余白の多い男

余白の多い男

余白の多い男


その男は、履歴書の余白が多すぎるという理由で、三十七回目の面接にも落ちた。

「もう少し、ご自分をアピールされた方が」

面接官はそう言った。

男は考えた。

自分をアピールするとは、どういうことだろう。

自分はここにいる。

椅子に座っている。

名前も言った。

それ以上、何を証明する必要があるのだろう。

帰り道、男は古い文房具店の前で足を止めた。

店先に、小さな貼り紙があった。

《余白、買い取ります》

男はしばらくそれを眺めていた。

そして店に入った。

「余白を売りたいんですが」

奥から出てきた店主は、丸眼鏡をかけた老人だった。

「どのような余白でしょう」

「履歴書の余白です」

「なるほど。少々拝見」

男が差し出した履歴書を、老人は虫眼鏡で丹念に調べた。

「これはなかなか」

「売れますか」

「売れますとも。これほど手つかずの余白は珍しい」

老人は履歴書の右下を指でつまんだ。

すると、何も書かれていない部分が、薄いフィルムのようにするすると剥がれた。

男は驚いた。

「紙が破れませんね」

「余白ですから」

老人は当然のように答えた。

剥がした余白を小さく畳み、秤に載せた。

「三百二十円です」

「そんなに」

「あなたの余白は、まだ何にも使われていません。上等ですよ」

男は三百二十円を受け取った。

翌日、男はもう一枚、履歴書を書いた。

今度は余白を少なくしようとしたが、やはり書くことがなかった。

特技。

なし。

資格。

普通自動車免許。

趣味。

散歩。

本人希望欄。

特になし。

男は考えた末、再び文房具店へ持って行った。

「また来ました」

「おや、昨日のお客様」

老人は履歴書を見ると、少し顔を曇らせた。

「今日は二百八十円ですね」

「値下がりしましたか」

「昨日より少し、諦めが混じっています」

男は黙った。

老人は秤から余白を下ろし、言った。

「余白というのはね、何もない場所ではありません」

「では、何ですか」

「まだ何かが入る場所です」

男は三百二十円と二百八十円を合わせて、六百円になった財布を見た。

六百円では、一日暮らすのも難しい。

「余白を売って生活できますか」

「それは難しいでしょうね」

老人はあっさり答えた。

「余白を売り尽くした人間は、最後には自分を置く場所がなくなりますから」

男は財布を閉じた。

「じゃあ、どうすれば」

老人はしばらく考え、店の奥から一冊の帳面を持ってきた。

「ちょうど人手が足りなかったところです」

「何の仕事ですか」

「余白を届ける仕事です」

男は首をかしげた。

老人は帳面を開いた。

そこには住所と名前が並んでいた。

「この人たちに、余白を届けていただきたい」

「何に使うんですか」

「それは受け取る方が決めます」

男は翌朝から働き始めた。

最初の届け先は、駅前の小さな花屋だった。

店主の女性は、朝から電話と注文に追われていた。

「余白のお届けです」

男が小さな封筒を渡すと、女性は怪訝そうに受け取った。

封を切った瞬間、店の時計が止まった。

正確には、秒針だけが止まった。

女性は電話を置いた。

「あら」

店先に並ぶ花を見た。

「この花、いつ咲いたのかしら」

そして、ずいぶん久しぶりに椅子に座り、花を眺めた。

五分ほどして、時計はまた動き出した。

女性は男に礼を言った。

「助かったわ。今日、お昼を食べるのを忘れるところだった」

次の届け先は、マンションの七階だった。

若い父親が赤ん坊を抱いて出てきた。

「余白です」

「何です、それ」

男が封筒を渡すと、赤ん坊が笑った。

父親はつられて笑った。

それから二人で、しばらく笑い続けた。

「すみません、何だか」

父親は目をこすった。

「この子が笑うところ、ちゃんと見たの、初めてかもしれません」

三軒目は病院だった。

四軒目は学校。

五軒目は工事現場。

男は毎日、余白を届けた。

届け先の人々は、たいてい忙しかった。

忙しくない人にも、余白は必要だった。

ある老人は、届けられた余白を使って、亡くなった妻のことを一時間考えた。

ある少女は、余白を使って、何もしなかった。

少女の母親は、それを見て少し心配したが、少女は言った。

「今日は何もしないって決めたの」

母親は、少し羨ましそうな顔をした。

男は次第に、自分の仕事が好きになった。

ただ、一つだけ気になることがあった。

店主は、余白をどこから仕入れているのだろう。

ある日、男は尋ねた。

「私の履歴書だけでは、とても足りませんよね」

老人は笑った。

「もちろん」

「どこから集めるんですか」

「いろいろですよ。書きかけの手紙、使われなかった予定表、言いそびれた言葉」

「言葉にも余白が?」

「ありますとも。むしろ、言葉の間にこそ多い」

老人は帳面を閉じた。

「ただし、最近は仕入れが難しくなりました」

「どうしてですか」

「みなさん、余白を埋めたがるんです」

老人は窓の外を見た。

「何かしていないと、不安になるらしい」

男は思い当たることがあった。

履歴書の空欄を、何とか埋めようとしていた自分のことだ。

「それで、店は大丈夫なんですか」

「さてねえ」

老人はのんびり答えた。

「今のところ、あなたがいてくれますから」

男はそれからも働いた。

季節が変わり、街路樹の葉が落ちた。

ある朝、男が店に行くと、シャッターが下りていた。

貼り紙があった。

《閉店しました》

男は驚いた。

その下に、小さな封筒が貼り付けられていた。

宛名は男の名前だった。

中には、一枚の紙が入っていた。

《これまでお疲れさまでした。

あなたにお渡しする最後の余白です。

使い道は、ご自由に。》

男は紙を裏返した。

何も書いていなかった。

表も裏も、真っ白だった。

男はしばらく考えた。

そして、家に帰った。

机に向かい、白い紙を広げた。

何かを書こうとした。

しかし、書くことが思いつかなかった。

男はペンを置いた。

窓を開けた。

風が入ってきた。

遠くで犬が吠えた。

隣の家から、夕飯の匂いがした。

男は椅子に座ったまま、何もしなかった。

一時間ほど経って、ふと気づいた。

自分は今、何もしていない。

なのに、少しも不安ではない。

男は笑った。

そして白い紙を引き出しにしまった。

翌日、男は新しい履歴書を書いた。

特技。

余白を届けること。

趣味。

何もしないこと。

本人希望欄。

できれば、ときどき空を見上げられる職場。

男はそれを持って、面接に出かけた。

面接官は履歴書を眺め、眉をひそめた。

「変わった方ですね」

「よく言われます」

「ところで、この特技は何ですか」

男は説明しようとした。

しかし、うまく言葉にならなかった。

面接官は時計を見た。

机には書類が山積みになっていた。

男は思いついて、鞄から一枚の小さな紙を取り出した。

「よろしければ、これを」

「何ですか」

「余白です」

面接官は紙を受け取った。

真っ白だった。

「何も書いてありませんね」

「はい」

面接官は紙を見つめた。

しばらくして、窓の外を見た。

秋の空が、驚くほど青かった。

「……今日は、いい天気ですね」

「そうですね」

面接官は時計を外した。

「実は私、もう三十年も面接をしているんです」

「そうですか」

「こんなに空が青いこと、忘れていました」

男は黙っていた。

面接官は立ち上がり、窓を開けた。

そして、男に向き直った。

「採用です」

「えっ」

「ただし、あなたの特技を生かせる仕事が、うちにはありません」

「では、なぜ」

面接官は笑った。

「これから作ります」

男は、三十八回目の面接で採用された。

職種は、まだ決まっていない。

給料も、これから相談する。

ただ、勤務時間だけは決まった。

午前九時から午後五時まで。

昼休み、一時間。

それから毎日、午後三時に十五分間。

会社中の時計が止まることになった。

もちろん、時計を止める必要はなかった。

その十五分間は、誰も時計を見なかったからである。

余白の多い男

余白の多い男

履歴書の余白が多すぎて、三十七回も面接に落ちた男。ある日、街角で「余白、買い取ります」という文房具店を見つける。そこで始まった奇妙な仕事は、男の人生だけでなく、忙しい街の人々を少しずつ変えていく。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2026-11-05

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