椅子を置いたのは誰だ

月曜日の朝、玄関の前に椅子があった。

木製の、ごく普通の椅子だった。

背もたれがあり、四本の脚があり、座面には小さな傷がついていた。

ただし、向きがおかしかった。

椅子は玄関のドアに向かって置かれていた。

まるで、家から誰かが出てくるのを待っているようだった。

「何だ、これ」

佐伯は椅子を見下ろした。

昨夜、帰宅したときにはなかった。

隣の家のものだろうか。

佐伯は椅子を道路脇に移した。

そして会社へ出かけた。

翌朝。

椅子はまた玄関の前にあった。

今度は道路に向かって置かれていた。

「……誰だよ」

佐伯は椅子を持ち上げた。

軽い。

古いが、壊れてはいない。

捨てるには惜しいような椅子だった。

佐伯は隣家のインターホンを押した。

出てきたのは、七十歳くらいの女性だった。

「すみません。うちの前に椅子が置かれているんですが」

「あら」

女性は椅子を見た。

「いい椅子ね」

「お宅のものでは?」

「違うわよ」

「そうですか」

「でも、座りやすそう」

女性はそう言って、家に戻った。

佐伯は椅子を道路脇に移した。

水曜日。

椅子は玄関の前に戻っていた。

しかも、座面に小さな紙袋が載っていた。

中には、みかんが三つ入っていた。

佐伯はしばらく考えた。

椅子を置いた人物が、みかんまで置いたのだろうか。

それとも、椅子を見た誰かが、ついでにみかんを置いたのだろうか。

どちらにしても意味がわからない。

佐伯はみかんを冷蔵庫に入れた。

椅子は、今度こそ家の中に運び込んだ。

これで終わりだ。

そう思った。

木曜日。

玄関の前に、もう一脚あった。

昨日のものと同じ形。

ただし、座面の傷が違う。

佐伯は頭を抱えた。

「増えた……」

その日の夜、佐伯は防犯カメラを設置した。

玄関の上に取り付けた小型のものだ。

翌朝、録画を確認した。

午前二時十三分。

画面の端から、一人の男が現れた。

背が高く、帽子をかぶっている。

男は椅子を抱えていた。

玄関の前に椅子を置き、少し離れて眺めた。

それから、椅子の向きを三度変えた。

最後に道路へ向けて置くと、満足したように頷き、立ち去った。

佐伯は録画を繰り返し見た。

見覚えのある男だった。

町内会長の田所だった。

佐伯は会社を休み、田所の家を訪ねた。

「椅子のことでお聞きしたいんですが」

田所は驚いた顔をした。

「椅子?」

「うちの玄関の前に、椅子を置きましたよね」

「……ああ」

田所は少し考えた。

「置いたね」

「なぜですか」

「頼まれたから」

「誰に?」

田所は答えた。

「奥さんに」

佐伯は黙った。

妻の美咲は、半年前に家を出ていた。

離婚したわけではない。

ただ、別居していた。

理由は、佐伯にもよくわからなかった。

いや、本当は少しわかっていた。

美咲はよく言っていた。

「あなたは話を聞かない」

佐伯はいつも答えていた。

「聞いてるよ」

実際、聞いていた。

言葉は聞こえていた。

ただ、その先を考えるのが面倒だった。

田所は言った。

「奥さん、椅子を二脚預けていったんだよ」

「二脚?」

「うん。どっちもあんたの家の前に置いてくれって」

「何のために」

「知らん」

田所はあっさり答えた。

「でも、毎朝置いてくれって言われた」

「毎朝?」

「そう」

「いつまで?」

「気づくまで、だそうだ」

佐伯は椅子のことを考えた。

何に気づくのだろう。

二脚。

向かい合って座るためだろうか。

しかし、最初の椅子は玄関に向かっていた。

二脚目は道路に向かっていた。

まるで、家から出る人間と、外から来る人間のために用意されたようだった。

佐伯は田所に礼を言い、帰宅した。

家の中に入ると、二脚の椅子を玄関に並べた。

向かい合わせに置いてみた。

横に並べてみた。

玄関の内側と外側に、一脚ずつ置いてみた。

どれもしっくりこなかった。

佐伯は椅子に座った。

そして、初めて気づいた。

この椅子は、座り心地がいい。

背もたれの角度がちょうどよく、座面も広い。

長く座っていても疲れない。

佐伯は、そのまましばらく座っていた。

すると、玄関のチャイムが鳴った。

隣家の女性だった。

「お隣さん、みかん食べた?」

「あ、はい」

「おいしかった?」

「まだ食べてません」

「そう」

女性は少し残念そうな顔をした。

「椅子があったから、誰か座ると思って置いたのよ」

「そうだったんですか」

「うん。うちのみかん、今年は甘いの」

女性は笑った。

「椅子があるとね、誰かが座るでしょう」

佐伯は椅子を見た。

女性は続けた。

「座ってる人がいると、話しかけやすいのよ」

佐伯は何も言わなかった。

女性は帰っていった。

その夜、佐伯は妻に電話をかけた。

半年ぶりだった。

呼び出し音が長く続いた。

やがて、美咲が出た。

「もしもし」

「……俺だけど」

「うん」

佐伯は言葉に詰まった。

何を話せばいいのかわからなかった。

美咲は黙っていた。

佐伯も黙っていた。

しばらくして、佐伯は言った。

「椅子、届いたよ」

「そう」

「二脚とも」

「うん」

「何で椅子なんだ」

美咲は少し笑った。

「あなた、立ったままだとすぐ話を終わらせるから」

佐伯は黙った。

「座って話したかったの」

美咲は続けた。

「でも、あなたはいつも忙しそうだった」

佐伯は椅子を見た。

「……今は座ってる」

「そう」

「二脚ある」

美咲はしばらく黙っていた。

そして言った。

「じゃあ、今度、座りに行こうかな」

佐伯は頷いた。

電話の向こうには見えないと気づいて、慌てて答えた。

「うん」

その週の日曜日。

美咲がやってきた。

二人は玄関の前に椅子を並べた。

隣家の女性がみかんを持ってきた。

田所も通りかかった。

「おお、椅子が役に立ったか」

佐伯は笑った。

「おかげさまで」

田所は満足そうに頷いた。

そして、美咲に向かって言った。

「ところで奥さん、三脚目はどうする?」

佐伯は驚いた。

「三脚目?」

美咲も驚いた。

「三脚目?」

田所は二人を見た。

「あれ? 違った?」

田所は頭をかいた。

「じゃあ、あの椅子は誰のだ?」

三人は道路の向こうを見た。

そこには、もう一脚の椅子が置かれていた。

小さな、子ども用の椅子だった。

佐伯と美咲は顔を見合わせた。

二人には、子どもはいない。

隣家の女性が、みかんを抱えたまま言った。

「あら、それ私のよ」

「え?」

「孫が来るの。今日」

女性はにっこり笑った。

「でもね、うちの玄関、狭いから」

田所は笑った。

「じゃあ、こっちに置いとけばいいな」

佐伯は小さな椅子を見た。

美咲も見た。

二人は、どちらからともなく笑った。

その日の午後。

佐伯の家の前には、三脚の椅子が並んでいた。

大人二人と、子ども一人。

隣家の孫は、みかんを食べながら佐伯に尋ねた。

「おじさん、ここ、何のお店?」

佐伯は答えた。

「店じゃないよ」

「じゃあ、何?」

佐伯は少し考えた。

そして言った。

「……話をするところ、かな」

子どもは頷いた。

「ふうん」

それから、みかんをもう一つ取った。

「じゃあ、ぼくも話していい?」

「もちろん」

佐伯は笑った。

美咲も笑った。

田所はいつの間にか、自分の椅子を持ってきていた。

「わしも混ぜてくれ」

隣家の女性も、折り畳み椅子を持ってきた。

「じゃあ、お茶も淹れましょうか」

佐伯の家の前には、五脚の椅子が並んだ。

その光景を見て、通りかかった人が尋ねた。

「何かの集まりですか」

佐伯は答えた。

「いえ、ただ座ってるだけです」

「そうですか」

通りかかった人は少し考えた。

「……椅子、持ってきてもいいですか」

佐伯は笑った。

「どうぞ」

翌週。

佐伯の家の前には、七脚の椅子が並んでいた。

誰も、何の集まりなのか知らなかった。

ただ、誰かが座っていた。

そして、誰かが話していた。

佐伯は思った。

椅子を置いたのは誰だ。

最初は田所だった。

頼んだのは美咲だった。

みかんを置いたのは隣家の女性だった。

でも、今ここに椅子を持ってきているのは、誰なのだろう。

佐伯は考えるのをやめた。

隣に座った美咲が、何か話し始めたからだ。

今度は、最後まで聞こうと思った。

そのとき、田所が言った。

「ところで佐伯さん」

「はい」

「椅子、もう一脚増やしていいかね」

佐伯は笑った。

「いいですよ」

田所は嬉しそうに頷いた。

「実は、町内会の会議をここでやろうと思って」

佐伯は立ち上がった。

「それは困ります!」

美咲が笑った。

隣家の女性も笑った。

子どもはみかんを落とした。

そして佐伯は、もう一度椅子に座った。

会議だけは、断固として断るつもりだった。

椅子を置いたのは誰だ

椅子を置いたのは誰だ

ある朝、玄関の前に見知らぬ椅子が置かれていた。翌日も、その翌日も、椅子は戻ってくる。やがて二脚に増えた椅子の謎を追ううちに、男は自分が長い間、気づかずにいたことを知る。小さな椅子から始まる、少し可笑しくて温かな物語。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-11-07

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