正法を説いた青年

正法を説いた青年

 私は、長年悩まされ続けてきた病がありました。たったひとつの病のために、私は妄執的な倫理に囚われて、日毎夜毎に、記憶の中で病魔と闘っていたのです。病状は恐ろしく進行が早く、私はいつ最期を迎えてもおかしくない身でした。そんな私に取って、最も病に効く良薬は「美しい言葉」と「正しい行い」でした。
 私はホームレスでしたが、周囲の人々は、私の怒り狂う姿を見るなり「あいつは頭がおかしい、狂っているんだ」と遠巻きに陰口を言い合って、逃げて行きました。
 とても寂しい気持ちになって、真夜中の街路の片隅で、涙していました。
 すると、華やかな電飾に照らされた夜の街に、人々の後ろ姿は吸い込まれる様に消えていくのです。そうです、あの不気味な光に満ちた世界では、大人達も子供達も、お金と性的快楽と依存心を満たし合う為に、取引をするのです。
 私は悔しくて、人々が人間としての尊厳を失っていく姿を想像すらしたくなくて、頭を激しく左右に振り、壁に強く打ちつけました。額から、生きている証である真っ赤な血潮が流れて、私は「あはははは」と声も高らかに笑いました。
 すると、怖い男性達が近づいてきて、私の胸倉を掴んで、顔を思いっきり殴りました。何度も、何度も。みすぼらしい、衣食住の何も満たされていない私の笑い声が耳障りだったのか、倒れた私の事を、何度も蹴り飛ばしました。
 しかし、私は立ち上がったのです。襤褸を着て、されど眼差しには迷いの無い一条の光を宿して、私は両腕を広げて、電飾の街並みをゆっくりと歩き始めました。
 買春の交渉をしている悪い大人も、売春の準備をしている哀れな子供達も、風俗店の客引きも、皆が私を奇妙な目で見ました。

 私は声を上げました。
「人の子らよ、人間達よ、何故に自らの尊厳を傷つけるのだ。何故に自らの誇りを損なうのだ。夜毎に淫売を繰り返し、夜毎に若者達の身体を穢し、お前達は神の子、仏の子としての自覚を失っているのではないか。日毎に汗を流して、苦難に耐えて稼いだ金を、浴びるほどの酒や、満たしても満たしきれない性欲の為だけに使い切って、悲しんでくれる人はいないのか。相手の親しい人々を哀しませているとは、思いもしなかったのか」

 私はさらに声を張り上げて、叫ぶ様に、夜の街を闊歩しながら教えを説いた。
「姦通をした女が、街の民から石で打たれた時、神の子は女を庇い『誠に罪無き者だけがこの者に石を打て』と問い詰めた。その後の民の沈黙を、お前達は知らない。何故か。それは罪の意識すら持ち合わせていない証左である。紀元前に悟りを開いた賢者は、自らが瞑想を行う時、邪魔をして堕落させようと仕掛けてきた魔王にさえも慈悲を施し、改心させた。何故か。それは魔王でさえも、生きる苦しみに悩み続け、囚われた存在であると知っていたからこそ、慈悲が先んじて、相手を正しい心へと導いたのだ。父の財産を譲り受けて、それらの一切を買春と博打の為に使い果たし、罪悪感と謝罪の精神を以て、父の前に帰り着いた息子は、父から無条件の愛を注がれて、謝罪を最後まで聴いてもらう前に抱きしめられて、盛大にお祝いをして頂いた。何故か。それは、今まで死んでいた息子の魂が息を吹き返し、生きる道に迷っていた息子が、自らの足で正しい道へと進んでくれたからだ。だが、父も息子の改心を理由に赦したのではない。始めから、慈悲が先んじて、赦していたのだ。赦しは愛だ。愛は無限だ。生じる事も、滅する事も無い。増える事も、減る事も無い。清らかになる事も、穢れる事もない。愛は人間の想像を超越するが、それは人間にも体現する事が可能である。それも、各々の精神力、体力、社会通念の範囲で善いのだ」

 私の説教を疎ましく思った夜の街の人々は、私から遠ざかり、そして、暴力的な人々により、再び殴られ、蹴り飛ばされた。私は満身創痍となり、しかし、それでも叫んだ。
「神の愛は無限だッ。仏の愛は無限だッ。それなのに、どうして愛を拒み続けるッ」

 夜の民が見えない場所で肌を重ね合わせて、金銭のやり取りをして、互いの体と心に傷を負わせ終えた頃、東の空は青白く光が灯る様に明るくなり、血塗れの私は、満身創痍の身体に持ち得る力を込めて立ち上がると、皆が眠った街の真ん中で、やはり、「あははははは」と可笑しくて笑うのであった。それは私の怒りの体現で在り、哀しみで在り、失望で在ったが、しかし、絶望する事は無かった。
 元来、人間は善である。今、悪事を繰り返すからと咎めて、人間を諦める理由には、成り得ないのだから。

正法を説いた青年

正法を説いた青年

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2026-11-04

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