黒蝶
私には妹がいた。彼女は黒絵という名前だ。白雪という私と対の色を名に持つ彼女だったけれど、関係は良好だ
私には妹がいた。
彼女は黒絵という名前だ。白雪という私と対の色を名に持つ彼女だったけれど、関係は良好だったように思える。少なくとも表向きは、そう思えた。
黒絵は私の双子の妹だ。双子の私たちの容姿はよく似ていた。同じだったと言っていい。見分けることができたのは、お互いと祖母だけだっただろう。両親も私たちを見分けることはできなった。
見た目が同じだった私と黒絵だったけれど、性格はずいぶんと違う。
私は何でもそつなくこなすこととのできる子供だった。自分ではあまり言いたくないけれど、何をやっても上手くいった。勉強もスポーツも、学校で一番だった。周囲から期待され、好かれていたと思う。
一方の黒絵は、対照的だった。彼女は要領が悪く、勉強ができなかった。運動神経は抜群だったけれど、スポーツのルールを覚えられない。人付き合いが苦手で、マイペースな性格だった。
そのせいか、みんなから馬鹿にされ、笑われていた。人間の友達は私の知る限りはいない。近所の野良猫たちが、唯一の彼女の友人だったように思える。身なりに気を使わないこともあってか、みすぼらしかった。彼女は夏も冬も女の子らしくない、Tシャツかジャージ姿だ。
嫌われていたわけではないだろうけど、煙たがられていたように思える。
黒絵を煙たがっていたのは、周囲だけではない。両親も、彼女に嫌な顔をしていた。嫌悪と呼べるものではなく、それよりももっと酷く、憎んでいたようにすら思えた。私たちが幼い頃からそうだったように思える。「こんな子、何で生まれて来たのかしら」と母親が言うと、父親はそれに深くうなずいていた。
私は黒絵が馬鹿にされるのが、堪らなく悲しかった。私は、彼女が好きだったからだ。
今でも、私は「好き」という感情がよく分からない。私はあまり他人を好きになれる人間ではないようだ。
でも、私は黒絵のことを考えると、頬が緩んでしまう。彼女の笑顔を見ると、心が温かいもので満たされた。きっと、これが「好き」という感情なのだろう。そう思うことに嫌悪感はなく、「白雪は黒絵が好き」と思えることが幸せだった。
黒絵と私はいつも一緒だった。学校に登校するときも、放課後に図書館で本を読むときも、寝るときも同じベッドで眠る。黒絵はいつも私の隣にいてくれた。
黒絵と私は、よく物を分けあった。というのも、黒絵を毛嫌いしている両親は、彼女に何か買い与えることをしなかった。それにも関わらず、彼らは私に多すぎる贈り物をする。だから、私はその中から、黒絵が欲しい思うものを選ばせてあげた。
私が黒絵に物を分けると、彼らは「白雪は優しい子ね」と頭を撫でてくる。それを見て、黒絵も幸せそうだった。けれど、私は首を傾げる。どうして、両親は私に余分とも過剰とも思えるほどの物と愛情を与えるのに、黒絵には嫌悪しか向けないのだろうか。
彼らにそれを聞くと、母親は「黒絵より白雪の方がずっと可愛いからよ」と微笑む。父親は「黒絵は白雪じゃないだろう? そういうことだ」と力強く言った。
私には、彼らの言うことが分からない。私が黒絵よりも優れているところはどこだろう。黒絵が私よりも劣っているところはどこだろう。
黒絵は私ではない。黒絵と私は同じではない。でも、だからといって、黒絵が馬鹿にされる理由にはならないように思えた。
「僕はきっと、白雪の幸せを分けてもらって、生きているんだと思う」
私が譲った猫のぬいぐるみを大事そうに抱かかえながら、彼女は笑顔でそう漏らした。私は黒絵のその言葉が悲しかったし、納得できなかった。だって、私は黒絵に幸せをもらっている。
その日は私たちの十四歳の誕生日だった。私と黒絵は部屋でプレゼントを挟み、カーペットの上に座っていた。
私は両親や友人からたくさんの贈り物をもらった。そのどれも素晴らしいものとは言えず、むしろ、他人からもらったものが自分と黒絵の部屋に溢れているのが、我慢ならなかった。捨ててしまいたかったけれど、そういうわけにもいかず、すべて押し入れに押し込むことにした。
それらよりも、私は黒絵がなけなしのお小遣いから買ってくれた、百円のシュシュが嬉しかった。そう伝えると、黒絵は嬉しそうな、困ったような顔で、「白雪のくれたものよりもずっと安物でごめん」と侘びた。
私が彼女にあげたのは、指輪だ。私は小遣いをたくさんもらっているけども、ほとんど使うことはしない。だから、お金は有り余っている。地元でも有名なアクセサリー専門店で、一番綺麗なものを選んだ。その指輪は、黒絵の右手の薬指に驚くほどよく馴染んだ。
「白雪は僕にたくさんの幸せを分けてくれる。だから、僕は白雪のために生きるよ」
「何でそんなこと言うの? 貴女は貴女のために生きてよ」
黒絵は首を振った。
「そうあることが、僕の幸せなんだ」
私は、黒絵がどうして周囲から馬鹿にされているか分からなかった。
黒絵が野良猫たちに餌をあげるときの目は、とても優しい。彼女は野良猫たちから慕われいたように思える。私はそんな黒絵が誇らしかった。
どうして、彼女のことを誰も分かろうとしないのだろう。確かに、黒絵は要領が悪い。でも、いい子だ。私よりもずっと、心が豊かで、素敵な女の子であるように思える。
私は黒絵以外の誰から好かれても、期待をされても、何とも思わない。心が動かない。私と関係のない誰かが私のことで喜んでいても、嬉しくもなんともない。それは両親に対しても同じだ。
でも、黒絵は違う。彼女は学校の隣の席の人間から、「いらなくなったから、黒絵にあげる」と言われてもらったものを宝箱の缶詰に、大切そうにしまっている。壊れてノックができなくなったシャープペンシルだ。彼女は時折、それを大事そうに手に取り、微笑んでいる。
誰も、そんな黒絵を好きになってくれない。
だから、私は誓ったのだ。私自身に誓ったのだ。どんなときも、黒絵を好きでいようと。
あるとき、黒絵はこんな忠告を私にした。
「誰からも好かれることと、誰からも嫌われないことは違うんだよ、白雪」
私は、その言葉を今でも覚えている。大切に、心に留めている。
でも、黒絵。それなら、こうも言えるんじゃないの?
誰からも好かれていないからって、誰からも嫌われているわけではないんだよ。
私は黒絵にそう伝えたかった。けれど、恥ずかしくて、口にすることができなかった。
それが、今も悔やまれる。
その忠告をもらってからすぐ、黒絵は死んでしまった。
私が彼女を殺したからだ。
◆
十二月。
その日は、中間考査の返却日だった。
あんなテストの結果を見て、誰が得するわけでもないのに、何の意味があるのだろう。
中学二年生の私は、それが不思議で仕方がなかった。けれど、みんながそんな疑問を持つことなく、試験の日はクラスの全員が教室に缶詰にされ、黙々と試験を受けていた。
「月野白雪さん」
担任の教師から名前を呼ばれて、私は答案用紙と学年順位を受け取る。五教科五百点満点で四百九十五点。学年順位は一位だ。
担任の顔を見ると、彼女は満足そうな顔をしていた。「よく頑張りましたね」と彼女は私に小声で、誇らしそうに言う。私はそれに「ありがとうございます」と作った笑顔を返す。
心の中で首を傾げた。
私は頑張っているつもりはない。みんなと同じように普通に授業を受けて、試験を受けただけだ。特別なことをした覚えはないし、必要以上の努力をした覚えはない。
強いてした努力と言えば、数学で、ある一問の問題を解かなかったことだ。それは中学生の知る公式では到底解けないものだった。分からなかったというわけではないが、解いてしまうと、また必要以上に持ち上げられてしまう気がした。だから、手をつけず空白のまま提出した。
自分の席に戻ると、先に答案を返してもらっていた黒絵が難しそうな顔をしていた。私の姿を見て、彼女はふにゃりと笑う。
「お父さんとお母さんに怒られちゃうよ」
あまり困っているようには見えなかった。黒絵が両親の怒られるのは、いつものことだからかもしれない。
「見せて」
「いいけど、白雪のも見せてよ」
私たちはお互いの答案用紙を交換する。
私の答案を見た黒絵が、隣で「うひゃあ」とか「うひぃ」とか声を上げているのが面白かった。いや、結果を自慢したいわけではない。私に自慢したいものがあると言えば、可愛らしい言動をする黒絵だ。
「白雪すごいなあ。僕の五倍くらいの点数取ってるじゃん」
「黒絵も私と勉強したところは、ちゃんとできてるわよ。すごいわ」
「えへへ。ありがとう」
黒絵は人懐っこい笑みを私に向ける。私はそれを見て、微笑んだ。
クラスで黒絵の立ち位置はあまり良くない。ことあるごとに、彼女はクラスから仲間外れにされている。そんな彼女とまともに会話を交わすのは、私だけだ。それを見て周囲は、「白雪さんはしっかりしたお姉さんだね」と私を褒める。
黒絵がクラスに馴染めないのは、確かに、彼女自身にも問題があるからかもしれない。黒絵は酷くマイペースで、クラスの決め事を守らない。例えば、掃除の当番とか、委員会の役割とかだ。だから、みんなからの反感を買う。
――掃除とかみんな真面目にやらないんだから、やる必要ないじゃないか――
その黒絵の言い分も一理ある。放課後の掃除や委員会の仕事を真面目にやっている生徒はほとんどいない。その時間、みんなは談笑に興じていたり、トランプをして遊んでいることだってある。だから、黒絵の言うことは、みんなが心の底で思っていることだろう。
でも、周囲はこういう。
――黒絵のくせに生意気。
私はその、「黒絵だから」という言い方が良く分からず、とても不快だった。
「白雪。ここ、わざと解かなかったでしょ?」
横から声がかかる。彼女が指差したのは、例の数学の難問だった。
「うん、分からなかったのよ」
「嘘でしょ?」
「嘘だけど」
私は小声で返す。
「うん、そうだよね。白雪なら、これくらいの問題解けるはずだもん。したたかだよね、君は」
黒絵はもう一度、「白雪すごいなあ」と感嘆の声を漏らす。私は他の誰かに褒められても嬉しくもなんともないけれど、黒絵に褒められることは、とても嬉しい。
ふと、黒絵の数学の答案を見る。彼女の答案でも、例の難問には不正解を示す斜線が引かれていた。
けれど、解答欄は空白ではなかった。いや、むしろ、答えは合っていた。彼女は、あの難問を正解していた。
不正解となっていたのは、途中式がなかったからだ。数学の試験では、答えだけでなく、途中式も求められる。当てずっぽうに数字を入れて、正解することを防ぐためだ。
でも、私は不思議に思う。こんな細かい小数点の答えを、当てずっぽうで当てることなんてできるのだろうか。
◆
晩ご飯を食べ終わったころだった。部屋で図書館から借りた小説を読んでいたときだった。
「黒絵、こっちに来なさい」
父親が呼ぶ声が聞こえて、私は黒絵と顔を見合わせる。彼女は怯えた顔をしていたが、私は微笑んだ。「大丈夫よ、心配しないで」と彼女を安心させた。
リビングに行くと、父親と母親が険しい顔をしていた。テーブルには、試験の結果が書かれた用紙が二枚並べられている。私と黒絵のものだ。
「座りなさい」
父親に言われて、私は彼の前の椅子を引く。私の隣には母親が座った。
「君は、試験のこの結果をどう見るんだ? 父さんに言ってみなさい」
私は口を噤む。内心では、笑いを堪えるので必死だった。
「言ってみなさい!」
黙っている私を見てか、父親は口調を強める。母親は黙って、私を睨みつけていた。
「ごめんなさい……お父さん、お母さん」
「それはもう聞き飽きた!」
バンッとテーブルが強く叩かれる。父親は手元にあった茶碗を私に投げつけた。それが額に当たり、鈍い痛みが走る。
「痛い!」
手で押さえると、切れたのか僅かに血が滲んでいた。
「お母さんも悲しいわ。あなたが、こんなでき損ないのクズで」
「……ごめんなさい」
「ねえ? 何でアンタはそんなクズなの? ねえ、何でよ? 教えなさい。どうして、そんなクズなの? ねえ? 言ってみなさいよ、『僕はクズです』って」
母親は私の髪の毛を掴み、ぐいぐいと左右に引っ張る。私はただ、「僕はクズです」と繰り返した。
「白雪はあんなによくできるのに」
「白雪はあんなに賢いのに」
「白雪はこんなにいい点数を取ってくるのに」
「白雪はこんなに優秀なのに」
「白雪は」
「白雪は」
「白雪」
「白雪」
「シラユキ」
「シラユキ」
「シラ」
「ユキ」
それからも、父親と母親は「白雪」を繰り返しながら、私を罵倒した。頬を叩き、首を絞めることをした。
けれど、私は全く、これっぽっちも苦痛ではなかった。むしろ、「ざまあみろ」と心の中で彼らを嘲笑っていた。
彼らが罵倒し、暴力を振っている私こそ、白雪だ。彼らは、それに全く気づく様子がない。二人は、私を黒絵だと見間違えている。
部屋を出るとき、私は黒絵と入れ替わった。といっても、髪留めを外し、黒絵のジャージを着て、口調を変えただけだ。けれど、彼らは私たちを見分けることができない。たったそれだけで、「最愛の白雪」とやらを見失う。
私はそれが可笑しくて仕方がなかった。
私は、彼らが黒絵を馬鹿にすることが許せなかった。私のたった一人の、掛け替えのない存在を、こんな低俗で低能な大人に馬鹿にされることが、我慢ならなかった。
私が黒絵と入れ替わったのは、彼女の守るためもある。でも、それ以上にこれはささやかな復讐なのだ。彼らの掲げる身勝手な愛など、私には一ミクロンも届いていない。それを、私は内心でせせら笑う。
「……ごめんなさい。僕はクズです」
私はクズだ。彼らは、それを知らない。
知らないまま愛して、何が「愛」だ。
◆
部屋に戻ると、「白雪」の格好――父親と母親が私に買い与えたフリルのついた女の子らしい洋服と、白い花の髪飾り――をした黒絵が怯えた顔をしていた。二人の罵倒は、この部屋まで届いていたのだろう。彼女はそれを聞いて気分がいいはずがない、というより、私が暴力を振られたことにショックを受けているのだろう。
「白雪。君、怪我してる」
「ああ、たいしたことないわ」
「酷い……許せない。僕の白雪を傷つけるなんて!」
「気にしないでって。ここで出て行ったら、元も子もないわよ。……でも、困ったわね。この傷はしばらく残るわ」
手鏡を見ながら、私は唸る。両親は黒絵を傷を負わせたつもりでいる。それにも関わらず、白雪である私が額に怪我をしていたら、当たり前だが、不審に思うはずだ。だから、黒絵にも同じ場所に怪我を負わせなければならない。それは、心が痛むことだが、やらなければならないことだ。
「思いっきりやってよ。痛い思いをした鬱憤を、ここで晴らしてね」
「貴女で晴らせるわけないでしょう。痛みが二倍よ」
私はできるだけ最低限の力で、持ってきたガラス製のコップを黒絵の額に打ちつける。じんわりと彼女の額に血が滲んだ。傷は全く同じというわけではないけれど、両親は気づくはずもない。明日、白雪である私が怪我をしていることについては、適当な言い訳を考えなければならないけれど。
「一緒だね」
黒絵が私の額の傷を指差す。
「一緒ね」
黒絵が笑うと、私の心は満たされる。自然と、表情が緩んだ。
「ありがとう。嫌な役変わってもらっちゃって」
「何言ってるのよ。黒絵が怒られたら、私だって悲しいのよ」
「でも、それで君が酷い目に遭うと、僕が悲しい」
「貴女がこんな目に遭ってたなんて、考えるだけでおぞましいわ」
それからしばらく、「僕だって」「私だって」と続いた。永遠と続くかと思われたやり取りも、黒絵の「眠い」という一言で終止符が打たれる。私はパジャマ、黒絵はジャージに着替え、一緒にベッドに入る。布団の中で、私たちは手を繋いで、目を瞑った。
私たちは時折、それぞれの役割を交換することがある。それは幼いころからの、二人の秘密だ。そうやって、私たちはお互いを助け合ってきた。
子供のころ、私は黒絵を守っているつもりだった。けれど、それが大きな勘違いであることに、私は気づき始めていた。
それに最初に気づいたのは、今でも思い出す、去年の二月の学芸会だ。
あのとき、黒絵は私になった。
私以上の、私になったのだ。
◆
去年の学芸会で、私のクラスは「人間になりたがった猫」の演目をすることになった。当然の流れ、と呼ぶしかないもののせいで、私は主役の猫の役に指名された。
黒絵のクラスが何をやっていたかは、覚えていない。一年生のころいじめられていた彼女は、役をもらえなかった。だから、私は黒絵のクラスの劇に、全く興味を持つことができなかった。
演劇の練習は、教室や体育館で行われた。それを黒絵はこっそり覗き見をしていたらしく、家に帰ると、彼女は私の演技を褒めたり、「もっとここはこうした方がいい」という助言をくれた。
黒絵の助言は、驚くほど的確だった。クラスで脚本家を務める生徒よりも、はるかに。黒絵はあまり芸術方面に興味を示さなかったが、私は彼女が素晴らしい感性を持っていることを知っている。小学生のころ、黒絵が描いた絵を私は今も大切にしまっている。蝶の絵だ。けれど、それは二人の人間が手を繋ぐ絵のようにも見えた。それは、私と黒絵だろうと信じている。
――黒絵が私の役をすればいいのに。
私はことあるごとに、そう思った。黒絵の助言を受けたり、「黒絵ならこう言うだろう」と練習中に考えたりするごとに、彼女が私のする猫の役をする姿を思い浮かべた。そして、猫の役を演じる黒絵は、きっと素晴らしいだろう。そう思えた。
だから、私は学芸会の前日、仮病を使った。
――ねえ、黒絵。私の代わりに劇に出てみない?――
仮病の私を看病する黒絵に、そう提案した。
最初、彼女は強く拒否をした。「絶対に無理だよ」とブンブンと音がなるほど首を振った。けれど、私が強くお願いをすると、「白雪のためなら」としぶしぶ了承してくれた。
黒絵は、台本を私から借りて数回読んだだけだ。私のクラスの演劇に参加したことだって、一度もない。
でも、私は確信していた。私のクラスの劇は、成功する。だって、黒絵は私の双子の妹だ。私にできることが、黒絵にできないはずなんてないのだ。
その確信は、見事に裏切られた。
学芸会の日。こっそりと、私は「黒絵」の格好をして、体育館に忍び込んだ。
そして、驚愕した。
黒絵の演じる猫は、まるで生きているようだった。演じる人間に対して、「生きている」という表現を使うのは、もしかすると正しくないかもしれない。しかし、彼女は生きていた。「生き生きとしている」なんて言葉が馬鹿らしく感じてしまうほど、彼女は生きていた。
それに引っ張られるように、周りの役の生徒も演技をした。練習に乗り気ではなさそうでいつも文句ばかり言っていた生徒も、声を張り上げ、感情を大きく表現して、その役を務めようと力を尽くした。
素晴らしい演技だった。黒絵だけではない。クラス全員で素晴らしい劇をしていた。
私にはとてもできない。そう思わせた。きっと、私は「黒絵の代役」だとしても、あれほどの演技をすることはできない。人を引っ張るほどの演技なんて、他人に興味を持たない私にできるはずがない。
黒絵は、私と同じなんかじゃない。黒絵は、私よりもずっとすごいのだ。
演技が終わり、大きな拍手に包まれている黒絵を見て――同級生たちと抱き合う彼女を見て、私も力の限り手を叩いた。
叫びたかった。
あれは、お前らが馬鹿にしてる黒絵なんだと。
あれが黒絵なんだ。あれこそが黒絵なんだ。
叫びたかった。
でも、叫ぶことを私はしなかった。
最後の最後で、私は保身に走ったのだろうか。黒絵に自分の居場所を奪われることを恐れたのだろうか。
だとすると、馬鹿らしい。私はクズだ。真正のクズだ。
いや、クズだとしても。
私は黒絵を自分だけのものにしたかったのかもしれない。そう思うことにした。素晴らしい黒絵を知るの私だけにしたかった。
それくらいに、黒絵は素晴らしかった。
学校が終わり、家に帰ってきた黒絵を、私は力の限り抱きしめた。黒絵はおろおろとして、「もしかして、寂しかったの? ごめんね」と私の頭を撫でた。
――白雪は、たまにとても不思議だよね――
そう言って笑う黒絵が、どうしようもなく愛らしかった。
憎らしいと感じるくらいに。
◆
次の日の朝、目を覚ました私と黒絵は部屋を出て、一緒にリビングで食事をした。母親が用意したトーストは一枚だけだったので、私たちはそれを二人で半分こして食べる。
「白雪、お弁当」
母親が持ってきたお弁当箱は、これまた一つだけだった。こうやって、両親はことあるごとに黒絵を邪険に扱う。まるでそのために黒絵を産んだかのような仕打ちだ。
でも、それは私と黒絵が幼いころからのことだ。いちいち目くじらを立てる気にもなれない。また、立てても意味のないことだろう。私のお弁当を、黒絵に分けてあげればいいだけのことなのだから。
ただ、中学生の私たちは育ち盛りだ。一人分のお弁当では、少しばかり足りない。だから、学校に行く前に、私と黒絵はある場所に寄り道している。
「あら、白雪。おでこの絆創膏、どうしたの?」
母親が、私の額を指差して、怪訝な顔をする。ちょうど同じ場所に、黒絵も絆創膏をしていた。
「虫に刺されたのよ」
「あら、痕が残ったら大変だわ。軟膏、あったしら」
「もう塗ったわ」
すると、母親は微笑む。「さすが白雪。自分のことは、ちゃんと自分でできるのね」と、彼女は満足そうな顔をしたあと、パン屑を散らかしながらトーストを頬張る黒絵を一瞥し、不快そうな顔をする。
「違うわ。黒絵に手当てしてもらったのよ」
「……そうだったの」
母親の顔が醜悪に歪んだ。「白雪を手当てする」という自分の役割を、黒絵に取られたとでも思ったのかもしれない。馬鹿らしくて、吐き気がして、吹き出しそうになった。
「ご馳走様。黒絵、学校に行く仕度をしましょう。髪を解かしてあげるわ」
「え、いいよ。このままで」
「大人しく言うこと聞きなさい」
自分の容姿の良し悪しについてはよく分からないけれど、黒絵の見た目はとても可愛らしい。できるなら、私は彼女を可愛く見せたかった。
制服に着替えてから、洗面所で私は黒絵を押さえつけ、彼女の髪に櫛を入れる。少し引っかかった。
「貴女、また石鹸で頭洗ったでしょ」
「いいじゃん別に」
「良くないわよ。リンスもしなさい。ハゲるわよ」
「う。ハゲは嫌ぁ」
黒絵は渋々とうなずく。私は鏡に映る自分と黒絵を見ながら、いつまでもこんな時間が続けばいいのに、と心の中で呟いた。
◆
「行ってらっしゃい、白雪」
母親に見送られて、私と黒絵は家を出る。家が見えなくなってから、学校とは反対方向にT字路を曲がり、二人で手を繋いで進む。
向かっているのは、祖母の家だ。
祖母はお互い以外で私と黒絵を見分けることのできる唯一の人物だ。また、彼女は黒絵を邪険に扱ったりしない。そういうこともあって、私と黒絵は祖母を慕っている。
「お祖母ちゃん、今日はお弁当作ってくれてるかな?」
「半々ってとこね」
ただ、残念なことに祖母は少し変わった人だ。直接的な表現をすると、ボケが進んでいる。学校のある平日の日はお弁当を作るようにお願いをしているけれど、時折、「ありゃ、今日は日曜日じゃなかったかい?」と首を傾げることがある。
ボケている老人が、どうして私と黒絵を見分けることができるのかについて、理由ははっきりしていない。ただ、祖母は不思議な能力を持っていた。彼女の言うことは、妙に当たるのだ。
T字路を曲がってから五分ほどして、祖母の家に辿りついた。私たちの自宅から十分もかからない。一緒に住めばいいのに、と思わなくもないが、その辺り、祖母と両親の間に、何か決めごとがあるのだろう。
インターホンを押すてしばらくすると、玄関が開けられた。
「おはよう。白雪ちゃん、黒絵ちゃん」
「おはようございます」
「おはよう、お祖母ちゃん!」
祖母の手には、お弁当箱の入った袋が握られていた。ほっと安心する。今日は平日だと覚えていてくれたようだ。
「今日は黒絵ちゃんの好きなカボチャの煮つけを作ってみたんだよ」
「ありがとう、お祖母ちゃん!」
祖母にくしゃくしゃと頭を撫でられて、黒絵は嬉しそうに表情を崩す。それを見て、私も心が和らいだ。
「今日は雨は降らないと思うけど、寒いから、気をつけてね」
「本当? 天気予報では雨って言ってたけど?」
黒絵が首を傾げる。祖母は胸を張って、「お祖母ちゃんを信じなさい」と微笑んだ。
「うん、お祖母ちゃんを信じる。だから、これは預けとくね!」
黒絵はカバンから折りたたみの傘を取り出すと、それを祖母に渡した。
「学校終わったら、取りに来るから」
「分かったわ。気をつけて行くのだよ。二人がバラバラにならないように、手を繋いで行きなさい」
「はい、行ってきます」
「行ってきます!」
私は黒絵と手を繋いで、祖母の家を後にする。
私たちはことあるごとに、手を繋いで行動を共にする。どうにも、その「癖」を作ったのは、祖母のように思える。
――二人がバラバラにならないように……――
祖母はその言葉をしばしば口にする。それはいつも私の耳に残った。どうしてか、いつか私と黒絵のどちらかが、いなくなってしまうように思えたからだ。
当然、その日はいつか来るだろう。でも、まだ来て欲しくなかった。私には黒絵と一緒にしたいことが、たくさんある。
年が明けたら、黒絵と初詣に行きたい。その前に夜更しをして、日の出を見るのもいいかもしれない。黒絵は日が変わる前に寝てしまうから、頑張って起こしておかないと。
黒絵と一緒に何かをする。それを考えるだけで、私は幸せだった。
◆
昼休み、お弁当を食べると黒絵は「猫ちゃんに餌あげてくる」と、餌の入った巾着袋を持って、学校を出て行った。当たり前だが、昼休み中に学校の敷居から出ることは禁止されている。
黒絵は何度か教師にそれを見つかって、叱られていた。けれど、懲りる様子はない。彼女にとって教師の叱責よりも、猫の胃袋が満たされることのほうが大事のようだ。
そんな黒絵を、私は羨ましく思う。私は、昼休みに学校の外に出るようなことをしようとは思わない。せっかく教師から良く思われているのだから、できる限りそれを維持したい。その方が学校生活を送る上で得だろう。
黒絵は私のような損得勘定をしない。そのときにしたいことする。その奔放とした様は、私にはないものだ。
黒絵は私よりもずっといい。私よりもずっと可愛くて、格好いい。黒絵は、私の憧れなのだ。
「白雪さん?」
頬をついてぼぅっと黒絵について考えていたときだった。横から声をかけられる。振り返ると、同級生の望月加奈子と、その取り巻きたちがいた。望月はクラスの中心的存在で、整った顔立ちをした少女だ。はきはきとした明るい性格で、人気がある。また、人を使うことが上手かった。
彼女はその人気を維持することに必死のようで、ことあるごとに何かイベントを企画する。同級生の誕生日パーティだとか、この前はハロウィンパーティに参加させられた。
彼女たちは人の良さそうな作り笑いを顔に貼り付けていた。
「何かしら?」
「次の日曜日に私の家でクリスマスパーティをしようと思うの。白雪さんも来るよね?」
何故、来ることが前提となっているのだろうか。生憎、その日は黒絵とクリスマスのプレゼントを買いに行く約束をしている。
「ごめんなさい。その日、家の用事があるの」
「また黒絵?」
望月は顔を露骨に不快そうに歪ませた。彼女は黒絵を嫌っている。というのも、黒絵が彼女の主催するパーティに参加することを拒むためだ。それも仕方がないことで、黒絵は一年生のころ望月たちにいじめられていた。
「まだ、私が黒絵をいじめてたことを引きずってるの?」
「何のことかしら?」
「だって、みんなやってたんだもん。仕方ないじゃん。私だって仲間外れにされたくなかったんだもん。それに、主犯は山田くんとか男子よ。私だけが悪いわけじゃないでしょ」
それに謝ったじゃない、と望月は頬を膨らませた。ともすると、それは可愛らしい表情に見て取れたかもしれない。
「もう昔のことじゃない。黒絵も誘ってみるから、来てよね」
「考えておくわ」
煮え切らない私の反応に、望月とその取り巻きは不服そうな顔をした。その一人の気が短そうな少女が私に掴みかかろうとするが、望月が鋭く睨みそれを制する。賢い判断だ。「優等生」の私に手を出して、いいことなんてない。
「行こう」
望月に従って、取り巻きたちもその場を離れた。私はまた一人になり、ぼんやりと黒絵を待つ。
白状すると、私は望月にそれほど不快感を持っているわけではない。確かに望月は黒絵をいじめていたけれど、彼女の言う通り、それはもう「昔のこと」だ。私はいちいちそれを根に持ったりはしない。多少の嫌悪感はあるけれど、その程度だ。
それに、どんな環境であっても、いじめは起こる。特に、学校のような閉鎖された狭い空間では、いじめは起こりやすい。そのいじめの対象として黒絵が選ばれたことは、仕方のないことだと思う。
おそらく、薄々みんな気づいている。黒絵が私たちと比べものにならないほど、異質の存在であることに。
だから、警戒しているのだ。自分たちが見下している黒絵が、いつの間にか手の届かない高い存在になっていることを。
黒絵は時折、はっとするような才能を見せることがある。特に「ルール」を定めない、自由な取り組みに対して、黒絵は才覚を見せた。
美術での自習のとき、黒板に描かれた黒絵の絵を覚えていない同級生はいないだろう。白のチョーク一本で描かれた黒絵のそれは、たくさんの美しい蝶の絵だった。談笑をしている生徒は全員言葉を失い、息を殺して、その完成を待った。しかし、途中に教師が来て、「こんな年になって落書きなんてするな」と黒絵の絵を消してしまったときは、みんなが落胆した。口には出さなかったけれど、恨めしそうにその教師を睨んでいた。
レクリエーションの鬼ごっこで、黒絵を捕まえられた者はいなかった。黒絵は猫のように俊敏で、私でさえ追いつくことはできない。鬼ごっこで誰も黒絵を捕まえようとしないのは、仲間外れにしているからではない。みんな、追いかけても無駄であることを知っているのだ。
私は、確かに学校で一番だ。それは一応でも誇るべきことであると思う。でも、黒絵がいる限り、なんて意味のない地位であることだろうか、と思えて仕方がない。
試験の点数とか、クラスでの人気とか、教師からの評判とか。そんなものでは、黒絵を測ることはできない。世の中には「測定不能」というものがある。黒絵はそれだ。
もし、黒絵が努力することを覚えたら。ルールに則った行動をするようになったら。手に負えないことになるかもしれない。
みんな、それが怖い。だから、排除しようと必死なのかもしれない。
「ただいま」
昼休みの終わり、黒絵が教室に戻ってきた。
戻ってきた黒絵に、嫌な目を向ける者がいた。いない者として扱う者がいた。憎しみとも怯えともつかない表情で目を背ける者がいた。
けれど、私は暖かく彼女を迎える。
「お帰りなさい、黒絵」
「うん」
彼女は微笑む。けれど、どうしてか、その笑みはぎこちなかった。
「どうしたの?」
「別に、たいしたことじゃないんだけど」
黒絵は口を噤む。でも、私がじっと彼女を見つめていると、諦めたようにため息をついて、「怒らないでよ?」としょぼくれた顔をする。
「約束はできないわ」
「僕、白雪のそういうところが苦手」
それは残念。でも、私はできない約束はしない主義だ。
「日曜日、望月さんの家でパーティがあるんだって聞いたよ。僕のことはいいから、行っておいでよ、白雪」
「それは、私との約束を反故にするってことかしら?」
黒絵を鋭く睨むと、彼女は「やっぱり怒った」と泣きそうな顔になった。
「違う。それはまた今度にしようってこと。また今度にして、白雪は望月さんの誘いに乗った方がいいよ。絶対に、その方がいいって」
黒絵は必死に私を説得しようとする。私は少し呆気に取られた。
「分かったわよ。分かったから、理由を聞かせて。もしかして、望月さんに何か言われたの?」
「違う。そういうわけじゃない。うん、まあ、『黒絵も来ない?』とは聞かれたけどさ」
黒絵はそれを思い出してか、難しい顔をする。嬉しそうな、残念そうな、そんな顔だ。
「僕、誘いは嬉しいよ。望月さんが僕を馬鹿にしてるとかじゃないってのは分かるし。たぶん、彼女は白雪を誘うためと、『優しい自分』を演じるために、僕を誘ったんだと思う。でも、それでも嬉しいよ」
「なら、貴女も行けばいいじゃない」
「うーん、そうしたいんだけど、それはできないかな」
黒絵はふにゃりと笑う。
「僕、みんなに嫌われてるから」
「……」
私はそれに否定も肯定もしなかった。
黒絵は続ける。
「でも、君は行きなよ。僕は嫌われてる。でも、君はみんなから好かれている。それなら、みんなから好かれたままでいた方がいいじゃないか。僕もそっちの方が嬉しいよ。それにさ、白雪」
黒絵は真面目な顔で、私をじっと見た。そして、彼女には珍しく、感情の起伏が感じられない、低い声で言う。
「誰からも好かれることと、誰からも嫌われないことは違うんだよ、白雪。僕はそれを、君に勘違いしないで欲しい」
◆
その日は、祖母の言う通り、雨は降らなかった。
◆
土曜日、私と黒絵は入れ替わった。黒絵は私がいつも着ているフリルのついた服を身に纏う。白い花の髪飾りは、彼女の黒い髪によく映えた。
そして、私はジャージ姿だ。
十二月になって、冬が深まってきた。黒絵は服の上にコートを着ているからいいものの、私はジャージだけなので、かなり寒い。黒絵を演じるために、こっそりと肌着を重ね着にしてきた。
「じゃあね、黒絵。僕は、猫に餌をあげたり、図書館で漫画を読んだりしてるよ」
「気をつけてね、白雪。私は買い物に行くわ。貴女のクリスマスプレゼントを買うの」
私と黒絵は互いに微笑み、握り合っていた手を離す。
蝶を象っていた影が、二つに別れた。
◆
その日は珍しく、黒絵から「入れ替わり」を提案してきた。
黒絵は私へのクリスマスプレゼントを買いに、街のデパートに行くという。そのため、いつもの格好では恥ずかしい、と言っていた。彼女にそのような感覚があることは、失礼かもしれないが、少し驚きだった。
私はジャージのポケットに手を入れ、黒絵がいつも足を運んでいる、猫のたまり場へと向かった。途中、ペットショップでキャットフードを購入する。店員が朗らかな笑みで、私に向かって「いつもありがとう」とレジ袋を渡してくれた。私も、自然と笑みになる。
「ありがとう!」
ペットショップを出ると、小走りになった。黒絵が私以外の誰かにも笑顔を向けられていることを知って、嬉しかった。
自然と私は鼻歌を歌っていた。黒絵がいつも聞いている、ラブソングだ。いや、ラブソングなのだろうか。確かに、この曲は「ラブソング」というタイトルだ。けれど、歌詞と雰囲気はとてもそうは思えない、社会を皮肉った痛烈なメッセージを込めている。
――愛こそ全て
彼女はこの歌を笑顔で口ずさむ。私はそんな黒絵が、少し怖かった。
黒絵は何を思って、愛を語っているのだろうか。黒絵は愛されない少女だ。そんな彼女にとって、愛とは何なのだろうか。
私は黒絵を愛せているだろうか。
答えがでないまま、猫のたまり場へとなっている公園へとやってくる。すでにそこには十数匹の猫が集まっていた。
「みんな、こんにちは」
私は笑顔で声をかける。けれど、猫たちの私に向ける視線は冷ややかだった。どうにも、猫という生き物は私と黒絵の区別がつくらしい。そういう意味で、彼らは人間たちよりも賢いかもしれない。
キャットフードの包装を破り、地面に置く。猫たちが群がってきたので、人間様である私は退散することにした。
ベンチに座って猫を眺めながら、ぼぅっと時間を過ごす。黒絵はよく猫を撫でたりしているけれど、私はとてもそういうことはできそうにない。彼らの警戒心を解くのは、私には無理だ。
私は黒絵にはなれない。けれど、黒絵は私になることができる。
それが何を意味するのか分からないほど、私は幼くはない。
キャットフードがなくなったのか、溜まっていた猫はどこかへ行ってしまった。図書館にでも行こうか、と立ち上がる。すると、足元に一匹の黒猫がいるのに気づいた。
黒猫は「もう餌はないのか」とでもいうように私に鳴いた。私が試しに黒猫の耳の後ろを撫でてみると、猫はされるがままになっていた。
「ごめんね。もうないんだ」
すると、「じゃあ、用はねーよ」と言わんばかりに、猫はすっと私の元を去っていった。それが少し面白くなくて、私は唇を尖らせる。
貴方、黒絵にもそういう態度取ってるんじゃないでしょうね? だったら、許さないわよ。
「あ、黒絵じゃん」
声の方向に振り向く。
望月がいた。取り巻きがいないことに、少し安心した。どうにも、私は彼女たちがあまり得意ではない。面倒臭いのだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
満面の笑顔で挨拶をすると、ぎこちない笑顔を返された。少し、可笑しくに思う。どうにも、望月は黒絵を嫌っていて、彼女に対して高圧的な態度を取っているとばかり思っていた。
望月は紺色のダッフルコートを着て、中は制服だった。「これから、塾で自習なの」と彼女はため息交じりに説明する。
「私、白雪さんみたいに頭良くないから、頑張って勉強しなくちゃいけないんだよね」
聞きようによっては嫌味のように聞こえるかもしれない。いや、嫌味だろう。望月は学年でも上の方の成績のはずだが、あまり勉強に関して余裕があるようには見えない。もしかすると、トップの私に敵対心を持っているかもしれない。
「お姉さん、いいよね。何でもできて、優秀だし」
「白雪は頑張ってるからね」
黒絵ならこう言うだろう。
「本当かなあ。そうは見えないんだけど」
彼女が訝しんだのは、少し意外だった。私は周囲に手を抜いていることを見せていないつもりだったし、それは上手くいっていると思っていた。
「でも、黒絵が言うなら、そうなのかもね。でもさ、白雪って何か怖いよね。何考えてるのか分かんないっていうかさ」
「ふーん」
それからしばらく、沈黙が続いた。
望月は居心地悪そうに口をつぐんでいたけれど、何故かため息をついて、私を横目に見る。
「猫、好きなの?」
「好きなのかな?」
正直なところ、よく分からなかった。黒絵自身から、猫が好きだと言われたことはない。ただ、黒絵は昔からよく、猫と仲良くしていたように思える。
「私、猫飼ってるんだ」
「へえ、そうなんだ」
私は知っていたが、黒絵は知らないはずだ。
「いいでしょ」
「いいと思う」
「じゃあ、明日うちに来ない?」
「……え?」
本当に、呆気に取られた。ぽかん、と口を開けて、望月を見る。
「何でそんなに驚くのよ。この前も誘ったじゃない」
「うん、そうだけど、社交辞令だと思った」
「黒絵、意外と難しい言葉知ってるのね」
うっかり素が出てしまっていた。私は慌てて、「白雪が使っていたんだ、シャコウジレー」と言い訳をする。
「楽しむためのクリスマスパーティなのに、社交辞令で人を誘うわけないじゃん」
「なるほど」
彼女の価値観がよく分からなかったが、納得しておいた。
「それで、来るの? 来ないの?」
「ん、行けたら行く」
あとで黒絵に聞いてみよう、と曖昧な返事をしておく。すると、望月は落胆した表情をした。
「黒絵、私のこと嫌いでしょ?」
「分からない、かな」
黒絵は、望月をそれほど嫌っているようには思えない。ただ、どちらとも言えない。だから、またしても曖昧に答えるしかなかった。
「なら、良かった」
すると、望月は少しだけ嬉しそうな顔をした。学校で見る他人行儀なものではない、柔らかい微笑みだった。
「これ、明日渡そうと思ったけど、来るか分からないなら、今渡しておくね」
望月から渡されたのは、肉球の柄の包装に包まれた小物だった。包装で中身は見えないが、手触りから動物のようなものの置き物だと分かる。
「黒絵、猫好きだと思ったから、猫にしたの」
「え、うん。ありがとう」
「それじゃあ、明日、きっと来てね」
望月は私に手を振って公園をあとにした。
私は猫の置き物を手に持ちながら、不思議な気持ちになっていた。
◆
日が暮れたころ、私は家に帰った。部屋には黒絵がすでにいるだろうと思っていた。でも、彼女の姿はなかった。
私は黒絵らしく、図書館から借りた漫画を読んで、彼女の帰りを待つ。
けれど、しばらく待っても黒絵は帰ってこない。私は心配になった。でも、黒絵の行き先を知らない私が、探しに出かけても徒労なだけだろう。そう思い、部屋で静かにすることを選んだ。
父親が帰宅する気配がしたあと、急に家が慌ただしくなった。母親が泣き出し、父親が「何かの間違いだ」と彼女をなだめる。異常な事態であることは、明らかだった。
私は我慢できず、黒絵のまま、リビングに行き、両親に事情を聞く。父親は私を見てうるさそうな顔をしたけれど、それどころではなかったのかもしれない。簡潔に事態を教えてくれた。
「白雪が死んだ」
その瞬間、私の世界が止まった気がした。
◆
父親からそれ以上のことは聞けなかった。私は家に残ることを命じられ、次の日の昼、彼らが帰ってきたころには、黒絵の葬儀の準備が始められていた。
いや、黒絵の葬儀ではない。私の葬儀だ。
愚かな両親は、黒絵が死んでも、私と彼女の見分けをつけることができなかったようだ。誰も、黒絵を黒絵だと気づいてくれなかった。
まったくもってそれは馬鹿馬鹿しいことだけれども、そんなことどうでも良かった。
黒絵は何故、死ななければならなかったのか。
両親にそれを聞いても、「白雪が死ぬはずないんだ!」と阿呆らしい現実逃避をして、私を罵倒するだけだった。彼らがこんな状態であるため、葬儀の準備のほとんども親類がやっているようだった。
私に黒絵の死の詳細を教えてくれたのは、家を訪ねてきた女の刑事だった。
「君が黒絵さん?」
私はそれに「はい」とうなずく。警察にも、私は白雪であることは、知らせないでおいた。直感的に、その方が都合がいいと考えたからだ。
「辛いだろうけど、聞かせてね。白雪さんはどんな子だったの?」
「それよりも、どうして白雪が殺されたのか、教えてよ」
刑事は困った顔をして、「あまり人には言わないで欲しいんだけど」と、声を潜めて教えてくれた。
「白雪さんは、恐らく誰かに殺されたの。首を強く絞められて」
黒絵は殺された。
私はこの事実を頭の中で反芻させる。刑事が去ったあとも、一人っきりで部屋に篭り、考え続けた。
何故、黒絵は殺されたのか。
誰が黒絵を殺したのか。
私はその人間を許せない。絶対に許してはいけない。死ぬ以上の苦しみを味あわせなければならない。八つ裂きにするだけじゃ気が済まない。もっと酷い苦痛に晒してやりたい。そうでなければ、いけないのだ。
だから、私はその人間を探し出さなければならない。警察よりも先に、見つけ出して、制裁を加えなければならない。
――いや、違う。それは大きな間違いだ。
土曜日、私が黒絵で、黒絵が白雪だった。それは今でも変わらない。黒絵は白雪として殺された。殺されたのは、私だ。
だから、私はこう考えるべきなのだ。
何故、私は殺されたのか。
誰が私を殺したのか。
疑問は続く。
どうして、黒絵は私と入れ替わることを提案したのか。
黒絵から「入れ替わり」を提案することは今までにほとんどなかった。いつも私から、それを提案する。だというのに、どうして、黒絵は今回に限って入れ替わることを自分から言い出したのだろうか。
黒絵は私が殺されることを知っていたのではないか。
だから、入れ替わりを提案したのではないか。
もし、そうであったら、私は――自分が許せない。
――僕は白雪のために生きるよ――
何故、あのとき、もっと強く、黒絵に自分のために生きることを諭さなかったのか。
私なんかのために、私よりもずっとすごい黒絵が死ななきゃいけないなんて、そんな無意味なことがあるだろうか。
なんて、馬鹿らしい。
私はこんなことで黒絵を失いたくはなかった。こんなことで、黒絵と離ればなれになりたくはなかった。
もっと、黒絵と色んなことをしたかった。もっと、たくさんのことを話したかった。
もう、それはできない。
泣き疲れてベッドに入る。一人っきりの布団は、酷く冷たかった。
誰も私の手を握ってはくれない。
それだけの事実が、何よりも辛く、悲しかった。
◆
夢を見た。
夢で私と黒絵は蝶だった。
私はモンシロチョウ。黒絵はアゲハだ。
私たちは並んで、ひらひらと宙を舞う。
とても幸せだった。
私よりも黒絵の方がずっと飛ぶのが上手かった。
だから、私は一生懸命になって、彼女のあとを追いかけた。
でも、いつしか、私が彼女の前を舞うようになった。
黒絵は花の蜜を吸ったり、木の枝に止まって休んでばっかりだ。
私は黒絵ともっと空を舞いたかった。
だから、ずっと、黒絵がもう一度飛んでくれるのを待った。
そうやって、長い時間が過ぎた。
ふと、地面を見る。
そこには、バラバラになった黒絵がいた。
私は困惑する。誰かに踏まれたのか、彼女の美しい羽は無残にもボロボロに千切れていた。
突然、黒絵を失った私は、何をどうすればいいのか分からなかった。
結局、私は飛ぶことしかできない。
怖くて、地面に降り立つこともできなかった。
泣きながら、私は空を舞う。
たった一人で、空を舞う。
気がつけば、白い羽は黒ずんで、汚らしかった。
◆
黒絵が死んで、私は一人になった。
これから先、私は一人ぼっちで生きていかなければならない。それを思うと辛く、悲しかった。
けれど、どうしようもない。黒絵は死んだのだ。
葬式が終わって、私はじわじわと彼女の死を実感していた。それに伴って、別の感情が湧き出していた。黒絵の死を認めながら、それを否定しようと躍起になる感情だ。
――本当に、黒絵は死んだのだろうか。
私はそれを「否」とする。黒絵はまだ死んでいない。私が「黒絵」である限り、彼女は生きている。
だから、頑張らなくっちゃ。私は――僕は彼女を殺した人間を、探さなくちゃいけないんだ。
部屋に篭って、めそめそなんてしてはいけない。僕は黒絵だ。黒絵はいつも明るくて、自分のやりたいことに正直な少女だろ? Tシャツにジャージを着て、寒い冬でも外で元気に走り回る。そんな能天気なやつだ。
今、僕がやりたいことは何だろうか。
それを考えると、涙は自然に止まった。
彼女が殺されてから五日経ったころ。
僕はようやく、彼女を殺した犯人を捜すために動き出した。
◆
「最愛の白雪」を失った両親は、分かりやすく崩れていた。お母さんは家事を投げ出して寝ていたし、お父さんは仕事に行かないでバラエティ番組を無表情で見ていた。二人は何をするでもなく、脱け殻みたいに動かないでぼぅっとしていた。ちょっと間抜けっぽくて、呆れてしまう。
でも、僕にとってそれは都合がいいことかもしれない。お父さんとお母さんが脱け殻でもそうじゃなくても、僕にとって変わりはない。だって、彼らは僕に何もしてくれない。むしろ、大人しくしてくれているだけ、サンキューだ。
僕は自分でお昼ご飯を作ることにした。お母さんが買い物に行かないせいか、冷蔵庫は空っぽだった。だから、冷凍保存していたご飯をレンジで温めて、漬け物をおかずにすることで済ませた。
まあ、物足りないけど、空腹には慣れてるし、気にするほどのことでもないよね。
仕度をすると、無言で家を出た。そういえば、彼女は「行ってきます」とか「ただいま」とかをあまり言わなかった気がする。まるで、そこを自分の家だとは思っていなかったみたいだ。
ふと、大人になって、お金を貯めたら、彼女と二人でアパートを借りて、一緒に暮らす夢を思い出してしまった。涙が出そうになったから、大きな声で好きな歌を歌う。
――神様なんて信じない 教科書なんて信じない
僕が信じていたのは、彼女だけだ。僕は彼女が好きで、彼女のために生きたかった。だから、彼女が僕のために生きようとすることを、否定することなんてできなかった。
でも、だからって、こんな現実は見たくなかった。
愛って、なんて馬鹿馬鹿しいんだろうね。
こんな悲しい思いをするくらいなら、彼女のことを好きでいなければ良かった。本当にそう思える。そう思ってしまうことが悲しかった。
救ってよ、と叫ぶ。誰も救ってくれないと知っていながら、僕は叫ぶしかないのだ。
僕を救えるのは、僕自身だけだ。
◆
向かっているのは、学校だ。
僕は「白雪」を殺した人物を、親しい間柄の人間と考えている。理由は単純で、「絞殺」は親しい人間を殺すときに選ばれる傾向のある殺人方法だと聞いたことがあるからだ。
「白雪」と親しい人間で、恨みを持っている者。それが、彼女を殺した犯人だ。
ジャージのポケットにはカッターナイフを忍ばせている。もし、荒事になったら、これで犯人を殺すつもりだ。躊躇なく、僕はそれを実行する。たぶん、相手の首をバッサリ切ってやる。
学校に着いたのは、昼休みが終わるころだった。
教室に入ってきた僕を、何人かは訝しんだ。でも、何かを言ってくることはなく、みんなが僕をいないものとして扱った。いつものことだ。
「黒絵」の席に着く。隣の「白雪」の机の上には、花瓶が置いてあって、花が添えられていた。クラスの誰かが「白雪」の死を悲しんでしたことだろう。
同級生の誰かが、彼女を殺したのかもしれない。
それを考えると、胸の鼓動が早くなった。その誰かは、今も素知らぬ顔で学校に来て、授業を受けているかもしれない。
僕はその人物を目の前にして、冷静でいられるだろうか。冷静でいるつもりはないし、必要性も感じない。僕はきっと、自分がしたいように振舞う。
教室は不自然に静まり返っていた。校庭で遊ぶ生徒たちの声が、別世界のように感じるほど。何かに怯えているように、張り詰めた空気をまとっていた。
同級生たちも、この中に「白雪」を殺した犯人がいる可能性を考えているのだろうか。でも、その考えはしっくりと来なかった。
彼らが怯えているのは、たぶん、僕なのだろう。
「白雪」というストッパーを失った異端児である「黒絵」が、突然暴れだすことをしないか、怖がっているのだ。
それもそれでいいかもしれない。疑わしい人を全員殺すのも、一つの解決方法だろうねって僕は思う。
何より、僕自身がすっきりする。はっきり言うと、僕は彼女を否定していたこの環境が、大嫌いなんだ。
「黒絵」
顔を上げる。望月さんの姿があった。取り巻きは教室の隅に集まって、おどおどしているみたいだった。危険を冒してまで、望月さんに従うほどの意思はないということだろうか。
望月さんの人望もたいしたものじゃないのかもしれない。でも、それについては、望月さん自身が一番良く分かっているはずだ。
望月さんは、きっと、彼女と友達になりたかったんだ。正しい意味として、望月さんは「たった一人」を求めていた。どうしてそれを求めているかは知らないけど、何となくそう思えた。
もしかすると、「白雪」と望月さんは近い人間なのかもしれない。望月さんはどこかで、「黒絵」の異質な才覚に気づいたのだ。そして、憧れた。自分のものにしたいと願った。
望月さんにとって、「黒絵」と仲良くなるためには、「白雪」が邪魔だった。そう考えることはできないかな?
「黒絵、話があるんだけど、外でいいかな?」
「ここじゃ駄目なの?」
彼女が少し怯んだ顔をした。黙って観察をしていると、教室に先生が入って来る。授業が始まったのだ。
先生は僕を一瞥して、目を逸らす。望月さんに対して、「席に着きなさい」とだけ声をかけた。
「先生、黒絵が気分悪いみたいなので、保健室に連れて行きます」
望月さんは意を決したように、そう宣言すると、僕を引っ張って教室の外に連れ出した。同級生の何人かが呆気に取られたように、その様子を見ていた。取り巻きに至っては、ぽかんと口を開けている。
望月さんに連れて来られたのは、理科の準備室だった。彼女は準備室の鍵を閉めると、私に向き直る。言いにくそうに「無理矢理ごめんなさい」と謝ってきた。
「ここ、勝手に使っていいの?」
「うん。この時間は空いてるから、大丈夫」
「でも、見つかったら怒られない?」
「心配ないよ。私、理科の先生と関係があるから」
関係がある。
その言葉が分からないほど、僕は馬鹿じゃない。望月さんは、理科の先生と身体を交わらしたのだろう。
「私、理科が苦手で、どうしても点数が伸びなくて。九十点以上取れないと親に殴られるから。だから、先生とセックスして、その代わり試験の答え教えてもらってたの」
「……そうだったんだ」
「軽蔑、した?」
「いや、しないよ」
するほど、君に期待なんかしてないしね。
でも、どうして今、それを僕に教えてくれるのかが、分からない。
いや、分からなくもないか。秘密を共有することで、親密になろうって魂胆だ。
「良かった」
僕の言葉を聞いて、望月さんは心から嬉しそうな顔をした。黒絵なら分かってくれると思った、と僕の手を取る。気持ち悪くて振りほどきたかったけど、されるがままになっておいた。
「黒絵、白雪さん死んじゃって悲しいだろうけど――」
「君じゃ、彼女の代わりにはなれないよ」
望月さんの顔が醜悪に歪む。「そういうつもりはないけど、力になりたいの」と彼女は懇願するように、僕の手を強く握った。
僕は首を振る。だって、当たり前だろう? 僕は望月さんなんかに力になって欲しくなんかない。僕を救えるのは僕だけだって思ってるし、彼女は非力だ。
「何だよ、黒絵のくせに」
彼女は両手で、僕の首を強く締め上げる。それに、僕は冷ややかな目を返した。こうなることは予想してたから、動揺することはなかった。ポケットからカッターを取り出すと、望月さんの首筋を撫でるように刃を通す。
「っ!」
驚いて、彼女は手を離した。望月さんの首には薄っすらと血が滲んでいたけど、皮膚が切れたくらいだ。僕は彼女を殺すつもりはない。今のところ、まだ。
「そうやって、白雪を殺したの?」
「どういうこと?」
「君が白雪を殺したのかってこと」
「何で、そんなことしなくちゃいけないの? 人殺しなんて」
本当に、望月さんは不思議そうな顔をした。今の行動を棚に上げてまで、彼女は「白雪殺し」を否定した。
僕は「違う」と結論付ける。望月さんは、彼女を殺してはいない。
直感もある。でも、「白雪」と望月さんはそれほど親しい間柄ではない。彼女はそれ以上に、「黒絵」に対して関心を持っていた。だから、首を絞めるよりも、別の殺人の方法を選ぶはずだ。
また、塾で自習していた望月さんにはアリバイがあるだろう。
それに、何というか。望月さんは、「白雪」を怖がっていた。
望月さんにとって、「白雪」は底を知れない存在だったのかもしれない。表向きは柔らかく微笑み、手を抜いても学年一位の成績を取る。畏怖の対象としている印象を受けた。
それよりも、彼女は才能があるのに認められない「黒絵」に親近感を持ったのだろう。だから、自分のものにしたいと願ったのかもしれない。同じく認められない者同士として、傷を舐め合おうとした。
まあ、全部、望月さんの勝手な固定概念と思い込みだけどね。
「望月さん。君、白雪を殺しそうな人に心辺りはない?」
「それを言ったら、私じゃないって信じてくれる」
「うん。元から、君みたいな小物になんて、疑う価値も見出せないけどね」とは言わないでおこうっと。
望月さんは少し考えたあと、「山田が怪しい」と漏らす。
山田。一年前、彼女をいじめていたやつだ。
「山田、白雪さんのことすごい恨んでたし、もしかしたら殺すかも」
「そっか、ありがとう」
僕は踵を返して、準備室を後にしようとする。後ろから、「黒絵、私のこと好きだよね」と声をかけられる。
「さあ、どうだろうね」
できるだけ、やんわりと返す。そんなこと、もう分かりっこないじゃないか。
少なくとも僕は、君なんかにこれっぽっちも興味はないかな。
◆
一年生のころ、彼女はいじめられていた。いじめの主犯となっていたのは彼女のクラスの同級生たちだったと僕は聞いている。
僕は彼女がいじめられていることを知らなかった。彼女が髪まで泥だらけで帰って来たときは、どこかで悪ふざけでもしてきたのだろうと思っていたし、彼女がよく教科書やノートをなくすのは、抜けているだけだと簡単に納得してしまっていた。
それに、彼女は僕に、いじめられているということを隠していた。「余計な心配をさせたくなかった」というのが、彼女の言い訳だったけど、僕は何だか裏切られた気分で、やるせなかった。
結局、僕はいじめられている彼女を助けるために、何ひとつしてあげることはできなかった。彼女は自分で、いじめを解決したからだ。
そのときも、「白雪」と「黒絵」は入れ替わっていた。理由はよく覚えていない。「両親に向かってヘラヘラ笑うのに少し疲れた」とか些細なことだったと思う。
「黒絵」となった僕はこれといってすることもなく、ぶらぶらと街を散歩して、時間を潰していた。
日が沈んだころ、何気なく公園にたどり着くと、山田とその仲間が四、五人いた。特に関わるつもりはなかったけど、僕はあるものを見て、山田たちに飛びかかった。
――ぶっ殺してやる!――
山田たちは彼女の友達の一匹である野良猫を捕まえて、いたぶっていた。ぐったりとした猫はぴくりとも動かない。後から聞いた話だと、漂白剤を混ぜた餌を食べさせたらしい。その猫は死んでしまった。
――おい、カモがもう一匹やって来たぜーー
山田たちは僕を地面に押さえつけて、ゲラゲラと笑った。Tシャツを脱がされて、上半身を裸にされると、彼らは「刺青彫ってやろうぜ」と山田が尖った石を僕の背中に突き立ててきた。
「何にする?」「ウンコでいいんじゃね?」と山田たちは僕を押さえつけながら、またゲラゲラと笑う。
でも、僕の背中にウンコが描かれることはなかった。
ガスッという嫌な音が響く。僕に馬乗りになっていた山田が、横に倒れた。
見上げると、白いワンピースを着た「白雪」の彼女がいた。彼女はお遣いで買ったらしいワインボトルを手に持ち、艶美に微笑んでいた。とても愉快そうに、けれど、ボトルを握って真っ白になっている彼女の手が静かな憤りを表していた。
――御機嫌よう。糞虫の皆さん――
彼女はワインボトルを大きく振りかぶり、山田の仲間たちに向かって距離を詰める。
呆気に取られていた山田の仲間たちだったけれど、我に返ると、怒声を上げて彼女に殴りかかる。彼女はそれをひらりとかわすと、カウンターの要領で、山田の仲間の一人の肩口にワインボトルを叩きつける。
鈍い音。彼は「ギャ」と短い悲鳴を上げて、うずくまる。
――殺せ! 殺せ!――
あとは揉みくちゃ。彼女と言えど、数人の男相手に一人で太刀打ちするのは難しいらしい。殴られて殴り返されて、突き飛ばして押し倒されて。髪が砂塗れになっても、ワンピースのスカートがめくれても、彼女は悲鳴ひとつ上げず、微笑みながらやり返していた。
途中から僕も混ざって、なんというか、もう乱闘だった。騒ぎを見た近所の主婦が警察に通報して、僕たちは駆けつけたお巡りさんに補導された。
夜遅く、家に帰ってから、「白雪」はお父さんとお母さんに泣かれながら、「痛かったでしょう」と傷の手当を受けていた。「黒絵」は反対に、「白雪を危険なことに巻き込んで!」と怒鳴られていた。
あとで、僕も彼女を叱った。どうして、僕にいじめられていることを教えてくれなかったのか、問い詰めた。
すると、彼女はいつものふにゃりとした笑顔で、こう返した。
「あんなやつら、たいしたことないもん。だから、君に余計な心配をさせたくなかったし、手間をかけさせたくなかったんだ」
僕は、怖かった。何人もの男にのしかかられて、服を脱がされて、怖くて仕方がなかった。もし、彼女が助けてくれなかったら、僕はどうされていたのだろう、なんて考えるだけで身がすくむ。
でも、彼女はけろっとしていた。ベッドに横になって、漫画を読みながらクスクスと笑っていた。
彼女はいつもあんな仕打ちを受けても、こんなふうに何食わぬ顔をしていたのだろうか。
何だか、彼女がとても遠い存在に思えた。
やっぱり、僕より彼女の方がすごいんだ。
◆
望月さんとの一件の一週間くらいあと、僕は山田に「白雪」のことを聞いてみた。やっぱりというか、たいした収穫はなかった。
どうにも、山田は乱闘での一件で、ずいぶん丸くなったらしい。
「月野に頭を殴られて、馬鹿になったのかもな」
カラカラと山田は大柄な身体を揺らして、愉快そうに笑う。
放課後の公園――偶然にも、乱闘をした場所だ――で、僕と山田はベンチに並んで座っていた。山田は足をぶらぶらさせながら、「ハラヘッター」とぼやく。僕もそれに倣って、「ハラヘッター」とぼやいた。
僕たちは二人揃って、缶のコンポタをちびちびとすする。山田が奢ってくれたものだ。コンポタはそれほど好きじゃないけど、手が寒かったから、結構ありがたい。
「そういえば、サッカー部は?」
「サボった。なんか、だりぃし」
「あっそう」
適当に相づちを打つ。
山田も望月さんと同じで、見栄とかそういうものを気にする人間だったと思う。山田は勉強ができないから、サッカーとかスポーツを頑張ったり、大柄な身体で周囲を威圧したりして、権力を示していた。
でも、山田はそれを「馬鹿っぽいじゃん」と笑った。
「何だか、だりぃし、ダサいだろ?」
「何で?」
「いや、何となく。お前らと殴り合いしたら、そう思ってさ」
まあ、俺は白雪の初めの一発で伸びてたんだけど、と山田ははにかむ。
「俺、月野姉妹はすごいやつだと思ってたんだよな。他のやつらとは、何か違うっつーの?」
「僕も?」
「うん。何か、オーラから違うよな。割と今でも思う。王者の気風っていうやつ?」
「何それ、だっせぇ」
「だっせぇよなー」
僕たちは揃って、ゲラゲラと声を上げて笑う。
「でもさ、俺はそーゆーのに憧れてたの。何でかな? たぶん、かっこつけたかったんじゃねーのかな」
でもさ、と山田は続ける。
「殴り合いしたら、案外お前らって普通じゃん。終わってみたら全員痣だらけの泥だらけで、ポリ公に怒鳴られてしょげてるの。それ見たら、笑いそうになってさ」
「確かに、あのときの僕たちはださかったね」
「うん、それに気づいてさ。何か、どうでも良くなった」
そう語る山田は、清々しくて、あっけらかんとしていた。彼は彼女をいじめていたけど、それを「どうでもいい」と笑う。当事者からすると憤慨すべきことなのかもしれない。でも、そういう気にはなれなかった。
山田は「白雪」も「黒絵」も普通の人間だって言う。それは納得できないところもあるけど、何だか嬉しかった。
もしかすると、僕たち二人は、自分で思っているほど、「ふたりぼっち」じゃなかったのかもしれない。そう思えた。
「黒絵は、白雪を殺したやつ探してるんだろ?」
「うん、そのつもり」
「ふーん……まあ、頑張れ」
山田は何か言おうとして、それを飲み込み、僕にそういう。
「いや、手伝ってやりたいなって思うんだ。白雪も黒絵も、俺は嫌いじゃない。いじめてたのは、そういう理由じゃないんだ」
「うん?」
いやさ、と山田は少し申し訳なさそうに頭をかく。
「何か、あのときはお前をいじめて遊ぶのが一番楽しかったんだ。だから、そうしてただけ。何か、嫌いとかそういうんじゃなかったんだと思う。たぶん、俺はお前が……その、好きでいじめてたんじゃねーのかな」
「何だよ、それ」
僕は笑う。
「だよな。別に、付き合いたいとか、そういうんじゃねーんだけどなあ。分っかんねーかなあ」
山田も困ったように、苦笑いをした。
「うん、だから、手伝えるなら手伝いたいんだ。でも、俺って馬鹿だしさ。そういう探偵みたいなのには向いてねーと思う。だから、応援だけするよ。頑張れよ」
「ありがとう」
その言葉は、思いの外、すんなりと口から出た。山田がびっくりした顔をしたから、僕もびっくりする。二人で顔を見合わせて、またゲラゲラと笑った。
「部活にちょっとくらい顔出してみる」という山田を、僕は見送る。
「実はさ、つるんでたやつらと喧嘩してて。でも、黒絵と話してたら、何か元気出た」
「うん、良かった」
じゃあな、と僕たちは言い合って分かれる。
僕は山田に犯人の心当たりを聞くことはしなかった。たぶん、それは意味のないことだと思ったからだ。
僕はもう、白雪を殺した犯人が誰か分かっていた。
◆
この一週間、僕は「白雪」について聞いて周った。「白雪」が周囲からどう思われていたのか、彼女を殺しそうな人はいないのか、それについて皆から聞いた。
分かったことがいくつかある。
「白雪」はみんなから好かれていた。「白雪」を嫌う人は、僕の調べた限りいなかった。もしかしたら、皆が嘘をついている可能性はある。
でも、自分より下の「黒絵」に対して、露骨に隠し事をするような人はあまりいない。
それに、僕は何となく、直感でその人が嘘をついているかどうか、分かるのだ。それは、「黒絵」が持つ、天性のものが、演じる僕にも備わっているからだろう。
それと、皆は「黒絵」をそれほど嫌ってはいなかった。確かに倦厭してたし、怖がっていたところはあると思う。でも、それは皆がそういうふうに外面を作るからそうであって、個人個人で話してみると、彼らは「黒絵」を一人の同級生として扱った。
「黒絵」は誰からも嫌われていた。でも、誰からも好かれていなかったわけではないのだ。
そして、それは「白雪」にも言える。
「白雪」はみんなから好かれていた。でも、みんなから嫌われていなかったわけではない。
「白雪」を嫌悪している人も確かにいた。「白雪」の才能とか地位とか名声とか、そういう人を妬んでいる人も、確かにいた。でも、みんなそれを隠して、「白雪」を好きでいた。
でも、それだけだ。「黒絵」が嫌われていたけど憎まれていなかったように、「白雪」は好かれていたけど、憎まれるくらいに関心を持たれることもなかった。
みんなにとって、「白雪」はただの同級生で、それ以上でも以下でもなかった。
だから、「白雪」が死んで、悲しんだ人はいたし、喜んだ人もいたけど、でも、それ以上の人はいなかったんだ。机に花を添えるくらいなことをして、犯人探しをする「黒絵」を応援する人はいても、それ以上をしようとする人はいない。
「白雪」はきっと、「黒絵」以外の誰からも愛されていたわけではなかった。
その事実を知った僕は、何だか少し寂しかった。自分の見ていた世界が、いかに狭いものだったかということを知ってしまったから。
「白雪」にとって最愛だった「黒絵」も、「黒絵」にとって最愛だった「白雪」も、みんなからしてみれば、ごくありふれた少女でしかなかったんだ。
どれだけ優秀だとしても、どれだけ劣等だとしても、それは変わらない。
世界は僕たちに対して、あまりにも無関心だった。
でも、例外がある。
「白雪」を愛した人がいる。
「黒絵」を憎んだ人がいる。
それはこの世界における、例外だ。
だから、その人が彼女を殺した。彼女を殺したんだ。
ねえ、教えてよ。
「おばあちゃん。どうして、おばあちゃんは『黒絵』を殺したの?」
おばあちゃんは、にっこりと笑う。そして、「白雪ちゃん、今日は雨は降らないだろうねぇ」と、本当にどうでもいいことを、さも大事なことのように、呟いた。
◆
日が沈んだころ、僕は――いや、私は祖母の家を訪れた。
祖母が彼女を殺した人間だと考えたのは、消去法だ。私か黒絵、どちらかに強い関心があるのは、母親と父親、そして祖母だ。
けれど、両親は私を愛している。その愛は歪んでいるけれど、殺意に結びつくものではないと私は感じている。だから、両親は白雪を殺さない。彼らが殺すとすれば、黒絵だ。でも、あのときの黒絵は、「白雪」だった。
残る祖母は私と黒絵の見分けをつけることができる。
殺されたのは「白雪」じゃない。
殺されたのは「黒絵」だった。
ぴちょん、という水の音が、祖母の家を不気味に響いた。祖母はいつものように、微笑みを浮かべている。そして、黒絵の姿の私を「白雪」と言った。
「ねえ、おばあちゃん。どうして、おばあちゃんは黒絵を殺したの?」
私は質問を繰り返す。祖母は、相変わらず、微笑んでいた。
ぴちょん、という水の音が、何回響いただろうか。ずいぶん時間が経ったように感じる。もしかすると、それほど経っていないかもしれない。祖母が、「白雪は私の理想なんだよ」と口を開いた。
「白雪はね、私の大事な大事な、孫なんだよ。だから、そのために、みんなから愛されるように、生贄が必要だった」
「……生贄?」
「そう、生贄」
祖母は、にんまりと黄色い歯を出して、笑う。こちらに歩み寄ると、しわくちゃの手で、私の頬を包んだ。
「可愛い可愛い、私の白雪。でも、このままじゃ、誰も愛してくれない。あなたは確かに優秀だけど、人並み外れているわけじゃない。だから、比べるものが必要だったんだよ。それが、黒絵。あの愚かな生贄さ」
ああ、と私は理解する。
全てを理解した。
だからか。だから、彼女は飛ぶのをやめたのだ。
「黒絵は、貴女に言われて、無能を演じてたのね」
それが正解と言わんばかりに、祖母は笑みを濃くした。「さすが私の白雪」とくしゃくしゃと私の頭を撫でる。
それが、堪らなく不愉快だった。
「でも、愚かな生贄は、演じるのを辞める、と言ったんだ。『こんなことをしても、白雪は誰からも愛されない』なんて馬鹿げた言い訳をしてさぁ。本当に、愚かだ。だから、利用価値がなくなったから、殺した。それだけだよ」
そう、と私はうなずく。
もう、どうでも良かった。黒絵は何を思って無能を演じていたのか。私よりも優秀な彼女は、どうして他人から馬鹿にされなくてはいけなかったのか。何で、誰からも愛されない自分なんてものを演じていたのか。
私のために、そんな馬鹿なことをしていたのか。
「これからは黒絵がいないから、白雪はもっと周りから愛されるように頑張らないとねぇ。こんな汚らしい格好をしてちゃ、ダメだよ? 黒絵の愚かさが移ってしまう。さあ、こっちへおいで。可愛らしい服を用意してあるひゃふ」
「黙れ」
私は文字通り、一閃を持ってして、祖母の言葉を遮る。望月のときとは違い、殺すためにカッターナイフを振る。
それでお終いだ。狂った老人は血を撒き散らしながら、「シラユキシラユキシラユキシラユキシラユキシラユキシラユキシラユキシラユキシラユキシラユキシラユキ」と呪詛のように繰り返しながら、物言わぬ肉体へと変わった。
私はカッターナイフの刃をしまいながら、ため息をつく。
くだらない。馬鹿らしい。私と黒絵は、こんな狂った親と祖母の思惑のために、二人ぼっちだったのだろうか。
黒絵は犬死だ。
きっと、彼女は自分が死ぬことで、私をこの歪んだ鳥かごから開放しようとしたのだろう。彼女が死ぬことで、私は誰かと入れ替わることができなくなった。私は私として生きるしかできなくなった。
もう、逃げられないのだ。
これから、私はどうやって生きよう。「白雪」として生きるのか、「黒絵」として生きるのか。どのみち、人殺しである私に、ろくな人生は待っていないだろう。
「でも、いいや」
笑う。笑ってやる。「よっしゃあー!」と叫んでやる。間違っても、「救ってよ」なんて言ってやらない。
クズみたいな一匹の蝶には、ろくでもない人生がお似合いだ。
だから、生まれ変わってやる。本当の意味で、蝶になってやるんだ。
白から黒へ。そして、何色でもない自分に、変わってやる。
もう、愛されたいなんて願わない。愛したいなんて願わない。愛したい人は死んだ。愛されたい人は死んだ。
一人だ。一人だけど二人だ。
だから、寂しくなんかない。
覚えてやがれ、糞虫どもめ。
黒蝶