拭っても拭ってもまとわりついてくるもの
子供に習い事をさせる、というのが私の親世代の社会的潮流だった。戸建で生まれ育った子供というのはどこか徳高く生きるように吹き込まれているようなところがある。規範的・模範的であらねばならないというような。人には譲る、平均より上位に居る、などを求められる。実際親から「後ろ指さされるようなことはするな」、「"ちゃんとした"仕事に就け」と言われて来た。当時私は表現か創作関係の仕事をやりたいと思っていたので(結局才覚は無かったが)人格を改竄されているようで嫌だった。
「四角いテーブルに四人が定位置に座り、朝ドラを見ながら朝食を摂る」という典型に嵌る白々しさが嫌だった。側から見たら、道を外す発想すら持たなくてもいいような環境、身綺麗で安定していて何事もない。安全に守られた建物の中で死ぬことが決してなく、生かされていた。自分の皮を剥ぎたくなるくらいそういうのが私は忌々しくて嫌だった。
同級生が切先鋭く二次成長している時に自分だけ生ぬるく鈍く達観している役をやらされているようで嫌だった。自分の自己イメージが気持ち悪かった。周りが鋭くなればなるほど自分が生ぬるくならないといけない気がした。それと当時から自分の中にジェンダー面の混乱もあったしで、とにかく自分がぐにゃぐにゃして鈍くて気持ち悪い生き物だった。「病的に大人びる未成年」みたいになれなかった。絵的にドラマチックな思春期の少女の毒気とか物語的なものを想起させるようなものでは全くなかった。
苦しみに耐えることが出来てしまうことが嫌だった。自分で自分を確認出来てしまうから死ぬほど苦しくても耐える事が出来てしまえる。壊れられない。常にスレスレで耐えていた。耐えられないで壊れてしまった方が楽だったと思う。
そして発現されなかった「症」のようなものが自分の中に溜め込まれる。自分の膿の中でぐちゅぐちゅとなっていた。回路を複雑にしてしまう。出られない。何もかも排出、発露されずに蓄積されていく感じ。抑圧されずに育った人、ただありのままに生きることができる人が羨ましかった。
学生時代から二十代前半くらいの頃までピークでこの感覚があり、その後もその感覚をずっと引き摺ってきた。本当に長い間まとわりついてきていた。
実家から離れて一人暮らしをしたときにも、血管の中から見張られている感じがしていた。脈々とそのやり方で今までやってきたという血が流れている。
当時は表現と創作の仕事をやりたかったから就活はしたくなかった。絶対にスーツを着る人になりたくなかった。でも抗えずにスーツを買うことになり、就活もせざるを得なかった。スーツが似合ってしまう感じも嫌だった。その血が通っている以上、肩を張っている感じ、自我を削ぎ落した感じが似合ってしまう。
その後は就活をする必要がもうなくなって、着る場面も他にないし捨ててもよかったのだが、何故だかしばらく捨てることができなかった。
2年前にやっとそのスーツを処分する事ができた。長かったけどようやく断ち切れたのだろう。このことも徐々に薄れてきた。いずれ忘れていくのだろう。
拭っても拭ってもまとわりついてくるもの