蝉鳴く季節に

蝉鳴く季節に


七月になると、大学の図書館はいきなり人気になる。試験やレポートの締め切りに追いやられながら、学生が一年で一番忙しい月を過ごすからだ。毎年、なんでもっと計画的にやらなかったのだろうと、パソコンに向かいながら、左下の文字数とにらみ合いっこをする。あと2000文字だ、引用をもう少し広げようか、なんて試行錯誤する七月。図書館はいつもの静けさを失い、パソコンを打つ音と、ひそひそ話し合う声とで埋め尽くされていく。
去年まではそういった七月を過ごしていた。しかし、大学院生として迎えた今年は、夏休み中に締め切りをもってくる先生たちのおかげで、数少ないレポートを七月までに終わらせるだけだった。隣の席で、時間を気にしているのか、たびたび壁にかかった時計を見てはパソコンと向き合っている女の子を見て、去年までの自分と重ねた。それでも夏休みに持ち越せば、当然休みが減るだけなので、早めにやらなくてはいけないなと思いつつ、冷房の効いた図書館を後にした。
 急に暖かい空気に包まれた瞬間はほっとするような気分だったのに、すぐに額に汗がにじむのがわかった。正門から大学の図書館まで続く一本道は、両脇に大きな木が連なっていて、夏の間はちょっとしたオアシスのように涼しい。今日もその並木道には、たくさんの学生がベンチに座っている。ここの大学で私が一番気に入っていたのも、この並木道だった。大学を出ればオフィスビルが立ち並ぶ大きな道路に出てしまう。この背の高い並木はそんな現実を覆い隠してくれるようなそんな存在だ。私もすぐそばにあったベンチに腰掛け、かばんから水筒を取り出した。朝入れてきた緑茶は、氷が溶けていたもののまだ冷たくておいしい。前を通り過ぎた、仲良くおしゃべりをしている三人の女子学生の後姿を目で追っていると、なぜか自分が彼らとは違うような気がした。何が違うのか、何が変わってしまったのかを考えようと、空を見上げてみたけれど、大きく成長した木々に邪魔されて、青い空を見ることはできなかった。仕方なく携帯を見ると、文也からメールが来ていた。図書館を出た旨を知らせようとメールを打っているうちに、画面が電話に切り替わった。
「もしもし」
彼の声とは別に雑音が聞こえてくる。
「今メール送ろうとしてたところだったの。どこにいる?」
「今東急ハンズ。どこに行けばいい?」
東急ハンズという言葉を、口の中で復唱しながら少し笑ってしまった。彼は東急ハンズとかロフトとかが大好きなのだ。
「なんだよ」
少し笑いながら文也が返事を返してきたので、また東急ハンズにいるんだと言い返そうと思ったけれど、早く顔が見たくなったので、自分がそっちに行くとだけ伝えて、立ち上がると同時に電話を切った。
文也はホームセンターとか大きな雑貨屋が好きだった。何時間いても飽きないんだよと、付き合って初めてデートしたときに言われた。一番上の階から順に降りていく。特に目的があるわけでもないけれど、ホームセンターにいる時が、彼と一緒にいる時間の中で、一番心地いい時間だという印象を、私は今も感じている。デザインに凝りすぎて、使い勝手の悪そうな文房具を取り上げた彼の手が、とてもきれいだったことや、ソファーやベッドが並ぶフロアーで、買う予定もないのに真剣に選ぶふりをして、「新婚さんみたいじゃない?」と、さらっと言えてしまう彼が私は好きなのだ。
文也は一つ下の大学四年生で、サークルで知り合い、私が大学四年生の時に付き合い始めたので、今ちょうど一年になる。文也のことは彼が一年生の時から知っていた。それでも新入生歓迎会の花見では、飯島文也ですという自己紹介程度で、それほど話をしなかったし、それからも特に他の後輩と変わらない関係だった。彼と、急に仲良くなったのは合宿で訪れた沖縄でのことだった。



毎年台風の多い九月、安くなる時期に合わせて沖縄旅行に行くのがサークルにおいて、一年を通しての最大イベントだった。私が一年生の時は台風が直撃して雨が止まず、結局海に入ることがないまま、宿泊したコテージで朝から晩までお酒を飲んでは騒いでいた。二年生の夏は、アメリカへ留学に行っていたため参加しなかったが、確かその年も台風と重なって、青空を見ることがないまま帰ってきたという話を、お土産で買ってきてくれた紅いものお菓子を食べながら、聞いた気がする。三年生の時の沖縄は、今でもよく覚えているほど、空港から出た瞬間からこれ以上ないほどの青空だった。
泊まるコテージは毎年同じで、離島にあるこぎれいなコテージだった。二年前の旅行と違っていたのは、私が車を運転しなければいけなかったことくらいだった。二年生の時に通いでとった運転免許は、それから一年間ほとんど使われることなく、年齢を確認するカードの役目しか果たしてこなかった。もちろん羽田空港のロビーで
「今年は人数が多い割には運転できる人が少ない。景子、悪いけどお前も運転して」
と言われるなどみじんにも思っていなかった私は、飛行機の中で景色を楽しむのも忘れて、教習所以来の運転を思い出そうとしていた。けれど、地上から何万メートルも離れた空の上で、その感覚がよみがえるわけもなく、飛行機の機体が傾くときには、自分の足にいつも以上の不安を感じていた。沖縄は道が広いから大丈夫だとか、沖縄の人は優しいからゆっくり運転しろだとか、意味の分からない説得を延々と聞かされて、結局那覇空港に着いたときには、私も運転を承諾し、せめてもの救いとして小さい五人乗りの自動車を選んだ。
「文也も運転免許持ってるっていうから、もしもの時は代わってもらえよ」
赤と薄紫のチェックシャツを着て、薄いクリーム色の短パンを穿いた会長の直喜は、そういうと鍵を渡し、忙しそうに他の車へと走っていった。その後ろに隠れていたこげ茶の短パンに、白い無地のTシャツを着て、大きな紺色のボストンバックをもった文也君が、苦笑いしながら立っていた。明るい茶色に染められて少しパーマのかかった髪は、強い日差しを受けて、いつもより明るく見えた。
「俺、いつでも代わりますから」
と言いながら、近づいてきた文也君に「じゃあ文也君、はじめから運転していいよ」と言いかけて私はやめた。こういう時なぜか私は甘えられない。だから私は
「ありがと。でも、大丈夫。助手席頼んだよ」
と言って、トランクを開けに後ろに回った。
かなり久しぶりの運転だったはずなのに、空港から比較的広い道が続いていたおかげで感覚を取り戻し、市街地に着くころには周りを見る余裕も生まれて、運転が楽しくなっていた。道路わきに植えられている木々の中に、時々南の島を思わせるヤシの木があって、目を楽しませてくれた。コテージに向かう途中で、各車ごとに食事をとらなければならなかったため、助手席に座った文也君が携帯で沖縄そば屋を探し、カーナビの代わりを務めてくれた。その一方で、後部座席に座っていた後輩に対しては、車で流す曲のリクエストを聞いたり、一緒になって歌ったりして盛り上げてくれていたので、私は彼も先輩になったのだと感心していた。
「次の信号を右に曲がれば、少し先の道沿いにあります」
文也君の声に小声でリョーカイと言いながら、ウインカーを出して右車線に移った。そのまま対向車線の車が切れるのを待っていると
「景子さん、普段運転しないんですか」
文也君が遠慮がちに聞いてきた。車の中ではサザンの曲がかかっていて、いかにも暑い季節にぴったりの雰囲気を出していた。
「全然しないよ。駅までは近いし、遠くに行くときだってお兄ちゃんかお母さんが運転するから。私が運転する必要がないっていうか」
「お兄さん、いるんですか?」
文也君は驚いたような声で聞いた。
「うん。二個上の。意外だった?」
「いや、弟とか妹とか年下がいそうなイメージだったんで」
初めてそういったイメージを言われたので、後輩から見ると印象って変わるのかな、と思いながら信号が変わったので、右折した。
「あっあれじゃないですか?」
後ろに座っていた女の子の声が聞こえたので、道沿いを見ていると、少し先に赤い板に黒く太い文字で沖縄そばと書いてあるのが見えた。一軒家の下だけを店にしたのか、二階から洗濯物がぶら下がっていた。店の前にある駐車場には、昼時でもないのに多くの車が止まっていて、運転以上に苦手だった駐車を思い出してしまったが、出る時には空いていることを願って、頭から突っ込んで入れることにした。
 外見からは、小さな店に見えた店内は奥に長細く、座敷席とテーブル席、そしてカウンター席に分かれていて、地元の人なのか家族連れが多かった。
「いらっしゃいませ」
笑顔で奥から出てきた女の子は、よく日焼けしていて沖縄の印象を全身で表しているようだった。彼女がテーブル席にメニューを置いてくれたので、私たちは順番に席に着いた。五人分の水とおしぼりを持ってきた女の子も、先ほどの子と変わらないくらい日焼けているが、すっぴんだからかまだ高校生くらいに見えた。うすピンク色のTシャツには、胸のところにキャラクターが入っていて、下は学校のジャージだろうか、ブルーに黄色い線が二本入っているのが、膝のあたりで切りっぱなしになっていた。小麦色の肌と金髪に近い髪形で、パッと見れば東京の渋谷にいる子たちと変わらなく見えたが、その化粧っ気のない顔は、無邪気さの塊のようなイメージを与え、彼女たちを幼く、だけどとても愛らしくみせていた。
「沖縄そばでいいですよね」
文也君が聞いたので他の人がうなずくと
「沖縄そば五つ」
カウンターに向かって、少し大きい声で頼んだ。店内は、天井からぶら下がっているテレビから流れる野球中継の音と、そばをすする音がした。
「綾香は沖縄初めて?」
私は前に座っていたショートカットの女の子に聞いた。彼女の黒髪は、目のすぐ上の位置でまっすぐ切られていて、彼女のもともと大きい黒目を、より大きく強調していた。唇もふっくらしていて可愛らしい彼女は、今年入ってきた新入生の中でも、特に明るく活発的な子だ。
「小さいころに来たことはあるんですけど、覚えてないくらい小さかったんで、初めてと変わりません」
ストレートの髪を耳に掛けながら言った。笑うと目じりにしわがより、まつ毛を延長したような線ができるその笑顔は、話している相手を、一瞬どきっとさせるほど、大人っぽい雰囲気に変えてしまう素敵な笑顔だ。
「なつも同じ」
綾香の隣に座っていたなつみちゃんが、綾香に顔を向けながら驚いた表情で言った。なつみちゃんは、アニメのキャラクターにでてきそうな声をしている。ただ高いのではなく、ゆっくりしゃべる癖があるので、とても聞きやすくよく通る声だ。語尾を少しだけ伸ばして、母音を強調したようなしゃべり方なので、初めて彼女の声を聞いたときは、甘えている猫の印象を受けた。
「家族で、なつがまだ四歳だったころ来たみたいなんですけど、その時なつが紫いもアイスクリームをいっぱい食べすぎてお腹痛くなったって聞きました」
「確か、それ、去年お土産を買いに行った国際通りでみんな食ってたよ」
文也君が思い出したように言った。私も一年生の時に食べた記憶がある。紫色だったことは覚えていたものの、その味はもうすっかり忘れてしまっていた。
「景子さんは、夏休み何してたんですか?」
テーブルに置いてあったおしぼりをたたみながら、綾香がそう聞いた。彼女の真っ赤に塗られたマニキュアが、白いおしぼりと対照的に鮮やかに輝いている。
「家族で香港とマカオに行ってきたの。特にマカオは街並みがヨーロッパ風に作られていて、教会とかがすごくきれいだったんだよ」
「いいですね、私海外まだ行ったことないんですよ。ハワイとか、グアムとかでいいから行きたいな」
「綾香もなおちゃんも、まだこれからいっぱい行く機会があるから大丈夫よ」
そう言うと、彼女たちは楽しそうに国の名前をあげて、料理や建物など行きたい場所を話し出したので、私たちは今まで行ったことがある旅行の話をしていた。そうしているうちに、白い器を持ったさっきの女の子たちがやってきて
「お待たせいたしましたー」
と言いながら、私たちの前にそばの入った器を置いていった。白い湯気からはだしのいい香りがして、急にお腹がすいていたことを思い出したように、みんな一瞬黙り込んだ。
「沖縄そばってうどんなんですか?」
驚いたように器の中を見ながらなつみちゃんが言った。
「そばじゃないけど、うどんっていう感じともちょっとちがうんだよ。見た目はうどんっぽいけどね」
文也君が言いながら、彼の隣に置いてあった割り箸をみんなに配ってくれた。
下まで透けた汁は、意外にも味がしっかりとしていた。上に載った肉も、口に入れると、とろけるほど柔らかくて、そばと相性が抜群だった。いただきますと言って、食べ始めはおいしいねとか写真撮らなきゃとか言い合っていたけれど、それから少し経って、みんな無言のままそばをすすった。みんなより少し早く食べ終わった私は、ゆったりと視線をテレビの方に向けていた。さっきまでやっていた野球の中継から、競馬になっている。その下で一人で新聞を抱えたおじさんが、食い入るようにテレビを見上げていた。
「おいしかったですね」
斜め前に座っていた文也君の声がしたので、顔を向けると、丁寧に汁まで飲んで、満足そうに笑っていた。相槌を打ちながら、文也君のうっすら赤らんだ顔を見ていたとき、後ろの壁に貼ってあった、茶色く黄ばんだアルバイト募集の張り紙が目に入った。時給六五十円。文也君も私の目線に気づいたらしく、後ろを振り返り、もう一度振り向いて
「破格の時給ですね、おれのコンビニの時給より安い」
苦笑いしながら小声で言った。
「文也君コンビニでバイトしてたんだ。夜勤?」
「はい」
「俺も同じところでバイトしてるんですよ」
隣で携帯をいじっていた石井君が、顔をあげてから嬉しそうに言った。石井君は新入生で、確か出身は静岡や埼玉のどっちかだった気がする。新入生歓迎会の時に着てきた大きいモスグリーンのトレーナーを、いい色だねと褒めたことが気に入ったらしく、グリーンの洋服を着ていると今日はどうですか、と聞きにやってくる人懐っこい後輩だ。
「どこのコンビニ?文也君一人暮らしだっけ?」
「一人暮らしですよ。コンビニは、駅の反対側のところです」
「圭介と海斗も同じところでバイトしてるんですよ」
駅の反対側のコンビニは、大学の通学路にも、大通りにも面してないので、あんまり混まないと私の一個上の先輩たちも働いていたのを思い出した。
「私たちもこの前、文也さんと海斗が夜勤しているところ見ましたよ」
そばを食べ終わったなつみちゃんが、綾香に同意を求めるように、ねっと言った。
「誰もお店にいなかったから、文也さんがソフトクリーム作らせてくれて、でも綾香が作ったソフトクリームの形がひどかったんですよ」
そう言いながらかばんから携帯をだして、写真を見せてくれた。綾香が違うんですよと言っている中、なつみちゃんのピンク色の携帯を受け取った私は、半分落ちかけそうなソフトクリームを持って笑う綾香と、その横で笑う青と白の制服を着た文也君を見た。なつみちゃんの携帯には、それと同じくらい大きいくまのぬいぐるみがついていて、かわいいフリルの洋服まで着せてあった。
笑いながらなつみちゃんに携帯を返して、壁にかかった時計を見上げた。六時半を過ぎたところだった。
「そろそろ行こうか」
私の声に合わせて、みんなが財布を手に立ち上がった。それぞれ会計を済ませてから外に出ると、蒸し暑い空気が一気に体を駆け抜けた。上を見上げて、どこまでも続く青い空が、いくらか東京のそれより青い気がして、沖縄に来たのだという気分を改めて感じた。
「ここからコテージまでは、どのくらいなんですか」
石井君が駐車場の砂利を蹴りながら聞いてきた。なつみちゃんと綾香は、そば屋の前で写真を撮っている。なつみちゃんは水色のロングワンピースに麦わらの帽子をかぶり、綾香は黒い短パンに薄いオレンジ色のタンクトップを着ていた。格好も性格も対照的な二人はとても仲良しで、お揃いの大きなひまわりのついた白いビーチサンダルを穿いていた。
「一時間はかかると思うよ。コテージは本島とは離れた島にあるから。長い橋を渡っていくんだったと思うんだよね」
二年前に記憶を頼りに、曖昧に答えた。石井君は薄い色のジーパンに黒いインナーを着て白いシャツを羽織っている。彼が穿いていたビーチサンダルは、足をかけるところが赤く、下の部分が黄色かったので、思わずファーストフード店に置いてあるケチャップとマスタードを想像してしまった。
「橋から見える海がきれいなんだよね。今日はまだ時間が早いから、たぶんよく見えると思うよ」
そう言うと、写真を撮り終えていた女の子たちがうれしそうに笑った。
「運転変わらなくていいですか」
最後にお金を払っていた文也君が、車の前に来たところで聞いてくれたが、私は少し間をおいてから、
「うん、もう少しだし大丈夫」
と答えた。文也君は、じゃあお願いしますと少し申し訳なさそうに言いながら、助手席に座った。コテージのある離島までの道をカーナビにセットして、私はエンジンをかけた。予想していた通り、駐車場の車は来た時よりも減っていたので楽にバックができた。少し車を走らせたところで、私の携帯が鳴ったので文也君に見てもらうと、直喜からだった。
「出てくれる」
文也君に電話を取ってもらった。電話の向こう側で直喜が話しているらしく、文也君は返事だけ一定のリズムでしていた。突然雑音が聞こえたかと思うと、直喜の声で
「景子?」
と呼ばれた。スピーカーフォンにしたらしい。
「今どこら辺?」
「今まだ市街地だよ。もうすぐ大通りに入っていくところだと思うけど」
「まじか。よかった。酒買うことみんなに伝えるの忘れてて、景子の車と俺の車以外はもう橋越えちゃったらしくてさ。だからバイパス上がる前にある大きい交差点を、左に曲がるとすぐにスーパーがあるから寄ってくれ」
一方的に言われて切られた。直喜も運転中だったのだろうか、いつもの大きい声より余計に命令的で大きな声だった。仕方なく私は車線を左に変えて、大きい交差点を左に曲がった。小さな商店らしきお店はたくさんあるものの、いくら探してもスーパーらしい看板が見当たらないので、Uターンをしてからまっすぐ進むと、右側に大きな紫色の看板が見えたのでウインカーを出した。
スーパーの駐車場は空いていて、大きな車が止まっているのはすぐにわかった。徐行しながら近づくと、車の周りにいた直喜と他のサークルの子たちが、こっちを向いて手を振っていた。
「ありがと。助かったよ。俺のところだけで選んで運ぶのきついからさ。景子の車ならまだ市街地だろうと思ったんだよね」
降りてきた私に向かって、先ほどよりずいぶんと直喜らしい声で言った。直喜は一年の頃から私たち同学年の中で盛り上げ役の存在で、会長に選ばれた今はサークル全体を明るくしている。人見知りなんて言葉はみじんも存在しない彼の笑顔に、後輩の女の子が好意を持ってしまうのもわかる気がする。二年前は私自身もそうだったように。
「それって私が遅いってことだよね。全然よかったんだけど、私の車小さいし、今だって五人乗って荷物まで乗ってるから、ますます遅くなっちゃうよ」
「お前がその可愛いのがいいって選らんだんだろ。じゃあ俺の車と交換する?」
「直喜のじゃないし。いいです。私はかわいい車がいい」
そんな話をしながら、私たちは明るい店内へと歩いて行った。店内は冷房が効いていて、肌寒い位だった。沖縄といってもスーパーはどこも同じだななんて感じながら、お酒とお菓子コーナーを探した。三十人ほどいる集団のお酒とお菓子を買うのは、大変なことだ。女の子と男の子半々だとしても、最近はビールを飲む子が少なくなってきているので、酎ハイも買わなくてはいけない。たくさんある酎ハイの種類は後輩に任せて、私と直喜は日本酒や洋酒が並んでいる棚へ向かった。
「一年の時、俺ら相当酔っぱらって一緒に外で寝てたよな」
片手に高そうなワインを手にした直喜に、嫌な思い出を引き出されたので、しかめ面をしていると、後ろからついてきていた文也君が、意外そうな顔をして
「景子さんにもそういうことあったんですか」
と驚いたように聞いてきた。
「変なこと言わないでよ。あの時は空調が壊れたから外で寝るって五、六人で寝たじゃん。結局雨が強すぎて、私と由美たちは中に入ったけど、直喜と先輩たちは朝までビニールシートかけて寝てたよね」
「そもそもお前たちが酔っぱらって外に出てったから始まったんだろ。今年は雨も降らなそうだし、また外で寝るか?文也、お前もやるだろ?」
あからさまに迷惑そうに笑っている文也君に、なんだよといいながら肩を組む直喜の姿を見ながら、一年生のころの自分を思い出していた。
一年生の頃は確かに、お酒の飲み方を知らなかった。先輩に言われれば飲んでいたし、酔っぱらっても気づかないで飲み続けていた。気づいたときにはトイレにいることがしょっちゅうだったし、先輩の家に泊まりに行くのも当たり前にのようにしていた。でも二年生になって、新しく後輩ができてから、立場が変わってしまった。自分を可愛がっていた先輩は卒業してしまい、自分が後輩を飲ませたり、飲み会を盛り上げたりしなければならなくなった。酔っぱらうことも大切だったが、酔っぱらいを介抱するのも大切な仕事だった。いつしか介抱しなきゃと思う意識が、酔いをさめさせる薬のように私の意識にストッパーとなって、お酒の飲み方を覚えていったのだと思う。
思い出話を懐かしみながら強めのお酒をかごに入れていると、直喜さーんという後輩の声が聞こえたので、私たちはかごを押しながらレジへと向かった。レジに並んでいるとき、直喜が無言のままレジを離れたので、その姿を目で追いながら疑問に思っていると、走りながら何かを手にして戻ってきた。
「まだ買うの?」
「お前、これがなきゃ沖縄っていわないだろ」
自慢げに掲げたのは、オリオンビールだった。すでにお酒が体に入ったかのように、にこにこしている直喜を見て、つられて笑っているとせっせと袋に詰めていた後輩たちが、不思議そうに私たちを見ていた。
直喜の車が出発するのを見て、私も車にエンジンをかけ、その後ろをついていくことにした。あたりはすっかり夜になっていて、来た道が違った風景のように見えるほどだった。さすがに疲れてきたのか、後ろに座っている三人も、外を見つめたり携帯をいじったりしていて無言だった。文也君も、さきほどまでの明るさはなく、暗くなった沖縄の空が、私たちを包んでいるように、懐かしい音楽だけが車の中に流れていた。
一定間隔に並んでいるオレンジ色の光をぼんやりと眺めていると、ふと昔のことを思い出した。前にもこうやって夜の闇に光るライトを見つめたときがあった。どこまでも続くテールライトを眺めながら、このまま車が、闇の中に消えてしまえばいいのにと本気で願ったあの日、私は今よりずっと若くて純粋だったのだろう。
長い橋を通り、街灯のほとんどない暗闇を進んでいると、やっと大きなホテルが見えてきた。
「ここに泊まるんですか」
石井君がうれしそうに聞いた。
「残念だけど、この大きいホテルじゃないよ。このホテルと同じ敷地だけど、私たちが泊まるのはコテージだから」
そう言っているうちに、目の前に懐かしい風景が広がってきた。
コテージは十棟あった。海まですぐの距離に建てられている掘っ建て小屋で、近くには大きめのプールも備わっている。駐車場に車を停め、自分たちの荷物を出した後、直喜がいったん各自で部屋に荷物を置いてから、交代でシャワーを浴びて、それから直喜の部屋に各自集まるという初日の流れを説明した。女の子は用意に時間がかかるから、お酒を運ぶのは先に着いていた男に頼むと言われ、私と残りの女の子たちは、コテージへ歩いて行った。一番手前にあるコテージに、三年女子がいると言われ、私はそのコテージに向かって、大きな旅行鞄を持って行った。
「遅かったね。運転どうだった?遅かったから先にお風呂入っちゃったよ」
部屋に入ると、タオルで髪を乾かしながら、ベッドの上でくつろいでいた由美が言った。つけまつげを取ったのか、目が小さくなった感じがしたが、すっぴんでもいつもの可愛らしい雰囲気は、そのままだった。いつも明るい髪の毛が、濡れて黒くなっていて、若干大人っぽく見えた。コテージの中には、大きなベッドが三つ、シャワーと冷蔵庫がついていた。大きなワンルームの内装は、だいたいが一昨年来たときのそのままだったが、カーテンだけ初めて見る幾何学模様に変わっていた。緑や紫などガチャガチャした色合いは、あまり趣味のいいものと言えないものの、日常生活から離された空間には、合っているような気がした。
「途中で直喜に呼ばれて、お酒買いにスーパー寄ったんだよ。運転は楽しかったよ」
「そうだったのやっぱり。誰かが買いに行ってるはずって翔平と話してたんだけど、やっぱり直喜忘れてたんだね」
化粧を落としながら、床に座っていたちひろが言った。彼女は今日会った時と同じ、紺色のロンパースのままだった。荷物を開けて、自分もお風呂の準備をしていると、ちひろが一緒に入れば早いと言うので、シャワーは一個しかないからあんまり変わらない気もしたが、準備ができたところで、ちひろが入っているところに入れてもらった。お風呂場のドアを開けた瞬間、暖かい空気と一緒に、ジャスミンのあまい香りがした。
「いい匂いだね」
髪の毛を結んでからカーテンを開けると、彼女はちょうど頭を洗っているところだった。
「この前新宿で歩いてたらもらったの。新発売らしいんだけど、確かに匂いはいいから今度からこれにしちゃおっかな」
私も自分で持ってきた試供品のシャンプーを手に取り、目をつぶりながら、いつもとは違う柑橘系の強い香りを感じた。
暑いシャワーを浴びたら、思っていた以上に疲れていたのか、一気に気が緩んで、ベッドに倒れ込んでこのまま寝たい気分になった。赤い大きなポーチには、入れたと思っていた化粧水がなかったので、乳液で我慢しようかとぶつぶつ言っていたところに、ちひろが自分のそれを持ってきてくれた。彼女は洋服には興味をあまり示さないわりに、化粧品や美容に対してはいつも厳しい。彼女から借りた化粧水は、CMで有名女優が使っているものだった。そんな彼女はすっぴんでもとても肌が白く、いつも薄い化粧しかしていないので、今もあまり普段と変わらない。私も、肌がいつもより柔らかくなったかもしれないなと鏡を見ていると、ちひろが何笑ってるのと言って、鏡越しに目があった。
ちひろと由美は、一年生の時から仲良しだった。ちひろは新潟出身で、由美は私と同様に、実家が大学から通える距離にあった。三人とも学科は違ったものの、サークルでお昼を一緒に食べるため、毎日顔をあわすうちにすぐに仲良くなった。大学からすこし離れたアパートに、一人暮らししている彼女の部屋へ、ワインを持ち寄って、よく女子会を開くのが、一ヶ月に一度の恒例行事だった。
いつも片付いている部屋は、きれい好きなイメージを呼び起こすけれど、実際は最小限の物しか買わない彼女の主義で、洋服も一着買うと一着捨てる勢いだった。それでも私と由美が、誕生日やクリスマスに買ったものは、きちんと飾ってくれて、中でもアンティークのキャンドルスタンドは気に入ってくれて、何もなかった玄関の靴箱に置いてある。めったに実家に帰らない彼女のために、新潟に住む彼女の両親は、よく野菜やお米を送ってくれるのだが、とても一人暮らしの量ではないので、毎月私と由美はおこぼれをもらえるのだった。
大学から、一時間くらいのところに実家があるため、由美やちひろが私の家に遊びに来たこともある。両親がエアコンをあまり好まないので、我が家にはエアコンが付いていない。私はその環境に慣れているものの、エアコンのある暮らしに慣れてしまった彼女たちには、暑すぎて眠れないと言うと、仕方なく母がベランダに蚊帳を貼ってくれて、私たちは布団を敷いてそこで寝た。都会の空は、決して星が多いわけでもなかったけれど、キャンプをしているような気分になり、風が通り抜ける空間に横たわるのも悪くなかった。その時から時々、私は夏になると、一人でベランダに寝るようになった。
「お風呂気持ちよかった。もうこのまま寝たいかも」
ちひろがベッドに仰向けになりながら、先ほど自分が感じたのと同じことを言ったので、同感していると、由美が
「直喜が早く来いだって。私たち以外はもう集まって、始めてるみたい」
と準備を始めていたので、多少髪が濡れていたが、そのままにして私たちは直喜の部屋に向かうことにした。人数で割れば、この部屋を三人で使っているのは贅沢だったが、合宿の時は三年女子は別部屋でいいというのが、このサークルの暗黙の決まりだった。だから私たちは、気兼ねなくいつもの三人で部屋を使えた。外に出てコテージの電気を消すと、夜風が濡れた髪を通って涼しかった。
「月が近く見える」
上を見上げながら、ちひろが指をさした月は、東京のそれと比べてかなり大きく見えた。
「ほんとだね。今年は晴れてほんとよかった。来年は、就活が決まらないとまず来れないもんね」
「遊べるのも今年までか」
「今のうち楽しまなきゃね」
すぐ後ろまで迫ってきている季節は、私たちにとってまだ現実的ではなかったけれど、どこか遠くない近さで、私たちを掴んでいることだけは感じられていた。でもきれいな星空の下で、それを語るにはもったいない気がしたので、私はすぐに今の空気をそのまま感じ取ることにした。
あたりは月明かりと、数少ない電灯しかなく、薄暗いなか遠くに一棟だけ明るいコテージから、光と音が漏れているのがわかった。コテージからコテージの間は、雑草が生えていて道がない。静かな月明かりの下に響く虫たちの声は、都会から離れたことを感じさせたけれど、歩くたび虫が飛び跳ねる気がして、私たちは足早に明るくともるコテージに急いだ。
扉を開けると、むっとした空気と共に、タバコとアルコールの匂いがした。三人で使っていた部屋と同じ大きさにもかかわらず、三十人もの人が集まったこの部屋は、さすがに狭かった。重なり合うように置かれた靴を見ても、そのひしめきは伝わってきて、私たちは一瞬たじろぎながらも、とりあえずベッドの上に三年男子を見つけたので、床に座りながら飲んでいる後輩たちをよけながら、私たちもベッドへ上がった。
「そのTシャツ、一昨年買ったやつだ」
私たちを見た瞬間に翔平が言った。
「何も言ってなかったのに、三人持ってきてたの。さすがでしょ」
私が着ていた緑のTシャツを見せながら言った。一年生の時に三人でお揃いのお土産として買ったTシャツだった。由美はショッキングピンク、ちひろは黒を選び、有名なスポーツメーカーのロゴをもじってあるそれを、今回特に話を合わせたわけではなかったのに、三人ともパジャマとして持ってきていたのだ。缶ビールを持った男の子たちが、スペースを開けてくれたので、私たちは並んで座った。もともと大きめのベッドを、すべて隣り合わせにくっつけただけあって、三年生が七人座ったところで、まだ余裕があった。
「カルピス系か梅酒」
ターコイズブルーのTシャツを着た直喜が、後ろからやってきて、ちひろに缶を渡したので、ちひろは梅酒をとって、由美にもう1つを渡した。
「お前はこれだろ」
冷えたオリオンビールを私に渡しながら、直喜は私とちひろの間に座った。さきほどの出来事を思い出しながら、ありがとと軽く言うと、直喜は缶をあけて
「じゃああらためて、乾杯」
と言ってビールを突き出した。乾杯という声とともに、缶が軽くぶつかりあった。後ろの後輩たちも、かんぱーいと言いながら、缶を持ち上げていた。
「今年はいい天気が続きそうだね」
由美はもう顔を赤く染めていた。すぐ顔に出るわりに、彼女は恐ろしくお酒に強い。私とちひろも、飲めるものの、顔にはまったく出ないために、いつも全く酔ってないと思われるが、由美はすぐに赤くなるため、酔っぱらっていないのに酔っぱらったふりができる策士なのだ。
「明日は何するの?」
「海でしょ。毎年雨で水族館と植物園だったから、明日、晴れたら絶対に海行こう」
目を輝かせながら、すでに缶を飲み干している翔平が言った。背の高い彼は、一番奥で壁に寄りかかりながら長い脚を伸ばしている。着ていた黄色のTシャツは少し小さめで、窮屈そうに見えた。
「そうだな。明日は海でもいいけど、でも水族館は行くよ。会長命令だから」
直喜も競うように、缶をつぶしながら言った。彼の海人Tシャツは、よく着ているのか、首元がすこしよれていた。
「こいつの運転さ、ほんとトロイの。今日スーパーからここまで来る時なんて、何回後ろからいなくなったか」
「だから、小さいからスピードでないんだってば。わざわざ戻ってスーパーまで行ったんだから感謝してよね」
私は憮然としながらビールを飲んだ。笑いながら翔平が立ち上がったので、由美がお菓子持ってきてと頼んだ。
「菓子食うならベッドの下で食べろよ。俺たち今日ここで寝るんだから」
「いいじゃん別に。直喜は外で寝るんでしょ」
私が言うと、悔しそうにしながら立ち上がり、しょうへーいと叫び冷蔵庫の方へと走っていった。
「懐かしい、一年の時は外で寝たもんね。あの時人生で一番酔っぱらってたな」
ちひろが思い出しているのか目を細めながら言った。
「あの三日間は人生で一番怠惰だったよね。寝て食べてを繰り返してたもん」
懐かしいねと言いながら、私たちは一昨年の思い出を話しながらお酒を飲んでいた。
今回合宿にきた三年生は七人だった。みんな仲良しだったけれど、この中で直喜とちひろが付き合っているのを知っているのは、私と由美と翔平だけだった。そもそも付き合い始めたのが、夏休み入ってからだったこともあるが、あまりサークルの人に知られたくないという二人の要望もあって、私たちも内緒にしていた。直喜は別に隠さなくてもいいと思っていたらしいのだが、ちひろは、直喜が後輩から人気があることを知っていたし、サークル内で付き合っていた先輩たちが、いろいろともめてきているのを見てきたのもあって、極端に直喜を避けるようにしている。私が、逆に怪しいよと言うと、その逆に景子が直喜と仲良くすれば私は疑われないよねなんて、恐ろしいことを言われてしまった。
一時間もしないうちに、グループで座っていたのがばらばらになっていき、部屋のあちこちで、ゲームをしたり寝始めたりしていた。私も違う飲み物を取りに行こうと冷蔵庫に向かうと、文也君が空き缶を持ったまま、冷蔵庫の横にある発砲スチロールを覗いていた。
「冷えてないんじゃないの」
私の声を聞いてから、文也君は一瞬止まって、箱の中の酎ハイに手を伸ばしてから
「氷ってありますか」
とすこし赤くなった顔で言った。酎ハイで赤くなれるなんていいなと考えながら、冷凍庫を開けると、何も入ってなかった。さっきのスーパーで買ったのであるはずだと思いながら、冷蔵庫を開けると、氷がビールと一緒に押し込まれていた。
「直喜って本当にばか」
苦笑しながら取り出すと、まだ完全に溶けてはいなかったが、半分は水になっていた。文也君も笑いながら
「仕方ないっすね。このまま冷凍庫入れちゃいましょう」
そう言って仕方なく、冷凍庫に溶けた氷の袋を入れた。
「景子さんはビールですか」
そう聞かれ、冷蔵庫を開けるとビールはあと三本しかなかった。私が迷っていると
「景子さん、日本酒あけましょうよ」
後ろから言われたので振り向くと、拓海くんが一升瓶をもって、嬉しそうに立っていた。文也君と同じ学年の彼は、いつも誰か年上の人を飲ませたがる。飲ませたがるわりに、彼自身がすぐに酔っぱらってしまうので、最近では後輩にまで笑われているが、酔っぱらってしまった彼を介抱してあげているときの、いつもすいませんという彼の後輩らしい素直さが、私は好きだった。明日も運転しなきゃいけないことを考え、少しためらっていたが、酔いも助けて
「じゃあ、コップ持ってきて」
と言うと拓海君は嬉しそうに、はいと言って、私に深緑色の一升瓶を渡してきたので、私は空いた床のスペースを確保して、座り込んだ。レモンの酎ハイを手にしていた文也君が、さっきの位置から見下ろしていたので、一升瓶を斜めに、飲むとジェスチャーをすると、少し間を持って、半分あきらめた様に隣に座った。
「俺、あんまり強いの飲めないですよ」
「大丈夫だよ。おいしいお酒は意外と悪酔いしないから」
「ほんとですか」
苦笑しながら文也君は、一升瓶に手を伸ばしてラベルを見始めた。彼のまつ毛はきれいにカールしていて、女の子みたいな目をしている。自分はビューラーをしてもすぐに落ちてきてしまうので、いいなと思いながら見つめていると、急に文也君が振り向いて目があったので、わざとらしく遠くに目線をそらしてしまった。
「持ってきましたよ」
真っ赤なTシャツを着た拓海君は、暑いのか額に少し汗がにじんでいた。透明のコップに、文也君が持っていたお酒を注いで、乾杯と言った。一瞬にして、鼻から香りが抜けて、のどに熱さを感じた。
「飲みやすいね」
私が言うと、よくわからないと言った表情で二人が見てきたので、文也君はまだしも、拓海くんは日本酒が好きではないのかと疑問に思いながら、もう少し口に含んだ。
「あっ、俺が買った酒」
上から大きな声がしたので、見つかったと思い、見上げると、やはり直喜と翔平がビール片手に見下ろしていた。
「直喜のお金じゃないし。結構おいしかった、これ」
「俺が選んだんだよ。おい、ちょっと開けて」
すぐに拓海君が横にずれたので、私はコップを取り出して、直喜と翔平に注いであげた。
「やっぱり、ぽんしゅだな」
「しみるね」
あまりに隣にいる二人と違った感想に、どうしたら一年でこんなにおじさんになれるのだろうと苦笑していると、直喜が私のコップに酒を注ぎたした。
「後輩たちが見てるところだからって、猫被ってちびちび飲んでんじゃないよ。はい、かんぱーい」
と言いながらコップをぶつけてきたので、仕方なくコップに入った日本酒を、味わうこともなく飲み干すと、嬉しそうに笑いながら、それでこそ景子さんですよと変に敬語を使いながら、肩をたたかれた。
初めは五人で飲んでいたものの、日本酒を開け、ましてや直喜までいたので、やはり人が集まってきた。それから、焼酎のボトルも開けてしまい、よくわからないゲームをしながら、一気飲みをさせられていると、だんだん目の前の世界が、平衡ではなくなってきた。仕方なく、私は自分のコップにウーロン茶を足してから、外に出ることにした。だいぶ飲んだと思っていたのに、外に出た瞬間、予想以上に涼しい風を感じ、酔いがさめていくのがわかった。きっと部屋の中が、異常にあつかったせいだなと思いながら、あたりを見渡すと、外には雑草の上に座って、何人かが静かに飲んだりしゃべったりしていた。ちひろと由美の姿を探したが、そこにはいなかった。ため息をついた瞬間
「大丈夫ですか」
といきなり聞かれたので振り向くと、文也君がドアから半分体を出していた。後ろから光が入ってきていたので、顔はよく見えなかったが、扉を開けて伸びた彼の腕を、長いなと感じた。靴をひっかけてから、外にやってきたので、私たちは他のグループから少し離れたところに、二人で座った。
「ふらふらっと立って、何も言わず外に出て行ったから、酔っぱらったのかと思いましたよ」
うるさい部屋でしゃべっていたときより静かになったせいか、彼の声が大きく聞こえた。
「部屋の中蒸し暑くて、外に出たかったの」
「確かに。外が涼しく感じるから、相当中は暑かったんだろうな」
少しお酒が入って、文也君の口調は幾分柔らかくなっていた。後ろのコテージはすぐそこにあって、中の笑い声だとかは聞こえてきていたのに、なんだかすごく遠くにあるような感覚がした。彼も同じようにコテージからの音を聞いていたのか、静かに遠くの空間を見つめていた。それから適当に月がきれいだとか、波の音が聞こえるとか話しながら、雑草をちぎったり抜いたりして遊んでいたが、彼は急に手を止めて、下を向きながら少し間をあけてから
「景子さんは、大輔さんとは最近どうですか」
と聞いた。雑草をちぎった手が、少しべとついていた。
「うん。普通かな。あっちは忙しいみたいだから、学生の時みたいには会えてないけど」
「やっぱり、遠距離って、大変ですか?」
「最初はね。今はもう、慣れたから」
と答えてから、私はそれを自分に対して言っている気分になった。
大輔は、私が一年生の時に二つ上の三年生だったサークルの先輩で、今年、社会人になった。ぎりぎりまで就職が決まらず、本命から大きく外れた会社の営業に採用されて、今年の四月名古屋の支店に勤務地が決まった。最初は、知名度もある程度あった会社に決まったことを喜んでいたものの、名古屋に勤務地が決まった瞬間に、辞めようなどと、弱音を言っていた。遠距離恋愛は俺には無理だってわかった、と私が留学から帰ってきたときに言ったのにもかかわらず、今回、自分が名古屋に行くにあたっては、二年以上付き合ってきたんだし大丈夫、そこまで遠くないしという説得を、何度も私に言い聞かせていた。あまりにしつこく大丈夫だよなと聞いてくる彼に対して
「いつまでも学生じゃあるまいし、世界には、もっと遠距離しながらも大丈夫な人たちもいるんだから」
と伝えた。今思えば、適当な言い分で納得させようとしたなと思ったが、そんな言葉を本気で信じて、大輔は名古屋に引っ越してしまった。初めのころは、学生と社会人は難しいと先輩から聞いていた通りだとも思い、自分が我慢しなければと思っていたものの、週に二、三度会っていた人がいなくなってしまった失望感は、隠せなかった。けれど、すぐに、毎週末を東京駅から少し離れたラブホテルで過ごすことに、なんだか言いようのないむなしさを感じるようになった。駅で大輔を見送ったあと、一人で帰る電車の中で、もう見慣れてしまった風景を見ながら、自分がしている行動の意味を考えてしまう日曜日に、嫌気がさしたのだ。毎日の電話やメールの中に出てくる、早く会いたいの文字は、本当の意味よりも、その文字を打つことによって、相手に与える自分へのイメージが先走っていた。ついに私は耐えかねて、夏休みは会いに行けるからと言って、週末に会うのをやめようと提案した。最初は理由をいろいろ聞いてきた大輔も、私があまりにも頑固に言うので、しぶしぶ納得した。
「もう、二年くらいですか?長いですね」
文也君が空を見上げながらそう言ったので、そうだねと相槌を打ちながら、二年間があるからこそ、別れるにも別れられないのかと考えていた。実際、そうではなかった。大輔のことは好きだったし、決して嫌なところがあるわけでもなかった。でも二年付き合ってきているからと言って、別れたくないというわけでもなかった。たまたま、大輔がいるから付き合っているというのが、私なりの答えだったのだろう。誰かがいてくれる生活に慣れてしまった私には、その生活を手放す勇気がなかったのだ。その生活に愛が含まれているかいないかなどということは、私の中では、さほど問題ではなかった。
まっすぐ、暗闇の空間を見つめている文也君を、私は視界に捕えながら、傍から見たら私たちはどう映っているのかということが、ふと頭に浮かんできた。すこし間を置いてから、話題を彼に持っていった。
「文也君は、いないの?好きな子とか」
「いませんよ」
即答だった。少し拍子抜けしてしまった感じがしたので、明るく聞くことにした。
「タイプとかは?今年の新入生の女の子は?」
「いませんよ。今年の新入生は、俺とか他の二年生よりも、直喜さんとかの方が好きだと思いますよ」
やはり男の子もそういった類の話をするのかと思いながらも、話を続けた。
「そうかもね。でも、今年は女の子の方が多かったし、それにみんな可愛いし。
二年生同士だって、結構仲良しなんじゃないの?」
と聞いたとき文也君がこっちを向いて、まっすぐ私を見ながら答えた。
「俺、年上が好きなんです」
あまりに突然だったし、真剣なまなざしだったので、私は一瞬止まってしまった。たぶん口を開けて、おかしな顔をしていたかもしれない。後ろのコテージで大きな笑い声が聞こえ、一気に現実に戻ったように
「そうなんだ」
とだけ付け加えた。でもその時心のどこかで、私は、文也君の私に対する気持ちを考え始めていたし、そう願ってもいた。むしろ彼が私を探しに外まで来てくれた時に、すでにそう考え始めていたのかもしれない。今まで意識したことがなかったけれど、文也君にそういわれて、取り立てて嫌な気は全然しなかったし、逆にうれしさを感じた。ちひろと翔平が私の名前を呼ぶまでの十分くらいは、その話題から離れて、くだらない話をしながらも、私の中で文也君への意識は、どこまでも続くような暗闇に、かすかに、でも確かに光る星のように存在していた。 

いつも付き合った人に聞かれる、いつから俺のこと好きだったのという質問は、私にとって終わりのない不毛な砂漠を歩くのと同じだった。会ったときからかもしれないし、付き合始めてからだったかもしれないし、むしろ今だって本当に好きとは言えないのかもしれないという答えが、意識の中で回っているのを感じながら、口に出して言う答えは常に一緒で、初めて話したときかな、なんか話しやすかったし、だった。相手がそれを聞いて喜ぶことしか言えなかったし、そう言って自分にも言い聞かせていたんだと思う。
でも本当は誰かと付き合う前、なんでもないことでメールしたり、飲み会の時に話しかけに行ったりしているときが一番、私が誰かを好きだと感じる時なのだろう。その人に自分を意識させること、そして私のことが好きなのか探っているとき、私はきっとその人の事しか考えていない。その人の中で自分が特別な存在になっていくために、できる限り手を尽くすのだ。だから付き合ってしまったあと、その感情が続くことはあまりない。私にとって付き合うまでが山頂を目指す坂道で、その坂道を登り終えてしまえば、後は次の山頂を目指すために、むしろ次の山を造り上げるために、谷に滑り落ちていく緩やかな下り坂をゆっくりと下るだけなのだ。

「文也君と何をしゃべっていたの?」
自分たちの部屋に帰る途中に、自動販売機に向かいながら由美が聞いてきた。機械的な明かりの下には、たくさんの虫が飛んでいて少し奇妙だったけれど、なんだか炭酸の甘ったるいジュースが飲みたくなったので、由美と一緒に買って、近くにあった赤いベンチに腰かけた。ちひろは少し遠くで、直喜と話をしていた。私たちが見える範囲にいればおかしくはないと直喜に説得させられ、でも少し嬉しそうに彼女は暗闇を進んでいった。ぶどう味の炭酸は懐かしい味がして、高校の時によく飲んだことを思い出した。
「見てたの?外にいなかったよね?」
「別に覗いてたわけじゃないよ。ただ暑すぎて窓開けようと思ったら、外に座ってる二人が見えたの」
のどに痛みを感じながら、他の人も見ていたに違いないと思うと、急に恥ずかしくなった。
「別になんにも。去年の合宿のこととか、大輔の事とか、」
「 大輔さんとはどうなの」
少し間を持たせながら由美が静かに聞いた。
「普通かな。忙しいみたいだし、沖縄の話をしたら、あんまりいい気にはなってなかったけど」
「やっぱり」
答えは知っていますよ、というように、由美は缶を傾けて一気にソーダを流し込んでいた。
「景子が浮気しそうで怖いからでしょ」
「私って、そんなに浮気するように見えるかな」
「大輔さんが過保護すぎるんだよ。でも、まあわからなくもないけど。景子が無干渉すぎるのもあるんじゃないの?今は遠距離なんだし、特に気になるとは思うけど」
缶を地面に置いきながら由美が言った。前かがみになった時、彼女の髪からは石鹸のいい香りがした。
大輔がひどい心配性なのは、由美じゃなくてもサークルの三年生なら、だれもが知っていた。大輔が卒業する前、まだサークルに来ていたころは、私が誰かと少しでも仲良くしただけで、機嫌を損ねていたからだ。多少の嫉妬なら可愛いものの、大輔の嫉妬は、私を彼の胸ポケットにしまっておかなければ心配だと言わんばかりに、度が超えたものだった。一度、飲み会で寝てしまった男の子に、私が持っていたストールを貸したことがあった。その子が後日、私にそれを返しているところを大輔が見ていて、その日、大輔の機嫌は最悪だった。
サークルのみんなは、大輔と私が付き合っていることを知っているのだし、何がそんなに不安なのか、私は理解ができないふりをしていた。そして、そうやって大輔が怒ると、私はそれに刃向うようにして、ますます誰か違う人と仲良くしていった。別に友達なんだし、いいじゃないのという言い訳を繰り返して。
私はそんな大輔に少々うんざりしていたところもあった。けれど、ちひろや他の子たちから、それなら早く別れなさいと言われると、意地を張った子どものように、なんだかんだ言って、まだ好きだからと言って、そそくさと話題を変えるため、話を逸らしたりしていた。しかし、私は気づいていた。そういった過保護すぎる彼氏を、私が引き寄せていることを。私が無干渉でいられるのも、相手が私を掴んでいてくれるからだということを。
「でも今回は嫌そうだったけど、嫌とは言わなかったよ。八月に、名古屋に行ったのがよかったんだと思う」
「きっとあんまり言うと、景子が怒るから怖かったんだよ。遠距離で喧嘩なんかしたら、すぐに別れる展開になりそうじゃない?」
私はそう言われて、確かにと思いながら暗闇に目をやった。ちひろと直喜がこちらに向かって歩いてきていたのが、月明かりの下ぼんやりと見えたので、私も残りを飲み干して、缶を捨てるために立ち上がった。おやすみと言い合って、直喜と別れると、私たちは自分たちの部屋に向かった。途中にある後輩たちの部屋からは、カーテンの隙間から光がこぼれていた。
「一年生のころは、先輩の部屋とかに泊まって、女の先輩からあんまりいい印象を受けてなかったよね、私たち」
由美が、見えないカーテンの向こうを見つめながら言った。
「それでもあの頃は、全然そういうの気にせず、自分たちの好きなままに行動してたよね」
私がそう言いながら、ドアを開けるためにポケットから鍵を取り出していた。ちひろはぼんやりしたまま、暗闇の方を眺めているみたいだった。
部屋の中に入り、それぞれのベッドに無言のまま座ると、疲れがどっと足の方に抜けていったような感覚があった。沖縄に来る前に塗った青いペディキュアは、角が少し欠けていたものの、まだ十分きれいだった。二人も疲れているのか、同じように足の指をぼんやりと見つめていた。
「やっぱり、なつみちゃんって直喜のこと、好きだと思う」
いきなり独り言のようにちひろが言ったので、顔を横に向けると、ベッドに半分だけ寝ながら、天井を眺めていた。
「確かに、なつみちゃんの『直喜さーん』って声、何回も聞こえて正直見え見えだなって思った」
なつみちゃんのまねだったのか、高い声をまで出して答えた由美の返答が聞こえていないのか、ちひろは動かないまま天井を見つめていた。直喜の前では気丈にふるまっているように見えるちひろも、私や由美の前では恋する乙女になってしまう。
「直喜はちひろにベタ惚れなんだし、正直、なつみちゃんって誰に対してもあんな感じでしょ」
私のありきたりな助け舟を、由美もそうだそうだと適当に言って手助けし、それに対してちひろは、半分あきらめたようにそうだねと言いながら、体の向きを反転し私たちの方を見た。彼女の長い髪の毛がさらさらと肩から滑り落ちていった。
「私たちが一年の時にしていたことが、こんなにも怖いだなんて、なんだか先輩に申し訳ないなって思った」
だからさっき黙っていたのかと思っていると、由美が立ち上がり、すっかり赤くなった顔で
「先輩たちは付き合ってなかったけど、ちひろは付き合ってる。なつみちゃんがそれを知らないのは仕方ないけど、それはちひろが望んでいることなんだし。むしろそれが嫌なら明日、堂々と手でもつないで、なつみちゃんの前で、キスでもすればいいのよ」
尤もらしいことを言ったというのが、由美の顔にあふれていたので、私とちひろは目を合わせて笑った。それからちひろは、ベッドに肘をつきながら小さくため息をついたが、何かを思い出したように顔をあげて、目を輝かせながらこちらを見た。
「ねぇ、文也君とは、何話してたの?」
今までの雰囲気を一切脱ぎ捨て、ちひろが獲物を狙った豹のような上目使いで、私を見ていた。この目は危険だなと察知したのは、私が女だったからなのだろうか。きっと初めて会った男の子は、これにどきっとさせられてしまうのだろう、などと考えてしまった。
「あの雰囲気は怪しかったよね」
由美も嬉しそうに言いながら、ベッドに深く腰掛けるように座りなおした。
「大輔さんがいたら、明日から台風より大変なことになってたよ」
「私も同じこと考えてた」
妄想を共有しながら、二人があれこれ話を膨らましていたので、話を割って入るタイミングを完全に失ってしまった。私を無視して、過去の思い出まで持ち出して語り始めてしまったので、仕方なくその妄想に耳を傾けていた。やっと二人の会話が一呼吸置いたので、私はようやく二人に話をするため、息を小さく吸った。
「大輔のこと聞かれたから、逆に文也君のこと聞いてたの。そしたら年上が好きなんですって言われた」
そう言うと、待ってましたと言わんばかりに、わーとかきゃーとかいう効果音を付けてから、やっぱりそうだったのねという視線でちひろがまじまじ私を見たので、ため息をつきながら苦笑いしてしまった。
「直喜も怪しいって言ってたよ。なつみちゃんのことは気づかないのに、文也君のことに気づくなんて、ほんとにいい神経してるよね」
「なんで景子ばっかりなの。私にも早くいい人現れないかな」
「由美はさ、理想が高いんだって。男は顔じゃないでしょ」
そう言っているちひろも、十分理想が高いと思いながら、私は笑っていた。
それから夜中の二時近くまで延々と語ったのは、今までなんとなく二人が気づいていたという、文也君のしぐさや目線についての話だった。二人はそれらがまるで、これからありうるであろう展開の、裏付け証拠とでも言いたげなくらい熱心に語った。明日から文也君が私に向ける目線を、二人が見ているのかと、埃っぽい匂いのする固い布団の上で寝返りを打ちつつ考えていたが、いつの間にか眠りについていた。
 二人の予想は、沖縄合宿中には実現しなかった。私と文也君は先輩と後輩の関係を保ち続け、あの夜以外に、二人きりで話すことはなかった。合宿から帰った後も、その関係は崩れることなく、私は心の中でだけ、薄れゆく文也君のあの言葉を、思い出していた。記憶は曖昧にはならない代わりに、ゆっくりとその色や形が薄れていく。だんだんと自分が、傍観者であるかのように、夢の中でもう一人の自分を見ているときのように、失われてゆく記憶を、閉じた目で追いかけた。駅のホームで、図書館の中で、お風呂の中で、時間さえあれば、文也君のあの言葉を、私は自分の中に甦らせた。しかし、夏の青さをだんだんと失っていく木々たちのように、私のその作業も、日常にかき消されていった。夏の暑さが思い出せなくなった冬の時期には、落ち行く木の葉同様に、私の中からも文也君と彼の言葉は、完全に忘れ去られていった。



高校生のとき、塾の先生を好きになった。中学生のときや、ましてや小学生のときだって、授業中に友達と交換する手紙の中には好きの文字が溢れていたのに、この時の恋はそれとは別の、もっと深いところを刺激するようなものだったと思う。大学受験のために高校二年生の夏休みから通いだした予備校で、初めて先生の授業に出たときは今でもはっきりと覚えている。彼は背が高いわけでも、とりわけかっこいいわけでもなかったが、何か他の先生にはない魅力があった。もともと、大きな予備校ではなかったため、先生と親しくなるのに時間はかからなかったし、わからない問題を毎日のように質問しに行き、授業がなくても先生がいる曜日は必ず自習室に来るようにしていた。今考えれば、かなりわかりやすかったと思う。そういう行動を、周囲を気にせずにできた年頃だったのかもしれない。先生には恋人がいることは知っていた。でも、左手の薬指にはめられた銀色の指輪は、高校生だった私にとって、何か特別な輝きを放っているように遠い存在に感じられた。
冬期講習が始まった日、いつもとは違う校舎で授業だったため、早めに着ける電車に乗ろうと、駅のホームで電車を待っていた。去年買った、たっぷりとしたキャメル色のマフラーと同色の手袋をかばんから出しながら、ホームに入ってきた電車に乗ろうとしたときに、目の前の座席に先生が座っていた。目が合った瞬間、そこから一歩も動けなくなりそうなくらい、心臓が跳ね上がったような気がした。電車はとても空いていたけれど、私はあまりの衝撃に、挨拶もせずに前の車両に逃げてしまった。少し我を忘れて歩いたところで、ようやく席についたものの、すぐさま逃げたことに対する後悔が襲ってきた。先生がいた方向に顔を向けても、車両の連結部分が死角となって彼を見ることは出来なかった。
ようやく目的の駅についたとき、電車を降りてから先生を探したが、そこに彼の姿はなかった。まるで時が止まったかのような絶望感が、駅を去っていく電車の風と共に私を通り抜けた。さらに大きな後悔と重い足取りを感じながらエスカレーターを上がり、改札に向かって歩いていたとき、先生を見つけた。黒いコートに黒いスーツを着て、黒い、少し膨らんだかばんを持った彼が、色とりどりの洋服を身にまとった他の人々よりも私の目に映えて見えたのは、私がそれだけを求めていたからだろう。先生は改札口に吸い込まれるようにして、それから左に曲がる瞬間にちらっとこちらをうかがった。先生を見つけてから、その一瞬まで、時は止まり続けていたように私の中だけに刻み込まれていた。
私は先生の背中を見ながら、十メートルくらい後ろを歩いた。少し走れば、届く距離が私にはとてつもなく遠く感じられ、塾の校舎が大きくなるにつれて、私の期待はだんだんと薄れていった。入り口に向かって曲がっていった先生の背中が見えなくなったとき、私は小さくため息をついた。クリーム色に塗られた校舎を見上げて、それから澄んだ青い空をにらんだ。寒さで涙が出そうになるのをこらえながら、私は少し早歩きで入り口に向かうと、そこには扉を開けて待っていた先生がいた。私は何も考えず、白いタイルが張り巡らされている段差を駆け上がり、少しかがむようにして、先生の開けてくれたドアの中へと滑り込んだ。ありがとうございます、とかすかに言ったけれど、聞こえなかっただろう。私は急いで振り返ったが、講師控室と書かれたドアに向かって歩く、先生の後姿を眺めるだけしかできなかった。後ろから生徒の声が聞こえていたけれど、私はその場で少し立ち止まっていた。
それから特に先生との距離が縮まることはなかった。でも、私は心の中で、少しずつでも確実に、先生への思いが、薄い透明のシートを重ねるように、積み重ねられていった。私の心の中がそのシートで満たされ、深い、海のような青さになったのは、受験が終わった三月の暖かな日だった。その日、塾では送別会が行われた。コップに注がれたジンジャエールの泡を眺めながら、遠くで笑っている先生を目に焼き付けていた。誰かがカメラを取り出したのがきっかけで、今まで散らばっていた何組かのグループが一気に集まった。出遅れた私が、少し遠くで座っていると、先生がこちらに歩いてくるのがわかった。私はきっと、心の奥底で先生が歩いてくることがわかっていた気がする。
写真入らなくていいんですか?
先生は少し強めに言うと、横に置いてあった椅子に跨ぐようにして、背の部分に肘を乗せる形で座った。先生が椅子を引いた瞬間、左手の指輪と椅子がかすかに触れ合って、軽い金属音が聞こえた。
先生こそ、いいんですか
私はいつものように答えた。いつも私たちがすこしふざけ合っているように、まるでもう何年も前から知り合っている恋人のように。先生は一瞬遠くを見るような目をしてから、ふとポケットから白い紙を取り出した。
最後に提出してくれた小論文。いまさらですけど
少しのズレもなく、丁寧に折りたたまれた紙を私はかすかに笑いながら受け取った。ゆっくりと開き、確かにそれは私が提出した、尊敬するひとを書いた小論文であることがすぐにわかった。先生はいつもコメントを下に書いてくれていたので、私は反射的に下に目を移していた。そこには、いつもの先生の文字が、幾分小さく、押し込まれたようにされて、週末空いていますか、と書かれていた。驚いて顔をあげると、先生はまっすぐ私を見ていた。あまりにまっすぐな瞳を、私は記憶するように、右目だけをじっと見つめた。それからゆっくりうなずくと、彼は私が持っていた紙をもう一度取って、何か書いてから丁寧に畳み直し、私の横に置いてあった、ビンゴの景品が入っていた紺色の紙袋に入れると、何も言わずに立ち去って行ってしまった。
帰りの電車の中、私は待ちきれない子どものようにあの紙をもう一度開いた。ちょうど右の端っこに、いつもの先生の字で、土曜日九時に新宿西口でと書かれていた。私は驚きのあまり、なぜか喜べなかった。自分が夜、毎晩のようにベッドに入ってから妄想してきたものが現実となったためだろう。もう一度紙をよく見た後で、ようやく首の後ろが熱くなるのがわかった。前に座っていた黒いコートを着た女の人と目が合ったので、私は目を落とし、手紙を半分に折ってから、先生の文字だけをもう一度見つめた。左側、ちょうど先生が左手を置いていたであろう場所に書かれていた憧れの文字が、手で擦られたのか、すこし揺らいでいた。
 


学校から東急ハンズまでは、そこまで遠いわけではなかったけれど、暑さと人の多さで、どこまでも見えないゴールを目指している気分になった。やっとたどり着いた入り口では、いらっしゃいませと言いながら、紙でできたうちわが配られていた。エレベーターで一番上の階に上って、奥にあるオープンカフェに行くと、角の席に文也を見つけた。本を読んでいて、こっちを向く気配がなかったので、私は季節限定だったメロンソーダを頼んで、席に向かった。本から顔を挙げると、パーマのかかっている前髪が揺れた。先日犬の散歩中に、トイプードルを見かけた際、文也を思い出してつい、にやけたことを思い出した。去年の夏は、茶色く染められていた髪も、今は真っ黒になっていた。パーマだと思っていたのは、実はくせっけだったという彼の髪は、黒くしても彼の顔によく似合っていて、私は茶色かった頃よりも、お洒落になってしまった気がした。今日彼は、白いシャツに、紺色のツイードパンツ、そしてエナメルの靴を履いている。
「待った?」
と言いながらトレーを机に置いて、椅子に座った。文也の前に置かれたトレーには、何か食べていたのか、食べた後の紙が丁寧に折りたたまれていて、スライスしたレモンの浮いた紅茶のグラスが汗をかいていた。
「着いたのは早かったけど、ここにいるのは、十分くらいだったかな」
文也の横に置いてあったかばんは、茶色の肩掛けで、お気に入りらしくよく使っているためか、持ち手や隅っこの皮がいい感じに飴色になっている。
「レポートは提出できたの?」
「七月までの分は全部提出してきました。あと四つあるけど、それも大体構想はできているから、後はタイプして引用文献を入れるだけかな」
「よかったね。じゃあ、夏休みに乾杯」
そう言うと、私よりもほっとしたように背もたれに寄りかかりながら、グラスを持ち上げて笑った。
「しかし、あれだね。渋谷に着いた瞬間に思ったけど、そうとう暑いな今日」
「今年はかなり暑いよね。いつの間にか夏になってた。学校に来る時と帰るときは、時間も時間だからそこまで感じないけど、こうやって日中外に出るとさすがにくらくらする」
それは言い過ぎだよと笑いながら、文也がレモンティのグラスを手に取ろうとして、ふとやめた。
「それ何?」
私の前に置かれたグラスを珍しそうに見つめながら聞いてきた。
「季節限定のメロンソーダだって。飲む?」
そう言うと嬉しそうにグラスを受け取って、一口飲んだ。それからありがとうと言いながら私のトレーに戻した。
「おいしいな。なんかミントの味がする」
「それ緑色だからじゃない?」
と言って、さすがにミントは入ってないだろうなと思いながらも、私もストローに口をつけた。特に子供のころメロンソーダを飲んでいたわけでもないのに、懐かしいという形容詞が似合いそうな優しい味がした。文也が膝に置いてあった本を、かばんの中にしまい、短いため息をついてから決心したように、私を見つめた。
「この前も言ったけど、夏休みは試験の勉強に集中したい。だから、八月は会えないと思う」
遠慮がちに、でもはっきりとその意志の強さは伝わってきて、私はあらかじめ予想していたよりも寂しさを感じることなく、返事ができた。
「一年前から、勉強している姿を見てきていたし、自分もそうだったから大丈夫。文也が話したいと思ったときに電話してきてくれれば、私はそれでいいから」
「うん。結局会いたくなって、集中できなくなる方があり得そう。毎日連絡はするよ」
「会いたくなったって言ってくれれば、会いに行くのに」
「会うのがお預けの方が頑張れる」
そう言うと、文也はまっすぐ私を見つめた。きっと心の中で、自分の意志をもう一度確かめたのだろう。彼の目の中に、私は強い信念が見えた気がした。
「とりあえず、今日は最後の息抜きとして、何しようか?」
文也がそう言ったので、私たちは今日を有効に使うための予定を、立てることにした。

 大学四年生になった四月、少し大きめの黒いスーツで学校に来る人が多くなる中で、私は大学院に行く道を決めていた。両親はただ自分のやりたいと思うことをしなさいと、二つ返事で承諾してくれたので、あとは入学試験に向けて、勉強するのみだった。だんだん周りが神経質になってくる中、図書館の一番奥の椅子に座って、積み上げたアメリカ文学史の本を、一冊ずつ読んでいった。いまさら短期間で文法や読解能力を高めることなどできないのだから、文学史だけは完璧にしなさいという教授のアドバイスに従い、学校の授業を思い出しながら、作者の名前を覚えていった。
四月の時点で、私は他のことに時間を割きたくないと感じ、バイトを辞め、夏休み以降最低でも月一回は会っていた大輔にも会わなかった。膨大な数の作者と作品を覚えていく作業は、大きな海の中に落とされたようで、焦る気持ちを掻き立てた。
「やっぱり大変?」
就職が決まったというメールを受けて、暖かさが出てきた五月、学校のカフェで由美と待ち合わせした。オフホワイトのカーディガンに灰色のスカートを穿いていた彼女は、黒染めしていた髪が落ち着いた栗色になっていた。大きなシュークリームをお祝いだと買ってあげると、嬉しそうに食べながら、口に粉を付けて、そう心配そうに聞いてくれた。
「受験生に舞い戻ったって感じ。でも自分で決めたことだし、試験までは時間があるから、夏休みもつぶせば何とかなるはず」
「景子ならできるよ」
と言って、一口食べてとこちらにシュークリームを差し出した。ぱりぱりっとしたパイ生地に、しっかりとしたカスタードクリームとさっぱりとした生クリームがたっぷりと詰まっていて、食べた瞬間に香ばしさの中に広がる甘さを感じた。学校の食堂としては、何ともクオリティの高いサンドウィッチやデザートが置いてあるここのカフェは、大学生はもちろん、近所に住む人も時々買いに来るほど人気がある。
「それより、由美は早かったね。もう安心ね」
五月の時点で就職が決まった人は、まだほとんどいなかった。私の知り合いの中でも、男の子は少し決まっていたようだったが、女の子では由美が最初だった。
「私も少し驚いてて、まさか自分が決まるとは思ってなかったから。でも一応、第一希望の会社だし、一緒に面接受けた子たちとも結構仲良しだから、本当にうれしい」
「ちひろにはまだ言ってないの?」
少し間があってから、由美はため息をついて答えた。
「これってどうなのかなって。景子じゃないけど、高校の時の受験と一緒で、受かった人がいるって聞くと焦りも出るし、もう少し待ってようかなって」
「確かに、みんなピリピリしてる時期だからね。でもちひろも喜んでくれると思うよ。直喜だって決まってるんだし。由美がちひろから先に聞かされても、喜んだでしょ?」
うーんといいながら、由美は手に着いた粉を払ってお茶を飲んだ。
「高校のときはさ、別にこれで人生が決まるわけでもないし、むしろ浪人だってできるって思ってたでしょ。でも今は、これが人生を決めちゃうんだってくらい重たい気がしてきちゃうんだよね。別に転職だってできるんだし、辞めちゃう人だっていっぱいいるから、そう言い切れないけど、一応大学出させてもらってるんだし、絶対就職しなきゃっていう気持ちがあるからさ。先に決まったから偉いってわけじゃないけど、ちひろが本心から喜べる時まで待とうかなって」
そう言った由美の顔には、確かに就職活動をして何かを得て、そして何かを脱ぎ捨てたのだという色がはっきりと見えた。
「そうだね。私も何も言わないでおくから、ちひろが決まったら三人でお祝いしよう」
と言うと、うんと言って笑った顔は、今まで通りの由美になっていたので、私は安心した。

試験は九月だったので、夏休みに入ってからは、ほぼ毎日のように朝から閉館時間まで図書館に居座った。しかし、八月も半ばに入ったころ、私はさすがに煮詰まっていた。うだるような暑さに加えて、もしも不合格だったらという疑問と、それにリンクしながら生まれてくる不安が脳裏にちらついて、ペンを持つ手を止めさせた。あまりに集中できなかったので時計を見ると、十一時半を回ったところだった。仕方なく気分転換に、早めのお昼休憩をしようと決心し、青いストールを首に巻いて外に出ようと階段を下りていると、下から上がってきた男の子が目に入った。
「文也君?」
驚いて見上げた彼は、普段から大きい目をさらに大きくして、少しはにかんでいた。白いインナーの上に、深緑の半そでジャケットを着て、カーキ色のカーゴパンツを穿いていた。
「景子さん?お久しぶりです。勉強ですか?」
「うん、文也君も、勉強しに来たの?」
「はい、あ、景子さん、大学院行くんですよね?」
彼が知っていることを呆気にとられていると、文也君は少し不安げになりながらも、直喜さんから聞きましたと言った。帰るのかと聞かれたため、早めのお昼だと言い、今来たばっかりだろうとは思ったが、一応一緒に行くか聞くと少し迷った後で、行きますと言ったので二人で階段を下りて行った。
 図書館の向かいにある食堂は、夏休みでも開いていたが、いつもは学生で溢れているのにさすがに休みだけあって、工事に来たであろう作業服の人や、部活をしているらしいジャージ姿の学生がまばらに座っているだけだった。私はうどんを頼み、文也君はから揚げ定食にした。先に会計を済ませていた文也君を探すと、お茶の入ったコップを二つのせてやってくるのが見えた。
「何の勉強をしてるの」
「公務員試験を来年受けようと思ってるんです。それの参考書で」
後輩だと思っていた子が、いきなり大人になってしまったような感覚を受けて感心していると、文也君は難しいですけどねと照れながら、箸でから揚げをつまんだ。
「大学院って試験はいつなんですか」
「九月八日、一次に受かれば、後日に面接があって、それから本決まりなの」
「試験って、大学入試みたいな感じなんですか?」
「そうだね、自分の専門分野だけをテストできるんだけど、形式的には確かに、大学入試と似ているかも」
文也君はそうなんですかとうなずいた。そして、少し間を開けてから
「試験が終わったら、お祝いで、飲みに行きましょう」
と明るく言った。プレッシャーになるはずであったのに、なぜか私はすんなりと受け止めて
「いいよ。じゃあ連絡するね」
そう言った。後輩の前で弱いところを見せられなかったのはあったと思う。でも文也君に言われたその言葉が、彼にとって、ただのつなぎ言葉ではないような気がしていた。彼は言う前に、準備をして口に出したのではないだろうか。ただこぼれ落ちてきた言葉を、口に出したのではなく、頭の中で一回思い描いて、それからケーキのろうそくを消すように、優しくでも確実に出した言葉ではないだろうかと私は考えた。きっと図書館で彼に会った瞬間から、私の中に、文也君へのあの夏以来忘れられていた思いが、甦ってきたせいでもあったのだろう。
それ以来、彼を図書館や学食で見ることはなかったけれど、私は最初のころの集中力を取り戻し、第一次試験に合格した。次の週に第二次試験があったので、すぐさま教授にメールで報告し、焦らないでありのままを話しなさいというアドバイスをもらった。面接は、そこまで突っ込まれないから大丈夫だと大学院に行った先輩にも言われていたので、自分が以前提出した、志望動機や研究計画書を読み返し、推薦で入った高校入試の面接を思い出したりしていた。
面接前日の夜、明日着ていくスーツにアイロンを掛けるため、クローゼットから出してから、ふと入学式に着た以来だったので心配になり、着てみることにした。すると上着はちょうどいいサイズだったが、パンツスーツは少しウエストに余りがあった。
「部活をやめたあとだったからあんた、太ってたんでしょ。私も高校生の時に比べたら、二十歳過ぎて急に痩せたからね」
今ではきっとその時より太っているに違いない母が、腰に手を置きながら、自慢げに言った。
「とりあえず、明日は気をつけて行ってらっしゃい。終わったら、まっすぐ帰ってくるんでしょ?」
「うん、たぶん、終わるの五時過ぎくらいだから」
「明日はお寿司でも買ってこようかな」
独り言のようにつぶやく母は、きっと私と同じように緊張してくれているのかもしれないと思うと、ほっと和らいでいく気持ちになった。 
一度しか穿いていない黒いパンプスは、形もきれいでかかとも擦れていなかった。久しぶりに来たスーツは、堅苦しい気分になったけれど、そのうちに慣れてきて、電車の中で吊革につかまる自分は、早くも社会の一員になったような気がしてしまった。
教室に入ると、一次試験を受けたときより少ない人数だったので、やはり試験で落ちた人もいたのだという現実が降りかかってきて、なんだか緊張してしまった。十分後に面接を始めるのでといわれ、教室で待機していると、隣の女の人が話しかけてきてくれた。
「専攻は、どちらなんですか?」
ブルーのストライプシャツにグレーのスーツを着ていた彼女は、かなり大人っぽく見えたので年上かなと感じた。
「米文学です」
「そうなんですか。私は英文学。面接って、どういう感じなんだろうね」
すこしアクセントが後にきているような気がして、きっと地方から来たのだなと思った。
「大丈夫ですよ。面接で落ちることって、あんまりないみたいだから」
前に座っていた男の人が話しかけてきた。Tシャツに黒いジーパンを穿いて、カジュアルな格好だったので、自信あるんだなと思っていると、自分は大学院生だと言った。
「別に、スパイで忍び込んでるわけじゃないから。ただ、先生に場所がわからない子とかいるからって言われてね」
体の線が細く、肌も白い彼は、確かに大学院に行った私の先輩と、同じような雰囲気を漂わせていた。
「専攻はどちらなんですか?」
「僕も英文学だよ。神山先生についてる」
隣に座った彼女は、嬉しそうにその先生を志願してきたのだと言った。私は誰に付こうとか何も決めていなかったので、それを聞いて余計焦りを感じていると、二個前の番号の人から呼ばれたので、彼女たちに頑張ってと言われながら、教室を後にした。二つ上がった階にある大きな会議室の前には「大学院面接会場」という看板が立てられていた。
「1310番の方、どうぞ」
扉があいて、前に受けた人が出てきたので、失礼しますと大きな声で言ってから、重たい扉を引いた。最初あまりに広い会場を、見渡しただけでも自分の足に力がなくなっていくのがわかった。三十人近い先生たちがコの字型に座っていて、私の机がぽつんと孤島のように置かれていた。それでも面接の内容は、テストの出来を聞かれたり、志望動機に書いたことを深堀されたりするくらいで、そこまで言葉に詰まることなく、終えることができた。
それでも、合格と書かれた紙が一週間後に発送されてくるまでは、ずっと不安だった。発送されると言われていた日は、朝からリビングで、外の音を聞きながら座っていた。バイクの音とポストが閉まる音がしたあと、すぐに玄関まで走っていくと、案の定そこには茶色い封筒が入っていた。自分の番号が書かれていることに泣きそうになるほど喜んだあと、家にいたおばあちゃんにそのことを報告し、一緒に喜びを分かち合った。
「おじいちゃんにも報告してあげて」
おばあちゃんに言われ、畳の部屋にある仏壇の前に座った。線香を立ててから目を閉じて、合格した旨を伝えていると、線香の匂いが鼻から入ってきたので、大学に入学が決まったその日も、すぐに仏壇に座って報告したことを思い出した。あれから四年経って、自分が大学院まで行くとは思っていなかったなと振り返り、年月の過ぎる速さを感じた。
その日に知らせたい人に連絡を入れた後、夜になってから文也君にもメールをした。すぐに電話がかかってきたので、心拍数が上がるのを感じながら、耳に携帯電話をあてた。
「おめでとうございますって直接言いたかったんで。今、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。ありがとう」
自分のことのように喜ぶ彼の声を聞いて、なんだか初めて合格した実感が湧いてきたような気がした。
「じゃあ、約束のお祝いに行きましょう」
「うん。いつがいい?」
「今は実家に帰ってるんで、来週以降なら大丈夫です」
「帰ってるんだ。実家、どこだっけ」
「長野です。
景子さんは、いつがいいですか?」
相槌をうちながら、手帳開けて確認した。少し黙っていると、電話の向こうでも静かにこちらの返事を待っているのか、文也君も黙っていた。来週は少し都合が悪いと言って結局私たちは、九月最後の土曜日に会うことになった。
大丈夫だという彼の声を聞いてじゃあまたと別れを告げてから、電話を切った。耳が携帯電話の熱であつくなったのを感じた。クローゼットを開けて中を見ながら、彼は私のことが好きなのだろうと考えた。そして私の中でも、彼のことが好きだという感情が育ち始めていることを感じだ。それと同時に大輔に会いに行かなくてはいけないと思った。私の中ではこの瞬間に大輔の手を離し、文也君の手を握ることが決まっていた。



私は、次がいないと別れを起こせないでいた。でもだからと言って恋人が多いわけではない。ただ別れたいと思ってから、すぐに別れを切り出さないでいるだけなのだ。新しい相手を探すまでは、好きでも嫌いでもないという感情をぼんやりと相手に抱きながら付き合い続ける。でも決して、新しい相手をあからさまに探すこともしない。合コンに行ったり、友達に紹介を求めたりもしない。自然に相手が来てくれるまで待つのである。相手が私に好意を持ってくれていると本格的にわかってくるまで、私は行動に移すこともなければ、今の彼氏に別れを切り出すこともしない。そんな付き合い方が健康的でないことはわかっていたし、自分が最悪な女になっていくこともわかっていた。そんな付き合いは、愛があるない以前に良心のかけらもないことさえもわかっていた。でもなぜかそうせずにはいられないのだ。仮に、好きかもわからない彼氏が先に別れを切り出してきたとしても、一人になるくらいだったら、私は泣きながら彼の腕にすがっていただろうから。これはたぶんあの日、先生と出かけたときに私の中で生まれた何かが原因なのだろう。恋人になるわけでも、一線を越えるわけでもなく、ただ時を共有しただけのあの日に、きっと私は土の中で永遠と待ち続ける蝉のように、彼を待つことを決めてしまったのかもしれない。待った先にあるのがただの青い空と天敵ばかりいる過酷な現実だと、私は知らなかった。いや、知らないふりをしていただけだったのだ。



先生覚えていますか。あの日は雨が降っていましたね。朝から緩やかで、決してやまない雨が。新宿の西口で、青いジャンパーに濃いジーパンを穿いて、壁に寄りかかっているあなたを見たとき、私はいつまでも今日という日が来なければよかったという思いがしたのを覚えています。来なければ、私はあなたのものでずっといられる気がしていたから。ゆっくりと近づいて、あなたが顔をあげる瞬間を見逃すまいと、私はじっとあなたを見つめていました。私はその日、少し背伸びをして、黒いジーパンに灰色の大きめのセーターを着て、上に薄いグリーンの膝まであるコートを着ていきました。そのコートは日の光を浴びると、角度で色が違って見えるコートで、あなたはそのコートを玉虫コートと言ってくれましたね。それから私たちは、少し離れたところにあるお店で、レンタカーを借りました。運転するあなたの横に座ったとき、私は少しでも大人っぽく見えるように、ずっと斜め前に写る自分を見つめていました。そこに写る私は、いつもより怯えているように見えたのは緊張していたからでしょうか。 どこに行くんですか、と私が聞いたとき、あなたは優しく、前に僕が言ったことを覚えていますか、と言いました。私は頭の中で、顔には出さずに、あなたとの時間をすごい速さの中でさかのぼっていました。水色の小さな花柄のネクタイをほめた時のこと、授業中にぼうっとしていると冗談を言って笑わせてくれたこと、初めてあなたが私の名前を呼んだ時のこと、落し物の紐を結んで一緒にあやとりをしたこと、私はその時思い出していたのです。私がずいぶん黙っていたので、あなたは少し笑ってから、君が行きたいと言っていた、僕が育った千葉の海だよ、と言いました。私はすぐにあなたの茶色い瞳を思い出しました。そして、その思い出を頭の中で、まるで映画を見ているかのように思い出すことが出来ました。それは授業中に、あなたが千葉の海の話をしたあと、私が質問をしに行った時のことでした。千葉の海はきれいなんですか、と私が聞くと、あなたは、私が差し出したテスト用紙を見つめてから、合格したら連れて行ってあげるよと顔をあげ、私の目を、まっすぐ見ながら答えました。あなたの顔に、窓から差し込む光が当たって、私を見つめていた瞳が、私が見つめていた右の瞳が茶色く透けていたのを私は忘れることができませんでした。あなたが連れて行ってくれた千葉の海は、本当にきれいでしたね。手前が薄い青で、奥に行くにつれて深く、濃い青にだんだんとなっていました。少し砂浜を歩いたあと、あなたは私の手を取って、それから言いました。
僕は、来月プロポーズしようと思ってるんだ。六年間付き合ってきたし、そろそろ僕も年だしね。でも、時々、自分がまだ結婚してはいけない気になる。誰かのものになってしまうことがすごく怖くなるんだ。それでも、それでも結婚したくないわけじゃない。ここからどうなっていくか、想像するのだってたやすいことなんだ。そんな気持ちを君が変えてくれた。君が僕を見てくれていたからだよ。君のことを誰よりも大切にしたいと思えるようになった。君を僕のものにしたいと。君はきっとそう望んでいると。君も僕のものになりたいのだと。それがあれば、僕はこれから誰かと一緒に歩いて行ける気がしたんだよ。どこかで君が僕を望んでくれて、僕のものであってくれるとわかっているから。
そう言ってあなたは私を抱きしめました。深い太陽の匂いと海の匂いが、あなたの体からしました。ずっと抱きしめたかったあなたの体は、私が思っていたよりも大きく、そして力強いものでした。私は、あなたのものになりますと答えました。そうすると、あなたは私から体を離し、優しく唇を重ねると、ゆっくりと、君のことをずっと待っていたよと言ってくれました。私はそれだけで十分だとその時思ったのです。それでも帰りの車の中、暗闇に包まれた中で、遠くまで続くオレンジ色の光を見ながら、私はこのままどこまでも、この暗闇が続くことを願っていました。静まり返った車内で、ふとあなたの方を振り返った時に見えた、あなたの瞳は真っ黒だったけれど、そこに反射したオレンジ色の光は、暗闇に終わりがあることを告げているように見えました。
 
 

その次の週、私は名古屋にいた。駅の改札で待っていた大輔は、いじっていた携帯から顔をあげてこちらに手を振った。薄い色のジーパンに茶色のTシャツを着た彼の顔は、ずいぶん見ていなかったせいか、ふっくらしたように見えた。
「本当はこっちから行くべきだったよね。本当に合格おめでとう」
「私は夏休み中だから。ご飯食べた?」
「ううん、朝が遅かったから。お腹すいた?」
私は大丈夫だと言って、いつも行く公園に行こうと言った。
「ずっと連絡が来なかったから、本当に頑張ってるんだと思ってた。メールもらった時、ちょうど営業中だったんだけど、すごく嬉しくて、電車で一人ガッツポーズしちゃったんだよ」
そう言われても、もう私の中で固まっていたものは揺るぐことがなかった。口数が少ない私を変に思ったのか、大輔も歩きながら黙り込んでいった。
 公園の中で木陰になっているベンチを見つけてから、私たちは座り込んだ。初めは、私も彼も黙っていた。雰囲気がたぶん、彼にも伝わっていたんだろう。私は決心して彼に告げた。
「私、これから忙しくなるから、もっと会えなくなると思うし、今までみたいに土日だけ会うのも、やっぱり考えられないから、それだったら別れた方がいいと思う」
彼はじっと下を向きながら、それでも少し納得がいかないといった感じに見えた。
「好きな奴でもできた?」
「ちがうよ。新しい生活になれば、きっと支えてほしいなって思う時期が来ると思う。でも今までだって寂しさをごまかしながら来て、これからそれに耐えられる自信がなくなったの」
大輔は何も言わなかったが、ため息をついてそっぽを向いた。彼の左腕には銀色の時計が付けられていて、私は自分がプレゼントしたそれを買った時のことを思い出した。何時間も時計売り場を行き来しながら、ガラス越しに並べてあるそれらを見て、大輔が喜ぶ顔を想像した。就職祝いに買いたいのだと店員に説明し、あれこれ出してもらって、やっと決めたのがその時計だった。あの時から、何が私の中で変わったのだろう。自分の気持ちに嘘はつけないけれど、大輔に対して申し訳ない気持ちがないわけでもなかった。楽しい思い出はいくつも思い出せる。サークルの飲み会で、つぶれた私を、いつも泊めてくれたのは大輔だったし、初めて彼氏と旅行に行ったのも大輔だった。少し奮発して、部屋に露天風呂が付いている部屋に泊まったこと、お風呂上りに浴衣を着て温泉街を歩いていると、お饅頭屋のおじさんに夫婦だと間違われたこと、別れる時になって、私の頭の中には喧嘩してきたことよりも、そういった幸せだったころの思い出がよみがえってきた。前を歩く若い夫婦とベビーカーを見て、大輔との将来も想像していたことを、彼に言いたかった。でも、それが決して彼にも私にも今となっては冷たい現実を浮き彫りにするものでしかないことは、頭の中で容易に想像できた。
 ようやく顔をあげて、少し目を赤らめた彼は、別れよっかとぽつりと言った。私には彼を慰めることも、彼の手を握ってあげることももうできないのだと思い、ただ駅まで送ってくれている道の中で、全身に大輔を感じながら、彼が今考えていることを考えた。
「ありがとう。来てくれて」
そのありがとうはさようならの意味で使っているのだと、私は痛みと共に知った。それを自分が彼に言わせていることも知っていたから、私は泣いてはいけないと思った。自分は卑怯で最悪だと思いながらも、私にはこうするしかなかった。さようならと言って、駅の中を振り返らずに歩いた。名古屋に来るのはこれが最後だろうと考えながら、私は今まで以上に外の景色を目に写していた。



文也君が調べてくれたお店は、駅から少し歩いたところにある小さなイタリアンで、ワインの種類が豊富だったり、流れる音楽もクラシックだったりして、とてもお洒落だった。
「本当におめでとうございます。」
今日三回目の祝福の言葉に、ありがとうと言いながら、赤ワインの入ったグラスを傾けた。
「これから卒業までは忙しいんですか?」
少し店内は暗かったが、彼の顔が赤らんでいるのがわかった。
「あとは卒業論文を終わらせるだけだから。文也君こそ、試験の勉強で忙しいんじゃない」
「そうですね。でも夏休み景子さんに会ってから、俺もやらなきゃって思って、毎日通ったんですよ」
そういって見つめてくる彼はさすがにわかりやすいなと、私は、置かれているグラスに彼がワインをつぎ足すのを見ながら感じた。
「そういえば、実家は長野のどのあたりなの?」
「長野駅からは、電車で三十分くらいですかね。田んぼしかないんですけど。景子さん、長野来たことありますか?」
「うん。私が一年の時、冬は長野に合宿したんだよ」
「冬に合宿ってあったんですか?」
確かに私が二年生になった年から、冬にサークルで合宿に行くことがなくなってしまった。人数的に集まらなかったのだ。金銭面でも厳しい一人暮らしの学生が多かったせいもあるが、きっと彼らは、それぞれの実家に帰ればスノボができるため、わざわざ参加しなかったからだろう。
そうなのと言いながら、あの時の思い出を少し話してあげた。
「私、その時初めてスノーボードしたんだけど、木の葉っていうのかな、正面向いて降りていくのはできたの。でも、後ろ向くのがどうしても怖くて、結局できなかったよ」
文也君は少し笑いながら、初めては仕方ないですよと言った。
「文也君は、やっぱり得意?」
「そうですね。よく、弟と一緒に行きましたよ。最初はスキーしかやってなかったけど、今はスノボの方が多いかな」
「弟がいたんだ」
「はい。弟と妹が。弟は今大学一年で、妹は高校二年です」
確かに彼の雰囲気からは、小さい子をあやしているのが想像できた。
「文也君に、似てる?」
「どうだろ、似てるって人と、似てないって人がいるから。俺、母親似なんですけど、妹は少し似てるかも」
文也君を女の子にしたら可愛いだろうなと思った。食後のコーヒーを飲み終わってから、私たちは外に出た。駅までの道を歩いていて、ちょうど川が見える小さな橋を通った。
「こっち行きませんか」
文也君が川沿いを歩く狭い歩道を指したので、歩道から一段高くなった場所を歩いた。川はぼんやりと街灯に照らされていたものの、暗く濁っていて、空と同じように、吸い込まれそうな黒さをしていた。電車の音がしたので顔をあげると、川の反対側には、いつも私が乗っている電車が通っているのが見えた。いつもはその電車から川を見ているものの、初めて反対側から見た景色は全く違った。彼が立ち止まったので、私も同じように川に向かうように手すりに手を掛けた。
「あの電車に乗って帰るんだよ」
そう言うと、文也君は通り過ぎようとしている電車を目で追った。
「俺、一回だけ乗ったことありますよ。車の免許取るときに」
「それ、みんなに言われる。私もそこで受けたし」
あまりメジャーじゃない上に、短い路線を走っている電車だったが、自動車免許の試験会場があるので、知っている人も多かった。彼は少し笑った後、川を見ながら黙り込んだ。そしてため息をついてから
「沖縄行ってから車、運転しましたか?」
と静かに言った。すっかり酔いが冷めてきた頭の中で、少しずつ確信に迫るものを感じながら相槌を打った。
「一回だけしたかな。でもやっぱり狭い道も多いし、道路も入り組んでるから、運転してて楽しくないって感じた」
「俺も実家に帰ってるときに運転したんですけど、田舎だから道路は広いし、運転しやすいんですけど、田んぼばっかりで、やっぱり沖縄みたいにきれいな海があるわけでもないから疲れるし、飽きました」
「そうだよね、あの三日間は、運転してて本当に楽しかった。友達を乗せてるのって怖くて私には無理だと思ってたけど、みんな気を使って起きててくれたから。私の運転が怖かったのもあるだろうけど」
文也君は静かに笑いながら、やはり川を見ていた。
「今年はいけなかったけど、メーリスで沖縄合宿のことが回ってきたとき、俺真っ先に思い出したの、初日の夜に景子さんと飲んだことですよ」
「 私も覚えてるよ。」
「あれからもう一回、景子さんと話したいって思ってました」
文也君の方を向くと、彼はまっすぐ前を向いて空間を眺めていた。あの夜の彼の目が、今と重なっているようで、私は周りの空間に、自分と彼が浮いているような感覚を感じた。
「大輔さんには、合格した後会いましたか」
「うん。先週、名古屋に行ってきたの」
ゆっくりと、でも確実に私たちは近づいていた。もちろん気持ち的な意味で。シーソーの両端に立って、一歩一歩お互いが確かめながら進むように。平衡を保ちながら進まなければ、壊れてしまいそうな空間にいることを私は実感した。
私が言わなければ、彼が言わなければならないのはわかっていたけれど、私は絶対にその言葉を言わないでいた。好きと言う言葉を先に伝えてしまえば、シーソーは彼の方に傾き、私は彼の方へ転がっていく気がしたからだ。
文也君は、手すりに肘をついて握っていた手を離してから、こちらを一瞥すると、川とは反対方向に向きなおして、短いため息をついてから再びこちらに目を向けた。
「俺、景子さんのこと好きです」
その言葉を言って、彼は少し照れながら小さく笑ったので、私もつられて笑った。
「うん、 」
「去年、新歓の花見で、景子さんが一年生同士で固まってたところに行って話しかけたり、終わりの時間になって、まだみんな騒いでたのに、一人でもくもくと片づけてるの、見てたんです」
桜の木の下でブルーシートを広げたときのことを思い出した。場所取りのために、前日の夜、三年生だけで集まったこと。四月だったからまだ寒くて、ブーツも脱がずにみんなでブルーシートの上に座って、前夜祭をしたこと。桜の花びらが散る中、明かりも照らされてない私たちは、小さな懐中電灯一個を囲んで、まるで怪談話をしているように、小さくなりながら飲んでいたことを。
「いつも誰かのこと気にしてて、誰に対しても笑顔でいる景子さんを見て、あの時からずっと、好きだったんです。大輔さんと付き合っているのは知ってましたけど、景子さんのそういう姿が忘れられなくて、ずっと好きだったんです」
風が涼しさを運んでいるのを感じながら、私は黙っていた。文也君は少し赤くなりながらも、黒いまっすぐとした瞳に私を捉えていた。深く深呼吸してから、私も川を背にして手すりに寄りかかるようにした。
「大輔と、別れたんだ」
私は遠くに広がる街並みを、ぼんやりと見つめていた。ネオンの光が浮かび上がっているように見えて、私は一層、自分と彼が違った空間にいるように感じた。
「きっとこれから忙しくなるし、今まで以上に会えないのは、お互いつらいだろうと思った。でも、どこかで私も文也君のこと考えてた。
沖縄で話してから、私も文也君のことが気になっていたんだと思う」
言い終わってから文也君を見ると、嬉しそうによかったと言って笑ってくれたので、私も嬉しくなって、彼に触れたいと思った。
「文也君」
そう言って、寄りかかっていた背中を離して、まっすぐ彼に向き直すと、彼がゆっくりと近づいて、両手をしっかりと背中に回し、優しく抱きしめてくれた。いつもとは違う高さと、そして新しい香りを胸に入れた瞬間に、私はやっと彼の背中に腕を回して、好きだよと言う言葉が言えた。



八月に入って、一気に学生の少なくなった図書館で、私はカレンダーとにらみ合いっこをしながら、レポートを終わらせるための勉強をしていた。文也は毎日朝と夜メールをしてくれるので、私も自分の課題に集中することで、あとの時間を忘れようとしていた。八月二十日締め切りのレポートを、何とか締め切りの二時間前に終わらせて、メールに添付し、すべての課題を終わらせることができた。カレンダーには何の印も言葉も書いてない。仕方なく、携帯電話を取って由美に電話することにした。
「もしもし」
すぐに出たので、きっと彼女も携帯を見ていたのだろう。
「ごめん、急に。今大丈夫?」
「うん。今日、終わるの早かったんだ。久しぶりだね」
仕事をし始めてから、由美やちひろと会うことも、話すこともめったになくなってしまった。
「すごく久しぶりだよ。早く三人で会いたいなって思って」
「もう夏休みでしょ?学生はいいよね。ついこの前お盆休みが終わっちゃったから、また仕事の毎日だよ」
夏休みに入ると、一気に曜日と時間の感覚が体から抜けてしまうため、今日が二十日だったことは、確かに締め切り日として知っていたものの、世間がお盆休みを終えていたことに今気がついて、なんだか自分はずいぶん遠くにいるような気分になった。
「そうだよね。ちひろもきっと忙しいよね。九月に会えればいいなって思ってたんだよ」
由美は事務職なので、基本的には土日休みだったが、ちひろはデパートの化粧品売り場で働いているため、めったに土日休みがない。その上、貴重な週末の休みは、唯一直喜と過ごせる休みだということも、私たちは知っていたため、その休みを私たちのために使わせることはあまりしたくなかった。
「休みを合わせるのが厳しいけど、私、八月の最後の週に、たまたま休日出勤の振替で火曜日と水曜休みもらってるから、もしかしたら合わせられるかも」
「ちひろも、確か水曜休みだった気がする。それなら会えるかもね」
嬉しそうな相槌が聞こえた後、由美がそのまま何も言わなかったので、こちらも黙っていると、実はと言いながら
「私、二人に報告しなきゃならないことあるんだよね」
向こうで笑みを浮かべている由美が想像できるくらいわかりやすい声で言った。今教えてよと言いかけたところで、時間も時間だったことを思い出し、また連絡すると言って電話を切った。翌日、ちひろから水曜日は休みだというメールが返ってきたので、六時に渋谷で待ち合わせをした。

 土曜日に仕事がある母から、バーゲンを一緒に見ようと言われ、横浜駅で待ち合わせをした。短いショートボブに青いストールを巻いていた母は、少し遅れてやってきた。灰色のバギーパンツに白いカーディガンを羽織っていたので鮮やかな青色が際立っていた。
「電車が遅れたのよ」
と言いながらかばんからタオルを出した母に向かって、私は彼女のストールを指さしながら言った。
「それ、私のストールじゃない?今日探してたんだから」
あらそうと言いながら、さっさと歩いていく母に呆れながらも、彼女についていった。天井や店のあちこちに、英語で書かれたセールという赤と白のポスターが貼ってあった。セール品を見ながら、今度渋谷に来ていくワンピースでも探そうと見ていると、母が私の名前を呼んだ。
「これ、試着してみて」
彼女の手には、クリーム色のカットソーが握られていた。
「自分で着るなら自分で試着しなよ」
呆れながら言うと、もっと呆れたような顔をして
「若い子がいる店で、おばさんが試着できないでしょ」
と小声で言うので、試着できないものを着れるのかと疑問に思ったが、仕方なく奥にいた店員を呼んだ。首の大きく開いたカットソーは、たっぷりとしたデザインになっていた。右腰のあたりから生地にタッグが入れてあるのか、波を打つように左右対称ではないデザインになっていた。
「終わった?」
母が返事を待たずカーテンから顔を入れたので、私は彼女に見せるために振り返った。
「変わった形だし、たっぷりしてて、いいかもしれないよ」
「やっぱりお母さんは見る目あるわ」
と言いながら嬉しそうにそれ頂戴と様子を見に来た店員に言った。
「でも白色は膨張色だし、最近、ふくよかになってきたんだから、もっとスリムに見えるものにすればいいのに」
買った後に私が袋を渡しながら言うと、あからさまに嫌そうな顔をして
「買う前に言いなさいよ」
と怒りながらも、袋の中身を見てからダイエットするからいいわよねと、服に向かって話しかけていた。いつも私が気に入っている店に行くと、Aラインのきれいな形をしたグリーンのワンピースが売られていた。割引にはなっていたものの、それでも多少値が張っていたので、迷っていると母らが
「あんた、緑のワンピース持ってるじゃない」
と言ってきたので、自分の洋服を思い出しながら否定すると
「ほら、ハワイに行った友達にもらったお土産だって言って」
そう言われて、初めて母の言っているのが、友達からもらったアロハ模様のワンピースだということが分かった。鮮やかなグリーンに、赤い大きなハイビスカスが描かれ、肩が紐になっているワンピースのことだった。私はもらったものの、いまだに着る機会がなかったので、おそらく押し入れにしまってあるはずだった。
「あれはグアムに行った友達だし、そもそも海とか海外に行くときに着るもので、あれを着て近所で散歩でもしてたら、一人だけ常夏にいる人みたいで可笑しいでしょ」
そう言うと、母は納得してないのか、ぶつぶつ言いながらも自分の洋服を探しに行ってしまったので、私はワンピースをもって試着室に入った。見た目と着たときの感覚はかなり違っていて、自分はこの形が似合わないのだと瞬時に判断できた。また母親がやってきたので、カーテンを開けて、あまり似合わなかったと告げた。
「確かに、なんか、ビンに巻かれてる包装紙みたい」
様子を見に来た店員さんも、母の言葉に苦笑していたので、恥ずかしくなってカーテンを閉めた。
結局、私はいいものが見つからなかったので何も買わずに店を出た。時計を見ると、もう七時近かったので、母がせっかくだから食事をして行こうといい、地下にある中華のお店に入った。店員に案内された私たちは、角のテーブルに座った。中には土曜日だからか、カップルや家族連れらしい人たちがちらほら座っていた。母は、何も見ずに、おしぼりと箸をおきに来てくれた店員に広東麺とウーロン茶を頼んだので、私はあわてて、メニューからカニチャーハンとウーロン茶を頼んだ。
「ここ来たことあるの?」
私は持ってきてくれたウーロン茶に口をつけながら聞いた。
「おばあちゃんがここの焼きそばが好きでね。ランチは安いのよ、すごく」
そう言いながら、母ものどが渇いたと言って、ウーロン茶に手を伸ばした。
「あんたはこの先、進路はどうするの?」
「まだわからないけど、一応そのまま残ろうと思う」
「そうだと思ったのよね。でもお父さんにもちゃんと話さなきゃだめよ。それから、ちゃんとバイトをして授業料の足しにすること。私もまだまだ働かなきゃだめね」
そう言って、暑そうに餡がかかった五目のラーメンを食べながら、母が言った。エビやキクラゲなど大きな具材がのっていて、麺が見えないくらいだった。親に迷惑をかけているつもりはなくても、やっぱりどこかで支えてもらっているのだと実感しながら、汗をかき始めたウーロン茶を飲んだ。少し遅れてカニチャーハンと小さなスープがやってきた。ふっくらと盛られたチャーハンからは、香ばしい、いい匂いがしていた。母はテーブルに置かれたチャーハンを見るなり、運んできてくれた店員にお皿をお願いした。ポニーテールをしていた若い店員の女の子は、すぐにチャーハン用と広東麺用に二つのおわんと、丁寧にレンゲまでつけてくれた。
「文也君だっけ?彼は何をしてるの?」
いつの間にか母には、新しい彼氏の話をしてしまうので、二人で話しているときは半分が彼氏の話だった。
「今四年生だから、公務員試験の勉強中なんだって」
「公務員になってくれたら安泰ね」
と言って箸をおいた。お皿を下げに来たさきほどの店員に、母は杏仁豆腐とマンゴープリンを頼んだ。お酒が一切飲めない代わりに、甘いものが大好きな彼女はいつも食後にデザートを頼む。
「公務員なれたらいいけど、なれなくても、文也ならどこかに就職すると思うよ」
「大輔君だって、ちゃんと就職したじゃない」
親なのに痛いところを突くなと憮然としていると、見かねたように母が言った。
「まあどこで何してても、ちゃんとあんたのこと見ててくれる人を探しなさいよ」
そう言いながら、目の前に置かれた杏仁豆腐とマンゴープリンを嬉しそうに見つめて、もう一度小さくいただきますと言ってからスプーンを握った。おわんに入っている杏仁豆腐には、オレンジ色のシロップがかけられていてフルーツまでのっている。一口食べるなり幸せそうな顔をする母を見ながら、今度は文也もつれてきてあげようと考えていた。
その日の夜、文也から珍しく早い時間にメールが着たので、見ると電話してもいいかと書かれていた。こちらから電話する方がいいのかと迷ったが、すぐさま返信し待っていると、少ししてから電話がかかってきた。
「もしもし」
久しぶりだったので、少し緊張しながら電話に出ると、向こうでも一瞬黙ったのか沈黙があった。それでもすぐさま、久しぶりという声が聞こえた。
「どう?順調に進んでる?」
「うん。だいたい、やるべきことはやったかな」
「そっか。それじゃあ、あとは試験を受けるだけだね」
「本当は試験終わるまで、電話するの待ってようと思ったんだけど、試験の前にどうしても声が聞きたくて。やっぱり、電話してよかった。明日からがんばれそう」
胸にこみ上げてくる、会いたいとか好きという言葉を、一瞬ため込んで深呼吸をしてから
「いつでも電話してきていいよ。
私は、文也のことだれよりも応援してるから」
と言って、もう一度息を小さく吐いた。彼に触れたいという欲望が、静かに私の中で登り詰めてくるのを感じたけど、それを言ってしまったら、今までのものが壊れてしまいそうな気がしたので、待ってるよとだけ言って、彼が電話を切ってくれるのを待ってから、携帯電話を耳から離した。
 
 冷房の効いた電車の中で、今年の夏買ったばかりの本を読みながら、ふと顔をあげると、いつの間にか一駅前についていたので、しおりを挟んでからかばんにしまった。前に座っているおじいさんが、隣に座っている孫らしき男の子の手をつないでいるのが見えた。男の子はおじいさんの手を取ると、そのしわだらけになった大きな手と自分のものとを見比べて笑っていた。電車を出ると、むっとした空気が足元から一気に立ち込めてきたけれど、人の波に乗って、何も考えることもなく駅の改札を出た。黒に近い紺色の短パンを穿いて、中に着た白いタンクトップが透けて見える白いチュニックを着ていたちひろが手を振った。鮮やかな青いひもが、足に巻き付いているかかとの高いサンダルのおかげで、やけに背が高くなったように見える。
「久しぶり。待った?」
「大丈夫、今来たところ。それにしても、少しやせたんじゃない?」
タンクトップから見える私の腕を見ながら、怪訝そうに聞いてきてので、だらだらしているだけだと答えた。
「夏バテもあるけど、大学院生ってパソコンに向ったり、本読んだりするだけだから、筋肉が落ちただけだよ。おかげで視力はかなり下がったけど」
「向こうから歩いてるの見たら、ずいぶん痩せた様に見えたよ。私なんてずっとヒール穿きながら立ってるから、足のむくみが取れないよ」
そう言ったちひろの足は、確かに大学の時よりか幾分筋肉質になっているように見えたけれど、それでもきれいな形を保っていて、健康的に見える。
「この前買い物に行ったときに、ちひろもこのお姉さんたちと同じように働いてるんだって思ったら親近感がわいたよ」
「そうだよ。私も今まではお客だったのに今は同業者だから、今は洋服見てても、ついつい店員見ちゃってるんだよね」
「 おまたせー」
声のする方向に顔を向けると、膝丈の薄い紫色のワンピースに荒い目のしたかごのバックを持った由美が、走ってくるのが見えた。この前会ったときは、胸の下あたりまであった髪の毛が、肩のあたりでばっさりと切られていた。
「髪切ったの?」
ちひろが、肩にかかってふんわりとカールしている由美の髪を触りながら尋ねた。
「雰囲気変えたくて。どう、似合ってる?」
「ずっと長い由美が当たり前だったから、すごく新鮮。でも前より大人っぽくなっていいかも」
そう言うと嬉しそうにそうかなと言って、照れながら笑った。
私は、渋谷駅から少し離れたところにあるレストランに予約を入れていた。先日、教授と数人の生徒で打ち上げを行ったそのお店は、雰囲気もよく値段もそこまで高くないのに、とてもおいしい料理が出てきたからだ。
「いらっしゃいませ」
と言って迎えてくれたお店の人に、予約した旨を伝えるとお店の奥にあるテーブル席に通してくれた。ガラスの向こうに広がっている中庭のような空間には、クリスマスのようにライトが点灯している。
「お洒落な店ね」
ちひろと由美がそういいながら、窓の見える席に座ったので、私は窓側の席に腰を下ろした。とりあえずワインの白をボトルで頼み、サラダや前菜になりそうなものを頼んだ。手渡された冷たいおしぼりで手を拭きながら待っていると、由美がそわそわしながら視線を送ってきていた。
「どうしたの、トイレ?」
「違うよ。実はさ、二人に報告があって」
耐えかねた様に右手を差し出すと、薬指に銀色の指輪がはめられていた。
「何、彼氏できたの?」
隣にいたちひろが指輪を覗き込みながら聞いた。由美は照れているのか、下唇を噛みながら、手の甲を私たちに見せるように顔の横に挙げた。
「実は五月から付き合ってて、三ヶ月記念で買ってくれたの。来月誕生日だし、早めのプレゼントってことでね」
「なんで付き合ったときに言わなかったの、もう。
おめでとう。もしかして同僚?」
「ううん。実は 
上司で、五つ年上なの」
私とちひろは言葉を失って見合わせていると、由美はあわてた様に独身だからと付け加えた。
「当たり前でしょ。そんなのわかってるよ。でも大学生の間あれだけ彼氏できなかったのに、年上の、しかも上司を落とすなんて、さすが策士だね」
私の言葉に怪訝そうな顔を浮かべながらも、嬉しそうに指輪を見つめていた。ちょうど冷えたワインと前菜が運ばれてきたので、私たちは乾杯することにした。すっきりとしたブドウの酸味に、口に残る甘さがあってとてもおいしかった。
「ちひろはどうなの、直喜とは会えてるの?」
「うん。そこそこね。来年になればお互い落ち着くと思うし、そうしたら同棲でも始めようかなって話し合ってるとこ」
「私も早く一緒に住もうって言われてるし、やっぱり通えない距離でもないけど、通勤で二時間近くかかるのはつらいから、引っ越すかも」
働き始めると、こうも人生が早く進んでいくものなのかと思いながら、もしかしたら自分がのんびり過ぎるのかと考えていた。
「仕事はどうなの、楽しい?」
そう聞くと、ちひろはあからさまに嫌な顔をした。
「休日ぐらい仕事は考えたくないよ。もともと化粧品に興味があったし、今の職場に就けたことは満足しているけど、やっぱり待遇とか考えると、結婚したらやめるかな」
「専業主婦になるってこと?」
「そうだね。直喜の収入だけじゃ、確かに最初は苦しいから一緒に働くけど、子どもでも生まれたら、私はやめて子育てに専念したい」
ちひろの未来に直喜がいることが、なんだかすごくほほえましかった。学生の時から仲良かったけれど、社会人になった今、彼女たちはより強い絆で結ばれているような気がした。
「由美は?」
「私はすごく楽しい。確かに上司がいい人だったってこともあるけど、会社自体が社員を大切にしてくれてるっていうのかな。今年入った私にも、責任ある仕事を任せてくれるから、信頼されてるんだって思うし」
「ね、その彼、写真ないの?」
と聞くと、一瞬、彼の顔を思い出したのか照れ笑いを見せながら、いろいろと言い訳を繰り返しつつも、携帯をテーブルに置いた。部屋の中なのかテーブルに座って、顎に手を当てている男の人がいた。灰色のTシャツにネックレスをつけていて、日焼けしているのか少し黒く、くっきりとした二重に鼻筋の通った、どちらかというと外国人にいそうな顔つきをしていた。
「かっこいいし、五つ上に見えない。
 ハーフじゃないよね?」
そういうと、あからさまに嬉しそうな顔をした。
「写真だからだよ。私も、初めて会ったとき、ハーフかなって思ったの。でも聞いたら生粋の日本人だって。アウトドアが趣味だから日焼けしてるのよ」
確かに、サーフィンとか山登りとかが似合いそうな雰囲気が出ていると思った。
「会社でモテるでしょ?かっこいいよ」
驚きながらちひろが携帯を返すと、由美が小さくため息をつきながら、かばんに携帯を入れた。
「背が、あんまり高くないの。だから、ヒールの高い靴穿けないのが悲しいんだけど、仕事の面ではすごくサポートしてくれてるし、一緒にいて安心する」
由美からそんな言葉が聞けるとは思ってもいなかったので、よかったと感じていると、ちひろもそう思ったのか、大切にしなよと言って、嬉しそうに笑った。
「景子はどうなの、文也君、今年就活でしょ?」
順番的には回ってくるだろうなと思っていたので、二人のように驚くような出来事はないにせよ順調だと言うと、ちひろが思い出したかのようにフォークをおいた。
「公務員だっけ?直喜も公務員狙ってたみたいだけど、結局、試験の前にあきらめてたし、難しいみたいだね」
「そうみたい。今は集中したいって言われたから、試験が終わるまで会わないの」
「それ、去年の景子みたいだね。似た者同士がくっつくって顔だけじゃないのかな。
そういえば大輔さん、今何してるのかな」
由美に言われて、そうだねと言いながら、去年の今頃、名古屋に行って別れを告げたことを思い出していた。
「今回は景子が支える側なんだね。年下の彼氏だし、ますます景子が主権を握ってるって感じ」
その言い方が、あからさま過ぎて苦笑いしながらも、確かに当たっていると心の中で思っていた。大輔の時もそうだったし、その前からそうだったけれど、私は自分から好きというのをあまり出さない。会話のキャッチボールという言葉のように、恋愛が、テニスとかバドミントンのように相手にボールを正確に返さなければ、相手からも返ってこないものだというのはわかっていた。どちらかが強ければ、相手を通り越してしまう、その逆で、弱すぎても相手へ届かない。でも私は、いつも来る玉が、私を通り越していくのを下から眺めているのが好きだった。自分の下に、羽やボールが溜まっていくのが好きだったのだ。そのためだったらわざと相手に甘い球を投げることや、自分のコートを相手の二倍の広さに広げることだっていとわなかった。
「景子って、相手を手のひらで転がしてる感じだよね」
「策士の由美に言われたくないよ」
眉をしかめながらも、由美は景子ほどじゃないよと言った。
「でも、二年生の時だっけ、私の部屋で三人で飲んでた時、景子、酔っぱらってさ、男はスーパーボールだって言ってたよね」
私は覚えていなかった。確かにそんなようなことを言った感じもしたけれど、はっきりとは思い出せなかった。
「そうそう。確かさ、あれは、ちひろが先輩といい感じになりそうだった時で、先輩が遊びに誘ってくれないから、自分から誘うって宣言した時だったよね。そしたらさ、景子が、ほっとけば男は来るって言って、大輔なんてスーパーボールなんだって。普段は手のひらで転がっているけれど、時々私の手から落ちる時もあるって。でも慌てないで待っていれば、そのまま戻って来るって」
「確かに、そんなようなこと言ったかも」
私は曖昧な記憶の中に、そんなようなことがあったような気がした。
「懐かしいね。あの時、一時期うちら、景子様って呼んでたもんね」
私たちは手をたたきながら笑った。
食事が終わったところで、私たちはデザートを頼むことにした。私はチョコレートのムースにし、由美とちひろは洋ナシのシャーベットを注文した。
「でもさ、そろそろ同級生の間でも結婚する子が出てくるでしょ。焦りはないけど、たぶん無意識に考えて行動するようになってきてるんだと思うんだよね」
運ばれてきたシャーベットの上に載っていたミントの葉っぱをよけながら、ちひろが言った。
「結婚はいつまでにとか、結婚後は夫婦で何年二人で過ごしてから、子どもを産むとかね。でも、自分の頭の中では考えるけど、それを恋人とシェアするのはまだできないな」
由美は指輪を眺めていた目をあげ、私たちを交互に見た。
「私は全然考えてないよ。結婚の前に仕事しなきゃだからね。文也ともそういう話はないし、むしろ今はそんなことより学校の方が忙しいしね」
社会人になってしまった彼女たちは、学生の方が楽だったなと言いながらムースにスプーンを伸ばしていた。
レストランを後にして、私たちが夜の闇に包まれた渋谷の街を、少し火照った体で歩いていると、由美が携帯を出した。
「ごめん。電話だ」
と言って道の脇に寄ったので、私たちも少し離れたところで待つことにした。行き交う人や車の雑音にかき消され、由美の声が私に届くことはなかったけれど、赤く染まった頬で嬉しそうに笑った表情を見れば、電話の相手が指輪をプレゼントした彼だということは明らかだった。
「あんなに高いヒールを穿いていた由美が、ぺたんこの靴を穿いててどうしたんだろうって思ってたけど、きっと、彼のことが本当に好きなのね」
同じことを思っていたのか、ちひろも由美の方を見ながら嬉しそうに微笑んでいた。
「もしかしたら、髪を切ったのも、彼のためなのかもね」
と私は言って、やはり恋の力は絶大なのだなと改めて感じた。
「次会うのは、きっと冬休みだね」
私が言うと二人も相槌を打った。
「次は、温泉でもいいから一泊したいね」
そうだねと言いながら、そういった約束が難しくなっていることを、私たちは心の中でわかっていた。大人になるってそういうことなのだろう。私は、彼女たちがもう私とは少し違った位置にいるような気がして、少し寂しい気持ちとうらやましい気持ちになった。
彼女たちと別れて、渋谷から一人で電車に乗っていると、同じ年ぐらいのカップルが乗ってきた。手をつなぎ、お酒を飲んでいたのか、鼻が突きそうなくらい顔を近づけながら、ドアに寄りかかり、互いを見つめ合っていた。彼氏は黒色のポロシャツに少し大きめのジーパンを穿いていて、彼女の方は短いショートパンツから伸びた長い脚に黒いスニーカーを履き、灰色のシンプルなTシャツを着ていた。女の子の長いストレートの黒髪を、男の子が手でなでていた。私は恋人のために変われるだろうかと、窓ガラスに反射した自分を見つめた。三年生の時に思い切ってショートに切った髪が、今は胸にかかるくらいまで伸びている。文也がもう一度ショートカットにしてくれと頼んできても、私は髪を切らないだろうなと思った。その代り、相手に対しても、自分の理想を押し付けたりできないのだとも思った。文也に対して不満を持ったこともなければ、理想を口にしたこともない。決して口論をしたことがないわけではなかったけど、彼の容姿に対して何かを言ったことはなかった。大輔の時は、何か言ったことがあったかもしれないけれど、今となっては、大輔から言われたことを思い出すことは簡単だったけれど、自分が言ったことを思い出すことはできなかった。



両親が二泊三日で温泉旅行に行くというので、植物の水やりと犬の散歩を引き受けた。
「最近、暑いからなるべくいっぱいやってね。特にトマトとキュウリね。すぐにシナシナしてきちゃうけど、水やれば復活するから。あとみかんの水も見てあげて。最近いっぱい飲むから」
そう言うと、お饅頭買ってくるわと言って小さな旅行鞄をもって出かけていった。
もうそろそろ十四歳を迎える我が家のミニチュアシュナウザーは、私が小学四年生のころ、ペットショップから我が家にやってきた。そのひと月前、兄が、たまたま下校中に野良犬を発見した。灰色の毛がもしゃもしゃした犬が、道路をうろうろしていると私に告げ、私たちは、そのまま抱っこをして、家に連れて帰ってきてしまったのだ。その時はまだ祖父母も同居しておらず、私たちは仕方なく、母の携帯に電話をした。母はかなり怒ったが、帰るまでお風呂場に入れておくようにと言った。仕事を早く終わらせてきた母は、その犬が首輪をつけているのを見て、すぐさま警察に連絡した。すると飼い主が明日になっても見つからない場合は、保健所に連れて行きますと警察から言われた。保健所の意味を母から教えてもらった私たちは、両親に飼うことを土下座してまでお願いしていた。ようやく両親が私たちの説得に折れかかっていたとき、警察から連絡があり、すぐ近所に、灰色のトイプードルを探しているお宅があったと言われ、すぐに飼い主が迎えに来た。お礼に頂いたビールは、無関心だった父だけがとても喜んでいた。
犬がいなくなってしまってから、私と兄は大泣きした。それから三ヶ月の間、我が家で家族会議が催され、しっかりと世話をするという条件の下、犬を飼うことが決められた。ペットショップに出向いたとき、私と兄はあの灰色のトイプードルに似た犬がほしいと思っていた。しかし、その店には灰色のトイプードルはいなかった。その代りにいたのが、灰色の毛をしたミニチュアシュナウザーだった。そこで、一番わんぱくで、元気があった雌のシュナウザーをもらったのだった。家に連れて帰るとき、彼女がみかんの箱に入れられていたため、みかんという名が付けられた。犬を飼うことに絶対的に反対していた父は、初めみかんに触ることすら嫌がっていた。しかし、私と母と兄が懸賞で当たったグアム旅行に行った時をきっかけに、なぜかみかんの朝の散歩は父の日課になっていった。
普段から早起きする父がみかんを散歩に連れて行くので、その習慣のせいか、朝四時過ぎたあたりから二階まで聞こえる大きな声で鳴いていた。仕方なく下の階に行くと、尻尾を振りながら玄関のところで待っていた。
「近所に迷惑でしょ。私はお父さんじゃないんだから、もう少し寝てなさいよ」
と言ってもう一度寝ようと思ったが、最近年のせいか、お漏らしをすることが多くなった彼女を我慢させるのもよくないと思い、着替えをしてから、赤いリードをもって外に出た。太陽はだいぶ上っていたものの、時間が早いせいか蒸し暑くなく、いつもだらだらしていた朝が心地よく感じられ、早起きも悪くないと感じた。みかんは早くも舌をだらしなく出しながら、私の少し前をせっせと歩いていた。緑のカーテンが数年前から流行りだしたせいか、この近所でも大きなゴーヤをつけたカーテンが、朝の風になびいていた。
「おはようございます」
前から歩いてきた白いマルチーズを連れたおばさんが会釈した。ランニングシューズに白い帽子をかぶって、首にタオルを巻いていた。
「おはようございます。暑いですね」
と言って私も会釈すると、ほんとねと言いながらもう一度会釈をして、横を通り過ぎて行った。白いマルチーズは、近づこうとするみかんとなるべく距離を保とうと、道路のぎりぎりを歩きながら、かなり警戒していた。あの寡黙な父も、散歩中は愛そうよくしているのかと想像しながら、自分の足元で舌を出しながらへばっているみかんを見て、行くよとリードを軽く引っ張った。
 犬の散歩ではいつも駅に行く道以外の道を通るので、新しく建った家や、いつも色とりどりの花を植えている庭など、知らなかったご近所の家々を見ることができる。私が気に入っている家は、私の家から五分くらい歩いたあたりにある、大きな平屋建ての家だった。白いペンキで塗られた家は、年季が入っているのか、ところどころ剥げていたけれど、周囲の家とは全く違った雰囲気を持っていて大好きだった。庭は手入れが行き届いていて、さまざまな草木が植えられている。特に大きな猿滑の木は、毎年鮮やかな濃いピンクの花を咲かせ、後ろの白い壁によく映えるのだ。時々きれいなワンピースを着て、深緑のベレー帽と、緑色のスカーフを巻いたお洒落なおばあさんが、植木に水をやっていたり、すらっと背の高いおじいさんと、縁側で夕涼みしているのを見かける。今日は朝が早かったせいか、静まり返った気配の中、庭に咲いた小さなひまわりたちだけが揺れていた。
家まで続く坂をぼんやり歩いていると、いきなりリードが重くなった。何かにめがけて、一直線に進もうとするみかんの先を見ると、蝉の死骸だった。もう少しで食べてしまいそうだったところで、思いっきりリードを引っ張った。あぶなかったと思った瞬間、ふと頭にある顔がよぎった。一瞬何のことがわからなかったため、呆然としていると、みかんがさらにリードを引っ張ってきたので、リードを強く握り直し、家まで何も考えずに歩いた。
家に着くと、眠たそうな目をした兄が、寝癖をヘアーバンドでくくりながら
「俺が水やるからいいよ」
と言って外に出て行った。少し暑くなった犬を抱きしめて足を拭いていると、彼女の呼吸のリズムが自分の体に響いてきて、心拍数が上がっていくような気がした。冷蔵庫から冷たい麦茶を出して、一気に飲んでから、部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。少し経って落ち着いたところで、もう一度さきほど頭をよぎった顔を思い出そうとした。

なぜ、その男を急に思い出したのかわからなかったけれど、きっとそれも夢の中でよくある、全く共通点を持たない友達同士が一緒の場面に出てきてしまうようなものと同じで、全く意識していなかったと思っていた私の中に、無意識に存在していた記憶だったのだろう。あの男に会った時、私は幼稚園生だった。私の家から親友だったかよちゃんと一緒に、彼女の家に行く途中だったと思う。



手をつなぎながら坂道を下りていたとき、いきなりかよちゃんが手を離して、きゃと小さく叫びました。かよちゃんは、水玉模様のスカートを抑えながら後ろを向いたので、私も振り返ると、坂のてっぺんで、私たちに歯を見せながら笑っているおじさんがいました。私は何が起きたかわからなかったけれど、そのおじさんの歯が、すごく黄色かったことをその時よく覚えていました。でも、あとでいろいろと聞いてきたお母さんに対して、私はそれを言いませんでした。
 その日以来、かよちゃんのお母さんが遊ぶ時もそばについていてくれました。私たちは幼稚園が一緒で、家も近かったのです。普段はかよちゃんの家か、私の家で遊んでいたけれど、ときどき家のそばある大きな社宅で遊びました。社宅は四つ並んでいて、そこは幼稚園のバスがお迎えに来るところでした。社宅と社宅の間は、雑草や木が生い茂っていたり、さびた鉄棒や使われていないタイヤがあったので、私たちにとっては、大きなジャングルみたいでした。夏になると私たちは、同じ幼稚園に通うあっくんと、私の兄も混ぜて四人でおにごっことか、だるまさんが転んだをしてよく遊びました。その時もかよちゃんのお母さんはそばにいました。
だけどある日、私たちがいつもと同じように社宅で遊んでいたとき、かよちゃんのお母さんが、何か取りに行かなきゃならなかったから、みんなで固まっててねって言って、家の方に走っていきました。お兄ちゃんとあっくんは、セミを捕まえるために一緒に木に登っていました。私とかよちゃんも、その近くで花屋さんごっこか何かをしていました。私が雑草を摘んで、かよちゃんがそれをひとまとめにして、レンガの上に並べていく遊びです。私は少し遠くに、たんぽぽの綿毛を見つけて急いで取りにいきました。その日はおばあちゃんが作ってくれた、チェックのワンピースを着てて、お兄ちゃんもおそろいの短パンを着ていました。立ち上がったとき、下から風が抜けて、すごく気持ちがよかったのを覚えています。綿毛をちぎって、風で飛ばないようにゆっくりと持ち上げてから、かよちゃんに見せようと思って振り向くと、かよちゃんの後ろにあの男が走ってくるのが見えました。私が小さく声をあげたとき、男はかよちゃんの赤いカチューシャを取ってから、かよちゃんに抱きついて、そしてすぐに走って逃げていきました。何が起きたかわからなかったかよちゃんは、後ろを振り向いて男を見ていたと思います。かよちゃんの顔はわからなかったけれど、すぐにかよちゃんの泣いている声が聞こえました。かよちゃんのお母さんがかよちゃんを抱き上げて、大丈夫と言ってたけれど、赤色のカチューシャをなくして、かよちゃんはずっと泣いていました。
私もその日、赤いリボンのついた麦わら帽子をかぶっていました。ゴムのところがゆるくなってたから、何回か結び目ができていました。チェックのワンピースを着ていたし、お気に入りのキャラクターが描かれたサンダルもはいていました。何がかよちゃんとちがうんだろうと私は思いました。かよちゃんはなんで特別なんだろうって思いました。お母さんに抱っこされたかよちゃんを見上げたけれど、わかりませんでした。かよちゃんのお母さんが抱き上げたから、かよちゃんはスカートがめくれて、水色のパンツが見えていました。お兄ちゃんとあっくんが木から降りてきて、あっくんは手でセミを掴んでいました。かよちゃんの泣き声がセミの声と混ざって、頭の上の方から聞こえていました。



あの時から今まで、何とも思っていなかったあの思い出が、なぜか今、私の中で鮮明に色を得て甦ってきた。かよちゃんの水玉模様のワンピースとか、赤いカチューシャ、おばさんの腕の間から見えた彼女の水色のパンツが、鮮明に甦ってきたのだ。あの時の思い出は生きていたのかも知れないと私は思った。痴漢に狙われるのが、なんでかよちゃんだけなのだろうと、私は自分が負けたような気がしていた。子どもながらに、大人たちがその男を警戒しているのははっきりわかっていたけれど、母から、兄と一緒にいなさいと言われたことに対して、内心は私も特別になりたいと思っていた。そういった過去の自分を思い出したら、自分はずっと、もしかしたらその男によって掴まれてきたのかもしれないと思えてきて、自分がわからなくなった。
今の自分を作り上げてきたもの、今の私の基礎となっているものは、先生とのあの出来事だと思ってきた。先生が私を掴まえていてくれているのだと、だからこそ、私は恋人のまえでも、友達の前でも強くいれるのだと思ってきた。でも、それが先生ではなく、あの男だったのかもしれないと思った瞬間、目の前が白くなっていくように、色味が引いていくのがわかった。先生が手を取ってくれたあのときに生まれた感情こそが、今の自分だと思ってきたのだ。私を束縛してくれる人を好んで恋人に選ぶのでさえも、先生に掴んでいてほしいからだと思ってきた。私は先生だけを束縛しなければいけない。そうしなければ先生も私を掴んでてくれないからだと思ってきたのだ。私は、特別になりたかったのだ。
でも本当に理由もなしに、犬の散歩していたとき、ふとあの男の顔が甦ってきた。特に、周りに人がいたわけでも、そこがあの男に会った場所でもなかったのに、あの男の顔と、あの男と会ったときに私が抱いた気持ちの記憶が、ふわぁっと甦ってきたのだ。あの男の顔というよりも、あの男の記憶、あの男が私に抱かせた記憶が、私を掴んでいた。部屋の中で小さな虫を見つけた時みたいに、1センチにも満たない虫に、部屋を支配された気分になるあの時のように、あの記憶が私の頭の中を満たしていた。意識の中で、私はあらゆる可能性を考えてみたけれど、そうしている間も、やはり私からあの記憶がなくなることはなく、165センチの私にとって、1センチの虫がすべての世界だってくらい、のめり込まれていった。



文也から電話を受けたのは、彼が試験日だと言っていた一日後だった
「久しぶり」
音楽を聴いているのか、遠くで誰かの歌声が聞こえた。
「お疲れ様。昨日はどうだったの?」
「うん。やっぱり難しかったし、たぶん落ちてると思う。さすがに一回目では受からないとは思ってたけど、現実になったって感じ」
やはり少し落ち込んでいるのか、声に以前の元気がないような気がした。
「そっか。でも、まあ、受けることに意義があるんだから」
文也は返事をしながらも、やっぱり堪えているのか黙ってしまった。電話越しに聞こえてくるため息は、受けているこちらまで憂鬱にする。かといって慰める言葉をかけることは、ただ傷のなめ合いにしかならないのではないかと思い、前向きになれるような言葉を選んだ。
「まあ、さ、終わったんだし、結果はもう変わらないんだからさ、次に向けて進むしかないでしょ」
少し沈黙が続いたので、とりあえず明日家に行く約束だけして電話を切った。クローゼットの中を見ながら、明日は文也の好きなケーキでも買っていこうかなと考えていた。
 白いワンピースは、大学の裏手にある小さな洋服屋さんにて、一目惚れして購入したお気に入りの洋服だった。シンプルですらっとしたデザインのワンピースには、両脇に五色のボタンが縫われていて、そのボタンの色と同じ色を使った刺繍が正面に施されている。特に目を引くデザインでもなかったが、すらっとしたその形が、ベトナムに行ったときに、現地の女の子が着ていた民族衣装に似ていることを思い出した。背の高い女の子が、薄い水色の民族衣装を着て、優雅に川沿いを歩いていたのを見たとき、目が釘付けとはこのことだなと思った。黒いサンダルを穿いて外に出ると、むっとした空気が体を覆った。駅までの道は五分程度なのにもかかわらず、腕や首筋に痛い位の太陽の日差しを浴びて、うっすらと汗をかいた。
 一度乗り換えのために横浜で電車を降りてから、駅ビルに入っているケーキ屋に向かった。ガラス越しに、色とりどり並んでいるケーキを見ながら、文也はきっとチョコレートが食べたいと言いそうな感じはしたものの、季節的なことも考えて、フルーツのたくさん乗ったタルトにした。
 電車の中は空いていた。椅子に座り、膝の上にケーキの箱を乗せてから、持ってきた本を開いた。夏休み中に読む本として、先生から勧められた本は、現代小説でとても読みやすい本だった。本の中身も私は好きだったが、特に背表紙に書いてある絵が気に入っていた。白いワンピースを着て、黒いリボンが付いている麦藁帽を被った女の子が、何かを手に持ちながら振り返っている。女の子の後ろには花柄模様の壁紙が描かれていて、手前にはピアノが置いてある絵だった。女の子が持っているものは、恐らく時計だろう。金色の丸い形は、ペンダントか懐中時計の類に見えた。その女の子の首に巻かれたスカーフが、部屋の中で窓もないのになびいているのだ。白なのにどこか優しさのあるそのスカーフは、彼女の羽のように見えた。きっと絵を描いた人物は、彼女に自由を与えたかったのだろうと思った。ちょうど本の内容も、そのようなイメージが強かったのだ。
 文也は、深緑のカーゴパンツに黒い七分袖のTシャツを着て、駅のコインロッカーの前で待っていた。久しぶりに会った彼は、少し髪が伸び、うっすらとひげが生えていたが、前と変わらない顔で笑っていた。
「久しぶり。暑いな」
「ほんと、久しぶり」
疲れているのか、外には食べに行きたくないと言う彼のために、駅から少し離れたスーパーへ、お昼の食材を買いに行った。いつもは学生で溢れている商店街の坂道も、さすがに夏休み中は人が少なくて歩きやすいなと思った。あまり食欲がないという文也のために、栄養も取れて、なおかつ食べやすいだろうと思い、冷やし中華を作ることにした。
大学と駅とのちょうど中間にあるアパートの二階が、文也の家だった。白い塗装が、ところどころ黄ばんできてはいるものの、中はそこまで古さを感じない作りの上に、広々としていて快適な部屋だった。
「おじゃまします」
開けてくれたドアから中に入ると、少しだけむっとした空気と共に、洗剤のにおいがした。
「エアコン、入れっぱなしにしておけばよかった」
独り言のように言いながら、文也はエアコンと扇風機をつけてベッドに腰掛けた。買ってきた卵や野菜をいったん冷蔵庫に入れてから、私も文也の横に座った。
「ほんと久しぶり」
「ずっと片づけもしてなかったから、昨日急いで掃除したんだ」
「一緒に掃除してあげたのに」
そう言って横を向いた瞬間、ふわっと抱き締められた。文也の香水の香りに、懐かしさを感じながら、私も文也の肩に首をのせて、ゆっくりと彼の背中に手を伸ばした。
「会いたかった」
頭の後ろから聞こえる文也の声は、私の体に響いて聞こえているみたいだった。
「うん」
ゆっくりと体を締め付けていた腕がほぐれて、文也の体が離れていくと、彼の顔が見えた。それから私たちはただ目を閉じて、キスをした。音楽を聴いたり、映画を見たりしているように、キスをしているときは、本当に何も考えていないで、受け身でいられるのが好きだった。音も映像もない世界だけれど、ただ目をつむって、相手の感覚を確かめていくだけでいいのだ。
唇が離れてうっすら目を開けると、目の前に文也の顔があった。くっきりとした二重に薄い唇がそこにあって、なんだかすごくほっとしてしまった。
「ごはん作るね」
そう言って私はベッドから立ち上がり、冷蔵庫から先ほど買ったものをテーブルの上に並べだ。卵をフライパンでオムレツ状にしてから、まな板の上で薄く切っていく。文也の家にはもともとフライパンとか包丁とか、簡単なキッチン道具が揃っていた。初めて来たときに聞いたところ、母親が引っ越すときに買ってきたものだと言っていた。彼も自分自身で多少は料理を作るらしく、調味料も何種類かは冷蔵庫と、キッチンの下に収納されていた。鍋に水を入れ、火にかけてから、買ってきた野菜を順番に切っていった。薬味として買った大葉からとてもいい匂いがして、お腹が空いていくのがわかった。
「そういえば、こないだ由美とちひろに会って、由美が彼氏できたって指輪見せてくれたの」
麺をゆでながら、部屋の奥にいる文也を見ると、彼はパソコンに向かいながら何か書いているみたいだった。
「由美さんか、懐かしいな。指輪って、結婚指輪とか?」
「まさか、付き合った三ヶ月記念だとかで。彼が年上だし、もうそういうこと考えているとは言ってたけどね」
「ちひろさんと直喜さんは順調なんでしょ?」
「うん、あの二人が一番最初に結婚するんじゃないかな。直喜はそういうの意外と考えてそうだし」
文也がいる方向からは相槌の代わりに、彼の好きな洋楽が聞こえてきた。
「できたよ」
そう言って、冷やし中華が盛られたお皿をテーブルに持っていく。こたつ用のテーブルの上でパソコンを見ていた文也は、パソコンを床に移動し、テーブルを部屋の中央にずらしてから上を見上げた。
「おお、きれいに盛ってある」
「スープもあるよ」
そう言うと文也は立ち上がり、キッチンの方へ向かって、カップに入れられたスープを持ってきてくれた。
「なるべく卵使った方がいいかと思って、卵スープにしてみました」
「確かにね。俺、料理最近してないしな」
文也が部屋の角に置いてあった緑色のクッションを取ってくれた。それはこの前二人で選んだもので、私は低反発のものにし、文也はビーズクッションにしたので緑でも微妙に色が違った。私の方が深い緑色をしていた。
「やっぱりこのクッション、景子が選んだ方が座り心地はよかったよ」
文也は自分のそれに座ると、小さくいただきますと言って箸を手に取った。
「枕にする分には文也の方がいいと思うから、別々にしてよかったかもね」
私も同じように麺と具を少し混ぜてから食べ始めた。
「いつもごまだれだったけど、醤油もおいしいね」
「私の家ではいつも醤油だよ。ごまだれはメーカーによって味が違うからって」
「そうなんだ。でもこれ本当においしいよ。
でも、これに揚げ玉ほしかったな」
「揚げ玉は後でふにゃふにゃになるから嫌いなの」
文也は苦笑しながら、冷やし中華を口に運んでいた。
無言で私たちは食べていたけれど、ごちそうさまと彼が言ったので、私は文也が箸を置いたお皿を見た。レストランに行っても、感心してしまうほど彼はきれいに物を食べる。一度、二人でチェーンの和食屋に入った時、文也が頼んだアジの開きを見て、私が感心していると、文也は母親が家庭科の先生なのだと言った。
「小さいころからホテルのレストランとかに連れて行かれて、魚の食べ方とか、礼儀作法とか教わったんだよ。その頃は嫌だったけど、今となっては本当に感謝してる」
確かに、彼の食べ方とマナーは男の子にしては珍しい位にきちんとしている。私も母から魚の食べ方は教わってきていたので、多少の自信はあったものの、彼の前では魚を食べるのをためらってしまうくらいだ。
「冷蔵庫にケーキが入ってるよ」
そう言うと、嬉しそうにすぐ立ち上がって冷蔵庫へと向かった。
「すごい。俺、ずっとケーキ我慢してたんだよ。昨日もコンビニでシュークリーム買おうか迷ったんだけど、よかった、我慢してきて。しかもさ、こういうの食べたかったんだよ」
誕生日やクリスマスの翌日に、プレゼントの箱を開けて喜ぶ子どものような彼は、逆にこちらがありがとうと言いたくなるほど素直に喜んでくれるので、する方も嬉しくなってしまう。
「よかった。紅茶入れようか」
私は電子ポットに半分くらい水を入れて、スイッチを押した。少し待っていると、カチッという音がしたので、私は大きめのカップにパックの紅茶を浮かべてから、テーブルに持って行った。待ちきれないのか正座をして待っていた文也は、下唇を噛んで、まるで本当に子どもに戻ったみたいだった。いただきますと二人で言ってから、ケーキにフォークを刺した。生クリームがあまり甘くない代わりに、下のタルト生地がしっかりとした甘さと触感を持っていてとてもおいしい。言葉にならないのか、うーとかむーとかいった音を出しながら、文也が紅茶のカップを取った。
「おいしい。タルトがサクサクしてるよ」
ほんとに子どもだと思いながら、私もそうだねと言って二口目を口に入れた。ペロッと食べてしまった文也は、ぼんやりと外を見ながら黙っていたので、私は紅茶のお代わりを聞いた。返事をする代わりに、彼はため息をついてから言った。
「俺も大学院にいこうかな」
彼は視線をテーブルに戻し、ケーキが乗っていたアルミホイルを見つめていた。私は上にのっていた最後のフルーツであるパイナップルを口に入れた。
「今からじゃ遅いと思うよ。それに大学院行ってから何するの?」
私は意地悪く言った思いはみじんもなかったし、むしろ何も考えず言葉が出てしまったと言った方が正しかったかもしれない。でも、すこし怪訝そうな顔をして文也がこっちを向いたので、言い過ぎたかなとも思った。
「じゃあ、景子はなんで大学院にしたの?大学院卒業したら何するんだよ?」
少し吹っ掛けるような言い方だった。私は少し驚きを感じ、残りのケーキを一気に口に入れてからゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
「それは研究したかったからだよ。大学四年間じゃ足りないって思ったの。それに就職することも考えられなかったし。後のことはまだわからないけど、そのまま残るか、一般就職するか、留学するか」
「じゃあ俺だって、そのまま勉強して二年後また公務員受験するのでもありだろ」
「就職するのを先延ばしするために院に行くのは違うんじゃないの?お金だってかかるし、そもそも勉強してないのに入れないでしょ」
文也は明らかに嫌な顔をしていた。あまり喧嘩することもなかったし、彼がそこまで怒ることも見たことがなかった。
「お金は、景子には関係ないじゃん」
少し弱腰になったのか語尾が小さくなっていた。確かに関係ないけど、と言おうとして止めた。
「試験に落ちたかもしれないくらいで、そこまで落ち込まなくてもいいんじゃないの?」
そう言うと、いきなり文也が立ちあがって、ベッドに腰掛けた。少し憮然とした表情を浮かべながら沈黙している彼を見ながら、私も心の中ではかなり苛立っていた。自分が一生懸命勉強して掴んだ道を、軽く見られた気がしたからだ。
「景子はさ、なんでそう、いつも上目線なの?」
「上目線って、別にただ、文也は今まで大学院なんて一言も言ってこなかったのに、試験に落ちたかもしれないから、じゃあ大学院行きますっていう考え方はよくないんじゃないのって言ってるだけでしょ?」
「別に景子には関係ないだろ。どこに行こうが、どう選択しようが俺の勝手だよ」
内心に感じていた苛立ちも消えていなかったが、去年の今頃、就職活動をしていた友達が神経質になっていたことを思い出していた。仕方なくテーブルの上にあったケーキの箱と、スプーンなどをもって流しに向かった。沈黙する部屋の中で、水の流れる音と音楽だけが響いている。お皿や箸などを洗っていると、だんだん私も落ち着いてきて、子どもみたいに対抗してしまったと少し後悔した。
「ごめん」
小さく押し殺したような声が、ベッドの方から聞こえてきた。手についた泡を洗い流してから、彼が座っていたベッドの方に向かった。文也はベッドに座りながら、両肘を膝の上にのせて頭を下げていた。
「景子に八つ当たりしたかったんじゃないんだよ。
  でも、いつも景子は前にいる気がして」
私は彼の背中をさすりながら、きっと私が彼を苦しめているのだと感じた。文也はゆっくりと私を抱きしめると、そのままじっと何かを確かめるように首筋にキスをし、そのまま唇にもした。私は彼の暖かな息を感じながら、ゆっくりとベッドへ倒れ込むようにして、床についていた足から力が抜けていくのがわかった。文也はいつも以上に丁寧に私を抱いた。何度も好きという言葉を繰り返しながら、何かを確認するかのように。私もその言葉を呪文のように聞きながら、ぼんやりとする感覚の中で、彼の今までの不安に触れたような気がした。
 文也の体から緊張感が抜けたのと同時に、彼の体が離れていくのを感じた。密着していた素肌は汗ばんで、額に髪の毛が張り付いているのがわかった。彼が裸のまま立ち上がり、窓を開けた。汗ばんだ体に生暖かい風が気持ちよかった。私は小さく息を整えながら、目をつむった。その瞬間、遠くで蝉の声が聞こえた気がした。
「絶対先に手をつないで来たり、腕につかまってきたり、好きって言わないのも、人前でするの好きじゃないって言ってたけど、本当はそうされる待ってるんじゃない?本当は自分が好かれてるって感じたいからじゃないの?」
声は私の中に響いていた。風が肌の上を通り過ぎるだけで、私の体は熱に帯びていただろう。確かに私は、自分から手をつながなければ、腕を組みにいったりもしない。歩きにくいというのもあったけれど、自分から彼氏の腕につかまりにいく女の子たちを見て、私はあんな風にはなりたくないと頑なに思っていた。私は受け身でありたかったんだと思う。でも何のために。何を待っていたのだろうか。これもあの男のせいなのか。かよちゃんのように特別になりたかった私は、あの時から、小さな強さを積み上げてきただけなのだろうか。あの男が来てくれるのを、私は待っていただけなのだろうか。
そう思うと、私はさらに強く目をつむった。汗はとっくに引いていて、体はなぜか死んだように重かった。
「景子はたぶん、誰のことも好きじゃないんだよ。自分が一番大切なんだよ。」
首の裏あたりが熱くなってくるのがわかった。私は何を求めてきたのか。
「好きだよ」
私は少し強めに言ったつもりだった。でも、声が私の体を通って、相手に届いたときに同じ強さだったかはわからなかった。目を開けて、明るさに慣れていない目で彼を見ると、彼はベッドに座りながらまだ外を眺めていた。
私は彼の背中越しに、窓から見える青々とした木々を、その向こうの青い空を見つめていた。
そして、かよちゃんのこと、あの男の顔を。白い肌着のようなTシャツを着た、目が細く、黒い角刈りのような髪をしていたあの男。そしてあの黄色い歯を見つめていた。
かよちゃんと私は何が違ったのだろう。かよちゃんが水玉のスカートを穿いていたあの日以来、私だってスカートを毎日のように穿いていたじゃないか。一人で社宅に行って、座り込んで、持ってきた人形で遊んだこともあった。別の日には、赤とか黄色とかの折り紙に絵を書いて、社宅に置いてきたこともあったのに、次の日それは、、砂が被ったまま、まるで映画館に捨てられたパンフレットのように残っていた。あの男は来なかったのだ。あの男の目には、私は映ってはいなかったのだ。あの男の目に映った私たちは何が違っていたというのだろう。
「私、痴漢に襲われたかったんだ」
「えっ」
文也は驚いたように瞬きをしてから、私を見た。
「私、幼稚園の頃、近所に住んでいたかよちゃんっていう女の子と一緒によく遊んでたんだけど、一緒にかよちゃんと遊んでた時、いきなり男が現れて、かよちゃんのスカートをめくったの。その時は私自身も何が起きたかわかってなかったけど、その男にスカートをめくられたかよちゃんがすごく特別に見えた」
しゃべっていて、不思議とこれが自分に起きたものでない、誰か他人のことのように話している気分になった。あれは、私だったのだろうか。
「それから私、スカートを毎日穿いたの。でもあの男はかよちゃんにしか興味を示さなかったんだよね。それで、私は思ったの。かよちゃんとわたし、何が違うんだろうって。なんでかよちゃんが特別なんだろうって。私も特別になりたかったんだよね。
ついこの前まで、そんなことすっかり忘れてたの。でもなぜか思い出した。きっと、その記憶を無理やり押し込めてきていたんだと思う。そう思ったら、私がそうやって強がってたり、恋人に愛されたいって感じるのもその男のせいなのかなって。私はまだ、待ってるのかもしれないって思ったの。
そしたらすごく、自分がみじめに思えた。情けなくて、今まで頑張ってきたことが、積み上げてきたことが、すべてあの男のためだったのかもしれないって思ったら  」
私はもう一度目をつむった。やはり、あれは私だったのだ。私はあの男を待ってた。先生に会って、先生を待つずっと前から私はあの男のために、ずっと待っていたんだ。
文也は私を優しく抱き上げて、後ろから包むようにして抱きしめた。私は人形のように、そのまま彼に寄りかかるようにしていた。私の肩を包んでいる彼の腕からは、まだ香水の香りが残っていた。その瞬間、私はすべてをしゃべってしまいたいと感じた。
「誰かに弱さを見せることが嫌だったの。強い、頼りになる自分が出来上がってしまってから、それを壊すようなことできなかった。文也のこと、頼りがいないと思ったことはないよ。それよりも自分があなたに頼られていたかったの。ただ自分の理想を作り上げるのにいつも必死だった。何かに負けてはいけないって心に言い聞かせてるうちに、誰からも頼られてる自分が一人歩きしてたんだと思う。
負けている自分が許せなかった。他人にどう見られているかを、ずっと気にしてきた。でもどこかで自分も弱いって知ってた。たぶん、あの頃から、私がかよちゃんに負けたあの頃から、私は弱い自分を消したかったんだと思う。だから文也に対しても、誰に対しても強がったようにしてたんだと思う」
言いながら、自分でも訳が分からなくなってきて、やっぱり言うべきじゃなかったという気持ちになり始めていた。自分の前に伸びる、自分の足を見下ろしながら、それがまるで自分のものでない、なにかとても厭らしいもののように感じた。それでも文也が私のそれに手を伸ばしてさすってくれてから、彼の手から伝わる熱が、私の体にしみこんでいくようで、自然と落ち着いていった。そして私が話し終わると、ゆっくりと私を自分の方へ向かせ、面と向かうようにしてから文也もまた、話し始めた。
「今までは、彼女がどういう風に俺のこと考えてるかなんて、まったく考えたこともなかったんだよ。ただ好きって言っててくれれば、それでよかった。でも景子と付き合い始めて、めったに好きって言わないし、景子の方がなんでも先に済ませて行っちゃうから、だんだん不安になったんだよね。
でもそれって、今思えば自分が相手のこと好きかわからなくなってたってことだと思う。相手に好きって言ってもらって、初めて自分も好きって気が付いてたけど、好きって言わない景子を見て、自分は本当に景子のことが好きなのかって、自分自身に聞いてみることができた。実際、景子が好きか嫌いかなんて、俺には関係ないんだよ。それは景子が決めることなんだから。俺が好きなら、俺はそれでいいんだって。確かに相手がどう思ってるか気になるし、言葉にしてくれなきゃわからない。だから不安になる。でもそれが本心だっていう確証だってない。自分が好きで、相手のことを信じるしかないのかなって。
景子は強いよ。確かにそれは、その俺の知らない頃の景子があったからかもしれない。でも、うまく言えないけど、そういうのって誰にでもあるんじゃないかな。別に景子がその痴漢男に特別にされたいって抱いた気持ちって、景子が今まで抱いてきた他の気持ちと同じだと思う。小さい頃に、そういったことを思ったっていうのが、確かに影響がありそうな感じがするだろうけど、俺だって、小学生の時の初恋の相手が、きれいな黒髪だったから今でも黒髪の女の子の方が好きだし、そういうのって誰にでもあると思うんだよ」
私の手を握りながら、少し照れたように文也は言った。汗ばんだ彼の手のひらに、暑い熱を感じた。そして彼は手を離し、私の頬に触れると、ゆっくりと顔を近づけて、私に優しくキスをした。私はお互い裸だったことも忘れて、そのキスの唇だけを感じていた。冷めていく熱を感じながら、私は小さく深呼吸をした。
「俺が告白したときのこと、覚えてる?」
私は少し鼻づまりの声で返事をした。
「俺、景子が大輔さんと別れてたの、知ってたんだよ」
いろんなことが起こりすぎて、頭の中が整理できていなかったため、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「誰からか聞いてたの?」
文也は少し気まずそうに、怒らないでねと小声で言ってから、小さく息を吸い込んだ。
「実家から帰ってきた次の週に、拓海が夕飯食いに行こうって誘ってくれて、そこに直喜さんとか四年生もいたんだけど、ちょうどテルさんが会社終わりで横浜にいるってわかったから、今飲んでますって誘ったら来たんだよ。その時、聞いたんだよ」
ぼんやりとテルさんの顔を思い浮かべていた。彼は大輔と同じ学年で、仲良しだった先輩だ。「大輔さんからテルさんに電話が来たらしくて、ほら二人とも仲良かっただろ。テルさんもあんまり詳しくは聞いてないらしくて、大輔さんは別れたとも言わなかったみたいなんだけど、景子の様子を聞いてたらしくて、俺はそれを聞いた瞬間に別れたんだなって思ったんだよね」
なにが言いたいのかわからなかったけれど、私を見つめる彼の右目が、私をしっかり掴んでいてくれる感覚があった。
「だから俺、告白したんだよ。その前から好きだったし、付き合いたいとは思ってたけど、さすがに、大輔さんと付き合ってる景子に告白する勇気もなかった。でも別れたって知って、このタイミングに別れたのも何かあるのかなってすこし勘が働いたんだよ。
俺だって、そういうことがなかったら、景子に告白してなかったんだよ。だから、なんて言ったらいいかよくわからないけど、でもそういう理由だって、本当に好きなんだし、大切に思ってる。
 わかるかな。俺の言いたいこと 」
彼の言い方は、器用ではなかったかもしれないけれど、今の私には、それがどんな言葉よりも救いの手に思えた。確かに私たちは、純粋に好きと言う言葉を言えてなかったのかもしれない。でも私も彼も、今お互いを、大切に思っているのは変わりがないのだ。
確かにあの時の私は、かよちゃんに負けてしまったけれど、それ以来私は、自分自身を信じてあげられなくなっていた。友達、家族、そして恋人を愛する前に、まず私は、自分自身を愛してあげるべきだったのかもしれない。あの時負けてしまった私だって、今幸せを手にしている私だって、同じくらい私だったのだから。小さく深呼吸してから、私は文也を見上げた。
「わかるよ。ありがと」
そういって私が少し笑うと、文也の笑った口から歯が見えた。彼の歯はとても白くてきれいに並んでいる。私は彼に腕を伸ばして、抱きつきながら大好きと言って、彼の肩に顔をうずめることができた。

蝉鳴く季節に

蝉鳴く季節に

大学院一年生の景子は、一つ年下の大学四年生の文也と付き合っている。その前には大輔という恋人がいたのだが、大輔が就職し、勤めの関係で名古屋に去った一年ほど前から文也と親しくなったのであった。本作品では、過去に景子との付き合いがあった塾の先生や大輔との思い出を絡めながら、景子の一夏の様相が書かれてゆく。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-02-09

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