三列目、右から二番目
その小さな劇場には、いつも一席だけ空席があった。
前から三列目、右から二番目。
赤いビロードの椅子で、ほかの席と何も変わらない。
ただ、その席だけは、どんなに満員でも誰も座らなかった。
「予約席ですか」
新人の案内係が尋ねると、支配人は答えた。
「いいえ」
「では、故障中?」
「いいえ」
「それなら、どうして?」
支配人は少し考えた。
「まだ来ていないんです」
「誰が?」
「それが、わからないんですよ」
*
劇場は古かった。
客席は百二十席。
舞台は狭く、天井も低い。
雨の日には楽屋の窓から水が漏れ、冬になると暖房が妙な音を立てた。
それでも、ここで芝居をしたいという役者は多かった。
不思議なことに、この劇場で初舞台を踏んだ役者は、その後、よく売れた。
有名な俳優も、人気の歌手も、テレビで見かける喜劇役者も、若い頃に一度はこの舞台に立っていた。
ただし、成功した人たちは、あまり劇場へ戻ってこなかった。
忙しくなるからだ。
支配人は、それを寂しいとは思わなかった。
舞台というものは、そういう場所だと思っていた。
*
ある日、劇場の取り壊しが決まった。
建物が古くなりすぎたのである。
最後の公演は、劇場に縁のある役者たちによる一夜限りの芝居になった。
久しぶりに帰ってきた俳優たち。
かつての看板女優。
今では映画監督になった元照明係。
客席は発売と同時に満席になった。
ただし、あの一席だけは、やはり空いていた。
*
開演一時間前。
支配人は客席を見回っていた。
すると、前から三列目に、一人の若い男が座っていた。
あの空席だった。
「失礼ですが」
支配人は声をかけた。
「こちらのお席は」
男は顔を上げた。
二十歳くらいだろうか。
くたびれた上着を着て、膝の上に小さな鞄を置いている。
「すみません。座ってはいけませんでしたか」
「いえ、そういうわけでは」
支配人は言葉に詰まった。
「チケットはお持ちですか」
男は首を振った。
「ありません」
「では、どうやって入られたんです?」
「裏口が開いていたので」
支配人はため息をついた。
「困りますねえ」
「すみません」
男は立ち上がろうとした。
そのとき、支配人は尋ねた。
「芝居がお好きなんですか」
男はうなずいた。
「はい」
「役者志望?」
「そうです」
「どちらかの劇団に?」
「まだ、どこにも」
男は鞄を抱え直した。
「今日、初めて東京に来たんです」
*
支配人は、なぜかその男を追い出す気になれなかった。
「少し待っていなさい」
そう言って事務所へ戻り、古い引き出しを開けた。
中には、一枚のチケットがあった。
何十年も前に印刷されたものだった。
日付はない。
座席番号だけが記されている。
《三列目 右二番》
支配人はそのチケットを持って客席へ戻った。
「これを使いなさい」
男は驚いた。
「いいんですか」
「ええ。今日は特別です」
男は何度も頭を下げた。
*
芝居が始まった。
舞台には、かつてこの劇場で青春を過ごした役者たちが並んだ。
台詞を忘れる者もいた。
昔より声が出なくなった者もいた。
それでも、客席は温かかった。
笑い声が響いた。
拍手が起こった。
最後の幕が下りたとき、劇場は割れんばかりの拍手に包まれた。
支配人は客席の後ろに立っていた。
ふと、三列目を見た。
若い男は、もういなかった。
椅子の上には、小さな鞄だけが残されていた。
*
支配人は鞄を開けた。
中には、古い台本が一冊入っていた。
表紙には、劇場の名前が書かれていた。
そして、その下に若い男の名前。
支配人は息を呑んだ。
その名前を知っていた。
四十年前、この劇場の開場記念公演に出演するはずだった新人俳優。
しかし、開演前日に事故で亡くなった。
その青年の名前だった。
支配人はゆっくりと台本を開いた。
最初のページには、鉛筆で一行だけ書かれていた。
《いつか、ここで芝居をする。》
*
翌朝。
劇場の解体工事が始まった。
支配人は、最後にもう一度だけ客席へ入った。
三列目、右二番。
赤いビロードの椅子に、そっと手を置いた。
「遅かったじゃないか」
誰も答えなかった。
支配人は笑った。
「四十年も待たせるとはねえ」
そして、少し考えてから言った。
「まあ、いい芝居だったろう」
客席には、朝の光が差し込んでいた。
*
それから半年後。
町の外れに、新しい小劇場ができた。
客席は八十席。
以前よりずっと小さかったが、舞台は広く、照明も新しかった。
開場の日、支配人は客席を見回した。
どの席にも、まだ誰も座っていない。
新人の案内係が尋ねた。
「支配人、予約席はありますか」
「ありませんよ」
「では、全部売っていいんですね」
支配人はうなずきかけて、ふと考えた。
「いや、一席だけ残しておこうか」
「どなたのために?」
支配人は舞台を見た。
まだ幕の上がっていない、真新しい舞台だった。
「これから来る人のために」
案内係は首をかしげた。
「誰ですか、それ」
支配人は笑った。
「さあ。まだ誰も知らない役者かもしれないね」
*
その夜、新しい劇場で初めての公演が行われた。
客席は満員だった。
ただし、一席だけ空いていた。
前から三列目、右から二番目。
舞台の上では、まだ無名の若い役者が、懸命に台詞を語っていた。
誰もいないはずのその席から、最初の拍手が聞こえた。
ぱち。
客席の誰かが振り向いた。
しかし、そこには誰もいなかった。
続いて、もう一度。
ぱち、ぱち。
やがて客席全体に拍手が広がった。
支配人は、舞台袖で目を細めた。
「今度は、ずいぶん早く来たじゃないか」
おしまい
三列目、右から二番目