待春
(一)
吉治が屋敷の中庭で素振りを始めてまもなく、降りしきる雪はその重さを増したようだったが、まるで何かに憑かれた様に木刀を振るう吉治にとっては、別段気にする程の事ではなかった。
吉治、齢は数えで十六。世間並みには血気盛んな年頃であるが、今はただ黙々と木刀を振るうしかない。また、その事こそが吉治の心を暗鬱とさせるそもそもの理由だった。暮六つの鐘が鳴るまでにはまだ間があるはずだが、雪空のせいか辺りは既に薄暗い。吉治は吹き付ける冷たい風の壁を木刀で切り裂きながらも、自らの胸の内を包む暗闇に対して抗う術も無いことに苛立ちを覚える他なかった。
「精が出るな」
不意に背後から声をかけられ、吉治は狼狽した。
(全く気が付かなかった)
自分の未熟さを思い知らされたようで吉治は屈辱に顔をしかめたが、その事を悟られない様に取り繕うのもすっかり癖になっていた。
「お、叔父う……いえ、師匠」
「叔父上でよい。何を今更、堅苦しい」
「は、はい、しかし……」
縁側から吉治に声をかけたのは、山田家当主の吉正。六代目山田浅右衛門を襲名して二年になる。山田家は代々斬首刑の執行人を勤めている。とは言っても、公式には無役どころか浪人の身分であり、本来の首斬り役の身替わりを勤めるというのが表向きの立場である。
吉治の父親である吉綱は、五代目浅右衛門を務めた男なのだが、二年前自らの不手際の責を負い自決した。その後を継いだのが弟の吉正である。尤も、吉治は元々吉正こそ浅右衛門の名を継ぐべき男だと思っていた。冷静沈着、常に己を律する事を忘れない。剣の腕前も父より上であると感じていた。元々、吉綱と吉正には先々代との血縁はなく、兄弟揃っての弟子であったと言う。腕前こそが浅右衛門の名を継ぐ者に求められる条件であったのだから、兄を差し置いて、と謗りを受ける言われも無かったはずである。
また、吉治にとってみれば、剣術の師匠として稽古をつけてもらっていたのは専ら吉正であり、吉正の手引きもまた的確かつ熱の篭った物だった。父親と剣を交える機会はそう多くは無かったが、吉正の剣に比べるとその差は明らかだった。吉治が十三を過ぎる頃には、吉綱は単なる「手強い相手」の一人に過ぎなくなっていたが、吉治にとって吉正の剣は一分の隙もない、まさに目の前に立ちはだかる壁そのものだった。勝てる気どころか、どこに打ち込んで良いのかすらわからない。いつか追いついてみせる、と心に決め鍛錬に励む日々ではあるが、まるで頂上の見えない登山を続けているかのような、どこか諦めにも似た感情に襲われることもしばしばだった。
一方、他界して二年が過ぎた今となっても、吉治は自分の父親に対して畏敬の念を持ち得なかった。決して父の事を嫌っていたのではない。が、浅右衛門の名を継いでから間もなく、吉綱は人が変わったように酒癖が悪くなった。毎晩浴びるように酒を呑んでは、幼い息子や妻へ手を上げる事もしばしばだった。殊に毎月の法要の後の宴では乱れに乱れた。諫めるのは専ら吉正の役目であったが、時にはほとんど命懸けであった。
「父上を恨んではなりません。性根は心優しきお方なのです」
吉綱が乱れる度、母はいつも吉治にそう諭した。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。もちろん吉治も、吉綱の所業が罪悪感に苛まれ心を蝕まれている故だと頭では理解してはいたが、だからと言って理不尽に殴られるいわれはなかった。 殴られるのはまだいい。一時、痛いのを耐えれば済む話だ。それよりも辛かったのは、夜通し続く父の呻き声だった。夜更け、寝静まった屋敷に響く、心の底から苦しみを訴えているかのような絶望的な声色が吉治の耳について離れなかった。きっと母も吉正も同じ思いをしていたに違いない。日中誰も決してその事を口にしないのは、吉綱への配慮と言うよりも何より自分が思い出したくない、その一念であると思われた。
(父上は弱い人間だったのだ。……自分と同じ様に)
父の死後、吉正が跡目を継いだ時、吉治は心の底から安堵の溜め息をついたものだった。
刑場での惨事が起きたのは二年前、ちょうど今日と同じくらい底冷えのする日の事だった。
処刑への恐怖に震え慄く咎人を前にして、その執行人たる吉綱もまた仁王立ちのまま身動きが取れずにいた。咎人の往生際が悪いことはよくあることでその咎人が特段ひどいというわけでもなかった。むしろ異常なのは吉綱の方で、少し離れて座った吉治の目にも吉綱の手許が定まらないことが見て取れるほどだった。
吉治は隣に控える吉正が制止することを胸中秘かに期待したが、吉正にしても儀式の最中に軽々しく割り込むことはできず、ただ、吉綱と咎人を見守ることしかできなかったのだった。
吉治が心配した通り、吉綱が脂汗を滴らせながら振り下ろした白刃は咎人の首の骨を断ち切ることができなかった。手許の動揺が刃先の乱れとなり、乱れた刃先は咎人の首の骨にその行く手を阻まれたのだった。勿論斬られた方は堪ったものではない。致命傷を負いつつも直ちに死ぬ事ができないという無用な苦痛を与えられた咎人は、その血潮を撒き散らしながら、まさに手負いの獣の如く喚きのたうち回った。流石に脇に控えていた人足達が暴れる咎人を押さえ込みにかかるが、その暴れぶりは尋常ではなく、三人掛かりでも動きを封じるには至らない有様だった。
事態を収拾したのは吉正であった。腰の脇差をすらりと抜くと、立ち尽くす吉綱の脇を風のようにすり抜け、音もなく流れるような所作ですうっと咎人の心の臓を一突きした。咎人は即死したが、その首は間髪入れず吉正の脇差によって斬り落とされた。
一方、門弟に脇を抱えられるように帰宅した吉綱は、しばらく青黒い顔をしたままぐったりとしていたが、その夜半過ぎに庭で人知れず腹を切った。よほど無念であったのか、使用人の悲鳴に飛び起きた吉治と吉正が駆けつけた時には自刎して果てていた。介錯する間すらなかった。
吉綱の不手際とその死は隠密裏に処理され、数日の後、六代目として吉正が浅右衛門を襲名した。 全くの他人の場合は形式的に養子縁組することもあるが、当主の弟が継ぐのだから特にそのような儀式も必要とせず、手続きは吉治が拍子抜けするほど淡々と処理されただけだった。
「型の稽古は、程々で良いと申しておろう」
押し黙ったままの吉治を気遣うかのように、吉正が口を開いた。
「いえ、私は未熟者なれば」
「お前に足りぬのは型の稽古ではない」
「……」
吉正の言いたい事は吉治も正しく理解している。十六になっても、吉治は土塊しか切れぬ。吉正に言わせれば決して腕は悪くないのだが、吉治は人の骸を見るのが嫌で堪らなかった。
山田家の家業の一つに刀剣の試し斬りがある。表立った戦が途絶えて久しいが、試し斬りには咎人の骸を使うのが習わしであり、藁束や土塊を斬るのとは区別して扱われた。勿論、人の骸を余人に扱えるはずもなく試し斬りは山田家にとって大きな収入源の一つであった。
しかし、吉治にとって、人の骸は恐怖の対象でしかなかった。かつて人であった、息をしていたであろう、そう考えるだけで虫酸が走り、足腰が萎えた。 震えは手許から刃先を伝わり、骸を両断するどころか骸の骨に弾き返された。
また、処刑した咎人の骸について、首以外は浅右衛門が自由に処理して良いことになっており、臓腑から精製した丸薬は山田家の収入の柱である。当然ながら、吉治も山田家の一員として腑分けに立ち会う必要があったが、これもまた苦痛以外の何者でもなかった。そんな吉治の心情を知ってはいても、吉正は甘えを許さなかった。
「たとえ泣こうが吐こうが構わぬ。ただしやるべき事はやれ」
それが吉正の決まり文句であったが、吉治にとってそう易々と受け入れられる事ではなかった。極度の緊張の余り吉治は卒倒することもしばしばだった。
(自分はこの役目に向いていない、いっそ仕官先でも見つけようか)
本気でそう思うこともある。しかし、首斬り浅右衛門の倅が死体怖さに家出したいとは世間の笑い物になるだけの事。そう考えると結局は何も行動に移せないのであった。
(自分も叔父上のようになれるのか? ……なれなかったら?)
逡巡する思いに答えは見つかる事もなく、吉治の胸の中にも、雪だけが深々と降り積もってゆくばかりだった。
(二)
良く晴れた昼下がり、日課である屋敷の掃除を済ませた吉治は、羽織を引っ掛けふらりと表に出た。何の当てがあるわけでもないが、部屋の中に閉じこもっているよりは、気も晴れるかと思ったのだった。時折、冷たい北風が吉治の頬を掠めたが、頭を冷やすにはちょうど良い塩梅だった。連日降り積もった雪は屋敷の周りこそ掻き分けられているものの、通りの大部分は白く積もった雪が残ったままであった。吉治は足元が濡れるのも構わずさくさくとした白雪を踏みしめるその感触に夢中になってしまい、危うく朽ちかけたどぶ板を踏み抜くところであった。ひやりとしたのも束の間、くだらないことに熱中している自分自身が滑稽で笑えてくる。自分でも子供染みていると内心省みてはいるのだが、愉快な事には変わりはない。
川沿いの道に出ると、屋台にて甘酒を啜るのが半ば吉治の習慣になっていた。寒空の下、吹きっさらしのこの屋台へわざわざ甘酒を啜りにくる酔狂者が他に居るのかどうか疑問であったが、いつも変わらず屋台はそこにあった。屋台の主も、吉治の顔を認めると軽く会釈を返すものの、一杯の甘酒を手渡した後は特に構いもしない。吉治も心得たもので、何の遠慮も無く屋台の椅子へ腰掛けると、雪に埋もれた川原を眺めつつ生姜の利いた甘酒を啜る。吉治にとってほぼ唯一の気の安らぐひと時だった。
白い平原と化した川原には他に人もなく、ただただ静寂が支配する世界。美しい物もそうでないものも分け隔てなく覆い尽くした白い雪。鴨だろうか、中州で水鳥が雪に身を埋めじっと固まっている。実は置物かと見紛う程に微動だにしない。きっと寒さに耐える為に手も足も出さずに縮こまっているのであろう。
(まるで、自分と同じじゃないか)
何だか古い友人に出くわしたような気がして、吉治は頬を緩めた。孤独を求めに来たはずの自分が、いつの間にか人恋しさを感じている事を少し女々しいとも思ったが、それを咎める者すらここには居ない。その筈だった。
「やっぱりここでしたか」
……静寂を破ったその声の主に、吉治は少し恨めしい顔をしてしまったかもしれない。
「美和殿」
「お屋敷に伺ったのにお留守でしたから、どうせこの辺りだろうと思って」
「……」
美和は、浅右衛門吉正の上役にあたる高山左衛門尉の娘である。
吉治とは一応許婚の間柄という事になるのだが、実際のところは父親同士のただの口約束に過ぎない。吉治の父親である吉綱が不慮の死を遂げ当主の座を吉正に譲った今となっては、事実上反故になっていてもおかしくない程度の話である。もっとも、吉治にしてもこの娘については憎からず想ってはいたし、二つ年上の美和が何かと世話焼きな事もあり、傍目には将来を誓い合った仲と見られても別段不思議はなかった。
「あ、わたしにも甘酒ひとつ」
美和は甘酒を受け取ると、当然のような顔をして吉治の隣に座った。
「また悩み事ですか? 次期ご当主ともあろうお方が冴えない顔をして」
「私が継ぐと決まったわけでは……」
語尾を濁した吉治を制すかの様に、美和はぴしゃりと言い放った。
「何を仰るのですか、他に何方が継ぐと言うのです。もっとしゃきっとなさらねば困ります」
美和が、何事も物怖じしせずにはっきりと物を言うところは吉治も内心気に入っているのだが、この時ばかりはそれが少々癪に障った。
「美和殿は何とも思わないのですか?」
「何が、でしょう?」
「人を殺める事を生業にすることです」
明け透けな言い方に棘があることは吉治も重々承知していたが、そう言わずにはいられなかった。
「人を殺めることが良い事とは思いません。ただ、あなた様がやらねば他の誰かがやらねばなりません。人の嫌がる仕事を引き受ける、そんな立派なことはありません」
美和はさらりと言ってのけたが、吉治の心は釈然としない。
(そんなことはわかっている、わかっているが怖ろしいのだ)
言葉に詰まった吉治は、必死に思索を巡らすものの、思考は逡巡するばかりでますます泥沼に嵌っていくのだった。
(そうなのだ。奇麗事を並べてみても答えは見つからない。……しかも、まだ自分は自身の行く末に向き合うことすらできずにいる)
もどかしさに胸が一杯になった吉治は、傍らの美和の視線を感じつつも、顔を上げることができなかった。話題を変えなければ、と言う焦りが自分でも驚くような言葉を吐かせた。
「ところで、美和殿は嫁に行かぬのですか?」
……自分で口にしながら、しまったと身構えずには居られなかったが、美和は表情も変えずにしれっと口にした。
「心配ならば早う貰うてくださりませ」
美和ももう十八。いい加減独り身ではいられない年頃なのだが、何を好き好んで自分の嫁になど成りたがるのか、吉治には皆目理解できなかった。恥の掻きついでに問い返すと、美和はまたもあっさりと言ってのけた。
「あなた様があなた様だからです」
……世の中には不可解なことばかりだ。と頭を抱えたい吉治であったが、最早引っ込みが付かなくなっていた。
「そんな理由……良いですか、いかにお役目とは言え幾人もの人を殺めるのです。手を血に染め、地獄に落ちるやも知れません」
吉治の言葉は最早ほとんど脅しになっていたが、美和は全く動じずに応えた。
「吉治様となら地獄へでもどこへでもお供致します」
面と向かってそう言われてしまうと何か重い物をずしりと手渡されたような気がした。それに、いつまでも綺麗事を並べていても結局何も変わらない。自分自身が一番それを理解していた。返す言葉もなかった。
「さ、あまり道草をしていては、叱られますよ」
……子ども扱いするな、と内心腹も立ったが、美和なりの気遣いなのだと好意的に解釈することにした吉治はやっと重い腰を上げた。
雪に濡れた足許がひどく重く冷たかった。
(三)
早暁。山田家の道場には二十人程の門弟たちを前にして美和の良く通る声が響き渡った。
「女子とて手加減無用! さあ次はどなたがご相手か!」
手加減などしておらん、と言いたげな門弟たちは互いに顔を見合わせるばかりであった。他所の道場と違ってここに居るのは身内ばかりであるが、それでも人斬り浅の道場が軒並み腑抜け揃い等と笑われては沽券に関わる。それは全員が等しく理解している。その上で、誰も自分がとは名乗り出ない。と言うのも、美和の腕前は相当なものであり、今日も既に十人抜きを遂げたところだ。誰も好んで恥を掻きたくはない。
元々、美和は吉治への世話焼きの一環として道場の掃除や雑用をしていたのだが、稽古を熱心に見入る眼差しに気が付いた吉正が半ば戯れに竹刀を渡してみたのであった。才能に恵まれていたのか、素直な性分が吉正の教え方に合ったのか、乾いた砂が水を吸い込むようにその腕を上げていった。外連味はないものの思い切りが良くとにかく太刀筋が迅い。大抵の男には躱せない迅さであった。中々の剛剣振りに、吉正をして「女子にしておくのは惜しい」と言わしめた程だ。
尻込みするばかりの門弟たちに痺れを切らし、名乗りを上げたのは吉治だった。
「私が、お相手仕る」
おお、と声が上がるが、吉正が射すくめるように一瞥すると、場は一瞬で凍りついた。無言で面をつけた吉治は美和の前に正対すると、面越しに美和の眼をじっと睨み付けた。
「礼、始め!」
吉正の掛け声で、竹刀の切先を合わせた二人はさっと間合いを取る。
正眼に構えた美和は、吉治の隙を伺う様に小刻みに足を運ぶ。美和は吉治の鋭い視線に怯むどころか、まるで散歩をせがむ仔犬のように嬉しそうな眼をしていた。実際、美和は仕合が好きで堪らないのである。
一方、吉治と言えば、八双に構えたまま微動だにしない。真剣ならいざ知らず、道場で竹刀を持った試合をする限りは、隙があるだけの無意味な構えである。しかし敢えて隙を見せ、挑発するのが吉治の狙いである。そして毎度毎度この安っぽい罠に乗ってくる美和の性分もよく熟知している。
(太刀筋は迅いが、正直すぎる)
それが吉治の、美和の剣に対する公正な評価である。実際、美和の狙いを見切ることを覚えてからは楽に躱せるようになった。
「やぁあああッ!」
痺れを切らした美和が上段から飛び込むのに合わせて、吉治はひらりと身をかわし美和の胴を打ち据えた。
「胴!」
「見事!」「さすが若!」
門弟たちがどよめいたが、これまた吉正に目で制される。
「もう一本!」
美和が叫ぶと、吉治も応えた。
「承知」
再び美和と対峙した吉治は下段の構えを取った。所謂「受け」の構えである。
(どこからでもかかって来い)
吉治の念に呼応したかのように美和の乱打が襲って来るが、吉治はその一本一本を丁寧に竹刀で受け流してゆく。
(愉しいな)
美和の斬撃に耐えつつ、吉治の胸中にはそんな想いが広がってゆく。美和も息を弾ませながらもこれまた心底愉しそうな顔で打ち込んで来るのだった。息をつかせぬ美和の猛攻もさることながら、ひたすら受けに徹しつつ一歩も動じない吉治に門弟たちは固唾を呑んで見守った。そして、二、三十も打ち込まれた時、不意に美和の太刀筋が乱れ、突いた切先が吉治の足元へ流れた。
(そんな見え見えの罠にッ)
乗せられた振りをして一歩踏み込んだ吉治を美和の逆袈裟が襲うが、吉治の方が一枚上手であった。五寸で逆袈裟を見切りつつ、切先を更に下に回り込ませて美和の篭手を打つ。自らの逆袈裟の勢いと吉治の斬撃で美和の竹刀が弾き飛んだ。
「それまで!」
「油断大敵、ですね」
呆然とした美和を気遣ったつもりだったが、却って美和の自尊心を傷付けたようだ。
「いつか一本を取って見せます」
美和は、本気で悔しがっているようだった。女子相手に少し罪悪感を感じないわけでもないが、手加減をして吉正に叱責されるのは真っ平御免であるし、それに何より手加減などされて喜ぶ美和ではない。ただ自分の力量の限り全力で相手をする、それが吉治にとって美和の本気に応える唯一の術だった。
「どうかされましたか?」
吉治は、険しい表情のまま固まっている吉正にふと気が付いた。眉間に皺を寄せたまま、どこか虚空を見つめるような目付き。考え事に没頭している時の吉正の癖であることを吉治は知っていたが、今日はいつもと雰囲気が違う、根拠はないがそんな気がしたのだった。
「いや、何でもない。吉治、今日は日課は良いから美和殿を送って行け」
ふと表情を緩めた吉正は、意気消沈している美和を気遣ってか吉治の尻を叩いた。しかし吉正のその笑顔すらどこか憔悴めいた憂いを含んでいるかの様に見えた。
胸の内の不安を拭えないままの吉治は、屋敷まで送っていく道すがら美和に疑問をぶつけてみた。
「……最近、叔父上の様子がおかしいとは思いませぬか?」
「お師匠が? どうかされましたか?」
「いえ、何がどうというわけではないのですが……なんとなく」
「きっと、吉治様の行く末を案じておられるのでしょう」
「それならば良いのですが……」
「何が良いのですか! しっかりなされませ……と言えた分際ではないのです、けれど……」
吉治に打ちのめされた事が、どうやら相当堪えているようであった。
「しかし、道場での稽古は、必要なのでしょうか?」
「吉治殿?」
突然、何を言い出すのか? と言わんばかりの疑わしげな視線を送る美和に構わず吉治は言葉を続けた。
「人斬りと試し斬りに、道場で打ち合うのが一体何の役に立つのか? そうは思いませぬか?」
「確かにそう言われればそうですけれど……お嫌いですか?」
思わず美和の事は好きだと言いかけたが、吉治は質問の対象が稽古であることに気が付いて慌てて応えた。
「稽古は、その、愉しいですよ。特に……」
「特に?」
美和は、目を見開いて吉治を見つめた。
「美和殿との立ち会いは、愉しい。心が躍ります」
自分でも何を言っているのか良くわからなくなっていたが、それが吉治の正直な気持ちだった。一方、美和はきょとんとしていたが、しばらく黙りこんだ後、蚊の鳴くような声で何かを呟いた。
「え?」
無粋に聞き直す吉治に、美和は顔を赤くして応えた。
「私もです」
「……」
(単なる気晴らし、案外そんなものかもしれないな)
お互い黙り込んでしまうと、照れくささで胸がいっぱいになった吉治は、自分自身への照れ隠しに稽古の意義について思索を巡らす他なかった。何だか遠回りをして行きたい、そんな心持ちだった。
(四)
次の事件が起きたのは、立春も近づいたある日のことだった。
「若!」
息を切らせ屋敷へ駆け込んで来た若い門弟に、吉治は妙な胸騒ぎを感じたが、努めて平静を装った。
「どうした、圭太」
「お師匠様は……お目付様のお屋敷には居りません」
「まことか、それで高山様は何と? 何かの御用でもないのか?」
「いえ、お目付様も何もご存知ないと」
留守居の吉治は、勤めを終えたはずの吉正の帰りが遅い事を薄々妙だと感じてはいたが、目付から何か急な用でも頼まれたのかと思い深くは考えなかった。しかし日暮が迫っても吉正が戻らぬ事に一抹の不安を覚えた吉治は、お目付けの屋敷へ圭太を使いにやらせたのだった。圭太が言うには、お目付たる高山様も、吉正とは今日のお勤めを終えた後、別れたきりだと言う。特に妙な素振りも見せずにいつも通りであったとも。
「そんな馬鹿な、暮六つもとうに過ぎたというのに………何かの間違いではないのか? あるいは狼藉者か?」
「お師匠様に限ってそのようなことは……」
確かに圭太の言う通り、凄腕で鳴らした吉正を襲うだけの腕を持つ男はそうそう居まい。よしんばそうであったとして今まで全く騒ぎにならないのも在り得ないことだ。もう日も落ちていたが吉治は居ても立ってもいられず、高山左衛門尉の屋敷へと駆けた。
高山左衛門尉は神妙な面持ちで吉治を出迎えた。
左衛門尉が言うには、とにかく門弟に動揺を与えるのは良くないという事で暫く様子をみようという話であった。吉治もそれに同意するほか術がなかった。が、十日が経っても、吉正は戻らなかった。
実は、山田家にとって、当主逐電は前例の無いことではない。遡る事、三代目の浅右衛門吉光がやはり逐電を図ったことがある。吉光は数日の後、水死体で発見された。狂乱の末、橋から身を投げたものと思われた。当時それなりの騒ぎにはなったものの、その跡目を息子の吉継が急遽四代目として襲名することで表向きは鎮まった。ただし、今回のように当主の消息不明のまま吉治に七代目を継がせる事には、誰もが戸惑いを隠せなかった。
対して、高山左衛門尉が目付として取った選択は、極めて現実的なものだった。
六代目浅右衛門消息不明の由にて吉治を名代即ち当主代行へと任じるよう奉行所へ奏上し、速やかにその処置を済ませた。
先代の嫡子にして当代の甥にあたる吉治が、名代として仮初の当主になることにはさしたる問題はない。しかし、人が斬れないことには人斬り浅右衛門の役目は勤まらない。もちろん、血縁よりも腕前を優先することはこれまでも例のあることだが、門弟はみな若く、腕前においても吉治を差し置いて跡を継げるほどの者は居なかった。
結局、名代として仮初とはいえ当主の座に就くことを了承せざるを得なくなった吉治は、自分の責務に心を押し潰されそうな思いだった。当主となった以上は勤めを果たさねばならぬ、その決意だけが、吉治を辛うじて支えているのだった。
名代拝命の三日後、意を決した吉治は徐に門弟たちへと指図し、試し斬りの支度をさせた。無論、相手は咎人の骸である。
立春も近いと言うのに残雪は一向に溶ける気配も見せぬ。それほど厳しい寒さが、先日吉正が斬った咎人の骸の腐敗を防いでいた。吉治は、首の無い骸を見据え白刃を上段に構えたものの、そのまま身動きができなくなった。
(やらねばならぬ、ここで逃げてはだめだ)
必死に己を奮い立たせようとするものの、吉治にはただ脂汗を流す事しかできない。握り締めた柄が汗に濡れているのは自分でもよくわかったが、己の掌を開く事すらままならない。
(駄目だッ、手の震えが止まらぬ)
松に積もった雪の塊が、吉治を急かすかのようにドサリと音を立てて地に落ちた。それまで彫像の様に立ち尽くしていた吉治の腕が力なくだらりと下がったかと思うと、その掌から刀が滑り落ち、そしてそのまま吉治自身もその場に崩れ落ちた。
(……私の代で山田家も終わりか)
吉治はただ声を殺して泣くことしかできなかった。
翌朝、吉治を訪ねて来た美和は、憔悴の色を隠そうともしない吉治の姿を見ていつになく不安そうな顔をしたが、吉治はその事を気遣うことすら億劫になっていた。
「吉治様……」
吉治は美和へ顔を上げることもできずに、ただあいまいに呻っただけだった。
「和尚さまがお呼びです」
「……草海様が?」
草海は、山田家の菩提寺たる祥雲寺の住職である。また、祥雲寺は浅右衛門の手に掛かった咎人の弔いを一手に引き受ける場であり、その意味でも山田家とは切っても切れぬ間柄にある。草海も今は物腰の柔らかい好々爺で通っているが、かつては山田家の門弟であった男である。
わざわざ呼びつけるからには、跡継ぎの件で何か話があるのであろう。そう考えるだけで足腰が萎えたが、美和の居る手前でこれ以上醜態を晒すわけにもいかない。吉治は渾身の力を振り絞る思いで漸く立ち上がった。
重い足取りで祥雲寺を訪れた吉治を、草海はいつも通りの涼しい顔で出迎えた。 吉治は口にこそ出さないが、この老人の事が苦手である。何もかも見透かすようなその眼がなんとなく苦手なのだ。しかし今は抗う気力もなく、促されるまま奥の間へと足を踏み入れた。暫くして、茶の支度を済ませて来た草海を待ちかねたように吉治が口を開いた。
「……もう駄目なのです、終わりです」
「突然何を申されるか、若者が弱気なことよ」
そう言うや否や、屈託もなく笑い飛ばす草海に圧倒された吉治だったが、だんだん恨めしくなってきた。一体自分の苦悩の何が可笑しいのか、吉治がそう問い質すと、草海はいよいよ声高く笑い飛ばした。
「一月二月、咎人の首が飛ばぬからといって、一体誰が困るものか!」
「しかし、いつまでもそういうわけには参りませぬ……」
「まあ、早う立ち直ってもらわんと、ウチは実入りがのうなって困るかの」
ひとしきり笑い転げると草海はようやく神妙な顔に戻って話を続けた。
「……知っての通り、儂も元は浅右衛門の弟子じゃった。儂なりに剣の道に精進して来た気でおったが、うら若かったお前の父親には到底適わぬと思い知り坊主になったのよ。が、腕の良し悪しもわからぬ程耄碌した覚えは無いわ。後は気合の問題なのじゃろう? 吉正もよくそう言っておったわ」
「しかし、私にはこの勤めが正しいのかどうかすらわかりませぬ。その答えすら見つけられず、どうして跡目など継げましょうか」
「答えなどありゃあせん」
「しかし」
「考えなければよい」
「そんな無茶な……」
納得の行かない吉治を、草海はしばらくじっと見つめていたが、うなだれたままの吉治を諭すような口調でつぶやいた。
「吉正も、常々悩んでおった」
「叔父上も?」
「お主とはまた違った意味でな。宿業、と呼ぶべきか」
「宿業……ですか?」
「今の自分の境遇は前世での自分の振る舞いによるもの、現世のお主の振る舞いは来世にて業として降りかかる、そういう考え方の事よ。正直、儂も見てきたわけではないが、人を殺めることが地獄にて責められるのではないかと悩んだことはある」
「宿命ということですか? 私がいま悩んでいるのも宿命だと?」
「宿業と宿命は似て非なる物。強いて言えば、宿命は変えられぬが宿業は己が心で受け止めることができるもの。そういうものじゃ」
「……よくわかりません」
「今はそれでよい。お主と禅問答をしとうて呼んだ訳ではない。今は吉正の胸の内を思うことじゃ」
「どういうことでしょうか」
「お主はまだ子供なのかも知れぬ。ただ骸が恐ろしいだけであり、人の命を絶つということへの畏れを知らぬ」
しかし、誰かがやらねばならぬ役目。死罪を賜るのは咎人の責であり、また死罪を決めるのはお上である。執行人は命に従い刑を執行するのみ、何の罪もないのではないでしょうか、吉治は草海をそう問い詰めた。
「確かにそれも理屈ではある。じゃが、そう、例えばその松に積もった雪を儂がお主に払ってこいと命じたら、払った雪は誰に降りかかるのか?」
「……」
「まあよい。今は無理にそのようなことを飲み込む必要はない。……お主の父親は、優しすぎた。腕は立ったが他人を思う気持ちばかりでは身が持たぬ。あれが腹を切った前の日のこと、ここへ顔を見せよった」
草海の意外な言葉に思わず吉治が目を見開いた。
「父上は何と?」
「何も」
「何も?」
「うむ。何か言いたいことがあるのじゃろうとは思ったが、敢えて聞かなんだ」
今にして思えば、無理にでも話を聞いておれば良かったのかもしれぬが今となっては後の祭りよ、草海はそう言って表情を曇らせた。この老人は今でもそのことを悔やんでいるようであった。
「吉正もまた、跡目を継いだ事について思案しておった。あれも腕は立つが人に甘えることができぬ男よ。不器用ながらも必死に耐えているようじゃった」
「耐えて、いた?」
我ながら間の抜けた質問だとは思ったが、吉治にとって他に言葉が見つからなかった。
「吉正も人の子、ということよ」
確かにそうには違いない、ただ吉治には、吉正もまた「弱き者」であるということにどうしても違和感を拭えなかった。畏れを克服した存在、そうであると信じ込んでいた。しかし、もし草海の言う通りならば、吉正は一人孤独に自分の心と戦っていた事になる。そう考えると、吉治は何だか自分が弱音を所構わず撒き散らしていたような気がして恥ずかしさすら感じた。
黙り込む吉治の背中を押すように、草海は言葉をつづけた。
「人生には、時機というものがある」
「しかし……」
「あくま」
「あくま?」
「焦るな、腐るな、負けるな。結果は後から付いて来るものよ」
「焦るな、腐るな、負けるな……」
「先達の在り難い言葉じゃ、心しておけ」
吉治としては、結局草海にうまく言い包められただけのような気もしたが、胸の内を晒したことで幾分気持ちも楽になった事もまた事実である。屋敷に戻ると美和は既に帰ったようだったが、明日にでも訪ねて行って礼の言葉の一つもかけてやろう、そういう気持ちになれた。
その夜、高山左衛門尉が吉治を訪ねた。山田家とは近しき間柄とは言え、上役からわざわざ出向くのは異例の事である。
無駄口を叩かないのが身上の左衛門尉であるが、今日もまた用件のみをずけりと吉治に突きつけた。
「お勤めじゃ」
「いつでしょうか?」
「明後日、辰の刻……受けるか?」
「明後日……」
「日延べはできなくもない、しかし……」
いつまでも伸ばすわけには行かぬ、それは吉治にもよくわかっている。
ふと、吉治の脳裏に美和の不安そうな顔が浮かんだ。そして、草海の言葉。
(結果は後から付いて来る、か)
負けて堪るか、そう思うと俄かに腹へ力が入ってきた。やれるだけやってみるさ、そう腹を決めると少しだけ心が軽くなった気がした。
「謹んで、お受け致します」
(五)
吉正が帰還したのは、なんとその翌日のことだった。
正午を幾分か過ぎた頃、ふらりと屋敷に帰って来た吉正であったが、吉治達を驚かせたのはその風体である。なんと頭を丸め、僧形であった。髪こそ丸めているものの不精髭は伸ばし放題であり、一見あの颯爽とした吉正とは別人にしか見えない。しかし、妙にさっぱりとした顔で、その余りに毒気の無い様子に、むしろ出迎えた吉治達の方が拍子抜けしたくらいであった。
「叔父上! 今まで何処に? その格好は?」
「まあ、話は順にする。茶でもくれぬか、ああ、あと風呂も頼む」
風呂に入り身支度を済ませた吉正を、吉治は改めて質問攻めにした。
「一体今までいかがなされましたのか? それにその風体、まるで別人かと思いました」
「うむ、実は祥雲寺の離れに籠っておった」
「祥雲寺に?」
「左様」
吉正が言うには、行方を絶ったその日からずっと祥雲寺の離れに籠ってひたすら写経に没頭していたのだと言う。無論住職の草海も承知の事だったようで、要は草海が吉正を匿っていた事になる。
(あの狸爺ぃめ!)
毒づいた吉治の心の内を知ってか知らずか、吉正は言葉を続けた。
「儂は隠居する」
「はあ?」
あまりに唐突な話に、吉治は思わず素っ頓狂な声を上げてしまったが、驚きのあまりそこまで気が回らない。
「お目付にも先ほど話をしてきたところだ。跡継ぎを決めねばならぬ」
「し、少々お待ちください! 私は!」
吉正は、狼狽する吉治をまるで抑え付けるかのように一方的に語り始めた。
「儂は、浅右衛門とのしての宿業をずっと兄者に押しつけ逃げていた。兄者が腹を切った時、これが年貢の納め時と思って心を決めたはずが、やはり儂には宿業に耐えられない。……ずっと思案していたのだが、答えなど出ぬ。無心に写経をしている間だけが心の平安を得られる唯一の時であった。これからは仏門に入り、死者の弔いに生きる。それこそ儂の道、それにやっと気が付いたのよ」
「しかし……」
「今でもあの惨劇が眼に焼きついて離れぬ。思い出すだけで手が痺れる。いつかきっと儂も同じ過ちを犯すだろう」
「だからといって、私には……」
「跡継ぎについて、お前が駄目なら弟子の中から選ぶしかないが、儂の見たところ他に適任はおらぬ。圭太あたりを鍛え上げるか、それとも新たに誰か連れてくるか、いずれも暫く時間が掛かろう」
「それまでどうされるおつもりですか?」
吉治は、我ながら間抜けた問いだと思ったが、吉正は涼しい顔をして耳を疑うような一言を吐いた。
「知らぬ」
しばらく呆気に取られた吉治は、漸く自分を落ち着かせると吉正へ反論した。
「そ、それでも当主ですか」
「当主はもうやめた」
「そんな無責任な話がありますかッ!」
「知らぬものは知らぬ」
……まるで駄々っ子だ。吉治はなんだか馬鹿らしくなってきた。が、事はそう簡単ではない。元々吉正の逐電に事を発した話なのである。当主不在ということで仕方なく引き受けた名代の座、当主当人が帰還した今となっては吉治がその立場に拘泥する理由は最早無い。そのはずだった。しかし吉正は当主の座を放り出してけろりとしたものである。筋も道理もあったものではない、全くもって無茶苦茶な話だ。
「嫌か」
己が思索で混乱する吉正に追い討ちをかけるかのように、吉正は吉治の返事を促した。
「嫌かどうかという話ではござりませぬ。道理が通りません、納得がいきません」
吉正の言葉に必死に抗いながらも、吉治は自分の心の片隅に奇妙な感覚が芽生えていることに気が付いていた。
(叔父上も私と同じなんだ)
そう思うと、それまで吉治の心を被っていた絶望感が嘘の様に晴れていくのだった。かつて絶対的な壁としてしか認識していなかった吉正もまた、自分と同じ人の子である。頭が冷えてくるにつれ、その事に妙な安堵感を感じているのだった。
「叔父上は、私が適任だと、その資格があるとお考えですか」
「資格などは誰にでもある。ただ、お前にはその力がある、あとはお前の意思。それだけだ」
「明日のお勤めの話はご存知なのですね?」
「うむ。明日は儂も立ち会おう。襲名はその後でも良かろう」
「……わかりました。不束者ながら、お役目、引き受けまする」
「よし決まった」
吉正はそう叫ぶとカッと笑った。日本晴れの様な澄み切った笑顔だった。
(なんであんな顔で笑えるんだろう?)
吉治の興味は自分の役目よりも叔父の笑顔の根源に移ろいつつあった。
(六)
刑場にて吉治を待ち受けていた咎人は、五十がらみの細身の男だった。詳しい罪状は聞いていないが、幾多の修羅場を潜り抜けてきた凶状持ち独特の貫禄を持った男だった。最早風格と言ってもいい。凶状持ちはふてぶてしくも顔を上げ吉治を一瞥すると毒づいた。
「……若いな。名高き人斬り浅に斬られるのなら本望と思っておったが、まさかこんな小童とは。最期の最期まで運の巡りの悪い事よ」
その名高き人斬り浅だった男は、今は草月と名を改め僧体にて裾に控えている。無論その事を凶状持ちの男は知る由もない。
「ふん、まあ良いわ、我が首見事に刎ねてみよ。さすれば地獄にて褒美をくれてやる」
男は吉治を挑発するかの如く吐き捨てたが、吉治の心は動じなかった。
「この期に及んで是非もなし」
そう口ずさむと、自分でも驚くほど頭が冷えているのがよく解った。
「小童めが生意気な口を叩きおって……しかし寒くて適わんな」
凶状持ちはそう言って、ぶるっと一度震えた後、その動きをぴたりと止めた。それが吉治には、男が早うやれと言わんばかりに背中で促しているように思えた。
刹那、吉治は半ば夢中で白刃を振り下ろしたが、まるで霞を斬ったかの様に手応えを感じなかった。 なんだか頭がぼうっと痺れている様だった。
「見事」
立ち尽くす吉治を金縛りから解き放つ様に草月が声をかけた。凶状持ちの首は既に胴体を離れている。不思議と恐怖は感じなかった。
「叔父上」
「手は、震えておらんかったな」
まだ頭の痺れが抜け切れないまま、吉治は応えた。
「宿業のことですが、私にはまだよくわかりません」
「今は、それで良いのかも知れぬな」
吉正もまた、肩の荷が降りたかのようなさっぱりとした顔をしていた。
(七)
祥雲寺。
日も落ち掛けた頃、吉治は叔父の元を訪ねた。
「どうした吉治、……いや浅右衛門殿」
客間に現れた草月は少し意外そうな顔をして吉治を出迎えた。
「吉治で結構です。美和殿がこれを。裏山で採れたと」
吉治が風呂敷包みを解くと、ふきのとうの山が崩れて畳にこぼれた。
「おお、これはありがたい、これの煮浸しには昔から目がなくてな。兄者と共によう採りに行ったものよ。……そうか、もうそんな季節か。ふうむ」
何かを言いたげな草月の様子に気が付いた吉治は、その意図が汲み取れず片眉を歪めた。
「今宵は冷えるのう」
「は?」
吉治の察しの悪さに痺れを切らした草月は、本題を切り出した。
「実は、これは酒の肴にも申し分ない。どうじゃ、ちょっとつき合え」
出家した筈の叔父の物言いがあまりにも明け透け過ぎてむしろ吉治の方が憚ったが、草月は有無を言わさず立ち上がるとさっさと台所へと消えた。間もなくして戻った草月は、手際よく支度を済ませると 勝手に手酌を始めてしまった。そうなると吉治も渋々付き合わざるを得ない。
(確かにうまいな)
ふきのとうのほろ苦さが、熱めに燗した酒と良く馴染んだ。
「本当に、よいのですか? 」
それでも恐る恐る問い質す吉治であったが草月は一向に動じなかった。
「なに、ちょっとくらい構うものか」
まるで悪戯を見咎められた童の様に、きまりが悪そうに舌を出した叔父の顔がひどく滑稽で、吉治も思わず吹き出した。こんなに笑ったのは何年ぶりだろうか。自分でも何故だかわからないが、心の底から愉快だった。
(了)
待春