうして寝ているときだって・・・夢の中だって・・・


どのくらい眠っていたのだろうか。はっきりしない意識のまま外を見る。もうすでに外はのどかな景色だ。ふっと横をみると先程の女の子もぐっすり眠っている。もう、あと数時間後には目的地へと着くだろう。僕はまた目を閉じようとしたまさにその時、バスは大きく揺れ始めた。状況を理解する間もなく、数人の悲鳴が耳についた。もう駄目だ。きっとバスは横転する。僕は不思議と冷静だった。全てがゆっくりに見える。ふっと兄のことが過ぎった。一瞬兄の運命を見た気がした。死を覚悟したその瞬間、僕の脳裏に女の子が浮かんだ。考えるよりも先に体は動き、気づくと僕は女の子を抱き締めていた。そして次の瞬間、大きな音と共にまた僕の意識はとぎれた。


僕はまた夢の中にいた。暗い部屋。すすり泣く声がきこえる。すっかり希望をなくした母がそこにいる。母は兄に対していつも全力だった。泣いている母を見て、その心を少しでも僕に向けてくれたらと思うときもあった。ただ、頼って欲しかった。少しでもこの兄を失った悲しみを共有できたら・・・夢の中で伸ばしかけた手は何にも触れることはなかった・・・


僕は何とも言えないような臭いと暑さ、そして激しい頭痛と足の痛みで目が覚めた。周りからは人のうめき声と泣き声が聞こえる。腕の中には女の子が泣きながらうずくまってる。擦り傷がところどころにあるものの、大きな怪我はないようだ。僕はこの奇跡に疑問をもつこともなく、ただおもむろに女の子を腕から離して地面に寝かせ、足の激痛に耐えながらも立ち上がった。しかし何をするわけでもなく、僕はただ呆然として立ちすくんだ。目の前に広がる光景はまるで地獄絵図のようだった。僕の心に広がるのは絶望だった。しかし同時に僕の心にはある不思議な感情が芽生えはじめていた。僕は今、誰よりも自由なのかもしれない。また笑いが込み上げてきた。声にならない笑いで僕の心は満たされた。するといつの間にか立ち上がっていた女の子が怯えながら僕の服の袖を引いた。泣いた目をこすりながら服の袖を一生懸命ひっぱってくる。
「…大丈夫だよ」
抱き上げながらそう言ってやる。彼女はまだ泣いている。彼女の頭を撫でてやりながら、僕は全てを支配したような気になった。うめき声。彼女の泣き声。目の前の光景。かすかに聞こえる蝉の声。全てに魂が揺さぶられた。



~秋・ある男~
鳥のさえずり。このすがすがしい朝。それに似つかわしくない表情の僕。目覚めの悪い夢。あの日から十五年もの歳月が過ぎた。何故今になって再びあの日の夢を見たのだろうか。目をつぶると、再びリアルな夢が瞼の裏に浮かんでくる。蝉の声、あの光景、あの匂い。深呼吸をしてからゆっくり目を開けた僕は、気持ちを落ち着かせようと窓に近寄った。朝の空気に揺れている枯れ葉は、とても美しく心が洗われるようだった。窓を開ける。秋の空気は澄んでいて僕の心を落ち着かせた。

どれくらいたっただろうか。僕が部屋に戻ると、タイミングを見計らったかのように携帯電話がなった。僕は携帯電話を手にとり、機械的に電話に出た。

「・・・はい。」

すると電話の向こうから聞き慣れた元気な女性の声が聞こえた。

「おはよう!起きてた?」
「・・・うん。何で?」
「なんでって・・・今日は何にもない日だからどっかいこうって・・・朝起こしてっていってたから・・・」
「・・・あ。そっか。」
「まっ、また忘れてるかなーとは思ったんだー。」
「ごめん。」
「なんでよー。謝る必要ぜーんぜんないよ!私今近所のカフェに来てるんだ!わかるでしょ?あのカフェ。そこで待ってるね!」
そういって彼女は嬉しそうに笑っている。僕はそんな彼女にいつも救われているのだと感じる。でも、心の片隅に別の思いがうごめいてるのも感じている。僕にはまだ、それがなんなのかは分からない。



~秋・ある女~
電話を切った私は再びため息をついた。しかし珈琲の香ばしい匂いによって、すぐにため息はかき消された。珈琲を口に運びながら外の並木道をガラス越しに眺める。すると、ふっと彼と出会った日のことが頭を過ぎった。

あの日も今日のような秋風の心地よい日だった。散歩をしていた私は、少し休憩をしようとカフェに入った。このテラス席は私のお気に入りだ。外の木々と珈琲の匂い。店内を見渡せば端に座っている男の人と目があった。今までに見たことのない男の人だった。けれども瞬時に懐かしいような気がした。まじまじと見れば知り合いだったような気もする。しかし、相手は何の反応も示さない。普通なら、思い違いだろうと気にとめることもないのだが・・・あれが運命の引き寄せというものだったのだろうか。今思い返すと疑問は数え切れないくらいある。でも、どうであろうと私はそれを受け入れた。これが天使のいたずらか、それとも悪魔のいたずらなのかわからないまま。

「おまたせしました。」
店員の声で我に返った。ここにくると、昨日の出来事のようにあの日のことを思い出す。コーヒーを一口。二口。先程まで心地よかった風が少し肌寒く感じるのは気のせいだろうか。冬の気配がしている。



~冬・ある追う者~
近頃付近で飼い犬の死骸が多く見つかっている。手口や範囲から同一犯であろうと考えられる。しかし、何故こんなにも残酷な事件は後を絶たないのだろうか。呼び出されて駆けつけてみれば死骸と血の海。独特の香り、目の前の状態。まるであの時のようだ。そう・・・あの忘れ難い事故・・・忘れたつもりでいたが何故か最近になって思い出す。夏ならまだしも冬だというのに。何かの暗示だろうか・・・それともここのところ残虐な死骸ばかりみ続けているせいなのだろうか。あのときのことを頭の中から抹消したつもりでいたのだが・・・。やはりあのときの妻と子供の姿を忘れることは罪なのだろうか。救えなかった妻と子供・・・いや、救わなかった。というよりも、あの時の俺には“救う”という言葉すら浮かばなかった。・・・愚かにも自分だけでも助かれればいいと思ったのだ。今もそうだ。俺は生きるということに、とてつもない執着心をもっている。現に、あの事故は俺から全てを失ったかのように見えたが、あの時の行動に何一つ悔いはない。でも何故。何故今頃・・・
「また同じ方法ですね。」
部下の声で我に返った。彼は俺を慕っている数少ない、いや、唯一の部下だ。彼は俺の横まで来ると話を続けた。
「目撃者はなし。だけど絶対に近くに潜んでいるはずです。」本当に、彼の冷静さには救われることが多い。しかしこうして彼の言葉を理解している間にも、頭の片隅では事故の悲鳴が鳴り響いているのだ。



~冬・ある男~
終わらない。ずっと続く。この日に日に増す恐ろしい感情は、もう自分の手には負えなくなってきている。血を見る度に僕の中の黒い渦はどんどん大きくなる。僕はこの感情が何かを知っている。でも満たされない。満たすには何かが足りない。そして僕はその¨何か゛を知っている。その¨何か¨を手に入れるには方法は一つ。しかし早くしないと・・・。既に警察も気づいているかもしれない。もしかしたら、この連続的な事件に終止符を打つために、至るところで僕を待ち構えているかもしれない。それは明日か・・・明後日か・・・それとも明明後日だろうか・・・。でもそれじゃ駄目なんだ。満たされない。もう少しだけ待ってほしい。もう少しだけ。あと少しで自分の奥底にある黒く渦巻く感情の正体を知ることができるから。せめて・・・夏まで待ってほしい。夏になれば全てが終わる。夏になったら、解放される。僕は知っている。あの事実をすでに知っているんだ。



~春・ある見つめる者~
近頃先輩の様子がなんだかおかしい。あの事件のせいだろうか。でも、ああいった事件が初めてというわけでもないのに…。慕っているからこそ気にかかってしまう。しかし、尊敬しているからこそ見守るべきなのだろうか。そんな憂鬱な思考を巡らせながら、太陽が照らすこの通いなれた大学病院へと続く道をただひたすらに歩いた。

病院の扉が開いた。この独特の香りを嗅ぐのは何度目だろうか。このにおいを嗅ぐと、焦燥感と安心感が入り交じる。それはまるで生と死。この場所は神聖なのだと感じさせられる。この場所で妹は何年も戦っている。自分から命を絶つ人。命を奪われる人、そして奪う人。生や死のことなど考えずに生きている人・・・生きたいと願い戦っている人もいるのだと知ってほしい。

見慣れた病室の入り口でゆっくりと一呼吸入れる。扉を開けて中に入ると、そこには天使の微笑みがある。いつものように微笑みを返してから持ってきたものを棚の中へとしまっていく。

「もうすぐ向日葵の季節だね。」
凛とした声が病室に響いた。俺は何気なく窓の外へと目線を移した。窓に反射した太陽の光は、まるで輝く向日葵のようだった。



~夏・ある女~
またこの季節がやってきた。うだるような暑さに蝉の声…消えない事故の記憶。あれから何年過ぎただろう。必死に思い出さないようにしてきた。でも、一つだけ忘れたくない記憶がある。不安を消し去ってくれたあの人。私は今もあの人の影を追っている。でも、何故だか思い出そうとすると、まるで記憶に霧がかかったようになる。思い出せない。どんな人だっただろうか……。あの人は今どこにいて、何をしているだろうか…。
そんなことを考えてしまう私は非常識なのだろうか。でも夏になると必然的に思い出してしまう。あの事故のこと、そしてあの人との出会いを。

そんなことを考えているうちに彼のアパートに着いた。彼の部屋がある三階までの階段をゆっくりと上る。しかし二階まで登ったところで妙な胸騒ぎがした。それは、久しぶりの連絡で突然「会おう」と言われたからだろうか。それとも、夏という季節がそうさせているのだろうか。

再び足を進め、一段一段階段を踏みしめながら三階まできた。大きく深呼吸をしながら彼の家のドアに近づいた。しかしあまりにも静かで人の気配はない。ゆっくりと呼び鈴をならす。今までに、この呼び鈴の音をこんなにも長く感じたことがあっただろうか。
私の言い知れない不安に拍車をかけるように扉はゆっくりと開いた。恐る恐る中を覗くと、彼はいつもの様子で立っていた。
「どうした?」彼の一言で先ほどまでの不安は不思議と消えていった。
「何でもない。ちょっとぼーっとしてた。」私は笑顔でそう言った。

彼の部屋は相変わらず殺風景だった。
「何か飲む?」
「うん。コーヒー!」
「アイスコーヒー?」
「うん!」私は大きく頷くと、窓の外に目を向けた。外には緑が揺れている。耳を澄ますと蝉の声が聞こえてくる。ゆっくりと目を閉じて蝉の羽音をきく。すると、記憶に留めるには不十分なくらいの瞬間ではあったが、誰かの顔が頭をよぎった。それはおそらく…

「ねぇ、お砂糖と牛乳いる?」彼の突然の問いかけに考えは切り替わった。
「あ、えーっと…いらない!ありがと。」

そう答えると、再び窓の外に視線を戻した。大きく深呼吸をすると、コーヒーの匂いが香ってきた。そして、ふっと初めて会ったときのことを思い出した。
「ねぇ、初めて会ったときのこと覚えてる?」
「うん。…だって、まだそんなにたってないでしょ。」彼は笑いまじりにそう答えた。
「…確かに。」私は、そんな質問を突然した自分自身が可笑しくて、自嘲ぎみに笑った。
「どうした?なんかあった?」グラスを手にした彼が心配そうに訊ねた。
「ううん。何でもない。…夏…だからかも。夏は苦手なんだ。」グラスを受け取りながらぎこちなく答えた。

お互いに何も語らず、それぞれのグラスをただ見つめている。それからしばらくして、彼は深くため息をついた。
「どうしたの?」私は無理な笑顔でそうたずねた。しかし彼のまとう雰囲気は空気の流れをせき止めるようだ。そして徐に立ち上がってベランダの窓の前で歩いていった。
「…事故…」
彼の第一声で遂に空気がとまった。私は再び言い知れない不安が蘇ってくるのを感じた。
「バスの事故…この間、久しぶりにあのニュースみた。知ってる?昔のニュース…何でいまさら…別に珍しいニュースってわけでもなかったしさ…」

やめて…

「…むしろ…この辺りで起こってる動物虐殺のほうがよほど気にかからない?」

なんだか息が詰まりそうになる。この感覚は何だろう。この彼は本当に私の知る彼なのだろうか。

ガシャン

無意識に震えた私の手からグラスが落ちる。しかし彼は動じることなく淡々と話す。

「…僕思うんだけどさ…。あの動物を殺してる犯人はさ…何かを探してるんじゃないかなって。いや、誰かを探してるんじゃないのかなって。んで、その誰かが自分の欲望を満たしてくれるって信じてる。」
「…突然、どうしたの?何のこと言って…」
「血のにおいはさ、思い出させる。赤い血はさ、黒い渦の回転を加速させる。でも…違う。あの時とは違う。」
「ね…ねぇ」
「何が違うか分かる?」
「ねぇ、どうしたの!?何のことか分からな…」
「僕は分かってる。はじめから。君はあの日にバスに乗ってた…」

やめて…

「君は助けてもらったでしょ。」

彼がゆっくりと振り返った瞬間に私の心は崩れ去った。蘇る記憶。あの時の安心感。彼と出会ったときの不自然な程の安心感。私はようやく全てを悟った。彼は私が探してたあの時の人であること。彼が動物虐殺事件の犯人であること。それから…もう遅いということ…


僕は一体何がしたかったのだろうか。自分でもわからない。
ただ、僕はこの世から消え去るのだろう。でも僕は満足。
これでいいんだ。自らそう仕向けた。


遠くでサイレンの音がする。音が近づくたび、心が消えてゆく。


~夏・ある追う者の変化~
忘れたはずだというのに。何故今になってこんなにも鮮明に記憶が蘇ってくるのだろうか。この電灯に照らされた薄暗い道を、複雑な思考を巡らせながら家路を急いだ。


家は静まり返っている。俺は上着も脱がず、真っ暗な中、ソファへと深く腰かけた。そして無意識にタバコを取り出し口にくわえた。しかし吸うことはしなかった。

頭の中で再びよみがえる。横たわる妻。細々と息をしている幼い我が子。

あの過去から完全に自分を切り離したつもりだった。しかし自分はまだ過去に縛られている。以前の自分に戻るのは時間の問題だろう。このように心乱されはじめたのは、先日の事件のせいに違いない。ずっと足取りを追っていた連続動物虐殺事件は最悪の形で区切りがついた。被害者と加害者はどちらもあのバス事故に関係があるようだ。でも、事件の真相が明らかになる前からこの心の乱れは始まった。もしかしたらずっと何かの前触れを伝えているのだろうか。いや、くだらないことを考えるのは止めておこう。連日のニュースであのバス事故が振り返られているのを見て、心乱すのは当たり前だ。今はただひたすら目をつぶってやり過ごそう。


~秋・ある少女の憂鬱~
私に向けられた銃口が、私には天使の目に見えた。

私はこのコンビニで2年近くアルバイトしている。平穏な毎日。少し前までは学校へ行きバイトに来る。なんてことない毎日を過ごしていた。そんな毎日に嫌気がさしたのはいつからだろうか・・・。半年前に学校をやめた。くだらないから。でもバイトだけは続けている。私は弱いから。今日もいつものようにバイトに来た。でもそれも今日で終わる。なぜなら目の前にいる男が私に銃口を向けているから。
「か、金を渡せ。早くしろ!」
目の前で喚いている。早く。早く。その銃で私を撃って。私はゆっくり目を閉じる。
「お、おい!」
目を開けると体格の良い男が強盗にとびかかる瞬間だった。
ああ。また死ねないんだ。

それからはあっという間だった。強盗は気絶して体格の良い男が警察を呼ぶ。警察は手際よく強盗を連れて行く。まるでテレビドラマのようだった。
今までどこかに隠れていた店長は要領良く警察に対応している。人なんて所詮そんなもんだ。自分さえよければそれでいいんだ。



~秋・ある追う者の決断~
俺は再び昔の俺に戻っていた。あの時雄映像が頭にフラッシュバックしている。もう逃げられない。頭の中を巡る黒い渦。これを何か知る術はない。どうしたら逃げられるのか・・・

俺の目にふっと留まったコード。これなら・・・

揺れるリング。冷たさは心にまで沁みた。そして徐々にあの日の記憶は黒い渦に包まれていった。そして体の重みと共に俺の体も黒い渦に落ちて行った。俺は、自分を自らあの日に閉じ込めてしまったのだった。



~秋・ある見つめる者の憂鬱~
先輩が自ら命を絶った。命と正義を守るために働いていたような人だったのに。

「また先輩のこと考えてるの?」
妹は心配そうに俺のことを見つめている。俺は今、一体どんな顔をしているのだろう。
「人の闇って見えないよね。何気なく日々を過ごして・・・みんなそれぞれ生きてるよね。でも、それって悲しいって思うことない?私はあるよ。人はどう足掻いても孤独なんだって・・・。でも、この世界は人との繋がりでできてるって思うの。だから、同時に私たちは孤独でいるってこともできないんだよね。人って本当に厄介だね。でも私は人が好き。」
「・・・なんだそれ。」
自分でも驚くぐらい間抜けな声。妹はクスクス笑っている。
「気がまぎれた?ずーっと悩んでるのって体にも心にもよくないよ。確かに先輩のことは辛いことだよ。でも、人の心の闇はとっても深いから・・・だから分からないことってあるよ。でも、それは誰のせいでもない。花と一緒だね。」
「花??」
「うん。花はどこにでも咲くでしょ?恵まれた環境に咲く花もあれば、劣悪な環境に咲く花もある。大抵、花は自然に枯れていくものだけど、踏みつぶされたり、摘まれたりする花だってある。摘まれた花の中には、置き去りにされて再び息を吹き返す花も、花瓶という囲いの中に生けられて一瞬の輝きを放ってから枯れていく場合もある。」
「・・・つまり?」
「色々あるということなのです!」
そういって妹はクスクス笑っている。
僕はいつも、おどけながらも適切な言葉をくれる彼女を尊敬している。
僕も立ち止まっていられない。
真っ直ぐ前を向いて、進んで行こう。


~ある見つめる者の遭遇~
病室を出るころにはずっと心に引っかかっている塊が取れたような気分だった。一歩一歩を踏む出す足も、少し軽くなった気さえした。いつもの景色も心なしか明るく映る。いつもの信号、いつもの夜の並木道、いつもの歩道橋・・・見たことのある少女。どこかでみたことがある。しかしどこで見かけたのだろうか・・・。


そうだ。あのコンビニの強盗事件の時に働いていた少女だ。あの強盗事件のあったコンビニは家の近くにあるので時々買い物に行く。・・・しかしあの事件以来彼女を見かけていない。前から彼女をみると何か心に引っかかるものがある。そんなことを頭に巡らせながら徐々に彼女へと向かっていく。すると予想もしない行動を彼女はとり始めた。歩道橋の手すりにのぼろうとし始めたのだ。
「な、何してるんだ!」
俺は彼女を引っ張った。彼女は激しく抵抗したが、少しすると今度はしゃがみ込んで大人しくなった。
「・・・大丈夫ですか?」
落ち着きを取り戻そうと平静を装った声で訊ねた。顔を覗き込むと彼女は泣いていた。



俺は彼女を家まで送り届けることにした。意外にも彼女は抵抗することもなく歩き出した。

「・・・敢えて何も聞かないよ。でも、もうあんなことはしないって約束してほしい。」
相変わらず正義ぶっているような、自分でも腹が立つ台詞を並べていた。彼女は何も答えない。この沈黙がもっと俺を苦しめる。

しばらく歩いていると突然彼女から消え入るような声が聞こえた。
「・・・約束はしない。でも、結果的に約束を守ることにはなるかも。私いつも死ねないんだ。何かに邪魔される。」
「・・・詳しいことはわからないけど、邪魔されて死ねないってことは、きっと生きろって・・・救われてるんじゃないかな・・・。」
「・・・だとしたら迷惑だね。運命は残酷だよ。」
「・・・なんでそんなに死にたいの?そう思わせたのは何?」
「・・・なんにも。ただ毎日が続くから。私たちってさ、誰一人として変わってないんだよね。私たちはただ、変化させられてゆく物たちを見てるだけなんだよ。別に何をするわけでもなくてさ。何の意味があってここにいるんだろうって。そんな疑問が浮かんでは消えて…って繰り返されてさ…。今じゃもう無力になって、そんな疑問をただ黙認してさ・・・。でもふっとした時にむなしさがこみ上げるんだよね。私はきっと、絶望と一緒にこの町に埋もれていくんだって・・・。」
「・・・そんなこと考えてるんだ。俺なんかさ、なんか考え事をしてると、大抵最後にはもっと時間がほしいって考えに行き着くだけだよ。」
「・・・何それ。」
ぶっきらぼうに答えながらも彼女の顔は穏やかだった。
「もうここでいいよ。家、あれだから。」
「あ、ああ。・・・あのさ・・・」
「約束するよ。・・・じゃあ。」
「あの…駅前の病院に、俺の妹で…高倉夏美って子が入院してるんだ・・・」
「・・・だから何?…じゃあね。」
「あ・・・。」
そのあとの言葉は小さく消えていった。ただ彼女の後姿だけが闇に消えて行った。自分でも、なぜ妹のことを言ったのかはわからない。でも、見ていられなかった。生きたいと願う妹と死にたいと願う彼女。何だか見ていられなかったんだ。



~冬・ある少女の好奇心~
イライラする。あの男と歩道橋で会った日から、ある一つの興味が私の心を捉えていた。駅前の病院の高倉夏美。どうせ何も変わることはない。そう思ってはいたけれど・・・。今、目の前にじゃ高倉夏美という名札が見えている。扉を開けようか・・・。しかしどんな顔をしていればよいのだろう。しかしそんな小さな悩みより好奇心のほうが大きい。私はゆっくり扉を開けて恐る恐る中に入った。
「こんにちは。」
明るい微笑みの女の子がそこにはいた。
「・・・。」
「兄からお話し聞いていました。・・・歩道橋の女の子ですよね?違ってたらごめんなさい・・・。」
「・・・迷惑な奴の妹がどんな子か気になって来ただけだから。もう会えたから帰る。」
「私は夏美。名前は?」
「…もう会うこともないだろうし教えても意味ないと思うけど…。」
少しの間があった後、夏美はクスクス笑い出した。
「ひねくれ者なんだね。」
と彼女は言った。私はおそらくふてくされたような顔だろう。彼女はそんな私を見てこう続けた。
「人との繋がりは縁があると思うの。何かの意味があると思う。それに私怒ってるんだ。死のうとしたんでしょ?」
「・・・悪い?」
「うん。悪い。」
「・・・あんたにはわからない。二度と分からないと思うよ。」
「うん。そうだと思う。」
「なんか、あんた見てるとイライラする。何が言いたいの?」
「・・・私は・・・生きたいってずっと思ってる。そういう人もいるんだって知ってほしいだけ。」
彼女の眼は真っ直ぐだった。その目で私を見て、彼女は微笑んだ。彼女の微笑みはまるで天使のようだった。
「・・・春菜。私の名前は春菜。」
「そっか。春菜ちゃんか。」
彼女はまた笑っていた。



~冬・ある少女の変化~
あれから時間があれば夏美のところへ行った。今日も彼女の元へと向かう。しかし今日の彼女はいつもと少し雰囲気が違っていた。何も聞かずに近くのイスへ座る。少しすると彼女は話し始めた。
「人はさ、歴史とか環境について話をするとき、同じ人間のしたことだからって過ちを理解しようとするでしょ?でも、じゃあなんで日常の中で起きる些細な意見の食い違いとか、小さなミスに関しては同じように理解しようとはできないんだろうね。」
私は黙っていた。すると痺れを切らしたように彼女が訊ねた。
「どう思う?」
「・・・どう思うって・・・。」
「ごめん。こういう話つまらないよね。」
彼女はそう言っていつものように微笑んだ。
「いや・・・そうじゃなくて。ただ、夏美もそういうこと考えるんだなって思って。でも夏美はそんな人の世の中で生きたいって思ってるんだなって・・・。」
「うん。確かにこの世の中にうんざりするときもあるよ。でも、私はだれよりもこの世の中に居座りたいって思ってる。それとこれとは別問題です!」
彼女はおどけた口調でそう言った。しかし少しするとまた真面目な口調でこう訊ねた。
「春菜はさ・・・まだ死にたいって思ってる?」
「う~ん。・・・そういえばどうやったら死ねるかってもう考えなくなった・・・。」
夏美は安堵の表情を浮かべた。そんな夏美を見ていたら自然と言葉が出てきた。
「まっ、口ばっかりで実際は怖くてさ・・・勇気がなくて自殺なんて実行できたこともなかったんだけどね。…私さ、誰とも関わらずに自分をさらけ出すこともしないで、淡々と日々が過ぎればいいってずっと思ってたんだ。本当に自分を理解できるのは自分だけだって思って・・・。だから、自分のことを誰よりも好きで、誰よりも理解して・・・。だけど、それと同時に自分のことが大大大嫌いで、憎んでもいて・・・。わがままだし矛盾してるよね。正直自分でも辛くって・・・。でも、夏美と会って分かったの。多分私は、自分のことを分かって欲しいって思いもどこかにあるんだって。誰かと喧嘩したり褒め合ったり、そんな中で自分の存在を確かめあって・・・。本当はそんなのに憧れてたんだって。・・・こんなこと言うのって恥ずかしいけど・・・私、夏美に救われてるよ。」


~春・ある少女~
もうすぐ夏美は退院する。この日常もまた大きく変わっていくのだろうか。以前の私は何をしても楽しくなくて、何かをしようとしてもやる気がでなかった。今はこの日常を少しばかりは楽しめるようになった。それでも性格というものはすぐに変わるわけではない。以前も今も、ずっと迷いはある。ずっと悩んでいる。でも、とにかく今は必死に生きてみたい。というのも、私は今までにない程に生きる歓びを感じてるから。物語には大抵終りというものがある。時には終わりの見えない物語もあるけど、そんな時は大抵、私たちは終わりを作りだそうと足掻く。でも、何もしていなくても最後には遂に終わりを見つけてしまうものなんだ。そぅ、何事にも終わりは突然やってくる。でも、今の私は当分終わりのことなんて考えなくていいんだ。



家へと向かう帰り道、いつもとは違って見える交差点。家に帰ったら何をしようか。久々にマニキュアでも塗って見ようか。ふっと違和感を感じて横を向く。大きな光が向かって来る。悪魔の目が私に向かってくる。



~エピローグ~
あれから何年過ぎただろうか。
私はあの日と向き合っている。私が生きようと最も強く誓った日。一人の友が消えた日。あの日、私の心は衝撃という名の大きな石の塊に占領された。そう、丁度私の目の前にあるこの石のような塊。
春菜が事故で亡くなってから、私はここに来る勇気がなかった。彼女と過ごした時間は長くはなかったけど、彼女はずっと私の心の中で生き続けている。

「春菜ちゃん。私すっかり元気になったよ。・・・あれからね、私も退院して、学校にも通って友達もできて・・・そうそう、お兄ちゃんも結婚したんだよ。今度赤ちゃんも生まれるって、みんなで楽しみなの。・・・ここに来るの、こんなに遅くなっちゃってごめんね・・・。私、春菜と最後に病室でした会話覚えてるよ。・・・春菜ちゃん言ってくれたよね。私に救われてるって。でも、本当は私の方が救われてたよ。春菜ちゃんと話してた時、私、存在してるんだって心の底から感じてた。・・・ありがとう。本当に。・・・ちょっと時間経っちゃったけど・・・。これからは、ちゃんとここにも来るね。春菜ちゃんは存在したんだって、強く感じたいから・・・。来るなって言われても来るからねー。」

一人でおどけてみたら、自然と涙が出てきた。その涙は頬を伝って地面に落ちた。不思議と心が洗われていく気がした。

「さてと。・・・また来るね。」

最高の笑顔で言えた。
お墓の横にある黄色いお花がかすかに揺れた。何故だか春菜ちゃんが笑ってくれた気がした。

人間模様

人間模様

一つの事件から交差する人間模様。 そこから派生する人と人との出会い。 異なる考えを持った人々が小さなきっかけで出会い、影響を与え合う。 世界は全て繋がっているのだ。 生と死で満ち溢れているこの世は、醜くも美しい。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-02-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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