変わり者の二人 (原稿用紙30枚)
作家でごはん!鍛錬場にて投稿した作品です。
ごとん。
秋の夕日に染まった廊下を急いでいた僕は、だれもいないはずの空き教室に人の気配を感じて立ち止まった。何か重いものを置く音が、かすかに聞こえた気がしたのだ。
僕は昔から人よりすこしだけ好奇心が強い。今日もこんな空き教室で一体だれが何をしているのかがどうしても気になってしまい、ちょっとだけ覗いてみることにしたのだった。
鍵の壊れたスライド式の扉を少しだけ開き、そのすき間から中を伺う。埃の積もった机や椅子が目に入ってきた。壊れた様々な備品が邪魔で中にいる人物の姿が見えない。積み重なった机の向こう側で何者かがしゃがみ込み、ごそごそと動いているのがかろうじて見えるだけだ。机の隙間から安っぽい道具箱のようなものが見える。目を凝らすと、道具箱の中身がわずかに分かった。――大きめのドライバーや金槌、釘抜きなどの日曜大工道具。ネジや釘などを入れるのに使う小さなプラスチックの容器も入っているようだ。
今度はことん、という小さな音が響いた。机の下から伸びてきた手が、赤い柄のごついドライバーをひとつ机の上に置いたのだ。その手は道具箱を探ると、透明なプラスチック容器を掴んで再び机の下に消えた。
この位置からではよく見えない。謎の人物が誰なのか気になった僕は音を立てないようにもう少し大きめに扉を開けた。机の影の人物の姿がかろうじて目に入ってくる。
紺色のスカートが目に入った。女子生徒だったのか、と僕は少し驚いた。彼女は再び赤い柄のドライバーを握り、机を覗きこんでいるようだ。
ドライバーを持ってこの教室で机に向かっている……ということは彼女がやっていることは一つしか考えられない。きっと壊れた机を修理しているのだろう。厚生委員の仕事だろうか? いや、そうだとしてもなにも独りでやることはないし、もうすぐ下校時刻になる。委員会の活動時間はとうに終わっていていいはずだ。では、彼女はなぜ机を直しているのだろう。気になって仕方がない。声をかけようか、どうしようか……と悩んでいる間に、その少女は机の修理を終え、立ち上がって片付けを始めてしまった。僕はついに音を立てて扉を引き、空き教室に踏み込んだ。
少女が少し驚いた表情でこちらを振り返り、僕は初めて彼女を正面から見た。首の動きにわずかに遅れて宙に舞った黒髪が、色白な頬にかかる。軽く見開かれた目はまるで僕を射通そうとしているかのように鋭く、僕は無言で糾弾されているかような錯覚に陥った。それと同時に、僕は彼女をどこかで見たことがある気がした。それも幾度と無く、毎日のように。しかし、彼女が誰なのかは全く思い出せなかった。
僕が言葉を口にする前に、少女が口を開いた。
「私に、何か用なの?」
少し高めの声。僕はそのそっけない言葉にあわてて答えた。
「いや、用があるわけじゃないんだ。……ただ、こんなとこで何をしてるのかなって思って」
僕の間抜けな問いに対し、少女は道具箱の脇のドライバーをこちらに見せながら答える。
「見て分からない? 机の修理をしていただけ。あなたこそ、何をしているの? もうすぐ下校時刻じゃない。こんなところで油を売っている暇はないと思うよ」
僕は時計を見た。下校時刻まであと五分もない。下校時刻を過ぎると生活指導のおっかない先生に怒鳴られるはめになるだろう。それはぜひとも避けたいところだ。しかし、それでも僕の好奇心はどうしても収まってくれなかった。
「僕は部活の片付けが遅れて帰る途中だったんだけど、この教室に人がいるのが珍しかったもんだからつい気になっちゃって。それ、厚生委員の仕事?」
「違う。厚生委員なんて清掃の時間にちゃんと掃除しろーって声かけるだけじゃない」
「それじゃ、なんで修理なんてしてるの? 先生に頼まれたの?」
「先生? 先生には止められたよ。その教室の机は処分予定だから直しても無駄だ、って言ってた。まだ全然使えるのに」
「じゃ、なんで……?」
僕の言葉に対し、彼女は一瞬躊躇してから、こう答えた。
「どうだっていいでしょ? あなたには関係ないんだから」
僕が次の言葉を放つ前にチャイムが高らかに鳴り響いた。目の前の少女はため息と共に僕を非難がましい目で見た。
「どうしてくれるの? あなたが声をかけたから下校時刻過ぎちゃった」
「ご、ごめん。」
「まあいいわ。下校時刻過ぎるのなんていつものことだし。ほら、さっさと行きましょ、先生に怒られに」
少女はスカートの裾をひるがえすと、僕の横を通り抜けて昇降口へと向かって行ってしまった。僕は慌ててその後を追いかける。
結局、生活指導の先生に二人並んで怒られるはめになった。横で同じように説教を食らっている女の子が何故机を修理していたのか、正確なことは分からずじまいだった。
そんなことがあってから僕は彼女を校内の様々な場所でよく見かけるようになった。散乱したゴミを片付けているところや、朽ちかけのベンチの飛び出た釘の先を潰しているところ、靴箱の上に置きっぱなしの雑巾を撤去しているところ、なくなった石鹸を新しく換えているところ。誰もが一瞬不快に思い、そしてすぐに忘れていくごくごく小さな問題を、彼女は解決して回っているようだった。
彼女はまるでずっと同じ事を繰り返しているような慣れた手つきでそれらを行なっていた。実際慣れているのだろう。僕が彼女に感じた既視感は気のせいなどではなかったのだ。僕は、いや、僕たちほとんどの生徒は彼女を意識して見たことがなかっただけで、彼女はいつもそうやって皆が快適に生活できるようにあちこちを整備して回っているに違いなかった。
朝に詰まっていた流し台は昼休みには掃除されていたし、自販機の周囲に散らばった空き缶は放課後までにはなくなっていた。僕たちはそれが当然だと思っていたけれど、それはずっと彼女がやっていたことだったのだろうか?
好奇心を抑えきれず、僕はまた彼女に声をかける。
「ねえ」
「……なに?」
前回と同じくそっけない表情で振り返る彼女の手に握られているのは雑巾だった。体育の授業の後なのか、あるいはわざわざ掃除のために着替えたのかは分からないが、彼女は紺色のジャージを着ていた。それだけではなく薄手で渋染の日本手拭いを頭に巻いている。
彼女は拭いていた窓から一旦離れ、床においてあったクレンザーを手に取った。僕の方を見たのは一瞬で、粉状のクレンザーを雑巾に吹きかけるとすぐに窓拭きに戻る。
「昨日詰まってた流し台を掃除したのって、君なの?」
僕の台詞が予想外だったらしく、彼女は一瞬焦り、言葉に詰まったように見えた。その証拠に、次に彼女の口から放たれた質問は少し早口になっていた。
「なんで私だって思ったの?」
「用務員のおじさんに訊いたらやってないって言ったから、君がやったのかなって思ったんだけど……」
彼女はこちらを一瞬見た。雑巾をバケツに突っ込み、洗いながらこちらを見ずに答える。
「そう。あれは私がやった。最近、用務員さんは壊れたロッカーを直すのに忙しいから。なにか問題あった?」
「ううん。昨日使おうとして困ったから、掃除してくれたならお礼が言いたくて」
彼女は雑巾を固く絞ると、再びクレンザーを含ませてから僕に手渡した。
「礼なんていうくらいなら手伝ってよ。けっこう大変なんだから」
「わ、わかった」
僕は彼女から受け取った雑巾を手に取り、となりの窓にとりかかった。横目で彼女を見ると、彼女はバケツを持ってさっさと歩いて行ってしまう。バケツの水を換えにいくのだろうか。
窓を拭きながら僕はいろいろなことを考えた。まず最初に考えたのは窓を拭くのが意外に重労働だということだ。疲れる。次に考えたのはなんでこの窓はこんなに汚れているのだろうかということだった。一体何ヶ月掃除をしていないのだろう。最後に考えたのは、なんで僕はこんなことをしているのだろうということだった。なぜ僕は名前も知らない少女の手伝いでこんな重労働をしているのか。それよりなにより、なぜ彼女はこんな面倒なことをずっと続けているのだろうか。
窓の向こうでたくさんの生徒が校門を通って下校していく。傾いていた太陽は赤く染まり始め、西の空から放たれる光が窓に当たり、汚れを際立たせる。より鮮明になった汚れを、僕は躍起になって落とし続けた。
次の窓に取り掛かろうとして、すでに全ての窓を掃除し終わっていたことに気づいた。雑巾を見ると真っ黒に汚れている。床におかれたクレンザーの容器も少し軽くなった気がする。
「お疲れ様」
急に後ろから掛けられた声に驚き、振り返った。僕に声を掛けたのは、この雑巾を渡した少女だった。
「ありがと。あなたが手伝ってくれたから流し台も掃除できた。……ねえ、なんで手伝ってくれたの? 確かに私は手伝ってって頼んだけど、当然断ると思ってたよ」
僕は意味もなく宙を仰いだ。彼女の質問に対する明確な答えを持っていなかったのだ。
「なんでかな。君がなんでこんなことをしているのか知りたかったからかもしれない」
少女なきょとんとした目で僕を見た。強い眼光が不意に弱まり、厳しそうな印象が薄れる。
「そんな理由で? 窓拭きって大変でしょ? なんでそこまでしてそんなことが知りたいなんて思ったの?」
「好奇心だよ、ただの好奇心」
彼女は呆れたようにため息をついた。
「そう。で、分かったの? 私がこんなことをしている理由」
「いや、さっぱり。……ねえ、なんでこんなことしてるの?」
少女は僕の手から雑巾を奪い、バケツの中に放り込みながらそれに答え始めた。
「この学校は他の学校よりかなり大きな規模だっていうのは分かってるよね」
僕は無言で頷く。彼女は僕をちらりと見てからクレンザーの容器もバケツに放り込み、続けた。
「それなのに清掃時間は一日にたった十分だから汚れはどんどん溜まっていく。それだけじゃない。用務員さんは一人しかいないし、備品にかける金も少ない。当然備品は質の低いものが集まるから壊れやすいのに、直す人が一人しかいないんだから手がまわらないのよ。それで、ずーっと壊れたままなわけ」
僕はあの空き教室のたくさんの机を思い出した。どれもが簡単に直せそうな壊れ方なのに、直す人もいないから積み上がったままなのだ。
「それで、しょうがないから私がやることにしたの。それだけ」
「え……でも、なにも君がやらなくてもいいんじゃ……?」
「いろんな所に言ったんだけど、みんな私の言うことなんて聞いてくれないのよ。清掃時間については厚生委員会にも先生方にも提案したけど、授業時間の関係でこれ以上の時間は割けないって。備品の方も同じ。先生方は新しいのを買うから放っておけっていうけど、新しいのだってどうせ安いのしか買わないんだからすぐ壊れるに決まってる。ゴミ処理にだってお金がかかるし、それに回す予算なんてないから、また空き教室に積み上げるだけ。結果的に空き教室がちょっと壊れただけの机とか椅子とかで埋まっていく、それじゃなんの解決にもならないでしょ? 生徒会の意見箱にも『備品にもっと予算を回してください』って書いて入れたけど、貼りだされた返答は『前向きに検討します』だけだった。いつまでたってもそれ以上の回答がないんだから、私がやるしかないのよ」
彼女はため息をつきながら頭に巻いていた渋染の日本手ぬぐいを解いた。手ぬぐいで押さえつけられていた黒髪が宙に舞う。彼女はその手ぬぐいを畳むと例の道具箱にしまった。たしかその道具箱には釘やネジなどの消耗品も入っていたはずで……
「道具代は?」
「自腹よ」
僕はさすがにおかしいと感じた。この少女はなぜそこまでしてこの学校を整備しようとするのだろう。抑えきれない好奇心が僕の口を再び開かせた。
「おかしいよ、そんなの。だって君ばっかりが損してるじゃん。そこまでしてこの学校のために頑張る理由ってなんなの?」
「なんだっていいでしょ、そんなの。あなたには関係ないんだから」
「そりゃそうかもしれないけどさ。気になるじゃん」
彼女は一瞬戸惑い、視線を僕に向けた。少し間があってから、彼女はゆっくりと話し始めた。
「まあ、大した理由でもないし、別に教えてもいいけど。……この学校、私の父さんの母校なの。ずっとここに憧れて育ってきた。それなのに、いざ入ってみたら、なんか違うの。違和感があるのよ。父さんが楽しそうに教えてくれた、父さんが学生だったころの学校と、ぜんぜん違うの」
先ほどの僕と同じように、彼女も言葉を探すように宙を仰いだ。
「一番おかしいのは生徒会かな。生徒主体の学校を、自治の精神をって言ってるけど、なんか薄っぺらいの。私が意見箱に入れた意見はいつまでたっても反映されないし、直接訴えに行ってもだれも相手にしてくれない。私はずっと憧れてたこの学校がそんないやな場所だって信じたくないの。だから、いつか良くなることを目指して、せめて私ができることをこうやっていろいろやってるわけ」
道具箱を持ち上げると、彼女は立ち上がった。
「私がどんなに頑張ったところでこの学校を変えることなんてできないから、こうやってできることを続けるしかないの。それじゃ、私はもう行くね」
去ろうとする彼女の後ろ姿に、僕は呼びかけた。
「ねえ、また手伝ってもいい?」
彼女は振り返ることもなく答えた。
「好きにすれば? 私に止める権利はないんだし」
それから僕は見かける度に彼女を手伝うようになった。詰まった流し台の掃除をしていればバケツを持ってきてあげたり、ゴミ拾いをしているのを見れば拾うのを手伝ってあげた。壊れた机を空き教室に運んだ時は『未修理』の紙を貼って分かりやすくしたし、調理実習の後片付けの手伝いもした。
そして、『手伝ってあげる』という意識がいつの間にか『手伝う』だけになっていった。僕はいつしか彼女の真似をするかのように、自分から様々な整備をするようになった。
ゴミが散らばっていれば片付ける。石鹸がなくなっていれば新しいのを持ってくる。ゴミ箱がいっぱいだったらゴミステーションに運ぶ。
そして、そのうち彼女のほうも僕を手伝うようになった。二束のダンボールの資源ごみを運んでいれば無言で一束奪ってゴミステーションに運んでくれたし、枯葉を掃き集めていればゴミ袋を持ってきてくれた。図書館で机に置きっぱなしの本の山を本棚に戻していた時は、いつの間にかやってきて山の半分を片付けてくれたこともあった。
しかし、それでもそれだけだった。僕と彼女の二人ではできることに限りがある。直すべき問題点は至る所にあり、僕たち二人だけでは太刀打ちができなかったのだ。なんとかしたい、でもなんともできない。このもどかしさを共有していた僕と彼女は、この状況を打破するために様々な手段を講じた。ゴミ箱の側に張り紙をしてゴミをきちんとゴミ箱に入れるように呼びかけたり、図書館の机に本を片付けてくださいと書いた紙を貼り付けたり。
改善はされなかった。張り紙は剥がされ、代わりに生徒会の掲示板に『張り紙を貼る際には生徒会本部への申請が必要です。申請のなかった張り紙は生徒会則違反として撤去させていただきました』という文字が踊った時、僕はあまりの怒りに自分の足元が震えるのを感じた。この張り紙を剥がした人は校則違反を取り締まっただけなのだということは重々承知だったけれど、僕は理不尽さを感じずにはいられなかった。
もちろん僕はその足で生徒会本部に向かった。今度はきちんとした申請の上で張り紙をするために。しかし、生徒会本部のトップである生徒会長は、僕の張り紙を見ると鼻で笑ってこう言ったのだ。一般生徒が気にすることではない、厚生委員会がしかるべき処置を取るだろう、と。
だから、今に至る。
「私が、生徒会長に?」
「そう。僕と君だけじゃこの学校はいつまでたってもこのままだ。この学校の生徒会は生徒の訴えを聞こうとしない。この前の張り紙だって、あんなのを剥がして回ってる暇があれば他にやることがあるだろうに」
僕はなんとしてでもこの学校を変えてみせるという強い決意を決め、彼女を探して例の空き教室を訪れていた。僕と彼女は修理したばかりの机を挟んで向かい合い、初めてこの学校について話し合った。思えば、僕と彼女は雑談すら交わしたことがなかった。互いの名前さえ知らないままなのだ。
「張り紙?」
「そう、張り紙。自販機のゴミ箱とか図書館の机とかに貼っておいたやつ、みんな撤去されてた」
「じゃあ、ゴミステーションに貼ったのが剥がされちゃったのって、いたずらじゃなかったんだ」
少女は悲しげに俯いた。前髪が彼女の顔を覆い、その表情に更なる影を落とす。
「今のままの生徒会じゃ駄目だ。僕たちが変えるんだ、この学校を」
僕の言葉を聞いた彼女は、しかし乗り気には見えなかった。
「無理だよ。私は生徒会長なんてできないよ。」
「僕が君の推薦責任者になるよ。この学校を変えたいんでしょ? 良くしたいんだよね?」
「それは確かにそうだよ。でも、私は誰かに偉そうに指図するようなの嫌だし。こうやってこつこつ自分にできることをやってくほうが性に合ってるから」
「これまでもずっとそうやってきたんだよね。それでこの学校は変ったの? 君が独りで頑張っても駄目なんだよ。この学校を本当に変えたいなら、生徒会を変えないとどうしようもないんだ」
少女は不意に顔を上げて僕を見た。その目に以前のような鋭さはない。強さを失った瞳が、弱々しく彼女の気持ちを伝えてくる。
……そんな目で、僕を見るな。
「私にはあなたみたいな行動力はないもん。あなたみたいに、気になったからって言って顔も知らない人に話しかけるような勇気すらない。私はただただ誰の迷惑にもならないように、自分がしたいことをこっそりと続けるだけ」
その小さな口から吐き出された言葉は、僕が信じていた彼女の強さとは程遠かった。
「私にできることは、この両の手がとどく範囲のことだけなんだよ。机を直したり、窓拭きをしたり、そんな程度。これくらいなら許されるかなって張り紙を作ったけど、それも駄目みたい。あなたは私に期待してるみたいだけど、私にはこの学校を変える力なんてないんだよ。だから」
彼女は耐えかねたように言葉を切り、立ち上がった。踵を返すと、一言だけ残し、鍵に壊れた扉から走り去る。
「ごめんね」
生徒会長選挙が始まった。僕は数少ない友達の一人に頼みこんで推薦責任者になってもらい、ろくな政策も考えないままに出馬を決めた。僕の友達はみんな、僕が本気で選挙戦に出馬したとは思わなかったようだ。
今回の生徒会長選挙は候補者が一人しかいなかったため、生徒たちは突然現れたもう一人の無名の候補者に驚いたようだった。僕は一気に注目の的となった。どこに居ても誰かの視線を感じたし、居心地が悪くてたまらなかった。
ただただ、がむしゃらだった。僕は一人の少女の、この学校に対する思いを叶えるために必死に働いた。
「この学校の生徒会の現状をおかしいと思いませんか。意見箱は形骸化し、生徒会には生徒たち一人ひとりの声を聞き届けようとする意思が感じられません。いまこそ、この学校の古き良き『自治』の精神を呼び覚ます時ではないでしょうか!」
昇降口での公開演説で、僕は喉が枯れるまで叫んだ。
「ありがとうございます。ご静聴、感謝します! 私が生徒会長となった暁には、この学校をより暮らしやすくするために、次のような公約を実践することを約束いたします。手元の資料を御覧ください……」
講堂での演説では、備品にかける生徒会予算額の増額と清掃時間の延長を主な改善点として上げた。
「そんな政策で、廃れてしまった『自治』の精神が私たちの手に戻ってくると思っているのですか? あなたの掲げる公約の『自治』では生徒一人ひとりの意見を学校全体に反映させることはできません!」
公開討論会で、僕は『自治』の観点から対立候補の演説の矛盾点を必死に言及した。
そして……選挙当日。
無効票含め、投票率82.9%。僕の得票率、34.4%。対立候補の得票率、47.2%。
結果は、惨敗だった。
僕は再び空き教室で彼女と机一つを挟んで向かい合っていた。
「無理、だったよ。あはは、あそこまで得票数に差がでるとは思わなかったな。なにがいけなかったんだろ」
自嘲気味に笑う僕を、彼女はいつかと同じ、鋭い目で見つめた。鋭い視線の中に、僕は優しさを感じた。
「あれじゃ無理よ。あなたの言うことは確かに正論だったけど、普通の生徒にとっては得するところなんてないもん。ただでさえ少ない部費を減らされるだけじゃなくて、苦痛でしかない清掃時間を増やされるんだよ?」
「苦痛、かなあ。僕は楽しかったけどね、君と一緒にいろいろするのって。言葉を交わしたことなんて一度もなかったけどさ」
彼女は嬉しそうに笑った。ひとしきり笑うと、彼女はすっくと立ち上がった。
「やっぱり、私には私ができることを続けるしかないんだよ。さあ、今日中に机を三つ、直しちゃおうよ。はい、ドライバー」
僕は彼女に手渡されたドライバーを見つめた。無骨な赤い柄のNo.1ドライバー。間違いなく、僕が初めて彼女と出会った日に彼女が握っていたものだった。
僕と彼女は、無言で机の修理に没頭した。傾いた日差しが汚れた窓を通して降り注ぐ。沈黙が心地よかった。この空間だけは、僕と彼女が卒業するまでずっと変わらないんじゃないかとすら思えた。でも、全ては変わりゆくのだ。彼女が僕を変えたように、彼女を中心にこの学校は変わり始めている。
扉を開く音が響いた。僕と彼女は驚いて振り返る。そこには二人の少年と一人の少女が立っていた。
「私たちに、何か用?」
僕が言葉を口にする前に、彼女が口を開いた。
彼らは、僕の演説を聞いて今までの備品管理や清掃体制に疑問を持ったのだと話した。
二人は五人になった。活動範囲も広がったし、お金を持ち寄ることで少し高額な工具も揃い、直せる備品も増えた。
新生徒会長は理解のある人で、僕のことを生徒会選挙で共に戦ったライバルとして認めてくれた。彼は僕たち五人の活動のことを知ると、すぐさま部活動として申請することを提案した。なんの目標もない部活なのだから本来承認されるはずはないのだが、彼は生徒会長という立場を生かして部活動として認めさせてしまったのだ。
部活動として認められた以上、予算も割り当てられる。消耗品の補充も充実したし、なにより僕たちは学校公認の活動として堂々と学校の整備を進められるようになった。『整備部』というもっともらしい名前まで頂いた。驚いたことに、生徒会長自らも整備部に所属することになった。彼は生徒会の仕事に忙しくなかなか部活に顔を出せなかったが、それでも僕たちと並んで一緒に掃除をしたこともあった。
「なんで選挙に出よう、なんて思ったの? ううん、それ以前に、なんでこんな私の手伝いなんてしようと思ったの?」
ふたりきりの空き教室で、彼女はいつものように僕に尋ねた。
「なんでかなあ。好奇心かもね」
彼女の口元にわずかに笑みが浮かんだ。
「好奇心、好奇心ってあなたそればっかりじゃない。一体なにに対する好奇心なの」
「君に対する、さ。なんでこの子はこんなに一生懸命なんだろう、ってね」
彼女は少し不思議そうな顔になった。
「あなたって変わってるね」
「よく言われる」
ちょっと笑うと、僕は彼女に尋ね返した。
「そういえば、いままでずっと聞きたくて聞きそびれてたことがあるんだけど」
彼女は小首をかしげ、先を促した。
「君の名前、なんて言うの?」
すると彼女は呆れたようにため息をつく。
「知らなかったの? 私は君の名前をとっくに知ってたのに」
「いや、聞く機会もなかったし」
彼女は、今度は僕にも聞こえるくらい大きな声でため息をついてみせた。ついでに肩をすくめて、『これだからあなたは』とでも言いたげな視線を送ってくる。
「今まで知らなくてなんとかなってたんだから、これからも知らなくても大丈夫でしょ」
そんな無茶な、と僕はこぼした。彼女は楽しそうに笑った。
でも……と僕は考える。それもいいかもしれない、と。彼女と一緒にいる時ほど充実していると感じたときはなかった。彼女に出会って、彼女の考えに感化されて、僕は彼女のためだけに生徒会長選挙にまで乗り出したのだ。つまり、僕の、彼女に対するこの気持ちはそういうものなのだろう。
――名前も知らない相手に愛の告白をするのもおもしろい。
「ねえ。それじゃ、ちょっと聞いてくれないかな。僕の気持ちを」
彼女はひとしきり笑うと、僕の言葉を待つように僕の方を見た。期せずして見つめ合う形になる。
「僕は、君のことが……」
汚れた窓を通して、膨らみかけの桜の蕾が見える。僕は新しい季節の始まりを予感していた。
変わり者の二人 (原稿用紙30枚)