競技場は、興奮した人々でごった返していた。
 小さな女の子も、その中にいた。お兄ちゃんとその馬が、出場するのだ。
 お父さんがお兄ちゃんに馬を買ったのは、一年ほど前のことだった。
 馬を手に入れるのは、お父さんの長年の夢だったのだそうだ。何年も前に膝を痛めてからは自分では乗らなくなってしまったが、その代わりのように、お兄ちゃんに小さいときから乗馬を習わせていた。
 最新の技術で作り出された新しい馬はまばゆいばかりのメタル色で、これまで見たどの馬よりも美しかった。ただ走るだけの競走馬と違って、馬術大会用の馬は細かく正確な動きをこなさなければならなかったので、馬の中でも最高級とされていた。その中でも、高価な馬なのだよ、と、お父さんは誇らしげに言った。
 みんなで考えて、「メテオ」という名前をつけた。そのメテオと一緒に、お兄ちゃんが今日、初めて大会に出るのだ。まるで自分が競技に参加するかのように、女の子の胸は高鳴った。
 着飾った大人たちに囲まれ、行儀よくするように言われて、手渡されたキャンディを口に含みながら、そわそわとつまらない話を聞き流す。
 話が終わったと思って身を乗り出してみると、すでに一頭の馬がスタートラインについているのが見えた。黄金でできているかのように、ぴかぴかの馬だった。
 プウーッというラッパの音が競技場に鳴り響くと、馬が動き出した。数歩慎重に歩き、早速に障害を飛び越える。
 ちょっと動きがゆっくりね、と女の子は思った。これは馬のせいかな、それとも、乗り手のせいかな。
 二頭目の真っ黒な馬は、色だけでなく、体もずいぶん重たい感じだった。ジャンプするには体が重すぎるのだ。三頭目はすごくよかった。でも四頭目は、細かいミスが多かった。
 そして、お兄ちゃんとメテオが登場した。お兄ちゃんは緊張して見えたけど、いつもどおり丁寧にメテオを動かした。メテオの調子も上々で、たぶんどの馬よりもしなやかに、走ったり跳んだりした。
 それからも、何頭もの馬が出てきては競技場を走り回るのを見ながら、女の子は、お兄ちゃんはそんなに悪くなかったな、と思った。そう思うと、また自分のことのように胸がわくわくした。
 最後の馬が現れたときだった。
 客席から、これまで以上のざわめきとため息を聴いて、疲れ気味だった女の子も思わず身を乗り出した。
 女の子は、ちょっと驚いた。
 そこにいたのは、これまで見たことがあるどんな馬とも違う馬だった。
 体の表面は他の馬たちと同じようにつやつやしていたが、何かが違う。濡れたような柔らかい光沢感があった。体の形も、なんだか違う。お腹やほおの辺りが、不恰好なくらい膨らんでいる。
 演技は完璧だった。他の馬にはなかった弾けるような躍動感に満ち、そして、まるで乗り手と馬がひとつになっているように、息がぴったりと合っていた。だけど、ときどき馬がブルル、と妙な音を出すのを、女の子は不思議に思わずにいられなかった。なにか、ずいぶん特別な馬なのに違いない、と女の子は思った。
最後の馬が競技場を去ると、すぐに結果が発表された。
 優勝したのは、あの最後の馬だった。お兄ちゃんとメテオは、二十頭中七位。初めての出場だったのだから頑張ったほうだ、とお父さんが言い、女の子もそう思った。
 大会が終わって厩に行ってみると、お兄ちゃんが赤く火照ったほおをして、女の子とお父さんを迎えてくれた。
 頑張ったな、とお父さんが声をかけ、メテオはとても調子良かったよ、とお兄ちゃんが返した。
 女の子が、こんこん、とメテオの鼻面を叩くと、馬は、後ろの左足で地面を蹴りながら頭を上下させ、くつわをカチャカチャと鳴らして喜びを表現した。
これが、この馬のくせだった。
 最近は馬も、競技を上手にこなすだけではだめなのだ、とお父さんが言っていた。人に愛されるような特徴を備えているものが、よりいい馬とされるのだ。
 生きた馬なら、そういうことが自然にできた。人間のために働き、人間の友達だった生きた馬たちは、人間と同じように、くせなんかわざわざ作ってやらなくてもくせがあったし、人と人が触れ合うように人と心を通わせることができた。でも、女の子にとって、生きた馬はおとぎ話に出てくる動物のようなものだった。今は、特別なところに行かなければ、生きた馬を見ることはできない。
生きた馬がいなくなってしまったのは、人間が自然にいろいろ手を加えてしまった結果なのだ、とお父さんは言った。お父さんが子どもの頃はまだ見ることができたというから、うらやましかった。
 お父さんとお兄ちゃんは、馬の話をしながら、メテオの点検を始めた。女の子は、馬の体のことはよくわからない。退屈に思って周りの様子を伺っていると、他のところより一段と人が多く集まった一角があることに気がついた。
 優勝した馬だ、と思った。
 好奇心に駆られて、女の子は、吸い寄せられるように人だかりに飛び込んだ。
 ほとんど隙間などないように見える人だかりでも、小さな体で根気よく進めば、通り抜けられないことはなかった。つぶされたり、踏まれそうになりながらも人ごみを掻き分けていくと、急に目の前が開けた。
 女の子が飛び出したのは、馬の前足のところだった。まず、なによりも女の子を驚かせたのは、変なにおいだった。これまでかいだこともないような、ひどいにおい。
 女の子は、それが馬のにおいであるらしいことに気がつく。
 鼻を押さえながら、女の子は、馬の脚、体、そして頭まで、じっくりその姿を見渡した。
 やっぱり、こんな馬は見たことがない、と思う。
 体中が柔らかい短い毛で覆われていた。整然と刈り込まれた黒いたてがみは、ごわごわした感じだった。でこぼこの多い体は、波打つようにときどき震えた。瞳は休みなく動いて、そのたびに微妙な色に変化した。
 女の子は、自分の胸がどきどきする音を耳元に聞いた。
 これは、ひょっとして。
 でも、どうしてこんなところに。
 女の子が馬に見とれていると、カシャッという音がして、カメラのフラッシュが光った。
 その途端。
 馬は金切り声を上げて勢いよくあとずさり、それを見た人々が、驚きの声を上げながら避けた。
「落ち着いて!」
 馬のそばにいた青い乗馬服の若い男の人が、手綱をしっかりと引いて馬の首を自分の方に引き寄せた。馬は最初、いやいやするように首を振って足を踏み鳴らし、抵抗したが、男の人が根気よく、どう、どう、と声をかけると、やがて諦めたかのように大人しくなった。
 張り詰めた雰囲気が、ふぅっと緩んでいく。
 女の子は、不思議だった。
 今まで、止まっている馬を怖いと思ったことは、一度もなかった。馬はあらかじめ人に危なくないように作られていたから、走っている馬の前に飛び出しでもしない限り、馬を恐れる理由はないはずだった。もし馬が人を危険な目に遭わせようものなら、修理工場に連れて行かれるか、悪ければ「廃馬」にされることになっていた。「廃馬」になると、馬は二度と戻ってこない。お金がいくらか戻ってくるのだ、とお父さんは言っていた。
 だが今、人々は確かに馬を恐れて避けようとしたし、女の子だって、思いもよらず後ずさりした大きな体を、怖いと思った。
 そして、青い乗馬服の男の人は、まるで人間に話しかけるかのように、馬をなだめたのだ。馬も、男の人の言葉を聞き入れた。
「もう一度言いますが、生きた馬は、機械の馬と違って神経質なのですから、正面からのフラッシュでの撮影は控えてください。」男の人が、いくらか不機嫌な声で言った。「慣れないところで、機械の馬に囲まれているから、ただでさえ気が立っているんです。この馬には、あなた方と同じように神経や感情があるのだということを、忘れないでください。」
 女の子は、思わず悲鳴を上げそうになった。
 やっぱりこれは、あの、生きた馬なのだ。
 絶対に見ることなんかできないだろうと思っていた、本物の生きた馬なのだ。
「でも、そんなに貴重な生きた馬を、なぜここに出場させようと思われたのですか?」人ごみの中から、声だけが飛んできた。「馬にとっても、そして人にとっても、危険かもしれないのに。」
「そうでしょうか?」男の人が、もう不機嫌ではない声で、答えた。「馬はむかし、人間の友達でした。人間のごく近くに住んで、生活を支えてきた。人と馬が協力することは、人にとっても馬にとっても、少しも危険なことではありません。ルールを守りさえすれば。」
 女の子は、馬と人が一緒に住んでいるところを想像してみた。本当に、おとぎ話の世界のようだ、と思う。
「でも、それではなぜ、馬は保護区に入らなければならないのでしょうか?馬と人がともに住むのが、危険なことではないとしたら?」誰かが言った。
「さあ、ぼくには、わかりません。ぼくが保護区を作ったわけじゃないから。」男の人が、肩をすくめてみせた。「でもぼくは、馬が保護区に入らなければならなくなったのは、人間が馬とともに住むことを止めてしまったからだと思います。」
「それは、どういうことですか?」すかさず、質問が飛んできた。
「人間が馬とともに住むことを止めてしまったら、馬が住むところがなくなってしまった。
 馬だけじゃない。むかし人間のそばにいた多くの生き物が、保護区に入ってしまいました。いや、動物だけじゃありません。ごく自然な森や山や川が保護区の中だけに残され、人間の目に触れることが少なくなってしまいました。そこで、動物たちはなんとか生きているんです。」
 人間は、どうして動物たちと一緒に住むことをやめてしまったんだろう、と女の子は思った。どうして森や山を遠ざけてしまったんだろう。だけど、女の子は質問できなかった。
「その馬をここに連れてくることに、反対はありませんでしたか?」
「ハヤテ、と呼んであげてください。この馬には、ぼくたちと同じように名前があるから。」
 ハヤテ、と、女の子は、口の中で呼びかけてみる。
 馬は、もの珍しさや、喜びや戸惑いや、虹のように多彩な色に満ちた目で、女の子をじっと見ている。その表情は穏やかで、今は恐ろしいところが少しもない。
「反対は、ありました。」男の人が言った。「保護区の動物たちについては、常に論争があるのです。なるべく自然に近い状態で保護すべきだ、という人と、人と触れ合わせるべきだ、という人と。保護区の管理人をしていたぼくの父親は、人と動物は触れ合ったほうがいい、と思っていた。だから、ぼくは、小さいときから保護区の動物たちと一緒に過ごしてきました。そして、ハヤテと友達になった。」
 女の子は、そっと手をハヤテの鼻の前にかざしてみた。
 だれかが見咎めるかと思ったが、そうはならなかった。大人たちは、限られた時間を、生きた馬を見ることより、質問で使い果たすことで、必死になっているようだった。
 ただ、青い乗馬服の男の人だけが自分のほうを見たような気がしたけど、男の人は何も言わなかった。
 ハヤテが女の子の手を嗅ごうとしてぶふん、と息を吐いた。その感触は、生温かくて、くすぐったかった。
「父でさえ、ぼくとハヤテがここに来ることには反対でした。ぼくがハヤテと友達になったのは、人に見せるためじゃないだろう、と。でも、ぼくは見てもらいたかった。人と馬が一緒に生きて、友達になることができるということを、機械の馬しか知らない人たちに。」
 女の子は、男の人の目が、ハヤテの目と同じようにきらきらと輝いているのを見た。でもすぐに、ハヤテを取り囲んでいる大人たちの目が同じでないことに気がついて、驚いた。女の子は、自分の目はどうだろう、と思った。
 質問は、もう終わったようだった。
「もう行かなければなりません。」男の人が、周りの人に、というよりは、ハヤテに向かって、そう言った。
 女の子がハヤテから少し離れると、男の人は手綱を引きながら、女の子のすぐそばまで歩いてきた。
 目が合うと、男の人は女の子に向かって、何か共感を求めるようとするように、わずかにほほえんでみせた。
男の人のすぐ後ろを重たそうに歩いていくハヤテが、目の玉だけを動かして、最後にもう一目、女の子のほうを見た。黒く光る、きれいで優しい目だった。
 毛並みも乱れていたし、ひどいにおいも相変わらずだったが、女の子は、歩き去っていくハヤテを、まぶしい思いで見つめ続けた。
ハヤテが去ると、自然と人垣が消えて、女の子もお父さんとお兄ちゃんとメテオがいるところに戻った。
「お兄ちゃん、あの馬、生きた馬だったよ。」
「え、まさか。」お兄ちゃんが、笑いながら言った。「見てみたかったなあ。」
 いつも女の子と一緒に熱心に生きた馬のむかしのテレビを見ていたお兄ちゃんが、本心からそういったのか、それとも、青い乗馬服の人に質問することばかり考えていた大人たちのように、全然相手にしてくれていなかったのか、女の子にはよくわからなかった。
 女の子は、もう一度メテオの口元に手を伸ばしてみた。メテオが轡をカチャカチャと鳴らし、足を踏み鳴らす。手に触れたその鼻は硬くて冷たく、いつもは愛らしいと思っていたくせも、今はわざとらしく、つまらなく思えた。その瞳を覗き込むと、きれいではあったけど、怖くなるくらい空っぽだった。
 メテオはちっともくさくなかったけど、わずかにオイルのにおいがした。
 あんなに自慢だったこの馬を、これからも好きなままでいられるかどうか、女の子にはわからなかった。

都会の人にとっては行くところに行かなければお目にかかれない生きた馬、そのうち本当に生きた馬に会えなくなってしまうかもしれません。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-17

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