紅灯瑣言

「この肌に爪を立てて、破いてしまいたいの」
 商売女は言った。僕は、その客を取った夜を、切なげな眼差しを伏せながら、沈んでいる女の横で、とっくに夜は更けているというのに、目を煌々とさせていた。眠くなかった。
 僕は、その夜、初めて女を抱いたのだ。その興奮は、娼婦の体の奥底に置いてきた筈であるのに、今も僕の心臓を追い立てている。どくん、どくんと吐き出した肉の欲。それに似た鼓動が、とっくに空になったはずの、体の奥を走っている。ずきん、ずきんと切なげに鳴く女の体を求めてやまない僕は、果たしてけだもののようであるのだろうか。僕は自身を俯瞰する余裕すら失った、つまりは見境もないような素振りで、娼婦の艶やかになった乳房の、その汗を舌でなぞった。
「いいじゃないか、楽しいじゃないか」
 僕は言った。舌に残る汗の味を、どろどろと歯に張り付くような唾液で飲み込んで、言葉になったか、ならぬのか。女は聞こえているのか、いないのか。うつろな目をして、体重を失ったように脱力し、天井を見つめている。初めて見る女の瞳。河原の髑髏のよう、凹んだ眼窩にぽつねんと開いた瞳。
「あ、ん」
 僕は震える白い肌の中に沈んでいく。沈めればしずめる程に、ツンと鼻を突くような汗の匂い。先ほどまで沈んでいた女は、涙をこらえて浮ついた声を上げている。
 僕は、その涙を見て、何となくその商売女の涙について、賤業の一言でしか説明が出来ないような気がした。この女は、客を取る度にこうも涙を堪えなければならないのだろうか。
 体にまとわりつく粘液がひどく高い温度のように感じながら、僕は女の目を、何処か冷めた風な所のある心持ちで見つめた。目の端に湛えた涙は、火照った体から心が干上がるようにして、とうとう流れ落ちて、その一滴はぽろぽろとした固さを残し、黒い長い髪の一房へと沈んで消えた。
 女は僕に見つめられている事に気づいたかのように、幽かに微笑んでみせた。僕にはそれが、途端に作り物であるようにしか見る事が出来なくなった。
 知らぬ男に抱かれる事を不幸と感じるのならば、この女はもっと麻痺したような、白痴のような精神で男を迎え入れるだろう。では、この涙は何なのだろう。僕は何処で覚えた訳でもない、生まれた時から心の奥底に刻み込まれたような所のある、衝動によって女の秘部の上、薄い陰毛の奥にある部分を強く押した。跳ね上がる女の体は、痛みを感じたかのように軋む音を響かせた。
 僕はこうも、人間獣の雄として子々孫々受け継がれてきた衝動によって、肉体を、四肢や腰を殆ど考えもせずに動かしているのに対して、その頭脳は至って平静でいる事が出来る。
この女は、逆なのだ。
幾度も抱かれた末に麻痺した心で、その柔肌も硬く冷えきってしまった筈なのに、こう男に触れられると、泡がはじけ飛ぶような情動を抑えきれない。きっと、女はそれが苦しいのだ。ままならぬ人生に悲嘆するのは誰もがそうだが、ままならぬ体に心が軋む苦しみを知る者は少ない。僕は、わからない。
 今の僕には、そういうきっと違っている、答えしか導き出せなかった。
 だとするならば、この女はけだものだ。そして僕もまたけだものなのだ。

「どうだい、気が晴れたろう」
 僕は脱力した体を引きずるように女郎宿を出た所、友人の楊崇竑がそう言った。彼は事の済んだ僕の部屋へと、まるで隣室で覗っていたかのような丁度いい時機に押し入ってきて、「少し外に出よう」と外へ僕を連れ出した。宿の主も、崇竑が馴染みの、それもえらく金払いの良い客だったからか、僕らが金も払わず外に出る事を止めもせずに見送っていた。
 僕は本当なら、あのまま女の体にしがみつくようにして、眠ってしまいたい気分だったが、僕の最初の情事は全て彼のお膳立ての上に成り立っていたが為に、従わざるを得なかった。
 きっかけは僕がアヘンに手を出そうとしたからなのだろう。確証は無かったが、僕がアヘンに手を出そうとしたのは確かであるし、それがこうして未然のものとなっているのは、崇竑が殆ど無理矢理に僕を女郎宿に引きずり込んだからだった。
「気が晴れたろう」
 崇竑は繰り返した。僕はどう応えるべきかを考えながら、前を往く彼の足取りに合わせて、それがあてのある歩みかどうかもわからずに、軒を連ねる女郎宿から漏れる香で鼻が曲がりそうな匂いの通りを進んだ。路傍の犬や乞食の糞すら覆ってしまう程の匂いから逃れたい気分は強くなり、胸のつかえにも似た息苦しさは不安を駆り立てているようですらあった。
 崇竑とは古馴染だった。僕が叔父の援助で留学する事になって、都会の雑多な方言の入り交じるのに戸惑いながら、故郷の者が集まるK会館で同郷の伝手によって、ようやく見つけた住居の隣人が彼であった。聞けば彼もまたK州の人間で、僕と同じくK会館の伝手によって当地に居住しているとの事であり、都会では滅多に聞く事の出来ない故郷の独特な方言がなんとも懐かしく、すぐに打ち解けてしまった。
 崇竑は僕よりも三歳上だった。僕はそんな彼の事を兄のように慕った。陰りのある精神の持ち主だったが、平時は穏やかな性質で、人当たりも良く、僕に対してもあれこれと嫌な顔ひとつせず、面倒を見てくれた。
 僕はある事情によって殆ど天涯孤独の身であり、両親はおろか兄弟も居らず、親戚として唯一縁が残っていた裕福な叔父夫婦の家に、居候という形で――養子にならなかったのは、叔父が僕に兄の家を継がせようという、何か後ろめたさのような物の混ざった、親切心のような物があったからだ、と後になって人に聞かされた――、そこで科挙を受けるだけの教育を受ける事が出来た。叔父夫婦には子供が無く、僕を実子のように慈しんでくれたが、僕はあまりに大事にされすぎた為に、都で叔父夫婦の庇護から一旦離れてしまうと、心細くて時折は涙を流して心の平静を取り戻さねばならない程だった。そういう時に崇竑は、僕が何か彼に言った訳ではないのに、何処からともなく現れて、いつも僕の心に何らかの劇的な作用を与えていくのだった。
 崇竑は僕よりも六年早く女を抱いていた。滅多にその手の話をしない彼が、突然そんな話をしたのは、彼が泥酔のあまり、誤って僕の家に上がり込んできた時の事だった。息子に科挙に勉強をさせられるだけ裕福な、彼の屋敷に出入りしていた村娘がその相手だった。
 彼はそこで、村の娘は土臭くて、情緒が無いと言った。どうやらけだものじみているという。だから、村の未通女よりも都の商売女の方が良いのだという。彼はそうした持論に基づいて、僕が責めもしていない花街通いを正当化して、その時は帰った。また今回は、その時の同じ理論を振りかざす形で、学業に行き詰まって、沈んだ日々に阿片へとその指が伸びようとしていた僕をさんざ引きずり回して、ある女郎宿に押し込んだ。
「どうだろう……。あまり、僕にはわからないよ」
 彼の説によれば、商売女はけだものではないのだという。彼はその説について、どこまで信憑性があるのかを語らない。僕も聞かなかった。僕が聞かぬから、あえて言わないのかも知れない。ただ、実際にやってみて、僕は彼の説に疑問を持つ事になった。僕は少し、意地悪な気持ちを含みながら、彼に問いかけた。
 あのように、恥も外聞もなく自身の肉欲に恣にされて、それでいて快楽に身を委ねる事を良しとしないにも関わらず、男の吐いた精の一滴すら洩らさず受け取って、肉の内の炎を絶やさず、欲する所に際限が無く、涙を流し、それが如何なる物であるかに関わらず、喜悦を叫ぶ女の姿。どうあっても、男と女は、その二つが交わる時において、けだものじみてしまうのでは無いだろうか。
「いいや、違う」歩きながらする話では無い。僕らは影の零乱する花街から、暗闇に人気が溶けこんでしまったような路地、乞食すら寄り付かない程に暗い、より無人の方へと歩いて行って、もうすっかり人の失せた橋の袂で、崇竑は僕の話を途中で止めた。橋の下で、夜泣きする猫が人の気配に消え失せた。「君の話は、素人女にのみ通用する。商売女において、その認識は正しくない」
「どうしてだろう。あれほど、良がっていた」僕は少し、女を抱いた事による自信を身につけたかのような態度で言った。それはある程度、事実であるような気がしていた。きっとどの相手にも、あのように啼いてみせるに違いないのだが、それでも僕は、それが童貞の行為である事を鑑みたのならば、僕の女の体に対する態度というのは一定の効果をあげられるだけの物だったと思いたかった。
「素人女は、君の言う通り欲を求めている。だが、君が今日抱いた女は、ただ銭を求めているだけに過ぎない。この違いだよ」
「欲と銭。銭もまた欲のひとつの形じゃないかな」
「なるほど、しかしながら肉欲と銭は直結しない。君の肉の棒を咥え込んで、白く泡立ててやっても、銭を求める商売女にとって、これは真の快楽では無いのだよ」
 橋の下を流れる水は、月明かりに照らされてどろどろと、西へと流れていく。崇竑はじっとそれを眺めながら、何事か、僕にはきっと理解出来ない話を語っている。
 あの場に快楽が存在しなかったなら、あの商売女の流した涙の意味は何なのだろう。彼の話では、商売女は僕に抱かれる事によって、銭という間接的な快楽を得る事になる。そこにどのような、涙を流す理由があるのだろう。
「よくわからないよ」僕は少し、彼に僕の最初の体験を、彼の説によって事細かに解剖される事が面白くなくなってきて、反論する事も、商売女の流した涙の事も、言わなかった。この手の話で、先駆者たる彼に敵う筈が無い事は自明の理として、そうであるにせよ、僕の心の中の自尊心を僅かばかり疵付ける物だった。
「商売女は君に抱いてもらう事が喜ばしいんじゃない、結果として店の得た銭で、美しい着物を買ってもらって、それを見せびらかしに市中を出歩く事が、喜ばしいのだ。銭を求める商売女にとっての真の快楽はそこだ。情事の最中には存在しない」
「そう、なの」僕は彼の言う事が、少しも理解出来なかった。それは僕が彼よりも、随分と子供だったから、と今にしてみれば思うが、この時ばかりは、本当に理解に苦しんだ。「僕には……わからないよ。銭の為に体を売るなんて、その方が、僕にはけだものじみた振る舞いに思えるんだ」
「君はまだ童貞を捨てたばかりで、男女の間で行われる事柄を、その新しい生命を生み出すという非常に限られた一面によって、何事か神秘的に受け取ってしまうのだろう。本当ならそれは、何のこともない物なのだ。きっと君の考えている行為は、子を作る手段、愛を確かめる手段に過ぎない。ならば、銭を得る手段であっていけない道理は何処にも存在しない。彼女らは実に慎ましやかな個人的な目的の為に、客を取っている」
「………」
「だからこそ、僕はそれがいいと言うのだ」崇竑は暗い水を見つめている。そのどろどろとした瞳に映る暗黒色。僕は黒曜石のようなそれをしばらく眺めていた。尖った横顔、正面から見れば間の抜けたような馬面も、その角度から見るとむき出しの刃物のようだった。不思議な男だった。「僕は強欲な男だ。求める所に際限が無い。特に肉欲については、常人のそれを凌駕すると自覚している。それ故に、僕は素人女を抱いてはいけないのだ。彼女らは、何度となく僕のような男に抱かれる中で、手段が目的へと変容してしまうのだ。愛される事を目的にしている。そんな女を愛してはいけない。抜け出せない泥沼に引きこまれてしまう。愛しては、僕は必ず道を誤る。だから僕は、固く冷たい商売女しか抱けない。それは、商売女の瞳に映る物が、僕でなく、うつろな空だからだ」
「クウ?」
「そう、あれこそが肝要だ。あれを見て、僕は愛を忘れる事が出来る。情という物が抜け落ちて、淡白に味気なく、それでいて鮮烈な色合いをした欲望のみに、僕の精神が染まっていく。心に滲みだしていく胡乱な何か、僕にもよくその正体がわからない何かが、僕の人間らしさの一面を小そぎ落としていく。落とされた垢のような人間らしさの残滓は、精管を通って下って行き、吐き出した時、僕は実に清々とした心地で、真に人間になれる。真の人間とは、今の君のような男の事だ」
 彼の求める物と、体を重ね合わせる事とが、僕の中ではあまり上手に噛み合わずにいた。
 その言葉に耳を傾けていると、彼が抱える大きな悲しみを追体験しているような心地になる。一体何が、彼にそんな歪んだ思いを抱かせて、愛や情を捨てるように急き立てているのだろうか。それを憐れむべきか、僕にはわからない。ただわかる事は、彼は溺れる事を嫌って、心がからからに乾いてしまったのだという事だけだった。
 僕は視線を落としていた川から目を逸らす。弱い月明かりに照らされた、夜目に白く見える、腐った嬰児が流れてきたからだ。珍しくはない。上流が花街というからではなく、何処の川であっても、こうした手合いの代物が流れてくる物だった。見慣れた筈のそれが、どうも見ていられない、そうした穢らわしい物に思えたのは、僕の吐き出した精子が、あの女の体の中で生命として起結したのなら、あのようにこの川を下ってくるのだと想像したからだった。
 商売女は愛や情を持っていないのだろうか。自分が腹を痛めて産んだ嬰児が、仮に川に流されたとして、心を痛めずにいられるのだろうか。僕はふとした想像でも耐え難い気分に陥る。見えもしない光に縋る嬰児の伸ばした手の動きのように頼りない、暗澹とした願いが過ぎった。
 崇竑の語る通りだとするならば、僕に抱かれて、流した涙は何の涙であるのか。僕は、女を知って一刻ばかりの男だ。細やかな女の心なんて、わかる筈がない。それでも、彼女の心に愛情が無いと言い切る事だけは出来なかった。
 あの女とて、好いた男の一人やふたり、いるに違いない。それはもう面影すらも忘れてしまったかもしれない、好い男がいたのだ。生まれながらにして娼婦だった女なんていない。
 あの女、あの女の涙。僕は、そんな女を抱いた。
 この男は、自分の心から愛や情を捨てていったのだ。そしてがらんどうの心を埋める為に、純粋に快楽のみを求めるようになったのだ。なんて薄情、酷薄な男だろう。縋るものの何ものも持たずに生きていくつもりなのか。
 何者になろうというのか。捨てねばならぬ程の愛や情を、一度は炎を上げたに違いない熾を、女の胎に置いてきて、彼のなろうとするものが、今の僕であるのなら、彼の人生に果たしてどのような喜びがあるのだろうか。
 僕は恐ろしくて、彼に問いかける事が出来なかった。
 お前は、あの商売女に僕の相手を頼んだ時の、恨めしそうな目を見て何も思わなかったのか。
 聞いたら、彼が壊れてしまいそうな気がして、僕はとうとう聞く事が出来なかった。
 君は、人の愛の深さが怖いんじゃあないのか。自分もそれに薄々気づいているのにも関わらず、それに縋らねば生きられないと自覚している癖に、君は、それすらも怖いというのか。
「アヘンも使い方を間違えなければ良薬だが、大抵の人間には毒薬としか扱えない。女もまたそれに似ているが、アヘンよりかは幾分か扱いやすい代物だ。女を抱く時には必ず、その嘘を抱いて、冷えた硬さを感じなければ、途端に女の愛の毒に男は脳を焼切られてしまう」
 僕は何か、彼に語りかけてやるような言葉が無いものか、探して見た所で、水の音すらその高い粘性に塗りつぶされてしまったような、しんと静まり返った夜の事。静けさが居た堪れない気持ちにさせて、僕は「うん」と相槌を打つので精一杯だった。
「アヘンで狂って死ぬ時は独りだ。どうせ死ぬのなら、誰かの腕の中で死んだ方が、幸福にも人それぞれの形があるにせよ、世間一般の、人恋しさに塗りたくられた人間の幸福ではないかな」
 それが僕にとっての崇竑の遺言となった。僕は、彼のようになりたくないというような、ある種の恐怖から逃れようと、再び貸本のかび臭さに埋没するようになった。
 そうして、程なくして、彼は女郎宿で馴染みの商売女を抱いた後に、ピストルで自分の頭を撃ちぬいた。何処で手に入れたのか、店に預けもせず、懐に忍ばせていたのだという。彼が最後に愛情を捨ててきた女は、僕の抱いたあの女であったのか、それはわからない。
 狂っていたのだろう、と口々に人が言う。よくある話だ。狂ってしまった友人なんて、僕の周りの学を志す人間ならば誰しもひとりくらいは持っているもので、彼の死は自然とそうした定型の中に分類されるだけで、殆どの人の心の中で消化されてしまった。
 祭り囃子のように。泣き喚く女子供は、彼の顔すら知らない。
 その最中、やはり僕も彼は狂っていたのだと思った。
 最期、彼は女の瞳に自分を見たのでは無いか。僕にはそんな気がしてならない。
 自分でも気づかない内に、愛に溺れていたのでは無いか。
 もっと深い所へ沈んでしまいたいのに、臆病な彼は出来なかったのだ。
 僕は、もう彼のことを忘れることにした。他の誰もがそう感じたように、いなくなってしまった者を追慕するのは自分では無い事を知っているからだ。
 せめてもの餞別ような心づもりで、葬列を見送った郊外に咲いた梅の枝を折って、彼が使っていた書見台の前に捧げた。彼の墓の場所を僕は知らない。
 その翌日、彼の兄がやってきて、部屋から彼の持ち物の一切を運び出した。かさばる類の物はどうやら売り払われたらしい。
 梅の枝もまた無くなっていた。それでも、彼の匂いをかき消すかのように、いつまでもそこには梅の匂いが微かながら残り続けているような気がした。

紅灯瑣言

 深い意味もないです

紅灯瑣言

400字なんて大盤振る舞いをしてもらって説明するだけの概要のある話ではない事だけは確かな話です

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-02-14

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