向こう側にある虹
第1章 懸念
早朝の4時半、新聞配達のバイク音で目が覚めた。通りに面したワンルームの部屋には、目覚まし時計などいらないのではないかと思うほどカブの排気音が響き渡っている。
日の出は、また早くなっているのだろう。部屋は、電気を点けなくてよいほどには、明るい。カーテンを開けて村沢亮が通りを見下ろすとすでに外には、薄紫がかった空気と街路樹の青さが朝焼けの中に漂っていた。
「コーヒーでも淹れるか」
目をしばたたせながらコンロに火をつけて湯を沸かす。そしてヤカンから湯気がのぼりだしたころになると目覚まし時計が鳴りだした。時間は、4時50分とラジオの開始まであと10分といったところだった。
「おはようございます。午前5時ラジオ関東、宮本美智子のウキウキモーニング、今日も元気にお送りしていきたいと思います。本日6月21日は、気象衛星やまゆりの打ち上げから4年目の記念日。そこで今日のラジオテーマは、“お天気に振り回されました”です。雪で滑って怪我をした、雨で洗濯物を濡らしてしまったなどメールをお待ちしています」
彼女の声を聴くことが朝の習慣になったのは、去年の夏のころであったように思う。大学1年の夏休みに偶然早く起きた日のこと、なんとなくラジオをつけると彼女の声が聞こえてきた。どことなく浮世離れした彼女の声に村沢は、惹かれた。
「さて最初のメールは、埼玉県、ラジオネーム二足歩行さんからです。宮本さんおはようございます。僕は、日中に仕事があるので洗濯物を朝に干して出かけるのですが、ここ最近は、毎日のように夕立で洗濯物が濡れてしまいます。仕方がないのでコインランドリーで乾かしていますが、このままでは、出費がかさんでしまい大変です。宮本さん、誰か洗濯物をとりこんでくれる女性を紹介してください」
気象衛星やまゆりの恩恵として日本人は、30分単位で天気予報を知ることができるようになっていたが、突発的なゲリラ豪雨などは、未だに予報ができないでいた。
「女性を紹介ですか面倒ですね。それよりも部屋干しにすればよいのでは、ないでしょうか。それか休日に洗濯をされてもいいと思います。もしも二足歩行さんがその両方を面倒な時は、ラジオ関東の放送局へどうぞ、嫁ぎ遅れた30代女性がここに余っておりますよ。なんちゃって」
一旦、放送が止まりCMへと移った。朝らしいクラシックのBGMにのせて自動車保険への加入を訴える内容が聞こえてくる。最高いくらまでの保証だとかそういったものは、車を持っていない学生にとっては、どうでもいい。
そんな事よりも直面している問題をどうにかしたいものだ。今年の6月は、冗談のように暑い。最高気温が30度を超える日など珍しくもないし、夕立も毎日のように降る。学者たちは、地球温暖化だと騒ぎだし将来の不安をあおっていたが、真剣に考えるものなど少なかった。
本日は、晴天なりすべて世は事もなし。晴天の日々が続いても水不足の心配は、夕立のためにない。それどころか野菜などの農作物が取れすぎて困っていたほどであった。
1時間経ち彼女の番組が終わると外は、すっかり明るくなっていた。トーストにジャムをぬって牛乳で腹に押し込むと汗ばんだTシャツとパンツを脱いだ。やはり暑い日の朝にシャワーは、欠かせない。
シャワーを浴び終えると時計は、7時になっていた。授業は、2限の10時半からとひと眠りしたいものだが、いかんせん暑すぎる。それにクーラーをつけるのも電気代のために気がひけた。
「しかたない部室に行くか」
諦めたように独り言をつぶやいていそいそと着替えを始めた。
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部室は、部室棟はずれのガレージの中にあった。ワゴン車2台ほどが入ればいっぱいになってしまいそうな空間の中にオカルト研究会と探偵クラブが同居をしている。聞く話によると10年ほど前までこのガレージは、車関係の部活が使っていたらしいが部員の減少と不祥事のために部室を取り上げられたらしかった。
大学内でオカルト研と探偵クラブは、部活でもないのに部室棟にガレージを保持している事とサークル名の怪しさのために裏で職員の弱みを握っていると噂されていた。しかし現実は、新聞部という部活を合同で申請してなんとかガレージを死守しているにすぎなかった。
「おはようございます」
村沢がガレージの横についたドアを開けるとそこには、オカルト研3年の大久保直司が座っていた。扉を開けて仕切りの右側がオカルト研の部室、左側が探偵クラブの部室である。しかし仕切りは、ただ形式的に置いてあるだけで実際には、なんの意味もなしていなかった。
「おはよう、村沢。今日は、やけにはやいな。まだ9時半だぜ」
「部屋があんまりにもあついんで部室に避難してきたんですよ。先輩こそ今日は、ずいぶん早いですね」
「ああ、俺もお前と同じで避難したんだよ。まったく6月だってのにこの暑さは、なんだ。セミだって勘違いして出てきちまいそうだぜ。これだったらクーラーを餌に新入部員をもっと釣っとくべきだったよ」
新聞部のガレージには、過去の遺物とも呼べるクーラーが入っていた。部室のクーラーは、新聞部が誇る数少ない美点だろう。
「それよりも聞いてくれ。大変なことがあったんだ」
大久保が身を乗り出して聞いてくれと言わんばかりの勢いで聞いてきた。
「なんですか。また旧校舎の幽霊だとかそういったのは、勘弁してくださいね。前回は、うまく警備員を撒けましたけど次は、分かりませんよ」
「違う。探偵部に依頼があったんだ。奴らはりきって、今朝早くから会議みたいな事をしてたぜ」
探偵部の活動は、1か月ぶりだろうか。記憶が確かなら前回の仕事は、ペットの猫探しという地味なものだ。あの時は、1週間におよぶ地道な活動の末、ついに近所のごみをあさっている所で餌をちらつかせて捕獲したのだ。
「でもおかしいですね」
鞄を置いて大久保に向かい合うように座ると村沢は、顎を親指で撫でながら首をかしげた。
「探偵部は、新聞部に依頼内容を通知する決まりですよね。それを独断で動いているとなると少し怪しい気配がします。先輩は、何を依頼されたか知っていますか」
「いや、知らない。奴ら俺が入ってくるなり蜘蛛の子を散らすように出てきやがった。俺が捕まえて聞くと依頼があったとだけ答えて逃げたよ」
ガレージの中には、奇妙な共存関係がある。現在、真の意味で新聞部員と呼べる存在は、村沢ただ一人であったがオカルト研究会と探偵クラブは、新聞部にネタを提供する存在として部室を保障されていた。心霊現象やペット探しなどを記事にして発表することで一定の活動基準を満たしてきたのだ。
この密約は、新聞部始まって以来のもので唯一にして絶対であった。それが破られたことなどは、村沢が知る限りの範囲では、なかった。
「僕、ちょっと東先輩に電話してきます」
ガレージを出て探偵部部長の東海斗に電話をかけたがつながらない。電源を切っているのかあるいは、着信拒否をされているようであった。
暑さのためか汗が噴き出してくる。探偵クラブという怪しげなサークルが今まで許容されてきたのも依頼を新聞で公開するという大前提があったからなのだ。それ故にきな臭い依頼は、来なかったし最近では、何でも屋として歓迎をする風潮さえあったほどだ。
「だめです。電話つながりませんでした」
「そうか、何も起きないといいんだけどな」
ちらっと探偵部の方の部室をのぞいたが、何も手がかりとなりそうなものは、残されていなかった。
もともと学生のお遊びのような活動でしかない。心配するようなことなど起きるはずもないのだ。村沢は、そう自分に言い聞かせた。
第2章 事件前夜
「いいか、村沢。探偵の極意は、小さな謎を見逃さないことだ」
酒に酔った勢いで東は、言ったことがあった。
それは刑事の極意ですよと反論しようか村沢は、迷ったが探偵クラブのメンバー5人全員は、その極意を本気で信じていた。今にして思うと彼らは、違和感や謎といったミステリーに飢えていたに違いなかった。
男にとっての最大にして永遠のミステリーといえば女だ。大学に入れば彼女ができる。そんな都市伝説もあったような気がした。
それでも彼らの抱く淡い期待は、理系の地方大学に入ってしまえば面白いように打ち砕かれる。まず女がいない。いたとしても生物的に女なものが多いのだ。
夢もとい妄想を打ち砕かれた男たちの成れの果てが探偵クラブの部員たちである。数少ない他大学や校内の女子との交流さえを避けてひたすらに別の謎を追い求めているのだった。
「なあ、桜井。工学科3年に知り合いとかいないか」
授業の間に同じ化学科の桜井修二に村沢は、聞いてみた。
「サッカー部の先輩がいるけど、何かあったのか」
「いや、大した事じゃないんだけど。同じ部活の工科3年の先輩にここ数日連絡がつかないんだ」
「数日って何日くらい」
「2日」
と村沢が答えると桜井は、呆れたように口を広げて、しばらくすると何か思いついたような表情になった。
「たった2日で心配とかその先輩って、お前のコレなのか」
小指を立てた右手の甲を頬に当てながら桜井は、笑っている。
「バカなこと言うな。僕は、ノンケだよ。何回も電話してもでないから心配になっただけさ」
桜井は、ふーんと疑がうように声を出した。
「とにかく、その先輩たちに東海斗って人のこと聞いてくれないか」
あわてたような素振りで村沢が言うと桜井は、了承をした。
「分かった。電話してみるよ」
携帯をポケットから取り出して電話をかけた。とりあえずは、一歩前進とったところだろうか。
「もしもし、先輩。こんにちは、桜井です。同じ学科の友達からの頼みなんですけど東海斗って人知りませんか。……ええ。はいそうです。探偵クラブの。……はい。……はい。……はい、わかりました」
ふぅと息を吐いて、おもむろに桜井は、携帯電話を差し出した。
「何か先輩がお前に代われってさ」
渡された携帯を耳にあてる。顔を上げると桜井は、訳がわからないといった様子で村沢を見ていた。
「もしもし、村沢です。電話代わりました」
「お前、探偵クラブの部員だよな」
突然の質問に戸惑ったが「はい」と村沢が答えると受話器越しに安堵した様子が伝わってきた。
「東から今夜のこと何か聞いてないか」
「今夜の事ですか。何も聞いていませんよ」
「くっそ。じゃあ、あいつがどこに行ったか知ってるか」
「いえ、何も」
相手のいら立ちがはっきりと伝わってくる。村沢は、一つカマをかけてみた。
「実は、僕も東先輩を探しているんです。昼休みに部室で会いませんか。東先輩どうやらポカしたみたいなんですよ」
「何っ。じゃあ」
相手は、そこまで言うと黙ってしまった。何か後ろ暗いことでもあるのだろうかと不安が募ってくる。
「分かった。昼休みに部室だな」
電話が切れる。携帯を桜井に返すと眉間にしわをよせて悩んでいた。
「先輩があんなに取り乱すなんて東海斗って何者なんだ」
「さあな、先輩のコレじゃないのか」
さきほど桜井がしたように小指を立てて頬にあてた。
探偵部部長、男、メガネ、中肉中背。東についてそれ以上のことを村沢も知らないし、今までは、必要だとも感じていなかった。
向こう側にある虹