受難か、幸運か?

受難か、幸運か?

啓太はいままで淡々と生きてきた。特に盛り上がったこともなければ、喪失感を味わったこともない。面倒なことは避けてきたから友人も恋人もいない。それでも別にそれで構わないと思っていた。大学の卒業式の前日までは・・・。

平凡な男を襲った災難とは?

田中啓太は平凡な男だった。
浪人もせず地元の公立大学に合格した啓太は、サークル活動もせずに相応の成績を収め、割に大手の地元企業から内定を貰ったのだから総じて順調だったと言えるだろう。しかし至って普通だったがために目立つこともなく、嫌われない代わりに好かれもしなかった。幼い頃から理解能力が高く、物分かりがいい啓太は教師にとっても無難な生徒だった。荒れやすい思春期の時期さえ、異性にも酒タバコにも興味なぞなく、ただ真面目なだけだったから放置される存在だった。
およそ教師というものは一クラスを何事もなく納める手段として、問題を起こしそうな生徒は必ずマークする。それからウルサ型の親を持つ生徒やスポーツができる生徒などには目をかけるのだが、それ以外は名前を覚えていればいい方なのだ。啓太はどちらかと言えば面倒をかけない分、誰の記憶にも残らないような生徒だった。
そう言えば大学時代のクラスに一人、デブで汗っかきの石川という同級生がいたのだが、彼はキモオタだという噂でみんなに嫌われていた代わりに名前だけは広く知られていた。残念ながら啓太の方はと言えば、目立たないがゆえに顔さえも覚えてもらっていないかもしれない。
実際、学祭へも一度も行かなかった。コンパとやらも一度くらいは行ってみたいと思っていたのだが、誘ってくれる友人もいなかった。尤も好きで、やらなくていい事はことごとく避けて通ってきたのだから、それを寂しいなどと思うのは馬鹿げている。けれど何かを忘れてきたような、そんな焦燥感に似た感情が襲うのはどうしてだろうか。安寧と過ごすうちに、いつの間にか4年間の学生生活は過ぎてしまっていた。
趣味らしきものと言えば写真だけだった。
バイト代でライカを買ったのは、かなり思い切った散財だったが後悔はしていなかった。モノクロ写真は別世界を写してくれる。二色の濃淡しかない景色風景は啓太の夢の世界だった。自分でも満足できる写真が増えるにつれて誰かに見て欲しいと思うのは当然だ。だから撮ったものをパソコンに取り入れてブログで公開したりもしていた。ネット世界には奇特な人間もいて、アドバイスをくれたり褒めたりしてくれる事もある。でも、それさえハンドル・ネームで、実際にはどこの誰かなんて知らない。啓太が持つことができた付き合いと呼べるものはその程度だった。
結局のところ啓太が気兼ねなく話ができるのは家族だけーと言うか、猫だけだった。父は無口過ぎて会話が成り立たない。母は一方的に向こうが喋るばかりで人の話なんか聞いていない。
反応の無さで勝負するなら父がダントツだ。
その点ブチはそれなりにゴロゴロ言ったりすりすりしてくれたり舐めたりして反応してくれる。黙って話を聞いて小言も言わない。
母は啓太が学生時代にガールフレンドの一人も作らなかったことに至極お冠だった。どういうつもりなのか知らないが、バレンタインディが近づくと毎年一人で盛り上がり、当日はしつこく成果を聞いてくる。挙句、勝手に落胆するのだから堪らない。
自分だって父の為にチョコを買ったことなどないくせにお笑い草だと啓太は思う。自分たちが息子の夢も希望も消したなんて思ってないに違いない。
ホントのところ、女子なんて面倒だ。女体に興味がない訳ではないが、その経緯が面倒臭い。金がかかるし気も使う。そんなことで疲れるよりも家で猫とぼーっとしていた方がいい。
卒業式前日、啓太はそんなことを考えながら布団に入った。眠りに落ちる直前に足の間が急に重くなってブチが乗ったのがわかった。暖かい柔らかな身体を布団に引き込もうかとも思ったが動きたくなかった。蹴飛ばすのも面倒で啓太はそのまま眠り込んだ。
そんな風にあの卒業式の朝が来たのだった。
目覚まし時計が鳴っている。手を伸ばしたがあるはずの場所にそれはみつからなかった。寝がえりをしようとして啓太は何かが違うことに気付いた。
薄目を開けてみて嘘だろーっと思った。
眼下のベッドに自分が寝ている。そいつは布団から手を出して目覚ましを止めていた。しかしそれを見ている啓太は天井に背をぴたりと貼りつけたまま浮いているのだった。
俺は死んだのか?
だけど、目の前の俺は動いているじゃないか。
じゃぁ、これは幽体離脱?
いやいや、魂が抜けて身体が動くはずはないだろう。
それならば、こいつは誰だ?
ケイタは起き上がり頭を掻きながら立ち上がった。
台所から母の声がする。「けいたー、早く食べないと間に合わなくなるわよー!」そしてケイタが「ふわぁーい。」と返事をした。
啓太は無様な格好で変な平泳ぎをして自分に近付いた。自分自身に戻りたい。俺の中に入れば戻れるはずなんだ。しかし、啓太は変な平泳ぎのまま身体の向こう側へ通り抜けてしまっていた。
なぜだ!なぜ戻れないんだ!
ケイタはいつもと変わらぬ様子でパジャマのまま台所へ行き、啓太の椅子に座って母の作った朝ごはんを食べ始める。
それは俺のご飯だ!
でも啓太の手には何も掴めない。啓太がじたばたしている間にケイタは納豆ご飯を味噌汁で流し込みつつがつがつと食べている。
俺の茶碗、俺の箸、俺の卵焼き!
啓太は母の焼く卵焼きが好きだった。出汁が利いた少し甘い卵焼き。大好物のその卵焼きを偽物の俺が平らげるのを啓太は見ているしかない。
どんなに腹立たしくても蹴ろうが殴ろうが啓太の手足はその身体をすり抜ける。食器棚に体当たりをかましたら押入れに突っ込んでしまった。
なんだよ、これは。夢なら早く覚めてくれ!
畳んだ布団類の中にどっぷりとめり込んでもがくうちに、啓太は襖の外に転がり出た。
あいつはどこに行った?
啓太が右往左往しているうちに、ケイタは自室に戻って着替えを始めていた。
それは俺のスーツだぁー!
啓太のスーツは母が勝手に買い揃えてきたものだ。
最近の紳士服屋は至れり尽くせりである。入学式の前、啓太は母に伴われてスーツを買いに行った。その時に首周りから腕の長さまでこまごまと採寸を取られたのだが、その記録は保存されていたらしい。今回母から卒業式用のスーツを買いに行くと言われて啓太は勘弁してくれと思った。
だって、この年になって母親と買い物なんて恥ずかしいだろう?
自分で買いに行くのも面倒だから入学式で着たスーツを再度着ると言っておいたのに、母は前回の採寸のデータで新しいスーツを買ってきたのだった。それも完璧に母の趣味で。
むかついたから絶対着ないと言っていたソレをそいつが着ようとしている。
着るつもりはなかったが、それでもソレは俺のだ!オマエが着ることは許さん!
なんて事を口をパクパクさせて喚くが誰の耳にも届かない。
ケイタは薄い藤色のストライプのシャツに黒いズボンを履いて洗面所に向かい、父所有の髭そりで顔をあたっている。それからいつもならやらない事をやった。母が買ってきて、誰も使わないまま放置されていたヘアクリームを使って髪をオールバックにしたのだ。
啓太は自分を見て驚いた。すげえイケメンだ。
元々顔立ちは悪くはない。しかし、その性格ゆえに手入れするとか、着飾るとかには全く無縁だった。ケイタは引き出しから母の毛抜きを取り出して、眉を整えている。
俺って、こんなにいい男だったか?
鏡に映る顔はいつもとはまったく別人だった。
日頃学校に行く時は、ひどい寝癖だけは水で押さえるが梳かしたことさえない。多少あちこち跳ねていようが気にしたこともなかった。
こいつは一体何者だ?俺じゃないことだけは確かだ。
部屋に戻ってネクタイを締め、上着を羽織ると男ぶりはさらに上がった。
「きゃーあ!けいちゃん、今日はすごくかっこいいじゃなぁい!」
母はケイタを見て狂喜乱舞だ。忌々しいったらない。
「やっぱりその紫のネクタイ、正解だったねー!すごく似合ってるよぉ!」と少女のような喜びようだ。かいがいしくポケットチーフを畳んで見栄えを確かめている。その上ごそごそと部屋を掻きまわして小さな小鬢を見つけてきた。背広の襟の裏側に一滴たらすと「完璧!」と親指を立てる。
本来の啓太なら「何すんだ、てめえ!」と蹴りの一つも喰らわしているところだが、ケイタは母にされるがまま微動だにしない。
おまえら、俺で遊ぶんじゃねぇ!
凝りもせず体当たりをするが、やはりすり抜けるだけだ。
どういうことなんだ!誰か教えてくれぇ!
啓太の叫びなど誰にも届かないまま、ケイタは玄関で母に見送られていた。
俺の身体を勝手にされる訳にいかない。俺を置いて身体だけ卒業式に出席だなんて洒落にもならないじゃないか。
ケイタはいつも通りの電車に乗り大学のある駅に着いた。駅からは大学行きのバスが出ている。いつもと違うのはいくつもの視線がケイタに注がれていることだった。そう言えばいつもより姿勢もいいかもしれない。
「あれ、誰?」「あんな人、学校にいた?」女の子たちの熱い視線が啓太にはこそばゆい。でも注目を浴びているのは俺じゃないのだ。
いや、あれは俺の身体だけれども、アレは断じて俺じゃない。
訳の分からない論法が繰り返されるが、何も解決しない。
立ち止まったところを見計らって身体を重ねてみたり、頭から飛び込んでみたりとイロイロ試みてはみたが全部無駄だった。
自分を見降ろしてみる。起きぬけのままだった。パジャマに裸足だ。
裸足だってかまいやしない。地面から5センチは浮いているのだから。それに歩くこともできないから、移動は変な平泳ぎしかない。ていうか、それ以外の移動方法がないのだ。歩こうとしても左右の足が前後に動くだけで移動はしない。どちらかというと、見て、そっちに行くと思うだけで移動はできるみたいだった。だけど、そんなことがわかったからって身体を取り戻せるわけじゃない。
学部別に分けられた椅子は前からあいうえお順に座ることになっていた。
クラスメイトたちは席順で啓太の正体を知ったようだった。
「えー、だっていつも眼鏡かけて頭ぼさぼさだったよー!」「いつも俯いてたから顔なんて見たことなかったぁ。」そんな声が聞こえた。悪かったな。普段は要らないけど、裸眼だと黒板が見えにくいんだよ。
そう心の中で返事をする。
クラスメイトたちの反応は一様に「オタクっぽい地味男クンだと思ってたのに、意外―!」というものだった。大きなお世話だ!
粛々と式典は進行し、つつがなく授与式も終わって、午後は場所を移動して昼食を兼ねての祝賀会となった。予想通りケイタの周りには女子が群がっている。
非常に面白くない。
おまけにコイツは如才なく、いち早く担当教授に感謝を言いに行く始末だ。
もしも俺が自分で出席していたら、多分壁に張り付いているだけだったろうなと思うと、ますます忌々しい。
こいつはホントに何者なんだ。そう思っていたのは啓太だけではなかった。会場のあちこちでみんなが噂している。きっと教授から聞き出したのだろう。啓太の就職先や出身校など少ない情報が口々に広まっていくが、啓太の交友関係に繋がる情報は得られずに、がっかりしているのが見て取れた。
祝賀会場上空をふらふらしながら、自分だけじゃなく誰もが、相手が一歩踏み出してくれるのを待っていたことに気付く。そして自分がその小さな働きかけを意図せずに全部無視していたのを思い知った。
うまいことが言えない。そんな劣等感のせいで貴重なこの無責任な時代を無駄に過ごしてしまったのだった。後悔しても、もう遅いけれど。
落ち込む啓太を置き去りにして、ケイタは行動を起こしていた。
事もあろうにナンパを始めたのだ。それもターゲットは某ファッション誌の読者モデルも務めていたという長谷川皐月だ。
男子学生の中では高嶺の花と噂され、難攻不落だと太鼓判を押されていたアイドル的存在なのだ。立っているだけで一人スポットライトを浴びていると錯覚させるほどに華やかな彼女の周りには取り巻きの男どもが列を成している。そこにどういう手を使ったのか知らないが、いつの間にかケイタがカップルでもあるかのように寄り添って立っていた。
おい、おい、俺の身体で勝手なことをするんじゃねぇ。
嫉妬と羨望が湧き上がる。慌てて傍に行ってみると皐月が「ちょっと飲みすぎちゃったみたい。」と囁くのが聞こえた。
「なら、少し外に出て涼んで来ようか?」二人は躊躇いもせずに手を繋いで部屋を出て行く。モーゼの十戒のように人垣が割れて二人を留める者はいない。
ばかやろう!俺の身体で羨ましいことをするなぁ!
これは、アレか?宝の持ち腐れをしてたっていう身体からの復讐か?それにしたって、あんまりだ。それでアイツは何をしようって言うんだよ?
ついに泣きが入った啓太は慌てて後を追う。
会場のホテルを出た二人は街路を仲良く手を繋いでそぞろ歩いている。
そしてショーウィンドウを覗きながら時々立ち止まる。
その後ろを行く啓太はウっと咽喉を詰まらせた。
ケイタがショーウィンドウを見上げた皐月に向かって、ついと頭を下げたからだった。啓太は思わず顔を覆う。
なんてこったぁーー!
お、れ、の、おれのファーストキスーーー!許せねぇーーー!
一秒に満たない接触ではあったがケイタの唇と皐月の唇が重なったのは事実である。だがその感触は啓太のものではない。
ふいの出来事に驚いた様子の皐月はケイタを見上げて微笑んだ。「けっこう遊び人?」
いえいえ、滅相もございません。正真正銘の童貞でございますよ。
不貞腐れて啓太は一人ごちる。
「ごめん。気を悪くしたなら会場に戻ってもいいよ。」ケイタの言葉に皐月は俯いて繋いでいた手に力を籠める。
「それとも・・・どこか、静かなところに行く?」
てめえ、調子こいてんじゃねぇぞ!長谷川も長谷川だ。そこは一発ビンタでもかましてるところだろうが。それを、知らねえ男にほいほいついて来やがって馬鹿じゃねぇのか?
そんな啓太の思いをよそに皐月はこくりと頷く。
「あ、あたし、いいところ知ってる!」「どこ?この近く?」
すっかりカップルと化した二人はぴったりと寄り添って歩き出す。
何なんだ。この展開。
カムバァーーーック!マイ ボディー!
怒りと困惑と羨望と焦燥とないまぜになりながら啓太が追っていくと、行きついた先は有名な高級ホテルだった。
フロントにいた男は皐月を見ると「いらっしゃいませ、長谷川さま。」と頭を下げ「お泊りですか。」と聞いた。
おいおい、常連客かよ。高嶺の花は見せかけで、実はヤリマンだったってオチかぁ?
皐月はたいして物が入りそうもないバックから小さく畳んだ紙切れを取り出して拡げフロントに差し出す。上から覗き込むと「ホワイトディクーポン」と書いてあった。
お二人様一泊三万五千円?高いのか?安いのか?
それより、「おふたりさま」と「いっぱく」ってどういうことだぁーーー!
勘弁してくれぇ・・・・。
「かしこまりました。お食事は最上階のレストランとなっておりますが、8時までにはおいでください。チェックアウトは明日10時となりますのでお願いいたします。料金を先にお預かりさせていただいて宜しいでしょうか?」
ケイタは手に馴染んだビジネスバックから俺の財布を取り出して四万円をキャッシュトレイに載せる。
そ、それは俺が土日も祭日もコンビニのバイトに励んで稼いだ血と汗の結晶!それを、そんな無造作にぽんと使う権利がお前にあるわけないだろーが!
しかし取り戻そうとしても啓太の指はそれを掴めないのだ。
無慈悲に4枚の諭吉はレジスターに納められて、「差額はチェックアウトの際に清算いたします。」と告げられた。引き換えに差し出されたカードキーを皐月はバックに入れると、このまま最上階に行くとフロントに言う。そして、慣れた様子でエレベーターまでケイタを引っ張って行った。
俺にはエレベーターなんて必要ない。天井と床を突き抜けて最上階まで行くことも可能なんだが、やはり二人が気になる。野暮は承知でエレベーターに乗り込み自分を観察した。
大体さ、自分に向かって野暮もへったくれもあったもんか。俺の身体が間違いを犯さないように・・・間違いを犯さないように・・・出来る事は何もないので、もう泣いていいですか・・・。
エレベーターの中でまた重なる二つの影。情けなさにほぞをかむ。
俺が一体何をした?こんな仕打ちを受ける程の罪を仕出かして天罰が下ったとでも言うのか?前後左右から啓太が通り抜けても二人は離れない。
二人を離したのは他でもない、チンッというエレベーターの到着音である。
エレベーターを降り立った二人はまるで一枚の絵のように素敵だった。パーティードレスに身を包む皐月とブラックスーツのケイタ。ボーイは恭しく二人を窓際の絶景のテーブルへと案内する。
あぁ、この絶景と共に二人の姿をライカに収めたいと啓太は感嘆のため息を漏らした。きらきらと点滅する夜景と仄暗い灯りに浮かび上がる恋人たち。
夢のようにロマンチックな光景だ。
あれが自分の身体だとはとても信じられない。
程なくボーイが二つのグラスを運んで来た。二人はボーイが立ち去るのを待ってグラスを掲げる。見つめ合いながら二人はその芳醇な香りを口に含む。
なんだよ、これはぁ!まるでドラマのワンシーンみたいじゃないかよ。羨ましいぞー、俺!
そこで啓太は少し不安になった。
そう言えば、俺はテーブルマナーなんて知らないぞ。不味い!今、戻ったら非常に不味い。
だが、そんな心配は杞憂だった。そもそも戻る方法がわからなかったし、食事は箸で食べるタイプのフレンチで、切る必要さえなかった。
「田中クンていつも一匹狼だったよね。」いえいえ、そんなカッコいい代物じゃありません。「そうじゃないけど、別につるむ必要もなかったからさ。」
ケイタの返答は、これまたイケメン仕様だ。
「そう言えば、あのクーポン、誰に貰ったの?」
皐月は「気になる?」と悪戯っぽく笑う。「義理チョコのお返しよ。出版社の編集長がね、いい人がいたら使いなさいって。」
「いい人が居なかったにしては随分場馴れしてる感じを受けたけど?」
「だってレディースクーポンは何回か使ってるもの。安く泊まれて美味しいものが食べれて、気分はすごくゴージャスになれるのよ。使わなきゃ損でしょう?それでパジャマパーティーみたいに徹夜で色んな話をするの。楽しいわよー。そう言う田中クンはどうなの?随分落ちついちゃってる感じだわよ。」
確かにこいつの落ちつき払った態度は何なんだよ。これが俺自身なら挙動不審で追い出され兼ねない状況だっていうのに、臆することなく自然体でいなしている。
「そんなことないよ。長谷川さんと二人きりなんて、もう天にも昇る気持ちで夢うつつ状態だから、地に足がついてない気がするくらいさ。」
はい、確かに足が地についてません。もしかしたら、このまま天に昇っちゃうんじゃないかと心配です。・・・なんてな。
「田中クン、時々私のこと、見てたでしょ?でもオハヨーって言っても会釈して通り過ぎるだけでさぁ。授業終わるとさっさと帰っちゃうし、興味ないのかなーなんて思ってたんだ。」「そんなことないよ。だけど在学中は勉強に専念したかったし、学校がない時はいつもバイトしてたから暇もなかったんだ。それでも何と言うか、卒業してもう会うこともないのかなぁって思ったら、駄目もとで一応声かけておくかなっていうずるい考えだよ。」
おまえ、その自重気味の恥ずかしげな苦笑い。すげえ!ババアでもキュン死するぞ。俺はこんな隠し玉を身体に隠していたのか?信じられねぇ。ま、一番信じられないのが、長谷川が俺に気付いてたってことだがな。
「わたしね、さっき田中クンが連れ出してくれて嬉しかったの。ありがとう。」
ワインでほんのり頬を染めた彼女は、なんて綺麗なんだろう。そんな彼女が在学中に俺を知ってたなんて。そんな幸運があっていいんだろうか?
いや、待て!もしかしたら、この幸運はコイツのものか?俺はこのままこうやってコイツのバラ色の人生を傍観するしかないのか?俺の人生なのに?
まるでヤツのバラ色を象徴するかの如く、締めに出て来たデザートは苺アイスだった。
あぁ、鬱になりそうだ。
食後のコーヒーが運ばれてきて、軽い気まずさが二人を襲う。
さぁ、ケイタ!おまえはこのまま席を立って家に帰るんだ。今ならまだ間に合う!・・・何に?なんでもいい。帰れば問題は解決するはずなんだ。
焦りまくる啓太とは裏腹に、ケイタはさらりと「そろそろ部屋に行く?」とのたまった。それに応えて皐月はまたこくりと頷く。
おまえは地獄に堕ちろ!呪われてしまえ!
立ち上がったケイタは生まれつきの紳士みたいに皐月の椅子を引いて彼女を立たせる。そして、二人は腕を組んでレストランを出て行った。
畜生!どうすればいいんだ。今まで考えないようにしてきたけど、これは俺の貞操の危機なんだ。ヤバイ、壮絶的にヤバイ。
顔面蒼白?の啓太を残して二人は割り当てられた部屋に入っていく。
部屋は十畳くらいの広さで中央にでんとダブルベッドが存在感をアピールしていた。一方の壁に引き出しが一つついた机とテレビが置かれている。椅子は一人掛けが1脚置かれているきりだった。
「先にシャワーを使わせてもらっていいかな?」背広を脱ぎながらケイタが言うと皐月は固い声で「どうぞ。」と答えた。
「もし、気が進まなかったらこのまま帰っても怒ったりしないから。」ケイタの言葉に皐月は驚いたようだった。
俺も驚いた。ここまで来て帰っていいって、そりゃ随分太っ腹な宣言だぜ。だから啓太は力一杯皐月に念を送ろうとした。
さぁ、扉を出て家に帰るんだ。あんな得体の知れない男に食べられちゃったりしたら、絶対に後悔するぞぉー!
ところが皐月は暫く浴室のドアを凝視したあとで、ケイタが置いていった携帯電話を手に取った。
お嬢さん、それは犯罪だと思いますよ。別に見られて困るものなんて何もないですけどね。
何しろ友達が居ないんだから、アドレスなんて寂しいものだ。皐月は持ち主よりこの機種に詳しいらしく、何かをしている。こうなると、人の意表を突くものが何もないのが申し訳ない気分だ。アドレスの唯一の女性名は母だし、色っぽい画像なんて一つもない。たしか写したことがあるのはブチだけだったよな・・・?なんて思い出していたら皐月がぷっと吹き出した。
そうでしょ?そのブチのプリチーな写真、イケてるでしょ?
ケイタが浴室から出て来たのは一通りの検分が終了して、テレビ番組を模索している時だった。入れ換わりに皐月がそのドアに消える。
ホテルのバスローブを羽織って、タオルで髪を拭いながら出て来た俺のカッコいいこと!水も滴るいい男ってかぁ?
別に俺はナルシストじゃない。それでも、こうやって自分の姿を客観的に見ることができて良かったと思う。コンビニで飲料のダンボールやら弁当の番重を多々運んできて、程良くついた筋肉は貧弱じゃない。身長だって百八十には届かなかったが、それに少し足りない程度なのだ。
悪かった、俺。戻れたら自分の価値をちゃんと認めて、無駄にしないと誓うから、俺の身体でいてくれ。
お願いしますーと天に向かって拝んでいた耳に水の音が響いた。
あの音は・・・。
いま、あの扉の向こうで皐月が・・・。
気が遠くなりかけて啓太は急に嬉しくなった。
そうだよ。こんなチャンス、もうないかもしれない。
あのサンジだって透明になったら女風呂を覗きたかったって言っていたじゃないか。もうこれ以上罰が当たりようもないんだから、神から誹りを受けようとも俺は覗く!それが正義だ!てめえはそこでお茶でも飲んでいやがれ!
変な理屈をこねて啓太は扉をすり抜ける。脱衣所には脱ぎ捨てられた衣類があった。薄いピンクのレースに鼻血が出そうになる。
あぁ、生きてて良かった。って、もしかしたら生きてないかもしれないけどさ。塞翁が馬ってこういうことかも。
そーっと頭を向こうに突き出すと皐月の背中が見えた。シャワーハットを被って身体の泡を流しているところだった。おぉっと首を引っ込める。
シミ一つない綺麗な背中、丸い尻にすらりと伸びた足。見た!俺は見たぞ。昔不運にも見てしまった母ちゃんのケツなんかとは全然別モンだ。ありゃあ、暫くの間思い出したくないものナンバーワンだったが、これは目に焼き付けて残しときたいって言うより被写体としてライカの中に収めたいくらいだ。
そんなこと頼んだら殴られるだろうけどな。
かちゃりと音がして皐月が現れ棚の上からバスタオルを取った。狭い脱衣所で啓太に皐月の身体が重なる。驚いた啓太は文字通り飛び上がって二三階上階まで昇り、もう少しで屋上まで行くところだった。
突き抜ける寸前にちらりと見てしまった皐月の全身を脳裏に刻みつけるように反芻する。天井に頭が埋まった状態で視界は暗闇だった。
死んでもいいかも。いや、もう死んでるかも。でも、最後のご褒美が美女の裸体って幸運かもな。なんて考えてみる。
・・・それから、啓太はそこでずっとぐずぐずしていた。なぜって、考えたくなかったからだ。それに見たくもない。俺の身体がこれからあそこでどんな狼藉を働くやら、想像もしたくない。女の子は純潔を捧げるとか言うんだろ?じゃ、男はどうなんだ。童貞を捨てるんだって、それなりの覚悟が必要なんじゃないのか?それを、身体が勝手に捨ててくるなんてあんまりじゃないかよ。
いやいや、何らかの意志がなくちゃ身体は動かないだろ。一体俺の身体を動かしてる意志は誰の意志なんだ?俺じゃないことだけは確かだ。だって、俺は昨日までそんな事考えたこともなかったんだから。
明日童貞を捨てるぞーなんて、ちっとも考えてなかった。そりゃ、いつかはそういう事もあるのかなとは思っていたさ。だけど、今日じゃない。
落ち込む気分と共に徐々に身体も沈んでいき、やがてあの部屋の浴室に戻った。壁の向こうで二人がカードゲームなんかしている訳じゃないことはわかっている。
膨れ上がる好奇心に負けて壁からひょいと顔を出してみて、啓太は猛烈に後悔した。見えたのは俺のケツだけだった。母ちゃんのケツ以上に自分のケツは見たくなかった。俺は人類史上初めて正面から生で自分のケツを見た男になった。
そんなの何にも嬉しくない。悲しいだけだ。
あぁ、勘弁してくれ。俺の童貞は既に失われてしまったのだ。
何の感慨もない。俺の初体験は思い返すことさえできないものになった。そんなもの経験と呼べるはずがない。もし知ろうとするなら彼女に聞くしかないけど、面と向かって「あの時はどんなことをしましたか?」なんて聞いたらグーで殴られるのがオチだ。
今はもう彼女にとっていい経験だったことを祈るだけだ。
どうでもいいさ。もうここにいてもしょうがないから帰ろう。
それで、啓太は籠城していた浴室から出て二人の会話を聞いてしまった。
「大丈夫?痛かった?御免、初めてだなんて思わなかったよ。でも、嬉しかった。ありがとう。」え?と啓太は立ち止まる。
「大丈夫よ。少し痛かっただけ。今まで周りにいた人って軽いタイプの男ばっかりだったの。啓太クンみたいに真面目で誠実そうな人、いなかったから。だから良かった。啓太クンにあげることができて。遊びじゃないんでしょ?それとも、これっきりのつもりだった?」
「また会ってくれる?」「ホント?嬉しい!」ここで抱擁。
他人のベタ甘な会話を盗み聞きしちゃった気分だ。あとは二人で好きにしてくれ!俺はもう関係ない。
自宅への道というか、空というかの道程で啓太はどんどん落ち込んでいった。
だって俺が皐月ちゃんの処女を貰っちゃったんだぜー。あのナイスなバディを自分の好きに触っちゃったんだぜー!それなのに、実際は見ただけなんて情けなくて涙が出るぜ。神様、せめて手で触れた感触だけでも味あわせてください。慈悲があるなら少しの片鱗でも。戻れなくても構いませんから。
そうだよな、アレはもう俺じゃないんだ。きっとあの身体に相応しい精神を神様が用意しちゃったんだろう。だから俺はお払い箱なんだ。
そうだ、空に帰ろう。あそこはもう俺の家じゃない。俺は啓太じゃなくなったんだから。輪廻の輪から弾かれた魂はどこに行けばいいんだろう。それとも空に帰ったらまた新しい身体を用意してもらえるんだろうか?
今度は血統書つきの猫とかがいいなぁ。喰って寝てればいいんだからさ。ブチみたいな飼い猫でも構わないけど、あいつの餌はあんまり旨そうじゃないからな。
どこまでも、どこまでも昇って行こう。あの星に手が届きそうなくらい。それとも月まで行ったら誰かが迎えに来てくれるんだろうか。月の舟に乗って、生まれる前の国まで送ってもらおう。そうじゃなきゃ幽霊になっちまう。
別に恨みも何にもないんだから「恨めしい」なんて言えないしな。言えるとしたら「羨ましい」か?
全く馬鹿みたいだ。

ピピピピピ、ピピピピピ。
五月蠅い!あぁ、目覚ましが鳴ってるんだ。止めなきゃ・・・。
啓太はがばっと飛び起きた。
俺だ!俺に戻ってる。あぁ、良かった。みんな夢だったんだ。
目覚ましを止めて顔を撫でてみる。あぁ、やっぱり俺だ。
「けいたー、会社に遅れるわよー!」えぇ?会社?
時計を掴んで目の前に持ってくると、確かに初出勤の日だった。
じゃぁ、卒業式はどうなったんだ?あれは夢じゃなく現実だったのか?ベッドの下を見るとあのスーツが脱ぎ捨てたままになっていた。
でも今はそんなこと考えている暇はない。あたふたと台所に行ってご飯に味噌汁をぶっかけて流し込む。髭を剃ろうと洗面で自分の顔を見て愕然となった。
なんとまぁ、すっきりした顔つき。肌なんかつやつやしちゃって、参ったねー。やっぱり俺は昨日童貞を捨ててきちゃったのか?
駄目だ。そんなこと考えてる場合じゃない。
就活で着ていたリクルートスーツを着て、いつものビジネスバックを手に家を飛び出した。車のエンジンをかけて気付く。携帯の充電を忘れたな。
指定されていた駐車場に乗り入れると始業三十分前だった。
よし、いい時間に着いた。
受付で聞くと担当者が出勤するまで待てと言われた。しばらくして、やって来たのは30歳代のチャラそうな男だった。「やぁ、新人クン。僕は石倉だ。この会社のヤングレディーはみんな僕のものだから、ここで狩りはしないでね。」聞いていた受付嬢は石倉を睨んで「冗談は顔だけにしてくださいね。」と言った。
石倉に連れられてあちらこちらの部署を回り、入社手続きやら保険の申し込みやら名刺の支給やらを済ませると、もう昼時だった。そのまま社内食堂に案内されてカレーライスを食べた。特別旨くも不味くもない普通の味だった。
「必要な時があるかもしれないから携帯の番号を教えてくれる?」と言われて、携帯をバックから取り出して一目見た途端に啓太は急いでバックに戻した。
「すみません。充電を忘れちゃって使えなくなってるみたいです。」メモ帳を破って番号を書きとめ、石倉に渡しながら、「昨日は卒業式だったもので、少し夜更かしをしてしまって。」と言い訳をする。
「ああ、昨日まで学生、今日からは社会人かぁ。大変だね、君も。それで、昨日は誰かと別れを惜しんでたってわけだ。いいね、いいね。私のこと、絶対に忘れないでねーなんて言われてたんだー。」石倉はまるで満腹のチェシャ猫みたいな顔で言った。「そんなんじゃありません。」
まぁ、似たようなことが、あったような、なかったような・・・。
午後は山程の書類を渡されてパソコン入力をやらされた。それで、それから五時までの4時間を一心不乱にパソコンに向かって過ごした。終業時間には目がチカチカした。残業するメンバーは多かったが、啓太は帰っていいと言われたので帰ることにした。お先に失礼しますと頭を下げると課長から「次の土曜は新歓だからね。車は家に置いて来なさい。」と言われた。
「ありがとうございます。」とまた頭を下げ、会社を出ると疲れがどっと来た。車に乗り込んで、携帯を取り出す。開くと皐月の笑顔が現れた。皐月の写真は疲れを癒してくれるような気がしたが、誰かに見られたら困る。待ち受けを変更してアドレス帳を開いてみたら、「は」の項に長谷川皐月の名前があり番号とメールアドレスが登録されていた。
やっぱり夢じゃなかったんだ。
あの時、皐月が俺の携帯を弄って何をしていたのかを理解する。もちろん俺の個人情報も彼女の携帯に保存されているんだろう。
ケイタがまた会ってくれる?って聞いたら、彼女は嬉しいと答えた。
メールの一つも送った方がいい気がするけど、気おくれする。ホントに俺なんかでいいんだろうか?思案の末、啓太はメールを送った。
「身体のお加減はいかかですか?辛い思いをさせて申し訳ありませんでした。僕は本日、出社一日目を無事終えました。どうも残業が多い会社のようで、また会える時間をいつ持てるかわかりません。仕事が落ち着きましたら、またご連絡いたします。皐月さんの新社会人生活を応援しています。」
返事は驚くほど早く届いた。
「私はチェックアウトぎりぎりまでのんびりさせて貰ったので元気一杯です。仕事、大変そうですね。私の始業は4月1日からですので、会えなくて残念です。次の連絡を首を長くして待っていますね。頑張ってください。」
いい子だ。これがホントに俺の彼女なのか?俺は付き合ってくれとか、好きですとか、そういう決定的な言葉を言ってない気がするんだが、どうなんだろう。最後まで見てなかったから、最終的にどういう話になったのかがわからない。昨日のあの時点では、もう諦めきっちゃっていたからなー。
ともかく、この件は暫く保留だ。試用期間のひと月、必死で頑張らないと正社員を棒に振っちまう。正社員の権利を手に入れてから、初めてのデートだ。彼女だって新社員だから、しばらくは研修やら何やらで忙しいはずだ。
よしっ、頑張るぞー!
意気込みだけは立派だったが、幼い頃から培われてきたヘタレ精神は頑強だった。
就寝前になると啓太は毎日メールの文面を考えた。件名を打ち込んで何行かメールを書いたこともある。だが、送ることができなかった。こんなことを書いたら馬鹿みたいだとか、笑われそうだとか、愚にもつかない言い訳でいつもやめてしまった。そのうち、あれだけの美人が自分みたいな者の連絡を、そんなにいつまでも待っていてくれるはずがないとか、もう新しい恋人を会社で見つけているかもしれないなんて考え始めた。
そうなってしまうと、もう電話なんかとてもできなくなってしまった。電話口に出た皐月が「あんたなんか知らない。」とか「二度と電話してこないで。」なんて言いそうな気がした。
「なぁ、ブチ。こういうのって、必ず男からアプローチしなきゃいけないなんてルールがあるのかなぁ。別に向こうからご機嫌いかがーなんて近況を聞いてきたっていいわけだろ?」ブチは顎のあたりをくすぐられてごろごろと咽喉を鳴らす。「実感がないんだよなー。あの日に何があったにしろ俺は見てただけなんだからさ。それにさ、実際の俺はあの時みたいにカッコいいヤツじゃないからな。へたにデートなんかしたら、がっかりされそうな気がするんだよなぁ。」
向こうからはメールも電話もないという事実が、やっぱりそうなんだーという確信に繋がった。あれは啓太には現実感のない夢のような出来事で、皐月にとっては間違いであったのかもしれないと・・・。
だからゴールデンウィークも半分終わった頃に届いた皐月のメールはとても嬉しかった。意気地がないばかりに誘うことができなかったデートが実現する。それで啓太は慌てて美容院に行った。腕のいい美容師がいるという評判の店で、どうにでもなれーと「似合う髪形にしてください。」とお願いしたら、素晴らしくいい男になれた。それで服も買った。そこでも店員を捕まえて全部コーディネートしてもらった。
その夜は遠足前の小学生みたいに、興奮して眠れなかった。
翌日、指定された場所に早めに出かけた啓太は、なんだか幸せだなぁなんてにやけていた。周囲で人待ち顔の若者たちが廻りを見まわしながら大勢立っている。可愛い子もいるけど皐月に勝てる子なんていない。
待ち時間がこんなに楽しいなんて生まれて初めてかもしれない。
時間を過ぎてから皐月が近づくのに気付いた。ふわっとしたワンピースに薄手のカーデガンを羽織った格好は、目が釘付けになるくらい素敵だった。皐月はヒールの音を響かせて啓太の前に立ち止まると、いきなり啓太を平手打ちにした。笑顔で皐月を待っていた啓太はびっくりして後ずさる。
「いきなり何すんだよ。痛いだろ。」頬に手を当てて皐月を見ると、その目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ど、どうしたんだよ。何かあったのか?」
「遊びじゃないって言ったくせに。責任取ってもらうからね。」
しゃくりあげる皐月を、啓太は路地裏に引っ張っていった。おあつらえ向きに古そうな喫茶店が一件見つかった。客がほとんどいない店の隅のボックス席に収まって、「コーヒー二つ。」というと、皐月が「私はホットミルクで。」と言う。
少し落ち着いてきたようでホッとした。「それで、どういうこと?」
目に当てていたハンカチを両手で揉みしだき、俯いていた皐月は顔をあげて「できちゃったみたい。」と言った。
できちゃったって、何が?
えー、えぇぇぇーー、もしかして・・・アレ?
驚愕の表情で絶句したままの啓太に向かって、皐月は言い放った。
「オロセなんて言ったらアンタ殺してあたしも死ぬから。」
身に覚えはある。だけど、誰が何と言おうと心は童貞なんだよ。その俺がこんな修羅場を経験することになろうとは・・・。でも俺がいじけていた時に皐月はずっと悩んでいたのかもしれない。それなら男としてするべきことは一つしかないよな。
「結婚しよう。正社員になったばかりだから給料安いけど、暫くうちの親と同居で我慢してくれる?」皐月の目からまた涙が溢れ出した。
「早い方がいいだろうから、これから挨拶に行くって家に電話して。大丈夫だから。俺、ちゃんと責任取るよ。」
近くに停めておいた車に乗り込み、カーナビに彼女の家を登録した。優秀なカーナビの案内で彼女の家に向かったのは、その間皐月がずっとしくしくと泣いていたからだった。
着くと彼女の家の門前で仁王立ちのジジイが待っていた。
「父よ。」・・・あぁぁ、怖そうなジジイだ・・・。
車を停めながら「顔を拭いて、笑って。」と耳打ちする。皐月は「ごめんなさい。」と小さな声で言った。車を降りてジジイの前に立つ。
「はじめまして。田中と申します。皐月さんとお付き合いさせていただいています。本日は結婚のお許しを戴きに伺いました。」ジジイは泣き腫らした皐月の顔を見て、啓太を睨みつけた。
「許さん。帰れ!」ジジイは皐月の腕を掴み家に入ろうとする。
「お願いします。皐月さんは僕の子供を身籠っています。」
くわっと見開いた目が啓太を捕え拳が飛んできた。皐月が啓太に駆け寄る。
まったくこの親子は手が早い。
「そんなふしだらな娘はうちの娘じゃない。くれてやるから二度とうちの敷居は跨ぐな。」「おとうさん!」
皐月が泣くのも構わずジジイは家に入り、音を響かせて鍵をかけてしまった。
途方に暮れた表情の皐月を車にまた乗せて、エンジンをかける。
「どうする?このまま役所に行ってもいいけど、式を挙げてからの方がいいかな?」答えはなかった。見上げると二階の窓で、しきりに頭を下げる婦人が見えた。きっと皐月の母親なんだろうと思い、会釈して車を発車させた。
とりあえずゴールデンウィークはまだ三日残っている。
家に皐月を連れて帰ると母は半狂乱だった。
小躍りして皐月を歓迎し、あれこれと世話を焼く。昔から娘が欲しかったとぼやいていたくらいだから喜ぶだろうとは思ってはいたが、これほどとは思わなかった。あの無口な父でさえ、俺に向かって親指を立てて「グッジョブ!」と言ったほどだ。能天気な両親が諸手を挙げて「よくやった。」と褒めるのでいたたまれなくなるくらいだった。
それでも一応母が常識的なところを見せて、皐月の家に電話をかけた。向こうはどうやら母親が出たらしく、なんだか結婚式の話で盛り上がっていた。
「本当に綺麗なお嬢様で、ドレスも白無垢もさぞやお似合いになるでしょうねぇ。隣に立つのがうちのボンクラでホント申し訳ない気がしますけれど。大事にお預かりいたしますので、ご心配されないようにしてください。はい、近いうちにこちらから御挨拶させていただきますので、よろしくお願いいたします。ええ、ええ。パンフレットなんかも用意させていただきますので・・・」
あぁ、母ちゃん、絶好調だー。
うちの部屋割を説明しよう。
玄関脇の和室が両親の部屋だ。その隣が台所になっている。廊下を隔てて両親の部屋の向かいに風呂と洗面、トイレがあり、台所の向かいが俺の部屋だ。一応二階に八畳の一間があるのだが、現在は物置と化していた。
仕方ないから当座は啓太の部屋で皐月に寝てもらおうという話になって俺はうきうきしていた。母ちゃんはベッドから枕カバーやらシーツやらを全部はがして新品と取り換えた。
おぉー、なんか新婚って感じ?
ところがだ。そのあと母ちゃんは二階から昔俺が使っていたジュニア布団を出してきて言った。
「妊娠初期は流産しやすいんだから、皐月ちゃんに近付くんじゃありません。あんたはこれで廊下に寝なさい。」
嘘だろー?
大体さ、身体が布団に収まらないんですけど?
大事な一人息子に対して、あまりに惨い扱いじゃありませんか?
啓太のそんな訴えは母に一蹴された。それから皐月は母が仕舞いこんでいた下着やパジャマの新品を渡されて風呂に追いやられたあと、啓太の部屋に閉じ籠ってしまったので、啓太は廊下で寝るしかなかった。
もう春とはいえ夜となるとまだ寒い。啓太はブチで暖をとりながら身体を縮めて眠るしかなかった。
深夜。「ぷぎゃっ!」という声と共にブチの爪が腕に食い込んだ。「いてぇ!」飛び起きると布団の脇に立つ人影がある。常夜灯に照らされた顔は・・・?
「誰だ、おまえ?」呆然と見上げる啓太の頭にキックが飛んできた。そして、そのままトイレに駆け込む。後ろ姿を見送って啓太は気付いた。
最近の化粧の技術は、すげえわ。
それで、また踏まれたくなかった啓太は台所の床で寝た。おかげで朝は母に叩き起されたのだった。
朝になって出て来た皐月は、いつもの顔だった。何をどうすればこの顔が完成するのかわからないが、一種の才能かもなぁと納得した。
残りのゴールデンウィーク中にご挨拶やら式場の手配やらを済ませて、皐月の父親の怒りも解けたらしく、皐月は家に帰って行った。式はひと月後に決まり、俺にはひと月の間に二階の片づけが言い付けられた。
会社には上司に報告だけして祝いは辞退した。きっと少しは会社の役に立つようになった頃に、出産祝いを貰うことになるだろうと言うとみんなに笑われた。「まったく、油断も隙もないやつだ。」と石倉には呆れられた。
おまけに二人の母親が本人たちを差し置いて何にでも首を突っ込むので、マリッジブルーになる暇もなかった。
ところが、式の一週間前の日曜、いきなり皐月が訪ねてきた。両親は出かけ啓太はお留守番で二階の掃除をしている最中だった。
「できてなかったの。」玄関先で皐月は唐突に言った。
「ごめんなさい。間違いだったの。生理が来ないからてっきり妊娠したって勘違いしちゃって。」茫然と言葉もない啓太に向かって皐月は畳みかける。
「啓太くん、責任取ってくれるつもりだったんでしょ。だから、もういいの。責任取ってくれなくていい。」そう言いながら皐月の目は潤んでいる。
「ちょっと待てよ。それは俺と結婚したくないって事か?」皐月の両手がぐっと拳を作る。「そんなこと言ってない。私、私、啓太くんが結婚なんてまだしたくないんじゃないかって思って、それで・・・。」
確かにこんなに早い展開は望んでなかった。できれば仕事で出世とかして給料が上がって、親と別居できるようになってからの方が良かったとは思う。だけど、こんなのは勢いだ。波に乗っている時は波に身を任せた方がいいに決まってる。それに何となくこれが運命みたいな気がするのだ。
「長谷川はさ、俺の嫁さんになりたいか?」皐月は目に一杯涙をためて俯く。
「俺はさ、お前を俺の嫁さんにしたいって思ってる。すぐ泣くくせに、すぐ殴ったり蹴ったりするけどさ。すごい美人なのに素顔は意外と素朴なとこも気に入ってる。ほら、怒るなよ。他人には見せたくなかったんだろ。いいじゃんか。もう他人じゃないんだから。お前が先送りしたいなら、俺はそれでも構わないけど母ちゃんたちが五月蠅いと思うぞ。」皐月は靴を脱ぎ捨てて啓太に抱きついた。
「私の夢はずーっと啓ちゃんのお嫁さんになることだったんだからー。」
そりゃ、ものすごく大げさだぞ。だけどちょっと嬉しい。
「じゃ、親も居ないし、今のうちに子供でも作っておくか?」「ばかぁ。」
しゃくりあげながらぽかりぽかりと肩や胸に皐月の拳が落ちてくる。
「う、嘘なの。啓ちゃんに子供のことだけで結婚なんかして欲しくなかったの。最初は私が好きなんだからいいって思ったけど、やっぱり怖くなったの。いつか啓ちゃんに好きな人ができたら悪いって。だから・・・嘘ついたの。」
「そっか。俺、そういうの苦手だからな。悪かった。白状する。俺田中啓太は入学式で長谷川皐月に一目惚れをしました。恥ずかしくて今まで黙っていました。ごめんなさい!」高校野球の宣誓のように右手をまっすぐ上げて天井に向かって告げると皐月はまたワッと泣いた。
俺は永いこと「ごめんな、ごめんな。」と言いながら皐月の髪を撫でていた。
それからは、さしたる問題もなく、皐月は俺の妻になった。こんなに幸せでいいのかと思うくらい幸せだった。ジューンブライドになった皐月はクリスマスに女の子を産んだ。我が家に天使が舞い降りたと母は発狂寸前の喜び方だった。ひどく苦しんだにも関わらず皐月は、次は男の子が欲しいと俺に言った。
そんな人生絶頂の最中だった。
仕事で少し遠出した啓太は高速道路上にいた。突然対向車線から一台の大型トラックが中央分離帯を乗り越えて、啓太の車を目がけて迫ってくる。ミシっとフロントガラスがひび割れ巨大なタイヤが視界一杯に広がったあと、世界は暗転した。

気付いた時、啓太は小石が無数に転がる川辺に腰をおろして川面を眺めていた。啓太の隣には汚いボロを着た老婆が座っている。
そうかーと啓太は思い出した。
初めてここに来た時、啓太は不貞腐れていた。だって、あまりに自分の人生が平凡で面白味がないまま終わってしまったからだ。もう少し生きていたら何かあったかもしれないのにと言うと、この老婆は寿命は変えられないと言った。それでも、ちょっと覗いて見ようかと川の水をすくってふうーっと吹くと老婆の掌で水は大きなシャボン玉となった。シャボン玉の中に浮かぶ景色は啓太の家だった。
玄関に皐月が立っていた。女神のような皐月の前に立つ母は、対照的にすっかり老けて痩せてしまっていた。
「はじめまして。長谷川と申します。突然の訪問で驚かれるとは思いましたが、どうしても啓太さんに線香を手向けさせていただきたく参じました。」
「それはご丁寧にありがとうございます。どうぞおあがりください。」
あの時、啓太は大学の憧れのマドンナがどうしてわざわざ啓太の家に来たのか不思議に思った。皐月が啓太の存在を知っていたこと自体が驚きだった。
「啓太のお友達にこんなに綺麗なお嬢さんがいたなんて知りませんでしたよ。」母の言葉に皐月は寂しげに笑った。
「私たち幼稚園も一緒だったんです。でも小学校からは違う学校だったので、大学で再会した時にはすごく嬉しかったのに、啓太くんは気がついてくれなくて。」
啓太の部屋の片隅に置かれた小さな仏壇に皐月は手を合わせる。それから母に向き直った。
「私、昔幼稚園で虐められていたんです。意地悪な男の子が一人いて、背中に砂場の砂を入れられたり、お絵描き帳を破かれたり。でも一番ひどかったのは言葉の暴力でした。顔を見るたびに『ブス、シコメ!』って言われました。そしたら啓ちゃんが『僕がお嫁さんにしてあげる』って言ってくれたんです」
母は「まぁ!」と絶句した。いや、俺だって驚いた。確かに幼稚園の時の「ブスのさっちゃん」は覚えている。乱暴者のサトシがターゲットにしてた子だ。お嫁さんのくだりはまったく覚えてないけど。それに俺はさっちゃんをサチコだと勝手に思い込んでいたのだ。あの有名な歌のせいでな。それが実はサツキだったとは想像もできなかった。
「私、啓ちゃんが恥ずかしくない女の子になろうって頑張ったんです。絶対に約束を守ってもらうんだって決めてたのに、こんなに早く死んじゃうなんて。啓ちゃんの嘘つき!」綺麗に化粧された皐月の顔を涙がはらはらと流れては落ちる。「ごめんなさいねぇ。」そう答える母の目からも涙が後から後から溢れ出した。そんな光景を見せられて啓太はいたたまれなくなった。
「寿命は変えられないけど少し手を加えることならできるよ。」賽の河原の守婆はそう言った。泣き崩れる二人の女の姿が薄れて、パチンとシャボン玉が割れる。まったく女ってヤツは、どうしてこんなトコの記憶力だけいいんだろう。
「どうする?このまま三途の川を渡るも善し、手直ししてくるも善し。好きな方を選びな。」薄汚いボロで皺だらけの手を拭い川向こうを眺めやる。
「手直しって何をするんですか?」「自分を乗っ取るのさ。」「乗っ取る?」「そうさ。一日しかないよ。一日自分を乗っ取って少しはいい人生にしてくりゃぁ、同じ親不孝でもちょっとましな結果になるんじゃないかい?」
「だけど、あれだけの美人なんだからこれからもっといい男が現れるんじゃないのかな?こんな早死にする男に関わって辛い思いをするより、俺なんかすっぱり忘れて次に行った方が幸せだろ?」「残念だったね。あの子の相手はアンタ一人さ。そう決まってるんだ。アンタが何もしなきゃ、これ以降はストーカーに追い回される一生に決まっちまってる。それを阻止できるのもアンタ一人なんだよ。どうするね?」
それで俺はあの日に身体を乗っ取ったのだ。
そうなんだ。俺が追い出されて、中にいたのは俺だったんだ。
「なぁ、婆。これで少しはましな結果になったんだろうか?母ちゃんと皐月にはどっちでも同じだったんじゃないのか?だって、この日に俺が死ぬのは決められた事だったんだから。」「じゃぁ、見てみようか。」
守婆はまた川の水をすくい取ってふーっと吹く。
シャボン玉の中には三人の女が映っていた。
流しに立つ母とテーブルで幼子の口にスプーンを近づける皐月。皐月は化粧っ気のない顔で子供と同じバラ色の頬をしていた。娘は味が気に入らなかったのか盛大に食べたものを噴き出して大騒ぎだ。ほほえましい眺めだったが、何よりも三人が笑顔であることが素晴らしかった。
みんな、笑っている。
俺の人生は無駄じゃなかったんだ。
よかった・・・・。
本当は、もっと生きて娘の成長を見届けたかった。息子だって作りたかった。皐月と旅行にも行きたかった。仕事だって面白くなってきていた時だったのに。
映像が揺れて、シャボン玉がぱちんと割れた。なのに、すべての景色が歪んで見えた。熱いものが啓太から溢れて、咽喉からも変な音が漏れた。
「どうするね。もう向こう岸に渡るかい?」
川べりには丸太を掘って作ったようなボロ舟が一艘繋いであった。櫂は一本しかない。向こうに渡れば記憶はリカバリーされて新しい命に変わる。
啓太は小石が散らばる川岸にどかりと腰を据えて、石を一つ手に取った。
「いや、ここでみんなが来るのを待つよ。親を先に渡らせて、それから皐月と一緒に行きたいんだ。それまでここで石でも積んでいるさ。現世で俺にできることはもうないけど、その程度の罪滅ぼしはやらないと。」
「変わった男だね。」守婆は顔をゆがめて笑うと啓太から離れて行った。
あとには小石を一心不乱に積み上げる子供が一人残った。

受難か、幸運か?

この命には限りがある。明日やればいいと思っていても、もしかしたら明日はないのかもしれない。今を精一杯生きること。忘れがちな、命の目的を忘れずにいて欲しいなぁなんて思いを書いてみました。。

受難か、幸運か?

朝起きたら俺が身体から追い出されていた。 身体は勝手にナンパするわ、お泊りするわで、俺の童貞がアブナイ!

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-18

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