最後の瑠璃
僕は昨日、夢を見た。
夢?
そう、確かに夢から目覚めたときの感覚はいつもの夢と同じだった。けれど、あれを単なる夢として片づけられない僕がいる。
あれは本当に夢? それとも僕はあの夢から…
その夢は、先端がぐるぐるしている大きな杖を持ち、長くてウェーブがかった真っ白な髪と胸元まで伸びる白髭を生やしたちょっと威厳のあるお爺さん(そう、彼はまさに僕がイメージしている神様そのもの)が現れたところから始まった。どうやら僕がものすごく退屈しているのを見かねて神様が現れたという設定だったようだ。
「神様、僕は今すごく幸せだけど、このまま永遠に幸せが続くこの世界じゃなくて、もっと刺激があるところに行きたいな。」
僕はまるで友達と話すかのように、目の前に現れた神様に向かって話しかけていた。
「そうか、お前もこの世界に来てもう長い。そろそろ他の場所に行きたくなってもいい頃かもしれんな。」
神様はやはりイメージ通りの心地よい声で、ゆっくりとうなずいた。
「ただお前が望む刺激のある場所というのはな、今のように常に幸せでいられるわけではない。刺激があるということはつまり感情が動くということだ。感情が動くためにはお前がこの世界で経験したことのない、想像もつかないような出来事が次々と起こるということなのだ。そのことをお前はわかっておるのか?」
神様はそう言うと、僕の意志を確認するかのように僕の目を覗き込んだ。神様の視線は僕の目を通り過ぎ、まるで心の奥深くに隠しこんでいるものすべてを読み取ってしまうかのようだったけれど、不思議と僕には何の感情も湧かず無抵抗のまま神様の目を見つめ返していた。
しばらくその状態が続いてから神様は黙ってうなずき、
「そうだな、お前にひとつ話を聴かせてやろう」
と言って乗っていた雲から地上へと降りてきて(と言っても10センチくらいしか浮いてなかったけれど…)、大きな木の下に座っていた僕の横にゆっくりと腰をおろした。
「昔むかし、ある村に5つの家族が暮らしていた。」
神様がいきなりまじめな顔して『昔むかし』から話し始めたのが可笑しくて僕は小さく笑った。けれど神様はそんな僕のことなど気に留める様子もなく、平然と話を続けた。
「ところがある日、この村で一番貧しい家族の青年が、村で一番お金持ちの家族の少女を誘拐し、殺害するという事件が起きた。青年はすぐに捕えられたが、激怒した父親は少女の命の代償としてこの青年は勿論のこと、青年の家族全員の死刑を望んだのだ。そしてそれを実現させるため、父親は村の人たちに力強く訴えかけた。
『こんなことはこの村始まって以来の大惨事だ! この事件を簡単に片づけたら、この村の未来をも壊してしまうことになるだろう。そもそもあの家族が今までどれだけこの村の役に立ってきたと言うのです? いや、あの家族がたった一度でもこの村の役に立ったことがあったでしょうか? もしあったというなら私に教えて欲しい。私には何ひとつ思い浮かばないのだ。あの家族は私たちが汗水たらして働いているときでも自分たちは働かずに家でのんびりと過ごし、そうして困ったときだけ私の家を訪ねて来ては、病気だから薬を恵んでくれだの、食べるものが無いから分けてくれだのと頼んできた。そして私がそれを断ると、村中のゴミをあさって生きるようになったのだ。この村にいるあの家族以外は、皆この村のルールを守りこの村の発展を願って生活してきたというのに、あの家族だけはもうずっと長いことあの有様で変わろうとはしない。あんなだからこそ今回のようなおぞましい事件を起こすような子供が育ってしまうのだ! それでもあの家族がこの村に存在する意味があるだろうか? 私にとってあの家族はこの村のお荷物以外の何ものでもない。あの家族さえこの村からいなくなってくれたら、この村の品格も治安も守られるはずだ。どうか皆さん、厳しいと思われるかもしれないが、ここはこの村の将来のために心を鬼にして、今ここで彼ら家族の血を絶とうではないですか!』
父親の訴えを聴いた村の人たちはその言葉に賛同し、青年を含む家族全員を射殺するということを、全員一致で可決した。」
神様の話を聴いていると不思議と言葉がリアルな映像となって僕の頭の中で展開し始めた。
青年を含む家族全員が処刑場に集められ、躊躇することなく次々と青年の家族は銃口の前に倒れていった。最後にその青年へと銃口が向けられたとき、殺された少女の父親は銃を構えている者に手で待つよう合図を送り、少しかすれた声で青年に訊ねた。
「何故だ? 何故私の娘を殺したのだ?」
青年は何をどう答えたところで死を免れることは出来ないと覚悟していた。恐れることなく胸の内を全て吐き出すように話し始めた。
「この村にはたった5つの家族しか住んじゃいないのに、俺の家族だけが長年貧乏暮しだった。そのことをあんた達は不思議に思ったことはなかったのか? 自分の家族だけが幸せだったら、目の前に貧しい家族が暮らしてたって気にもならないか? あんた達は毎日毎日、豪華すぎる食事を楽しんで、食べきれなかった物は平気で捨ててきた。それを俺ら家族はあさりながらかろうじて生きてきたんだ!」
青年はそう怒鳴るような声で話しながらその場をぐるりと見回して、自分が処刑される姿を見に来ていた村人全員を睨みつけた。
「何故俺の家族だけがこんなみじめな思いをしなきゃならなかったんだ? この村はあんた達の村であり、俺たち家族の村でもあったんだ。なのに食料を作ろうと畑を耕せば、この場所はお前ら家族が使える土地じゃないと追い払われ、木の実や山菜を取りに行けば、管理してきた家族にその代金を支払えと言われ、払う金が無いと言えば取ったもの全て取り上げられた。川の魚ですら大切に育ててきた者がいるからお前ら家族に食べる権利はないと言われ、ならば何かお金を得るために働かせて欲しいと願い出ても、この村にお前のような者が出来る仕事などないと言って断られた。親父は俺たち家族を養うために必死だったのに、あんた達はよってたかって親父を追い詰めたのさ。仕方なくゴミをあさり始めた親父をさげすみながら、あんた達は口をそろえて吐き捨てるように言った。『お前のようなみじめな生き方だけはしたくない!』…自分の親父がそんな風に言われながらも、家族のために懸命にゴミをあさる姿を見て育った俺らの気持ちが、あんた達に解るか? 親父だけじゃない。俺ら家族のことをあんた達はいつも汚らわしいモノでも見るような目で見てきた。家に火を付けられたことも、訳もなく石を投げつけられたことだって何度となくあった。一番末の弟は投げつけられた石が右目に当たって失明した。そのときだって俺ら家族の必死の訴えを、誰ひとりとして聴こうとはしなかったじゃないか。あんたは自分の娘を喪った恨みを、俺だけじゃなく家族までも全員殺すことで復讐できるだろ? でも俺ら家族は…」
青年は更に目力を込め、少女の父親をきつく睨みつけながら続けた。
「あんたはもう覚えてないだろ? 8年前に俺の妹が死んだことを。何故死んだと思う? 餓死だよ、餓死! 毎日腐らせるほどの食料を抱え込んでるあんた達には想像も出来ないだろ? あんたの家のドアを開ければ食料がどっさり積んであって、その少しをあの妹に食わせてやれてたら、きっと今でも生きてられたのに…。親父はあんたに何度も頭を下げて、せめて栄養が足りない娘の分だけでも食料を分けて欲しいと頼んだのに、あんたはそんな親父に何て言った? 『お前の顔を見ると不快になる!もう二度と私の家のドアを叩くな!』そう言って追い返したのさ。あんただけじゃない。この村の他の家族も皆、あんたと同じような態度で親父を追い返した。俺たち家族は何も出来ないまま、妹が日に日に弱って死んでいくのを見てるしかなかったんだ。俺は、妹を殺したのは間違いなくあんた達だと思ってる! だけどその復讐はどうすればいい? 同じ人間として扱われないまま、ただ黙って耐えてきた、そんな俺ら家族の気持ちがあんた達に解るか? 長年溜めこんできたあんたへの憎しみが、俺を犯罪者に走らせたとしても不思議じゃないだろ?」
青年はここまで言い終えると、父親から目をそらした。
「でも本当はあんたへの恨みなんかじゃない。あの日は俺たち家族にとって特別だったんだ。初めての収穫の日だった。あんた達が見向きもしなかった荒れた土地を5年かけてやっと畑にして、今年になって少しだけ収穫ができたんだ。家族全員で収穫に行って、これで数日は食べることが出来ると喜んで帰ってきたとき、運悪くあいつとすれ違った。すると俺たち家族が手にした物を目ざとく見つけて全部奪っていったんだ。自分たちは毎日腹一杯食ってるのに、久しぶりにまともな食事が出来るって喜んでる俺たちから、食料を全部奪って行った。」
青年の声は怒りで震え始めていた。
「あいつとは誰のことだ?」
少女の父親の言葉に、青年は込み上げてくる怒りを剥き出しにした目線をひとりの大柄な男に向けながら吐き捨てるように言った。
「村長さ!」
父親も青年と同じ方向へ視線を向けると、村長は慌てて視線をそらした。
「幼い兄弟たちの悲しみを思うと悔しくて仕方なかった。でも相手は村長だ。相手が誰であっても俺ら家族の言い分など聞き入れられたことがないのに、相手が村長じゃなおさら俺ら家族に勝ち目はない。そうは思っても怒りの感情が抑えられなかった。そこにたまたま、あんたの娘が通りかかった。俺は冷静さを失ってたんだ。村一番の金持ちの娘、誘拐したら金が手に入る、ただそう瞬間的に思いついた。でも誘拐してから事の重大さに気が付いた…」
「だから娘を殺したのか?」
父親が苛立たしげに口をはさんだ。
「違う! 俺は彼女を殺してはいない! たとえ信じてもらえなくても、真実は違うんだ。」
青年の声からは怒りの響きが消えてた。
「誘拐した彼女ははじめから無抵抗だった。ナイフで脅すまでもなく、ただ俺の言う通り、物陰にずっと黙って座っていた。そんな彼女を見張っているうちに、だんだん自分がやったことが大変なことだと気づいた俺は、彼女に素直に謝り危害を与えないと約束した。すると俺の感情の変化に気づいた彼女は、はじめて俺に話しかけてきた。」
青年の中に、そのときの光景が蘇ってきた。
「何故あなたがこんなことをしたのか私には解るなんて簡単には言えないわ。あなたの家族が長年この村で受けてきた苦痛を思うと、何の不自由もなく暮らして来た私に理解できるとは、とても思えないもの。そんなあなたに、これから話す私の話は同じくらい理解できないでしょうし、きっと私のことを憎らしく思うと思うの。でも私はあなたに誘拐されたとき、これが私の運命なのだと悟ったわ。だから私は全てをあなたに託すことに決めたの。」
そのときの青年には、少女が今から何を言おうとしているのか全く予想ができなかった。
「私は、村一番のお金持ちの家庭に初めての子として生を受けた。だから両親は溺愛してくれて、幼いころからずっと欲しい物は何でも私に与えてくれたわ。私はこの村一番の幸せな子だと信じていた。けれど思春期になった頃、私の中で何かが変わり始めたの。私の生活は変わらず全てを与えられ満たされているはずなのに、訳もなく虚しさが襲ってきた。この虚しさを埋めるために何か夢中になれることを探そうと思いついた私は、以前村のお姉さんたちが広場に集まって踊っている姿を思い出して、私も踊ってみたいと思った。早速父に踊りを習いたいとお願いしたわ。すると父は顔色を変えて、『踊り?私の娘が何てはしたないことを言い出すのだ。踊りなど私の家族の者がやるものではない。』そう一括されて終わったわ。でもそのときに私の虚しさの理由がわかったの。私はあの家族の長女として生きてきたけれど、私らしく生きることは許されていなかったのよ。あの父ですもの、引っ切り無しにいらっしゃるお客様に対して恥ずかしくないように、幼い頃から礼儀と教養を身に付けさせられたわ。だから子供らしく甘えて駄々をこねるなんてことは、物心がついた頃から一度もしたことがなかった。どんなに悲しいことがあっても、お客様がいらしたら完璧な笑顔でお迎えし気の利いた言葉と共にご挨拶すること、それが長女としての私の役割だった。でもそんな生活を続けていて、あるときふと気づいたの。私の感情はどこに行ったのだろうって。だって思い出そうとしても私には心から笑った思い出もなければ、頭に来て怒ったこともない。悲しくて目を腫らすほど泣いたり、喜びに心躍らせたりすることもなかった。ただ私にあるのは、あの家族の長女という役割だけ。そんな生活の中で、いつものように部屋の窓から外の景色を眺めていたら、あなた達家族が大きな歌声を響かせて仲良く歩いている姿が目に入った。小さな子供たちが追いかけっこをしながら、何が楽しいのか顔いっぱいに口を広げて笑い転げていた。初めて見たあなたは小さな女の子を肩に乗せて、その子があなたの顔を覗き込む度に、おかしな顔を作って笑わせていた。私にとってその光景はまるで別世界だったの。私はその日から、あなた達家族が私の家の前を通る度に窓からそっと通り過ぎる姿を見ていた。きっとあなたは不思議がるかもしれないけれど、もし私があなたの家族になれたら…そんな想像をしたら何だか私が本当の私を見つけられる気がして嬉しくなった。窮屈なヒールの靴を脱ぎ捨てて、裸足で野原を走り回る、きっとあなたにとっては呆れるほど他愛ないことでしょうけど、私にとっては心が喜びに満たされるような夢だった。でも、そんなことさえも現実的には叶わなかった。いいえ、叶わなかったのではなく、叶わないと諦めている私がいたの。ただせめてあなた達家族がもう少し楽に暮らせるようにと、私は父に倉庫にある食べきれない食料を提供することを勧めたわ。でも父はこのときも呆れた顔をして『私の娘が何て愚かなことを言い出すのだ。ただでそんなことをしたら、あの家族は癖になって余計何もしなくなるではないか!』と言って立ち去ってしまった。もし私にもう少しだけ勇気があれば、父の誤った考えに対して私の意見を言えたのでしょうけど、そうするには私はいい子で育ちすぎてしまったわ。習いごとでさえ反論できずにいたのですもの、あなたの家族に対する対応を変えることを説得するなんて私にはできなかった。でも本当はあのときそうすべきだったのよ。そうしていれば、あなたがこんなことをせずに済んだかもしれないもの。だってこの村で父を変えられることが出来たのは、私だけだったかもしれないものね。」
少女はとても落ち着いて話をしていた。けれど、それがかえって青年に妙な胸騒ぎを与えた。
「俺は正直に自分の罪を認めるよ。だから君は、もう家に帰るんだ。」
すると少女は驚くことを口にした。
「今ここで私が無事に帰ってしまったら、父はおそらくあなたの命を奪うことですべてを終わりにするでしょう。でもそれでは意味が無いの。この村の過ちを正すためには、もっと大きな衝撃が必要よ。この村が変わり、あなた達家族が、いいえ村中の全ての家族が皆幸せに暮らすことが出来るようになるのなら、私は喜んでこの命をささげようと決めたの。」
青年には少女の言葉がのみ込めず、ただ混乱していた。
「私があなたに対して抱く感情を何と呼べばいいのか解らない。けれど、あなたの前で死ねることが、今の私にとっては幸せなことかもしれない。」
少女はそう言ってほほ笑むと、呆然と佇んでいた青年の手からナイフを奪い取り、迷いもなく自分の首元に刃を当て力強く突き刺した。
「やめろっ!」
そう叫びながら青年がナイフを奪い返したときには、既に少女の首からは大量の血が溢れ出していた。慌てて誰かを呼びに行こうとする青年の腕を、少女が掴んだ。少女は冷静だった。
「私はちゃんと教養を身に付けたもの、急所がどこかを心得ているわ。お医者様を呼んだところで、来るころには息絶えてる。それよりも、あなたとふたりで最期のときを過ごしたい。」
青年はそう言って倒れ込んだ少女を抱きかかえ、無駄だと知りながらも少女の細い首からどくどくと流れ出る血を手で塞いだ。
「本当に俺がバカだった。本当に… すまない…」
青年の目から涙が溢れた。
「俺は自分の罪を償うために、すぐに君の後を追うと誓うよ。」
「そうね、きっと父のことですもの、あなたのことを許しはしないでしょう。でもお願い、あなたにはもう少しだけ生きて欲しいの。あなたが死ぬのは村の人たちの前で、真実を伝えてからよ。一体何人の人があなたの言葉を真剣に受け止めてくれるか解らないけれど、もし誰かが気づけば、きっとこの村の未来は変わるわ。」
青年は混乱する中で、何とか少女の言葉に集中しようとしていた。
「俺の話なんか、誰も聴いてくれるはずがない。」
その言葉を聴いて少女は小さく首を振った。
「もし結果がそうであったとしても、大切なのはそこではないわ。本当に大切なのは誰かを変えることではなく、あなた自身が変わることよ。あなたが純粋にこの村の未来のために訴えようとしたとき、きっとなぜこの村に生まれてきたのかあなた自身が理解できるはず。そして、そのときはきっとこの村のあの家族に生まれ、生きてきたことへの喜びに満たされるの。私はあなたに、そうやって命を終えて欲しい。だから…」
少女は一瞬顔を歪ませながら、それでも話し続けた。
「だからあなたは、あなたを信じて、今まで感じてきたこの村に対するあなたの思いと、今の私の言葉を村の人たちに伝えてね…」
青年は嗚咽交じりに泣き崩れ声を出せないまま、少女の手を強く握りしめた。
「もし私が、もう一度この村に生まれてくることが出来るなら、村の家族は皆美味しい食事をおなかいっぱい食べていて、あなたの家族のように愛がいっぱい溢れているような家族の子だといいわ。」
ここまでの光景を思い出しながら話していた青年は少しの間黙り込んだ。
その後に言った少女の言葉が青年の胸を熱くさせた。目を閉じた青年には、生まれ変わった少女と自分の姿が見えていた。
「そしてその人生では、あなたのような人と恋がしたい…」
その言葉だけは口にしないまま、青年は話を続けた。
「苦しそうな息遣いをしていたのに、彼女は俺が止めても、話すことをやめなかった。
『ねぇ見て、私の目から涙が溢れてきたわ。あなたに抱かれながら自分の命が終わっていくことを喜んでいるのね。私の感情は、まだ私の中にいた…』
それが、彼女の最後の言葉だった。」
話し終えて、その場に泣き崩れた青年を見下しながら、
「お前のそんな話を、誰が信じると言うのだ!」
父親は腹立たしげにそう言うと、訝しげな表情を浮かべたまま合図を送った。銃口が再び青年に向けられたとき、青年の大きく見開いた目は真っ直ぐに父親に向けられた。
「俺が死んだとしても、あなたの問題は何も解決しない。この村の問題も何ひとつ解決しないんだっ!」
青年の声と共に一発の銃声が村中に響き渡った。そのとき父親の耳に、かすかに少女の声が聞こえた。
― お父様やめて!
父親はその声を掻き消すように大きく頭を振った。
少女の父親は、娘の復讐を遂げた。けれど頭の中には青年の話が渦巻いていた。作り話に決まっているさ、そう何度も自分に言い聞かせてみても何かが引っかかっている。青年が話した少女の言葉の中に、確かに自分が聞いた娘の言葉が含まれていた。
― お父様やめて! …あの声は、確かに娘の声だった。もし、本当にあの男が娘の言葉を伝えたのだとしたら、あの子は私に一体何を訴えたかったと言うのだ? 本当にあの話が真実だと言うなら、あの子は命を懸けて私に何かを伝えようとしていたことになる… それは一体何だと言うのだ? 私が間違っているとでも言うのか…
父親はそのことを真剣に考えようとした。けれど、すぐに少女を喪ったことへの悲しみと憎しみが波のように襲いかかり、冷静さをのみ込んでしまった。
ソンチョウ アイテジャ カチメハナイ…
クヤシクテ… ソコニ アンタノムスメガ…
父親の頭に村長の顔が浮かんでは消えた。そして、青年の言葉が呪文のようにまわり続けた。
モンダイハ ナニヒトツ カイケツシナイ
父親の怒りは、次第に村長へと向けられていった。
翌日父親は、急遽村の人たちを全員集め、村長に訊ねた。
「昨日の男が最後に話したことは本当なのか?つまりあなたが、彼の家族の収穫した食料を奪ったというのは?」
すると村長は、いつもと変わらぬ張りのある声で堂々と答えた。
「奪っただなんて人聞きの悪いことを言いますな。あなたにまで彼と同じように言われたら、私のイメージに傷がつくじゃないですか。まったく恩を仇で返すとはこのことですよ。私が彼ら家族にどれほど施してきたか。そのことを想えばあんな食料では到底おぎなえないって言うのに。本当にあの家族は死んでも迷惑な存在ですな。」
青年の言葉によって自分が尋問される状況が許せないということが、村長の態度から見て取れた。
「その施しが本物ならば、食べるものに困っている者から食料を奪うことはないだろう?」
「私の施しが本物であるかを論ずる気などありませんがね、与えられた恩に対して感謝を示すのは人として当然ではないですか? それにあの家族の収穫がどの程度かくらい、あなたにだって想像がつくはずでしょう。あの日あのタイミングで彼らから貰わずにいたら、私は永遠に損をすることになる。」
「だがあなたなら、彼らの少ない収穫を奪わなくても食べていくのに十分な蓄えはあるはずだ。」
「そりゃあ私は村長ですからね、それなりの生活はさせてもらっていますよ。でもだからと言って損をしてもいいとは思っておりませんからな。お宅のように全てが揃っているような裕福な家庭ならいいでしょうが、私の家はまだまだ足りないものばかりでしてね、家族たちから次はアレが欲しい、その次はコレといってせがまれる毎日です。だから少しでも多くのものを得たいと思うわけですよ。それにもし仮に私が彼らから貰わなくても、きっと他の誰かの手に渡ったに違いない。他の人に見す見す取られるくらいなら、自分の物にしてしまった方が良いと思うのは当然でしょう?」
父親は間接的とは言え娘の命を失った原因をつくっていながら、自分は何も悪くないと言い切るこの男がどうしても赦せなかった。
父親は再び村の人たちに訴えた。
「こんなにもモラルの無い男を村長にしていて良いのでしょうか? こんな精神レベルの低い人と私たちは一緒に暮らしていて良いのでしょうか?」
すると村の人たちは一斉に痛いほど冷たい視線を村長にぶつけた。その瞬間、自分がこの村の人たちから受け入れられない存在になったことを悟った村長は、
「解りました。では私は家族と共にこの村を出て行きます。」
と、最後まで村長らしく堂々と宣言した。そして驚くほど大きな笑い声を響かせてから、その場にいた村の人たちを皮肉たっぷりに眺めて言った。
「あぁ、実に面白い! 人の心というのは本当に移ろいやすいものですな。昨日の味方が今日の敵とはこのことです。だってそうでしょう? 私が彼らから食料を取り上げるのを見ていた方たちは、あのとき拍手までして囃し立てていたっていうのに、今日は私にモラルが無いと冷めたい視線を投げつけるのですからね。」
そう言い終えると、集まっていた村の人たちを掻き分けてその場から立ち去り、すぐに宣言通り家族を連れて村から出て行った。
こうしてこの村には3つの家族だけが残った。
青年の家族を殺し、村長の家族を追い出し、これで安息が訪れる気がしていた。けれどそれでも、父親の頭に再び青年の言葉が蘇った。
モンダイハ ナニヒトツ カイケツシナイ
そしてその言葉が導くように、村長の言葉が浮かび上がった。
ヒトノ ココロハ ウツロイヤスイモノ…
トリアゲルノヲミテ… ハヤシタテテイタ…
一体、誰が…?
気になった父親は、両家族にそれとなく探りを入れた。どちらの家族も自分たちはあの日村長と一緒に居なかったと主張し、もう一方の家族の誰かだと口をそろえて言った。そして、自分たちがいかにあなた達家族を信頼しているかを熱弁し、もう一方の家族はいつ裏切るかわからないと陰口を告げた。父親から見ればこの2つの家族は面白いほど良く似ていた。同じくらい弁が立ち、同じくらいずる賢かった。
父親はそんな両家の間に立つことに嫌気がさし、あるときひとつの家族に向かって、もう一方も全く同じことを言っていると正直に告げると、瞬く間に両家族間で戦いが始まった。両家族とも、『正義』を掲げて戦ったところまで皮肉なほど良く似ていた。そして力も同等だったことを証明するかのように、両家族とも同時に全員が息絶えた。
こうして、この村には父親の家族ひとつだけが残った。全ての悪を排除したことで、それ以降は怒るような出来事も、泣くような出来事も起こらなくなった。けれど同時に、家族全員が誰一人として二度と笑うことはなかった。
神様はいかにも残念だと言わんばかりに頭を横に振った。
「神様は、僕が他のところに行ったら不幸になることを覚悟しろって言いたいの?」
神様の話から、僕は単純に感じたままを口にした。
「私は神だ。誰かを不幸にしようと考えたことなど一度もない。」
「でも実際にその村では不幸な事件が起こって、誰ひとり幸せになれなかったじゃないか!」
「そう、今の話の中ではな。でもそれは少女の父親がそれを選択したからだ。そして村の人たちも父親と同じ選択をした。父親を中心人物に置いてこの話を聴いていると本当に大切なことが見えなくなるが、落ち着いて考えてみると実に謎が多い。」
そういって僕の顔を一度覗き込むと、神様は話を続けた。
「娘を喪ったという出来事が変えられないとしても、その後の父親の選択は本当にこれで良かったのか? 悲しみや憎しみという感情は、相手に同等以上の仕返しすることで解決出来るものであろうか? 少女の命の価値と青年の命の価値は違っていたのか? 犯罪者の家族たちは、同じ血が流れているというだけで犯罪者と同じ罪があるのか? 事件を起こした青年の家族たちが本当に望んでいたものは何だったのか? 食料に困らなければそれで良かったのだろうか? 村長はどうだ? 自分は困っていないのに何故困っている者から食料を奪えたのか? 他の家族の者は? 自分や家族を守るためなら人を簡単に裏切ってよいものなのか? そして父親はどうだ? なぜ命を懸けてまで訴えた娘の言葉に、もっときちんと耳を傾けなかったのか?」
神様は一気にそう言い終えると、ひとつ大きなため息をついてから続けた。
「そもそも原点に戻って考えてみるとだ、村にはたった5つの家族しか住んでいなかったのに、何故そのうちのひとつの家族が食べるものもないほど苦しんでいたのか? 貧乏な家族が毎日おなかいっぱいに食べたとしても村が食料に困ることがないことを、おそらく他の家族の者たちはわかっていたはずだ。それでも、その家族を助けようとはしなかったのは一体何が原因なのか?」
神様は僕に質問しているようでありながら、その答えを求めてはこなかった。
「どうだ?この物語の謎が解ければ、そして実際に行動を起こすことが出来れば、お前はどこへ行っても幸せに暮らすことができるだろう。」
「今の謎をすべて解かなきゃダメなの?」
「ひとつでも解ければ、あとの答えは自ずと解るのだ。そして正しい答えを見つけるためには、本当に大切なことだけをしっかりと覚えておけば良い。本当に大切なこと、それは私が創造する世界に不幸になるための場所など存在しないということだ。それが星でも村でも家族でも、そして一人の人間の中にもだ。だから誰かの不幸をベースに幸せが築かれるということもなければ、幸せを奪うために戦う必要もない。その場所すべが幸せになることが可能であり、また私の望みはそこ意外にはないのだから。」
「すべてが幸せになる…」
僕はそう口ずさんだ。
「そうだ。人は自分が目指すものに向かうときビジョンを描く。だから、私が目指すところへ正しく向かえるように、私はすべてのあらゆる命に同じ青写真を渡すのだ。そして正しい答えである私の青写真には、全てが幸せであることが描かれておる。もし何か出来事が起きて、悲しみや憎しみで心が塞がれたとしても、その映像を見ることが出来れば、自ずと答えが見えて前に進むことが出来るのだ。」
「他の場所に行ったら、その青写真を持って生きるの?」
「もちろん、実際の手に持つ訳ではない。私が渡す青写真はお前の大切な場所の中にある。それは見ようとすればいつでも見られるものなのだ。」
僕は神様の青写真についてしばらく考えていたけれど、ふと村の話が気になり好奇心から神様に訊ねた。
「それで、その村は今どうなったの?」
「結局最後の家族も消えて、今は誰も居なくなってしまった。」
「何故なの? だってその村の人たちだって全員神様の青写真を持っていたはずでしょ?」
「そうだ。この宇宙で私が渡した青写真を持っていない者はおらぬ。だから当然、村の人たちは全員私の青写真を持っていたのだ。なのに何故村が滅びてしまったのか? それは、村の人たちが皆、恐怖心でいっぱいだったからだ。恐怖心を持って自分を守ろうとすると私の青写真は見えない。自分がその青写真を持っていることすら忘れてしまうのだ。恐怖心からの守りを捨て、私が創造した世界、つまりその産物である自分を信じる覚悟が出来た者には、その映像がはっきりと解るだろう。あの村で唯一その青写真が見えていたのは、命を懸けた少女だった。そしてきっと最期に青年の目にも映し出されたであろう。だから彼らには、父親の行動がどのような結果をもたらすかが解っていたのだ。」
僕は神様の話に訳もなく哀しみを覚えた。
「もし村の人たちの中にひとりでも素直な心で青年の話を聴き、少女の父親に反論する勇気ある者が現れていたら、村は今なおすべてのものが幸せな状態で存続していたかもしれない。」
神様はそう言って立ち上がり雲を呼び寄せた。そして雲に乗ろうと片足を上げてから、その足をまた地面に置いて振り返った。
「本当に覚悟が出来たと言うなら、私はいつでもお前を他の場所へ送ってやろう。」
そう言って再び雲に乗ろうとする後ろ姿を見ていたら、急に僕は胸騒ぎがして慌てて神様に訊ねた。
「神様、その村の名前は?」
振り向いた神様の顔には複雑な笑顔が浮かんでいた。
「どうやらお前の中には20億年前の記憶が少しだけ残っているようだな。その村の名前は地球と言ってな、お前はその星に生まれ生きた最後の瑠璃、…つまり地球人だったのだ。」
僕はその神様の言葉を合図に夢から覚め、瑠璃の朝を迎えた。
最後の瑠璃