『テート美術館 ターナー展』レビュー
一
コンスタブルと並ぶ英国切っての風景画の名手であり、また後年の作品が抽象表現の先駆けとして紹介されることが多い画家の仕事に、美学における重要な概念である「崇高」を梃子にしていま一度迫ろうと試みる素晴らしい展示。その作品群と、オラファー・エリアソンといった現代作家の作品とを対置させて双方向に掘り下げようとするアプローチも興味深く、楽しく鑑賞することができました。
二
ターナーが活躍した頃のヨーロッパでは貴族の間でグランドツアーが熱心に行われていました。机上で身に付けた教養を実践的に磨き上げ、社交界との人脈を築き上げる目的で各国の主要都市を巡る道中において若者たちは数多くの自然を目にしましたが、それらは決して穏やかものばかりではなく、アルプス山脈超えに代表されるような過酷さを伴って旅のドラマを盛り上げました。ただでさえ絵になる風景は、是が非でも持ち帰るべき武勇伝としてもエリート街道を邁進する者たちに求められたのです。
ターナーの描く自然は、けれど彼らが求める風景とは一線を画します。その画面には所有欲を掻き立てられる美しさ以上に、人智の及ばない摂理で生み出される圧倒的な存在感が描かれている。イタリアのヴェネツィアを訪れ、より豊かな色彩表現へとその画風を大きく変化させても、心象として炙り出される自然の異様をしっかりと伝えてきます。
我々が「崇高」という言葉を口にする時、そこには対象に覚える畏怖の感覚があります。恐怖の色に染まり切っている訳でもなく、だからといっても安心し切っている訳でもない曖昧な心理状態は、けれど超越的な存在に身を委ねたくなるようなある種の快感を呼び起こし、非日常的な体験へと私たちを導きます。ターナーの描く自然がまさに「これ」なのです。
三
何を描いているか分からないという感想を素直に抱く晩年の絵画にも、筆者は「崇高」の真価を見て取ります。
全てが曖昧に描かれ、何もかもが渾然一体となって見える画面に、煙のごとく漂う色たちが想像させる原風景は印象に強く焼かれ、正確な姿から私たちを遠ざけます。「崇高」がもたらす快感について、恐れを抱く対象の全体性を理性が把握したときに覚える優位性の自覚と説き、感性よりも上位にある理性の勝利を掲げたカントの定義に基づけば、崇高さなんてそこには一ミリも認められません。
にもかかわらず、その絵は見ていてとにかく気持ちいい。何年も前に目にしたはずなのに、いつ見ても、何度眺めても新鮮な快感に襲われる。
極端な言い方をすれば、晩年のターナーは体験自体を描いているのだと思います。眼前にそびえ立つ峻厳な山々のように、額縁に収まる一枚の絵の前にして視認できることの全てが理性を振り払う快感となって、全身をかけ巡る。言葉を失うほどの体感にこそ、私たちは心を奪われてしまうのです。
そう考えると、はたしてターナーという画家を抽象表現主義の先駆けのように捉えていいものか。手法だけをピックアップすれば、確かに晩年のターナーを抽象画の流れに接続することはできる。しかしながら彼の作品にある「崇高」さが、代え難い体験が、その認識に激しい警鐘を鳴らします。
何を描こうとしたのかという根本的な視点にまで立ち返ってこそ、ターナーという画家を知れる。それこそが国立西洋美術館で開催中の『テート美術館 ターナー展』のハイライトなのだと私は思います。開催期間は来年の2月21日まで。現代美術の収蔵に優れたテート美術館ならではのコラボレーションが展示会場のあちこちで繰り広げられているので、そこにもご注目いただきたい。興味がある方は是非。お勧めです。
『テート美術館 ターナー展』レビュー