越えてゆく波(ハードル)

越えてゆく波(ハードル)

 私は小さな魚。
 師のイオがそう例えたからだけど、私は気に入っている。
 さかなのほね町という漁村、その網元の娘に生まれ。臆病な私にはちょうど良いと思う。
 イオは自分のことをキジに例えた。格好いい男の人が好きだから、らしい。 
 一人前の魔女になること。
 それは、小さな魚が竜になるようなことと言ったら、いつものように彼女は笑った。
 私はキジであっても、竜ではあーりませんと。
 でも、少なくとも嵐の魔女は竜そのものだ。
 竜でなければ、金色の鬣を持つ灰色狼。
 そのことを話すと、嵐の魔女は微笑むというには笑いすぎ、笑うというには抑え気味に笑った。

パーシと凍梨

 その丸い部屋には天井がない。青い空が見える。鳥が渡っていくのさえ見える。
「それでは、あとはよろしく頼みますね」
 陽光のような髪を肩の辺りで切りそろえた嵐の魔女は、冬の日差しのような微笑みを残して出ていってしまう。心細さにその黒いワンピースの背中を目で追っても、魔女は振り返ってもくれない。
 魔女のたまご(魔女見習い)のパーシは眼鏡の位置を直しながら、緊張を紛らわしたくなって息を小さく吐き出そうとした。でも、すぐに思い当たって、それは口の中にしまっておいた。失礼にあたるだろうから。
「とんだ魔女だねぇ」
 そのしわがれた声に、パーシは体を小さく震わせるように背筋を伸ばし。視線をゆっくりとおばあさんの方へ向けた。
 パーシは今になって初めて、ベッドの上で体を起こすおばあさんの顔をちゃんと見たような気がした。
 古木のウロのように、ぽっかりあいた穴のような黒い瞳。
 おばあさんはまさに枯れ木だ。
 額や頬には、砂地を熊手でかいたかのような滑らかで整然とした皺が並び。顎と右目の下には、まるで霜で凍った梨のような黒ずんだシミが、点々と染み込む。収まりの悪い白髪は雪解けの砂利のような色をしていて、背中で、編んだ藤蔓のような髪留めでまとめている。
 恐ろしげな姿のおばあさんだけど、パーシは怖いとは思わない。小さな頃から貝剥きに精を出すお年寄り達を見てきたこともあるし、施療師と呼ばれるお医者さんのような魔女を目指すパーシにとって、様々な老人達の家を訪ねて、そうした老人達の目になったり、耳になったり、杖代わりの手を差し出すのは、日々の務めであるからだ。
 ニっ、とおばあさんは、タバコの脂だろうか? 黄ばんだ歯を見せて。
「そうは思わないかい?」
「え?」
 パーシは言葉に詰まってしまう。
 おばあさんは怖くないのだ。パーシにとって見ず知らずの人と話すことが、怖い。
 しかも、このおばあさんは見ず知らずではないのだ。そう、初めてじゃない。
 私は何をやっているんだろう、とか思う。
 一人前の魔女たちなら、こんなときに言葉に詰まることはない。表情だってこんな仮面を被ったようにこわばっていないで、もっと、もっと、自然なはず。
 けれど、落ち着かなければ、何かを言わなければ、喋らなければ、と思うほどに、パーシの口からは何も言葉が出てこなくなる。
 顔がどんどん熱くなってきて、目からは涙がこぼれそうになって、眼鏡が重くなったかのように、うなだれてしまう。
 おばあさんは舌打ちをしてから。
「なにも、さっきの魔女を悪く言う気はないさ。ただ、ちょっとだけおかしい。若い内は、そりゃブナのようにを張り葉をたくさん付けて、周りに木々にもお構いなしでもかまわないさ。でも、ありゃまるで昔話に出てくる魔女のように、ブナのようなちゃちな根の張り方じゃない。まるでトネリコそのものだ。ん、いや……そうだ。ありゃクヌギいや、ケヤキ、そうケヤキなのかねぇ。ああいう昔話に出てくるような魔女は見た目だけの姿じゃない。おっかないもんさ。お嬢ちゃんはどう思う?」
 黒目の大きな瞳がパーシを見ていた。
 おばあさんの言葉はまるで、年老いた魔女のように煙に巻くかのようにも思えるけど。年老いた魔女の言葉と同じように、本当にその言葉一つ一つにしっかりとした意味がある。
 けれど、今、本当に言いたいことは、それら言葉の意味ではない。ちゃんとパーシが何かを言えるよう余裕を与えるために、おばあさんはこんなしゃべり方をしてくれた。
 そういう風にパーシは考えた。
「た、確かに、あの方は昔話に出てくる魔女そのものですけど」声はいつものようにボソボソしていて、きっと聞き取りにくいものだし、顔のこわばりはとれなかったけれど。微笑むことは出来ている、と思う。「尊敬すべき魔女です」
「そうかい。そうかい」
 おばあさんは喉の奥でヒヒヒと笑う。
「そうです」
 そう答えながら、でも、パーシは困った。 
 この先、どんな言葉を続けていけばいいのか? 頭の中には何もなかった。
 まずい。まずい。
 どうしても、このおばあさんと何かを話しをしたいと思い。魔女エバーミストにお願いしたのだ。なのに、パーシにとって他人と何かを話しをすること自体が苦手だ。
 声は小さい頃から、ボソボソ言っているようにしかならないし。
 要点を上手くまとめて話すことなんかできない。
 おもしろい話題を出すこともできない。
 そうこうしている間に、またお婆さんとの間に沈黙の時間が生まれてしまう。
 心の中で思わず溜息をついた。
 いつもそうだ。
 どうにかしなくては。
 そう心の中で呟くたびに、頭はどんどん白くなっていくかのようで、何を言っていいのかさえわからなくなる。
 会話は慣れで~す、とパーシの師匠である魔女イオは言っていた。でも、会話に慣れている自分なんて想像も出来ない。
 でも、何かを言わなければ、何かを話さないと。
 私が魔女エバーミストに頼んだのに。
「あ、あの」
 頬から火が出ていると思えるくらい熱い。
「なんだい」
「あの……」
 声はパーシの耳でさえも、消え入りそうに思えた。
「慌てることはないよ。私はここから逃げられないさ」
「あの……」
 こんなことを言っては変だろうか? と思ったけど。
「なんだい」
 同じ言葉を同じように語りかけてくれるおばあさんの、怖くも優しい顔に口から言葉が出てくる。
「昔の話しです」
 その言葉はどうにか出た。胸がドキドキする。
 変な風に思われてはいないだろうか?
「昔話かい?」
 おばあさんの優しげに見える顔に、勇気を貰ったつもりで続けた。
「そうです。私が子どもの頃の話しです」
「昔と言っても、瞬き程度でじゃないか」
 パーシは次の言葉が出せなくなった。でも、おばあさんの話は続く。
「あんたは、まだまだ子ども、タネから芽が出たばかりのようなものさ。そんな若い芽が何を言おうと私は驚きやしないよ」
 パーシは小さく息を吐き出した。
 おばあさんは話しをちゃんと聞いてくれる。
 このまま話そう。
 悲しい訳じゃないのに、涙がこぼれそうになるのも構わず話を続ける。
「子どもの頃。野っぱらにある木のたもとで本を読むのが好きだったんです」
「眼鏡をかけてるのは、そのせいかい?」
「え? はい。あの、その、母も、姉も目が悪いから先祖代々かも知れません」
「ん?」
 おばあさんは、何かを思ったのか大きな黒目の瞳を細めた。
「おまえさん、姉がいるって言ったね。悪ガキ共を棒きれで追っかけ回していた子の妹さんかい」
 パーシは小さく口を開けて、
「そうです。姉は子ども達のボスだったらしいですから」
「ああ、おぼえてる。おぼえているとも。いい魔女になれたかい?」
 パーシはおばあさんの顔を見て、言葉に詰まってしまう。
 パーシの姉、十歳近く歳の離れたエララは、かつてパーシのように魔女のたまごとして修行をしていた。けれど、彼女は結局魔女にはならなかった。
 パーシが小学校に上がったばかりの頃。住み込みをしていた大ババ様の家から帰ってくると。次の季節には、奨学金を得て上の学校にいって。今は小学校の先生をやっている。
 そのことを素直に言うことができずに、パーシは首を横に振った。
「そうなのかい? 意志の強そうな子に見えたんだが」
 また小さく息を吐き出して。
「姉は、その、小学校の先生をやっています」
「は、それは、また。お似合いだね。天職を得た訳か」
 おばあさんはここにはない何かを見るかのような目をした。
「どうして、そう思われるのですか?」
 パーシは自分でも驚くくらい、とっさにその言葉が出た。
「ん? 昔、ひどく昔だ。ある魔女がね、言うにはだ。魔女になるだけが全てではないよ、とね。もう顔も覚えてはいないが、そんなことを言う不思議な魔女がいた。ああいう闊達な子が、さっきのとんでもない魔女のようになったら、それは悲しいことかもしれない。そうならなかっただけ僥倖さ」
 おばあさんはパーシの目を見るように視線を向ける。
 パーシは、いつの間にか、握り拳を作っていて、それがじっとり汗をかいていることに気が付いた。
 おばあさんの視線を堪えていたからではなくて、一つの質問をしたくなったから。
 心の奥で渦を巻く感情は一つの質問を求めていた。
 苛立ちにも似た心の高まりを口から出してしまおうと、開いた口で息を吸い込んで、
「私のことは、何か覚えていませんか?」
 そう一気に言ってしまいたかったのに、パーシのノドは張り付いたようになって声がまったく出てこない。
 おばあさんはパーシを優しい目で眺めた後、青空の見える天井に顔を向け、
「ある日。お前の姉さんが怒りながら、ちっちゃい眼鏡の子を連れてきて、泣いている女の子を無理矢理、木に登らせたことがあった……」
 パーシの心の中に花が咲いたようになる。今までの焦燥もすっかり消え失せた。
 ある感覚が蘇ってくる。
 何度も滑ったので手のひらが痛い。でも、ゴツゴツしたコブに、確実に足をかけ、ザラザラする樹皮のわずかな出っ張りを見つけては手で掴む。手や膝は何度もすりむいて痛いし、お家に帰りたいのに、お姉さんは許してくれない。
 惨めな気分は確かにあったけど、でも、今は確かに木に登れている感覚があって、どんどん自分の背が高くなる感じがした。
 最初の枝にしっかり手がかかり、体を引き上げる頃には、自然と笑っていた。
「……その女の子は日が暮れるまで結局、最初の枝までも登れなかったけど。月が上がり始めたころ。そうだね、まあるい満月が……」
 パーシはおばあさんの言葉の先を言った。
「灯台のてっぺんをかすめたころ。やっと登れました」
「やっぱり。あんたは、あの泣き虫の女の子かい」
「はい」
 パーシは涙がボロボロ頬を伝っていくのを感じた。
 力を込めて、確かな場所を手足で探るようにして木に登る。枝に手さえかかれば、後は枝を渡りながら登ってゆくだけ。
 下から数えて五番目の枝はすごく座り心地がよくて、木の幹に深く寄りかかることができたから、そこで本をよく読んだ。何度か本に夢中になりすぎて危ない思いをしたけれど、一度も落ちることがなかった。
 その枝からは、こんもりした葉っぱの壁が切れた先に、港の海が見えた。
 夏の木を包む緑のカーテンの美しさ、その隙間から見える海の青いきらめきが心の中に広がってゆく。
 おばあさんは、孫娘に会えたかのような微笑み浮かべて。
「大きくなったねぇ」
「はい」
 その返事に、おばさんは笑顔で大きくゆっくりうなずくと、姿がすっと消えた。
「魔女さん方。もういいですか?」
 なんて、最低なんだろう。とパーシは思う。
 もう、そこには、おばあさんが体を起こしていたベッドもなければ、空が見える丸い部屋もなかった。
 目の前にあるのは、一昨日の嵐で、幹の途中から折れた桂の古木。古びた樹皮は、おばあさんの肌を思わせた。
 パーシとエバーミストの他に、作業着姿の男の人たちが立っていた。「もういいですか」と声をかけてきたのは一番偉そうなおじさんだ。
「いいですよ。済みました」
 エバーミストはおじさんに軽くお辞儀する。
「おいやってくれ」
「はい」
 若い作業員たちが、一斉にチェーンソーの点火コードを引くと、凶暴な牙を持つ獣たちが咆哮を上げた。パーシは思わず耳を塞ぐ。
 目の前で野蛮なことが行われているようにすら思えた。
「パーシ。この木は死ぬことはないのですよ。なんでも、風車に生まれ変わるそうです。これから先、灯りを付けるたびに、おばあさんのことを思い出してあげてください。もっとも、魔女の本だけは電気の灯りよりもランプをオススメしますが」
 不思議なことに、エバーミストの声だけはチェーンソーのけたたましさの中でも、はっきりと聞こえた。

 ◇ ◇ ◇

 この人は本当にすごい。
 隣を歩く魔女を見て、そうパーシは思った。
 あの思い出の木の惨状を目にして、悲鳴を上げそうになったとき。「パーシ、この木とお話ししてみましょうか」と言葉をかけてくれた。古木のおばあさんと話すのは今のパーシでは無理なこと。せいぜいがんばっても、古木が見てきた風景をおぼろげに見るのが精一杯だ。
 でも、彼女の魔法によって無理なく古木と話すことができた。
 どれだけ救われたことか。
 あのおばあさんと話すことが出来なかったら、きっと後悔していた。もっと、もっと悲しかった。
「何かありましたか?」
 隣で歩くエバーミストは微笑みを向けてきて、パーシは現実に引き戻された。
 急に頬が熱くなり、心の中で考えてしまったことをエバーミストに覗かれたような気がした。眼鏡が重くなったように首が曲がってしまう。
「い、いえ。なんでもないです」
「本当に、なんでもないですか?」
「あ、あの、さっきはありがとうございました」
 矛先を変えようとした言葉と一緒に、パーシは小さなねずみにでもなったかのように、ぺこりと頭を下げる。
「礼には及びませんよ。いい授業になったじゃないですか」
 パーシは魔法の授業をエバーミストにも見てもらっていた。別に珍しいことではない。魔女によっては得手不得手があるものだから、師匠が不得手とするところを別の魔女に見てもらうだけの話しだ。
「でも、せっかくの授業が変更になってしまって」
 そのパーシの言葉は口には出なかった。エバーミストに口答えをするようで畏れ多く感じた。
「パーシ」
 遠くにいる人を呼ぶような、そんな感じでエバーミストはパーシの名前を言う。
「なんですか」
 パーシはエバーミストに口答えしそうになったことが悟られたと思った。
「古木とは、どのようなお話しをしたのですか?」
「昔話しです」
「昔話し?」
「えーと、その、子どもの頃。木登りが出来なくて、姉に練習をさせられたのです」
「そのことを木は覚えていましたか?」
「はい」
「よかったですね」
「はい」
 エバーミストの微笑みに釣られたかのようにパーシも照れ笑いっぽく微笑んだ。
 突然、何の前触れもなくエバーミストは立ち止まる。
「う~ん」
 パーシが振り向くと、エバーミストは顎に手をやり、その手の肘を左手で支え、考え込むようなポーズを取っていた。
「どうしたのですか?」
 パーシは不安になる。パーシと同じように、エバーミストに授業を見てもらっている魔女のたまごのミュウが、エバーミストが考え事をすると、必ず怖いことが起こると言っていた。
 実際何が怖いのか、その話しだけでは要領を得なかったけど、これは何か課題を出される時の合図のようなものらしい。
 そう考えれば、確かに怖いかもしれない。エバーミストの出す課題は確かに怖い。一筋縄ではいかないものだらけだ。
 でも、彼女の言葉はパーシの予想からずれていた。
「姉と言えば、私にも姉のような方がいました」
 エバーミストにも自分のように姉がいたということが、パーシには意外に思えた。姉のような方と言うから、血の繋がりはないのかもしれない。でも、姉という言葉が連れてきたエバーミストの背景にある生活の匂いは、意外としか思えない。
 以前、エバーミストは六歳の頃に魔女になったと言うから。たしかに六歳の頃もあったのだろうけど。子どもが大人を見て思うように、エバーミストは生まれたときからずっと今のエバーミストだと無意識に思っているようなところがあった。
 古木のおばあさんが言っていた「とんだ魔女」とまったく同じで、パーシ自身、エバーミストをそんな目で見ていたことに、あらためて気が付かされた。
 でも、エバーミストは見た目はもちろん若いけど。雰囲気がパーシの知る十七、八の人達とはまったく違う。
 六歳で魔女として認められ、十歳で施療所を構えた。魔女となるべくして生まれてきたような人だからか。
 陽光のような髪がそうさせているのだろうか。
 昔の魔女のような黒いワンピース姿がそうさせているのだろうか。
 多分、私と三歳くらいしか歳が離れていないのに……。
「顔に何か付いていますか?」
 その言葉は、パーシをいきなり考え事の世界から現実に連れ戻した。
 パーシは顔から火が出る思いで顔を足元に向けた。いつの間にか、じっとエバーミストの顔を見ていたのだ。
「な、何でもないです」
「そうですか? まぁ、いいとしましょう。パーシ、宿題を出しますよ」
 不意打ちに、パーシは改めてエバーミストの顔を見た。
 こういうときもエバーミストは微笑んでいる。でも、狼が微笑んでいるように思うのは私だけだろうか、とパーシは思う。
 たまに見せるのだ。
 エバーミストを金色の鬣をもつ灰色狼に例える理由が。
「宿題ですか?」
「そうです。お姉さんのことについて調べましょう」
 お姉さん?
「姉について、ですか?」
 パーシは自分の耳を確認するかのように聞き直した。
「そうです。お姉さんに関することならなんでも調べてみてください」
 パーシはここで気を緩めようとは思わなかった。エバーミストの言葉は続いている。
「ただし、お姉さんにはわからないように、それとなくです」
 やっぱり、と思う。でも、
「どうして姉なのですか。それにプライバシーは?」
 言ってしまって、あっ、と思う。その言葉はどう聞いても、エバーミストが出す宿題に対する疑問や、完全な口答えだった。
 けれど、エバーミストは微笑みでパーシの言葉を受ける。
「パーシのそうやって問題点や疑問点をすぐに言葉にできるのは、施療師向きだと思いますよ。でも、いつも身近にいる人の疑問とも思わないことに目を向けることも、パーシが施療師になったときに必要だと思います」
 パーシはエバーミストの声が急に、遠くに感じられた。
 まだ、一人前の魔女として認められてもいないし、それすらもの凄く遠く感じるのに。エバーミストはその先のこと。魔女として認められた先。村で必要とされる病気や怪我の治療や、まじない、季節のまつりごとを行う施療師の話しをしていた。
 施療師になることは、パーシの最終的な目標だ。でも、それは霧のかかった沖合の岩礁のようなもの。まだまだ魔女という世界の海に入ったばかり、(ハードル)が膝を叩くくらいで、水をかいて本当に泳げるかわからないのに、岩礁を越えた先で必要とされることをエバーミストは言っているように思えた。
 小さな魚は、沖へ出ようともがけばもがくほど、大きな波に戻される。その繰り返し。
 本当に魔女として一人前になれるのだろうか? 
 心の中の誰か。心の中の弱い部分の誰かがそう呟いたように思える。
 魔女にならなかった姉も同じことを思ったのだろうか?
 パーシは稲妻に打たれたように体を震わせた。エバーミストが柏手を一つ打ったからだ。
「あまり難しく考えなくても大丈夫ですよ。パーシがパーシのお姉さんの知りたいと思うことを何でもいいから、お姉さんにわからないように調べればいいだけの話しですから」「はい」
 やってみよう。
 なぜ、姉は魔女にならなかったのか調べてみよう。
 エバーミストはパーシの横顔を見て満足そうに、うなずいたけど。
 パーシはそのことには気が付かなかった。

パーシとエララ

パーシとエララ

 十離れた姉は、本の中に現れる物知りな探検家や、竜と通じあえる少年よりも、もっと身近なヒーロー。
 ヒーローよりも竜そのものかもしれない。
 からかったりする男の子たちを蹴散らしてくれる。
 それ以上に、からかわれる私を許さない。
 日が暮れるまで木登りをさせられた。
 泳げるようになるまで浜に上げてくれなかった。
 飛び込みが出来るまで家に帰らせてくれなかった。
 まともに走れないような私が、運動会でビリになったことがないのは、姉のお陰。
 でも、最後まで付き合ってくれる。

パーシの魔法

 大ばば様の家に住み込みをしていた姉がトランクを片手に帰ってきたのは、どんな日だったのか。パーシは良く覚えてはいない。
 五歳という歳は、それまで両親の笑顔とか、近くの家の幼馴染みの顔、大好きなぬいぐるみの重みと愛らしさしかなかった小さな世界に、急に学校という世界が加わり、広がりを見せてゆく歳。
 でも、そのほとんどが柔らかい光りの中に消えている。よく読んでいた絵本の魚、竜、灰色狼、そして魔女たちの姿。小学校で新しく出会ったお友達やいじめっ子、優しい先生や良く怒鳴る怖い先生。新鮮で刺激に満ちた、勉強という形で与えられる知識。家を出入りする大勢の大きな男たちや、港に持ち帰られた絵本の竜よりも怖いと思った巨大魚の姿。様々なイメージが出ては来るものの、例えば、進水式を見に行ったのは、三歳の時の出来事であるのに、五歳の時だったと、いつも誤解している。理科の勉強で見た巨大魚だって鶏冠が赤だったとか、腕がついていたような気がしたり(それは魚ではなく海獣と呼ばれる別の生き物だ)目玉が八つあったり九つあったりと、あまりはっきりしない。
 ただ、五歳の頃から、何度も、何度も、しつこいくらい。なぜ、魔女のたまごをやめてしまったの? と、姉に聞き続けた。そして、いつも答えは同じ。そのことはよく覚えている。
 でも、今はもう尋ねることはしていない。パーシが七歳を過ぎたあたりから、質問の答えがいつも同じであることと、その質問が、姉の秘めたる場所へ土足で踏み込むようなことだと思い始めたから、質問できなくなった。
 そのかわりであるかのように、いつの日からか、パーシの中には一つのイメージが出来上がっていた。
 いつもと変わらない家。その扉が開くと、トランクを片手に帰ってきた姉が立っている。姉は、くすりとも笑わずにこう言うのだ。
「私の性に合わないから、魔女はやめにした」
 姿は、今の姉でも、写真に写る一五歳の姉でもない姿。
 声だけが今の姉。
 言葉は、いつもの答え。
 そのとき、姉の言葉を聞いているパーシの手の中にあるのは、パーシが魔女を目指すことを家族に話した日に、姉からわたされた古ぼけた小さな皮の袋だ。
 パーシは小さく溜息をついて、考えるのをやめた。
 考え事をするときはいつもそうするように、今も、自分の部屋の机の前で、背中に定規を当てているかのようにキッチリ背筋を伸ばし。顔の視線は窓の外、港の方を。心の視線は、ずっと心の奥底まで見通すようにしていた。
 一度決まったはずの心が揺らいでいた。
 エバーミストと別れたすぐ後に、姉のことを調べることに迷いが生じて、家に近づくにつれてその迷いは大きくなり。母に挨拶をし、自分の部屋に上がる頃には、エバーミストの前で決心をしたのは、自分とは別の自分。例えば、エバーミストがするはずがないのだけど、魔法によって言わされたような気さえしていた。
 溜息が洩れる。
 今度は、エバーミストの言葉、そのものをよく思い出そうとした。
 最初、エバーミストは姉のことについて調べましょうと、言った。
 それだけのことなのに、なぜ、私は取り乱してしまったのか。
 そう心の中で問いかけながらも、パーシにはわかっていた。
 姉が魔女にならなかったこと。魔女のたまごをやめてしまったことが、小さな頃から、パーシの心の奥底に沈んでいた。
 その心の奥底に沈んでいるモノ総べてをエバーミストに見られたような気がして、取り乱したのだ。
 この心の奥底に石くれのように落ちているモノ。その裏側。
 石くれの裏側にくっついているダンゴムシのようなものまで、すべて見られてしまったような気がした。
 でも、その石くれのように落ちているモノの正体がよくわからない。
 姉が魔女にならなかったこと。
 私に、どんな意味があるのだろう?
 恥に思う?
 恥じゃない。魔女になるならないは、最後は自分だけの選択だと、イオは言っている。
 厳しくも優しい姉が、自分には甘かったから? 魔女にならない別の道を安易に、妥協してしまったから?
 あれが、妥協と言えるだろうか、とパーシは思う。上等学校の五年間でやることを半年、独学でやってのけ。師範学校へ行くのに奨学金を受けて、お金は一切両親から貰わなかった。姉なりのけじめの付け方なのだろうけど、魔女になるよりも容易だとは思えない。
 他人に厳しいところがある姉が、自分にはもっと厳しいことをよく知っているつもりだ。
 パーシは溜息をついた。
 不意に、あの姉から貰った袋が気になった。あの、魔女になると決めた日に貰った袋。
 パーシは席を立つと、「翡翠の宝箱」を本棚から取った。もちろん、箱は、本物の翡翠でできているわけではない。翡翠のような色をした貝殻が貼られたお気に入りの小箱で、幼い日からずっと大事なものをしまってきた宝箱だ。
 箱の中には、おばあちゃんから貰った銀でできた指ぬきや、お祭りで姉に買って貰った魚のアクセサリとか、浜で拾った七色に光る竜骨とかが入っていて、そのキラキラ光る宝物の中に、古ぼけた革袋が入っていた。
 袋の中は、まつかさのような長い一枚の羽根を持つ、桂の木の種がいくつも入っていた。
 一目見て、魔法がかけられているようには見えない。先ほどの桂の木のお婆さんのように、この種達とも直接話しができればいいのだけど、パーシにはその力はなかった。
 パーシが今できるとすれば、種が持つ記憶、種がどのように生まれ、どのような人たちの意志や感情、手を経て、ここにあるのか。それらを記憶の世界に潜って見ることが精一杯。それだって大変な危険を伴ってしまう。
 パーシは、姉が袋をくれたときに言った言葉を諳んじてみた。
「私にはもう意味がないから、あなたが判断するの」
 ああいうとき、姉は「使いなさい」とか、「持ってなさい」何て言葉は使わない。
 あなたはどうしたいの?
 あなたの考えはどうなの? 
 いつもそう。
 泣かされて帰ってきたときも、姉は涙を拭いてくれながら、ゆっくり、ゆっくりパーシに合わせて聞くのだ。
「誰がやったの? 何があったの? そいつは私がぶっ飛ばすけど。あなたどうしたいの?」
 いつも姉にいじめっ子達に仕返しをしないことを約束させてから、その日のことを話すのだ。
 どうしたいの?
 あなたの考えはどうなの?
 パーシは姉の声で自分の心に問いかける。
 本当に、私はどうしたいの?
「秘密を知りたい」
 耳がその声を拾ってはじめて、パーシは心の中の言葉が外に出てしまったことを知った。


 パーシはノートに基本プランを書くことにした。
 姉がいつも帰ってくる七時をタイムリミットとして、今は三時を回ったところ。
 約四時間。
 自分が知っている魔法やおまじないで、姉の秘密を知るのに、役に立ちそうなものを書き出していく。その中でひときは大きく書いた「物の記憶を見る魔法」に丸を付けて、そこから矢印を一本のばし、安全と書いて丸をし、そこから、いくつかの矢印の先におまじないの名前を書いたけど「ボビンのおまじない」にだけ丸をして、そこからさらに三本の矢印を伸ばし、糸車、香油、紋章と矢印の先に文字を書き添える。
 このやり方は、エバーミストの黒板を真似た。
 エバーミストは考え事や、施療の方針、魔女のたまごたちの授業に関すること、薬草に関すること、様々なことを黒板に書き付けるのだ。あたかも自分の記憶や考えの一部を黒板に移し置いておくかのようにもみえる。そうして、黒板の上で、目に見える形にした記憶や考えを練ってゆくのだ。
 ちょっとやり方は違うのかもしれないけど。ノートに必要な物を書くことで、ミスを減らしたり、頭の中で形にならなかったアイディアが形になったりするのは確かだった。
 ノートの上で、様々な書き付けや、注意、道具から伸びた矢印が混ざりあったあと、パーシが立てた作戦はこうだ。
 姉の部屋に忍び込み、部屋そのものが持つ記憶から、姉の想いを覗き込む。
 エバーミストがパーシに桂の木の意志と会わせたように、今度は、自分一人で、姉の、姉の部屋に残っているはずの、魔女のたまごをやめたころの記憶と出会う。
 姉の記憶そのものではないけれど、人が生活をした空間や大切に扱われた物には、必ず、その人の想いや記憶が溶けだし、覚えている。生活した部屋は、その場で起きた出来事だけではなく、心から溶けだした記憶や想いを抱えているのだ。
 けして姉は語ってはくれないだろうし、姉にわからないようにして秘密を探るには、そうしたかすかな記憶を糸口にするしか考えが浮かばなかった。
 記憶の世界へ潜り込むのは危険なことだし、まして許可を得ずに姉の記憶を覗いてしまうことへの罪の意識や抵抗感も心の中でくすぶっている。だいいち、本当にパーシが知りたいと思っている姉の想いを、記憶しているとは限らない。
 でも、どうしても秘密を知りたかった。 
「とにかく、まず、安全から」
 パーシは自分に強めの声で、そう言い聞かせた。ノートに書かれた安全から伸びる矢印の先「ボビンのおまじない」に取りかかるため、席を立ち上がった。
 物の持つ記憶を見るのは、それだけなら難しいことではない。今までの授業や、練習によって、パーシでも、物の持つ記憶の世界へ潜り込み、覗くことはできる。
 でも、記憶や意志というモノは凄く厄介で、危うい迷路そのものなのだ。潜り込むことは、暗く深い森の中に入りこむことと同じで、一度入ると出られなくなってしまう危険性も秘めていた。
 その危険を減らすために、「ボビンのおまじない」が必要と、パーシはノートの上で考えた。
 「ボビンのおまじない」は、糸車のボビンを使った数多くのおまじないの一つで、元は迷子にならないようにするためのものだけど。今、パーシが行おうとしているのは、ボビンに巻かれた糸を命綱にして、記憶の森の中で迷子にならなくするというものだ。
 パーシは居間にいた母親から、青い毛糸の巻かれたボビンを借りて部屋に戻った。
 少しボビンが小さいことと、毛糸が少ないことが気になったけど、家にこれしかない、と言われれば、仕方がない。
 ボビンを机の真ん中に置き、父親から貰った真鍮でできた方位磁石で、方角が間違っていないことを確認した。次に、幾つものハーブから抽出ブレンドした精油の詰まったガラス瓶を引き出しの中から出す。
 先週、師匠のイオの授業で作ったものの残りだけど、おまじないにはまだ十分な量があった。
 パーシはここで、眼鏡の位置を直して、深呼吸をした。
 このおまじないを成功させないと、なんにもならなくなってしまう。命綱なしに潜り込もうとするほど、パーシは勇気や蛮勇を持ってはいない。
 パーシはそっと、木で出来たボビンに精油を振りかけた。
 良い香りが立ち上がる。
 香りの帯が消えてしまわないように、手早く、机の上に直にチョークで紋章を描く。精油が振りかけられた青い毛糸のボビンを中心に、白い花が咲いたかのような紋章を描いてゆく。
 自分一人でやるのは初めてだけど、エバーミストの手に支えてもらいながら、初めて紋章を描いたときのように、まるで生まれてくる前から知っていたかのように、紋章を紡ぎ出してゆくことができる。
 これで、ボビンに、パーシの命を支えるかも知れないおまじないがかかるのだ。
 パーシは、魔女のたまごになりたての頃、魔女のおまじないや様々な約束事が、何て、いいかげんなんだろうと眉をひそめたものだ。
 現に、このおまじないがかかる原理を知らなかった。師匠のイオや、エバーミストでさえ知らないだろう。
 でも、別に、知る必要もない、と今は思う。
 パーシは、牡蠣をむくのに、小さなナイフを、どう入れれば、手早く貝柱が切れるか、ということは教える必要や、考える必要があっても、貝柱の仕組み、牡蠣の実の味は、牡蠣をむくという仕事にはいらないのと、まったく同じだと思うのだ。
 おまじないが、本当に必要なときに、いつでも本当に出来ることが必要であって、それ以外は必要がない、と最近思えるようになっていた。
 全ては、体が知っている。教えて貰えれば、体が動く。感覚としてわかるのだ。
 パーシはボビンをそっと持ち上げた。
 青い毛糸の命綱を、姉の記憶の森の中で、迷子になることなく戻って来れるように、左手の薬指に結びつける。
 まじないは上手くかかっている。
 さぁ、行こう。
 パーシは胸一杯に息を吸い込んで、ゆっくり吐き出すと。となりの姉の部屋へと向かった。
 

 姉は基本的に、部屋に鍵をかけない人だ。お父さんや、出入りする男の人たちが二階まで上がってこないことは、わかっていたけど、パーシは必ず部屋に鍵をかけるのとは対照的だ。
 パーシは誰も見ていないことはわかっているのに、左右を見て確認すると、思った通りに鍵の開いている扉を開け、姉の部屋へと入った。
 姉の部屋は、パーシの部屋がキッチリ整理された本と、ぬいぐるみで占領されているのと違って、ツンと絵の具が香ってくる部屋だ。
 全てを物語るかのように、部屋の真ん中に置かれたイーゼルには、黒々とした絵の具の塊で描かれた荒々しい魚の姿が見える。
 パーシの姉エララは、師範学生時代に絵画と出会ったことから、とにかく、部屋の中は絵の道具や絵が目をひく。ラックに収まったカンバスには、すべて、さかなのほね町や漁の様子が描かれているはずだ。
 画家になる気はないけど、自分の見た町の姿を絵にしておきたい、と姉が言っていたことがある。
 その想いが姉に絵筆を握らせるのか、姉の絵は全て、さかなのほね町と、その漁師たち、たまに描く荒々しい魚の絵と決まっている。
 整頓された本棚のなかには、大判の美術書が並び。机の上も、板が斜めになっていて、絵とか、何か描くことをする人の机になっていた。
 一瞬、恐れとも迷いともつかないものが、胸の奥から沸き上がり、パーシは深呼吸をした。
 後ろめたさや、記憶を覗くということの危険性。例えるなら、自転車すら上手く乗れないのに、無断でお父さんのバイクを借りて、いきなり大陸横断の家出の旅に出るようなものだ。
 でも、と思う。
 あのエバーミストだって、師匠のイオだって、みんな初めてがある。
 私は姉の秘密が知りたい。
 もう一度深呼吸をして、眼鏡の位置を直し、「ボビンのおまじない」を確認した後。
 パーシは、物見の崖から海に飛び込むかのように、部屋のもつ記憶の中へ飛び込んだ。
 記憶の中に飛び込むことは、まさに、物見の崖から飛び込むのに、似ていた。
 町外れにある一番高い物見の崖から、飛び込みができるようになるまで、練習の低い崖からの飛び込みをさせられたことだろう。
 そう思うだけで、微笑みたくなる。
 あのときも、姉は付きっきりになってくれた。
 パーシは薄く目を開く。
 微笑んでいた。夕焼けの空を思いっきり落下していた。
 頭からオレンジの世界の中心、きらきら波立つ世界に向かって落ちてゆく。でも、オレンジに染まった雲の群ですら、まだまだ遥か下の方。
 袖はばたつき、左手の指先から棒きれほどの長さに伸びて、先が消えている青い糸も、風に激しく揺れていた。
 油断すれば眼鏡を落としそうな風が襲う。
 雲の群よりも遥か下に見えている鳥のくちばしのような形をした半島は、パーシたちが暮らす東のくちばし地方。
 周りに目を移せば、どんな夜空よりも青く澄み渡り、星々の世界が広がり、下の方には、最初に見た夕焼けの世界が広がっている。
 恐怖心はまったくない。それよりも自分一人で、記憶の世界に入り込めた感動が、初めて、物見の崖から飛び降りたときに感じた浮遊感と同じように、胸をわくわくさせる物となってこみ上げてくる。
 でも、その感動は長く続かない。
 え?
 一瞬の出来事。なのにしっかりパーシの目は捉えていた。
 鏡に映ったパーシと、似た少女にすれ違った。
 ほうきで空を飛ぶ魔女のたまご。
 でも、少し、似ているだけで全然パーシとは違う。
 眼鏡は厚ぼったくなく、よく似合っていたし。着こなした茶色のワンピースからのぞく赤いセーターや、首から提げている銀の小物も素敵だ。
 何よりも、眼鏡の下にはパーシにはない自信が漲っている。
 姉さん?
 姉の姿は、遥か上、どこまでも透き通った青い空、春の星座のなかの黒い点のようにしか見えなくなっていた。
 本当に物見の崖から飛び降りたかのように、夕日に染まったオレンジ色の水しぶきが上がる。
 秋の虫が鳴いていた。
 灯りのしぼられた夜の部屋の中に、パーシはいた。
 コツン、コツンと外の壁を叩く音がする。時折ガラスにも何かがぶつかって、音を立てた。
 でも、そんな音は、気にもならない。
 呟いただけで、聞こえてしまいそうなくらいに、若い日の姉がいた。
 パーシと同じ歳くらいの姉は、髪を上げ、リボンで飾り、鏡台の前で口紅を付けていた。あの、機嫌が良いときの鼻歌を歌いながら、紅を引いてゆく。
 ドキリ、とした。
 すらりと伸びた手と足。袖無しのブラウスと、ミニスカート。
 自分とはまったく正反対な、同じくらいの歳の姉がいた。
 コツンと、また外壁を叩く音が聞こえる。
「うるさいなぁ。待ってくれたって良いのに」
 姉の呟きに、パーシは何かを思い当たって窓の外を覗いてみた。ここは二階だ。外壁を叩けるわけがない。
 月明かりの下、ゴーグルを付け、髪をツンツンにした男の人が、石ころを右手の上で弾ませながら、窓を見上げている。
 姉の部屋の壁に向かってその石を投げた。
 顔が真っ赤になった。パーシは自分でも、何がどうなったのかもわからずに、その記憶から逃げ出した。
 パーシは、誰々が好きになっちゃったとか、誰と誰が付き合っているっていう話しを聞いただけで逃げ出したくなる。
 どうして、みんな平気でいられるんだろう?
 恥ずかしくないの?
 とか思う。
 冷静に一つ一つ考えてみたことがある。誰かが好きだとか言う憧れを口にするのは別に恥ずかしいことじゃないと思うし、誰と誰が付きあおうといいと思うし、別れるのも勝手だと思う。そういう話題に憧れを抱いて大好きな人もいるのもわかる。けど、でも、なぜかそういうものに、あてられると、いたたまれない気持ちになる。
 しかも、今は姉のプライバシーそのもの。
 パーシが目を開くと、そこは、どうやら夕方の港だ。
 今は見かけない船が何艘かとまっていて、その先、姉とさっきの男の人が突堤に立っているのがわかった。
 ごくりと思わず唾を飲み込んでしまう。
 早く、この記憶からも出なければ。
 何で、こういう思い出ばかりに、飛び込んでしまうのだろう。 
 動揺したパーシに、乾いた音が、波の音よりも大きく鳴り響いた。
 パーシは何もかも忘れて口をぽかり開けてしまった。
 姉が男の人に平手を食らわせた挙げ句、突堤から海に蹴り落としてしまった。高らかに水しぶきが上がる。姉は一仕事終わったように手の平を打ち鳴らしていた。
 パーシは常々、自分の姉のことを凄いと思う。
 でも、これはパーシの中の凄いを越えていた。
「お姉ちゃん」
 パーシは記憶の中にいることも忘れ、声を上げ、突堤の姉のところに駆け出す。でも、駆けだした足が突然止まってしまった。
 まるで、大波が弾けたように、姉が泣き始めたのだ。
 パーシと同じ歳くらいの姉が、まるで赤ん坊のようにワーンワーン大泣きをしている。
 弱いところなんて一度も見せたことのない姉が大泣きをしていた。
 勉強も、運動もできて、友達もたくさんいて、人気者で、自分に厳しく他人にも厳しいところがあるけれど、優しい。そんな、曇り一つ無い青空のような姉が、一方的な暴力をふるって、感情の赴くままに大泣きをしていた。
 隠すことすらせずに、泣き叫んでいる。
 何が起こったのか、本当に、わからなかった。
 姉が男の人をフって、大泣きしていることくらいは、そう言うことが苦手なパーシにだってわかる。
 でも、むき出しの感情をぶつけている姉の姿は、初めて見た誰か知らない人のような気すらした。 弱さも怒りも全て吐き出して、ただ一人の、悩める自分と同じ歳の少女がそこにいた。
 パーシは何も考えられなくなり、うつむいた。記憶の世界に入ろうとしたときの意気込みは、砂が波にさらわれていくように、さらさらと崩れて、今はもう跡形もなくなっていた。
 右手で手繰るように、青い羊毛で作った命綱を巻き取り始める。
 まぶたを開くと、パーシは姉のベッド上で膝を抱え横になっていた。
「わ」
 土足でベッドに上がってしまったことに気が付き、ベッドから降りて、砂を払う。何も付かなかったことに少しホッとしながら。
 記憶の世界での出来事を反芻した。
 あれはきっと、初恋と、失恋だった。パーシはストーリーを組んでいく。
 あの後も泣き続けたから、部屋もそのことを一番強く覚えていた、と、オチまで付けたところで、パーシはあることに気が付く。
 すでに姉の部屋の時計は、パーシの設定したデッドライン、七時を少し回っていた。
 全身の毛が逆立ったネコのように、その場で飛び上がって、外に出ようとしたとき。階段を上がってくる足の音に気がついた。
 それは間違いなく姉の足音。
 嘘。どうしよう。
 パーシは顔から血がみるみる消え失せ、血が引いていく音を耳で聞いたような気がした。
「竜の目から身を隠せ」
 小さな頃から使っているおまじないを口元で唱えて、ドアの横に立つ。
 ドアが開いた。パーシの目の前にドアが来て、身を隠すことはできた。
 お姉ちゃん。いつものように扉を閉めずに着替えて。
 パーシの必死の祈りが通じたように、あの、ご機嫌のときの鼻歌を歌いながら、服を着替えている気配がする。
「エララ。エララ?」
 下の階で母親の声がした。
 姉はふん、と息を付くと、
「なぁに母さん」
 その姉の声が届かないらしく、母親の「エララ。エララ」は続く。
「まったく。仕方ないな」
 姉はパーシに気が付かず。ドアを開けたまま一階に降りていった。
 パーシは壁にもたれかかるようにしりもちをつき。
 こんな隠れん坊はいや。
 と心の中で呟いた。


 満月ではない夜の海は、砂糖を振るいにかけてまぶしたかのような空と、真っ黒く墨を流したような、どこまでもどこまでも引き込まれてゆきそうな海に別れている。
 パーシは魔女のたまごになるまで、夜は、ただただ怖いものでしかなく。こんなにも光りに溢れ、闇はどこまでも闇で、それが怖さと同時に美しさも持っているものだとは知らなかった。
 パーシはぼんやり海を眺めている暇など無いことを思いだして、エバーミストの後を歩き出した。
いつものように、エバーミストは行き先を教えてくれない。どこへ行くかもわからない。もし、行き先を聞いても「それはその時までの楽しみにしましょう」と言われてしまうのは、間違いなかった。
 ただ、スカートはダメなことと、三十分も歩きませんとは、言われたけど。それだけのヒントでは、皆目見当が付かない。
 エバーミストの授業はよく野外で行う。座学よりも実践を重んじているためだ。
 予習してきた魔法やおまじないを、いきなり使うはめになるから、油断が出来ない。イオの授業の三倍は疲れると、パーシは思う。他のエバーミストに授業を見てもらっているたまごたちも同じ感想を持っていたようだ。
 今日は、特別、予習の指示はなかったけれど、油断が出来ないことにまったくかわりがない。
 油断する暇がパーシにはなかった。
 夜、それも月の無い夜に、海に洗われ続けている岩場を歩けるものは、魔女しかいない。
 今、波に洗われたばかりの岩でも、大丈夫だとは思えば、踏みしめ、波に洗われていない岩でも、危険だと思えば、絶対に足を乗せない。それだけ守れば、歩けないことはないけど、これは魔女であっても、かなり気を遣うことだ。
 エバーミストの「スカートはオススメしません」の意味は、やっとわかったけど、パーシのだいぶ前を歩くエバーミストは、夜の闇に溶けてしまったかのようないつものワンピースで、昼間の街の中を歩くかのように岩場を歩いている。
 この差は一体何なのだろう?
 いつかは、エバーミストのようにならなければ、と思う。パーシは海生まれの海育ち、海の魔女なのだから、森生まれ山育ちの魔女よりも海辺歩きが下手ではいけない。
 エバーミストが歩いていく先に、丸い闇、洞くつが見えた。父の時代も祖父の時代も、いつだって子ども達が海賊の根城だと信じて、浜から船で探険に行く場所だ。
 エバーミストは洞くつの中に躊躇うことなく入っていった。
 どこまでいくのだろう。
 洞くつにの闇は、夜闇とはまた種類が違う。でも、一番最初の魔女の課題を終えているパーシには、その行く手を遮れるものではない。
 パーシも躊躇うことなく後に続く。
 波の音が、洞くつに反響し、まるで海獣の胃袋の中にでも入っていくかのようだ。岩肌にくっつくかのように、大丈夫だと思える場所に足を置きながら歩き続けて、やっと、立ち止まっていたエバーミストに追いつく。
「ここですパーシ」
 パーシは一度眼鏡の位置を直して見るけれど、エバーミストの指し示す場所は、他の岩壁と何の違いもなかった。
 ここまで歩いてきた理由とは思えない。
「巧みに隠してありますよ。子ども達が入り込んでは困りますからね」
 パーシは小さく口を開けた。エバーミストの右袖から先が岩の中に入っていた。
「まやかしの魔法ですか?」
「ええ。さかなのほね町の魔女たちに伝わる秘密の場所のようです。行きましょうか」
 無造作に入っていこうとするエバーミストを、パーシは袖を引いてとめたくなった。
「大丈夫ですよ。もちろん、イオには許可を貰ってますから」
 エバーミストは微笑んでいる。こういうときイタズラ好きの子どもに、イタズラされているような気分になるのは、気のせいだろうか、とパーシは思う。
「さぁ、行きましょうか」
「はい」
 まやかしの魔法で隠された入口の中には、人一人がやっと通れるような横穴がずっと奥まで続いていた。
 しばらく無言のまま、エバーミストの背中の後を歩いていたけど、
「どこまで行くのですか」
 さすがにパーシは心細さを感じて尋ねた。
「もう少しです。風を感じませんか? ほら」
 そう言われてみると、エバーミストの先から風を感じる。
「外に通じているのですか?」
「外と言えば外ですね。行ってのお楽しみ」
 エバーミストはパーシに微笑んだ。
 やがて横穴はなだらかに上りはじめ、突如として夜空が遠く高くに見えた。
 大きな岩が周囲を囲んだ、すり鉢のような場所に出た。すり鉢の中央に、ヒョロッとした木が一本植わっているだけ。周りには苔が絨毯のように生えていた。
 エバーミストはヒョロッとした木の幹に触れながら、ダンスをするかのように木の後ろに回り、パーシに微笑みかける。
 エバーミストのほっそりした体を隠すことが出来ないほど、木はヒョロッとしていた。
「この木は」
 そう呟いた瞬間。姉がくれた革袋の中の桂の種や、前に会った桂の木のおばあさんの姿が、パーシの中を通り過ぎってゆく。
「昔々、ある魔女が、さかなのほね町に嫁いできました。魔女はさかなのほね町に大漁と安全を祈念して、四つの桂の種を植えました。彼女の故郷の師匠から餞別に貰った桂の種を」
 パーシの背筋から首筋にかけて、緊張が駆け抜けていった。
「もしかして、この桂の木は、あのおばあさんの兄妹なのですか?」
 エバーミストは大きくうなずいた。
「この前、おばあさんが風車になってしまったので、木として立っているのは、最後の一人だそうですよ」
 理由はなかったし、いらなかった。
 パーシはただ、そう思っただけのことを口にした。
「私の家に、兄妹達は今も種で眠っています。多分、当てずっぽうだし、こんな調子の良いことがあるとは思えないけど。その桂の種を蒔いた魔女は私のご先祖さまだと思います」
 パーシは顔から火が出ているような気がした。目まで潤んできてしまう。まったく根拠なんてないし、当てずっぽうのことを言うのが、こんなに辛いとは思わなかった。
 でも、当てずっぽうだとは思いつつも、誰に否定されても、自分の言った言葉を否定する気にはなれなかった。
 本当に、おかしな気分。
 エバーミストは、パーシの剣幕に驚いた顔を和らげ。
「そうですか。ではパーシがイオから認められたとき。同じまじないをしては貰えませんか? それまで、この木はここでがんばるそうですから」
「あ、あの」
 パーシは反射的にまたお願いしようと思った。でも、
「三年かかるか、五年かかるか。今度は、自分で桂の木とお話しできるようになりましょうパーシ」
 優しい笑顔に、
「はい」
 パーシは小さく返事をし、顔を赤くしながらうつむいた。
 不意に、この前の宿題のことが思い出された。
 無理なのはわかっていたけど、宿題のことは聞かれないのなら、このまま、聞かれないままで済ませてしまいたかった。
 あの部屋の記憶。姉の失恋を見た後。
 姉が魔女にならなかった理由は、もうすでに聞いて知っていることだと思った。
 姉は、五歳の妹にも誤魔化すことなく、最初から本当のことを言っていたと思う。
 「性に合わないから」
 これ以上の魔女になることをやめる理由はないと思うのだ。
 あなたはどうしたいの? と、姉はよくパーシに聞いた。
 姉は、思いっきり泣いて、泣いた後も、いくつかの恋をして、今は、結婚を約束している恋人がいる。自分のがそうしたいと思うことを素直にやって今の姉がいる。
 常に、自分に向けられた言葉通りに生きてきた姉。
 それなら、私は? と、問うたとき、口にする答えは、もうすでに決まっていた。
 魔女になる。
 施療師としてイオの後を継ぎ、父や村の人たちの手助けをする。
 急に黙ってしまったパーシに、
「何か、言いたいのですか?」
 とエバーミストは声をかけた。
 パーシは少し緊張に息を吐き出してから、
「あの、この前の宿題ですが」
 エバーミストは微笑んだ。
「パーシはしっかりやったではないですか」
「あ、あの」
 一瞬、姉の部屋を覗いていたことを知られたような気がした。でも、エバーミストの言葉はパーシの予想しないものだった。
「この前の授業のときとは、見違えるほどですよ。お姉さんの何を調べたかは知りませんが、お姉さんを一人のライバルとして、見ることができるようになったのではありませんか?」
 パーシは胸の奥に、暖かい物を感じて、口を小さく開けた。
「さぁ、今日の授業はお終いです。宿題をたっぷり出しますから帰りましょう」
 エバーミストは、いつもどこかに水の入ったバケツを隠し持っていて、いざって言うとき、容赦なく浴びせかけるのだ。
 パーシはそんな気がした。

エピローグ

 例え、自分が小さな魚で、嵐の大波を越えてゆかなければ行けなくとも、越えていこうと思った。
 キジと、狼の教えを胸にして。

 私は魔女になりたい。
 施療師になりたい。

越えてゆく波(ハードル)

07年冬 前書き~パーシと凍梨
08年夏 パーシとエララ~エピローグ

イラスト:酒井まさる

越えてゆく波(ハードル)

魔女のたまご(魔女見習い)パーシの物語。イラスト:酒井まさる

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. パーシと凍梨
  2. パーシとエララ
  3. パーシの魔法
  4. エピローグ