王剣伝説
ファンタジー小説の王道を地でいく物語……にしたいと思っています。
物語の舞台は、九つの種族が暮らす大陸フェレリア。
ここには、種族間で分かたれた幾つもの国家があり、それをまとめたさらにもう一回り大きなまとまりを、国としています。
正式には、タステリアやアルタイト、エルドロンは国ではありません。
帝国や共和国と同じで、国が幾つも集まって出来たまとまりと考えて下さい。
序章
その昔、ティレシア大陸には緑栄える笛の音の国があった。
人は自然と栄え、獣と戯れ、神を敬い、生に喜び、一日という数ある一生を謳歌していた。
王都の中心には、光輝く大理石の噴水と、それを取り囲む豊かな自然庭園。
国中は、四方に緑が溢れ、例え王宮の最奥にかしこまっていても、窓から覗く深緑の森の木々が臨めたという。
王も臣民も天の恩恵と、余りあるほどの幸福とを一身に浴び、何者にも脅かされることのない、至福の毎日を送っていた。
しかし、それらの幸福は簡単に打ち砕かれる事になる。
海を渡って現れた漆黒の軍勢。
どこからともなく現れた、「猛き黒竜の軍」によって、森林は焼かれ、楽園都市は蹂躙された。
冥王と呼ばれたマルディン・ザッハークの治めるオルデア帝国の侵攻だ。
それまで、脅威や争いと言う物を知らずに育ったティレシアの国々は瞬く間に帝国に敗れていった。
帝国は虐殺と略奪を繰り返しながら、大陸の中心を目指した。
エデンと思しき平和な大陸は、焼け焦げた枯れ地に姿を変え、かつて光を浴びた群青色の透き通るように美しい湖は、ともに在った人と獣たちの血で汚れ、そしていつしか魚一匹住むことの出来ない、死影の沼地となった。
こうして、破壊と殺戮の限りを尽くし、オルデア帝国の軍はついに、ティレシア大陸中心のエスリン王国の王都エルディランを襲撃した。
街は狂炎に包まれて三日三晩絶えず燃え続け、そして焦げ炭も残らぬ荒野となった。
オルデア帝国はさらに、王城エスリニアを踏襲した。
黒き軍勢は、日食のごとく白い神兵たちを飲み込み、あっという間に王城は征服された。
もはや残すは国王のみとなったオルデア兵達は、一斉にグロリアイトで造られた黒剣を抜き放ち、王に突き立てた。
王の胸が、栄華をほこった真紅のローブが、赤黒く染まる。
最早、定まらぬ意識の中で、王は傍らの妻と娘の死体を抱き寄せた。
そして、オルデアの軍勢に向かって、最後の力を振り絞って呪い文句を吐き捨てた。
これが、エスリニア軍最後にして最大の反撃であった。
そして、エスリン王の最初で最後の罪となった。
王宮の中庭にただ一つ、燃やされずに残っていた樹があった。
神樹として大切に育てられた月桂樹だ。
その樹を取り囲むようにして、獅子型の大理石の彫刻から、アムリタと呼ばれる聖水が昼夜絶えず流れ続けていた。
王が呪い文句を放ったまさにその時、オルデア兵も、力尽きたエスリニア兵も誰も気づかなかっただろう。
神樹の周りを流れるアムリタの水が黒く濁り出したのだ。
かつて透き通るように透明で、美しかった水は泥水のごとく濁り、蠢き出した。
やがて、泥水はみるみる増水し王宮中に広まった。
異変に気づいた時はすでに遅かった。
汚しつくされた国中の湖や噴水や池の水がごうごうと唸りを挙げて、王宮を、王都を、そして国中を飲み込んだ。
160と2日の間、ティレシア大陸は水の底に沈んだ。
微かな息吹すらも許さぬ死の水の底に……
うららかな昼下がり
「かくして、最栄をほこった東のティレシアは、死の大地へと変貌し、今では生物の寄り付かない影の大陸となった」
小高い緑の丘の上に腰を降ろしながら、老人は話していた。
すでに真っ白に染まった長い髪と髭は、座ったままだと、地面に触るほどだった。
体を覆う黒いローブに身を包み、背中を曲げて樫の木で出来た杖を片手に携えていた。
顔はシワだらけで壮年をとうにすぎていることを思わせ、長く伸びた髭が、その顔を一層老けて見せていた。
老人が話し終えると、周りに集まっていた若者達から一斉に拍手が送られた。
17歳の青年から、6歳の少年まで、町の若いのが揃ってこの老人の話を聞きにきていたのだ。
老人は、その拍手に小さな笑顔で応えて立ち上がった。
「今のは、もう1000年も昔のお伽話じゃ。
おぬしらの曾祖父さんが生まれるよりも、ずっと前の話しじゃな」
老人がそう言うと、話を聞いていた若者の一人が手をあげた。
茶髪に、サファイア色の闊達な瞳、白い肌着の上に焦茶色の袖なしのジャケットという身なり。
若者は名を、アリクシア・テンバートとと言った。
周りの友人たちからは、アルクという名前で親しまれている。
「それは、本当の話しなの?」
アルクがそう聞くと、老人は驚いたように目を見開いた。
そして、何がおかしかったのか、いきなり声をあげて笑い出した。
すると、周りに集まっていた若者達が釣られて全員笑い出す。
それを見て、アルクは少し恥ずかしそうに手を降ろした。
「この話が本当か、とな?
さあて、どうじゃろうな。
ほっほっほ。
信じるも、信じないも、おぬし次第じゃよ」
老人は、笑みを浮かべながらそう言うと、杖で地面をトントンと二回ついた。
「そら」
老人がそう言うと、地面から美しい光の柱が現れて、空に向かって伸びた。
その光はさらに、若者たちの頭上を何度か旋回したあと、まるで生き物のようにあちこち飛び回った。
それを見ていた若者たちから一斉に歓声があがる。
彼らがそれに見とれている隙に、老人は静かに丘を下っていった。
しかし、先ほどの若者、アルクだけはそれを目ざとく見つけて、老人の後をこっそりつけて行った。
老人は丘を降りると、しばらくまっすぐに歩き続けた。
それから、牛飼いのレフリンの牛舎を通り過ぎたところで、いきなり、ヒョイと右に曲がった。
若者は慌てて後を追って、老人が曲がった角を自分も曲がろうとしたが、何と、角を曲がった通りの先に、老人の姿はなかった。
若者が辺りを見回していると、突然後ろから声がした。
「わしならここじゃよ、アルク」
聞き覚えのある声に、アルクと呼ばれた若者は驚いて後ろを振り返る。
「わしを尾行したりして、一体何のつもりじゃ?」
そこには、先ほど確かに角を曲がったはずの老人が、しかめっ面をして立っていた。
「バナレフ!
これは……あっと……」
アルクは、言葉に詰まる。
老人の名はバナレフと言い、姓はない。
この他にこの老人について分かっている事は、世界中を流浪する旅人であり、どうやら魔法使いらしいということくらいだった。
「おぬしがいくら、人のあとをつける術に長けておっても、この魔法使いのじじいは騙せんぞ」
バナレフはそう言うと、また真っ直ぐ歩きはじめた。
アルクは、それを慌てて追う。
「ねえ、バナレフ。
もう、いいだろ?
僕にも魔法を教えてよ」
「人のあとをつけるような男に、魔法は教えられんな。
それに、おぬしはまだ17じゃろう。
魔法を教えられるのは、18の歳からと決まっておる」
「そう言わずにさぁ。
僕もバナレフみたいに魔法を使えるようになりたいよ。
かっこいい花火を出すところを、みんなに見せてやりたいんだ」
アルクがそう言うと、バナレフは立ち止まって、「ほっほっほ」と笑い出した。
そう思えば、いきなり真面目な顔に戻って言う。
「そんな下心のために、魔法を教えられるわけがなかろうが」
「で、でもさぁ、バナレフは魔法を覚える時に、下心の一つもなかったの?」
「ば、馬鹿者。
そんなものあるわけなかろうが」
バナレフは慌ててそう弁解する。
「ふーん……そう。
ま、いいや。
ねえバナレフ、旅はどうだった?」
アルクは嬉々として目を輝かせると、バナレフにそう聞いた。
「ん?
そうじゃのう。
話すと長くなるんでな。
それ、そこの草むらにでも腰を降ろそうかの」
バナレフはそう言って、歩いていた道を脇にそれ、草むらに座り込んだ。
アルクも、それに習って隣に座る。
バナレフはそれを見て、口を開いた。
「どこから話そうかの。
ふむ、以前会ったのは、2年前じゃったかの。
そう二年前、町を出たわしは、北へ馬を走らせたのじゃ」
バナレフはそれから、とても信じられないような冒険譚を、アルクに話して聞かせた。
アルタイト領の、凍てつくエルト山脈を住処にしていた、家より大きなウェンディゴの話。
岩場に囲まれた、炎の湖の話。
エルドロンの沼地に現れた、ドラゴンゾンビや、帰らずの森の人食い植物の話。
溶岩と海水が同時に湧き出る大自然の噴水の話や、黄泉の岩戸の最深部に広がる、果てなき地底神殿の話。
その全てが、アルクの好奇心を刺激し、興奮させた。
バナレフが話し終えた時、ちょうど二人の後ろを辻馬車が横切った。
空が茜色に染まり、日暮れ時の赤い海原を、烏たちが自由気ままに泳いでいた。
「僕も、そんな大冒険をしてみたいなぁ」
アルクはまだ、酒に酔ったようにうっとりしながらそう言った。
「そうじゃな。
外の世界を知るということは素晴らしいことじゃ。
おぬしも一度くらいは、外界を旅してみるべきかもしれんな。
最も、まだその時ではなかろうが」
「ねえ、バナレフ!
その時になったら旅に連れていってよ」
アルクが興奮気味にそう言うと、バナレフはまた、「ほっほっほ」と笑った。
「そうじゃの。
それが出来ればよいがのう」
バナレフの奇妙な物言いに、アルクは首を傾げた。
「え?どういう意味?」
「次の旅じゃよ」
「次の旅?
すぐに発つの?」
アルクがそう聞くと、バナレフは微笑みながら首を振った。
「いや、しばらくはここにいようと思っておる。
今回の旅はすこし疲れてしまってな。
ここはいい。
自然も文明も、丁度いいバランスによって保たれておる。
目を覚ませば、朝露の香りがする。
外に出てみれば、静かな草木の営みの中に生かされていることを実感できる。
寝床に入れば、虫の鳴き声や風の音に耳が安らぐ。
こんないい場所はなかなか無い。
しばらくは、ここで休息をとるつもりじゃ」
バナレフはそう言いながら、緑の町並みを見渡した。
アルクはそれを聞いて、安心したように笑った。
「なんだ、いいじゃないか。
でも、しばらく休んだあとは、またここを発つの?」
「そうじゃの。
今度は、東に行こうかと思っておる」
「ふーん」とアルクは頷くと、思い出したように、バナレフに言う。
「じ、じゃあさ、その旅が終わったら、今度こそ僕に魔法を教えてよ!」
アルクは嬉しそうにそう言ったが、バナレフは浮かない顔をしていた。
アルクは、そんなバナレフの表情を見てまた、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?バナレフ」
アルクが尋ねると、バナレフは不意をつかれたように体をピクっと動かし、そして穏やかに笑った。
「残念じゃが、それは出来そうにない」
「え?何でさ」
「次の旅。
帰りの予定はないんじゃよ。
おそらくわしの、最後の旅になるじゃろう」
「え……?」
アルクには、その言葉の意味が全く分からなかった。
「何で?どういう事?」
「わしも随分長い人生を通して、この世界を見て回ったが、わしに残された時間もいよいよ、あとわずかとなった。
歳は取りたくないものじゃがの。
かつては、ゲルググ、ツァバト、ブランヌなどと並び称されたこのわしも、今や死出の道を行くただの老いぼれにすぎん。
わしは、これまで歩んできた旅路と、これまで培ってきた知識とを、一つの書物にまとめ上げるつもりじゃ。
そして、その役目が終わった時、わしの役目も終わるじゃろう。
表舞台から消えるために、最後の旅に出ようと思う」
「じ、じゃあ、もう帰ってくる事はないの?」
「おそらくは、な」
バナレフはそう言うと、また小さく微笑んだ。
「そんな……。
バナレフ、魔法なんてどうでもいいからさ、ずっとここにいようよ」
アルクは、バナレフのローブの裾を引っ張ってそう言った。
しかし、バナレフは静かに首を振る。
「そうもいかんのじゃ。
おぬしも、時が経てばいずれ分かるようになるじゃろう。
ほっほっほ。
まあ、魔法を覚えたければ、いつか世界を見て回り、様々な知識を得るといい。
己を磨き上げるのじゃ。
さすれば、自ずと欲するものはおぬしの呼びかけに応えてくれるはずじゃ」
バナレフがそう言うと、アルクは頷いた。
そして、静かに夕日の沈んで行く地平線に目を向けた。
燃えるような赤い太陽が、今まさに西の地平線に沈んで行くところだった。
黄金の凱旋
この町は、トリスティア王国に仕える諸侯貴族の一人、バスティーユ伯爵の治めるバスティーユ領の中で、やや西方に位置していて、キリアスと呼ばれている。
少し北に行けば、一年中残雪の積もる高山脈デシア、別名“雪溶けを知らぬ山”が、クライス子爵の治めるクライス領との境界を分かちている。
北に高山脈があるおかげで、北風が吹かず、アルタイトの中でも比較的温暖な気候にあるこの町には、鉄と偶然の支配者ミロスを祀る祠が四方に立てられていて、町民たちは年に一度、この祠に巡礼をしにいく決まりがあった。
これは納税と同じくらい、厳格な制度だった。
ミロスは簡単に言えば戦神であり、武器を打つための鉄と、戦場での偶然、即ち運を司っているのだ。
バスティーユ伯爵は、取り立てて税などを高く厳しく定める男ではなかったが、大の戦争好きで知られていて、トリスティア王の招集があるたびに、嬉々として自慢の軍勢を引き連れ王都に赴くのだが、大抵はそれらの兵は泊まる宿もなく、窮屈な兵舎での数週間を余儀無くされた。
いざ、戦争となれば、年の収穫を左右するほど、大勢の男たちを徴収して兵士とし、自らが先頭を立って狂気繚乱とばかりに戦っていた。
いつ死んでもおかしくないような戦乱ぶりを評されるバスティーユ伯爵だが、今年ですでに58まで生きており、戦神ミロスの絶大な加護によるものだと言われている。
さて、そんな戦好きの伯爵が治めるキリアスの町の一人の青年、アルクの父親は、日が沈んでからも帰らない不良息子の無事を案じて、ソワソワと落ち着きがなかった。
それだけに、見前には出さなかったものの、アルクが帰ってきた時の安心感は、説明する言葉が、簡単には見つからないほどのものだった。
「た、ただいま〜」
アルクが、そおっとドアを開けると、どっかりとドアの方を向いて椅子に仁王立ち、いや仁王座りしている父親の姿があった。
彼の茶髪は父親譲りだったが、青い瞳と中背は母親似だった。
父親はデシア山脈の鉱山で働いており、体つきがガッシリとしていて、背もかなり高い。
「遅い!
こんな時間まで、どこをほっつき歩いていたんだ!
この不良息子め!」
父親は、低く厳しい声で怒鳴る。
彼の父親、名をジョシュアと言った。
アルクはビクっとして、慌てて謝る。
「ご、ごめん、バナレフの話を聞いていたら、つい遅くなっちゃって」
アルクがそう説明すると、ジョシュアは驚いたように立ち上がった。
「何、バナレフ?
彼が、帰ってきていたのか?」
「え?ああ、うん。
昨日の夜、着いたらしいよ」
アルクの言葉に、ジョシュアは途端に嬉しそうに破顔し、笑い声をあげた。
「はっはっは。
バナレフも人が悪い。
帰って来ていたんなら、言ってくれりゃあ良かったのに。
かつての友人によ」
自分の父親が、あの魔法使いと友人だったということは、アルクも知っていた。
昔、父親がまだ若い頃、共に旅をしたことがあったそうな。
しかし、その時から、バナレフの見た目は全く変わっていないらしい。
「飯は台所にパンとハム、それにサラダが置いてある。
俺はもう寝るが、体を洗いたいんなら、外の桶から水を汲んできてあっためな。
次、こんな時間に帰ってきたら、今度こそ承知しないからな。
日没前には家に戻れ。
いいな?」
口ではそう言っていたが、すっかり機嫌が直ったのか、嬉しそうな表情でそう言うので、何も説得力はなかった。
しかし、アルクは素直に頷いておいた。
「はい、父さん」
それからアルクは、台所にあったパンにハムと野菜を挟んだ、簡単なサンドイッチを作って、ペロリと平らげた。
年頃の青年だ、これだけでは無論満腹というわけにはいかなかった。
しかしこの時代、まさか息子が食卓の粗末さに文句をつけられる訳もなく、アルクは黙って口の周りを舌で舐めたあと、毛布を床に敷いて、その上に寝転がった。
薄暗い天井を眺めながら、アルクはため息をついた。
毎夜、この時間床につくと、母親の姿が頭をよぎるのだ。
彼の母親は数年前、敵国ローレランとの戦争の際、殺された。
彼には、亡骸さえ拝ませてもらうことを許されなかった。
それ以来、床につく時間になると、幼い頃自分を寝かしつけていた母親の顔が頭に浮かぶのだ。
母親が生きている時には、一度として思い出すことのないような、ありふれた記憶だったのだが。
アルクは、取り払うようにもう一度ため息をつき、そしてまぶたを閉じた。
忘れてしまうのが一番なのだと、彼はよく知っていた。
以前は頻繁に記憶が蘇ったが、最近になって、だんだんと記憶は薄れてきていた。
心の傷が、時間によって癒されようとしているのだと、アルクは実感していた。
それなら、その方がいいのかもしれない。
アルクはゴロリと寝返ると、そのまま静かに寝息を立て始めた。
「起きろ!
今何時だと思ってる!」
寝覚めのアルクを迎えたのは、耳がジンジンするほど大きな、父親の声だった。
アルクは寝ぼけたように目を細めて、窓の外を見る。
木々を照らす明るい日光が、すでに高く登っていた。
「飯はあるもので作ってくれ。
盗られるものもねえが、外に出るなら鍵をかけろ。
日暮れまでには家に帰れ。
いいな?」
ジョシュアは、自分でも何度言ったか数えきれないほど、毎日、この言葉を息子に言い聞かせていた。
アルクも、いつもの事なので寝ぼけながらも頷く。
「んじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
アルクに見送られて、ジョシュアはいつものようにデシア山脈の鉱山に向かっていった。
父親がいなくなると、アルクは頭をボサボサと掻きながら、家の脇に置いてある桶の水を汲んで、顔を洗った。
今日はどうも寝覚めが悪かった。
昨日、遅くに帰ったということもあるのかもしれないが、それにしても父親が出かける時間と言えば、もう昼前だろう。
あまり良い兆候とはいえなかった。
アルクはあくびをしながら、台所に向かう。
「大したものはないな。
昨日のハムの残りは……早めに食べとかないとな。
あとは、そうだな。
パンとチーズでトーストでも焼くか。
飲み物はミルクがいいな」
アルクは台所の保存棚を漁りながら、適当にそう独言し、簡単に朝飯を作り始めた。
ハムチーズトーストと、ミルク半杯を綺麗に食べ尽くすと、アルクは、顔を洗った残りの水で皿とコップを洗って、棚に戻しておいた。
それから、家にいるというのも退屈なので、面白いことがないかと、外に出かけようかと思っていた時だった。
トントン、とドアをノックする音があった。
誰がきたのか全く見当がつかなかったが、不用心にすぐにドアを開ける。
外には、何処かで見たことがあるような、長身の男が立っていた。
男はアルクを見下ろすと、低い声で聞いた。
「ジョシュア・テンバートはいるか?」
男の放つ異様な雰囲気にたじろぎながらも、アルクは首を振る。
「いません。
今は、出かけてます」
男はそう言われると、小さく頷き、そして懐から小さな折紙を取り出した。
封筒に入れられていて、蝋で厳重に封がしてあった。
「帰ってきたら、これを渡してくれ」
男は、アルクにそれを押し付けると、アルクが何か言うのも待たずに、さっさと歩いて行ってしまった。
アルクは何となく、封書の内容が気になったが、盗み見るのも忍びなく、机の上にポイと放って、さっさと遊びにいくことにした。
今日も皆、あの緑の丘の上に集まっていた。
バナレフの姿はなかったが、何か楽しそうに喋っている。
そのうち、一人の青年がアルクに気づいて手を振った。
「アルク、遅かったな。
もうお昼だぜ?」
青年は、アルクにそう言った。
「悪い悪い、リトア
ちょっと寝坊しちゃってさ」
リトアと呼ばれたこの青年の本名は、リトア・トラソルネ。
宿屋を経営するスランの長男坊だ。
他にも、酒屋の次男ランフリンや、牛飼いの一人息子のエリヤ、鍛冶屋の末娘のエリナなど、ほとんどのメンバーは揃っていた。
「あと来てないのは……ライルとネムスだけか?」
リトアが、メンバーを見回す。
「あと、ナジャがいない」
ランフリンが言った。
リトアは、それを聞いて頷くと、立ち上がった。
「よし、まずはその三人を連れて来よう。
ライルとネムスは俺とエリヤが連れてくる。
おい、アルクゥ!」
リトアは、アルクを指差して言う。
「何だよ、大きな声を出して」
「最愛のナジャはお前が連れて来いよ〜」
リトアがそう言うと、周りの全員が一斉に声をあげて笑い出した。
アルクは真っ赤になって抗弁する。
「ば、馬鹿野郎!!
な、何言ってんだよ!」
「ああ〜、愛に打たれた男は怒り〜、心は永遠に彼女の物さ〜、とな。
んじゃ、頼んだぜ〜」
リトアが笑いながら、そう言ってかけ出すと、他の全員も、それに合わせて逃げるように駆け出した。
癪にさわる笑い声をあげながら。
「あ、待てこの野郎!」
アルクはすぐに追いかけようとしたが、四方に散っていった仲間を、いちいち追い回すのも馬鹿馬鹿しくなり、仕方なく、ナジャを見つけるために丘を降りた。
しかし、探すのはいいが、ナジャがどこにいるのかなんて分かるわけもなかった。
彼女の家によってみて、それで居なければお手上げだ。
家にいると言うことは、病気か何かの事情があるのだろうが、アルクの記憶が正しければ、ナジャが病気にかかったなんて話しは一度たりとも聞いたことがなかった。
アルクはその理由を充分に納得しているつもりだ。
ナジャの家は、このキリアスの中でも、何処か異様な雰囲気がする建物、ということで有名だった。
どうも、彼女の父親の職業に関係しているらしい。
アルクが聞いた話しによると、石を削って売り歩いている職人らしい。
この商売にはアルクは疑問を覚えざるを得なかった。
アルクにとっては、削ろうがなにしようが、石は石だ、という見解だからだ。
石をいくら削ったところで、それがいくらになるのだろうと不思議で仕方なかった。
世の中では、そういう堅気の人間のことをチョウコクカと呼ぶらしい。
こう言っては失礼だが、アルクの目から見ても、ナジャの家は随分奇抜に思えた。
家の形が全体的にとてもカクカクしていて、窓にはガラスがハマっていなかった。
また、くっつけたように、不自然に一部屋分壁が突き出ていて、妙な違和感をおぼえる。
屋根も瓦敷ではなく、四方の壁をそのままつなげたようになっていて、煙突すらついていなかった。
この見前では、家として扱うには随分不便に思われた。
アルクは扉の前に立ち、コンコンとノックをした。
……。
…………。
………………。
いくら待っても返事がない。
もう一度、今度は少し強めにノックをする。
すると、扉の奥から声が聞こえた。
「ち、ちょっとお待ちくださぁーい!」
聞こえて来たのは、聞き慣れた声だった。
しばらくして、扉が開く。
「ごめんなさい。
今はちょっと手が離せなくて……って、アルク?」
そう言いながら、慌てた様子で出てきたのは、アルクの捜していた張本人、ナジャだった。
彼女の本名はナジャシア・ミリシオン。
普段は年頃の娘が普通は着ることのないような、男の子ものの身軽な服を着ているのだが(と言っても、身体が大きくないので、それ相応の男子服となる)、今日は家の中だからだろうか、少しお洒落な長袖の白いワンピースを着ていた。
ナジャのこんな格好を見るのは、アルクもはじめてだった。
「どうかしたの?」
ナジャはちょっと首を傾げる。
「どうかしたって……みんな待ってるぜ?」
アルクが、手を広げてそう言うと、ナジャは思い出したように頷いた。
「ああ!
そうだった。
ごめん、今日は行けないと思う……。
みんなには、そう伝えといて」
ナジャは困ったような顔をして、胸の前で手を合わせて言う。
「行けないって、どうしてさ?」
「お母さんが、病気にかかっちゃって」
「ははあ……」
アルクはつい、ため息をついてしまった。
たとえ、いくらナジャが病気にかからなかったとしても、彼女の母親はそうはいかなかったというわけだ。
「病気って、どんな病気?」
アルクがそう尋ねると、ナジャはまた、少し首を傾げた。
「うん、最近流行り始めた伝染病で、確か……ナントカ病って言ったんだけど」
通常の場合、ナントカで物事が通じることは稀だが、今回の場合は少しわけが違った。
最近流行り始めた病は一つしかないからだ。
「まさか、燃血病……?」
燃血病。
オーク族が持っている菌が人間やエルフなどの他種族に感染すると発症する病気。
血液中の白血球を栄養源として食い尽くしてしてしまうため、対抗手段がない。
エルドロンからやって来た旅人が、菌源となり、去年から特にアルタイト地方で広まりはじめた病気だ。
「そ、そんな名前だったかも……」
「ば、馬鹿!!」
アルクは野外であることも厭わずに大声で怒鳴り散らした。
「燃血病は、感染病だぞ!
お前だって発症するかも……。
お母さんは何て……?」
「よ、よくわからないけど、私がいくと、迷惑そうな顔をするの。
でも、お父さんは帰って来ないし、お医者さんは呼んだけど、打てる薬が無いって言うし、私がやるしかないじゃない?」
「駄目だよ。
燃血病にかかった人間には近づいちゃいけないんだ。
お医者はそう言わなかったのかい?」
「ち、近づくなとは言っていたけど……」
「じゃあ、何で近寄ったんだよ!!」
アルクはこれまでにないほどの剣幕で、さらに怒鳴る。
あまりのことに、ナジャはビクッと肩を震わせた。
アルクはハッと割れに帰って、自分の口に手を当てる。
「あ、わ、悪い。
と、とにかく僕が今から、もっといい医者を連れてくるから、それまで、その……お母さんに近づくなよ」
アルクはそう念を押すと、ナジャが何か言うのも待たずに駆け出した。
「彼なら、治せるはずだ……」
彼は、この町の高台や、丘陵地帯を特別好んでいた。
日がな一日、町を一望出来る草むらに座り込んで、大抵は、物思いにふけるか、パイプ草をふかしたりして、一日を過ごしていた。
今日も彼はいつも通りに、昨日とはまた別の丘の上で腰を降ろして、暖かな日光と柔らかな芝生に体を預けていた。
しかし何を思ったか、ふと頭をあげて、その驚くほど良い視力で町を眺めると、何やら訳ありげにこちらに走ってくる若者の姿があった。
「あの青年も、なかなか忙しいの」
彼は、少し可笑しそうに笑うと、ゆっくりと腰を持ち上げた。
青年は間も無く、彼の予想した通り丘を駆け上がってきた。
「バナレフ!
ああ、良かった。
ここにいてくれて助かったよ」
「随分、急ぎの用みたいじゃの。
お前の父さんがワイバーンに襲われた時でさえ、そんなに慌ててはいなかったぞ?」
「そ、そうなんだよ。
とにかく、急いで来てくれない?」
アルクがそう言うと、バナレフはさもおかしそうに笑った。
「この老い先短いじじいを走らせるつもりか?
無理を言う」
「そ、そんな。
急いでるんだよ!」
「見れば分かる。
誰もゆっくりお茶を飲もうなんて言ってはおらん」
バナレフは落ち着いた様子で言うと、ゆっくりアルクに向かって手を伸ばした。
「ほれ、捕まれ」
バナレフは、笑顔でそう言う。
アルクは、バナレフの差し出した手を、そっと掴む。
途端に、視界が真っ白になった。
眩しいくらいの日光も、柔らかな芝生も、澄み切った青空も、何もかもが見えなくなった。
そして気がつけば、彼は先ほど飛び出した、ナジャの家の前に立っていた。
「ほうほう、まさか、ここに飛ぶとはの。
お前さんの頼みが気になるのう」
バナレフは、そう言って快活に笑った。
「さ、早く」
アルクは、いきなりナジャの家の扉をガタンと開ける。
バナレフと、中にいたナジャが驚いて同時にアルクを見る。
「ほほっ。
ノックも無しとは、荒っぽい」
バナレフは、冗談じみた声でそう言ったが、アルクはそれには答えずに、ナジャに近寄った。
「お母さんは?」
ナジャは頷くと、改めてバナレフを見やる。
「バナレフ。
お着きになっていたんですね?
お元気そうで」
ナジャはそう言いながら、ワンピースのスカートの裾を両手で持って、膝を折る。
バナレフはそれを見て、愉快そうに笑った。
「ナジャ、しばらく見ない内に美しいレディになったようじゃな。
それにしても、何じゃ、アルク。
お主ら二人を見ていると、昔のお前の父さんと母さんを見るようで、何だか涙が……」
「バナレフッ!!」
アルクとナジャが同時に、顔を真っ赤にしてバナレフの言葉を遮った。
バナレフは片手で二人をなだめながら、子どもっぽく笑った。
「いや、すまんすまん。
それで、わしを呼んだのはまた、どういった要件かな?」
「そ、そうだった。
ナジャ、早く」
アルクが慌ててそう言うと、ナジャもそれに頷いた。
「それにしても、何でこんなにややこしい造りなんだ?」
アルクは、あまりに不可解だと言いたげな顔をする。
先導するように早足で階段を登りながら、ナジャは答えた。
「この家、お父さんが設計したのよ。
私のお父さん、変な趣味をしてるから。
これが芸術だと言って、何も聞かなかったらしいの」
「それにしたって……」
アルクはため息をつく。
わざわざ二階に上がるのに、一度、螺旋階段で四階まで上がって、そこから三階に降り、白壁に、ガラスのハマっていない窓が規則的に並ぶ、殺風景であり、また嫌味なほど長い廊下を渡ってから、さらに下に降りなければ行けなかった。
バナレフは、迷路のような階段を登り下りしながらも、息一つ乱さずに笑う。
「上に上がるのに階段を下ったのは、生まれてこの方、指の数ほどもないわい。
庶民の家ともなると、はじめてじゃな」
「こんな構造だから、お客様が来た時なんか、いつもお待ちしてもらっているの」
「ああ、だからさっきも……」
アルクは納得したように頷く。
ナジャは、やっと最後の階段を下り終えると、階段からすぐの部屋の前で立ち止まった。
「さあ、ここがお母さんの部屋よ。
アルク、あなたの言っていた医者って言うのは、バナレフの事ね?」
「そ、そうだ、バナレフ、あなたならナジャのお母さんの病気を治せるかと思って読んだんだけど……」
アルクは、少し不安げな表情になって言う。
最初に、確認しておけば良かった、とアルクは今になって思った。
「おやおや、どうやら何か勘違いしているようじゃの。
わしはメイジであってプリーストではない。
医療に関するならば、彼らに聞く方が余程収穫があろうて」
バナレフは、口をへの字に曲げて首を振る。
アルクとナジャの表情が、途端に悪くなる。
バナレフは、その様子を見て意地悪そうに笑った。
「ま、たかだか数十年生きた程度の魔法使いならそう言うじゃろうな。
じゃが、わしを誰じゃと思っとる。
かつて、「アルタイトの黒い杖」と呼ばれたこの大魔術師を」
バナレフは、髭をさすりながらそう言う。
アルクとナジャの顔に血の気が戻る。
アルクに至っては、短い時間に表情を変えすぎたせいで、顔の筋肉が痛くなっていたほどだった。
「どれ、まずは見てみねばどうにもなるまい」
バナレフが、そう言うと、ナジャは頷いて、静かに扉を開けた。
部屋の中も白一色だった。
壁はもちろん、窓の前におかれた小さなテーブルや、それに付き従うように置かれているイス、ベッドのシーツや毛布までが全て真っ白だった。
そして、純白のベッドに一人の女性が苦しそうに横たわっていた。
彼女は、こちらを見向きもせずに、か細い声で言う。
「ナジャ、また来たのね?」
そして、苦しそうに息を吐く。
バナレフは、真っ白なベッドへゆっくりと近づいていった。
そして、彼女の枕元に立つ。
「エシア?久方ぶりじゃのう」
バナレフは、優しい声で言う。
彼女はそれを聞いて、驚いたように目を見開いた。
「バナレフ……?
あなた、帰って来ていたの?
ああ、万理と運命のエシャヒスは、まだ私を見放してはいなかった……!」
彼女は、目から大粒の涙をこぼして言う。
バナレフは、微笑むと静かに彼女の額に手をかざした。
「まだ進行中の燃血病か。
この身体で随分無理をしたようじゃな」
バナレフは、そう言ってから、静かに何事か唱え出した。
口ずさむような、鼻歌を歌うような小さな声で、アルクやナジャには理解できない言葉を口にする。
すると、何とバナレフがかざした手のひらに光が集まっていく。
その光は少しずつ彼女の身体に吸い込まれていった。
バナレフは、それを見て頷くと、ゆっくりとかざしていた手のひらを降ろした。
「これで、病気の症状はおさまった。
もう、ほとんど大丈夫じゃろう」
バナレフがそう言うが、彼女は何も答えない。
スースーと気持ち良さそうな寝息をたてて眠っていたのだ。
ナジャがそれをみて胸をなでおろす。
バナレフはナジャの方を振り返ると、懐から妙な小瓶を取り出して言った。
「じゃが、菌はまだ死んではおらん。
活動を停止させただけじゃ。
一日一度、小さじ一杯、水に溶かしてこれを飲ませなさい」
バナレフはそう言って、小瓶をナジャに手渡した。
瓶のラベルには、奇妙な文字が書いてある。
中身は、白い粉のようだった。
「これは?」
「青カビからとれた薬じゃ。
まだ、あまり流通してはおらんがな。
ブルトーニの商人から特別に譲ってもらったものじゃ。
菌を殺す力がある」
ナジャは驚いて小瓶を見つめた。
「そ、そんな貴重な物を?」
「気にするでない。
エシアとは古い仲じゃ。
無論、病気が治った頃を見計らって、返してもらいにくるがの」
バナレフはそう言うと、また愉快そうに笑った。
王剣伝説