川のほとりにあるベッド

自分は今までなにを残してきたのだろう。それは自分の中ではなく、相手の中にあるのかもしれない。

目を開けて鏡を見上げると、目じりにある黒い点が目に入った。洗ったばかりの顔は、まだ水で濡れていて、生まれたばかりの自分を見ているかのような気がした。ふと目の下の黒い点が気になった。こんなところにほくろがあったかと思い、顔を近づけた。気にしていなかっただけなのか、1つそれを見つけると、さらさらとこぼれ落ちる砂山のように小さな黒い点がいくつか目に付いた。自分の顔をじっと見たのはいつぶりだったのだろう。

 息子の入学式の1ヶ月前、どうしても学校を見に行きたいというので、私は夫と3人で散歩がてら小学校に向かった。小春日和の暖かな日差しに、うっすらと色を付けた桜のつぼみが力強く、優しい丸みを帯びていた。私の少し前を歩く夫はお揃いの緑のチェックシャツを着た息子と手をつなぎながら歌を歌っている。後ろから見れば、頭の形、肩の下がり具合、足の出し方、全て瓜二つだ。幸せだと感じた。温かい、ふんわりとした空気が私の伸びた髪をさらっていった。
 息子が夫の手を離し、小学校の門へ吸い込まれるように走っていった。それを追うようにして、夫も走っていった。私は微笑む。そして私はゆっくりと門へ歩み寄る。すこし背伸びしたように大股で。靴と地面が擦れる軽い音を聞きながら、周りを包む温かい空気そのものを楽しんでいるかのように歩いた。
 門の前に来た。懐かしいような、でも新鮮な、不思議な気分になった。ここは私が通った小学校だった。目線が変わったからだろうか、それとも私が大人になったからだろうか、その門は小さくなって私を迎えているような気がした。銀色の門に手を掛けると、ひんやりとした冷たさが伝わってきた。でもその冷たさのどこかにやはり懐かしさを感じた。私は微笑む。戻ってきたのだと実感した。
 一歩足を踏み入れ、あたりを見回した。私が通っていたころと何も変わっていなかった。入り口にある立派な松の木。地面に大きな松ぼっくりが転がっていた。私は冬に、これでクリスマスツリーを作ったことを思い出した。ボンドを垂らして、固まらないうちに、赤や黄色、緑のきらきら光るビーズを乗せて。私は松ぼっくりを拾って、ポケットに入れた。
 体育館の方から声が聞こえた気がした。夫と息子が中にいるのだろうか。私は体育館へ向かった。何か薬品の匂いに似た香りが鼻にツンとした。中からボールの弾む音と、子どもの声がした。

「しほりって好きな人いるの?」
りえが小さな声で聞いてきた。りえは、可愛いくまが描かれている紺色の膝まである靴下を穿いていていた。短めの体操着から伸びたりえの足は私の足より白くて細かった。
「 私はかい君が好き」
私は体育座りしながらりえの耳元で答えた。肩まで伸びたりえの髪からは甘い花の香りがした。りえはすぐに顔をこっちに向けた。
「うそ!かい君も絶対しほりのこと好きだよ」
私は顔が熱くなって下唇を噛んだ。悪いことをしているときの様に、首の根っこに熱が集まってくるのがわかった。
「りえは?」
「私はたくみ君」
りえは笑って、笑った顔も可愛かった。りえの八重歯が笑うと見えて、私はその八重歯が羨ましかった。
私も本当はたくみが好きだった。たくみは私の幼なじみで、家が隣だった。スポーツができて、クラスで一番の人気者だった彼がりえのことを好きだってことはみんなが知っていた。
もし私がここでたくみが好きと言っていたらどうなっていたんだろう。ふと私は思った。りえと私は親友ではいられなかっただろうか。私はたくみに思いを伝えることができただろうか。私は体育館のドアに手を掛けた。ひんやりとした冷たさが私を包み込んだ。

しほり。
久しぶりね。中学卒業してから会ってないから、もう10年は経つのかな。
変わらないね。その笑ったときにできるえくぼ。私すごく憧れてたんだよ。
私ね、ずっと言いたかったことあったの。私、小学校の時、しほりがたくみ君のこと好きだったの知ってたのよ。しほりいつもたくみ君のこと見てたし、たくみ君がしほりにちょっかい出すと、すごくうれしそうだったから。私、あのころ誰かの好きな人を好きになってしまう癖があったの。今思えば、弟が生まれて自分がわがままになっていただけなんだよね。
ごめんね、しほり。

気づけば私は校舎の中にいた。長い廊下を歩きながら、壁にかかった習字に目をやった。私は習字が下手だった。いつもたくみにばかにされていたな。一度だけ彼が通っていた習字教室に行ったけれど、なぜかたくみは私が来ることを嬉しそうに思っていなかったみたいだった。それがどうしても取れない汚れみたいに、私の心に残ってしまった。それからたくみのことを避けるようになったのだ。私は空いていたドアから教室へと入った。小さな机と椅子が並んでいる。私は窓際の一番後ろの席へと向かった。ここが私の席で、となりがたくみの席だった。

「あっ」
夢中になって黒板の写していると、肘で消しゴムが転がっていってしまった。それはスローモーションのように見えた。たくみの足に当たって落ちた消しゴムを見ただけで、私の顔は赤くなっていただろう。私が声を上げたと同時に、たくみは私の方を向いて、消しゴムを目で追いながら椅子を引いた。椅子と床が擦れる音は私の耳に届く瞬間に心臓の音と重なって、ますます大きな音に聞こえた。たくみは素早く足もとに落ちた消しゴムを拾うと、授業中だというのに席を離れてロッカーの方へ移動した。
「返してよ」
私は恥ずかしさのあまりたくみを追いかけたけれど、彼が消しゴムのケースを外すのがわかった。消しゴムに好きな人のイニシャルを緑のペンで書いて、その消しゴムが使い切れたら両想いになれるというおまじないは小学生の私にとって、どこのおみくじやお守りよりも強い力を持っていた。私がそこに書いていたのは「K.H」。かい君のイニシャルだった。りえや他の子と一緒に書いたそれに、私はたくみのイニシャルである「T.I」とは書けなかったのだ。たくみの青いフリースを掴んで私は消しゴムを奪い返そうとした。いつもふざけ合っていたから彼が抵抗してくると私は思っていた。しかし、たくみは消しゴムにカバーをかけ直すとそれをボーリング玉のように前へ転がして、私の腕を払い席に着いた。一瞬の出来事で私は凍りついたようにその場に立ち尽くしていたけれど、たくみの洋服を掴んでいた感覚だけがまだ私のものだった。

しほり。
あのときのことまだ覚えているかな?
俺が消しゴム投げたときのこと。俺、まだ後悔してるんだよ。
あの時、俺、特にしほりのこと好きってわけでもなかったんだ。
しほりだけじゃなくて誰のことも好きってわかってなかった。
ただ、しほりの消しゴムに自分のとは違うイニシャルが書かれてたのみて、なんか無性に腹が立った。考える前にああなったんだよ。それから俺、もしかしたらしほりのこと好きなのかなって思い始めた。でも、あんなことしてなんか普通に話しかけるのも恥ずかしくなって。次第に俺ら昔みたいに笑えてなかったよな。
ごめん、しほり。

気づけば夜になっていた。私は廊下へと足を運んだ。長く、どこまでも続く廊下。薄い水色のカーテンが夜風になびいている。私は窓から外を見た。優しい風が私を包む。風は優しいのに私の体温を奪っていく。冷たくて私はそこから動けなくなる。空に光る無数の星は、目をつけた地点から広がっていくかのように輝きだした。ひとつの光が他に派生して、色を与える。自分が変えたのは自分ではなく相手だったのだ。そう思った。誰かのために生きようと思っていなくても、私は誰かに支えられ、また誰かのために何かを失っている。そうやってお互いに輝きを保っているのだと。

病室に響くのは心臓の音だった。それは機械を通して伝わってくるせいか、冷たく、聞いている者の心を徐々に深淵へと導くものだった。
「しほり、会いに来たよ。」
ベッドに横たわる彼女の手を取ってりえは涙ぐんだ。自分の手が冬の冷たさでしほりの体温を奪ってしまったと感じた。力の入っていない手をベッドの上に寝かせてから、りえは耳元へ顔を寄せた。彼女の長い髪が寝ているしほりの顔にかかった。話し終えてからもう一度手をとって強く握った。そのとき病室のドアが開いた。グレイのコートに紺色のマフラーを巻いた男性が入ってきた。たくみだった。ベッドの脇に座っていた男性が立った。涙ぐんだその赤い目は悲しみを通り越えて覚悟が伺えた。彼は椅子を引いて、たくみを通した。
「しほり」
たくみも手を取ってからしほりの顔を見た。何年もあっていなかったが、笑った顔がたくみの頭をよぎった。たくみもまた自分の手が冷たいことがしほりの手の温かさから伝わってきた。この冷たさで起きてはくれないだろうか、と少し強く握ってみたけれど、その瞼が動くことはなかった。彼もまたしほりの耳元へ顔を近づけた。すこし話してから、しほりの頭をなでた。彼女に触れたのは何年振りだろうか。

私は彼らを通して何か残せたのか。そう考えてみたもいいのかもしれないと思った。廊下の向こうから温かい風と光が見える。私の体はそちらに向かっていった。流れに乗るままに、私は体を預けていた。流れている自分が見えた。幸せそうだと思った。ポケットに入ったままの松ぼっくりを取り出して、外に投げた。松ぼっくりは弧を描きながら窓から外へと流れていった。

たくみとりえは病室を後にした。すっかり温かくなった体は、外に出た瞬間に強張った。言葉は必要とならなかった。しほりが危篤だと聞いてから彼らの中で流れた悲しみの音楽は今鳴り終わったのだ。それは悲しさとは違った感覚だった。冬の空を見上げれば遠くへと広がっていて、その音楽はもうすでにどこか懐かしく感じられた。大人になって忘れていたあのころの想いはしほりの名前をきっかけに、白い画用紙にしみこむ絵の具のように広がっていった。2人は微笑んだ。彼らも久しぶりに会ったのだ。あのころの思い出を語ってもいいかもしれない。この機会はしほりがくれたものだから。冷たい風が彼かを通り抜けた。道脇に植えられた松の木から小さな松ぼっくりが1つ落ちていった。

川のほとりにあるベッド

川のほとりにあるベッド

ふと空にある星を見上げた。1つ、また1つと見つけると、今まで気づかなかった全体に広がる無数の星が自分を包んでいた。しほりが体験する不思議な空間は、彼女ではなく、彼らとともに作り上げたものである。

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更新日
登録日
2013-02-18

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