散りゆく桜の花のようにそっと17

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「お兄ちゃん」
 と、裕子さんは少し大きな声で静かに眠っている沢田に声をかけた。

 沢田の病室は十畳程の広さを持った四人部屋だった。沢田のベッドは窓際にあって、窓から外を覗いてみると、そこからはさっき裕子さんと一緒に通ってきた海岸線の道を見下ろすことができた。海は気持ち良さそうな濃いブルーをしている。時刻はもう午後の四時を回り、日の光は微かに紅の色素を帯びつつあった。

「お兄ちゃん」
 と、裕子さんはベッドに横になっている沢田にもう一度声をかけた。
「大塚さんが来てくれてるで」
 と、裕子さんは話しかけた。でも、相変わらず沢田は裕子さんの声に無反応だった。ただ静かに目を閉じている。

「こうして見てると、ほんとにぐっすり眠ってるだけみたいに見えますね」
 わたしはなんとコメントしたらいいのかわからなくて、とりあえず思ったことを口に出して言った。

 裕子さんは沢田の顔に向けていた視線をあげてわたしの顔を見ると、ちょっと困ったように小さく微笑んだ。それから、裕子さんは再び沢田の顔に視線を向けると、
「せっかく大塚さんが来てくれてはるんやから、ちょっとくらい目を覚ましなさいよ」
 と、冗談めかして言った。

「沢田、久しぶり」
 と、わたしも裕子さんに続いて少し小さな声で沢田に声をかけてみた。でも、やはり反応はなかった。
「やっぱり、あきませんね」
 と、裕子さんはわたしの顔を見ると、寂しそうに小さく口元を綻ばせて言った。

 わたしはどう答えたらいいのかわからなくて、曖昧に口元を笑みの形に変えた。そしてわたしはもう一度穏やかな顔で眠り続ける沢田の顔に視線を落とした。沢田はいまこうしているあいだ、何を考えているのだろうかと思った。ほんとうに意識がないのだろうか。それとも意識はあるのだけれど、ただ単に身体を動かすことができないのだろうか。わたしは今から三年くらい前に最後に沢田に会ったときのことを思い出した。そのとき、沢田と話したことを思い出した。

 わたしたちはベッドの側に置いあるスチール製の椅子に腰を下ろした。

 沈黙があって、その沈黙なかに外の廊下を忙しそうに行き来する看護婦さんの足音や、わたしたちと同じように患者のお見舞いに来ているひとたちの話し声が聞こえた。それから、残された最後の力を振り絞るようにして鳴く蝉の声。

「・・・わたし、ちょっと気になってることがあるんですよね」
 裕子さんはしばらくの沈黙のあとで口を開くとポツリと言った。わたしが裕子さんの顔に視線を向けてみると、裕子さんは沢田の顔をどこか哀しそうな表情で見つめていた。

「あのとき、お兄ちゃんが事故に遭ったときのことなんですけど」
 と、裕子さんはゆっくりとした口調で言った。

「・・・あとがなかったんです」
 と、裕子さんは呟くような声で言った。
「あとがなかった?」
 わたしは裕子さんの科白を繰り返した。裕子さんはちらりとわたしの顔を見ると、それからまた沢田の顔に眼差しを落としながら、

「ブレーキをかけたあとがなかったんです」
 と、裕子さんはどこか思いつめた口調で言った。

「わたし、あとでお兄ちゃんの事故現場を見にいったんですけど、そしたら、普通はできるはずのブレーキをかけたあとがなくて・・・だから、もしかしたら・・・そんなことあるはずないと思うんですけど、でも、もしかしたら、お兄ちゃんは自殺しようとしてたんじゃないかって・・・」

「まさか」
 と、わたしは裕子さんの科白を小さく笑って打ち消した。わたしの知っている限り、沢田が自殺を考えるなんて到底思えなかった。

「もちろん、わたしもそう思うんですけどね」
 と、裕子さんはわたしの顔を見ると、取り繕うように微笑して言った。
「でも、ちょっと気になることがあって・・・」
 と、裕子さんは再び眼差しを伏せながら小さな声で言った。


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 裕子さんが話してくれたことをまとめるとだいたいこういうことになった。 

 沢田は実家に帰ってからも東京にいた頃と同じように小説を書き続けた。でも、沢田のお父さんはそんな沢田のことを快く思っていなかった。そもそも沢田のお父さんは沢田が大学を卒業したあとすぐに就職しなかったことが不満だった。

 せっかく高い学費を払って大学まで行かせてやったというのに、フリーターをして五年近い歳月を無駄にしてしまったと感じていた。それでやっとどうかに実家に連れ戻して家業を継がせることにしたというのに、いまだに小説を書き続けているなんて何事かというのが沢田のお父さんの意見だった。

 沢田のお父さんは沢田に対して、いい加減くだらない小説を書くことなんてやめて仕事に専念しろと説教し、それに対して沢田は好きにさせてくれと反論して、口論が耐えなかったと裕子さんはわたしに説明した。

「・・・まあ、お父さんの言いたいこともわからなくはないですけどね」
 と、わたしは裕子さんの顔を見ると、小さく微笑して感想を述べた。

「やっばり、大塚さんも、音楽をやってた頃、両親と将来のことでもめました?」
 裕子さんは気遣わしげな表情でわたしの顔を見ると言った。わたしは裕子さんの科白に苦笑すると弱く首を振った。

「うちの両親はいい加減なひとたちだから。わたしがどこでなにをやってようと、基本的に他人に迷惑さえかけなければ、なんかどうでもいいって感じで」
 裕子さんはわたしの笑みに誘われるようにして口元を綻ばせると、
「うちの両親もそんな感じだったら、お兄ちゃんももうちょっと気楽だったんだろうなぁ」
 と、言ってから、ため息をつくように少し小さく笑った。

「たぶんお父さんは、沢田の将来のことが心配だったんでしょうね」
 裕子さんはわたしのコメントに、寂しそうな表情で静かに頷いた。

 またいくらかの沈黙があって、その沈黙のなかから音があふれ出すように周囲の物音が聞こえてきた。子供が何かを叫ぶ声、それをたしなめる、母親らしい女性の声、病院のアナウンス。誰かが咳をする音。台車が動いていく音。

「あの日の少し前、お兄ちゃんとお父さん、いつにもまして大喧嘩したんです」
 沈黙のあとで、裕子さんは話しはじめた。

 わたしは裕子さんの顔に黙って視線を向けた。

「その日、お父さんが、お兄ちゃんの小説の原稿をお兄ちゃんが仕事に行っているあいだに勝手に捨てちゃったんです。・・・あいつはまだこんなくだらないものを書いているのかって言って。

 それであとから家に帰ってきたお兄ちゃんがそのことに気がついて、ものすごく怒って、お兄ちゃん、お父さんのこと殴ったんです。

 それまでは何を言われてもそんなことしたことなかったんですけど、でも、そのときはよっぽど頭にきてたのか・・それでお父さんも感情的になって、なぐりあいみたいな感じになって」

「そのあとどうなったんですか?」
 と、わたしは結末が気になって尋ねてみた。すると、裕子さんは伏せていた眼差しをあげてわたしの顔を見ると、またすぐに視線を落としながら、
「どうにも」
 と、弱い声で答えて短く首を振った。

「それからふたりは口をきかなくなりました。お互いに無視し合ってる感じで。お兄ちゃんはずっと怒ってるみたいな、むすっとした表情で、わたしが話しかけてもまともに答えてくれなくなっちゃいました・・・それでその少しあとに、あんなことになっちゃったから、もしかしたらって、わたし気がかりなんですよね」
 と、裕子さんは顔を俯けたまま心細そうな声で言った。

 わたしは裕子さんの科白に何か答えようとしたけれど、上手く言葉が出てこなかった。

「・・・お父さんの気持ちもわかるけど、でも、お父さんもお兄ちゃんのこと、もうちょっと考えてあければ良いのに」
 裕子さんはわたしが黙っていると、独り言を言うように小さな声で言った。

 またしばらくの沈黙があった。わたしも黙っていたし、裕子さんも何かついて思いを巡らせているように黙っていた。気がつくと、部屋のなかの空間は、水で溶いて薄めたように淡い黄色の色彩に染まっていた。傾きはじめた日の光が何かの沈殿物のように病室に薄く広がっていた。手を伸ばすと、その空間のなかに広がった淡い黄色の光に触れることができるような気がしたけれど、もちろんそれはそんな気がするだけだった。

「・・・わたし、お兄ちゃんと食事に行ったんです」
 と、裕子さんはいくらか沈黙のあとで、それまで俯けていた顔をあげてわたしの顔を見ると言った。
「お兄ちゃんが事故に遭う、一ヶ月くらい前」

 窓から差し込む日の光が裕子さんの顔を弱く照らしていた。さっきよりもいくぶん濃度を深めた日の光に照られた裕子さんの顔は力なく影って見えた。

「久しぶりにふたりで食事に行こうってわたしがお兄ちゃんのこと誘ったんです。このところお兄ちゃん、元気がない気がしてたから」
 わたしは答えようがなかったのでただ頷いた。

「それで近くのレストランに行ってふたりで色々話したんです」
 と、裕子さんは続けた。
「日常のなんでもないことから、わたしの恋人のこととか、友達のこととか、色々・・・それで話していくうちに、将来の話になったんです。これからのこと」
 わたしは裕子さんの話しの続きを黙って待っていた。

「そのとき、お兄ちゃん、すごく悩んでるみたいな感じでした」
 と、裕子さんは眼差しを伏せて言った。

「他の友達とかはみんな社会に出てどんどん大人になって自立していっているのに、自分だけがずっと同じ場所に留まってる感じがするって。自分には大した才能もないことはわかってるけど、でも、諦めることもできなくて、ときどき、自分がどうしたいのかわからなくなるって話してました・・・どうすることがベストなのか・・・」

 沢田が裕子さんに打ち明けた悩みは、かつてわたしも持ったことのある悩みだった。自分だけが同じ場所をぐるぐる回り続けているような疲労感。迷い。惨めな気持ち。わたしはかつて自分という存在が不安定に揺れていた時期を思い出した。

「わたしも、そういうことは何回も考えましたね」
 と、わたしは裕子さんの話しに弱く微笑んで感想を述べた。
「そういうことは何回も考えました」

「・・・そういうとき、大塚さんはどうしたんですか?どうやってその悩みを乗り越えたんですか?」
 裕子さんは顔をあげてわたしの顔を見ると真剣な表情で言った。わたしは自嘲気味に口元を綻ばせると、弱く首を振った。
「どうもしてません」
 と、わたしは小さな声で答えた。

「田畑がいたときは・・・相方がいたときはまだなんとかそんな自分の弱い気持ちを抑えることができてたんですけど、でも、田畑がいなくなってからは、駄目でしたね」
 と、わたしは苦笑いして答えた。

「他のみんなは社会人になってちゃんとやってるのに、自分だけがいつもまでも叶わない夢にしがみついてるように思えて、情けなくなってきちゃって」

「・・・そっか」
 と、裕子さんはわたしの科白に曖昧に頷くと、なんて感想を述べたらいいのかわからなかっのか、下を向いて黙った。

 短い沈黙があった。

「そのとき、裕子さんはなんて言ったんですか?」
 わたしは裕子さんの顔を見つめて尋ねてみた。
「裕子さんは沢田の話になんてアドバイスしたんですか?」

 わたしの問に、裕子さんは顔をあげてわたしの顔を見た。わたしの顔を見たときに裕子さんの瞳が自信なさそうに微かに揺れたような気がした。

「ゆっくりやればいいんじゃないってわたしは言いました」
 と、裕子さんは答えた。

「べつに小説を書くのは何歳になってからでもできるんだし、自分のペースでやっていけばいいんじゃないって。べつに才能なんてなくたって、自分が書きたいと思ってるんだったら書けばいいんじゃないって。お父さんの言ってることとかは気にしなくてもいいと思うって」

「そしたら、沢田はなんて言ってました?」
 裕子さんはわたしの問に、軽く顔を伏せて弱く首を振った。

「そしたら、お兄ちゃんはわたしの言葉にありがとうって答えてました。・・・だけど、何かまだ考え込んでいる様子でしたね」

「・・・そっか」
 わたしは裕子さんの言葉に何か答えようとしたけれど、適切な言葉が見当たらなくて曖昧に相槌を打った。

 また沈黙が訪れて、その沈黙のなかに周囲の物音がゆっくりと膨らんで行くように聞こえた。誰かがドアを開けて出て外に行く音。空調の音。いつの間にかさっきまで聞こえていた蝉の鳴き声は聞こえなくなっていた。どこか空の高いところを飛んでいく飛行機のエンジン音が微かに聞こえた。

「きっと大丈夫ですよ」
 と、わたしは顔を俯けている裕子さんに向かって改まった口調で言った。わたしとしてはできるだけ裕子さんを元気付けてあげたかった。

「わたしの知る限り、沢田は自殺なんてするようなやつじゃないです」
 裕子さんは顔を上げると、そう言ったわたしの顔を少し不思議そうに見つめた。

「きっと沢田はちょっと運が悪かっただけです。絶対そのうちに目を覚まします。だから、安心してください」
 わたしは微笑みかけて言った。

 裕子さんはそう言ったわたしの言葉に、少しあいだ黙っていたけれど、やがてその口元を小さく笑みの形に変えると、
「そうですね」
 と、少し哀しみ含んだ透明な声で頷いた。

散りゆく桜の花のようにそっと17

散りゆく桜の花のようにそっと17

散りゆく桜の花のようにそっとの続きです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-05-30

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