蜘蛛と虫けら

 

 晴れた日、庭先で蜘蛛の巣に捕らえられた蝶々を見つけた。バタバタと羽を動かし足掻く蝶々。何をするでもなくそれをじっと見つめていると、獲物を食べに蜘蛛が一匹やってきた。蜘蛛は糸を伸ばし、蝶々を糸で巻いてゆく。
 その光景は、数年前に聞いた話を彷彿とさせた。自分を虫けらだと称し、蜘蛛の男の話をした彼女。
――あの方が蜘蛛だとは気付いておりました。そして、私は所詮それに喰われるだけの虫けらでしかないことにも。
緩やかでどこかかすれたような声が、私の耳元で聞こえた気がした。



 彼女と出会ったのは、帰省するために乗った汽車の一室でのことだった。偶然乗り合わせただけの、それだけの関係。
 背中まである黒髪と陶器のような白い肌、そして紅を引いた唇に赤い着物。彼女は、ひどく美しかった。だが、彼女からはおおよそ生気と言われるものが全く感じられなかったのだ。精巧な人形だと言われても信じてしまいそうなほどに。
 その彼女が、唐突に口を開き言った。
――あの方は、蜘蛛だったのでございます。
 かすれたような声が私の耳朶を打った。紅の唇が動く様を、ただ私は見ていた。いや、見ていたのではなく、魅入られていたのだ。彼女のどこか怪し気な、得体の知れない魅力に。硝子玉のような瞳に、私は囚われた。



 寂れた庭に女が立っていた。女の名前は、佐伯 静子といった。静子が着ている赤い着物は、心なしか色褪せている。それは、静子の表情が憂いたものであるからかもしれなかった。人形めいた容貌をした静子は目を伏せ、ぽつねんと咲いている名も知れぬ花を見つめている。
 静子は最近、三年ほど交際していた男性と別れた。いや、捨てられたというのが正しかった。人形めいた容貌ぐらいしか取り柄のない静子は、あっさりと捨てられてしまったのだ。
 しょうがないのだろう、と静子は思っていた。可愛らしく愛想もある女のほうが、自分よりもはるかに魅力的だということは当に分かりきっていたことなのだから。むしろ三年も交際できたことのほうが奇跡だというものであったのだろう。故に、静子は男に対して恨み等は持ち合わせていなかった。男よりも、友人の気遣ってくる態度の方がよほど煩わしい。友人がこちらを恐る恐る窺い心配そうに話しかけてくる様子を思い出すと、静子の眉間に自然と皺が寄った。
 ふぅとため息をつき、眉間の皺を指でほぐす。それは静子の父がよくやる仕草であった。いつの間にか移ってしまった仕草。こんな様子を見たら父はどう思うだろうか、と静子はふと考えた。
 静子の父は、娘である静子を嫌っていた。きっと父と似たような仕草をしている静子を見れば、父は嫌そうに顔を歪め、見なかったことにして立ち去るのだろう、と静子は考える。父は、母と同じような顔をしている静子を憎んでいるのだから。
 静子が物心つく頃には、母はもういなかった。静子が三歳の頃、静子の目の前で首を吊ったのだということは父から聞いていた。何でもその頃に、静子が父との間の子ではないということが知れたらしい。父は怒り狂い、母を拳で打ち据えた。その晩に、母は首を吊ったという。静子がそれを知ったのは、十四の夏であった。父は静子に言った。間男は姿を消してしまい、外聞も悪いので特別に家で育ててやっているのだと。恩着せがましい口調のそれを、静子は特になんとも思わなかった。母のことも碌に覚えていない静子にはよく分からぬことであったのだ。
「静子!」
「……はい」
 呼ばれて後ろを振り向くと、丁度今まで考えていた父がそこにいた。利休色の着物をまとった父は、射殺すような視線で静子を見る。視線をそらすと、父の横にいた青年と目があった。
 平凡な顔立ちの青年だ。人ごみの中に入れば、十中八九見失ってしまうだろう。少しばかり細身の青年は、横の父とは対照的に穏やかな顔立ちをしていた。焦げ茶色をした優しげな目が、静子を見ている。何故だろうか、静子は不思議と惹かれるものを感じた。じっと静子が青年を見つめていると、青年は柔らかに笑って静子に向かって会釈をした。父がゴホンと咳払いをする。
「今日から家に下宿をすることになった、朝倉 一郎君だ。面倒を見てあげなさい」
 父が紹介する横で、青年はよろしくお願いしますと頭を下げた。慌てて静子も頭を下げる。その様子を父はちらりと見ると、小声でボソリとつぶやいた。この、男好きめ。
 父のその言葉に、静子は頭を下げたまま唇をかんだ。たとえ父にはそう思われていないにしても、家族にそう言われるのはとても悲しいことだった。けれど、その姿は決して表には見せない。だってこれは家族間のことで、朝倉には何も関係のないことなのだから。静子は、家族間の諍いを他人に見せるのは恥であると考えていた。
 幸いなことに、朝倉に父の発言は聞こえていないようであった。頭を上げて、ただにっこりと笑う朝倉に、静子もつられて笑った。父は嫌そうに眉を寄せる。
「朝倉くん、さあ次は息子の勇を紹介しよう」
  父の言葉に朝倉は頷いた。そのまま、父と連れ立って朝倉は家の中へと消えていく。その姿を見て、もしかしたら朝倉は勇の遊び相手として下宿するのかもしれないなと、静子はふと思った。
 勇は、この家の跡取り息子だった。静子が七歳の時に、父は後妻を娶った。勇は、その後妻と父の間に生まれた子供だ。父は弟にすべての愛情を注いだ。甘やかして甘やかして、とことん可愛がった。静子はそれを寂しくも思ったが、何も言わずに過ごしていた。言っても何もならないと、静子は知っていたのだ。勇は静子にそれなりに懐いていたから、寂しさを勇にぶつけるのも可哀想だったということもある。
 勇は、元気な良い子であった。だがある日、勇は唐突に倒れた。慌てふためいた父によって病院に運ばれた勇は、不治の病であるということを告げられた。稀に見る奇病で、治療法もまだ判明していないこと。余命が幾年あるのかも分からぬということ。今は動けるがそのうち体も動かせなくなるであろうということ。それを知ったとき、父は泣いた。憎んでいる娘は五体満足に育っているのに、愛情をかけて育てた息子がこのような病にかかるということが耐えられなかったのであろう。勇はまだ十歳であった。
 倒れて以来、勇は変わった。誰彼問わずに物を投げつけ、喚き散らすようになった。父や静子とて例外ではない。勇は枕を投げつけ、本を投げつけ、花瓶を投げつけた。何故自分がこのような目に合わないといけないのかと。まだ死にたくないと泣くのだ。友達と走り回りたいのだと。父はそれを聞くたびに、悲しそうに顔を歪めた。
 それ故に、父は勇に出来るだけのことをした。暇を持て余す勇に本を用意し、話し相手を用意した。まあ、勇の癇癪のために話し相手は大抵一ヶ月と持たなかったのだが。きっと、朝倉もそんな話し相手の一人なのだろう。そう、静子は考えた。



 ガタリと、列車が大きく揺れた。意識が急速に現実へと回帰する。大きな硝子玉のような瞳が相変わらずこちらを見つめていた。私は、思わず口をはさんだ。その朝倉が蜘蛛なのですか、と。彼女はゆっくりと口を開く。
 ――そうでございます。けれども、私はまだあの方が蜘蛛だとは気づいておりませんでした。
 そう言って微笑んだ彼女は、ひとつ息を吸いまぶたを閉じた。それは彼女が蜘蛛と形容する朝倉という男のことを思い出しているが故の動作であったかもしれないし、己の過去に意識を飛ばしているのかもしれなかった。だが、今までの人形のような印象とは異なり、人間らしさを感じさせるその動作に私は目を奪われた。
 しかし、彼女がまぶたを開けると、彼女の顔は人形のような生気を感じさせない顔に戻ってしまっていた。そうして、彼女はまた口を開く。
 ――数ヶ月して、あの方からの申し入れで、私はあの方と交際を始めました。交際を初めて、ようやく私は、あの方が蜘蛛だということに気づいたのでございます。
 嗚呼、また彼女の話が始まる。



 静子がふとした違和感に気付いたのは、朝倉と付き合い始めてしばらくのことだった。静子を見つめる瞳に、どこか見慣れぬ感情が垣間見えたのだ。
 そのどこか見慣れぬ感情の正体を静子が知ったのは、またもう少し経ってからであった。
 ある日、静子は朝倉がぼうっと庭に立ち尽くしていたところを見つけた。そこで、静子は珍しくいたずら心を働かせた。声をかけずに近づいて顔を覗き込んでやれば、朝倉はとても驚くであろうと考えたのだ。足音を殺し、静子はそっと朝倉に忍び寄る。にっこりと笑顔で朝倉の顔を覗き込もうとする静子は、ちらりと見た朝倉の横顔に逆に驚くことと相成った。
 朝倉は、静子を見る時と同じ瞳で蜘蛛の巣に絡め取られた蝶を見つめていたのだ。本当に、愛おしそうに。そして、その瞳の中にちらつく冷たい冷たい色。静子は、唐突にその冷たい色の正体に気付いた。それは、捕食者の瞳であったのだ。ただ、相手を自分の獲物とだとしか考えない捕食者の瞳である。愛情等ない筈のその瞳が、ゆるりとこちらを向く。
「ああ、静子さん」
 静子に気付いた朝倉が、ニッコリと笑う。瞳は、捕食者のままであった。
 静子は悟る。朝倉は静子のことを獲物だとしか思っていないことを。朝倉を蜘蛛だとするならば、静子は餌である虫けらでしかないことを。そして、それでも静子は朝倉の側から離れられぬことを。
 朝倉の腕が静子の背中に回る。抱きしめられて、静子の胸がどきりと高鳴った。柔らかくこちらを抱きしめる朝倉の腕は捕食のためのものだ。愛するためのものではない。静子を愛しそうに見るのだって、獲物を油断させるための擬態なのだ。分かっているにもかかわらず、静子はその腕を振りほどくことができなかった。静子は朝倉の胸の中で瞳を閉じる。
「愛しているよ」
 その言葉すら嘘なのでございましょう、とは静子は言わなかった。静子は愛に飢えていたからだ。偽りでも、静子は愛情が欲しかった。
 父は、静子に愛情なんてくれやしなかった。勇は、自分の病で手一杯で他人に愛情などやる余裕はなかった。交際していた静子の恋人は、静子よりもほかの女の手を取った。おぼろげに覚えている母は、憎々しげにこちらを見ていた。誰も、静子に愛などくれやしなかったのだ。
 朝倉からの偽りの愛情だけが、静子の持つ愛情だった。静子は何も言わずに、ただ朝倉を抱きしめる。虫けらである静子は、蜘蛛である朝倉から逃げることを諦めたのだった。



 ふわりと、彼女の髪が列車の揺れに合わせて広がった。絹糸のような髪だ。ただ静謐さを湛えた顔が、こちらを見ている。唇だけが動く様は、ひどく奇妙であった。
 ――いつのことでございましたでしょうか。私は、あの方が悲しい話を好むことを気付きました。そして、事あるごとに私の家族のことを話に出すことにも。私が家族のことを話すたびに、あの方はひどく悲しそうな顔をするのです。けれど、瞳だけは笑ったままでございました。ですから、私は気付けたのでございます。あの方は、悲劇だけを愛してなさっているのだと。
 


 静子が朝倉と付き合い始めて、十ヶ月ほどの時が経った頃だった。勇が、ぽっくりと逝ってしまった。父は悲しみに狂乱し、静子は一筋の涙をこぼした。静子が一筋の涙をこぼすだけで済んだのは、静子の心が朝倉に支配されていたからかもしれなかった。朝倉と言えば、悲しげな顔をしながら静子とその父を見ているだけであった。悲劇にありついて、嬉しいのだろうなと静子は考えた。
 葬式の間、父はひどく静かだった。ただ黙々と喪主の仕事を済ませていく。それが変貌したのは、葬式が終わってからのことであった。喪服に身を包み居間で佇む静子を、父は突然殴りつけた。
「何故お前が死ななかったんだ!」
 静子の髪をつかみ、父は怒鳴り立てる。耳元で怒鳴られた言葉に、静子の頭はぐるぐると揺れた。腹を殴られ、静子は胃の内容物を吐瀉する。散々殴られた静子は、薄れゆく意識の中で一対の瞳を見た。こちらをただただ愉快そうに見つめるその瞳は、確かに朝倉のものであった。
 しばらくして意識を取り戻した静子が見たものは、己の吐瀉した汚物と、ゆらゆらと揺れる父の首吊り死体であった。驚愕に目を見開く静子を、後ろから朝倉の腕が抱きしめた。冷たいその手に、静子は身をブルリと震わせた。もしや朝倉は何もせずに、父を止めもせずに見ていたのではないだろうかという考えが静子を支配する。理解できない捕食者への恐怖が募った。けれど、朝倉のその腕だけは優しかったのだ。静子には、もうその腕に縋るしか残されていなかった。もはや愛情どころか与えられていた憎しみすらなくした静子には、朝倉の偽りの愛情しか残っていなかったのだ。


 
 そうして一ヶ月がたった。葬儀ももう既に終え、家には朝倉と静子しかいなかった。
 父の死から、静子は朝倉から離れなくなった。捕食者であることはわかっていたけれど、傍にいてくれるであろう人は、静子にはもう朝倉しかいなかったのだ。大好きです、愛しています、ずっと傍にいてください。そう譫言のように朝倉に話しかける静子は、傍目には正気を失っているように見えた。だが、ずっと朝倉は笑っていた。大好きです、愛しています、ずっと傍にいます。そう言って朝倉は笑う。静子を襲った悲劇を、そうやって朝倉は愛でていた。朝倉は、悲劇に囚われている静子を愛していたのだ。
 しばらくして、静子は回復の兆候を見せ始めた。朝倉が少し離れても何も言わなくなった。愛を囁く頻度が減った。そうやって、時の流れと共に悲劇から解放されていく静子を朝倉はつまらなそうな目で見ていた。そうして朝倉がいなくとも静子が平静を装えるようになった頃、静子の前から朝倉は姿を消した。
 家から朝倉の気配が消えた時、静子は狂ったように朝倉を探した。三日三晩探し続け、朝倉が何処かへと消えてしまったのだと理解した時、不思議と静子の心は静まりかえった。悲劇を愛する朝倉が、悲劇から解放された静子に興味を持たぬのは、ごく自然なことだと悟ったのだ。



――こうして、私は蜘蛛に捨てられたので御座います。骨の髄までしゃぶりつくされ、今の私は亡骸も同じなのでございましょう。
 彼女がそこまで言った時、汽車が音を立てて止まった。嗚呼、もう目的の駅に着いたのか。口を閉じた彼女は降りる様子もなく、ただ座っている。ここは彼女の目的地ではないのだろう。私は荷物を手にして立ち上がる。少し考えて、私は彼女に話しかけた。何故あなたはこの話を私にしようと思ったのですか、と。
私の言葉に彼女はゆっくりと答えた。
――誰かに覚えて欲しかったのかもしれません。こんな、愚かな虫けらのような女もいたのだと。
 そうでしたか、と私は相槌を打ちドアを開ける。早くしないと汽車が出発してしまうだろう。出て行く際に、彼女のかすれた声が私の背中を追いかけてきた。
――これにて、愚かな虫けらの話は終わりでございます。あなた様が、あなた様の身近な方が、蜘蛛に会わないことをお祈りしております。



 その後、私は蜘蛛に会うこともなく生きていた。悲劇というものには無縁であったから、だとは思う。
 きっと彼女が言う通り、蜘蛛は未だ彷徨っているのだろう。悲劇を持った餌を探して。これからも出会いたくはない、と思う。私は庭先から部屋に戻り、敷かれたままの布団にごろりと横たわった。
 庭先にいた蝶は、糸に絡め取られ、蜘蛛の餌となってしまっていた。

蜘蛛と虫けら

以前、作家でごはん!の鍛練場に投稿させていただいた話を、加筆修正したものです。
やっぱり蜘蛛はまだ苦手です。というか昆虫類が苦手です。得意になる日は来るのでしょうか。

蜘蛛と虫けら

――あの方が蜘蛛だとは気付いておりました。そして、私は所詮それに喰われるだけの虫けらでしかないことにも。 "私"が出会った、人形めいた”彼女”の話。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted