青色推故

 窓から日暮れた光が差し込む図書館は橙色の静謐に染まっていて、椅子に腰掛けて本の中に深く沈み込んでいるくせ毛の少年――ミシマ。その耳は音という物を失っていて、吸う空気は匂いもせず、乾きも湿いも無く、味気無い。
 うつら、うつらと揺れながら眠りに落ちる子供のように文字の中に埋没していくという感覚。文字と文字との僅かな隙間や行間の中にすぅっと、吸い込まれていくような足元の覚束ない感覚だけがその中で、唯一ミシマ自身を個別の存在として位置づける物だった。
 目で追う文字とは裏腹に、ミシマの頭の中にはエーゲ海が広がっている。切り立った崖の表情は日本海のような黒ぐろとした荒々しい物でなく、白くなめらかな砂の城のような色合いをしている。その上からミシマが海を眺めていると、飛び交う海鳥の嘴に光るラピスラズリが眼に飛び込んできた。
 ミシマが手を振って、声をかけると海鳥は驚いて嘴のラピスラズリを海に落としてしまう。海鳥は落とした物はきっと高価で大事な物だったろうに、戻って拾おうともせず、海の果てへと消えていった。
 ミシマが崖から飛び込み、海鳥が落としたラピスラズリを探し求めて、海の底を歩くと出会う人魚は「もう何隻も船を沈めてきた」と儚げに笑ったが、ミシマには優しかった。ラピスラズリの所在を尋ねると「知らぬ」と答え「周りを見てご覧なさい」と言う。
 辺りを見回すと沈没船がちらほらと、中には輝きを失わぬ金貨や銀貨があって、人魚に尋ねると「持てるだけ持ってお行きなさい。ただし、欲深き者は溺れる」とだけ囁いて、何処か海の向こうへと消えていった。
 革袋に金銀貨を入れて、水を掻いて磯を進み、丘へ出ると西に見えるはアテナイ。そのまま走って着く頃にはミシマの服はすっかり乾いていた。お腹が空いたので、賑わう市場でパンのような物を買って食べる。あまり上等な味では無かったが、中が固く詰まっていて食い甲斐だけはあった。相場がわからず、お釣りがあるかもしれないと、ミシマは店主の目を見つめた。店主はもごもごと銀貨を口に入れて、その真贋を確かめていた。味でわかるのか、尋ねると店主は「贋なる銀は血の味がする」と口を開いて舌を出し、唾液でぬらぬらと輝く銀貨を吐き出した。釣りは無かった。
 そのまま目抜き通りを進むと石造りの大きな建物がある。聞けば図書館だという。誇らしげに語るのはどうやら哲学者で、哲学者だというのに、落ち着きがなく、アテナイの図書館の偉大なるを身振り手振りで語っていた。「この世の知識と名のある物の全てが集まるんだ!」哲学者は浮世のことに興味など無いのさ、とでも言いたげに人ごみの中を悠然と歩いて、図書館の中へと消えていった。
 近く、人だかりがあった。近づくと何か、文字を記している。尋ねると老人は憤然とした顔つきで「オストラキスモス」と答えた。よく見ると、老人だけでは無く、その辺りの人々の大抵は、顔と肩を怒らせ、うろうろとしている。殺気立っているというような、ぴりぴりとした塩辛い空気が流れている。
 オストラキスモス。「知らないのか?」と声をかけられて、ミシマが後ろを振り向くとまだあどけなさが残る青年が立っていた。手には青い欠片のような物を持っていて、そういえばと、辺りを見回すと色こそ違えど、どの人間も青年が持つような大きさに割れた欠片を持っていた。
「アテナイは初めてか?」
 ミシマは頷いた。青年は特に表情も変えなかったが、揃いも揃って何事かに憤った風のある人々の中で、その無表情は何処か人の良さ気に見えた。
「テュランノスが現れる兆しがあると、このオストラコンにその恐れのある者の名を書き、多くの人間に名を書かれた者をアテナイの外へと追放するんだ。それによって政治が個人の恣にされる事、我々の権利が抑圧されるを防ぐんだ」
「追放された人はどうなるの」
「少なくとも10年は故郷の土を踏む事が出来ない」
「……どうしてそんなことを」
「テュランノスが現れる兆しがあると、このオストラコンにその恐れのある者の名を書き、多くの人間に名を書かれた者をアテナイの外へと追放するんだ。それによって政治が個人の恣にされる事、我々の権利が抑圧されるを防ぐんだ」
「……嫌いな人の名前を書いているだけなんじゃ」
 エラーが起きたように、繰り返される言葉。一言一句、音の高低や語気の強さの何もかもが同一の音声が流れ続ける。リピートはあくまで淡々と。それはやがて、一向に進展しない状況の進行を催促するように、前の発言と重なり始めた。
 ぐるぐると渦を巻く青年の言葉はいつしか意味を失って、調音された母音と子音が無機的な物に変容し、絡み合った混沌の中に雑音として沈み込んでいった。
 ミシマはその完全に意味喪失した音に、彼が興味を示す知識など殆ど存在しないような有様に成り果ててしまったその音に、何故かとり憑かれてしまったかのように、離れられなくなってしまった。
「テュランノスが現れる兆しがあると、このオストラコンにその恐れのある者の名を書き、多くの人間に名を書かれた者をアテナイの外へと追放するんだ。それによって政治が個人の恣にされる事、我々の権利が抑圧されるを防ぐんだ」
「テュランノスが現れる兆しがあると、このオストラコンにその恐れのある者の名を書き、多くの人間に名を書かれた者をアテナイの外へと追放するんだ。それによって政治が個人の恣にされる事、我々の権利が抑圧されるを防ぐんだ」
「テュランノスが現れる兆しがあると、このオストラコンにその恐れのある者の名を書き、多くの人間に名を書かれた者をアテナイの外へと追放するんだ。それによって政治が個人の恣にされる事、我々の権利が抑圧されるを防ぐんだ」
 
 
「ミシマ、何読んでんの」

 
 橙色の黄昏光の中でミシマを見下ろす少年がいた。見上げると逆光、橙光を背に受け、野球帽を目深に斜めにかぶった少年だった。確か、名前は。ミシマは返事より先に記憶をたどり始めた。同じクラスで、どの列の何番目に座っているか、という程度は思い起こす事が出来た。しかしそれ以上は、思い出す事が出来ない。
ミシマの頭の中には無数の引き出しがあり、その中でありもしない空想の記憶だけが整然と色分けされていたが、裏腹にミシマの中の現実の記憶はどうにも散らかっていた。ミシマはその中を探していると外見はぼうっとして、何も考えていないような、空の瓶のように空虚な表情になった。少年は見返すも、それきりしばらく反応を示さないミシマの顔を覗きこんだ。「どうした?」
ミシマがやや不安げに見上げる少年の、その名を知る術は無かった。本来であれば胸元にぶら下げている筈の名札をつけていなかった。何もぶら下がっていないシャツの胸元には何度も針を通したような、虫食いのような穴が開いていた。
「……古典古代の原像」
 ややあって、ミシマは有りもしない記憶を探すのをやめて、さも答えを見つけたように、少年に表紙を見せて、そう呟いた。小さく、誰に対して吐かれた言葉かすら曖昧な声は、微妙な緊張に喉の奥で掠れていた。
 それがどうして小学校の図書室に置いてあるのか、子供のミシマには、あるのだから不思議にも思わなかったが、少年にとって本というのは、どうやらミシマのそれよりも身近な存在では無いらしく、その難しげな表題に嫌悪感を抱くだけの知識もない少年は然程興味も無さそうに、適当な相槌を打って、ミシマの言葉の端を溶かした。
「本ばっかり読んで、少し気味が悪いぜ」
 そう、少年はミシマの隣に座った。
「……そうかな」
「今度、昼休みサッカーしようぜ」
 野球帽を被った少年は少し不慣れでちぐはぐな親切心から、そう言ったのかもしれなかった。果たして本当にそうだろうか。純粋に親切心のみで、興味も無い図書館を訪れ、それまで関わった事すらない、ただのクラスメイトのミシマにそんな事を言うであろうか。確かにミシマには友人と呼べるだけの深い付き合いのある人間はいなかった。その事がどうやら同情に値するという事をミシマは、周囲のその反応からして、なんとなく把握こそしていたが、それに居心地の悪さを感じた事が無かった。ミシマは同年代の無垢なる少年少女らに比べて物への理解は深かったが、兎角人の心の機微という物に、人一倍その部分が繊細であるにも関わらず、他者のそれを慮るという事にはひどく鈍感だった。
「放っておいてよ」
 だからこそミシマは少年の同情が多分に含まれたらしい好意が耳目に障るようで、一言そう、ミシマは少年を突き放した。きんと張り詰める音が鳴る静寂の中で、ミシマはしばらく少年の手元を見ていた。
「なんだよ、それ」
 黄昏が光を失って、急速にその温度を失った頃に少年は足早に図書室を去った。それまで静かだった図書室に、引き戸の金具が擦れる音が響いて、入れ違いに見回りの教師が図書室に顔を出した。「もう帰りなさい」と。
「はい」
「最近、不審者がいるっていう話もある。ミシマの家は何処だ?」
「○○です」
「お父さんかお母さん、迎えに来れるのか?」
「いえ」とミシマはシャツを捲って腰に吊った鍵を教師に見せた。「でも一人で帰れます」
 ミシマは開きかけた本を閉じて、それを本棚に戻した。ハードカバーの分厚い本で、ランドセルに入れるには大きすぎる『古典古代の原像』は図書室の奥の元あった暗闇の中にすっぽりと深々と収まった。きっとその暗闇はミシマ以外には誰も知らない。


 人に向き不向きがあるというのは、ミシマの同級生の中にもそれぞれ得意な教科、不得意な教科というものが、その地頭力の多少に関わらず存在している事からも察する事が出来て、そういった発見は大抵、人との関わりの中でごく自然な形で獲得する物だったが、ミシマの場合はそのようにして人間が無為自然的に獲得するべき事柄こそが苦手な分野だった。
 気に入らない事に際して、腹立てるというような気性を持たなかった事は幸いというべきか。その為にそれまで特に問題を起こす事も無く、一言で言えば手のかからない子であり、印象に残らない生徒として、影の薄い友人と他人との中間あたりをふわふわと漂っているような、同級生、或いはクラスメイトという言葉があまりにも適切でそれとしか言いようが無いというものこそがミシマだった。
「何でお前にそんな事言われないといけないの」
 いつも通りの騒がしい教室の中でひとつ異なって見えたのは、いつもひとりで座って、周りの同級生の居着かないミシマの机の前に、眉を怒らせた先日の少年が立っていた事だった。しかしながらそんな事は、この時にはまだあまりにも瑣末に過ぎて、授業間の空白を浸す騒々しさの中に沈んでいた。
「お前調子乗りすぎだろ」
 ミシマを責め立てる少年の語気は強く、ミシマはそれを見上げながら自分がどうしてそんな風に、意味不明な内容を振り翳されて、乱暴な口調で怒られなければならないのかがどうしても理解出来ず、当然ながら理解出来ない物は腹立たしく、半分睨め据えるような視線を砥いでいた。視線の先、見下ろす少年の視線もまた、劣らず鋭い。
「ただ昼休み遊ぼうぜ、って言っただけじゃね。別にほんとに来てほしいとか思ってねえし、断っても気にしねえけど、人がせっかく誘ってやってんのに、邪魔扱いすんのはおかしくね?」
 何も言わないミシマに対して、少年の言葉数は徐々に増えていく。上から頭ごなしに言えているのに、暖簾に腕押し、反応を示さないミシマに言葉を投げかけても、壁に向かって話すのと何が違うと言うのであろうか。少年は自分の中にぽつと出た虚んな部分を埋めるように、声量もまた徐々に大きくなる。
「おい、聞いてんのか。テメェ!」
 やがて教室中に響き渡る叫び声となって、教室から少年ひとりが浮き上がる。色を共有した子供たちはそれをただ虫でも眺めるように見つめている。しかしやがて、個を押し殺したような平均的な土壌から突如出現した激情に、中てられたかのようになる。囃し立てる男子に醒めた視線の女子が入り混じった、正気などありはしない異様な緊張に包まれた。それはまるで少年を写す鏡のようだった。
 そんな周囲の状況にはたと我に返ったのか、いいやそうではないが、少年の首筋につぅっとした、冷たい汗が流れた。ミシマの不気味ですらある態度と、砥ぎ上がって異様なまでに鋭くなったその眼差しに一瞬、少年はたじろいだようにその勢いを失った。少年の心は冷水をかけられたように冷えきっていたが、その事を自覚した時に、再び火がついたかのように、少年の心臓に温かい血が流れ始め、前にもまして激しい情が駆け巡った。
「――何か、言えよ!」
 少年はとうとうミシマの頬を叩いた。子供の喧嘩にあるまじき、恐ろしいほどの音が教室中に響いて、ミシマの体はその衝撃を受け流す事も出来ずに椅子の上から放り出されて、隣の机の列に突っ込んでいった。
 手に持った文庫本は軽々しく飛び上がる。めくれ上がる頁の擦れる音は神経質な女子の金切り声に切り裂かれた。鼻を刺すアンモニアの異臭のように、その高い音は突然の事に唖然と呆けていた生徒らの脳を覚醒させた。「先生、誰か先生呼んでこい!」
 少年は何かに取り憑かれたかのように執拗に、ミシマに馬乗りになってまでその顔を殴ろうとした。はやし立てていた男子の中で数人がそれを止めようとしたが、とうとう子供の力では少年をミシマから引き剥がす事が出来ず、駆けつけた教師が少年を羽交い絞めにして持ち上げた時には、ミシマの顔はアザだらけで、その口の中には血の味が満ちていた。ミシマは数人の男子に支えられて起き上がり、抗い難き大人の力で壁に押し付けられ、言葉にならない何事かを叫ぶ少年の狂乱を見つつ『贋なる銀貨』の事を薄ぼんやりと鈍い痛みの中で思い出していた。


 少年の名はマルヤマといった。マルヤマはミシマと喧嘩したその日も名札をつけていなかったが、担任の教師が落し物の小箱の中から『丸山 修司』と書かれた彼の名札を持ってきて、殆ど無理矢理につけさせた後、暴れ疲れて大人しくなった頃合いを見計らってミシマと引きあわせたが為に、ミシマはその時始めてマルヤマの名を知ったのだった。
 ミシマの顔面は数度となく殴られ、手酷い有様だったが実際は見た目よりは軽い怪我で、所詮は子供の喧嘩の顛末というべきか、状況は常軌を逸してはいたものの、病院の治療も特に必要では無い、という程度だった。とはいえ学校の保険医の治療を受けたミシマの顔は大きなガーゼで覆われて、傍目に痛々しく、それを見たマルヤマはとうに正気に戻っていたらしく、一瞬自分のした事を後悔したかのように、俄にして色を失ったが、ミシマとの視線が交差した瞬間、納得の行かない不機嫌そうな顔つきで、まるで威嚇する小動物のように目を怒らせた。
 昼下がりの空は青々としていたが、そのやや冷たい風はやがて降る雨を思わせるような、濃厚な水の臭いに満ちている。弱々しい風が吹き抜ける保健室でミシマとマルヤマはしばらく見合っていた。二人の間に会話は無いが、その周りの大人は引っ切り無しに口と舌とを動かしていた。
「マルヤマ、ミシマに謝れ」
 結論として、明らかな事として、実際の状況を見ていない教師らが判断出来た事はただ一つだけだった。加害者はマルヤマだという事だ。一部始終を傍観していた生徒は揃ってマルヤマが殴りかかった、と言ったが、そこには必ずミシマが何かをした、という条件がついていた。裁定者たる教師はミシマがした『何か』があまりにも抽象的で、誰の目にも映らず、故に推測に過ぎず、しかも根拠がマルヤマという個人に対する一定の好感による物だという事を見抜いていた為に、原因としてのミシマの存在にはあえて蓋をし、その結果から一方的にマルヤマを断罪せんとした。
「嫌です」
「お前なァ」
 ややあって口を開いたマルヤマの語気には意志の強さというより、意固地になっているような頑迷さが伺えるようだった。彼の中にどういった譲れない物があるのか、大体の所でこの場のミシマ以外の人間は察しがついていたが、それであっても謝罪せねばならぬというのが大人の思考回路が弾きだす物だった。
 ミシマはマルヤマの考えを理解出来ない。出来る筈があろうか。ミシマは、鈍い痛みと熱に浮かされたように、空想の中に栩栩然とあったのだ。謝罪があろうとなかろうと、ミシマの目には最早マルヤマという存在は霧散したか如く映っており、今目の前で繰り広げられている事もどこか客観視する事が出来て、わけのわからない退屈な白黒映画のようでしかなかったのだ。
 ミシマの白痴的ですらある無関心な態度はその場を停滞させるには十分だった。ミシマは興味を失って、マルヤマは譲らない。本人同士が分かり合うという事はもうありえないのだろう、異常なるはミシマだ。そんな事がこの段階で教師の間で、或いはようやく、共通の認識となっていたが、かといって、その結果からしてミシマを責める事は大人には出来なかった。なるほどミシマは何かをして、マルヤマを酷く傷つけたかもしれないが、その疵は心の痛みで、人の目には映らないのだから。
 結局両者の親が介入するのを待つ事になった。手のかからない子は手に負えない生徒だった。マルヤマの家は商店街の小さな豆腐屋で、程なくして両親揃って学校にすっ飛んできて、マルヤマをこっ酷く叱って何度もその頭を殴ったが、一方でミシマの両親は何時まで経っても現れなかった。突然、学校から子供が喧嘩をして、怪我をしたので来てくれ、と言われて直ちに職場を離れられる立場の人間も、それはいるだろうが、ミシマの両親の場合はそうではなかった。いつも家に帰るのはミシマが寝付いた頃で、顔を合わせるのはミシマが起きた時、たまたま玄関先で出勤せんとする両親と蜂合わせた時位のものだった。そういう親だった。来るはずが無い。ミシマは相変わらずの白痴然とした表情でマルヤマを見つめていたが、その眼球が捉える先に彼の両親の姿があった。その場の誰も、ミシマがその小さな手で腰に吊った家の鍵を握っていた事には気づかなかった。マルヤマの両親が騒がしく息子を殴るので、呼んでおきながらそれを宥めるのに大人は意識を注いでいたからだ。
「どうしたの、ミシマくん」
 若い保険医が気づいた訳ではない。ただ突然、ミシマが立ち上がった為に、そう尋ねたに過ぎない。それまで物言わず身動ぎひとつしないミシマが突然動き出したので、それまでぎゃぁぎゃぁと叫んでいたマルヤマも呆気にとられるように、息を呑んで、ミシマを見上げた。
「どうした、ミシマ」
 担任の教師もミシマのただそのただ立ち上がるという行動があまりにも不意だったが為に、呆気にとられていた。ミシマは孤高として周囲からますます浮き上がり、異様な色彩を放ちつつそれらを見回した。悠然と、見下ろすような、睥睨。
 ミシマの目に留まるは青の花瓶。古い鉄の薬棚の上で、そよ風を受ける群青の光沢は自己主張が激しく、花の色合いを溶かす程に鮮やかな青で、その群れた青にミシマの心は奪われた。海鳥が落としたラピスラズリに似た深淵なる青。
 そう思った瞬間には、ミシマはその花瓶を両手で持ち上げていた。眺めるというのには高すぎる、その両手の位置にその場の誰もがはてと首を傾げる。それを振り下ろすと、張り詰めたピアノ線を切ったような、異質の高音が鳴り響いた。爆ぜる水の音、爆ぜたは青。
「ミシマァ!」教師の一人が慌ててミシマに駆け寄って、その両肩を掴む。「一体どうした、突然。どうしてこんな」
 ミシマはもう呆けたような白痴的な表情では無くなっていた。床に落ちた青の破片がその身の中を駆け巡っているかのように、ミシマの体は冷えきっていて、目に見える景色は冷めきっていた。
「すみません」
 ミシマは始めて口を開いた。そして軽く、弱々しくもある右手の動きで教師の強い力にそっと手を当てて、それを柔らかに除けた。するりと力を失ったかのように、教師はその場に立ち尽くして、ミシマを見下ろしている。
 ミシマはしゃがみこんで、水の中、砕け散ったラピスラズリの破片の中で一番大きな物を選んで、それを細い指先でそっとつまみ上げた。
「触っちゃだめ、やめなさい。ミシマくん」
「すみませんでした。弁償します」ミシマはそう言った。その場の誰も見た事がない、大人びた、というよりは人間らしさを青に塗りつぶされたような、そんな少年。ミシマ。「弁償はします。でもこの青があまりにも綺麗で、欲しくなっちゃったんです」
 あまりにも不可思議。その場の人間の中で、怒りの中でミシマのそうした部分に僅かに触れたマルヤマだけが、壊れてしまった花瓶が破片となってなおも放つ、冴え渡る美しさのような、ミシマの心の色を見透かしていた。


 ドアノブに鍵を入れると氷を噛んだような音がした。回転し、かちんと音を立てて錠が外れる。ミシマは抜いた鍵をポケットに突っ込んで、ドアノブに手をかけた。
「本当に、ここまででいいです」
 振り向いて、ちょうど靴摺りの上に立った。逆光の先に若い保険医を中に入れまいとしているかのようで、そうした若干の拒絶が伝わったか、保険医の顔が曇った。
「そう。じゃあ、多分アエバ先生が家庭訪問に来ると思うから――」
「はいわかりましたそれじゃあ」
 ミシマは送ってくれた保険医の言葉を押しつぶすような早口で、まるで初めからそうやり過ごそうと決めていたかのように、舌も縺れずドアを閉めた。ドアの向こうにまだ保険医が立っているという気配を感じているミシマもまた、しばらくの間、保険医がいなくなるまでドアに背中を預けたまま立っていた。
 花瓶を割った後、話し合いの場所がどうやら変わって、マルヤマとその両親は別の場所に消えた。その話し合いにミシマが参加した所で、親と教師の大人同士の話なので、どうしようもなく、ミシマは割れた花瓶の片づけをする保険医のてきぱきとした作業を見つめていた。
 割れた破片は四散して、保健室のあちこちに飛んでいるようだった。大きい物もあれば、目に見えない程に小さな破片もある。
まるで夢を見ていたかのように、自分の意思が自分の身体とはかけ離れた高みにあって、その意思の挙動に最初はなんとなく、特に疑問も無く従うが、やがてはっと我に返ったように、意思と肉体が同居したようなその瞬間、自分がどうして、あのような事をしたのかさえよくわからないという混乱の中、気づけば頭の中では竜巻が起こっていた。ズボンのポケットの中に入った破片を見つけた時、ようやくミシマは自分のやった事をそれが現実であると思い出す事が出来た。心が後悔に粟立ったが、しかしこうして保険医との彼我を隔てる距離の中に鉄の扉があるともなれば、もう随分と治まり、今では感じる事も難しくなっていた。
 鉄の階段をヒールが叩き下っていく音がミシマの耳に届いた。すぐに靴を脱いで、リビングの窓を覆うカーテンをそっとめくる。強い西日に瞳を灼かれながら外を眺めると、保険医が自分の真っ赤な軽自動車に乗り込む所で、ばたん、とそのドアを閉める音が聞こえた。死に体の肉食獣のようなエンジン音が鳴って、テイルランプは尾を引いて、角を右折して車体が視界から消えても尚、しばらく西日の中で赤く灯り続けているように、目に焼き付いていた。ミシマは両目の灼けつく眩しさの中で、かえって風景が鮮明になるような感覚の中、呼吸を止めてその赤色を凝視する。やがてそれが消える。
 ポケットから青い破片を取り出す。破片を見つめていると、それは明かりのない薄暗い部屋の中では海のよどみのような色で、西日に当ててみると、揺れる黒の水面と輝く黄昏色が現れた。ただそれも、裏を返すとざらざらとした薄いクリーム色の表面が能面のようにあるだけで、ミシマは青に浸る所からはっと我に返った。
 我に返ったというべきだろうか。その瞬間のミシマは、むしろかえって異常さを内包していた。破片にまるで異なる裏表があるように、ミシマにもまた、或いは人間にもまた、そのようにまるで異なる裏表があり、今まさにミシマの裏表がくるりと翻ってしまったようだった。花瓶を叩き落とし割った時のように、脅迫的な思考が、せよと下す事柄にミシマは囚われた。
 ミシマは電話の横にあるペン立てに、いつから刺さっているとも知れぬなまえペンを手にとった。キャップを抜いて、さっと紙の上で先を走らせると黒々しい滑りを帯びたようなインクが走り出た。
 ミシマはそのなまえペンと、青い破片を持って外に出た。日陰の中から見る外の景色は乾いていた。そんな中で、群青が放つ水の匂いを辿ってミシマは走りだした。
 ――オストラキスモス。
「テュランノスが現れる兆しがあると、このオストラコンにその恐れのある者の名を書き、多くの人間に名を書かれた者をアテナイの外へと追放するんだ。それによって政治が個人の恣にされる事、我々の権利が抑圧されるを防ぐんだ」
 綾なす音はその時、解きほぐれる。
 いなくなってしまえばいいんだ。
 その名を忘れないように、ミシマは走りながらずっと頭の中でつぶやき続けた。途中で腹が痛くなってきても、念仏のように唱えていると、いつしかその痛みを忘れた。一心不乱とは、こういう事を言うのだろうか、ミシマは気がつくと土手の上でゆるやかに流れる水の流れを眼下に収めていた。
 ミシマは名前を書いたオストラコンを川に流して、それによってオストラキスモスが完成されると考えていた。最後まで本を読まなかったミシマは、その破片の正しい経緯がわからなかったのだ。子供じみた発想で、それが呪いか何かのように考えていた。須磨巻の流し雛を夢想してそう思ったか、何時ぞやテレビで見た灯篭流しが頭に焼き付いていたか、ミシマがそんな事に気づく由は無いが、とにかくミシマの呪い――オストラキスモスは水に流す事が鍵になっていた。
 土手を駆け下りる。水の匂いが増して濃厚になる。そこにぬるりとした水苔の臭いが混ざる。川べりは涼しげな風が吹いていた。水中に足元を埋没させて、背の高い葦が群れている。岸辺はコンクリートで覆い固められて、水に濡れて滑りを帯びた感触が、ミシマのスニーカーの薄い靴底に纏わりついて離れない。
 ミシマは階段になっている岸辺をそのまま下流へと歩く。自分の影が長く、川の中に溶け込んでいるのを見ながら、揺れる影との距離を推し量るように、自分の手がそこに届く程に近くなる、テトラポッドの残骸のある辺りにしゃがみ込んだ。
 テトラポッドが崩す波の弾ける音。
 なまえペンのキャップを口に咥えて、抜き取る。握りしめた破片は一度水の底に落とし込んだような、ぬらぬらとした物にまみれているようだったが、ミシマは気にもとめずにその場にしゃがみ込み、オストラコンの裏にマルヤマの名を書き始めた。
「何をしてるんだい、坊ちゃん」
 その矢先、後ろから声をかけられる。男の声で、まだ距離がある。叫び声のような張りのある声。叱りつけているようにも聞こえなくはないが、そうとも聞こえない、まるで何かを隠しているかのような、声の震え。ミシマは敏感すぎる程にその男の気配を感じながらも、そちらを振り向かず、しばらく黙っていたが、ペンの先はその間動かなかった。
「こんな川の近くにいちゃ危ないじゃないか」
 もうまもなく日が落ちる。暗くなった水辺に近づいちゃいけないというのは、街暮らしのミシマでもわかる程度の常識で、そうなれば自分がどれだけ危険なのかという事くらいはわかっていた。そんな事、今更言ってもらわなくたっていいんだ。ミシマは煩わしそうに応えた。
「オストラキスモス」
「はぁ?」
 男が踏みしめる草の音。近づいてくると、少しずつその音は大きくなっていく筈であるのに、ミシマの心臓の音がそれをかき消していく。
「オストラキスモスです」
「………ふぅん」と声の主は何事か考えるような口ぶりで、なおもミシマに近づいてくる。すぐ傍までやってきて、上背のある男なのか、背後から覗きこんだ。「なるほど、オストラキスモス」
「はい」
 ミシマはその瞬間に、オストラコンを見られまいと手でさっと隠した。自分のやっている事が、人に見られた今まさに卑怯で児戯めいた、唾棄すべき懦弱そのものだという事に気がついたのだ。
「丸山――丸山ねぇ、丸山豆腐店。そこの倅の名かい?」
「……はい」
 見られていた。しかも、どうやらこの男はマルヤマの事を知っているらしい。もし自分がマルヤマをオストラキスモスで追放しようとしていた、なんて事が知られたらどうしようと、ミシマは不安になる。教師、友人に知られる事は痛くも痒くも無かった。ただ自分の両親に知られる事があっては、そう考えるとこの世の終わりを見たような心地になった。自分を殴った位で呼び出されたマルヤマの両親、何度もなんどもその頭を殴っていた。人をひとり、追放しようとしている自分にはどんな罰が下るのだろう。
「この辺じゃ、丸山なんて名字はあの豆腐屋くらいしかありゃせんのだよ」
 くつくつと男は笑う。
 気にしちゃいけない。まして、振り向いてその顔を見るなんて事は、あってはならないのだ。そんな意識が頭の片隅に生まれる。不吉で低い笑い声。
「邪魔したかね」
「いえ」
「そう、ならば。はやく続きを書いてお見せなさい」
「………」
 ミシマは止まったペンの先と同じように、身じろぎもせずに男の大きな身体に包まれるようになって、縮こまっていた。少しでも動けば、その瞬間に取って食われてしまうというような恐怖が心に芽生える。最初、頭の片隅にあった意識は今では頭の中でとぐろを巻いている。
 言う通りにした方がいいのか。そんな事が浮かぶ。いつ誰に強制された事でもない事が、いつのまにか背後に寄り添う男の、黒い影に急かし立てられている。ペンの先が震える。それでも何とか、丸山修司の名を書ききる。随分と時間が掛かったようにも思うその名を見て男は興味深げな唸り声を上げて眺めている。
「なるほど、修司。して、そのオストラコンはどうするのだい」
「……川に流します」
「どうして?」
 ミシマはそう言われて、何故名前を書いた破片を川に流すと、その者が消えてしまうかを考えた。あの青年はミシマにオストラコンの行く末を示す事は無かった。少しでも冷静に、自分の感情と行動を客観視出来るだけの思考がミシマに残されていれば、或いはその事に気がついたのかもしれなかったが、今のミシマは言い知れぬ恐怖とそれがまるで罰のように感じ取れた事による悔恨に支配されていて、ついぞ気づく事など無かった。
「わからないです。でも、なんとなく」
 川向こうのビル街は、ミシマの住む此岸とはまるで異なる賑わいを見せていた。歩いているのはどの者も知らない人間。まるでお互いが見えていないかのように、物凄い速さで歩き去っていく人々。ミシマの両親が働いているのもまた、川向こうのビル街だった。朝、一度働きに出れば、夜遅くまで帰らない両親。まるでミシマの世界から消えてしまったかのような両親。後ろ姿だけが頭に浮かぶ、顔のない両親。
「流したらどうなる?」
「……きっと多分、マルヤマシュウジはいなくなってしまいます」
「なるほど」
 一瞬、マルヤマが消えてしまって、悲しい思いをする人間がいるのかもしれないという思いがミシマの脳裏をよぎった。思い浮かんだのはその両親の顔だった。どうしてマルヤマの両親の事が浮かんだのか、ミシマにはよくわからなかった。
「投げないのかい?」
 男はそうミシマに尋ねた。ミシマは答えない。男のすする鼻汁の、ズズゥとした下品な音はまるでミシマに投擲を急かすような響きをしていた。それでもミシマは投げなかった。
「どうしたんだい、早く投げないと、暗くなってしまうよ」
 暗くなったら、見つけられなくなってしまうよ。
 遠くの葦の影が濃く伸びてきた。太陽はますます降り始め、川は溶かされた琥珀が流れ出しているような煌きに覆われている。目が灼けるような眩さに影もその伸びる先を変える。
 もうまもなく星が降りてくる刻限だった。そんな時間までひとりで見覚えのない場所にいたのはミシマにとって初めての体験だった。溶かされた琥珀のような水は陽が傾くにつれその粘度を増したかのように色が濃くなっていく。ミシマは少しぼうっとした眼差しで、そこにかかる、此彼岸をつなぐ鉄の橋を遠望した。
「やめておきます」
 ミシマはそう呟いた。どれ程の時間があったか、それを言い出すまでに掛かった時間は眩い琥珀の中に閉じ込められてしまって、知る術は無い。
「どうして?」
「……やったら、今度こそ二度と会えなくなってしまいそうだからです」
「誰と?」
 ミシマは答えない。せせらぎの音がその乱れた吐息を隠している。誰と、等というそんな事はミシマにもよくわからないのだ。ミシマの心の機微は、本人が他者のそれにひどく鈍感であるにも関わらず、ひどく鋭敏な性質を示し、難解で入り組んだ構造をしている。外面では高踏的な、悪く言えば取り澄ました所がありながら、内面では絶えず逡巡と後悔とを交互に繰り返している。時として自分ですらその迷宮の奥深くに潜む、情という高温の息吹の出処がわからない程だ。ましてそれが他者の理解の及ぶ場所にあろう筈が無い。
 ただの気まぐれという訳ではなさそうだ、そんな風に男はミシマの顔つきを、覗きこむようにして眺めて思った。男だけでなく、それ以外の一切合切、何もかもにも怯えている、小動物のような少年。粟立つ心をむき出しにしながら生きている少年。その視線は足元の陶片からはもう離れていた。
「もういいのかい」
「いいんです」
 ミシマの目の端に、ドーランでその表情を隠してしまったような、男の顔がふっと入り込んだ。生き物の皮膚の微妙で細やかな凹凸すらも均し潰したようで、何処かあべこべな印象があった。ミシマは顔の向きも変えず、殆ど目も動かさず、頭の中でその視界の端の顔を塗りつぶした。
「怖気付いたかい」
「もうずっと、怖いんです」
「怖い事から逃げるのは、悪い事じゃない」
「逃げたいんじゃないんです」ミシマは曇りのない浄げな目で彼岸を見つめながら言った。幾度となく降り懸る凛冽なるを越えた先で、ミシマは言った。「ただ僕は、そんな時に琥珀のような色をした何かが欲しかっただけなんです」
「嫌なことがあったんだろう、つらい思いをしたろうに。いっそ投げてしまえばそれで終わり、何もかもが霧散して、水に洗い流されたようになって、いっそクリアに、目に見えぬ程になってしまえばいい。そう、思わないのかい」
「……おじさんは、誰ですか?」
 ミシマは尋ねた。
 そこで初めて、首を動かして、ミシマは男の顔をまじまじと見返した。影を踏まれて身動きが出来ないような、体の緊張は幾分ほぐれていた。
 先ほどとはまるで違う、男の気配がしたからだ。何か憤っているような、憔悴しているような、絶望しているような。
 男の顔は逆光に暗転してしまったかのように、暗い表情を湛えている。糸くずが絡み合ったような長い髪の間で、皮膚には光沢があって白磁のようですらあり、その中でどろんと疲れきったような垂れた目の端には脂が溜まっている。じっと見つめている。ミシマはその目と向き合うつもりは無く、そこから視線を僅かに下げて、その高い鼻の頭を見つめた。そこには自分が映っていた。鼻の下に、口は無かった。
 乱気流のように、音だけが聞こえる吐息に体の中に渦巻く感情が漏れ出ている。ややあってそれがぴたと止まり、諦めたかのような侘しげな枯れ色の気配がミシマを覆う影を溶かす。
「おじさんかい? おじさんは、君が呼んだんじゃないか」
 何処かさみしげに男はそう呟いた。顔が動いたように見えて、はっとミシマはいつの間にか男の顔に口が空いている事に気が付いた。薄い唇。男はその唇をへの字に曲げるような顔を作ったまま、ミシマに背を向けて歩き出した。
 ミシマはそれをぼうっと眺めている。まばたきをすると、男の背中は随分と遠くにあって、幾度かのまばたきの末、そのまま葦の原に消えていった。
 ミシマは男の気配が黄昏を連れて行く風に掻き消されたのを見て、川の水に破片を浸し、書き記したマルヤマの名を指で小削ぎ落した。完全に綺麗にはならなかったが、それからコンクリートブロックでこすると、傷が沢山残った代わりに、マルヤマの名は完全に見えなくなった。そしてそれをポケットに入れて、しばらく夕日がビル街に沈むのを眺めていたが、やがて立ち上がり、此彼岸の結び目へと歩き出していった。
 そして、マルヤマシュウジは消えた。

青色推故

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  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-14

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