サメんなった男
男はサメになった。凶暴なサメに。
暴力と破壊、そして現代社会につきつける不条理の理と耽美主義に縁どられた美学が炸裂する!
ある日サメんなった。
だいたい、生まれつき優しい僕がサメなどという凶暴さの代名詞のような生き物になったことが間違っていた。
サメだから僕は叫ぼうと思った。
―ガルガルガル―
サメがホントにそう叫ぶのか僕は知らないが、何となくそう叫ばなければいけないような気がしたのだ。
僕を見かけた小魚が逃げていく。その慌て様ったらない。僕は心の中で彼らにひそかに謝るのだ。(ごめんね、ごめんね、ごめんね・・・)
僕が師匠に出会ったのはちょうどその頃だった。
真っ青で見るからに恐ろしそうな顔の師匠は、僕に初めて会ったというのに、遠くから僕のことを怒鳴りながらやって来た。逃げられなかった。師匠はあっという間に僕に追いついたかと思うと、僕が躊躇して逃がした小魚をその巨大な顎で捕らえた。小魚の鱗と血が辺りに飛び散った。微かな悲鳴もした、ような気がするが、それは僕の悲鳴だったのかも知れない。
「脅したら喰う!喰ったら脅す!これがルールだ、分かったか!」
師匠が叫んだ。にべもない。僕はまだ周囲に漂う小魚の鱗に吐き気がした。いや、吐いた。
「お前な、ホオジロの癖にいい度胸してんな。何?ベジタリアンとか?」
師匠がガチガチと口を鳴らしながら言った。
「いや、違います。違いますけど、生の魚はちょっと・・・」
「・・・ナマのサカナはちょっとぉ~・・・、おまえ海中でムニエル作る気か?味噌煮か?」
ガチガチガチガチ。
「いえ、それもちょっと無理かなぁ。」
「じゃ、あの群れを襲って来い!」
師匠の指す方向には美しい鰯の群れが、その銀の鱗にキラキラと陽を反射させて悠々と泳いでいた。
「・・・あれはちょ・・・・」
「行け!」
にべもない。彼の命令に逆らうことは、サメ初心者の僕にどうして出来よう・・・。
―かるかるかる―
僕は、僕の存在を彼らに気付かせようと大声を上げて彼らに近付いた。ところが鰯の悲しさ、彼らは僕に気付いたのはいいが、恐怖のあまり群れの中心に中心に逃げようとするため、群れは益々コンパクトになっていき、あっという間に僕の一口サイズ大となった。まるで、喰ってくださいと言わんばかりだ。これにはいくら僕でも頭に来た。よしそれなら、と僕はそいつらを一呑みにしたのだった。口の中で彼らが狂ったようにジュワジュワ暴れている。まるでコーラだ。こうなったらもう彼らに早く成仏してもらうのがせめてもの優しさというものだ。僕は息を止めて何度も彼らを噛み砕いていった。・・・哀しいことに、彼らはとてもおいしかった。
「よぉ~し。まずは合格だ!」
師匠が僕を見てにたぁ~っと笑った。真っ白な、ものすごい歯だった。
「では最終試験に入る。」
「えぇ!まだあるんですか?」
「ある。あぁ、ちょうどよかった。あれを見てみろ。」
師匠が指すところに白い、巨大な壁があった。
「はぁ、壁がありますが・・・」
「壁じゃねぇ!よく見てみろ。」
僕はあらためて壁をじっと見てみた。んっ?壁が・・・。僕は目をこすってもう一度その壁を見てみると・・・やっぱり壁は動いている!
「壁が、動いてます!」
「当然だ。シロナガスのヤツだからな。」
「シロナガス?」
「ぅん。クジラだ。」
「はぁ。」
「最終試験はな・・・こいつを喰ってみろ。」
「は?喰えって言っても、これ、・・・壁ですが。」
「壁じゃない。シロナガスだ。」
「どっちでもいいですけど、こんなの喰えるわけないじゃないですか!」
「あっそ、喰えなければ罰として世界一周しなけりゃいかんが、それでもいいんだな。」
「『いかん』って、誰がそんなこと決めたんですか!」
「組合。」
「・・・・。と、とにかく喰えませんよ、こんなもの。」
「はい。世界一周の罰決定。」
「ちょっと待ってくださいよ!じゃあ、あなたは喰えるんですか?」
「ま、無理だろ。」
「いやいやいやいやいやいや・・・。自分にも出来ないことを・・・」
「“決まりごと”・・・だよ。」
「・・・『組合』ですか?」
「ぅん。組合。」
「・・・。」
「あ、それから、俺のことは師匠って呼んでいいぞ。」
「・・・。」
というわけで僕は世界一周の旅に出ることになった。
海の中は案外喧しい。ゴボゴボと、どこからか水の湧き出てくる音や、魚達の泳ぐ音、大陸棚から潮の噴き上げてくる音や遠くの火山から噴き出る溶岩の湧き上がってくる音・・・。全速力で泳ぐ僕の周りを様々な音が飛び去っていく。
そして、出発して十五分ほど経った頃、僕の目の前に絶世の美女が現れた。
クレオパトラと楊貴妃と高見恵子を掛けたような顔。キュッと吊りあがった真っ赤な唇に生まれている微笑に僕は耐えることが出来なかった。いや、彼女の微笑に耐えられる男が果たしてこの世にいるのだろうか?
僕が彼女に話しかけようと口を開いた瞬間、なんと彼女の方から僕の口の中に飛び込んできたではないか!あぁ、この感動、この感激!彼女の柔らかい肌が僕の唇に当たる。
あぁっ!しかし、何ということだろう!僕は忘れていたのだ。僕の口の中には師匠のそれとまったく同じような恐ろしく鋭利な牙が一面、口の上下一面に生えている、という事実を・・・。僕がサメだということを・・・。
僕は唇に飛び込んできたその美女を想い余って噛み付いてしまったのだった。驚くほどあっけなく彼女の柔肌は傷つけられ、あぁ、僕のこの憎たらしい牙は彼女の体をまるで粘土のように易々と突き刺したのだ!唯一の救いは彼女の苦痛に満ちた顔を、悲鳴を、聞かなくてすんだことだった。
と、その時だった。
僕の口の中で何かが跳ねた。「んっ?」僕は最初、それが何か分からなかった。と、僕の血が(誓ってもいい。僕の鼻は大層良く、自分の血と彼女の血を嗅ぎ分けることなど朝飯前なのだ・・・)口の中に溢れ出してきた。そして、僕の口の中から何かが恐ろしい力で僕の体を引っ張っていた。
後から知ったのだが、彼女は実は本当の人間なのではなく、〝疑似餌〟と呼ばれる、本物の餌に似せて作られた餌なのだそうだ。だから彼女は本当の人間などでなく、どうも小麦粉などを水で固めて人間のように形作っただけのものだったようだ。ところが、その時の僕はもちろんそんなことは知らない。僕の目の前に浮かんできた彼女の右手がフニャリフニャリと海水に溶け出して、やがては消え去ったことに目を丸くしたのだった。
グイッと僕は引かれた。グイッ、グイッ。・・・これじゃあまるで、釣られる魚だ。僕はそう思ってちょっと笑った。しかし世界一周を控えて、そんな冗談で笑ってはいられない。とりあえず僕は引かれる方向とは別な方に行こうと向きを変えて泳ぎ出した。すると僕を引く力はまるであわててしまって、グイグイグイグイ無茶に引っ張る。これには僕も頭に来た。「人が行く邪魔をするとはなんだ!」と・・・。「騙したくせに、なんだぁ~!」と・・・。僕は全力で前に向って泳ぎ出した。と、何ということだろう。僕は一向に前に進めなくなっているではないか!それどころか、ジワリジワリと後ろに引き寄せられているような気がする。
僕はしばらく、闇雲にその力に対抗していたが、すっかりくたびれ果ててしまった。そして、ちょっと休もうと体を休めた瞬間、僕はかなりの早さで後方へと引きづられていったのだった。「よぉ~し、それなら」と僕は最後の力を込めて、逆に、引っ張られる方向に自ら泳いだのだった。これがうまくいった。僕の頭上に浮かんでいる小島らしきものの下を通り過ぎたときには僕を引っ張る力はすっかり無くなって、僕はようやく疲れた体を休めることが出来たのだった。
そして・・・。数分も経たずに僕はまたもや引きづられ、僕には抵抗する力も残ってなく、徐々に頭上の小島に引き寄せられ、とうとうその小島の上に引き上げられたのだった。
その小島の上で僕が何を見たか?
人間だ。ほとんどが男。女は二人。
あぁ、とうとう僕は助かったのだ。もうこんなサメなんかで存在しなくていいのだ!小魚を襲う必要も、師匠に脅されることも、無くなったのだ!いや、嬉しかった。ただ、僕のその嬉しさはほんの数秒しか持たなかったことは残念だ。僕の嬉しさは巨大な釣り竿を手にしている汗びっしょりの男(五十歳代・赤ら顔)の一言で消えた。
「あやぁ~、こりゃ食い意地の張ってそうなみごとなホオジロだべ!こぉんな立派なカタのサメなんてこの辺でもめったに出ねぇべよ!まぁったく、苦労すただけはあったべぇよ、このサメ!」
と、このオジさん、二回も僕を『サメ』と呼び捨てにした。今まで僕は、やはり、どこか、やっぱりサメではないんじゃないか、と甘いことを考えていたのだ。(そう言う師匠こそまったくサメじゃないか!)と・・・。
でもどうやらそれは、僕一人の思い違いだったようだ。まったく・・・
その船『大和丸』は普段は漁船として近海の魚を捕っていたが、時々は変わった依頼も引き受けていたようだ。僕の『捕獲』は、そういった依頼の一つで、サーカスから頼まれたそうだ。『雄で凶暴なホオジロザメ一つ、頼む』って、メールで。
この話は、水槽の中で気落ちする僕を覗き込んでいた一群の人間達が言っていたからたぶん間違いはないだろう。『あんな餌で・・・』『スケベな・・・』という言葉も聞こえたが、聞こえなかった。
港で僕はトラックに移された。
親切なトラックで、移動の間、水槽に移されたサメが飽きないよう、水槽の四方の壁が透明になっている。おかげで僕は移動の間中ずっと、景色と、そして人々を見物しながら行くことが出来たのだった。
着いた先がサーカスだった。
あの、お椀を逆にかぶせたような形のテントをしたあれだ。そのテントの中に様々な大きさの水槽が置かれていた。小さなものではタコが。大きなものではザトウクジラが入っている。
僕の水槽は、タコと飛び魚の群れの入った水槽に挟まれるように置かれた。小さな水槽で、向きを変えることもできやしない。必死に向きを変えようとする僕をタコが、飛び魚達が、バカにしたように見ている。イライラしていた僕はガキガキと歯を鳴らしてそいつらを睨んでみても無駄だった。
しかし、彼らが新参者に興味を示したのも数日だけだった。サーカスが一旦オープンしてしまうと、彼らの興味は水槽から見える雑多な人間達へと移っていった。
もちろん、その水槽の間を流れている人間達に興味を持ったのは僕も一緒なんだが、僕の周りだけ妙な感じだった。人々がなぜか僕の水槽から離れて歩くのだ。おかげで彼らの姿は水槽のガラスと水で屈折して、なんとも変てこな、そう、まるで溶けそうなコンニャクのように見えるのだった。
サーカスのオープンから二日目に、突然僕は広い水槽に移された。前にザトウクジラが入れられていた、という曰くつきの水槽だ。広くなったのはいいが、どうもクジラ臭くてかなわない。
僕がその臭いにようやく鳴れてきた頃だった。外の様子が何だか変だった。人々が続々と僕の水槽の前に集まって来だした。サーカスの団員で僕の担当の男(三二歳・独身・老け顔だが茶髪、長髪)が僕を指差して何やら言っている。
やがて、僕の水槽に生きたままのウサギが放り込まれた。(何て可哀想なことを!)僕は急いで、水中でバタバタ暴れるウサギの元へと駆けつけて、そいつを助けてやろうとした。僕の鼻先で彼の体を押し上げ、水槽の縁から下に落としてやればいい。それで僕は急いでウサギに近寄った。しかし、その愚かなそのウサギは僕の姿を見てまるで狂ったように暴れ出した。そのせいで彼(彼女)は僕の鼻先をすり抜けて、何と僕の口の中に入ってしまった。あ、危ない!と思ったときにはもう遅かった。小さな彼女(彼)の体は僕の歯の三つくらいの大きさだ。彼(彼女)の体が歯の先に触れると、歯先がスッと彼女(彼)の体に入り込んでしまった。そうなるともう僕にはどうしようもない。魚類とはまた別の、脂が多くて匂いのきつい血が彼の体から噴き出して水槽を汚した。
鰯を食べてしまった時に比べると良心は全然痛まなかったけれど、ただただ気味が悪かった。吐き出してそのグチャグチャな姿を見るよりは、と無理をして飲み込んだのだった。飲み込んで後悔した。その後の胃のムカムカ、不快感。とても耐えられるものではなかった。僕は闇雲に水槽内を泳ぎまわって、気分転換に水槽の外に目を向けて、驚いた。人々が僕に向って拍手喝采しているではないか!
それからだった。僕は毎晩広い水槽に移されるようになり、その水槽の前には人々が集まり、集まったところで水槽の中に様々な動物が放り込まれるのだった。それはまったくの拷問だった。僕は、もちろんのこと、どんなに腹が減っていても放り込まれる動物を食べることは無かった。それらを食べるくらいなら自分のウンコ食べる方がまだましだった。
また何日か経った。僕の水槽の周りにあれ程群がっていた人間達が段々少なくなっていった。
そのうち僕は水槽を移されることもなくなった。
一日中、狭い水槽の中で僕はぼんやりしていた。退屈だった。時々海のことを思い出しては、思い出すのが海のことなのを情けなく思っていた。
そんなある日のことだった。
僕を見ていた客の一人が僕に話しかけてきた。唇の動きからその人(女・推定六十四歳)が、『こんな狭いところに閉じ込められて可哀想に。次の会議で世界に訴えなきゃ。』というので、退屈で死にそうだった僕は当然、彼女の問いかけに対して激しく首を縦に振った。その瞬間、彼女の顔が強張った。が、すぐに変な微笑を浮かべると、『そんなことないわよね。まったく、どうかしてるわ。』と言うので僕はまたうなずいてあげた。彼女は次の瞬間、悲鳴を上げてその場から走り去って行った。
僕は眠かったのでそのまま眠りに落ちた。夢は悪夢で、乙姫様を陵辱したうえ、喰ってしまっていた。
目覚めると僕の水槽の前に、苦虫を噛み潰したようなサーカス団団長と副団長、そしてあの老婆が何やら言い合っていた。『だから、そんなことあり得ませんよっ!』『いいえ、私、この目ではっきり見たんです!これは由々しき事態ですわよ!』『まあまあ、落ち着いて下さいよ』
すったもんだである。とうとう老婆が癇癪を起こして叫んだ。『あなた達、アムネスティ日本支部支部長の私がボケてるって言うのね!これは立派な個人攻撃、いや、人権侵害よ!』
僕はうなずいた。もちろん団長達の意見に賛成、という意味でだ。・・・どうでも良かったんだけど。と、三人の動きが止まった。そして数瞬後、老婆が体を震わせて叫んだ。『見たでしょ!見たでしょ!』
団長と副団長が顔を見合わせた。『まあ、うなずくサメっていうのも珍しいですな、ハッハッハッハ』僕はまたうなずいた。と、彼らの顔色が変わった。
『俺らの言葉が分かるのか?』団長が噛み付くような顔を水槽に近づけてきた。僕はうなずいた。『お、お前はサメだよな!』副団長の質問だった。今までこんな水槽に僕を閉じ込めといて不思議なことを聞くヤツである。まぁとにかく僕はうなずいた。三人の間にかなり長い沈黙があり、その沈黙を破って老婆が質問してきた。
『・・・あなた、サメよね?』
一体どういうことを考えた末に思いついた質問なのだろう?僕はとりあえず、またうなずいた・・・。
知能テストを受けさせられた。平面上に無数にある形の中から丸や三角、四角を選び出したり、算数や数学の計算をしたり、なかなか楽しいテストだった。僕の点数は一〇〇〇点。この点数は人間でも滅多に取れないそうで、結果が出たときには僕の周りのサーカスの団員達はひとしきり僕に感心していたのだった。
団長があちこちにそのことを言いふらしたおかげで、僕の生活はおそろしく忙しくなった。
最初、新聞や雑誌の記者たちがとんできた。そしてその新聞や雑誌を読んだ人たちがとんできた。そしてその人たちの話を聞いた人たちがとんできた。僕はあっという間に世界中の人間達に取り囲まれるはめになった。
当然、人は僕をただ見るだけではなく、様々な質問をしてくる。一番多かったのが、『あなたはサメですか?』という質問だった。・・・さて、あらためて尋ねられても僕に答えられるわけはない。僕は苦笑いして首をかしげるしかなかった。
僕の人気が高まるにつれて、住んでいる水槽も大きくなっていった。僕はどんな水槽だろうと構わなかったのだが、体裁を気にした団長が構った。今、僕の住む水槽は、あのザトウクジラの水槽よりも大きく、そして金色をした砂―なんて悪趣味なんだろう―が底に敷き詰められている。そして僕は日がな一日、人々の質問に首を振って答えていた。
そんなある日のことだった。
僕の水槽の前にある一家が僕を見ていた。父親、母親、息子、娘・・・これまで見てきた何万組もの家族に瓜二つのその家族はその会話まで、過去の家族にそっくりだった。『このサメがそうね』『本当に計算なんてできるのかしら?』そして父親が出てきて僕にこう聞くのだ。『五足す十は?』と・・・。質問を聞くと、質問する人間の知能が分かる。特に数学の質問はそうだ。子供二人を養っている大の大人の質問が、『五足す十は』とは・・・。
いくら僕が、かなり気の長い方であっても少々うんざりしてきていた。僕が首をかしげて十二回目、父親がポトリとカメラのレンズの蓋を落とした。そして間の悪いことに彼は無意識にそれを後ろに蹴り上げてしまったのだった。僕は、さてそれを伝えようにも言葉が通らない。そこで僕は、底にびっしりと敷き詰められていた金の砂に鼻で字を書いて知らせたのだった。『カメラの蓋、後方』。残念ながらその一家は『蓋』という漢字が読めなかった。しかし、僕が字を書いたことは衝撃だったらしい。
またまた団長が、今度は全速力でやって来た。
『字、字、字、字、字が!書けるのか?』
僕はうなずき、床に『書ける しかし この砂底 隔靴掻痒』と書いた。
『おおぉぉ~』
驚きの声を上げる団長、そして周りの人間たち。誓ってもいい。『隔靴掻痒』を読めた人間はその中にいなかったのだ。なぜなら、彼らはそれからかなり時間が経っても僕に『砂談』させるだけで、マッキン金の砂底を換えようなんて言う人間は一人もいなかったのだから・・・。
人語を解すどころか文字も書けるサメがいる、というニュースはどうも人間界をさんざん駆け回ったらしい。あくる日から僕のいるサーカスには様々な人間が集まってきた。黒、黄色、白、橙、灰色・・・。そしてその人々は皆一様に、文字を書く僕の姿に驚き、その文字が意味をもっていることに驚くのだった。
僕は世界中の水族館に呼ばれ、研究施設に招かれた。そのうち、世界中を駆け回る僕のスケジュールは、週刻みから秒刻みになり、ホッと息をつけるのは移動中だけ、となっていった。
インド、アフリカを廻って、数ヶ月ぶりに僕はサーカスに帰ってきた。そこで僕を待っていたのは大量のファンレターだった。そのほぼ八割は僕への賞賛、一割は誹謗中傷、そして残りの一割は僕を題材にした、小説、詩、詩、歌の歌詞(目の前の出来事を歌詞にする
などという鳥肌の立つ人種はやはりいたのだ、と妙に感心してしまった)など。そしてその中でも奇妙だったのが人生相談の手紙であった。僕への手紙は一応団長も目を通していたのだが、その人生相談の手紙をしばらくぼんやりと見ていた団長の目の色が突然変わった。それは、新しいビジネスの思いつきだった。
―サメの人生相談―
たったこれだけの広告で、世界中からなんと五千二百六十二万三千五百三十二の相談が寄せられた。これでも、一人が何枚も出してきたような重複する手紙は省いてある。一回の相談料を一万円にした、と団長は言っていたが、彼のことだ、おそらくもっと取っていただろう。
ちなみに、その五千二百六十二万三千五百三十二件の相談のうち、僕が目を通したのは五件だけだ。団長によって厳選された五件というのは、一国の首相であるとか、国際的な巨大企業の社長であるとか、そういったものだ。それにしても・・・、『年頃、娘がダイエット中でなかなかご飯を食べてくれない。どうすればいいか?』という質問は、ある国の独裁者からのものだった・・・。
他の、五千二百六十二万三千五百二十七件の相談への答えは団員、そして秘密に雇ったアルバイト達が適当な答えを書いて送っていたようだ。
あっという間に時は経ち、いつの間にか年の瀬となっていた。僕は相変わらず忙しく世界中を駆けずり回っていたが、ある水族館でばったり師匠に会った。
その頃、第二の僕を探そうと、個人で、会社で、また、国を挙げて世界中でサメを捕ることがブームとなっており、師匠が捕らえられているのも無理は無かった。師匠は僕を見て言った。
「おい、えらく羽振りが良さそうぢゃねぇか。世界一周はどうした?」
「はぁ、・・・もう百周くらいしてます。」
「ほう、そうか。それならまぁ、サメの仲間にしてもいいぞ。」
「いや、いいです。」
「あんだと!」
師匠は相変わらず短気だった。
「何だかここで成功しちゃったんで・・・。もうサメじゃなくてもいいかなぁ、と・・・」
「この野郎!お前、プライドは・・・」
「あ、無いです。まったく。」
「くっ!・・・まぁいい。ぢゃ、それはいいからここから俺を出せ。」
「うーん、無理じゃないかなぁ~。」
「無理なことあるか!お前が来るってだけで水族館中が大騒ぎになるくらいだ。俺をここから出すくらいは容易いことだろうが、あ!」
「いや~、どうかなぁ~。まぁいちおー聞いては見ますけどねぇ。どぉかなぁ~。」
僕は、師匠を助けるためならたとえこの今の地位を捨ててもいいとさえ思っていた。
「絶対聞けよ!」
「う~ん、頼まれるときにそう怒鳴られても・・・ねぇ。なんか脅迫されてるようで・・・ねぇ。」
「わ、分かったよ。すまん、悪かった。なぁ、頼むよ。こっちの館長に聞いといてくれよ。」
「はぁ、まぁ、聞かないことはないっすよ。ここの館長も誠実ないい人のようですし、僕の意見の一つくらいなら聞かないこともないんじゃないですかねぇ・・・たぶん。」
「なぁ、頼むよう。元はといえばお前を旅に出したのは俺じゃねぇかぁ~。」
「はぁ・・・。元を辿ればそうなりますねぇ。そしてもうちょっと辿ると僕らの先祖が一緒、と言うことも言えるでしょうねぇ。」
「・・・?まぁ、さ、ほら、友達じゃねぇかよ。」
「師匠・・・、でしたよね?」
「いやいやいや、そんな他人行儀に呼ぶなよぉ。俺のことはホオちゃんって呼んでくれよ、これから。」
「はぁ、そうですか。」
とその時だった。
『・・・というわけでですねぇ。忙しいっていう状態にも限度というものがありましてな、ハッハッハッハ』
団長だった。団長の横にはまるで風船のように膨れた男が、まるで団長にへつらうようにヒョコヒョコと歩いていた。
「あいつだぁっ!あいつがここの館長だ!ちょうどいい。今、あいつに頼んでくれよ!なぁ?」
「・・・わかりましたよ。」
僕は彼らが近づいてきたとき、コツコツと鼻でガラスを叩いて彼らの注意を引いた。
『ん?どうした?』
団長と館長が二人、近づいてきた。僕は底の砂にこう書いた。
―向かいにいるホオジロザメ言う 居心地最高 いつまでも置いてくれ―
『ほお~。さすが世界に名だたる水族館ですな。動物達も幸せでしょう。』
『いえいえいえ、そんなにおっしゃってもらっては・・・。まぁ、うちも飼育には多少の自信がございましてですね。ホッホッホッホッ』
「おいっ、どうだ?」
師匠が言った。
「何がですか?」
「もうっ!とぼけちゃってぇ!俺を海に帰すって話だよぉ!で、帰してくれるってか?」
「ああ、その話ですね。はいはい。帰してくれるそうですよ。」
「おおおおおお!あなたは一生の恩人だ!俺に出来ることあったら何でも言ってくれ!」
師匠は泣いていた。感謝されるとやっぱり気持ちいいものだ。何年か、もしくは何十年か先には彼もきっと心の海に戻れることだろう・・・
師匠と出会った水族館からの帰り道、僕の入った巨大な水槽を載せたトラックは海辺の道を走っていた。真っ赤な夕陽がちょうど水平線に消えようとしていた。
もう僕が海に戻ることはないだろう。僕はここでさらに成功し、そして死んでいくことだろう。何かが僕の胸にこみ上げてくるような気がした・・・が、おそらく気のせいだろう。
了
サメんなった男
お読みいただいてありがとうございますぅ~
もっと他の作品を読みたいって意見(のみ)、待ってますぅ~