代理拍手業
「拍手をお願いしたいんですが」
電話の向こうの男は、そう言った。
「何名様でしょうか」
「一人です」
「一人?」
「はい。拍手するのも、されるのも、私一人です」
代理拍手業を営む藤崎は、受話器を持ち直した。
開業して十二年になるが、こういう依頼は初めてだった。
*
藤崎の仕事は、依頼人に代わって拍手をすることだった。
結婚式の余興が滑ったとき。
講演会の客席が寂しいとき。
町内会の演芸大会で、どうしても優勝させたい人がいるとき。
拍手にも技術がある。
最初の一拍を誰よりも早く打つこと。
周囲がつられて手を叩き始めたら、少しだけ音量を落とすこと。
最後まで拍手を続けるのは素人だ。
プロは、誰が最初に拍手したのかわからなくなる瞬間に、そっと手を止める。
藤崎は、その道の第一人者だった。
*
依頼人は、古いアパートの二階に住む男だった。
六十歳くらいだろうか。
部屋には机と椅子と、小さな鉢植えが一つあるだけだった。
「何をなさるんです?」
藤崎が尋ねた。
「何もしません」
「は?」
「何もしないところを見て、拍手していただきたいんです」
藤崎は料金表を取り出しかけて、やめた。
「もう少し詳しくお願いします」
男は椅子に腰を下ろした。
「私はね、四十年間、何かをし続けてきたんです」
男は工場で働いていた。
朝早く起き、夜遅く帰る。
休日には家の修理をし、親の介護をし、子供を育てた。
妻が亡くなってからも、何かをしていなければ落ち着かなかった。
「先月、仕事を辞めました」
「ご定年ですか」
「ええ。それで、ようやく何もしなくていい日が来たんです」
男は窓の外を見た。
「ところが、何もしないでいると、誰かに叱られるような気がするんですよ」
藤崎は黙って聞いていた。
「だから、何もしないことを褒めてもらおうと思いまして」
*
藤崎は仕事を引き受けた。
男は椅子に座った。
藤崎は向かいに座った。
一分。
二分。
三分。
男は落ち着かなかった。
「お茶でも淹れましょうか」
「何もしないでください」
「窓を開けましょうか」
「そのままで」
「鉢植えに水を」
「それも結構です」
五分が過ぎた。
男は膝の上に両手を置いた。
十分钟が過ぎた。
壁の時計が、かちりと鳴った。
十五分。
男はようやく、何も言わなくなった。
窓から差し込む光が、机の上をゆっくり移動していた。
藤崎は立ち上がった。
そして、静かに拍手した。
ぱち。
ぱち、ぱち。
男は驚いて顔を上げた。
「もう、いいんですか」
「はい。見事でした」
「何もしていませんよ」
「ですから、お見事でした」
男はしばらく藤崎を見ていた。
やがて、笑い出した。
声を出して、いつまでも笑っていた。
*
翌週、男から再び電話があった。
「またお願いできますか」
「もちろんです」
「今度は三十分に挑戦したいんです」
藤崎は手帳を開いた。
「では、来週の火曜日でいかがでしょう」
「結構です」
「ただし、次回から少し料金が上がります」
「なぜです?」
「何もしない時間が長くなるほど、こちらも何もしないでいなければなりませんので」
男は受話器の向こうで笑った。
「なるほど。大変なお仕事ですね」
「ええ。何もしないというのは、案外難しいものです」
*
それから、妙な評判が広まった。
何もしない人を褒めてくれる拍手屋がいる。
依頼人は少しずつ増えた。
試験勉強を一日休んだ学生。
家事を全部放り出した主婦。
休日に仕事のメールを開かなかった会社員。
藤崎は、どの依頼にも誠実に拍手した。
ただし、一度だけ断った仕事がある。
「一週間、何もしないで寝ているので、拍手してください」
という依頼だった。
藤崎は尋ねた。
「お食事は?」
「妻が運びます」
「洗濯は?」
「妻がします」
「掃除は?」
「もちろん妻です」
藤崎は丁重に断った。
「申し訳ありません。それは奥様に拍手する案件です」
*
数年後、藤崎は自分の店を閉じることにした。
最後の仕事を終え、事務所の鍵をかけた。
そして、近くの公園へ行った。
ベンチに腰を下ろす。
何もしない。
風が吹いた。
鳩が歩いた。
小さな子供が転んで、すぐに立ち上がった。
藤崎は手を叩きかけた。
しかし、やめた。
今日はもう、仕事ではない。
夕方になって、隣のベンチに老人が座った。
二人は何も話さなかった。
しばらくして、老人がぽつりと言った。
「いい日ですな」
「ええ」
「何もせずに、一日が終わりました」
藤崎はうなずいた。
すると老人が、突然、拍手を始めた。
ぱち。
ぱち、ぱち。
藤崎は驚いて振り向いた。
「何の拍手です?」
老人は笑った。
「いや、あんたが実に上手に休んでいるもんだから」
藤崎は、しばらく呆然としていた。
そして、生まれて初めて、拍手を受ける側になった。
思っていたより、ずっと照れくさいものだった。
おしまい
代理拍手業