宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第十四話
まえがきに代えたこれまでのあらすじ及び登場人物紹介
金子あづみは教師を目指す大学生。だが自宅のある東京で教育実習先を見つけられず遠く離れた木花村(このはなむら)の中学校に行かざるを得なくなる。木花村は「女神に見初められた村」と呼ばれるのどかな山里。村人は信仰心が篤く、あづみが居候することになった天狼神社の「神使」が大いに慕われている。
普通神使というと神道では神に仕える動物を指すのだが、ここでは日本で唯一、人間が神使の役割を務める。あづみはその使命を負う「神の娘」嬬恋真耶と出会うのだが、当初清楚で可憐な女の子だと思っていた真耶の正体を知ってびっくり仰天するのだった。
金子あづみ…本作の語り手で、はるばる東京から木花村にやってきた教育実習生。自分が今まで経験してきたさまざまな常識がひっくり返る日々に振り回されつつも楽しんでいるようす。
嬬恋真耶…あづみが居候している天狼神社に住まう、神様のお遣い=神使。一見清楚で可憐、おしゃれと料理が大好きな女の子だが、実はその身体には大きな秘密が…。なおフランス人の血が入っているので金髪碧眼。勉強は得意だが運動は大の苦手。
御代田苗…真耶の親友。スポーツが得意でボーイッシュな言動が目立つ。でも部活は家庭科部。クラスも真耶たちと同じ。猫にちなんだあだ名を付けられることが多く、最近は「ミィちゃん」と呼ばれている。
霧積優香…ニックネームは「ゆゆちゃん」。ふんわりヘアーのメガネっ娘。真耶の親友で真奈美にも親切。農園の娘。真耶と同じクラスで、部活も同じ家庭科部に所属。
プファイフェンベルガー・ハンナ…教会の娘でドイツ系イギリス人の子孫。真耶たちの昔からの友人だが布教のため世界を旅していた。大道芸が得意で道化師の格好で宣教していた。日本の姓名の名乗り方に合わせて苗字を先に名乗っている。
嬬恋花耶…真耶の妹で小三。頭脳明晰スポーツ万能の美少女というすべてのものを天から与えられた存在だが、唯一の弱点(?)については『宗教上の理由』第四話で。
(登場人物及び舞台はフィクションです)
「ところで、みんな冬休みどっか行くの?」
卒論づくりの気分転換に、天狼神社最寄りの集落にある行きつけの喫茶店に来てみた。ドアを開けると、ぶら下がったベルがカランカランと鳴る。と同時に、聞き慣れた声で外から呼び止められる。
「あづみさーん! こっちこっち!」
振り返ると、店先のテラス席に四人がちょこんと座っていた。まあここの常連なのは私だけではなく、真耶ちゃん、苗ちゃん、優香ちゃん、お花ちゃんの四人もそうなので、冬休みとなった今、遭遇するのは当然といえば当然。ただ彼女たちの座っている場所が冬にもかかわらず外というのにビックリだ。
四人に手招きされるままに席につき、真耶ちゃんお薦めのチャイを注文する、が。声は聞き慣れているが、いつもの見慣れた顔のほうはみんな隠している。スキーウェアを着こみ、足元にはゴムスパッツ。その下からカラフルな長靴が見える。これはウィンターブーツと言って、防水と防寒を兼ね備えた雪国必須のアイテムなんだとか。これらが木花村のというか、雪国の子どもの普段着としては普通なのは分かるが、何より異質なのは首から上だ。ゴーグルにフェイスマスクという防寒と雪焼け防止のためのシリコン製のマスク。しかも頭にはヘルメット。これは屋根から落ちてくる雪の対策だという。凍っているとそれどころでは済まないのだが今日はサラサラ粉雪なので大丈夫らしい。
ともかく、その東京人からすれば見慣れないファッションにも疑問はあるが、それ以前の問題として…。
「どうして、みんなわざわざ外でお茶してるの?」
関東甲信越地方でありながら標高が高いので北海道並みの寒さに見舞われる木花村。こないだもこのメンバーを含めてスキー場開きが決行されたばかり。そんな中、四人は暖かい店内ではなく、陽射しこそあるが昼過ぎでもいまだ空気がひんやりとする外に陣取っている。
「ああ、この村では冬でも晴れていたらこうやって外に出るんです。けっこう暖かいですよ?」
「でも雪が反射してまぶしいし、肌が焼けちゃうでしょ? だからこうやってスキーのカッコで」
確かに目や肌を紫外線から守るには全身を覆うのは理にかなっているので、真耶ちゃんと優香ちゃんの解説には納得できる。だから私も答えた。
「そういえば、真耶ちゃんも花耶ちゃんも、家の中でもスキーウェア着てるもんね」
エアコンやファンヒーターくらいでは、木花村の過酷な寒さに立ち向かうことは出来ない。ボイラーやヒーターで家全体を暖房するシステムが各家庭の標準だ。北国ではガンガンに室内を暖めてTシャツ一枚で過ごすところもあると聞く。しかし木花村では暖房はちょっと控えめにするかわりに厚着するスタイル。スキーウェアを中で着るのも普通。さすがにジャケットは脱ぐけど、真耶ちゃんなど下は常にスキーウェアだ。
「スキーウェアは濡れてたりもするけど、昔は家まで土足で上がれる家も多かったみたいだから、抵抗無いんだと思うよ。あと晴れた日に外で集まるのは、日差しの少ない北欧とかでのひなたぼっこの習慣が変化して定着したんじゃないかな」
とは、お花ちゃんの分析。外国人が多く住まうこの村ではそういうことが実際普通にあったことなのだろう。あと、こうやって冬の寒さにもめげず外で遊ぶ子の多い木花の子どもたちは外と中を行き来するたびに何枚も脱ぎ着するのでは面倒というのもあるらしい。
「結果的に省エネになってるんだね。もちろん必要に応じて暖房はするよ。お風呂の脱衣場とか逆に暖かくしたりするから」
今度は優香ちゃんの分析。
もっとも、中学生になってもスキーウェアを普段着にする子は少ないらしいが。おそらく真耶ちゃんの趣味によるところが大きいと思う。
女五人集まれば(いや本当はうち一人は、って話は今更どうでもいいや)注文の品を待っている間会話に華が咲く。そんな中で発せられたのが冒頭の私の質問。雪国なので冬休みは少し長めになっている。その分みんなあちこち遊びに行くのだろうと思ったのだ。
「わたしん家はグアム行くの。ほら夏は家族じゃどこも行けないでしょ? だからお父さんお母さんが頑張ってくれたの」
優香ちゃんがニコニコしながら言う。家が農場をやっているので家族で出かけられるのは冬だけ。夏に行けなかった海水浴をするんだとか。
「アタシはまた巡業の旅。今度は東南アジア方面なんだって」
家が教会で、布教を兼ねた大道芸で世界を回っていたお花ちゃんはまた宣教師になる。厳密には仕事だけど本人は楽しんでいるという。
一方、学校が休みってことは逆にどこも行けないんじゃないの? とお花ちゃんに心配されているのが苗ちゃん。苗ちゃんの家はペンション。小さいとはいえスキー場のすぐそばにあるから、お正月は満室になるのだとか。
「とりあえず三が日と、そのあとの週末はダメかな。それ過ぎたら土日といっても少し暇になるけどね」
なるほど、観光地の子どもってそういう大変なところがあるんだ。私達都会の子どもは学校が休みというと海だ山だと出かけるけど、それを迎える方は働いているわけなんだよね。
あ、ということはもしかして…。ほらお正月というと忙しいところ。それが家業になっているといえば…。
「真耶ちゃんも、初詣大変よね? 服装は巫女さんの装束? それとも又何か着ぐるみ着るのかな?」
という私の質問は自然なものだと思った。が、真耶ちゃんは一瞬キョトンとし、そのあと、ああそうか、といった感じに答えた。
「ええとですね、うち、初詣やらないの」
「ええっ、なんで? 村の人達初詣行きたがるでしょ? それにお正月ってお寺や神社の稼ぎどき…」
と言ったところで、はっと気づいた。天狼神社はお金儲けにとことん無頓着というか、商売めいたことをむしろ避けている。それはもともとここの神様がオオカミから転じた「真神」であり、人間の俗っぽい部分を嫌うのだというこの神社独自の信仰から由来している。そもそもお賽銭もすべて災害の被災地などに寄付してしまっているし、お守りやらおみくじやらを売ることも無い。
「お正月だから、神様にもお休みして欲しいじゃないですか。緊急のこと以外はお祈りごともお休みしてもらうんですよ」
なるほどその理屈は一理ある。初詣という習慣自体そう古くはなくて明治頃からの話で、定着したのは鉄道会社が乗客を増やすために新年の寺社への参詣を薦めたからだという説もあるようだし。もちろんそれはそれで日本文化に定着したものであるが、すべての神社がそれに従う必要も無いし、正月ぐらい神様にお休みしてほしいという考えの神社があったって良い。
とはいえ、二日には初詣ではないけど、地元の人達が普段通りにお参りするのを、晴れ着でお迎えするのだという。先日もスキー場開きにあわせて冬のお祭りを済ませたばかりの真耶ちゃんは、年が明けても神社の子としてやることがある。大変だとは思うが真面目な真耶ちゃんのこと、嫌な顔ひとつせずむしろ喜んでやる。それに優香ちゃんもお花ちゃんも、三が日の間は村にいるのだ。
「三が日が過ぎて飛行機代が下がるのを待ってから出かけるの」
とのこと。
「というか真耶ちゃんもその頃には里帰りでしょ?」
そんなことを言っているうちに飲み物が来た。優香ちゃんがアップルティーに角砂糖をひとつ入れると、ふわっと溶ける。
「うん。それすっごく楽しみだよ?」
東京の親元を離れて木花村に住み、神様のお使いである「神使」の役目を果たしている真耶ちゃん。でも長い休みごとには実家に戻る。
「父さんと母さんに久しぶりに会えるの」
そろそろ親への反発とか出てきていい年頃だが、離れて住んでいると違うのだろうか。
「やっぱ親が恋しいって思うよね」
今では珍しいかもしれない、カプチーノにちゃんと添えられたシナモンのスティックをかきまぜながら苗ちゃんが言う。
「ウチも帰るけどさ」
ん? 帰る?
苗ちゃんの家はペンションをやっている。両親共に健在で私も何度も会っている。なのになぜ?
「ああ。ウチ横浜生まれ。三が日過ぎたら横浜に帰るんよ」
へえ、そうなんだ、って、あれ? 苗ちゃんの育つ御代田家は家族揃ってこの村でペンションを経営している。だのになぜ、横浜という地名が突然出てきたのだろう…。しばし考える私、しかしすぐ理由がひらめいた。
「ああ、もともと家族みんな横浜に住んでたのが、ペンションやるために家族で引っ越してきたのかな? で、生まれた地である横浜にみんなで帰省するって感じ?」
しかし苗ちゃんはあっさりと首を横に振った。
「ううん、ウチの親はあのペンションにウチが生まれるずっと前からいたよ。前に言ったじゃん、バブルの時にペンション村が出来たって。その頃おとんがあそこのペンションに住み込みしてて、そのときのマスターが隠居したからそのまま引き継いで、それからずっとあそこに住んでペンションやってるの。そのときおかんがペンションにバイトで来たのを口説いて結婚したらしいよ」
え、どういうこと?
「だからさ、横浜生まれはウチだけなんよ。だからウチだけ帰るの。ま、真耶と花耶ちゃんもどのみち東京帰るから、向こうで遊ぶつもりだけどね」
…ええと、いやだから、どういうこと? ますます分からなくなった。みんなは何くわぬ顔でフェイスマスクの間から器用にカップを口に持っていっている。
でもさすがに、私の頭からはてなマークが出ていたのに気づいた苗ちゃんがぽんと手を叩いて言った。
「ああ。ウチ、里子だから。実の父親が横浜にいるんだよ」
木花村と横浜はつながりが深い。他にも神戸、長崎といった、外国に対して開けた都市とは交流がさかんで、それは外国人別荘地として開けたこの村の歴史に由来する。これらの都市に住む人々が避暑地として、また移住地として選んだのがこの村だった。特に地理的に一番近い横浜とは人の行き来もそれに伴う文化の乗り入れも普通だった。そのひとつの例が木花村のラーメン。サンマーメンと呼ばれる横浜のラーメンが、普通の「ラーメン」として供される。
一方で各国の外国人が集まってできたこの村は、外からの人を抵抗なく受け入れる開放的な気風をもつ。特に都会の子どもを受け入れる山村留学と、何らかの事情で家庭にいられなくなった子どもを引き取る里親制度は非常にさかんで、村が徹底的にバックアップしている。
そしてこの二つの要素が重なって、特に横浜から里子としてやってくる子どもは多いのだという。つまり苗ちゃんもその中の一人だったのだ。
「まあ、普段言う機会とか無いじゃん、こういうの。みんな言わないけど知ってるって感じだから、ついそのつもりで話しちゃったよ」
「わたしたちにしてみれば、ミイちゃんの親がどうだとか関係ないもんね。友達は友達で変わりないじゃない?」
苗ちゃんに続いて優香ちゃんが言う。
苗ちゃんは横浜に生を受けた。しかし両親が離婚、母親に引き取られ、彼女と事実婚関係になった男が新しい父親になる。しかしそこでの家庭不和がエスカレートし、苗ちゃんは児童相談所によって救済、ここ木花村のペンションに紹介される。
「そんなことが…ごめんなさい、嫌なこと聞いちゃって…」
「ううん。気にしてないよ。ウチここの生活気に入ってるし、今のおとんとおかんも大好きだよ。おとんとおかんは里子を育てるのが好きなんだ。その第一号が…」
苗ちゃんが店内を見やる。ちょうどいいタイミングで人数分のケーキを運びながら一言、
「はーい、アタシでーす」
喫茶店のお姉さんだった。
「だからウチ、アネキって呼んでるんだよ」
アネキこと喫茶店のお姉さんは地元の男性と結婚し、今もこの村に住んでいる。苗ちゃんを始め、里子に来ている子を見守ってくれる世話役的存在でもある。木花中が生徒の喫茶店の出入りを黙認しているのはそういう理由もある。里子は勿論のこと、子どもたちのよき相談相手としての彼女の存在に期待しているのだ。
「そうだ、あづみちゃんも、東京で遊ぼうよ」
「あっ、いいねそれ。あたし苗ちゃん家遊びに行くの。あづみさんも一緒に来ませんか?」
そんな言葉を交わしてみんなとは別れ、その後私は東京に戻ってきた。論文もほとんど書き終わり、推敲の段階に来ている。このまま年を越して卒論提出と最後の定期試験を迎えるつもりだ。木花村のお正月がどんなものなのか少し気になったが、その様子は真耶ちゃんたちがかわるがわるメールで報告してくれた。天狼神社のみならず木花村では旅館業を除けばかなり多くの店が元日は休むようで、人口数千人の村にしては立派な商店街のシャッターが全て閉まっている写真が送られてきたりもした。ふんわりした雪に包まれたお正月はさぞ静かでいいだろう。
年賀状も来た。真耶ちゃんと花耶ちゃんからは干支である蛇の扮装をしたものが来た。秋に顔を緑色に塗って撮影していたもので、予想通り可愛らしくも笑える出来栄えだった。もちろん私からも、教育実習で担当した生徒たちに年賀状を出していた。その子たちのほとんどから同時に年賀状が来ていたので、私宛の年賀状は一気にふくれあがっていた。
それぞれの子が、今年の抱負を語っていた。みんな希望にあふれている。いや、それは彼ら彼女らと接した当初から分かっていた。年賀状はそのことを再確認させられたに過ぎない。
だから最後の望みをかけて、とある私立校の教員採用試験に応募した。三が日中に年賀状以外の郵便物を投函する経験は初めてだ。少し背中を押された気がしていた。
三が日も終わり数日、東京では小中学校の始業式。私の大学も始まっているが、自分が取っている授業の日はまだ先のこと。私は真耶ちゃん、花耶ちゃんと待ち合わせをするべく渋谷駅へ。
あの翌日私は木花村を発ったのだが、そのとき例の喫茶店に立ち寄った。アネキこと喫茶店のお姉さんからは、
「ありがとう、あの子たちの誘いに応じてくれて。ほら、苗が里子だって知っちゃったでしょ? 腫れ物に触られるような扱いされるのって子どもは嫌なものなのよ。だからあづみちゃんが今までどおり接してくれると嬉しい」
という使命を仰せつかった。まあ苗ちゃんも他のみんなも今までと変わった様子もないし、私もこれまでと付き合い方を変えるつもりはない。
渋谷で真耶ちゃん、花耶ちゃんと待ち合わせて、私鉄の急行で約三十分かけ横浜駅に到着。地下深いホームを脱出して東西に連なる自由通路を歩くとちっちゃな女の子の銅像の前に到着。童謡の赤い靴をはいてた女の子の像なのだとかで、ここが苗ちゃん指定の待ち合わせ場所。ほどなく聞き慣れた元気な挨拶が聞こえた。
「うっす。お待たせー」
今日は打って変わって、カジュアルなピンクのダウンジャケットにミニスカートとタイツ、そしてエンジニアブーツ。苗ちゃんの家に行くのだからそこの最寄り駅で集合でも良いはずだが、苗ちゃんが横浜駅まで出迎えに来てくれたのは家に行く前に別のところへ寄り道するためだ。
「初詣行こうぜ」
横浜駅から赤い電車で六つ目の駅。改札を出て階段を降りると踏切をわたって右方向に急な下り坂が続く。そこを肩で風切るように苗ちゃんが先頭切って歩いてゆくと、坂を降りきったところの右側に山門が見えてくる。それをくぐって進むと見えてくる境内。こじんまりとしているけど、いい雰囲気のお寺。
「ここウチのお気に入りなんよ。派手じゃないし。三が日は結構混むけどね」
さすがに今はひっそりとしている。落ち着いて参拝を済ませる。
「お楽しみはこれから、これから」
山門の先には、もとは門前町だったのだろう、アーケードと商店街がずっと続いている。かまぼこやおでん種専門のお店、他種類のお惣菜が溢れかえるお店、つるっとした美味しそうな豆腐を売っているお店。その中を闊歩しながら食べ歩き。
「あ、胃袋に余裕持たせておいてよ?」
と言う苗ちゃんにならってきた道を戻り、ロータリーのないこじんまりとした駅前に戻る。
「ここに来たら、これ食べなきゃね」
苗ちゃんがイチ推しと言って案内してくれたのは、ちょっと昭和の風情を残したクレープ屋さんだった。
四駅戻ったところで再び降りる。息を切らせて丘の上に上ると動物園があり、なんと無料! レッサーパンダを見たり、ハムスター等の小動物と一緒に遊べるコーナーもある。
苗ちゃんはいつになく楽しそうだ。いやこの子は常に人生を楽しんでいるふうなのだが、何だか幼い頃に戻ったようなはしゃぎ方をしている。生まれ育った地にいるということがそうさせているのかもしれないが、その生まれ故郷を実の両親とも離れて暮らさざるを得なくなった心境はどうだったのだろう。私にはそれはなかなか想像つかなかった。
動物園のある丘を降りて少し歩くと、急に景色が雑然とし始める。飲み屋さんが沢山あり、時間がすでに夕方近くなっているのもあいまって、夜の賑わいを連想させるざわざわ感が心地よい。
「これも、ウチが大好きな横浜の風景。若い女の人にも最近人気らしいよ」
なるほど昭和の雰囲気とかいうキーワードがしっくり来そうな界隈は、雑誌などで紹介されているのに覚えがある。一方で電車の高架の向こうには高層ビルや観覧車も見えてくる。新旧の入り混じった感じは街歩きが好きな人にはたまらないだろう。
「もちろんあっちのほうも好きだけどね。横浜っていろんなものがごった煮だから、横浜が好きって感覚は鍋が好きって感覚と同じだと思うんよ」
と、三日月形のビルなどが並ぶ一帯を指さして言う苗ちゃんの言葉がものすごく的を射ていると思った。
再び電車に乗り、青い帯の通勤電車で三つ目。これまた打って変わって、丘の間に作られた大都市にしてはちょっと小さめの駅。横浜って、本当に色んな表情を見せてくれる。
苗ちゃんにエスコートされて駅を出る。坂道の続くなかを歩いて行くのだが、ふと気づいた。
「…ここって、すごい高級住宅地じゃない?」
横浜の港からちょっと南の丘の上。外国人も多く住まったという場所。横浜でも著名な観光地で、洋館や外国人墓地が有名な場所、山手。
そのなかでもひときわ高級感溢れる一画に建つ、瀟洒なお屋敷。苗ちゃんはそこの門前に立つと、インターホン目掛けて、
「たっだいまー!」
程なく門扉が開く。そこには絵に描いたようなメイドさんが二人。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「やめてよー、メイド喫茶の真似みたいじゃん」
苦笑しながらそんなことを言う苗ちゃん。それは逆で、メイド喫茶がこういうお屋敷の真似をしていると思うのだが…。
「…ただいま」
面食らった顔をすぐさま整えると、苗ちゃんは二人に改めて挨拶した。
私たちは応接間に通された。まるでお城のような豪華な作りに私は圧倒されてしまっている。出された紅茶も高級品に違いないが、味がよくわからない。大した時間は経っていないだろうが、ものすごく長く感じられた待ち時間。それでも堂々としている真耶ちゃんと花耶ちゃんが羨ましいとともに、神使とその妹として恥ずかしくないだけのお嬢様教育は受けてきているのだろうと関心する。そんな緊張感を破ったのは、
「おまたせ」
という苗ちゃんの声。そして、そこに現れたのは。
お姫様そのものだった。
普段はどちらかといえば活発で、言葉も行動もざっくばらんな苗ちゃん。
全身泥まみれになることも厭わず、男子にも果敢に飛び掛かる苗ちゃん。
ちょっぴりエッチで、冗談好きな苗ちゃん。
そんな彼女が、清楚で可憐なお嬢様に変身した。上品なワンピースのドレス。黒髪を綺麗にまとめて、顔は自然なメイクをしている。
「うわー、苗ちゃん可愛いー」
と声を上げたのは真耶ちゃん。ありがとう、と微笑みながらソファに座る仕草がおしとやかを絵に描いたようだ。いつもの苗ちゃんならどっかとダイブすることだろう。
程なくして、先ほどのメイドさんがドアを開けると、そこに一人の中年男性が現れた。
「ようこそいらっしゃいました。苗がいつもお世話になっています。苗の父です」
慌てて立ち上がった私だったが、言葉が出ない。でもそれより一瞬遅れて真耶ちゃんが丁寧な挨拶を始めてくれたので、私はそれについて言葉を継げば良かった。
どことなく苗ちゃんと似た顔は精悍で整っており、美男美女の家系なんだと実感させられる。にこやかな表情には優しさが感じられるが、その中に鋭さがある。
一瞬、寒気がした。
でもその時はそのままにしておいた。実際ドアを開けた時に長大な廊下からやや冷たい空気が入ってきたのもあるし、すぐさま食卓に招かれたのでその考えはすぐ雲散してしまったのだ。
当然のごとく、夕食は豪華だった。ケータリングというやつでコックさんが出張してきて、この家の厨房で腕をふるったのだという。毎日こんなのを食べているわけではないと苗ちゃんのお父さんは笑うが、これに近いお高い料理を毎日食しているだろうことは想像できた。
美味しかった、と思う。むしろ緊張で味が余りわからなかったというのが本音だ。高校の時に学年で行かされたテーブルマナー教室の中身はすっかり忘れていたが、隣りに座った真耶ちゃんがそれを察して小声でレクチャーしてくれたので、それに従えば良かった。
食卓はきわめてなごやかだった。苗ちゃんの強い希望で一緒にテーブルを囲んだ二人のメイドさんを含めて会話が弾む。内容は主に苗ちゃんの木花村での暮らしについてなのだがその反面、今日行った横浜のアチラコチラの思い出話がしばしば交じる。お父さんに気を使っているのだろうか? それとも…。
「苗」
唐突にお父さんが口を挟んだ。
「…戻って、来るかね?」
と口走った後、ああいや、仮の話だよ仮の、と取り繕うように言うお父さん。苗ちゃんはそれをフォローするかのように答えたが、答えの内容は実際穏やかではなかった。
「…ううんと、近いうちに、とは思ってます、お父様」
苗ちゃんが、戻る。
お父さんの口から出た言葉である、ということは、すなわち。
苗ちゃんが横浜のこの家に戻る、ということ。
大理石でできたお風呂はやはり豪華そのもの。さすがに横浜の一等地なので端から端まで歩いて何十分もかかるとかいうレベルの大邸宅ではないが、それにしても私の実家よりは十分大きい。というか実家は団地だし、この家は庭も含めれば団地一棟分くらいの敷地はあると思う。三人は一緒に入ってプールのごとく楽しんだようだが、私は遠慮した。真耶ちゃんの裸を他の女子と同等に心のなかで扱えるまでの自信は無い。
私がお風呂から出ると、花耶ちゃんが待ち構える。手を引かれて行き着いた先が苗ちゃんの寝室で、一人部屋というのが信じられない広さ。しかも中央に堂々とそびえる、天蓋付きのベッド! 一般家庭でこんなの初めて見た。
すでに苗ちゃんと真耶ちゃんがふかふかのベッドの上でトランポリンのようにして遊んでいる。花耶ちゃんがそれを見てすかさず参加。私は脇のソファに座って苦笑していた。ベッドの周りにこれまたふわふわの布団が三組敷かれていたが、「お姫様ベッド」で寝てみたいという花耶ちゃんのつぶやきを苗ちゃんが快諾、真耶ちゃんと二人で天蓋の中で眠ることに。私と苗ちゃんは布団に潜り込んだ。といってもこっちも十二分にふかふかで、かえって寝付けなかった。
小一時間経ったと思う。私以外の三人はすっかり熟睡している模様。結局眠れない私はなんとなく落ち着かず、布団を抜け出し廊下に出た。最低限の灯りが廊下についていて歩くのに支障はない。だが廊下の先にひときわ明るい光あふれる部屋がある。
「あ、金子さんでしたね? 良かったら、こちらへどうぞ?」
部屋の中には二人のメイドさんが、仕事着を脱いでラフな格好で机を囲んでいた。そこには瓶ビールと若干のおつまみ。ビールが外国の高級そうな銘柄であるところはさすがだ。
「眠れないのですよね? わかります。私達も最初に来た頃はそうでしたから。もう飲めるのですよね?」
長い髪のメイドさんが言う。断る理由もないので、お言葉に甘えることにした。注がれたビールを口にすると滑らかで、苦味よりも甘い香りが先立つ。ここで初めて、高級なものを口にしている実感ができた。
「お茶やお菓子、お酒代として毎月いただいているのです。私たちのフトコロは痛みませんから遠慮しなくていいですよ?」
今度は短い髪のメイドさん。冗談めいた口調は昼間の凛々しいお姿とは対照的だ。まったくもって気さくな人達。でもそれは彼女たちに限ったことではない。
「…優しそうな、方ですね」
不意に出た言葉は、苗ちゃんのお父さんに対する評価だ。お金持ちのご主人様、というからもっと強面で、厳しい人だというイメージだった。確かに顔は精悍だが、顔からは優しさがにじみ出ているように思えた。
「…昔は、そうでもなかったのですよ」
メイドさんが、グラスを傾けながらそう言う。
「この際、お話しちゃいましょう」
「ご主人様…苗様のお父様は旧財閥の流れをくむ一族に生まれました。戦後いくつかに分割された会社のうちの一つを任され、ご主人様の代になってからは順調に業績を伸ばして来ました。このお屋敷もその頃手に入れたもので、かつては外国のお金持ちのお屋敷だったそうです」
もともとは譲り受けた会社とはいえ、それを大きくしたのはお父さんの手柄だった。仕事においてはやり手で、政財界とも通じ、事業を広めてきた。しかしそのやり方が急であればあるほど敵も増えるし、それに対して攻めも守りも強めなければならないし、外に対して厳しく接するということは内部を厳しく律することでもある。次第にお父さんは人が変わり、家の中でも鬼のように振る舞うようになったのだという。
「仕事のストレスもあったかもしれませんし、たとえ身内でも甘い顔を見せたら負けると思っていたのでしょう。私達がここにお世話になったのはずっとあとのことですが、当時のメイドは大変だったそうです。毎日のように怒鳴られ、ディナーの食器がちょっと傾いていただけでそれを投げつけられ、暇を出されたメイドもいたそうです」
正直信じられなかった。あの優しそうなお父さんが…あ、でも確かに表情は精悍だし、起こると怖そうではある。さっき感じた寒気もそういうことだったのだろう。
「それがメイド相手だったらまだ良かったのかもしれません。やがて、家族にも同じ態度がとられるようになりました」
お父さんが結婚相手に選んだ人、つまり苗ちゃんのお母さんとは「身分違いの恋」だったのだという。
「奥様はもともと、大人相手にお酒を飲ませる仕事をしていらしゃいました。ご主人様が奥様の勤めるお店に通いつめた末、周囲の反対を押し切って結婚したのです。そういう傷害を乗り越えた経緯もあるから最初はおしどり夫婦だったそうです」
「周囲への接し方もお嬢様のお母様と一緒になられてからはすっかり変わって…以前を知る人達には仏のように見えたそうです。ただそれも長くは続かず…」
価値観の違いはいかんともしがたかった。お母さんは家事が大好きでマメな性格だったが、お父さんはそんなのはメイドの仕事だという。育ちが違うと言ってしまえばそれまでだが、しかし二人の間に生まれた溝は、お父さんの忙しい日常のせいもあってなかなか埋まらなかった。
折も折、お母さんが子どもを身ごもった。苗ちゃんだ。当然お母さんは苗ちゃんをかわいがる。しかしそのタイミングでお父さんの会社は業績を急激に落とす。お父さんのイライラは増し、ついにはお母さんにまで暴力が振るわれる程になった。
「それでもお嬢様は溺愛されていたのです。だからこそ、かもしれません。娘を独り占めしたい、というのもあったのでしょう。ますます奥様への当たりはつらくなり、たまりかねた奥様はお嬢様を連れて家を出ました。かつて勤めていたお店に戻り、お嬢様を一人で育て始めたのです」
お母さんは器量も良いが、それ以上に気の利くタイプだったのでお客さんがすぐに付いたという。母ひとり子ひとりという身の上もあいまって、給料やお酒の売上以外にプレゼントも随分もらい、決して暮らしは不自由ではなかった。
だが、そんな幸せも長くは続かなかった。お客さんの中に人一倍優しい人がいた。お母さんはいつの間にかその人に、客以上の感情を抱くようになり、やがて彼が苗ちゃんの新しいお父さんとなった。
「その人との間に、新たに子どもも出来ました。お嬢様の弟君、ということになります。そこでの暮らしは、なかなかに幸せだったと思います」
だが、それは長くは続かなかった。その新しいお父さん、実はとんでもない食わせものだったのだ。
「言ってみれば、ヒモというか…もっとひどいですね。ギャンブルに狂い、食費を持ち逃げしたり…」
結局、新しい家庭も壊れた。二人は離婚、お母さんは精神的に子育てができないところまで追い詰められており、子どもたちは別々の家庭に預けられた。そしてそこに新たな悲劇が追い打ちをかけた。
「実は…弟君はお母様のご実家に引き取られたのですが…お嬢様だけは…」
お母さんのご実家というのは地方の旧家。農村のならいで、男手は一人でも多く必要だが、女子はそれほどでも…というところ。建前としては一人しか養う余裕が無いということだった。
でも実際には、苗ちゃんは選ばれなかったということだ。年端もいかない子どもが、選別という仕打ちに晒される。なんと残酷なのだろう!
「あ、しんみりさせちゃってごめんなさいね」
私が無意識のうちに唇をぐっと噛んでいたのに気づかれたらしく、とりなすように私のグラスにビールが注がれる。
「でも、知っておいて欲しかったんです。お嬢様をそれをお望みでしょうから」
「…真耶ちゃ…嬬恋さんはこれを知っているんですか?」
「ご存知ですよ。というかお嬢様からお話したようです。親友には知っておいて欲しいというのもあるでしょうし、もともと隠し事とか好きな子でも無いですから」
ちなみに、妻と娘をいっぺんに手放すはめになったお父さん、しばらくは寝込んでいたほどショックだったという。お母さんにこそ厳しく当たることはあったが、苗ちゃんは猫可愛がりだったらしいので、娘を失ったショックが何倍も大きかったのだろう。会社の経営は役員たちに任せ、自分はお屋敷に引きこもっていた。
だが抜け殻のようだったお父さんは、お身内の方などの気遣いも有り、少しずつ元気を取り戻していった。部下の奮闘もあって会社の業績も持ち直した、と。そのあとも苗ちゃんの身の上話は続いたのだが、沈んだ表情の私を気遣ってか、やがて気さくなガールズトークが勝っていった。メイドさん達はものすごく会話が楽しい、肩のこらない人だった。
私は夜半頃床についた。他のみんなは寝静まっており、夜の出来事は気づかれていないと思っていたが、翌朝、苗ちゃんに釘を差された。
「ウチの話聞いたっしょ? あ、気にしないでよウチぜんっぜん気にしてないから。つかハレモノに触るみたいの禁止だかんね?」
苗ちゃんたちは庭に遊びに出て行った。体を動かさないとソワソワする、という苗ちゃんに付き合って、庭にあるミニバスケットコートで遊ぶのだそうだ。それを応接間から見守る私と二人のメイドさん。そこに目を覚ましたお父さんがやってきた。私から言い出す前にお父さんから言われた。苗のこと、どこまで聞きましたか、と。私に身の上話をするというのは暗黙のうちに決まっていたのだろう。
少しずつ元気を取り戻した苗ちゃんのお父さんは、しばらくして手紙をしたためた。そこには苗ちゃんの新しい両親として奮闘する御代田家の人々への丁重なお礼とともに、
「引き取る準備が出来た」
という苗ちゃんへのメッセージがあった。
「自分から放り出しておいて今更何を勝手な、そういう思いもありました。それでも私は改めて苗の父親になる決心をしたのです。より遅くまで引き取り手でもめた苗がようやく行き先を見つけた。そしてそこで幸せにやっているらしい。でも、そこへの嫉妬心もあったのでしょう」
苗ちゃんには色々葛藤もあったろう。しかし苗ちゃんは戻る道をいったんは選んだ。それからしばらくこちらでの暮らしが続いたらしい。
そこでお父さんの話は途切れた。続きが気になる私だったが、お父さんが庭の散歩に出てしまったのでなす術がなかった。
「私たちが来たのはずっと最近なのです」
消化不良な顔をしていた私の様子を察してか、短い髪の方のメイドさんが言った。
「ご主人様は立ち直り、お嬢様を迎え入れる準備に余年がありませんでした。そして私たちは苗様をお世話するために雇われたのです。ご主人様はまた仏のような方に戻られた、いや、もともとそちらが本性で厳しいお姿が仮面だったのでしょう。だから私たちは優しいご主人様しか知りません。お嬢様を含めての、平和な日々が続いたのです」
しかしある日、事件は起きた。
「突然お嬢様がいなくなったのです。一人で横浜の市内に遊びに行く事はよくありましたから、それだと思っていたら、木花村のペンションにいたというのです。私達が迎えに行った時には、普通に食卓のお皿を並べていました」
苗ちゃんは子供の頃から行動派だった。昨日私達が案内されたのも彼女の遊び場所だったところだ。しかしそのときの目的地はそこではなかった。お小遣いを潤沢にもらっていたことも、それにかかわらず倹約家なところも幸いして、旅費はたやすく捻出できた。
苗ちゃんに行動を起こさせたのは、台風だった。コースは北信越から北関東を通り抜ける予想で、木花村を直撃の危険があるとニュースで告げられては居ても立ってもいられなかったのだろう。すでに雨脚が強まってきている中、真っ黄色のレインコートに身を包んだ苗ちゃんが、ペンションのドアを叩いた。
ペンションの「ご両親」は最初びっくりしたが、横浜のパパから台風への備えを手伝ってくるよう言われた、と告げると喜んで迎えられた。しかし。
「すいません、突然お電話差し上げましてびっくりなさったでしょう? いえね、今日急に苗ちゃんが来て、お手伝いするってきかなくて。あ、学校が臨時のお休みで、お父様が行って来るよう言ってくださったんですって? 悪いですねぇ、助かりますけど…あと、お土産いただきまして有り難うございます」
木花のお母さんは商売人ということもあり、義理堅く礼儀正しい人だ。律儀に横浜にお礼の電話を入れたことで、苗ちゃんの足がついた。横浜の家には了承を得ているという嘘の説明が成功したと本人は思っていただろうが、台風の中小学生が単身百キロ以上離れたところから一人で急にやってきたらその場は騙せたとしても安否の知らせのため保護者に連絡される、ってところまでは頭が回らなかった。
メイドさん達が到着したときには、苗ちゃんは普通にお茶を飲んでいた。ペンションの建物や庭木には補強がしてある。これが苗ちゃんのヘルプによるものだとはすぐに察しがついたという。
「日曜大工とかに興味があって、ホームセンターによく行っていたようです。自分はペンションを手伝うんだ、そう決めていたのでしょう」
驚いたのは御代田家のご両親、つまり今の苗ちゃんのお父さんとお母さんだ。
「私達がペンションに突然現れたことでお嬢様の嘘はばれました。保護者の許可を得ているならそのメイドが台風の中迎えに来るはずもないですから…。でも、あちらのお父様の怒りようと言ったら…」
本当のお父さんに心配をかけるとは何事だ! と。
「嬉しかったに決まっています。一度は自分の娘だった存在が戻ってきたのですから。でもそこは心を鬼にして。実の父親を立てようと…」
けれど、それですんなり引き下がる苗ちゃんではなかった。そのあたり気の強い彼女ならではなのか、意外と言うべきか…。
「今でも覚えています。転んで怪我をしたりしてもしかめっ面一つしない子だったのに…」
みるみるうちに苗ちゃんの表情は曇り、長年積もり積もったであろう感情が一気に爆発した。
「お、お父さんだって、お父さんじゃんよぉ…う、う、うわあああああああん」
さっき飲んだお茶を戻すほど号泣した苗ちゃんを見て、結局、実のお父さんが折れる形で収まったのだという。
「ペンションが忙しくなる秋の行楽シーズンを目前にした頃のことでした。向こうのご両親をほってはおけなかったのでしょう。優しい子なんです」
散歩から戻ったお父さんが、話を継いだ。話すのが辛いことだから、しばらく間をおいて心を落ち着かせたかったのだろう。
外は風雨も強まってきていた。お客様からもキャンセルの連絡があった。今日はこのまま泊まっていけばという御代田家のお母さんの言葉でメイドさんともどもペンションに一泊することに。ようやく泣き止んだ苗ちゃんはそのまま熱を出して寝込んだ。
「それはそうですよね。曲がりなりにもお世話になった家からハイこれまでよとばかりに出て行くのは我慢ならなかった、ずっと良心の呵責があったのでしょう」
それは分かる。でも…、
「お父様はどうなるのですか?」
思わず聞いてしまった。立ち入ったこととは知りながら。私もどっちが正しいのか、葛藤していたのだ。
「だから、こうやって時々会いに来てくれているのです。私はそれで十分です」
という言葉が強がりと思えなくもなかったが、そこに続く言葉を聞いては無理矢理にでも納得せざるをえなかった。
「私は一度、苗を捨てたのですから」
今はそれで、父も子も納得しているという。だが私には、今の苗ちゃんが別のことで悩んでいるように見えた。そしてそれに彼女の親友も気づいていたようだ。朝食を待っている間、苗ちゃんがトイレに立ったタイミングを見て真耶ちゃんが私に耳打ちした。
「えっと、あたしと花耶ちゃん、スキー行くの。母さんが休み取れたんで、急に決まって…」
木花村にもスキー場はある。しかし規模は小さいし、毎日同じ場所で滑っても飽きる。なかなかの腕前を持つ彼女たちがより広いフィールドを求めるのは自然なこと。今回の行き先は日本有数の規模を持つ一大スキーリゾートエリア。単独のスキー場ではなく幾つものスキー場がひとかたまりのゾーンを形成していて、かつては冬季オリンピックの候補地にもなったところだ。スポーツ大好きな苗ちゃんの食指が動かぬはずはないだろう。まして彼女のペンションのほうのご両親は仕事のためなかなか旅行に行けない。だからそのかわり、真耶ちゃんたち一家とよく旅行行動を共にしてきた。さらには東京の学校が新学期に入り、一方で寒さが本格化してパウダースノーが積み増しされた今は、比較的すいた良いコンディションのゲレンデで存分に遊ぶチャンスだ。
「ウチのぶんまで楽しんできて、って苗ちゃん言ってるけど…でも、苗ちゃんも本当は行きたいと思うんです」
でも苗ちゃんの逡巡の理由はそれだけではないだろう。真耶ちゃんのスキーの師匠は苗ちゃんだし、今年はスキー連盟の昇級試験を一緒に受けることになっていた。広大なゲレンデで特訓し、一緒に合格。そういう約束をしていた。そしてその約束を果たせる日は、真耶ちゃんのお母さんの都合で明日からしか無かった。不可抗力とはいえ、約束を破るのは苗ちゃん的に納得がいかなかっただろう。
真耶ちゃんも躊躇していた。それが手に取るように分かった。いっそスキーやめてしまおうか、そう考えていても不思議ではないし、真耶ちゃんだけの問題だとしたらきっとそうしただろう。でも真耶ちゃんだって分かっている。真耶ちゃんのお母さんだって真耶ちゃんと離れ離れ。家族団らんのチャンスが有るならそれを潰すのはお母さんに対して悪いことだ。
どことなく沈んだ雰囲気のまま、朝食が始まった。しかしその賃貸も真耶ちゃんの逡巡も、苗ちゃんのお父さんの一言であっさり解決した。
「苗。我慢することはないんだよ」
何を我慢することはないというのか。説明は不要だった。苗ちゃんは静かに微笑んだ。
「苗が喜んでくれるのが、パパは一番嬉しいんだよ」
「お嬢様がご主人様を嫌いなわけでは無いんです。でも子供には時間がありますから。親にはいつでも会える。それより今しかないチャンスを、と思うのは自然だと思います」
長髪のメイドさんが、昨夜とは打って変わってきっちりとしたメイド服を着て、でも口調はゆうべと変わりない穏やかなふうで私に言った。
「どちらのご両親も、お嬢様にとってはかけがえのない存在なのです」
昨日、苗ちゃんは言った。
近いうちに戻ってきたい、と。
でも、それは無理な相談だろう。そんなことはお父さんだって分かっている。分かっていて言ったのだ。お父さんは、本当はこう答えたかったに違いない。
「心にもないことを言ってはいけないよ。苗がしたいようにするのが、パパは一番嬉しいんだ」
苗ちゃんにとって、横浜での暮らしは恵まれていた。恵まれすぎていた。ものが溢れていた。溢れすぎていた。
木花村での暮らしは田舎だし、質素だし、ペンションの手伝いもいっぱいある。それでも、苗ちゃんにはそっちが魅力的だと映った。もちろん二人のお父さんの間での板挟みであることは否定出来ない。でも、いったんは忘れていてほしい。私はそう思っていた。
「どうせなら、苗ちゃんもうち泊まって、そのまま行こうよ」
という真耶ちゃんの提案は地理的に正解だ。横浜よりも、真耶ちゃんの家がある東京都内のほうがスキー場には近い。夜も空けない早朝から車を走らせてリフトの運転開始に間に合わせようというのだから少しでも距離は詰めたほうがいい。だいいち車は真耶ちゃんの実家にあるのだ。
もちろんもう一つ理由がある。苗ちゃんのお父さんとのお別れは明るい昼間のうちにやったほうがいい。ギリギリまでいればいるほど別れが辛くなるし、暗闇は人の心を沈み込ませる。晴れ渡った太平洋岸の冷たくも明るい陽光の中でバイバイしたほうが幾分か良い。
だからお父さんとのお別れも、あえてサバサバしたものだった。それでいてお父さんは最高の笑顔をくれた。
もっとも、お別れしたのはお父さんだけ。
二人のメイドさんが私達を送ってくれることになった。大勢乗れるワゴン車でありながら高級外車のエンブレムが付いた座席はふかふかで乗り心地があまりにも良い。こんな車で送ってもらえるだけでも贅沢なのに、苗ちゃんばかりか、真耶ちゃんと花耶ちゃんまでもがスキー一式を買ってもらえることになった。苗ちゃんと仲良くしてくれることへのお礼だとか。もちろんふたりとも最初は遠慮したがお父さんの猛烈プッシュに折れた。スキーの道具は木花村にある。明日いったんそれぞれの家に寄って荷物を積み込む手間が省けたのは良いことだ。
私はスキーには行かない。でもそのかわりということで同じくらいの額だけ洋服を買ってもらった。ここで遠慮は失礼だという説得に私も折れ、就職後に使えそうなスーツ一式を買った。ついでに真耶ちゃんたちの、
「一緒に晩御飯食べましょう」
という説得にも折れた。これから真耶ちゃんたちのお母さんが経営している雑貨屋さんに行き、そこからお母さんの運転する車でご自宅にお邪魔する運びだ。
宗教上の理由・教え子は女神の娘? 第十四話
横浜に住んでいたことがあります。二年にも満たない期間ですが、充実していました。仕事の都合で離れざるを得なくなったときはショックでしたし、その前にも引っ越しの必要があったのですが、横浜市内という希望は死守しました。今でもチャンスがあれば戻りたいです。
埼玉で生まれ育った作者ですが、最近里心がついたのか埼玉の風物に心惹かれる機会が増えました。でも横浜にいたときはそんなのは微塵も感じなかったのですから、今住んでいる所での暮らしが充実していれば里心なんてものは湧いてこないのかもしれません。自分の中で郷愁と思っているものの中身は、単に今住んでいるところと過去住んでいたところを比較して好きだったほうに心惹かれる、ということにすぎないのかもしれません。
要は今住んでいるところが好きになれないんです。横浜は住み始めてから後ろ髪引かれながら去るまで一貫して好きでした。逆にここはとことん肌に合わない。住めば都にもなってこないし(もう二年以上住んでいますが、余所に越したい願望は消えません)。
そんなわけで、大好きだった横浜を舞台に一本書いてみたいという願望はありました。ようやく叶って満足です。
冬休みのお話がこれだけ遅れたのは、風邪で伏せっていたのもありますが、さすがに月が変わると言い訳できないですね…。