柄谷行人へ
『境目線路』論――交換される身体と失われた駅
柄谷行人的な批評を試みる
1. 電車に乗ることは、交換様式への参加である
なんでもいいから電車に乗れ
この一行は、今回の作品の中心にある。
電車に乗るという行為は、単純な移動ではない。
乗客は運賃を支払い、鉄道会社は輸送サービスを提供する。ここには商品交換が成立している。しかし、電車に乗る人間は単に商品を購入しているのではない。彼らは同じ時刻表、同じ路線、同じ駅の秩序に従う。
つまり、鉄道は資本主義的な交換と国家的な管理が交差する空間なのである。
「なんでもいいから」という言葉には、目的地の喪失がある。
どこへ行くかではなく、移動し続けること自体が目的になっている。
ここで君の文章は、交通を通じて現代社会の主体の不安定さを表現している。
2. チーズという商品
俺の部屋には何も無いのかな?チーズ以外
これは今回、非常に重要な一節だ。
チーズは食料品であると同時に商品である。
しかし、部屋にチーズしかないという状況では、商品は生活の充足を保証しない。
マルクスの商品論を思い出してほしい。
商品には使用価値と交換価値がある。
チーズは食べられる。しかし、それだけでは孤独を解消できない。
ここには、商品の豊富さと人間の貧しさという逆説がある。
君の文章では、ラーメン二郎、ビビンバ、コチュジャン、海水、チーズが並ぶ。
食べ物は文化的な記号であると同時に、身体を維持する物質でもある。
その二重性が面白い。
3. 犬・猫・蠅――共同体の外部
犬がいて
猫がいるよ
金網には?
蠅がいて
ここには小さな分類体系がある。
犬と猫は人間の生活圏に属する動物として描かれる。
しかし蠅は金網にいる。
金網は内側と外側を分ける境界である。
蠅はその境界に存在する。
この配置を社会的に読むなら、犬と猫が共同体の内部にいるのに対して、蠅は共同体の分類からこぼれ落ちる存在として現れる。
柄谷的に言えば、ここで問題になるのは、共同体がどのように内部と外部を作り出すかということだ。
4. トナカイとスロットマシーン――資本の反復
生まれ変わるスロットマシーン御託は聞き飽きたラーメン二郎トナカイ
この一節は、資本主義の反復性を奇妙な形で表現している。
スロットマシーンは確率によって人間の期待を管理する。
勝利の可能性があるから、人間は再び金を投入する。
しかし、生まれ変わるという約束は、必ずしも新しい生を意味しない。
同じ機械に、同じ金を投入する。
同じ期待を繰り返す。
ここでは再生という言葉そのものが、反復消費の装置に変わっている。
トナカイがそこに割り込むことで、合理的な経済活動の体系が不条理な動物的世界に侵食される。
5. 境目線路――交換様式の外部
境目線路
今回の作品の題名にしてもいいほど重要な言葉だ。
線路は二つの場所を接続する。
しかし同時に、線路は移動できる方向を限定する。
人間は自由に移動しているようで、あらかじめ敷設された経路に従っている。
この矛盾は、柄谷行人の交換様式論に接続できる。
柄谷は交換様式をA・B・C・Dという四つの類型から考察した。
- A:互酬(贈与と返礼)
- B:服従と保護を中心とする略取・再分配
- C:商品交換
- D:それらを乗り越える可能性を持つ交換様式
君の文章にある「コチュジャンを裸体に塗る厚意」は、ここで興味深い。
それは通常の商品交換ではない。
贈与なのか、暴力なのか、親密さなのか、判然としない。
贈与と交換の境界が崩れている。
そこにDの問題を想像する余地がある。ただし、奇妙な贈与がそのままDになるわけではない。そこには既存の交換関係を乗り越える社会的な可能性が必要になる。
6. 最後に駅の名前が消える
しかし、駅の名前がなかった。
この結末は重要だ。
駅名は場所を識別する記号であり、交通網の中に場所を位置づける制度でもある。
駅名が消えると、移動の体系そのものが不安定になる。
人間はどこにいるのか。
どこへ向かっているのか。
誰がその場所に名前を与えたのか。
この問いは、国家や資本による空間の編成に対する疑問へと発展する。
総評――青木康善のカットアップにおける可能性
私が今回、最も評価したいのは、君が意味を統一しようとしていないことだ。
ラーメン二郎、国鉄ヤクザ、チーズ、トナカイ、スロットマシーン、犬、猫、蠅。
これらは通常の小説なら、意味の序列を与えられる。
しかし君は、それらを同じ平面に置いている。
その結果、商品と動物、身体と機械、労働と娯楽の境界が不安定になる。
ただし、もう一段階進めるなら、無秩序そのものを美学にするだけでは足りない。
なぜ、その無秩序を生み出す社会が存在するのか。
ここまで書ければ、単なるバロウズ的カットアップから、社会批評を内蔵した小説へと進める。
相棒、今回の作品には一つの強い命題がある。
「人間は自由に移動しているのではない。移動することを強制されながら、自由を演じているのではないか。」
これを『境目線路』の中心に据えると、かなり骨太な文学作品になると思う。
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