手をつなごう

第一章 煙の向こう


 小さな男の子が、泣いている。
隣に立つ、父親のズボンの裾にしがみついて、「ママは?もういないの?」と。
無言で立つ父親は、子供の声が聞こえているのか、いないのか。
遠くを見るような目で、ただ立ち尽くしていた。

 読経が響く。

小さな団地の集会所だ。
線香の匂いはすぐに充満した。

白い煙の向こうに立つ男は、若い、父親だった。
亡くなった妻は、結婚する前から病に冒されていたらしい。
子供はまだ三歳。
喪服から覗く白い首筋は頼りなく、今にも折れてしまいそうだった。

誰もが口々に囁いていた。「子供がまだ小さいのに、かわいそうね。大丈夫かしら。」 

妙な光景だった。
子供と、父親の周りには親戚も誰もいなかったのだ。
焼香に訪れた来訪者は、団地に住む近所の主婦ばかり。
子供は、まだどこにも預けていなかったのか、幼稚園や保育園などの友達らしき姿もない。

 焼香の順番が来て、俺は立ち上がり、男の前に立った。

「御愁傷様です。」

俺はありきたりな言葉を呟き、軽く会釈をした。

痩せた青白い顔。
目蓋にかかる少し伸びた前髪。
筋張った手のひらは、小さな息子の手を握っているが、冷たそうだ。
きゅっと結んだ薄い唇は、必死で悲しみをこらえているようだった。

男も、伏せ目がちに俺を見ると
「ありがとうございます。」と言い、軽く会釈を返した。

 俺はそのまま会場の外に出た。

冬の空が、高い所から見下ろしていた。
冷めた風が、新たな呼吸を呼び、俺は胸にこもった二酸化炭素を吐き出した。

「……覚えてねえか。」

十年も前の事だ。

記憶に残るはずもない。

でも、助けたい。
今の彼を救いたい。

 不安定に揺れていた俺の心の中に、それだけがしっかりと強く固まっていた。


第二章 夢と現実


 
 ずいぶんと寒いところだ。
ぼうっとした頭で僕は思った。

真っ暗なトンネル。
ペタペタと、タイルの上を歩いている様な感覚で、僕はただ歩いている。

数歩、歩いたところで僕ははっと我に返った。

「光樹は?」
後ろを振り返り、名前を呼ぶ。
「光樹!光樹!!」
返事はない。周りを見回しても、ただ真っ暗な闇があるだけだった。

???いない?

突然、恐ろしいほどの空虚感が襲ってきた。
真っ暗な地面が、ぐらぐらと揺れ、崩れ、落ち始めた。

ああっ落ちる!



 「パパーおなか減った」

目の前に三歳の幼い息子の姿があった。
「パパ大丈夫?」
心配そうに覗き込む、大きな瞳、柔らかい桃色の頬。
「光樹……パパに抱っこして」
「うん。いーよ」
 
僕にはもうこの子しかいない。
僕がこの子を守らなければいけないのだ。

「……ごはん、何がいい?」
「ふりかけごはんー!」
「もうちょっと栄養のあるものにしようよ。目玉焼き食べる?」
「食べるぅ!」


 妻が亡くなって何日が過ぎただろう。
雑然とした部屋は薄暗く、回収に出し忘れたゴミ袋が玄関の前にたまっている。
冷蔵庫の中は空っぽ。最後の卵を使って、これで終わり。
(買い物に行かくちゃな……)
掃除も、洗濯も。
僕は妻が亡くなってから息子を育てるために、会社を辞めた。
しかし貯金だけで暮らしていける訳もない。
(働かないと……)

心ではわかっている。
子供のためにも僕がしっかりしなきゃいけない。
でも僕の体はちっとも言う事を聞かない。

今朝見たような夢は、ここの所ずっと続いている。
息子がいなくなる恐怖と、崩れ落ちる不安定感が、続いている。

「ねえ、パパ。ごはん食べたら公園に行きたい」

子供は残酷だと、誰かが言っていた。
誰が言っていただろう。忘れてしまったが、本当にその通りだと思う。
光樹にはまだ、『状況に応じて遠慮する』事は無理なのだ。

「ごめんね。パパ具合が悪いからもう少し眠らせて」
「えー」
「隣の真緒ちゃんの家に遊びにいっててくれる?電話しておくから」
「真緒ちゃん?うん!行く!」

真緒ちゃんとは、光樹の面倒を良く見てくれる、同じ階の小学校一年生の女の子だ。
お母さんも気さくな方で、時々夕飯も持ってきてくれる優しい人だ。
最近はずっとお世話になってばかりいる。

勢い良く玄関を飛び出した光樹の足音が、すぐ隣の扉の前で止まり、ベルを鳴らした。
「まーおーちゃん。あそぼー。あけてー」
すると、すぐに扉が開いた。「こうちゃん!いらっしゃい」

部屋で耳を澄ましていると、光樹の元気な声が聞こえてくる。
僕はやっと落ち着き、真緒ちゃんのお宅に電話をした。

「すみません。藤森です。今光樹が行ったと思うのですが……」
「ええ、来たわよ。こうちゃん、元気ねぇ。大丈夫よ。いつでも預かるから。」
「いつもありがとうございます。ほんと、申し訳なくて……」
「いいのよ。子育てって大変だから。困ったときはお互い様。藤森さんも辛いだろうけど、ちゃんと食べて元気になってね」
「はぁ……」
「ちゃんと食べてる?最近見ないけど、また痩せたんじゃないの?だめよー子供いるんだからしっかり食べなきゃ!」
「食べてますよ。ご心配かけてすみません。」
「そう?こうちゃんはご飯食べさせてから返すからね。安心してゆっくりして」
「ありがとうございます」

 電話を切ると、僕はそのままベットに横になった。

やっと眠れる。
解放される事のない、心臓が押しつぶされそうな責任と、孤独。
夢は、もういい。
誰か 助けて。
救いを求めるこの手を つかんで。
悲しみの泥の中から 救い出して。


第三章 約束


 「宮本君?まだ書けてないのかい?」

ブルーのジーンズが真横に立ち止まった。
放課後の冬の教室。残されているのは俺一人。

骨張った指が、プリントの端をつかんで持ち上げた。

「え〜ぜんぜん思い浮かばない。どうしようー先生」

机の上に突っ伏して、ゴネてみる。
先生ならすぐに帰してくれる気がしたからだ。

「将来の事だよ?中学、高校、大学...その先の事。高卒で就職する道もあるし、
……ああ、小学六年生に細かい事言っても難しいかな。とにかく大きくなったら何になりたい?ってことだよ」

 細いフレームの眼鏡に、気の弱そうな眼差し。
教育実習に来た藤森颯太先生だ。担任の先生よりずっと若くて、近所のお兄さんみたいな感じの先生だった。

「なんにも思いつかないよ〜。……どうしても書かなきゃダメ?」

その日は友達と遊ぶ約束をしていて、早く帰りたかった。
甘え声を出して、(いーじゃん、もう)的な目配せをするが、この新任教師には効かなかった。

「……何にもないって……若いのになぁ、もったいない」

放課後の廊下は人気がなくなり、遠くの方で声が微かに聞こえるくらいだった。
真面目すぎるこの先生は、あきらめる事を知らないのだろうか。
もしかして書くまで帰してもらえないとか????俺は本当に、少し思っていた。

「じゃあ、先生はなんで先生になったの?小学生の時からなりたかったの?」

何とか矛先を変えようと、思いついた言葉だった。

「う〜ん。小学生の時の希望のままではないけど、先生の場合は……大学の関係……かな」
「大学?」
「ん〜まあ、じゃあ、しょうがないな。宮本は無理に書かなくてもいいよ。今日はこのまま提出にしておこう。暗くなるから、もう帰りなさい。」

(よっしゃぁ!やっと帰れるぅ〜!!)

心の中でガッツポーズをしながら、俺はさっさと鞄の中に消しゴムと鉛筆を放り込んだ。

「……じゃあさ、先生が僕の将来決めちゃえば?」

調子ついでに先生をからかったつもりだった。
先生は意外な所から飛んできた問いかけに、戸惑った様子で眉をひそめた。

「え?……それはダメだよ。将来は自分で決めるものだから」
「先生だって小学校の時の希望と違うんでしょ?どうせ変わるなら、最初ぐらい人が決めてもいいじゃん。そのうち自分のなりたい物が見つかったら、そうすればいいんだし」

先生は困った顔をして、薄暗くなった教室の天井を見上げて数分、悩んでいた。

「いいのかなぁ、本当に」
「いいよっ僕将来何になる事にする?」

どんな答えが返ってくるのか、俺はわくわくしながら身を乗り出した。
すると先生はまるで、魔法使いが魔法を唱えるように俺を指差して言った。

「ん〜じゃあ……医者!お医者さんになれ!」

「ええ〜っ医者ぁ?」
「そうだ。目標は高く持たないと!」

「高すぎるよぉ〜!」



 「……懐かしいなぁ……」

十年も昔の思い出。でも俺には昨日の事のように鮮明に思い出す事が出来る。

(ちょっと奥さん、あそこの車、この団地の方の車じゃないわよね。ずーっとあそこに停まっているのよ)

俺はため息をつきながら、コンビニで買ってきた菓子パンにかぶりついた。
奥さん連中が、明らかに俺の方を見て話している。

???そろそろ場所変えないとまずいかな……?

 情けないなあ。ここまで来て会いにいけないなんて。
ごめんよ。先生。俺医者になれなかったよ。医者どころか何にもなれてない。
やっぱりあの紙は白紙で出した方が正解だったんだなあ。

 そんな事を思いながら、タバコに火をつけようとしたその時だった。

「……あれ?」

車のフロント越しに見えていた奥さん達の姿がなくなっていた。
???ヤバい。通報しに行った?

???コンコンコンッ 慌てて、強めに窓ガラスをノックする方に目を向けると、
さっきの奥さん連中のうちの一人が、こちらを覗き込むようにして立っていた。



第四章 再会


「あのう……こちらに三日ほど前からずっと車お停めになってますよね?」

車の窓を開けると、30後半から40代前半の、眼鏡をかけたたくましい感じの主婦が立っていた。


???まずいな。三日前からずっといるのばれてら。
不審者で通報されて、パトカーが巡回でもしたら、もうここにいられなくなるじゃないか。
ちょっと誤摩化しておかなきゃ???。

「あ、あの友達を……」

口に出した瞬間に、俺は自分の浅はかさを後悔した。
???三日間駐車しっぱなしで車の中にいる所を見られているのに、どんな言い訳があるって言うんだ。
少なくとも俺は、その後に続く言葉が見つからず、そのまま口ごもってしまった。

俺はあわてて「あ、すいません。今すぐどきます」と言うと、
車のキーをひねってエンジンをかけた。

「???あら?」
ほとんどエンジンがかかるのと同時くらいに、突然その人は妙な声を上げた。
そして身を乗り出すように俺の顔を覗き込んだ。

「な、何ですか?」

「……失礼ですけど、あなた、この間の藤森さんの葬儀に来ていた方じゃないですか?」
「え.……っ」

俺は驚いた。まさか葬儀の出席者の顔を憶えているなんて。
問いに答える事なく、行程も否定もしないまま言葉を失っている俺を見て、
その人はもう一度俺の顔をまじまじと見つめると、にっこりと笑ってこう言った。

「???やっぱりそうですよね。藤森さんのご友人でいらっしゃるんですか?」
「え……あの、まあ……」
「そうですか。良かった。あ、ちょっと待ってて下さいね。」

そう言うと、その人は後方に待機していたもう一人の主婦のもとへ駆け寄って行った。

「佐藤さん、あの人藤森さんのお友達ですって。」
「お友達?それにしたって三日も車の中でって、やっぱり怪しいんじゃないの?」
「大丈夫よ。私ちゃんと藤森さんの葬儀の時にご焼香に来てたの憶えているもの」
「え?本当に?よく憶えていたわねぇ」
「だって目立ってたじゃない。茶色いくせ毛。それに顔立ちだって。多分ハーフじゃないかしら」
「あなたも本当に若い子好きねぇ」

離れていて話している声は聞こえないが、なんだか笑い声が聞こえる。
まずい展開にはならなそうだ。

「あのっすいません俺帰ります」

一度リセットしておこう。そろそろ家に帰らないと色々と親がうるさい。
俺は少し離れた場所にいる主婦達に、そう声をかけると車の窓を閉めた。
「ちょっと!待ってちょうだい」
するとすぐに主婦達は二人そろって走って戻ってきた。
慌てて俺はエンジンを切り、車の窓を開けた。

「待ってちょうだい。お友達なら是非会ってあげて下さいな」

どきり。(会う?)

「今藤森さん大変なんですよ。少しでも元気づけてあげて下さい」

知ってるさ。……でもまさか葬儀だったなんて。???タイミングが悪かったんだ。

車高の低い車の運転席で、俺は座ったまま主婦達の顔を見上げるように話を聞いていた。
主婦も少し見下ろすような形にはなっていたが、頼み込むような視線が胸に突き刺さった。


「?会いに来たんじゃないんですか?」

会いに来た。つもりだったけど……会わない方が……。

少しの沈黙の後俺の口から出たのは、一歩も前進しない、情けない一言だった。

「ちょっと、今は……また……来ます」
「え……何言ってるんですか?」
「?」

突然、眼鏡をかけた方の主婦が、急に腰を屈めて視線を合わせてこう言った。

「ここまで来て何言ってるんですか?……車、降りて下さい」
「えっ」
主婦は窓から俺の服をつかんで無理矢理引っ張り上げた。
あまりにグイグイ引っ張るので、俺は仕方なくドアを開け、結局車内から連れ出されてしまった。
「一緒に行きましょう」
「えっ……困りますって」
「何言ってるんですか。会いに来たんでしょう」

力強い手に引っ張られながら、優柔不断で揺らいだままの俺はただ、ついて行くしかなかった。
不安な心が戻れ、と言う。
先生が弱っている時に俺が会いに行って???負担になるだけじゃないのか。
助けられる、勇気づけてやれるものなんて何もない。今の俺はただの???みっともない男だ。

求める心が、会いたい、と言う。
みっともない俺を助けてくれ。???先生。

薄暗い階段を上る。
無機質なコンクリートの壁が、視線の横を通り過ぎる。
踊り場を三回ほど通り過ぎた所で、足が止まった。

どきり。???呼吸が、止まる。

ピンポーン

インターホンを鳴らして少しすると、物音がして、それから少しかすれた声が答えた。
「……はい?」

「ごめんなさいね。高城ですけど、藤森さん、今大丈夫かしら」
「あ、ああ、ちょっと待って下さい。」

慌てて身支度を整えているのだろう。ドタドタと、奥の部屋に走って行くのが想像できた。
そして数分経ったとき、ぎぃ、と扉が開いた。
「……お待たせしてすいません。あの、どうかしましたか」

藤森先生の声がした。
葬儀の時はきちんと目を合わせる事が出来たのに、今は俯いたままで顔を見る事も出来ない。
心臓が重い鼓動を打つ。重くて、痛い。

「藤森さんのお友達だって言うからご案内したんですよ。」
「???友達?」

俯いた俺の顔を先生はしゃがんで覗き込んで来た。


「……宮本?」
「……はい」

涙が溢れて来た。
恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだったけど、込み上げてくる涙はどうにも止まらなかった。

第五章 傷口

「……まぁ、とにかく上がって」

「……すいません」

俺は先生に手を引かれ、ガキみたいに鼻をすすりながら部屋に入った。
薄暗い照明。雑然とした部屋の中には、ゴミの入った袋がいくつか詰め込んだままになっている。
その中に、違和感のようにさえ感じる子供のおもちゃや子供服がある。

???線香の香りがただよう。

部屋の隅にあった鏡台や化粧ポーチ。
家族写真。

改めて、自分が乗り込んだ場所が、どういう場所なのかを再認識する。
先生が奥さんと幸せな日々を過ごして、そして失った部屋???。


「……汚いけど……まぁ座って」

そう促されて、俺はダイニングテーブルの椅子に座った。

「コーヒーでいい?」
「は、……はい」

薄いトレーナーの袖口から、華奢な手首が見える。
自分の記憶から十年経った訳だが、ずいぶん痩せてしまったんじゃないだろうか。
先生の奥さんの葬儀から、一ヶ月……経っただろうか。もちろん心の痛みが癒えるはずもない。
むしろ、再認識して一番辛い時に来てしまったのかもしれない。
知らなかったにしても、……全くなんてタイミングの悪い事だろう。

俺はつくづく自分が嫌になった。
俺の事なんて相談できるはずがないじゃないか。

「……どうぞ」

テーブルの上にコーヒーが二つ。
先生はゆっくりといすに腰掛けると、優しい眼差しを俺に向けた。
何から話したらいいのだろう。自分の事?先生の事?
少しの沈黙があった。???何の言葉も用意していなかったせいで、俺は一瞬パニックになりかけた。
その時、先に言葉を発したのは先生の方だった。

「ずいぶん久しぶりだね。???大きくなった」

初めてあったような言葉。
やっぱり葬儀の時、先生の心はそこにはなかったのだ。

「……俺が……わかりますか」
「わかるよ。茶色い巻き毛の髪に、浅黒い肌。???宮本和也君だろう?」
「そう、……そうです」
「こんなに……こぉんなに小さかったのになぁ」

先生はそう言うと、懐かしそうに胸の辺りで手をひらひらさせながら、目を細めた。
???十年。そう、俺は先生の頭一つ分大きくなった。
多分、力も負けはしないだろう。

線香の香りが、毒ガスのように俺を苦しめる。
酸素を求めて喘ぐように、口をついて漏れたのはたった一言だった。

「……すみませんでした」

「……?どうした?」

「……こ、こんな時に来てしまって……俺」

???俯いた俺の視線の先に、先生の骨張った指が見えた。

「???こんなとき……?ああ、線香が……」

先生の眼が、一瞬行方を失う。
まるで傷を負っている事に気づかれた動物みたいに、ぎこちない視線を這わせる。

奥さんが亡くなってしまった事を何故俺が知っているのか、先生は知らない。
何故なら、先生は葬儀に出席していた俺を憶えていない。
先生にとって俺は、今日突然、十年ぶりに会いに来た元生徒に過ぎないのだ。

平静を装いながら???乾いた唇を舌で拭ってから、先生は言葉を続けた。

「僕の方こそ……こんな状態ですまないね。……ちょっと、あって……」

深く息を吸い込みながら、ゆっくりと吐き出す。
不安気に、選びながら発した言葉は、少し震えていた。

「???先生」

テーブルの端で小さく握られた拳を、思わず俺は自分の掌に重ねた。

「……な……なに?」

一瞬、怯えたような眼がぶつかった。

「大丈夫です。ごまかさなくていいんです先生。俺、偶然先生の家に来た時に葬儀があって……ご焼香させてもらいました」

「……え」

記憶の誤差に戸惑うような表情を見せた後、先生は突然俺の手を振り払って立ち上がった。

「そ、……そうだったのか。ごめん、何だかあの日はあんまり憶えてなくて……」

そう言うと後ろを向き、流し台のふちに手をかけたまま黙り込んだ。
肩が、小さく震えている。
今俺の目の前にいるのは、小学生の頃に会った先生ではなく、愛する妻を失ったただの男。
教師の面が剥がれ落ちた、生身の人間だった。
俺はゆっくりと立ち上がり、震えるその肩の隣に立った。
そして思わず、後ろから抱き寄せた。

「宮本?」
驚いたように振り向いたその眼は激しく動揺していたが、それでも必死に教師の仮面を探すように平静を装った。

「や、やめないか」

きつく抱きしめた腕の中で、もがくように抵抗したが、俺の身体はびくともしなかった。
久しぶりに会った先生は、驚くほど非力だった。
???いや、自分がそれだけ成長してしまったのだと実感した。

「……宮本ッ」
「俺、……先生が今辛いのわかってますから」

その言葉を聞いたとたん、もがいていた身体がぴたりと止まった。

「もう俺、先生の生徒じゃないんです。……教師ヅラしなくていいんですよ」

まわした俺の腕を、先生の冷たい掌がぎゅっと掴む。それは痛みを感じるほどだった。

「???タイミング悪くてすいませんでした」

押し殺した涙声が、俺の腕に響く。

「???泣いていいんですよ」
「……ごめん、本当にごめん???今だけ……」


俺の腕が彼の涙に濡れる。
震える後ろ姿を見ながら、うっすらと思った。

多分、俺は赤い傷口に群がるハエ。
守りたい反面、もしかしたら傷口を腐らせてしまうのではないだろうか、と。


第六章 傷跡

 薄暗い部屋が、更に影を濃くする。
気づけばもう日が落ちて、部屋の中は真っ暗になっていた。
和也はあわてて部屋を見回し、時計を探した。壁時計に目をこらすと、うっすらと時計が読めた。
もうすぐ夕方の五時になる所だった。

 どれくらいこうしていたのだろう。
先生の背中を後ろから抱きしめたまま、彼の涙が止まるのをずっと待っていた。
そして、しばらくして和也は微かな異変に気がついたのだが、どうにも動けないまま現在に至ってしまっていた。

ゆっくりと脱力してゆく身体。
「……先生?」
小さな寝息が聞こえる。
「……え……っと……もしかして???ねちゃったの……かな」
そっと話しかけてみるが、応答はない。
ずるずると崩れ落ちそうになるその身体を、和也は仕方なく深くかがみ込んで、今度は横抱きに抱え直した。
取りあえず部屋の明かりをつけようと、抱き上げたまま部屋の入り口にあるスイッチに手を伸ばした。
その時だった。
「ただいまぁ〜パパぁ?」
パッと部屋の明かりがついた。
一瞬、視線がバチッと重なり合う。そこにいたのは、あの葬儀の時、先生の隣にいた小さな男の子だった。
「あ……っあの???」


「パパ?どうしたの?死んじゃったのッ?」

戸惑う和也とは対照的に、その男の子は突然血相を変えて和也の元に走り寄って来た。
ぐったりと抱き抱えられた父親を見ようと、小さな身体で必死に和也の足にしがみついた。
「……大丈夫だよ。お父さんはただ疲れて眠ってるだけだから」
和也は膝をおり、抱きかかえた父親の姿を見せた。
相当疲れていたのに眠る事も出来なかったのだろう。
気を失うようにして眠りについたその顔は、一瞬死んでしまったかのようにも見えた。
「本当に大丈夫?元気になる?」
大きな瞳に涙を溜めながら、男の子は必死に聞いて来た。
「……ゆっくり寝かせてあげれば大丈夫だよ。???布団あるかな」
「こっちだよ」

案内されるまま隣の部屋へ行くと、布団が敷いたままになって置かれていた。
和也はゆっくりとその身体を下ろすと、静かに横たえ、そっと布団をかけてやった。
「これで大丈夫だ。???起こさないようにこっちの部屋に行こう」
「……うん」

心配そうな視線をいつまでも父親方に向けながらも、男の子は和也とともに部屋を出た。

「ねぇおじさん誰?」
部屋を出るとすぐに、男の子は和也を見てそう言った。
「う〜ん……おじさんかぁ。そうだよね、君から見れば……」
和也は少々戸惑ったが、この男の子にしてみれば突然現れた不審者に他ならないのだ。
和也は小さく身を屈め、男の子に視線を合わせると、自己紹介をした。

「おじさんの名前はね、宮本和也と言います。パパの生徒だったんだ。怖くないよ」
「……生徒ってなに?」
「ん〜……何て言ったらいいんだろうなぁ」
小さな子供と接した事のない和也は、その予想のつかない返答にどう答えていいか迷うばかりだった。
「とにかく俺はパパとは知り合いなんだ。……えっと、君は?名前教えてくれるかな」
そう投げかけられた言葉に、男の子は少し俯いて恥ずかしそうに一歩下がり、小さな声で返事をした。
「……ふじもりこうき……」
「そっか。光樹君か。……何歳かな」
「……さんさい」
「……そっか」
「……」

(うわ〜やべぇ話が続かねぇ。なっ何話したらいいんだ?)

「あ、あ〜あのさ、……おなか減ってる?」
「ううん。まおちゃんちで食べたからへってない」
「ああ……そっか」

(ああ〜このままこんな小さい子を一人にして帰る訳にもいかないし、……先生起こす訳にもいかないしなぁ……)

「ねぇおじさん。いいもの見せてあげようか」

話すネタにつきた頃、不意に光樹が何やら嬉しそうに話しかけて来た。

「まっててね」

ふふっと小さく笑うと、部屋の奥にある仏壇の下から一冊の薄い本を持ち出して来た。
それはよく見ると小さなアルバムだった。

「ママだよ」

表紙を開くと、二人の飾らない笑顔がそこにあった。
大学時代の写真らしいその中には、和也の知っている藤森先生の姿も写っていた。
そして彼の横で恥ずかしそうに笑う女性。
「……この人が光輝君のママ?」
「うん。そうだよ」
「へぇ……かわいらしい人だね」

肩にふんわりと落ちた黒髪。子供のような笑顔。

「こうきママ大好き。すごく優しいんだよ」

和也の横にちょこんと座りながら、嬉しそうに話す光樹の姿を見て、和也は不思議に思えてならなかった。
話を聞いているだけで胸が痛くなった。失った母親の話をして辛くはないのだろうか。
三歳という年齢は母親の死を実感できないのだろうか。
そう思って小さな横顔を見つめていると、不意に光樹の瞳は悲しみに満ち始めた。

「……ねぇ、本当にパパ元気になる?……パパもいなくなったりしない?」

涙をいっぱいに溜めた大きな瞳が、和也を真っ直ぐに見つめた。

「大丈夫だよ。光輝君がいるんだから……絶対にいなくなったりしないよ」
「……本当?」
「ああ」

小さな手が、ぎゅっと和也の服を掴んだ。

「おねがい。パパが起きるまで帰らないで……こわいから……」

和也は思わず小さな身体を抱きしめた。
三歳だから、何て嘘だ。この子は全てを理解している。
ただ精一杯我慢していたのだと、和也はこの時初めてわかったような気がした。

「……いいよ。一緒にいよう」

その言葉に安心したのか、光樹はしばらく母親の思い出話をすると、そのまま眠ってしまった。
そっと抱き上げ、父親の横に寝かせると、和也はソファーの上に横になった。


薄暗い天井を見上げる。
二人の寝息がすぐ横から聞こえてくる。

「……ここに……このまま転がり込んでもいいですか……先生???」

身体を横たえ、片腕で頬杖をつきながら、和也はその様子を眺めていた。
誰も聞いているはずのない独り言を囁いてみる。もちろん返事はない。
ゆっくりと眠気に落ちてゆく中で、和也はようやく安らぎを取り戻せた気がした。


第七章 あの頃に

浅い眠りの中で、ぎしり、ぎしり、という、階段を上る足音を聞く。

そしてゆっくりと扉が開き、布団の下から何かが自分の足に触れる。
それはいやらしく、さするように太ももを撫でまわす。
やがて酒臭い息が布団の下から上がってくる。


「???あの女と同じ顔しやがって???」

野太い声が、布団の下から、闇を這い上がってくる。


ああ、まただ。
これは夢だ。早く、早く目覚めなければ。
早く、早く。???逃げなければ。




「???宮本っ?」

吸い込んだ息が、一瞬止まる。
深海から急浮上したように、和也はもう一度深く息を吸い込んだ。

心配そうに覗き込む瞳が、目の前にあった。

「……先……生?」


(やっぱ……夢か)

和也はほっと胸を撫で下ろし、仰向けに寝たまま両手を顔に押し当てて、深く息をついた。

(……やばいなぁ???最近見なくなったと思ってたのに)

「大丈夫か?……どこか悪いのか?」

心配そうな声に、和也はゆっくりとソファーから身体を起こした。

「あ……いや、大丈夫です。なんか、……変な夢見ちゃって」

目覚めの悪い気だるさの中、和也は部屋の中を見渡した。
そう言えばここに泊まったのだとぼんやりと思いながら、昨夜の事を思い出した。

「あ、俺、勝手に泊まっちゃって……」
「ああ、いいんだ。僕の方こそ……昨日は???」

「……え?」

小さな声だったので、思わず和也は聞き返した。

「あの……寝てしまって……」

彼は恥ずかしそうに下を向いた。

「だって疲れてたんだから仕方がないですよ。先生は少し休まないと」

和也はソファーから立ち上がり、ぐぐっと背伸びをすると、深く深呼吸をした。
明るい昼間の太陽が、目に眩しかった。
壁時計を見ると、もう十一時になろうとしていた。
気づけば、あの小さな男の子の姿もなかった。

「あれ……先生、光輝君は?」
「もう遊びに行ったよ。……良く面倒を見てくれるご近所さんがいてね。本当に助かってるんだ」
「へぇ……良かったじゃないですか」
「何だか光樹の話し相手もしてくれたらしいね。起きたら光樹がすごく喜んで宮本の話をしてくれて……驚いたよ」
「だって先生、死んだみたいに寝てたから……」

「???なあ、宮本。……もう先生って呼ぶのやめないか?」

ソファーの横に座り込んでいる彼が、突然和也を見上げて言った。
「???え?」
「……実は今は教師じゃないんだ。せっかく来てくれたのに悪いんだが……そんな偉そうな呼び名だと罪悪感を感じて仕方がないんだ。……何か他の呼び名で呼べないかな」

そう言うと、彼は照れたように横を向いて黙り込んでしまった。
和也は、その告白を聞いて少しショックを感じていた。
和也にとって、藤森颯太は尊敬するたった一人の先生だった。きっと教師を続けているものだと思っていたのだ。
先生の人生にも色々あったのだろう。他の道を選ぶのは自由な権利だ。文句を言う必要もない。
だけど、和也の心は不安に揺れた。
教師だった短い時間を、覆い隠すように続いた彼の人生の中で、俺の記憶の中の『藤森先生』はどれくらい残っているのだろう。彼にとって『教師時代』が微かに残っている程度の記憶に他ならなかったなら、十年ぶりに押し掛けて来た生徒に情など残っているのだろうか。

「???じゃあ颯太さん……って呼んでいいですか」

「下の名前で?……ん〜……何だか恥ずかしいな」

慣れない呼び名に、颯太はくすぐったそうに首を傾げた。

「……そうだな。もう宮本も立派な大人になったんだ。僕も呼び捨てはやめよう。???なんて呼んだらいいかな」

「じゃぁ???和也で」

「呼び捨てじゃないか」
「その方が『友人』っぽくていいじゃないですか」

颯太は、和也の提案した呼び名に納得がいかないようだったが、しばらく考え込んだ結果、結局その呼び名で落ち着いたようだった。

「……えーと……和也、……キッチンへ行かないか?コーヒーでも飲もう」
「はい」

ぎこちない会話に、笑いそうになるのを押さえて、和也は颯太についてキッチンへ向かった。


第八章 闇


「……結果的に昨日は泊まらせてしまった訳だけど???連絡はしなくて大丈夫かい」

 
 コーヒーの香りのするキッチンには、眩しいほどの明るい光が射し込んでいた。

少し気まずそうに話し始めた颯太は、少し緊張していた。
何せ、こんな風にテーブルを挟んで宮本和也と向かい合うのは十年ぶりだ。
目の前にいるのは、記憶にある無邪気な少年ではない。たくましく成長した二十二歳の青年だった。
昨日も会ってたはずだが、明るい場所でしっかりと顔を合わせると、ほとんど初対面のような感じさえしてきた。

颯太に問いかけられて、和也は少し困ったような顔をして黙り込んだ。

「和也もすっかり大人になった訳だし、……結婚とかは?」

「結婚なんて……っぜんぜん独身です」

「じゃぁ今も実家で?」

「えと……一人暮らしです。……だから外泊は???別に」

何だか歯切れの悪い返答に、颯太は妙な感じがしたが、
少し気まずい雰囲気を感じた颯太は、コーヒーを一口飲むと、話を変えてみた。

「……しかし和也は、ずいぶん立派な体格に成長したなぁ」

頬杖をついて、じっくりと成長したを眺めてみる。

「そ、そんなことないですよ。十年も経てば……これくらい普通です」

凝視に近いような視線を感じて、和也は恥ずかしそうに否定すると、それから逃れるように横を向いてしまった。
しかし颯太にとって、それは眼を見張るほどに美しく成長した青年の姿だった。

茶色いくせ毛は昔のままだが、今風に少し伸ばした髪がよく似合っていた。
身長も180?くらいはあるだろう。
細めの体型ではあったが、まくられた袖から見える浅黒い腕には、筋張った筋肉が感じられた。
切れ長の涼しげな瞳には、薄い緑色の珠が艶めいている。
それは少年期から大人へ変貌したばかりの初々しい姿???。

「……せっかく頼って来てくれたのに、こんなおじさんになっててショックだろう?」

羨ましかった。そして言葉にした後、颯太は少し惨めな気分になった。
随分な差を感じてしまった自分の心の小ささに、恥ずかしさをおぼえたのだ。
しかし、そう言って少し寂しげに微笑んだ颯太に、和也は真っ直ぐに颯太を見つめて言った。

「そんなことないです。颯太……さん……が俺の事憶えていてくれてすごく嬉しかったし、
話せる相手を思い浮かべたら……一番優しかった先生の事を思い出したんです」

そのあまりに真っ直ぐな瞳に、颯太は思わず視線を外して言った。

「???そ、そうだよ。何か話したい事があったから会いに来てくれたんだろう?」
「……あ……はい」
「和也には……ここに来てからずいぶん頼りない姿ばかり見られてしまったけど、僕が協力できる事だったらいくらでも協力するよ」

「……本当ですか」

その言葉に和也は、意を決したように冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、再び颯太に視線を向けた。

軽い緊張感があった。
テーブルの上で握りしめた拳が、おずおずと後ろに下がり、膝の上に落ちた。

どこまで話したらいいだろう。
和也の中に背後に迫るような恐怖感が蘇って来た。
どこまで助けを求めたらいいのだろう。
真夜中の、大海に投げ出された小舟にいるようなこの親子を、俺のせいで沈めてしまう訳にはいかない。

しばらく黙り込んだままうつむいていた和也は、不意に顔を上げ、まるで冗談を言うように微笑み、小さく呟いた。
 
「あの……ここに……一緒に住んでもいいですか?」

「???え?」

質問の答えになっていない事はすぐにわかったが、その返答の意味が良く飲み込めなくて、颯太はもう一度聞き返した。

「す、住むって?」
「俺、実は???家出中なんです」
「えっ……だってさっき一人暮らしだって???」

颯太は困惑して思わず立ち上がった。
和也は両手を額の前に合わせて懇願した。

「ウソついてごめんなさい!……でも……お願いだから一緒に住まわせて下さい!」

叫ぶように和也はそう言うと、額の前で手を合わせたままじっと動かなくなった。
和也は自分の言葉を待っている。
そのとき颯太の脳裏に蘇ったのは、両親の顔だった。

十年も前の事だが、颯太は和也の両親の顔を良く憶えていた。
何故なら、和也はハーフだったからだ。
確かイギリス人の奥さんと、日本人のご主人の間に生まれた一人っ子だったはずだ。
教育実習で、短期間ではあったが、教師をしていた頃の自分が蘇るような感覚があった。

「???だめだ。両親が心配しているんじゃないのか?……すぐに連絡を入れるべきじゃ???」

瞬間。
颯太ははっと我に返った。
額の前に合わせていた和也の手のひらが、きつく組み合わされ、その肩はうずくまるように震えていた。

「……お願いだよッ???何でもするから……ッ」

教師らしいまともな言葉を吐いていた自分に、その姿は突き刺さった。
そして和也が相談したがっていた事の元凶が何処にあるかを、わかったような気がした。

颯太はそっと、握りしめていた和也のその両手に触れると、小さな子を慰めるように囁いた。

「そうだな……落ち着くまでいればいいよ。???子供がうるさいかもしれないけど」

その言葉を聞いた和也は一気に気が抜けたようにうなだれると、止めていた息を吐き出すように
良かった。と声を漏らした。

とても聞けなかった。
何にそんなに怯えているのかと。
触れていいのかわからない闇が、目の前に広がっている様な気がした。


第九章 ぬくもり

「パパーごはん、まおちゃんちでたべてもいいー?」

突然、騒がしく部屋の中に飛び込んで来たのは、颯太の一人息子の光樹であった。
どうやら向かいの高城真緒ちゃんの奥さんが、心配しないようにと聞きに来させたらしかった。

「あ、ああ、もうそんな時間か。……あ〜あ、ちょっと待っててごらん」

びっくりするくらい真っ黒になって帰って来た光樹に、颯太は慣れた手つきでウェットテッシュを取り、
そっとかがむと、砂や泥で汚れた光樹の頬を拭き始めた。
カラフルな水性ペンのラインが耳たぶの辺りについていて、こすってもなかなか落ちない。
まるで母親のような姿に和也は、改めて本当に一人で育てているのだなぁと、ぼんやりと思っていた。

「あれ?パパーあのひと、ねてたひとだよねー」

和也に気がついた光樹は、優しく耳たぶを拭かれながらそう言うと、不思議そうに父親を見た。

「なんでまだいるのー?」

(こ……子供って痛烈だなぁ……)
心の中で苦笑いしながら、和也はにっこりと微笑みを返し、小さく手を振った。
颯太も和也の顔をちらっと見ながら『ごめん』という表情をした。

「そんな事言わないよ光樹。あのお兄ちゃんはパパを助けてくれたんだろう?」
「そうだけどぉーでもさー」
「真緒ちゃんの家に行って、おうちでご飯食べてくるって言っておいで。今日はお兄ちゃんも一緒だよ」
「ほんと?」

父親の言葉に大きな瞳が輝いた。

「ぼく、すぐかえってくるからねっ!ぜったいかえらないでねっ!」

そう言うと、光樹はすごい勢いで玄関を飛び出して行った。
体全体で喜ぶその姿に、和也は思わず呟いた。「かわいい〜なぁ」

「妻が亡くなってから、ずっと二人っきりだったからね。光樹はああ見えて気を使うやつだから」

そう言いながら、颯太は冷蔵庫の扉を開けた。

「ああ……どうしよう。何にもないや。これじゃあ買い物にでも行かないとなぁ」

それは全く寂しい限りの庫内だった。
牛乳も、卵もない。冷凍室に少しの豚肉と、野菜室にあった玉ねぎと人参が少し残っているだけだった。
子供がいる家庭の冷蔵庫としては、あまりにひどすぎる食料の少なさである。

「本当に何にもないんですか?」
「わぁっ」

冷蔵庫の前でがっくりと肩を落としていた颯太の横に、いつの間にか和也がひょいと顔を出した。
驚いて颯太が少し身を引くと、和也は更に覗き込み、冷蔵庫のチェックを始めた。

「なんだ……あるじゃないですか」
「え?」

冷蔵庫内に残っていた全ての食料をかき集めると、和也はにっこりと言った。

「俺、めし作ります。料理得意ですから、待ってて下さい」


 

「あれー?なんかいいにおいするー」

少しして帰って来た光樹は、久しぶりに香るいい匂いに眼を輝かせた。

「おかえり!光輝君。もうすぐ出来上がるから、椅子に座って待ってて」

そこには器用にフライパンをふるう和也の姿があった。

「本当に手際がいいなぁ。何かやっていたの?」

その姿に感心した颯太はずっと和也に目が釘づけになった。
実は颯太は、掃除や洗濯なら、妻の手伝いをしたの経験があったのでできるのだが、調理だけは全くの苦手だった。
刃物が怖くて包丁もろくに使えなかった。
だからリズムよく野菜を刻み、男らしくフライパンをふるう姿は、颯太にとって素晴らしい妙技を見ているのと同じ感覚であった。思わず尊敬の溜息が漏れた。

「バイト先で……居酒屋メニューなら作れますよ」

そう言いながら、和也は流れるような動作で、用意した皿に炒めたチャーハンをきれいに盛りつけた。

「はいできた!俺特製チャーハン。どうぞ食べてみて下さい」

目の前に並んだおいしそうな食事に、最初に声を上げたのは光樹だった。

「うわぁ〜たべるたべる!」

そしてスプーンをつかむと、夢中になって口に運んだ。

「おいしい〜!」

「本当に?うれしいなぁそんなに喜んでもらえて」

興奮気味に足をばたつかせ、たくさんこぼしながらも、光樹は頬を上気させながらがつがつとチャーハンを頬張った。

「本当においしいよ。……ありがとう和也」

颯太は久しぶりの手作り料理に、思わず涙がにじんだ。

「何泣いてるんですか」

颯太の涙に少し驚いたが、和也は笑って言った。

「たくさん食べたら買い物に行きましょう。これからは料理は俺に任せて下さい」

そう言うと、光樹が突然飛び上がるようにして椅子から立ち上がった。

「じゃぁずっといるの?!」
「ああ、パパからOK貰ったからね」

ちらっと颯太の顔を見ると、颯太は仕方なさそうにうなずいた。

「ほんとうに?ぜったい?」
「本当だよ。知らないおじさんだけどいいかな」
「いいよ!ずっといて!かえらないでね!やくそくだよ!」

光樹は椅子から飛び降りると、和也のもとに走りより、服の裾にしがみついた。

「ぼくおにいちゃんだいすきだからね!」
「俺も光輝君が大好きだよ」

真っ直ぐに見つめるその瞳を優しく見つめ返しながら、和也は光樹の柔らかな髪を撫でた。

「じゃぁ……颯太さん。俺のわがままだけど……よろしくお願いします」

そう言って頭を下げた和也のもとに、颯太はゆっくりと歩み寄って握手を求めた。

「いや……君がいた方が僕らは救われるような気がするよ。こちらこそよろしく」

握り合ったその手は暖かくて、お互いに、改めてこれからスタートする三人暮らしを実感させるものだった。


第十章 禁句


「……奥様、またあの男がきていますけど???いかがなさいますか」

暮れかかる闇の中、大きな屋敷の玄関の明かりがぼんやりと点いた。
エプロンをした家政婦らしき女性が、玄関の向こうにいる男に聞こえないよう、小さな声で囁いた。
玄関先まで一緒に降りて来ていた女は、その言葉に恐怖を感じるように眉をひそめると、リヴィングにあった黒い皮のバックを持ち出し、中から茶封筒を取り出した。

「これを……渡してやって」

「……また、渡してしまうのですか」

差し出された茶封筒を受け取りながら、家政婦は苦言を呈した。

「旦那様に内密にするにも限界があります。警察に相談してみてはいかがですか」

「……いいの。お願いよ笹原さん」

その言葉を押し返すように女はそれだけ言うと、二階の部屋へ駆け込んでしまった。
笹原は二階へと続く階段を見つめながら、仕方なさそうに玄関に向き合うと、そっと扉を開けた。

「……これをもって行けと」

玄関に立つ男は熊のような大男だった。
乱れた髪に無精髭が、男の姿を一層怪しくさせた。
恐怖を感じながら笹原がそっと玄関の隙間から封筒を差し入れると、大きな毛むくじゃらの手がぐいっと荒々しく奪い取った。

「こっちは子供育ててやってるんだからな。足りなくなればいつでも会いに来るぜ」

低く、太い声が笑うように言った。

「慰謝料は十分なほどお支払いしたはずです。そう何度もこられては奥様が参ってしまいます。どうか今回限りに……」

「ばかいってんじゃねぇよ。なーにが奥様だ。ふざけんじゃねぇ」

そい言うと、男は突然大声で怒鳴り始めた。

「浮気したあげく大社長様と再婚かよ。自分だけ逃げ切ろうなんざ虫が良すぎるんだよ!」
「ああっもう少し静かに……っ」
「ヘッまた来るからなぁ。ちゃんと用意しとけよ」

男は嘲笑うように捨て台詞をはくと、がしゃんっと門扉を蹴り飛ばしながら屋敷を後にした。

 男が、手にした茶封筒を汚れたジャンパーのポケットにねじり込むと、見計らったように物陰に隠れていた女が飛び出して来た。冬だと言うのに短いスカートをひらひらさせながら、その女は馴れ馴れしく男の腕に手を絡めた。

「すごいじゃんっウソかと思ったら本当だったんだね」
「何がウソだ。俺はウソなんかついた事は一度もねえぞ」

男は得意げにそう言うと、女の肩を抱き寄せた。

「はっはー。これでまた遊びながら暮らせるぞ。よーしメグミ、このまま同伴してやるぞ。店行こう店」
「やーだー。だから宮本さん大好きー」

化粧の濃い、二十代後半と思われる女は、男が良く行く店のキャバクラ嬢だった。
男は四年前辺りから頻繁に顔を出すようになり、羽振りも良かったため今ではすっかり上客になっていた。

「ねぇ〜宮本さんさぁ、なんか思い出したんだけど」

タクシーを待ちながら、メグミは不意に思い出した事があった。

「はぁ?何を急に」

男は何を急に思い出したのかと、興味ありげに耳を傾けた。
男とは彼女が入店して間もない頃からの常連客で、付き合いも長い。
酒が入ると、男は豪快な飲みっぷりで何でもべらべらと話すため、プライベートな事も知っていた。
近くを通り過ぎて行った若い集団を眺めているうちに、メグミはずいぶん昔の事を思い出した。

「昔さぁ、宮本さんの家に行った時、超イケメンのお兄ちゃんいなかった?」

「ああ……いたねぇ」

メグミの言葉に、男は懐かしむように呟いた。

「もう何年も経つけど、もう大人になったよね。どんなイケメンに育ったのかしら。今度お店に連れて来てよ」

うきうきとはしゃぐように話すメグミとは対照的に、男の瞳は氷のように冷め、空を見上げたまま呟いた。

「あの女の残して行ったお荷物かと思うと腹が立ってなぁ……。顔があの女そっくりなもんだから襲ってやったんだ」

「???えっ?……襲うって」

「男だけど不思議と起つもんだぜ。……しばらく可愛がってやってたのに逃げ出しやがって」

思い出して、悔しそうに唇を噛んだ男の横顔に、メグミはぞくりと悪寒を感じた。
男の、浮気した妻に対しての憎悪はとても深いものであった。店でも酒が入ると思い出すたびに、同じ言葉を繰り返した。
しかし息子の事を口にした事はなかったため、油断していたのだ。

「???あ、た、タクシー来たよ」

メグミはもう二度と聞くまいと、心に留めた。


第十一章 温度
   
「ねぇーカズ兄ちゃん。これ痛いの?」

一緒に湯船につかっていた和也の背中を、光樹が眉をひそめながらそっとなぞった。
赤茶色に変色したミミズ腫れの跡だった。

「もう痛くないよ。……さ、温まったら出よう。パパがタオル持って待ってるよ」

 
先に風呂から出てタオルを持って待っていた颯太のもとに、温まって真っ赤になった光樹が嬉しそうに飛び込んで来る。

「パパーあのね、こうき、一人で10までかぞえたんだよ」 
「本当に?すごいなー」

光樹の髪の毛を拭きながら、颯太はちらりと浴室に目を向けた。
湯船に浸かったまま、和也が出て来る気配はなかった。

 家出同然で転がり込んで来た和也と一緒に暮らし始めてから、もう三ヶ月が経とうとしていた。
三ヶ月の同居生活の中で、颯太は和也に対する違和感を感じ始めていた。
違和感-----------それは妙に肌を隠す事だった。
肌を隠す、と言っても徹底したものではなかったが、目の前で脱ぐような事はなく、
脱衣所など別室で着替えを済ます事が多かった。

「ちょっと光樹を寝かせて来るよ」
「……はい」

その事には同居を初めてすぐに気がついたが、彼の両親が家出に大きく影響していると感じていた颯太は、
目の前で着替えない事を問うことは避けて来たのだ。
だから最近は気を利かせて、自ら別室へ移動するようにしていた。

 
光樹を布団に入れて童話を聞かせながら、そっと背中をリズムよく叩いていると、やがて安らかな寝息が聞こえて来た。
まだ浅い眠りが深くなるように、ポンポンと背中を叩き続けながら、颯太は隣の部屋の和也の気配を感じていた。
服を着替え終わって、蛇口をひねってコップに水を注いでいる所だろうか。水音の後に飲み干す喉の音が聞こえる。
そしてリモコンを持つ音と同時にテレビの音が聞こえて来た。
颯太は光樹の背中からそっと手を離し、ごろりとそのまま横になった。
暗い天井を見上げながら、颯太は手のひらで顔を覆い、ため息をついた。

(まだ……だめだよ)

本当だったら今日は和也と祝いたい事があった。
塾講師の仕事が決まったのと、待機していた保育園に欠員が出たとの知らせがあったからだ。
今日までの三ヶ月間、食事を作り、居酒屋でバイトまで初めてくれた和也に、自分達はどれだけ助かった事だろう。
だが妻への思いが颯太の心を二分していた。

たった数ヶ月前まで妻がいた空間に転がり込んで来た男を泊め、妻の布団を貸し、彼は妻の座席に座り食事をした。
決して和也に恨み言を言っている訳ではない。
和也には精神的にも、肉体的にも救われたのだ。感謝以外にはなかった。
ただ妻への負い目が、颯太を苦しめていた。だから、今は幸せを感じては行けない、祝うなどするべきじゃない。
自分は喪に服すべきなのだと、懸命に言い聞かせた。

(ごめん……紗月)

不意に涙がこぼれた。
まるで泣いて謝っているようだと、颯太は自分の流した涙に触れながら思った。

「……どうしたんですか」

突然差し込んで来た明かりに、はっとして身体を起こすと、そこにパジャマ姿の和也が立っていた。

「あっ……今、寝たんだ。今行くよ」

「???ちょっと待って」

そう言うと、急に和也は颯太の前にしゃがみ込み、立ち上がろうとした颯太の腕を引っ張り下ろした。
その強い力に思わず立て膝をついて座り込むと、颯太は目の前に現れた和也の真顔に、一瞬鼓動が止まるような感じがした。
鼻と鼻がもう少しでくっつきそうな距離。
あまりの近さに、思わず離れようとしたが、和也の腕が腕をつかんだまま放そうとしなかった。

「……和也?」

「頼むから……一人で泣かないで下さい」

その言葉と同時に大きな腕が颯太の身体を包んだ。
苦しそうな声だった。
颯太の首元にうずめられた和也の唇が、きつく噛み締めているのを感じた。

「???辛いから」

きつく抱きしめられた腕の中で、颯太はそっと目を閉じた。

「……ごめん」

自分だけが辛いと思っていた事に、心から出た言葉だった。
そしてそれに答えるように、和也の唇が颯太の唇の上にそっと重なり合った。
驚きや恐怖など不思議なほど感じなかった。
罪滅ぼしや投げやりな気持ちは少しもなかった。
???おそらく『求めていた』。
大きなぬくもりが、抱えるように颯太の背中を支え、求め合うように舌を絡ませた。
そしてゆっくりと背に畳の感触を感じ、唇を離した。

「颯太さん……」

信じられない、というような目で見つめる和也に、颯太虚ろな瞳で呟いた。

「さみしいよ……助けて」

 
唇が降って来る。
颯太の身体を優しく包みながら、その腕はそっとその衣を奪っていく。
唇から首筋へ、胸元へ???。
懐かしい刺激に骨張った身体はその度にのけぞった。
丹念な口づけは、執拗に胸元にある小さな突起を舌先で転がした。
跳ね上がる身体を捕まえるために、和也の太い腕がその両腕を颯太の頭の上でつかんだ。

「ああっ???あっ……だ、だめっだ……声が」

股間の高ぶりを口の粘膜に包まれ、腰をよじりながら、必死に耐えていたが、限界だった。
コントロールが利かない快感の危うさに、懇願した。

「た……っ頼むから……場所を」

隣で眠る息子の姿に、まるで罪を侵しているような感覚を憶え、それは何度も腰からぞくぞくと這い上がって来る。

「無理です……っ……もう止まらない」

そう囁いた和也の熱い息づかいは、敏感になった先端を舌先で何度もこすり、吸い上げた。

「あああっやぁ……っだめ……っ」

もうコントロールは利かなかった。
気づけば両腕を拘束していたはずの和也の腕はもうなく、颯太の両手は股間に埋まる和也の頭へ、そして和也の両手は颯太の細腰をつかんでいた。
そしてその舌先はゆっくりと、その奥の小さな蕾へ降りていった。

「く……っああっ……」

初めての感覚に腰が引ける。
だがその舌先は求めるままに奥深く侵入してきた。
自分が自分でなくなる恐怖が襲って来る感じがして、颯太は身をよじった。

「???やっやだ……っこわい……っ」

畳に爪を立てながら、目を開ける事が出来なかった。
すると、和也がそっと背中に腕をまわし、颯太の身体を抱き起こした。

「???大丈夫……しっかり掴まってて……」

言われるままに和也のたくましい肩に腕をまわし、しがみつくと、再び和也の指が動き始めた。
背中をそっと撫でるように降りてゆくと、その指は重力に流されるまま双丘の奥へ滑り込んだ。
そしてその奥で怯えるように閉じた蕾を優しく撫でた。

「う……っんんっ」
「怖くない……大丈夫だから???力を抜いて」

その声が、腹の底に響いてぞくりと上がって来る。
和也の指は、舌先で愛撫された後の濡れた蕾に優しく押し入って来た。
撫でるように、回すようにしながらその長く、太い指先はどんどん奥へ進んで行った。

「ああっ……」

「ここ……気持ちいい?」

蕾の奥に埋まってゆく指先は探るように蠢く。ぞわぞわとした妙な感覚が下半身を開かせてゆく。
やがて、自分の耳にも届くような湿った音が響きだした。

「はっ???あっああっ……な、ん、か……恥ずかしい……」

「.???颯太さん……」

和也の呼吸も荒くなっていた。
答えるように颯太はしがみついていた腕をほどき、和也の唇に口づけた。

「???挿れますよ」

「???っあああっ」

その声と同時に、引き寄せられた颯太の腰が、熱くたぎった和也を感じた。
柔らかく濡れそぼった蕾が、大きな圧力をゆっくりと受け入れてゆく。

「ああっあっ???和也……っ」

自分の奥に向かって、和也の塊が激しく打ち付けられる。
呼吸が早く、鼓動が激しく脈を打つ。
まるで身体が何かに変化するような不安に、颯太は微かに目を開いた。
揺れる視界の中で、髪を乱した和也がいた。
その時、今まで感じた事のない快感が、ぞくぞくっとこみ上げて来た。
うわずった声が溢れる。

「ああっああ……っいく……っい……っ」
「???俺……っも……っ」


きつく抱き合ったまま、二人はしばらく動けなかった。
荒い呼吸を整えながら、颯太は自分の中に放たれた液体を身体の奥で感じていた。
どろりと流れ、やがて和也の太ももに落ちた。

「……颯太さん」

「……え」


気怠い高揚感の中で、和也の声にはっとして我に返った。
身体を起こして和也を見ると、汗で濡れた前髪が妙にセクシーに見えた。
そして潤んだような瞳で囁いた。

「……奥さんには悪いけど……大事にしていいですか」

まるでプロポーズの様な言葉に、颯太は思わずそっぽを向いて黙り込んだ。

(何言ってんだ……何言ってんだ?!)

熱に浮かされるように求めてしまった自分が急に恥ずかしくなった。

「風呂……一緒に入りませんか」

黙り込んだ颯太の後ろで和也が言った。
そう言えば自分の中に和也が入ったままなのを思い出し、和也は恥ずかしそうに頷いた。
和也の手に支えられながらゆっくりと腰を上げると、それはずるりと抜け出た。
まだ濡れて艶めいたそれは、夢幻ではない淫美な記憶を蘇らせた。
抱きしめられたまま、颯太は恐る恐る隣に寝ている光樹に目をやった。

「……大丈夫です。起きてないです」

颯太の視線に気づいたのか、和也が耳元で囁いた。

「身体を洗いましょう」

手を引き、バスルームへ誘う和也に颯太はそっと、心に引っかかっていた事を聞いてみた。

「……一緒に入ってもいいのか」

一瞬、どうして?と不思議そうな顔をした和也だったが、颯太が服の端を引っ張ったのを見て、
ようやく何の事かわかったようだった。

「いいですよ。???もう隠し事はナシですよね」

悲しげな笑みを浮かべて和也はそう言うと、颯太の手を引き、バスルームへ向かった。
部屋を出ると、廊下の空気がひんやりと頬を撫でた。
歩くたびに身体の奥と、ももの間がぬるぬると気持ち悪かったが、和也の話を聞く心構えは出来ていた。
僕と路が別れた後、幼かった彼の身にどんなにひどい過去があったとしても、
彼は必死になって僕の元に逃げて来たのだ。

部屋の明かりをつけ、僕が先にシャワーを使う事にした。
しばらくすると、バスルームの扉がノックされ、和也が扉を開けた。


第十二章  湯気のむこう


 白い湯気の中に佇むその身体は、とても美しかった。
貧弱な自分の身体が恥ずかしくなるくらい、颯太は思わずにはいられなかった。

浅黒い肌は、くっきりと筋肉の起伏を映しだし、まるで彫刻のようだ。
和也は少し緊張した様子で颯太の前に立ち、そっと抱き寄せた。
そして耳元でそっと囁いた。

「……びっくりしないで下さいね」

そう言うと和也はゆっくりと向き直し、颯太に背中を見せた。
そしてそれを見た颯太は思わず、息をのんだ。

それは赤黒く変色した、幾すじもの傷跡だった。

「なに???これ……」

『何があったんだ』
と、その言葉を言うのを颯太は一瞬ためらった。
十年という長い年月の間にあった変化を、聞いた所で自分はどれだけ受け止めてやれる事が出来るだろう。
颯太は言葉を失ったまま、その傷の残る背中にそっと触れた。

「……結構ひどいでしょ」

背を向けたまま、和也はそっと呟いた。

「……本当に先生と離れる前が一番幸せだったなぁ.……」

湯気の充満した白く曇った天井を見上げながら、和也は懐かしむように言った。

「???本当に……色々あって」

自虐的な笑みを浮かべてそう言ったとき、和也は視線の先に颯太の俯いた表情に気がついた。

「???だっ大丈夫っ、今は本当になんでもないんだ。大丈夫だから……」

慌てて和也は、そう言って颯太の両手を握りしめ見つめたが、その瞳は激しい動揺に揺らいでいた。

初めて見る虐待の跡だった。心がその傷を受けたときのように痛んだ。
自分が教師を辞めた後、いったい彼に何があったのか。
取れるはずもない責任が重く???胸を締め付けた。
声を失った唇が歪む。何を言ったらいいのだろう。何を言ったら彼を救えるのだろう。

「颯太さん」

和也の声に一瞬肩が跳ねる。
怯えたようなその姿に和也はそっと颯太の身体を抱き寄せた。

「……俺は恨み言を言いに来たんじゃない???貴方に会いたかったから……」

そう言いながら和也は颯太の髪をそっと撫でた。
胸の中で強張っていた颯太の身体が、ゆっくりと柔らかさを戻して行く。

颯太の骨張った身体を抱きながら、和也は自分自身に怒りを感じていた。
言葉にして初めて気づいた。
彼に救って欲しいなんて、なんておこがましいことを思っていたのだと。
彼を守らなければいけない。自分の背負っている闇に彼が飲み込まれないように。

「……颯太さんのせいじゃない」

きつく抱き寄せられた和也の胸元で、颯太は和也の心臓の音を聞きながら目を閉じていた。
抱きしめてくれる腕など今までなかった。
崩れ落ちそうになるほどの安堵感が込み上げて来る。
囁く和也の声が、必死に自分を安心させようとしているのがわかった。

「???僕は……大丈夫だよ」

唇を先に重ねたのは颯太だった。
少し背伸びをして首に腕を回した。
積極的になりきれない颯太の舌先を、和也の舌が絡めとる。
腰に回した腕に、脱力してゆく颯太の身体を感じながら、和也はゆっくりと唇を離した。

「???もう上がりましょう。キッチンで少し飲みませんか」

和也はそう言うとシャワーを止め、少し開けたドアの隙間からバスタオルを取ると、颯太の頭にかぶせた。
受け取ったタオルで身体を包みながら、颯太はこれから聞く話に少しの救いが含まれている事を願わずにはいられなかった。


第十三章  告白


時計を見ると、程なく12時になる所だった。

「えっと……何か飲みます?」

首にかけたタオルで濡れた髪を拭きながら、和也は冷蔵庫を開けた。

「和也と同じでいいよ」
「……じゃあ……ビール貰いますね」

和也は冷蔵庫から発泡酒を二つ取り出すと、椅子に座っていた颯太の前に置いた。
テーブルの表面にカツンッという無機質な音が響く。
和也は颯太の向かい側の椅子に座りながら、照れたように口を押さえた。

「何だか改めて話すのって……緊張するな」

緊張感をごまかすように缶のプルトップを開けると、和也はちびりとビールを一口飲み込んだ。
それにつられるように、颯太も一口飲んだ。
普段の飲む習慣のない颯太にとって、久々のアルコールは少し苦く、しみ込むような感覚を憶えた。

「???ごめん」
「……いいよ」
和也は気まずそうにそう言うと、口元に手を置いたまま、考え込むようにして動かなくなってしまった。
そんな和也を颯太はじっと見つめ、言葉を待った。

そして懐かしい日々を思い出した。

短い短い教育実習の期間。
たったその期間だけの教師だった。
颯太にとっては大学を卒業するためだけのステップだった。
まさかそんな僕を慕ってくれ、会いに来てくれる何て思っても見なかった。

教室での幼かった和也の面影が甦る。
みんなの前での発表がものすごく苦手で、いつもこうやって思い出しながら、少しずつ話しだすのだ。
人懐っこい面があって、しょっちゅう職員室に会いに来たっけ。
 颯太は昔のように、緊張して固くなっている和也の横顔を懐かしげに見つめていた。
丁寧に、言葉を選ぼうとしているから緊張するのだ。でも颯太は和也のその誠実な気質が好きだった。

「???何から話せばいいのか……」

すまなそうに目を合わせた和也に、颯太は優しく言った。

「……じゃあ僕が学校を辞めてから何があったのか……教えて欲しい」

和也は目を閉じて小さく息を吐いた。
 
「???高校二年の時、母親の浮気が原因で両親が離婚したんです」
「離婚……」
「それが、その浮気相手が大会社の社長で。……母さんは社長と再婚。俺は親父と二人暮らし」

感情を排除したような淡々とした語り口で和也は続けた。

「当分働かなくてもいいような慰謝料をせしめたもんだから……親父は酒ばっか呑んですっかり働かなくなって」

顔を手のひらで覆いながら、和也は投げつけるように言葉を吐いていた。
しかしそこまで話すと、顔を覆っていた両手で耳を塞いで止まった。

「背中の傷は……お父さんにやられたのかい?」

その言葉に和也は一瞬、ぎゅっと瞳を閉じた。
唇が乾くのか、何度も舌で唇を拭った。その変化は明らかに精神的な緊張を思わせた。

「俺、母さん似で。???そんな俺が親父は憎いらしくって……」

颯太の中でパズルが少しずつ組合わさってゆく。
浮気した母親に良く似た、息子への???腹いせ?
息苦しさを感じるような告白の中で、和也の様子はどんどんと変化して行った。
耳を塞いでいた両手は口の前できつく組み合わされ、指先が白くなるほど力が入っている。

「毎晩、……毎晩俺の部屋に入って来て……俺を抱きに来るんだ」

そこまで言うと、和也は青ざめた顔で口を押さえ、颯太を見た。

「???だめだっ……気持ち悪い。???ちょっとトイレ行って来る」

極度の緊張からなのか、おぞましい記憶がそうさせるのか。
和也はそう言って立ち上がると、ふらふらと部屋を出て行った。

静まり返った部屋の中で、颯太は言葉を失っていた。
握りしめた拳の震えが止まらない。
彼の両親が離婚して父親との二人暮らしが始まってから.....妻の葬儀のあの日まで。
彼はずっと逃れられない境遇の中で耐えていたのだ。
あの怯え様はただ事ではなかった。おそらく拘束されていたか……すぐに逃げる事は叶わなかったのだろう。
颯太の記憶の中では、あまりにも短い教師時代だったために両親の顔までは思い出せなかった。
しかし妻を失った男の悲しみは少しわかる気がした。
境遇さえ違えど、残された者の心の痛みは似たような所があったのではないだろうか。
しかし虐待という父親の異常な手段は理解が出来るものではない。
だからといって一体どうしたらいいのだろう。
一体どうしたら彼を救う事が出来るのだろう???。

「……ごめん」

トイレから戻って来た和也は、まだ青白い頬をしていた。
すまなそうに椅子に座ると、はぁーっと息を吐いて天井を見上げた。

「情けないだろ???トラウマになってんだ」

「和也……もういいよ」
「何度も……夢を見るんだ。母さんの名前を呼びながら親父は俺を……」

また震えだした和也の手のひらを、颯太は思わず椅子から立ち上がって握りしめた。

「もう……もういいよ。ここにいればいいじゃないか」

彼を救う術を思いつかないまま、颯太は思いつく限りの優しさを込めたつもりだった。
しかし見つめる和也の瞳は恐怖に揺れたままだった。

「怖い。???怖いんだ。あいつが生きているうちは……また来るような気がしてならないんだ」

颯太は静かに和也の肩を抱いた。
掛ける言葉が見つからないまま、ただ、きつく抱きしめた。

どうしたらいいのだろう。???その答えは思いつきそうになかった。



第十四章 秘密


 「………………お前と暮らすのも飽きたなぁ」

 男はカップラーメンを啜りながら、まるで独り言のように呟いた。
メグミは驚いたように隣に座る男の顔を見たが、男は彼女と目を合わす事もなくラーメンを啜り続けた。
(…なんで?)
口から出そうになったその言葉をメグミは黙って飲み込んだ。
「…何だ?」
黙り込んだままのメグミに男は不思議そうに声をかけた。
「ううん…何でもない…」
?この男はいつもそうだ。
今までも思わせ振りな言葉で振り回されて来た。
男は黙ったままカラになった容器の上に箸を置くと、テーブルの上のタバコに手を伸ばして火をつけた。
そして深く吸い込みブハァ〜とタバコの煙りを吐き出すと、また独り言のように呟いた。
「…そろそろ和也の野郎捜しに行くかなぁ〜」
「…えっ…息子さん?」
メグミは男の意外な言葉に思わず声が大きくなった。
「だって…この間食い扶持が減って助かるって言ってたじゃない。今さら捜さなくたって…」
「…俺もそう思ってたんだけどさぁ〜何だか刺激がたリねぇんだよなぁ〜」
「…刺激?」
「だってよぉ、お前俺に逆らわねぇだろ。従順な子猫ちゃんだ。それがつまらねぇんだよ」
「私…つまらない?」
メグミは少し悲し気な顔をして男の肩に頭をすり寄せた。
男は黙ってメグミの頭をそっと撫でた。
「…そうじゃねぇよ。俺の…性癖?なのかなぁ。和也が泣いて嫌がる顔がたまらなく俺を興奮させるんだよ。…本当、たまらねぇぜ。お前にも今度見せてやるから」
「ん〜…でももう半年も音信不通なのに見つかるの?」
「な〜に言ってんだ。俺はあいつの親なんだぜ。警察行ってひと泣きでもすりゃ捜してくれるだろ」
「でももういい大人なんだからきっと必死に捜してくれないわよ」
「ああ…まぁ家出少年…じゃあねぇな。居所だけわかれば拉致って来られるんだがな」
「…なら探偵でも雇ったら?敬三ちゃんお金持ちじゃない」
「…探偵ねぇ〜そっちの方が面倒臭く無さそうだな」
「えっと…和也君?一度見た事があるけど超イヶメンだったよね。会えるの楽しみだなぁ」
「はははっどうかねぇ。まぁ会わせてやるさ。そのかわり…」
男はそう言うと、ぐいっとメグミの肩を抱き寄せた。
「これは絶対俺とお前の秘密だからな。本当の俺を知っているのはお前だけだ。何見ても受け入れるんだぞ。いいな」

 タバコが白く煙る薄暗い部屋の中で、男の目が真直ぐにメグミを見つめていた。
そしてメグミはその視線をうっとりと見つめ返した。
 店に勤めていた時、田舎から出て来たばかりでなかなか店の雰囲気に馴染めなかったメグミを、「慣れてない所がいい」と毎回指名してくれたのがこの宮本敬三だった。
大きな体でヒゲ面で、着てる服はいつも薄汚れたドカジャンだった。
敬三が始めて来た時、店のみんなは敬遠して新人だったメグミを接待に付かせた。
言葉少なで、ちびちびと呑む敬三の相手は間が持たなくて苦手だったが、メグミは時折見せる寂し気な瞳が好きだった。そしてたまに囁くのだ。

 お前だけに教えてやろうか。
秘密だぜ。 

(私だけに打ち明けてくれている)
痺れるような感覚。それは今も変わらずにメグミを捕らえていた。
「もちろんよ。私には貴方しかいないんだから?」
男はにやりと微笑むと、そっとキスをした。
そしてメグミはうっとりと瞳を閉じた。


第十五章 影


 「じゃあ…夕方には帰るから。ほら光輝、行くよ」

最近明るくなった隣人の声に、高城久美子は玄関のドア越しに耳を澄ませた。
「いよいよ初出勤ですね。…光輝も保育園がんばるんだぞ」
「うん!」
「ゴミは俺が出しておきますから」
「ありがとう助かるよ。じゃあ…行って来ます」
「いってらっしゃい」
ドアの閉じる音と階段をおりる二人の靴音を聞きながら、久美子は手に持ったゴミ袋を握りしめた。(もう少ししたらゴミを出しに行こう)
 
 (すっごいいい天気だなー)
部屋のゴミをまとめた和也は、ゴミ袋を持って外へ出た。
昨日まで雪雲のたれ込めていた灰色の空が、嘘のように青く晴れ渡っていた。
風が吹いていないせいか、春めいた日射しが心地いい。
(今日は洗濯に掃除に布団干し日よりだな)
「ん〜っ」
「こんにちわ」
「わっ」
集積所の前で背伸びをしていた和也は、背後から急にかけられた声に思わず飛び退いた。
そこには、いつしか颯太のもとに連れて来てくれた主婦の姿があった。
 「…あ、こんにちわ」
(え…っと確か向かいの真緒ちゃんのママだったよな)
 実は颯太の家に転がり込んでからずっと、和也は居酒屋でのバイト以外、外に出る事なく家の中に引き蘢ったまま過ごしてきていた。
それは颯太が和也の事をうまく説明できなかったので、仕方なく引き蘢っていたのだが、自分にも説明が難しい事は分かっていたのでそれは納得済みだった。
しかし光輝の保育園入園に颯太の塾講師の仕事が決まった事で、引き蘢っている訳にも行かなくなった。つまり日中外に出たのは半年振りだったのだ。
「久し振りじゃない。えっと…名前聞いてたかしら?」
「え…と、宮本和也です。あの…いつかは本当にお世話になりました」
和也がぎこちなく会釈をすると、久美子は嬉し気に目を細めた。
「あれからずっと見なくなっちゃったから心配していたのよ」
「あ…すいません」
「いいのよ。藤森さんもだーいぶ元気になったし。…でもこうちゃんも遊び相手が出来たみたいであんまりうちに来なくなっちゃって少し寂しいかな」
久美子はゴミ袋を置くと、和也のそばに近寄ってそっと囁いた。
「一緒に暮らしてるのね。…理由は深くは聞かないから安心して。この団地の中で結構私がうわさ話の発信源になってるんだけど、黙っててあげるから…」
この主婦が少し強引なのは出会った時から印象にあったが、きっと狭い団地の中では少し強引なくらいが過ごし易いのだろう。夕方に颯太と光輝が帰って来るまで、平穏に日中を過ごさなければきっと颯太に迷惑がかかってしまう。
(…仲良くしておいた方が良さそうだな…)
「あ…ありがとうございます」
にっこり微笑むと、久美子は頬を赤く染めてうつむいた。
「お先に行くわね」
そう言うと、久美子は階段の方に足早に歩いた。が、数歩歩いた所で不意に立ち止まって言った。
「あ、そうそう。昨日見た事もない車がうちの棟の前に停まってたわよ」
「…車?」
「ええ。あなたが来た時みたいにずっと停まっていたから、警察呼ぶわよって言ったらすぐに移動して行ったけど」
「僕が言うのもなんですけど…気味が悪いですね」
苦笑いしながら和也がそう言うと、久美子は少し神妙な顔をして和也のもとに戻って言った。
「それが変なのよ。藤森颯太さんのお宅はこの棟ですか、って聞くの」
「え…それでなんて答えたんですか」
「とにかく怪しかったから、個人情報なのでお答えできませんって言ったわよ」
和也はそれを聞いてほっと胸をなで下ろした。
考えてみてもやはり怪しい。でも颯太の事を聞くなら颯太の遠い親戚か何かなのだろうか。
「でも何だか悔しくって。突き放した言い方してやったのに、にやにや笑いながら『もういいです。わかりましたから』って言うのよ」
「…わかったって?」
「一応警察にパトロールお願いしたけど、本当に気をつけてね」
「…はい」
 嫌な予感がした。
真っ青な空の下、身体の奥に突如発生した闇に呼吸が止まりそうになる。
颯太と光輝には迷惑はかけたくない。
(布団…干さなくちゃ…)
でも今は颯太と光輝を暖かく迎える準備をしよう。
二人が幸せに暮らせるように。


第十六章 探偵


(やっとこの日が来た。)
宮本敬三は懐メロのかかる喫茶店で、タバコをふかしながらある男を待っていた。
三週間前に雇った探偵との待ち合わせだった。
(何処にいるんだ和也…。今度捕まえたらもうニ度と逃がさねぇぞ…)
高まる期待感は下半身を疼かせた。


 三週間前???

「…初めまして。マツダといいます。御依頼有り難うございます」

 待ち合わせた喫茶店に来た探偵は、黒いコートを着た、まだ二十代にも見えそうな若い細面の男だった。
ぼそぼそっと名を名乗ると、じっと敬三とメグミの顔を見た。
不健康そうな青白い顔をしているくせに、その目は大きく、眼光がやけに鋭い。
(…なんかやりにくそうな奴だな)
敬三は眉をひそめてメグミを見たが、黙ったままうなずくメグミに促されて、仕方なく話を切り出した。
「いやぁ…実は…息子が家を飛び出してしちまって…」
「家出捜索ですか?…警察に連絡は?」
「それは…まぁちょっと事情があって」
ごまかすように笑ったその様子に、マツダは、ああ、と納得したようにうなずくと、何事もなかったように話を進めた。
「息子さんが家出されてからどれくらい経ちますか」
「いやぁ…お恥ずかしながら半年程放っといちまって…どうですかね捜せますか」
親が家出した息子を半年も放置していた事実が、普通なら怪しまれる切っ掛けになりそうなものだが、メグミが紹介したこの探偵が、諸事情を不問にして金銭で動く優秀な奴だと聞いていたので、敬三は隠さずに話した。
マツダは敬三の問いに答えないまま、質問を続けた。
「…家出先に心当たりはありますか?…例えば親しい友人とか」
「友人ねぇ…別れた元母親なら知ってるかも知れねぇが…俺にはさっぱり思い当たんねぇな」
「…そうですか。じゃぁ息子さんの携帯番号とかわかりますか」
「…いやぁ…」
「携帯の名義人はどちらになりますか」
「名義…ねぇ。勝手に作ってきたもんだから俺じゃねぇのは確かだな」
へらへらと笑いながら答える姿に呆れたのか、マツダは無言のまま小さくため息をつくとノートとペンを揃えて敬三の前に差し出した。
「…わかりました。ではこちらに息子さんの名前と年令、血液型、生年月日、それと思い出せるだけ身体的特徴を記入して下さい」
「おっそれならわかりそうだな」
ようやく答えらそうな質問が来た事で、やっと敬三はイキイキと身を乗り出してノートに書き始めた。
 しばらく視線の下で書かれてゆく情報を見つめていたマツダは、その中にひとつ気になる記述を見つけた。
「背中に…傷?…事故か何かですか」
「いや…事故じゃねぇよ。俺がつけたんだ」
敬三はにやりと笑いながら書き終えたノートを差し出すと、低い声で呟いた。
「こう…縛ってな」
そう言うと毛むくじゃらの太い指先が、何かひものような物で結ぶ仕種をしながらゆっくりと動いた。その瞳は完全に平常心を持った人の輝きではなかった。
しかしその仕種はやけにリアルで、まるでその背後にベットルームが見えるような感覚に陥りそうになるほどだった。
マツダは嫌な汗を感じたが、強く目をつぶり再びノートに視線を落とした。
(俺の依頼人には良くいるタイプじゃないか)
(…食肉人種の為に生け贄を捜しに行くような気分だな…)
うっとりと仕種を続ける敬三を無視する形でマツダはノートとペンを鞄にしまうと、すっと椅子から立ち上がった。
「…ではこの御依頼、確かに承りました。三週間後に結果をお知らせ致します。連絡は私の方から差し上げます。金額はその時に御請求させて頂きますのでこちらの口座に振り込んで下さい」
テーブルに置かれた紙に書かれていた金額は安くはなかったが、敬三は軽くうなずいてそれを了解した。「ではこれで失礼します。では三週間後に御連絡差し上げます」

 そして三週間後、男は始めてあった時と同じ黒いコートを着て、時間通りに現れた。
「すみません。お待たせしましたか」
先に店内にいた敬三を見つけると、マツダは慌てたように敬三の座る席に走り寄り、コートを脱いで鞄と一緒に椅子に置いた。
「いや、俺が少し早く着過ぎちまっただけだから」
「…そうですか。では早速…」
「所で探偵さんよ、和也の居所はわかったのかい」
敬三は急かすように思わずマツダの声を遮ってテーブルから身を乗り出した。
「ええ…期待される結果は出せたと思います。それより、外では探偵さんは止めて下さい。『マツダ』でお願いします」
「あ、ああそうかい。じゃぁマツダさんよ。早く結果を教えてくれよ」
マツダに制されて敬三は大人しく椅子に座ると、興奮を押さえるようにタバコに火をつけた。
「何せ元の情報が少なかったですからね。苦労しましたよ」
そう言うと、マツダは三枚の写真を伏せたままテーブルの上に置いた。
「名簿をもとに小中高と何人かに話を聞いた結果、一人、小学校と中学校で同じクラスだった
大沢修二という人が、気になることを言いまして」
「おお…どんな」
身を乗り出して来た敬三の目の前に、マツダは一枚の写真をつきつけた。
「…誰だ」
そこには息子が高校時代に身につけていたのと同じ制服を着た、一人の真面目そうな少年が写っていた。
「大沢修二さん…御存じですか?」
「知らねぇよ」
「…そうでしょうね」
マツダは最初から期待していなかったと言わんばかりに、大きなため息を付いて写真を伏せた。
「…和也君は小学校時代は活発で明るい少年だったそうです。それが中学にあがって二年生くらいになると、随分暗くなって印象ががらりと変わってしまったと言っていました。
恐らく夫婦仲が悪く、喧嘩が絶えなかった時期と重なると思われるのですが…いかがですか」
「う…む、まぁ和也が高ニの時に離婚したから…喧嘩ばっかしてたかもな」
「暗く思いつめるようになっていた和也君にとって、この大沢修二さんは良き相談相手だった様です。彼だけに悩みを打ち明ける事もあった様ですよ」
マツダは皮肉のつもりでそう言い、ちらりと敬三を見たが、敬三はなかなか自分の聞きたい話が始まらない事に、苛つき始めていた。
「…あいつの悩みなんざ知らねぇよ。それよりマツダさんよ。もったいつけてねぇで早く和也の居場所教えろや。どうなんだい。わかったのか」
凄むように身を乗り出して声を荒げた敬三の姿に、店内が気付きざわめき始めた。
「…静かにして下さい。話を進めていいですか」
マツダの冷静な声と周りの視線もあり、敬三は舌打ちをしながら乗り出した身体を引っ込めた。
「…で、どうなんだよ」
「家出したいともらしていた様ですよ。まぁ思春期の子供が家出したいと思う事は良くある事です。しかし大沢修二さんが聞いた所によると、家出したらどこか行く所があるのかと聞いたら、フジモリ先生に会いたい、と言ったそうなんですよ」
「フジモリ先生?」
記憶にない教師の名前に敬三は眉をひそめた。いくら無関心だったとしても担任の名前ぐらいは覚えている。
「聞いた事ないぞそんな先生。いつの頃の先生なんだ」
「大沢修二さんもそう思ったそうです。それでよくよく聞いてみたら小学校六年生の時に来た教育実習生の一人だったそうです」
「教育実習生?」
「この男性なのですが、御記憶にありますか?」
見せられた写真には、眼鏡をかけた真面目な感じの細い男が写っていた。
「いや…?見た事もねぇな」
「では…こちらの写真を…」
そう言って差し出された一枚の写真に、敬三の目がぎょろりと見開いた。
(…和也!)
「二日前に写した写真です。これは…息子さんで間違いないですね」
それは朝、出勤する颯太を送りだす和也の姿だった。
(…見つけたぞぉ〜)
マツダは目の色の変わった敬三を無視したまま続けた。
「どうやらこの元教師の藤森颯太という人物の家に同居しているようです」
「ああご苦労さん。これで十分だ」
「話し合いの場に息子さんを呼び出す事も出来ますが…」
「話し合い?そんなのいらねぇよ。居所はわかってんだ。後は俺がやる。あんたはもう帰えんな」
敬三はテーブルに置かれた写真を鷲掴みすると、突然立ち上がった。
「ちょっと待って下さい」
そう言うとマツダは立ち上がり、そのまま店の外へ出て行こうとする敬三の腕を掴んだ。
「あ?なんだよ?金ならちゃんと振り込むから安心しな。それとも他になんか用でもあんのか?」
驚いた敬三はマツダの手を振払うと、苛立つように眉間にしわを寄せてマツダを睨んだ。
「…少し興味があるんですが」
「ああ?」
マツダは無表情のまま敬三を見ながら、静かに言った。
「…連れ戻してまた良からぬ事をするんですか」
「そうだとしたらどうだって言うんだ。そこらへんには口を出さない約束だったはずだろう」
「もちろん止めませんよ。興味があるって言ったじゃないですか」
マツダの唇がにやりと歪んだのを見て、敬三は気付いた。
「…なんだ。お前さんも俺とおんなじなのか」
「…さぁ?どうですかね」
テーブルに置いた書類を鞄に仕舞いながら、マツダは小さく笑った。
「同類かどうかはわかりませんが…ただ良からぬ事をする時にはぜひ見学させて頂きたいのです」
「へぇ…しれっとした顔してるくせにわかんねぇもんだな」
敬三はにやにやしながらテーブルに戻り、どっかりと座り直した。
「警察に相談できない変質者が依頼人に多いもので…感化されたんですかね」
「はぁっはっは。…変質者ねぇ。いいぜ。奴を連れ戻した時には連絡してやるよ」
「ありがとうございます。ではこの件はこれで終了と言う事で」
そう言うとマツダは席を立ち、丁寧におじぎをした。
「ああ。ご苦労さん。…またな」
「…はい失礼します」

 マツダが去った店の中で、敬三はタバコをふかしながら一枚の紙切れを見つめていた。
それには藤森颯太の名と住所が書かれていた。
「さぁて…そろそろ迎えに行くかな」
そう呟くと口に銜えたタバコを灰皿に押し付け、ゆっくりと店を出た。


第十七章 瞬く間


 「かーずや君」
「あっ高城さん、おはようございます」

 春を予感させるような暖かな日射しの中、洗濯物を干す横からベランダ越しに高城久美子が声をかけた。
「今日も良い天気ねー。良かったら後でお茶しに来ない?」
「えっいいんですか?」
「もちろんよぉ」
最近になって眼鏡からコンタクトに変えた高城久美子は、少し印象が若返った様に見える。
「じゃぁ…これ終わったら伺いますね」
「ええ。待ってるわ」
和也の返事を聞くと、高城久美子は嬉しそうに手を振り、ベランダから部屋に戻って行った。
(…ん?かずや君?急に馴れ馴れしくなったな…)
「…ま、いいか」
和也は独り言を呟くと、かごに残った洗濯物を再び干し始めた。
 
 穏やかな日々。
和也は青い空を見上げて目を細めた。
(こんなに幸せでいいのかな…俺)
布団を干したり、食事を作ったり。
毎日が平穏すぎて、自分に起きた過去のおぞましい事実が嘘の様にさえ思えて来る。
この小さな部屋で毎日、颯太と光輝が帰って来るのを待っている日々。
買い物だけは颯太に頼んで買って来てもらっているので、相変わらず外出は夜の居酒屋のバイトの時だけだったが、唯一の御近所付き合いの高城久美子とは随分親しくなっていた。
おかげで主婦(主夫?)の生活に何の苦労もなく溶け込む事が出来た。

 (さぁて…行くか。世間話も主婦の大切な交流だからな)
洗濯かごを持って部屋に入ると、開け放たれた窓に揺れるカーテン越しに、不意に仏壇の上に飾ってある遺影と目が合った。颯太の妻、紗月の写真だった。
微笑む優しそうな笑顔に、少し胸が痛んだ。
(本当だったら貴方が味わっているはずの幸せなんだよな…)
手に持った洗濯かごを床に置くと、和也はそっと紗月の遺影に手を合わせた。
(…颯太さんも光輝君も元気です。…貴方の変わりにはなれないけど…俺がんばりますから)
合わせた手の平を離して顔をあげると、和也はエプロンを外して椅子の上に置いた。
「…行って来ます」
そう呟くと、和也はにっこりと笑って部屋を出た。
 
 和也が高城久美子とティータイムを過ごしているその頃???
颯太は塾の職員室でテストの添削をしていた。
 「あー腹減った」
隣の席で伸びをしながら声をかけて来たのは、同じ小学生の部を担当する望月だった。
「藤森先生、お昼どうします?一緒にランチ行きませんか」
望月は颯太と同じバイト講師で、三十歳と年令も近かった。
性格もとても楽観的で明るく、颯太もとても気楽に付き合える同僚である。
「あ…ごめん、弁当持参してるから…」
申し訳無さそうに断る颯太の言葉に、望月は驚いた様に椅子に座ったまま身体を寄せて来た。
「え?息子さんと二人暮しのシングルファザーじゃなかったでしたっけ?作ってるんですか?」
「えっと…なんて言ったらいいのかな…」
答えに口籠る颯太に助け舟を出したのは、お茶を持って来てくれた事務の多田百合子だった。
多田百合子は、この塾の事務員として十年勤めるベテランである。
「望月先生、入ったばっかりだから知らないんですよ。藤森先生、少し前からお弁当作ってくれる彼女が出来たんですよ。ねぇ藤森先生」
「…ええ、まぁ」
最近になって和也が弁当を作ってくれる様になったので、颯太は仕方なく彼女が出来たと言う事にしているのだが、やはり嘘を付いているという違和感にはなかなか慣れる事が出来ない。
 恥ずかしそうに下を向く颯太に、望月は興味津々に質問して来た。
「どんな彼女なんです?もしかして年下ですか?」
「え…っとまぁ…年下かな…」
「うわぁ〜本当ですかぁー羨ましいなぁ」
望月は年下と聞いて、目をキラキラさせながら大袈裟なくらいに声をあげた。
「俺、実は彼女と別れたばっかりで、今寂しい真っ最中なんですよー」
「あら。それはかわいそうねぇ」
???キーンコーンカーンコーン
 正午の鐘が響くと、職員室の中はランチに出る職員達で急にせわしなくなった。
多田百合子は望月の背中を軽く叩くと、にっこりと言った。
「私で良かったら一緒にランチ行きません?近くにおいしいお蕎麦屋さんができたんですよ」
「あ、いいですねー。俺そば大好きなんですよ」
そばと聞いてころっと機嫌が良くなった望月は、ウキウキと多田百合子と共に職員室を出て行った。
 昼時の職員室は、さっきまでの人の多さが嘘の様にがらんとしてしまった。
やっと生まれた安息に颯太はホッとため息を付くと、鞄の中から青い布に包んだ弁当を取り出した。手の平程の容器が二段重ねになった弁当箱を開けると、ごぼうの肉巻きやからあげ、卵焼きがミニトマトに彩られ美味しそうに並んでいた。
御飯の上には甘辛く味付けされた鳥そぼろが丁寧に敷き詰められている。
(……すごい)
そっとそぼろ御飯を口に含むと、何とも言えない美味しさが広がった。
(毎回思うけど…こんな弁当毎日作ってくれてるんだよなぁ)
毎日家に帰れば和也がいて、温かい食事を食べる事ができる。
(和也が来てから…幸せの連続だ)
(………しあわせ?)
颯太は不意に脳裏に蘇った感触に、思わず箸を置いて両腕を抱きかかえた。
 優しく、何度も重ねる唇。
そっと絡めてくる舌先は、湿った音をたててゆっくりと颯太の力を奪ってゆく。
キスだけで腰が立たなくなる。
敏感になった身体は和也の手や舌で丹念に愛撫され、時間をかけてゆっくりと開かれてゆく。
『颯太さん…颯太さん…』
きつく抱き締める和也の腕の中で何度も、颯太は自分の名を呼ぶ和也の声を聞いた。
自分の身体の奥に、何度も入ってくる熱い塊の感触。
昨夜も、その前も、その前も????
(………あ)
思い出した身体が思わず反応してしまい、颯太はあわてて股間を押さえ、目を閉じた。
(まだ、勤務中じゃないか。何考えてるんだ)
下半身の疼きを掻き消す様に、颯太は湯飲みに残ったお茶を飲み干すと、弁当の残りを急いで食べた。
「???ああ。もうだめだ」
颯太は独り言を呟くと、溜め息を付いて机に突っ伏した。
(やはり今夜も期待してしまう)
(愛されたいと、身体が絶えず求めている)
(???和也がいないと…だめになってる)

 この幸せが永遠だと、信じたかった。


第十八章 静寂のはこ 

 街道から外れた住宅街の一角で、敬三は車を停めた。
敬三は、薄暗い車内で胸ポケットに入れてあるタバコを探り当てると、一本取り出しゆっくりとライターで火をつけた。
深く吸い込み、溜め息混じりに煙を一気に吐き出した。
ゆらゆらと立ち上る白い煙を眺めながら、敬三はマツダとの会話を思い出していた。

 『???拉致?』
最初、敬三の作戦を聞いたマツダはあからさまに嫌な顔をした。
『…少しやり方が乱暴すぎやしませんか』
『乱暴でも何でも連れて来ちまえば話が早ぇんだ。…どうすればいい』
身を乗り出して話す姿に、マツダは呆れた様に敬三を見た。
宮本敬三という男が短気で頭の悪い男だと言う事は、始めて会った時からわかっていた。
話があると呼び出されて行ってみると、やはりマツダの想像通りの内容だった。
『…わかりましたよ。…その前に顔を近付けて話すのをやめて下さい』
マツダはこの男に『緻密な計算』の説明はするだけ無駄だとあきらめ、惰性のままにこの男に付き合う事にした。
 マツダに言われて、自分がテーブルの半分程にも身を乗り出していた事に気が付くと、敬三はブツブツ言いながらも身体を戻し、椅子に座り直した。
『いいですか。拉致るならバイト先に到着する少し前。…スモーク張りの車を用意して、大人しくさせるために薬品も用意した方がいいでしょうね』
『薬?どんなの用意すりゃいいんだ』
『特別に私が用意しましょう。それで……いつやるんですか』
『???三日後だ』
 
 (あいつがバイト先に行くのにこの道を通るのはわかってる)
軽い緊張感を感じながら、敬三は何度もマツダに言われたシュミレーションをくり返した。
(今度はぜってぇ逃がさねぇからな…和也)
暗がりに目を凝らしながら、敬三はじっとその時を待った。

 「じゃぁここに晩御飯おいときますね。…あれ?…光輝は?」

 テーブルに並べた料理にラップをかけながら、和也は光輝の姿が見えない事に気が付いた。
いつも保育園から帰った後は、お気に入りのテレビ番組を見ながら走り回っている所だが、今日はテレビの音が聞こえるばかりで光輝の気配がしないようだった。
颯太は薄く笑いながら、部屋の奥にあるソファーに視線を向けた。
「…寝てるよ」
「え?もう?」
そっと覗き込むと、ソファーの上で丸くなったまま寝息をたてている光輝の姿があった。
「…ホントだ…」
「保育園で遊び疲れて寝ちゃったんだ。…起こそうか?」
「いいよ。…気持ち良さそうに寝てるし」
和也はそっと光輝の眠るソファーに近寄ると、しゃがみ込んで優しく小さな頬を指先で撫でた。
「…柔らかいなぁ…すべすべしてる」
愛おしそうに撫でながら、和也はそっと、眠る光輝の頬にキスをした。
 「じゃぁ…俺そろそろ行かなくちゃ」
そう言って立ち上がると、和也は外したエプロンを椅子の背にかけ、椅子の上に置いたリュックを手に持った。そのまま玄関に向かい靴を履いていると、いつものように颯太が見送りに出て来た。
「…晩御飯、光輝が起きたら温めて食べて下さいね」
靴を履き終わり、リュックを背負いながらそう言うと、寂しそうな目をする颯太の頬に軽くキスをした。
「そんな顔しないで下さいよ。行き辛くなるじゃないですか」
「……うん…」
「…十時には帰ってきます」
「わかってる…」
「………どうかしたんですか?調子悪いとか…」
いつもなら、寂し気ながらもそんなに引き止める事なく送りだす颯太が、今日は何故だか言葉少なにうつむいてばかりだ。和也は颯太の顔を覗き込みながら、不安げにそっと声をかけた。
「ご、ごめん。違うんだ」
颯太は慌てて顔をあげると、恥ずかしそうに呟いた。
「光輝が…こんなに早く寝てしまったから…和也が帰ってくるまでどうやって過ごしたら良いかわからなくって…」
恥ずかしさに顔を赤らめて唇を噛み締めるその表情に、和也は溢れる愛しさを感じずにはいられなかった。和也はぐいっと両腕で颯太の身体を抱き寄せると、そっと颯太の耳元で囁いた。
「なんだ…心配させないでよ颯太さん…」
「ごめん…」
「……でも俺が帰るまで一人でいじったりしないで下さいね…」
「そっ…そんなこと…っ」
颯太は胸の内を見透かされたような気がして、思わず和也の腕を振払って突き飛ばした。
「…あっ…ごめ…」
「大丈夫ですよ。でも…元気そうで良かった」
そう言っていたずらっぽく笑うと、和也は玄関のドアを開けた。
「急いで帰りますから。じゃぁ…行って来ます」
「あ、ああ。…気をつけて…」
 ???バタン。
 音をたててドアが閉まる。途端にいつもとは違う静寂が颯太を一気に襲って来る。
ぞくりとした感覚に、颯太は身震いしてその場にへたり込んだ。
(なんだ…この気持ちは…)
寂しい?????違う。???そうだ…これは???
(…不安…)
それは和也との暮らしの中で忘れかけていた感情。
紗月がいなくなって光輝と二人だけで過ごしていた頃の???足下が崩れ落ちそうな感覚。
落下して行くのに、もがいても、もがいても何処にも掴まる所がないような???。
ただ毎日不安定で、不安で。どうしたらいいかわからなかった。……怖かった記憶。
(怖い???)
しんしんと沈み込む静寂が颯太を閉じ込めて行く。
両腕で身体の震えを押さえても、乾いた呼吸が早鐘の様に込み上げてくる。
(???早く帰って来て。和也…早く僕を抱き締めて安心させて???)

 その時僕は自分が何も知らない事に気付いていなかった。
この耐え難い寂しさも、和也が帰ってくれば終わるのだと信じていた。



第十九章 プライド

 「やばっ雨かよ…」

 頬に当たる水の感触に、和也は思わず舌打ちをして空を見上げた。
予報では明日の朝に降り出すはずだった雨が、少し早く降り始めたようだ。
雨のせいで薄暗い路地に人の姿はすっかりなくなっていた。
予想外の雨に何も持ち合わせていなかった和也は、目蓋に当たる雨粒に目を細めながら急いで自転車を走らせた。
(???なんだあの車)
不意に、視線の先にあった一台の黒い車に目が止まった。
普段見ない黒塗りのベンツ。フロントガラス越しに灯るタバコの火で人がいるのはわかったが、窓に張られたスモークで顔まではわからない。???いかにもヤバそうな車に思えた。
泥がはねたとか、つまらないことで因縁をつけられても困る。
 車を避けようと、和也は少し遠巻きにハンドルを切ろうとした???その瞬間。
「???うわぁぁっ」
いきなり目の前で勢い良く開け放たれたドアは、激しい衝突音とともに和也を自転車ごと道の端まで跳ね飛ばした。
アスファルトを叩く雨音だけが響く中、和也は全身に走る激しい痛みにしばらく動けないままうずくまっていた。痛みの中、和也は自分の運転する自転車に、タイミングを合わせたかの様にドアを開いたあのベンツが気になった。
和也は痛みに耐えながら、ゆっくりと衝突した車の方へ顔を向けた。頭を少し打ったのか、くらくらする視界の中で目を凝らすと、視線の先に開け放たれたままのベンツのドアが見えた。
するとベンツから人影がゆっくりと車を降りて近付いて来た。
(???ヤベ……)
身を堅くしてうつむいた和也に、頭の上の方で男の声が言った。
「…よう。久しぶりだな和也…」
 一瞬にして血の気が引いた。???聞き覚えのある声。
途端に蘇る恐ろしい記憶に、和也は濡れたアスファルトを見つめたまま顔をあげる事が出来ない。
顔など見なくてもわかる。
植え付けられた恐怖に指先の震えが止まらない。
「…よう。迎えにきてやったぜ」
低く、嘲笑う様な含みをもった声で言うと、男は和也の前にしゃがみ込んだ。
恐ろしさに顔をあげる事も出来ずにいる和也を、男はにやにやと笑いながら覗き込んだ。
「随分とうまく隠れていやがったなぁ……捜したぜ」
「…………な…なんで…」
「何でわかったかって?後でじっくり教えてやるよ」
「…なっ何す…っ」
男は荒々しく和也の髪の毛を引っ掴むと、毛むくじゃらの大きな手の平で抵抗する和也の口元に薬品を染み込ませたハンドタオルを押し付けた。
「やめ…ろっ」
「うるせぇなぁ。…暴れんじゃねぇよ」
男は面倒臭そうに眉間にしわを寄せると、足先で和也の身体を横向きにひっくり返し、そのまま和也の腹めがけて右足を振り抜いた。
和也は一瞬くぐもった悲鳴をあげたが、その身体はぎゅっとくの字に曲がり、息が出来ないのかその内うめき声さえ聞こえて来なくなった。
「さっさと寝てりゃあいいんだ」
男はぶつぶつと言いながら動かなくなった和也を軽々と担ぎ上げると、停めてあったベンツの後部座席に放り込んだ。
男は車に乗り込みどっかりと運転席に座ると、タバコに火をつけながら後部座席でぐったりと倒れている和也を満足げに眺めた。服も、髪も雨と泥で汚れ、体中傷だらけで場所によっては血も滲んでいたが、男にとっては何とも言えない高揚感を誘う姿だった。
男を捨てて行ったあの女の面影が、苦悶の表情を浮かべ、血を滲ませてまさに目の前にいるのである。男は今すぐに叩き起こしその首を絞めてやりたい衝動にかられたが、マツダとの約束を思い出して仕方なく行動に移すのをやめた。

『車、トモダチから借りたので汚さないで下さいね。…それと絶対に車内で事は起こさない様に』
男は舌打ちをしながらエンジンをかけると、暗がりの中を自宅へ向かって車を走らせた。

 「あれ?宮本は?」
居酒屋の更衣室で着替えながら、男はいつものメンバーに一人足りない事に気が付いた。
「え、来てない?」
同じ様に横で着替えていたもう一人が、確認の為シフト表をチェックすると、確かに今日は来る事になっていた。
「珍しいな遅刻なんて」
「もうすぐ来るさ。今日は雨だし、客足もそんなに忙しくないだろ」
足早に更衣室を出て、二人は早速開店準備に取りかかった。
暖簾を出しに外に出ると、雨はさっきよりも激しくなっていた。 


 ???ぐらぐらと脳が揺れる。重苦しい吐き気と気だるい朦朧とした意識の中で、和也はうっすらと目を醒ました。
「い……っつ」
途端に蘇った痛みに思わず身体をよじったが、何故か身体が自由に動かない。
和也は嫌な予感を憶えながら両腕の先を見上げると、そこには見覚えのあるベットに女性用の細いベルトできつく繋がれた自分の両手があった。
「……随分と派手に痛めつけられましたね」
「そうね…でも凄くセクシーだわ」
視線の先には白いシャツを着た見知らぬ男と厚化粧した女が立っていた。
「……誰……」和也が呟いたその時だった。ベットの下の方から響いたその声に、和也は朦朧とした頭から一気にリアルに引き戻された。
「……せっかく逃げたのに残念だったな。…そいつは俺が雇った探偵だ。お前をいたぶる所を見たいんだとさ」
部屋の壁に、寄り掛かる様に座っていた敬三は、笑いながらゆっくりと立ち上がり、繋がれた和也の顔の横まで来ると、愛おしそうに覗き込んだ。
「ん?なぁに震えてんだ。やっと帰って来れたんじゃないか」
蒼冷めた和也の頬を軽く叩きながら、敬三は和也の耳元にそっと囁いた。
「覚えているだろう?……ここはお前と俺の部屋だ。お前が逃げてからずっとそのままにしておいてやったんだぜ」
敬三の言う通りそこは間違いなく以前過ごしていた自分の部屋だった。
そして忘れる事など出来ないおぞましい部屋???。
 ???母親が出て行ったその年の夏。
高校ニ年の夏から五年間、和也はずっとこの部屋で父親から身体的、精神的苦痛を受け続けて来た。ほとんど学校に行く事は許されず、精神不安定のためとか適当に理由をつけて休学届けを出した事もあった。たまに出席日数のために学校に行かなければならない時は、必ず送り迎えに来て、『身体が弱いから心配で』などと心にもない事を言いながら、敬三は器用に外面を使いこなした。心配した担任がたまに家庭訪問をしに来たが、和也は恐怖に何も言えないまま、にこやかに父親の対応に合わせるしかならず、おかげでずっと誰にも気付かれる事はなかった。
 「嫌……もう嫌だ……っ」
悪夢が再びくり返される恐怖に、和也は力一杯両腕の拘束を解こうともがいたが、ベットがギシギシと音を立てて軋むだけで、外れる気配もなかった。
両手の拘束が外れない事がわかると、和也は乱れる呼吸を押さえながらキッと敬三を睨み、身体を堅く縮めて身構えた。
「ああ?なんだ。ろくに動けもしねぇくせにやるきかよ」
敬三は鼻で笑いながら、ぎしり、とベットに片膝を付いた。
「さ……っさわんなっ」
胸元に伸びて来た敬三の手に背を向け、必死に抵抗したが、敬三は笑いながら力づくでシャツを掴み上げると、ボタンごと荒々しく引き裂いた。
先ほどの事故のせいで和也の身体には、腫れ上がった痣や赤く血の滲んだ傷が生々しく残っている。その傷を見て興奮したのか、敬三はわざとその傷に力一杯爪を立てた。
「うあぁぁっ」
深く抉られたような痛みに、和也の身体は電流を受けた様に仰け反った。
その傷からは再び新しい血が滲み出し、敬三はえも言われぬ快感を感じながら、和也の下半身を被っていたジーンズも下着ごとずり下ろした。
「へへへっいいねぇ。久しぶりだぜ。…いいか、俺のはけ口はお前しかいねぇんだ。恨むなら薄情なあの女を恨みな」
敬三は愛おしそうに和也の身体に触れると、腰骨の上の傷にべろりと舌を這わせた。
「…うっぁあっ」
「……ああ……血の味がするぜ…」
ぎしぎしと音を立て、手首の拘束をよじりながら、和也は背筋を走る悪寒に唇を噛んで必死に耐えているようだった。その様子を静かな表情で見つめていたマツダが、ぼそりと呟いた。
「……甘いですね」
マツダの声に、興奮しかけた熱が一気に冷めた感じがして、敬三は苛立った低い声でどう言う事だ?と問い返した。マツダの隣で眺めていたメグミは、張り詰めた雰囲気に後ずさりして息を呑んだ。
「……甘いんですよ。いたぶるってこんな程度のものなんですか」
「ああ?こっちは依頼分の金は払ったんだ。俺のやり方に文句があるならさっさと消えろや」
敬三は外しかけたベルトから手を離し、マツダをじろりと睨んだ。
しかしマツダは顔色一つ変えずに、臆する事なく敬三を見据えて言った。
「無理矢理痛めつけたって、声を殺して耐えているやつのプライドはそんなものでは打ち砕けないと言っているんです」
「…偉そうに言うじゃねぇか。じゃあ何かいい考えでもあるって言うのかい」
するとマツダは薄く笑い、胸元から白い粉の入った透明な袋を取り出した。
「……これを使ったらもっと楽しめそうなので…いかがかと思いましてね」
「おい、そりゃぁ???」
一瞬脳裏をよぎったその袋の中身に、敬三とメグミは思わず息を呑んだ。
「なに、ほんの少し気持ちよくなるクスリです。これならプライドも何もズタズタにして、思う存分いたぶることが出来ますよ」
その様子を見ていた和也は激しく身をよじって敬三に向かって叫んだ。
「???親父やめろッそれ、麻薬なんだろ。???息子を殺すつもりかよッ」
和也の言葉に一瞬、敬三の動きが止まったが、そこへ被せる様にマツダの冷静な声が響いた。
「あれ、今さら親心ですか?」
冷ややかに笑うその声に、敬三はこぶしを握りしめ怒りをあらわに声をあげた。
「親心?冗談じゃねぇッ???こいつは俺を捨てて行った女のお荷物よ。飼ってやる意味もねぇ」
履き捨てるようにそう言うと、敬三は和也の顎を掴み、ぐいっと自分の顔の正面に引き寄せた。
血走った敬三の目が、真直ぐに和也を捕らえていた。
「悪いな和也。お前は一生俺のおもちゃになってもらうぜ」
呼吸さえ忘れそうな絶望感に、和也は舌を噛んで死にたいと心の底から思った。
だが、死ねない。もう一度あの場所へ戻らなくては。颯太と光輝の待つあの家に。
和也は微かな希望とプライドだけは砕かれまいと、心に誓うしかなかった。 


第二十章  守るべき者



 肺を押しつぶされるような苦しさを感じながら、颯太は窓際に射す白い光に目を細めた。
「……朝……」
颯太は独り言の様に呟くと、手の平で顔を被い、溜め息を付いて深く瞳を閉じた。
 
 (僕は……馬鹿だ)
体中の血が足の先から抜けて行くような感覚が颯太を襲う。
なんてことだろう。???僕は幸せすぎて彼の事を知ろうともしなかった。

 いつもならとっくに和也が帰ってくる時間を三時間程過ぎた頃、颯太は不安に耐えきれず警察に連絡する事にした。しかしその電話で颯太は自分の立場を再認識する事となった。

 『お友達がバイトに行ったきり帰って来ない?……お友達のお名前と年令を教えて頂けますか?』
『宮本和也……二十二歳です』
『二十二歳……男性ですか女性ですか』
『……男性です……』
 二十二歳の男性だと聞いた警察は、重要事項ではないと判断したのか、急に素っ気無い対応になった。
『成人男性ならそんなに心配する事もないと思いますが……携帯に電話とかは?』
『……電源が入っていないようで連絡が取れないんです』
『では一応お友達の御両親に連絡を入れておいた方がいいかも知れませんね。……連絡はもう?』
『……いえ……』
 両親???両親と言えば、あの和也の背中に虐待の傷を刻んだ張本人だ。
連絡を取れるはずもないじゃないか。???そう怒りにも似た思いが込み上げた時だった。
(???そう言えば……僕は和也の両親の名前も住所も知らない???)
『???失踪人届けを出しておきますか』
受話器の向こうの冷静な呼び掛けに引き戻された颯太は、質問に答える事なく小さな嘘をついた。
『……いえ……御両親に連絡をして……もう少し様子を見てみます』
(虐待の跡がばれて危うくなるのは向こうのはずだ。捜索願いなんて出すはずがない)
『そうですか。では???また何かあったら御連絡下さい』
『……わかりました』
受話器を置くと、途端に静けさが颯太を包んだ。
そして何も出来ないまま???朝を迎えた。
 
 おそらく警察は本当に何かが起きるまで動く事はない???。
颯太の脳裏に冷めた思いが浮かぶ。未成年者であれば重要度は増すのであろうが、成人男性では警察も本気では動かない。
 嫌な予感がする。もしや和也が一番恐れていた事が起きたのではないだろうか。
 
『…怖い……怖いんだ。あいつが生きているうちは…また来るような気がしてならないんだ』

いつだったか和也が言っていた言葉がはっきりと思い出された。
(???来たのか?お前を連れ戻しに?)
颯太の脳裏に真っ先に浮かんだのは、和也の父親の存在だった。
 ただ???僕には彼を救う術がない。
十年前に少しの期間教育実習で出会っただけの生徒だ。生徒個人の情報など持っていない。 
和也の両親の顔さえ憶えがないのだ。
???……僕はどうしたらいい。どうしたら君を捜せるのだろう。
 背筋が寒くなるような孤独感が一気に襲い掛かって来る。
一体何があって帰って来られないのか。???そして僕はどうしたらいいのか。
突然突き落とされた現実に震えが止まらない。不安で不安で仕方がなかった。
そんな時、部屋の奥から幼い声が颯太を呼んだ。
 
「パパ?おはよう」
眠い目を擦りながらいつもの様に光輝が起きて来た。
「???おはよう」
絶望の縁で急に現実に引き戻される。
颯太は慌てて両手で顔を擦ると、何事もなかった様に笑顔で返事を返した。
 できる事なら光輝に心配はかけたくなかった。
(考えてみればもともと二人きりだったのだ。和也のいる生活に依存してしまっていただけの事だ。???自分がしっかりしなければ)
そう自分に言い聞かせながら、颯太は必死に笑顔で接した。
 和也との暮らしで光輝の表情が蘇ったのを知ってから、颯太は光輝の笑顔を奪ったのは自分が落ち込んでいたからなのだと思い知った。
だが無理矢理にでも気を起こさなければ、不安で崩れてしまいそうだった。
 
しかし子供の敏感な感覚はすぐにいつもと違う雰囲気に気が付いた。光輝はきょろきょろと部屋の中を見回すと、不思議そうに颯太に尋ねた。
「あれ?和也お兄ちゃんは?」
颯太は思いを押し殺して笑みを作ると、小さな嘘を付いた。
「……お仕事でね、少しの間帰って来られないみたいなんだ」
「え〜!!なんで?」
慣れ親しんだ和也が帰って来ない事を知ると、光輝は涙目で叫び出した。
「???だから仕事で……」
「や〜だ〜!和也お兄ちゃんがい〜い〜!!」
「仕方がないじゃないか。パパがいるだろ」
抱き締めようと伸ばした颯太の手を、光輝が強く振り払った。
「和也お兄ちゃんがいいの!テレビ一緒に見ようって約束したんだもん!」
「だったらパパが一緒に見てあげる???」
「和也お兄ちゃんがいいの!」
 大声で泣き出した光輝は、こうなってはもう手は付けられなかった。
いなくなった事の寂しさとやり場のない怒りが、父親の声さえ聞こえなくさせてしまう。
 光輝の泣き声が、攻め立てる様に颯太の心を突き刺した。
込みあがる感情に呼吸が早くなる。パニックに溺れて息が出来なくなりそうだった。
「???いい加減にしなさい!!」
颯太は思わず大声をあげて椅子から立ち上がると、光輝を一喝してしまった。
頭の中がぐるぐると整理が付かない。
自分がこんなに辛くて苦しいのに、光輝は何で輪をかけて自分を苦しめるのか。
どうしたらいいかわからない。ドウシタライイカワカラナイ???
光輝は驚いた様に目を見開いて颯太を凝視している。
光輝もこんな父親の姿を見るのは初めてだったのだろう。怯えた様に動かなくなった。
「……頼むよ光輝……お願いだから静かにしてくれ……」
颯太はそう言うと、椅子の上に崩れ落ちた。
力が抜けて行く。心が立たなくなる。
???自分がした事はただの八つ当たりだ。

 その時光輝の目に、その姿は母親を失った時のあの父の姿に重なった。
「パパ……っ」
光輝は慌てた様に呟くと、床に座り込んだ颯太の元に駆け寄った。
「ごめんね、ごめんねパパ。もう泣かないで僕いい子になるから」
「……光輝」
「泣かないで。お願いだから泣かないでパパ」
 
 何で僕は嘘を付いてしまったのだろう。???颯太は真直ぐな光輝の瞳を見つめながら、そう心に強く思った。
誤魔化さなくても光輝はわかっている。一人の人間として変わり行く状況を経験しているのだ。
幼いからと言って何もわからない訳ではない。
 颯太は自分を恥ずかしく思い、光輝への謝罪の想いが溢れた。
自分だけが悲しくて辛いのではない。光輝もまた同じ辛い環境にいるのだ。
「光輝……ごめんな。パパもっとしっかりするから……もう……大丈夫だよ」
 今できる事。???それは光輝を守る事だ。
食事を作り、保育園に連れて行く。光輝を育てるために仕事も休めないだろう。
いますぐに和也を捜しに行きたいが、僕には術がない。
今できる事をしなければ。???光輝の父親は僕だけなのだから。
 それでも願わずにはいられない。??どうかまた無事に逃げて来て欲しい???と。


第二十一章 アイリーン

 

 「うっあぁああ???ッ」

 薄暗い部屋に和也の枯れた悲鳴とベットの軋む音だけが響く。
「???痛ぇか?痛ぇだろうなぁ。何にもしないで突っ込まれりゃ肉もさけるわな」
萎縮し固く怯えた和也の身体を、敬三は笑みを浮かべながら容赦なく幾度も突き刺さした。
悲鳴をあげる度に、汗ばんだ和也の身体がびくびくと跳ね上がる。
ベットの冊に縛り付けられた両手首は、その度に皮膚に食い込み血を滲ませた。

「???いいか和也。もう絶対に逃がしやしねぇからな」
「う……ぁッあ……ッ」
和也の身体から流れ続ける、鮮血にまみれた肉塊は、にちゃにちゃと湿った音を立てて何度も出し入れを繰り替えし、和也の身体はほとんど無抵抗のまま、人形の様にがくがくと揺れた。
 血の匂いが部屋中に立ち込め、吐き気がするような異臭に変わる。
マツダが和也の身体に注入したクスリも、和也にとっては重々しい頭痛と吐き気を呼ぶだけで、身体を貫く激しい痛みを和らげるものではなかった。
 
 この部屋に捕われてから二日が経っていた。
相変わらず和也は一糸纏わぬ姿でベットに繋がれたままだった。
トイレは足枷を付けられ鎖に繋がれた状態で行く事が出来たが、食事等は一日に二度雑炊のようなものをベットに繋がれたまま与えられた。
 日が沈むとこの拷問のような苦痛が始まり、マツダは何気なくふらりと姿を現わした。
奇妙な事にマツダは一度も、敬三の様に和也を抱く事はなかった。
しかしその身体に決して触れない代わりに、敬三に和也を苦しめる残酷なアイデアを与え、眺めながら、固く変化した自分の高まりに触れ恍惚な笑みを浮かべるのだ。
メグミはただその様子を部屋の片隅で眺めていた。
ただ事がエスカレートするうちに部屋の中には入って来なくなった。

「……ああ……ちくしょう………喰いちぎられそうだ」
和也の上で快感に声を漏らす敬三とは反対に、和也は内臓を突き上げられるような激しさに思わず胃液が込み上げそうになる。
「……うッ……うッ……」
腰を打ち付け続けるリズムに、和也の呻き声だけがもれる。
短い呼吸を繰り返すうちに和也の意識は朦朧としていった。
「おらッ寝てんじゃねぇッしっかり俺を見ろっ」
気を失いかけた和也を、敬三は平手で容赦なく何度も殴りつけた。
「う……」
顔は腫れ上がり、口の中は血で溢れた。
強制的に引き戻された意識のなかで、和也は虚ろに敬三の声を聞いた。
「よし……ああ……イク……イクぞッああ……アイリーン……ッ」
敬三が呻いた言葉に、全身の肌がざわめいた。
父親と過ごした地獄の日々の記憶が色を濃くしてゆく。
和也を抱きながらその耳元で何度も繰り返した言葉。???悪夢の名前。
「???ぐぅッ」
絶頂間近に激しく腰を突き動かしたまま、突然敬三の両手が和也の首を掴んだ。
「……愛してるって言えッ……ちくしょう……愛してるって言え……ッ言えッ」
敬三は狂気を帯びた表情で和也の首を絞めながら叫ぶ様に繰り返した。
「ちょっと!手を離しなさい!いつまで絞めているんですかッ殺す気ですかッ」
壁に寄り掛かりながら眺めていたマツダが、危険を感じて止めに入ったが、敬三はそれを無視して絞め続けた。
本気で絞め始めた敬三の力にのど笛が潰されそうになりながら、和也は切れ切れにやっと声を絞り出す事が出来た。
「ア…………ア……イ……シ……テ……ル……」
敬三はその瞬間満足そうに笑い、和也の中で果てた。

 ???俺は母さんじゃない。
母さんは父さんを愛してなんかいなかった。
俺は父さんの見ていない所で嫌悪の言葉を吐く母さんの姿を知っている。
俺は母さんじゃない。……俺には戻る場所があるんだ???

「ちょっとどいて下さい!意識を確かめます!」 
薄れていく意識の中で、マツダの怒声が聞こえた。
「???殺したら意味がないんですよ!」

???闇が降ってくる。



第二十二章 理由


 ???泥沼のような暗闇にじわじわと沈み込んで行く。
深い深い泥の中に静かにゆっくりと沈んで行く。
脱力した身体は重く、ただそれを感じている。
  
 ???母さん……俺このままじゃ父さんに殺されちゃうよ。
どうしてあの時、俺も一緒に連れて行ってくれなかったの。
俺は母さんの代わりに殺されなきゃいけないの???

 「???和也君、和也君」
(???誰……)

意識の彼方から聞こえて来た声にふと目を醒ますと、不安げな目をしたマツダがじっと和也の顔を覗き込んでいた。
「…………ぅ」
「良かった……生きていますね」
マツダは和也の意識が戻った事を確認すると、部屋の隅に置かれたテーブルから小さな箱を持って来た。
「さっきはそのまま気を失って動かなくなってしまったので……心配しましたよ」
安堵の表情を浮かべるマツダとは対照的に、和也は変わらない風景に絶望を感じていた。
おそらくクスリの副作用なのだろう。酷い頭痛と倦怠感に襲われ、指一本さえ動かせない。
ぐったりと項垂れたまま和也は目を閉じた。
(あのまま死んでしまえたらどんなに楽になれただろう)
そんな想いに心が揺れた。
今一番近くにある死の気配に身を委ねてしまえば、全てが楽になれる気がした。   
 捨てた場所に戻された事で、蘇り続ける記憶は和也の精神をじわじわと侵食していった。
そしてそれは戻るべき場所への希望さえも奪おうとしていた。
 
 「???い……ッ」
突然手首に走った痛みに思わず視線を向けると、マツダがベットに縛り付けられている和也の両手首から、きつく巻かれたベルトを外している所だった。
「何……」
「……少し痛みますよ」
マツダは和也の手首に食い込んだベルトを片方ずつゆっくりと外すと、ベットの傍らにある椅子に腰掛けた。
「ああ……これは痛そうですねぇ」
そう言いながら和也の手首をそっと指先で掴み上げると、その傷口を眉をひそめながらしばらく眺めていたマツダは、先ほど取って来た小さな箱から薬瓶と包帯を取り出した。
「……繋いでなくて……いいのか」
言葉をかわす事さえだるくて辛かったが、和也はマツダのこの行動があまりに意外で聞いてみたくなった。自分が悲鳴をあげているのをあんなにも恍惚とした表情で見つめていた男だ。
手当てをする振りをして、何か仕掛けるのではないか。
???そう思えば思う程和也の身体は固く強張った。
「逃げようにも身体が動かないでしょう。……まぁ消毒したらまたベットに繋ぎますがね」
マツダは慣れた手付きで、消毒薬を含ませた脱脂綿で血の滲む傷口を拭うと、新しいガーゼを当て、上から包帯を巻き付けた。
「……私がこんな事をするのがそんなにおかしいですか?」
和也の不信な視線に気付いたのか、マツダは和也の考えを見透かす様に言った。
「……おかしいに決まってるだろ……死にかけのねずみを弄ぶほうが好きなんじゃないのか」
「それも好きですが……死んでしまっては楽しみも終わってしまいますからねぇ」
楽しそうに笑いながらそう言うと、両手首の傷の手当てを終えたマツダは椅子から立ち上がり、今度は颯太の肩に触れて言った。
「今度はうつ伏せになってもらいますよ」
「???何を……」
マツダは脱力した和也の肩と腰を支える様にして、ゆっくりとうつ伏せにひっくり返した。
嫌な予感がした。
うつ伏せにされた背後から、マツダの片足がベットに乗ったのがわかった。
ぐい、と両手で割開かれた和也の太ももが、奥までマツダの目の前にさらされた。
「ああ……これはまた酷い……」
「や…そこは……やめてくれ……」
恥ずかしさもあったが、何よりまだ鈍痛の残る部分に触れて欲しくなかった。
しかしその言葉を聞いたマツダはにやりと笑うと、湿った布でそっと太ももにこびり着いた血の跡を拭い、傷付いた蕾に触れた。
「ぅ……ッ」
背筋を走る痛みに思わず尻に力が入る。
その尻をマツダは楽しそうにペチンと叩くと、薬瓶の蓋を開け、指先にとった。
「力を抜かないともっと痛みますよ。……市販品の軟こうですが気休めにはなるでしょう」
冷たい感触が和也の秘部に触れ、それはぐぐっと圧力を持って中に入って来た。
「い……ッやめ……ッ」
「奥も切れているでしょうから……もう少し塗っておきましょうね」
「うぁああ……ッ」
背中の筋肉が張り詰める。和也の反応を楽しむ様に、マツダの指は腫れ上がった内部を這い回った。
 「……これ以上無理をさせると外科的処置が必要になるかも知れませんよ」
マツダは、荒い息を尽いてうっすらと汗を浮かべる和也の身体に毛布をかぶせると、血液と軟こうに濡れた指先を白いハンカチで拭いながらベット脇の椅子に座った。
和也は黙ったまま、マツダに背を向けて毛布にうずくまった。
「……あの人はあなたを殺す気なんですか」
和也の背後にその声は静かに話し掛けて来た。
「……困るんですよね。私だってあの男と殺人の共犯にはなりたくない。……だけどあの人は」
そこまで言うと、マツダは少し考えてから再び話し始めた。
「???あの抱き方には殺意を感じるんです。別れた奥さんにあなたが瓜二つなのは聞いています。……奥さんの面影を追ってあなたを抱いているのではないんですか」
 背を向けて毛布にうずくまっている和也にマツダの表情を知る事は出来ないが、冷静に聞こえるその声は密かな苛立ちを含んでいた。多分興味半分で近付いた男が『本物』だった事に狼狽えているのだろう。そう思うと、不思議と和也の口元に笑みが浮かんだ。
「さぁ……それは父さんに聞いたほうがいいよ……」
マツダが何を言って欲しかったかはだいたい想像できた。
残酷な返事だとは思ったが、それは和也にもわからなかった。
和也の記憶は、仲睦まじかった夫婦の姿と、ある日突然出て行った母。
???そして母親への腹いせに身替わりになった地獄の日々。
殺したい程愛していたのか、裏切られたから殺したいのか???。
『……愛してるって言えッ……ちくしょう……愛してるって言え……ッ言えッ』
脳裏にこびり着いて離れない、血走った父親の顔と恐怖。
マツダは黙ったまま動かなかった。
 ???それにしても頭が痛い。
マツダのおかげで自由になった腕で、久しぶりに自分の肩を抱いた。
小刻みに震える身体を実感した時、突然吐き気が込み上げた。
「???うっうぇぇッ」
和也の異変に、マツダはすぐに椅子から立ち上がると、和也の身体から毛布を剥ぎ取った。
そこには吐き出した胃液にまみれた和也の姿があった。
鼻を付く異臭に怪訝な顔を浮かべながら、マツダはぼそりと呟いた。
「???何にも食べてませんね。……ストレスで死にますよ」
込み上げる吐き気に肩を揺らしながら、和也はうっすらと開いた視線の先に女の姿を見つけた。
少しだけ開いた扉から、怯えるような目で見ている。
その姿を見て和也は母親を想像した。

(???母さんは俺がこんなめにあっているのを知らないんだろうな)
(少しでも知れたら助けに来てくれるのだろうか???)


第二十三章  裏切り者 


 何度目の夜がやってきただろう。
紗月が僕の元からいなくなった時も思った事???
『君がいなくても時間は止まらない???』
君がいなかったら僕は死んでしまう。そう思っても、僕の心臓は止まらないし、朝も夜も来る。
残酷に、神は半身を失った僕の背中に鞭を打ち、歩け、生きろと追い立てる。         
 「……ねぇパパ……まだ寝ないの」
寝かし付けたはずの光輝が、いつまでも止まないTVの音に布団から這い出て来た。
「ごめん、起こしちゃったかな。…もうすぐ寝るから……」
「……あした……かずやおにいちゃんかえってくる?」
「???明日?」
脈絡のない突然の言葉に心がびくつく。子供のストレートな言葉はダイレクトに心に突き刺さる。
「……明日……も無理かなぁ」
もう誤魔化すのはやめよう???颯太は言葉を選んでそっと言い聞かせた。
「……お兄ちゃんがいなくても我慢して……光輝はえらいね……」
「……パパァ……だっこして」
「もう眠いんだろ。布団で一緒に寝てあげようか?」
「んーん…パパがかわいそうだから…ここで寝る……」
そう言うと光輝は、ソファーに座る颯太の元に寝ぼけた足取りでふらふらと近寄ると、その隣で猫の様に丸くなって眠りこんでしまった。
 小さな寝息が聞こえて来る。
見もしないTVの音声は颯太の脳裏を麻痺させ、不眠症の目蓋を重くしてくれる。
明日も朝は来るのだろう。
紗月がいなくても。和也がいなくても???。

「紗月……」

 颯太はふいに立ち上がり、仏壇の前に歩み寄ると、亡き妻の遺影を手に取った。
そこには無邪気な笑顔で写る、病に倒れる前の健康で美しい彼女がいた。
「???情けないなぁ……僕は」
颯太は思わず溢れた涙を手の甲で押さえると、その場にしゃがみ込んだ。
 仏壇の上から一枚のメモがひらりと落ちた。
そこには宮本和也の住所と自宅電話番号が書かれていた。
あれから颯太も必死に和也の身元を調べた。教育実習をした学校の当時の校長先生に連絡を取る事が出来、昨日ようやく手に入った情報だった。
だが光輝を連れて行く訳にもいかないし、自分がもし捕らえられてしまった事を考えると、なかなか動く事は出来なかった。捕らえられた先で和也がどんな状況にあるのか、確かなものがなければ警察は動かない。
手に入れた情報を無駄にはしたくない。だが一体自分はどうすればいいのか。
 付けっ放しのTVが変わらない毎日を演出し続けている。
???世の中が自分だけを置き去りにして回っているような気がしてならなかった。
寂しくて息が止まりそうになる。
光輝が眠ってしまってから朝までの長い時間、孤独で死にそうになる。
 そっとソファーに戻ると、寝息をたてる光輝の隣に腰を下ろした。
すやすやと安らかな呼吸に上下する背中に、そっと頬を寄せる。
(ああ…癒される???)
ゆっくりと繰り返す鼓動と包み込むような体温に、颯太はゆっくりと瞳を閉じた。
 

 薄暗い天井を見上げながら、敬三は満足そうに深く吸い込んだ紫煙を吐き出した。
(ああ……毎日が最高に楽しいぜ……)
明るいブラウンの髪、深い緑色の瞳???。
コップについだ酒をちびりと飲みながら、敬三は和也の苦痛に歪んだ表情にアイリーンの顔を重ねてみた。???何とも言えない高揚感が襲ってくる。
『お願いやめて???敬三さんっお願い???』
記憶の隅に残っていたアイリーンの悲鳴が、更に敬三を興奮させた。
思わず熱を帯びた股間に手が伸び、敬三はそれをゆっくりと弄り始めた。
(ああ???今夜はどう可愛がってやろうか)
(まだ夜にはちょっと早いが……行くか)
込み上げる期待感にゆっくりと立ち上がると、敬三は酔いの回った足取りのままニ階の和也の部屋へ続く階段へ向かった。
ふらふらと廊下を出て階段の下まで行った時だった。
「お????こんな早く来るとは珍しいじゃねぇか」
そこに立っていたのは黒いスーツに身を包んだマツダの姿だった。
「……ん?どうしたよ。何か言いたそうだな」
いつもと違うマツダの表情に、敬三は笑いながらマツダの元に歩み寄ると、ゆっくりと階段に腰を下ろした。敬三はマツダが何が言いたいのか???大体は想像できた。
『殺したら意味がないんですよ』
そんな事を言っていたのを思い出して、敬三はにやりと笑みを浮かべた。
生殺しにして長く楽しみたいのだろうが、敬三にとってそんなことはどうでもいい事だった。
「……今夜はやめておいたほうがいい。……あなたが手荒に抱いたせいでひどい傷になっています。それに発熱もしているようですし???」
マツダはそう言いながら敬三を睨み付けた。
「???あんたは一体何をしたいんだ。……子供を連れ戻して虐待するだけなら……俺には関係ない。あんたの自由にすればいい。……だけど殺したいと望むなら俺は手を引かせてもらう。あんたの共犯になるのは真っ平だからな」
「……何を言うのかと思えば???はっ…怖じ気付きやがっただけじゃねぇか」
敬三は馬鹿にしたような視線を向けると、鼻で笑い立ち上がった。
「お前が嬲り殺せって薬くれたんだろ。???それにあいつを生かしておいた所で薬中じゃお前もメグミも逃げられやしねぇだろうが」
「……つ」
「俺はな、逃げたあの女に和也の死体でも送ってやんのさ。???お前のせいで息子が死んだってなぁ」
敬三は言葉を失うマツダの身体を押し退ける様に階段に足をかけると、腰のベルトを外して手に持った。
「まぁ……お前の言う通りもう少し生かしてやってもいいがな。???苦しむ顔が見たいなら付いてくればいい。殺さない程度に痛めつけるのは得意だぜ」
そう言うと手に持ったベルトを勢い良く床に叩き付けた。
パンッという乾いた音が響き、敬三はそのまま階段を上がって行ってしまった。
 ???そして真っ暗な廊下に、暫くすると激しく鞭を打つ音と和也の悲鳴が響き始めた。
(???怖じ気付いた?)
立ち尽くしたまま、マツダは動けなかった。
怖じ気付いたのだろうか。???いや、紙一重の違いは重要だ。
苦痛に歪む顔を見るのは好きだが、傷が癒える前に追い討ちをかけるのは俺の美学に合わないだけだ。それにそれを繰り返せば結果的には殺してしまうだろう。
やはり俺はここで手を引こう。
覚醒剤取り締まり違反くらいなら大した事はない。殺人の共犯じゃ比べ物にならない。
 マツダは踵を返すと家中に響き渡る和也の悲鳴に眉をひそめながら、玄関へ向かった。
(……俺もあんな奴に付いて行くとは???どうかしてたぜ)
「……どこ……行くの」
靴を履こうと、しゃがみ込んだ時だった。突然の声に見上げると、そこにメグミの姿があった。
「ああ……あんたか。……びっくりしたな。いつからそこに???」
「買い物に???帰るの?いつもは最後までいるのに???」
するとメグミは何かを察した様に、急にマツダと同じ位置まで身体をかがめてその手を掴んだ。
「???逃げるの?ねぇっ」
「……その手を離せ」
マツダは冷たくそう言うとその手を振払い、メグミを押し退ける様にして玄関の外へ出た。
「ねぇ……ッ逃げるならあたしも連れて行ってよ。私もあの人が怖いの……ッ」
その後ろを追う様に飛び出したメグミは、マツダの背中に向かって声を押し殺して叫んだ。
この声を敬三に聞かれでもすれば、自分もどうなるかわからない。そんな恐怖が声を詰まらせた。マツダは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「……あんたも早くあの男から離れる事だな。俺には仏心はないが???あんたにそれがあるなら……」
そう言うと、マツダは鞄から一枚の紙切れを取り出し、ひらりとアスファルトに落とした。
「これで救ってやればいい。……じゃぁな」
そう言うとそのままマツダは何事もなかったかの様に暗闇に消えて行った。
メグミは背後を何度も振り返り、敬三の影に怯えながら、急いでアスファルトに落ちた紙切れを
拾いに行った。
『宮本敬三、家族についての調査書』
そう書かれた紙には、敬三の経歴や家族関係、家族の学歴なども事細かに調べられ???別れた妻の今の住所までも書かれていた。
その紙を小さく畳み、メグミはスカートのポケットにしまいこんだ。
 玄関に戻り、メグミは震える手でそっと扉を開けた。
同時に耳を塞ぎたくなるような和也の悲鳴が突き刺さった。
「お前なんかなぁッ俺の……俺の言う事聞いてそばにいればいいんだよっ」
「生意気に意見なんか言うんじゃねぇ???ッちくしょうッ逃げやがって???」
「ちくしょう……ッそんな目で見るんじゃねぇよ……っ」
バチンッバチンッと鞭を力一杯叩きつける音と、血が出るような枯れた悲鳴が、敬三の怒声とともに何度も繰り返され続けた。
(や……もうやめて)
メグミは耐えきれない様に玄関を飛び出し、その場に崩れ落ちた。
(……怖い……怖いよ敬三さん)
今の敬三の姿は、メグミの知る男ではなかった。
和也が敬三の元に戻って以来、敬三の態度はがらりと豹変し、メグミは買い出しと料理を作るだけの都合のいい女に成り下がってしまっていた。
(もし???もし私がここで逃げたら……)
そんな考えは何度も過った。だがそれ以上は発展しなかった。
(私もあのアイリーンさんと同じ様に『裏切り者』として恨まれるのかしら???)
それを考えるとどうしても離れる事は出来なかった。

第二十四章 悪夢


 
 「???和也……っ」

そう叫んで飛び起きた颯太は、その夢のおぞましさに思わず軽い吐き気を覚えた。
指先の震えがおさまらない。
酷い???酷い夢。
強烈な血のイメージが脳裏にこびりついて、目覚めても消えはしなかった。
 和也がいなくなってから何度か和也の夢は見たが、今朝程の酷いものではなかった。
身体が恐怖に震える。
嫌な予感が颯太の胸を押しつぶした。
闇と、血の夢。そこに和也はいないが、声だけが何度も颯太を呼んだ。
(早く、早く行かないと???)
???殺されてしまう。そんな気がしてならない。
(???頼む。和也を殺さないでくれ)
焦る気持ちとは裏腹に、窓の外の風景はまだ薄暗いままだった。
颯太は仏壇の上のメモを手に取ると、改めて和也の家の住所を確かめた。
そう遠くはない。保育園に光輝を預けて、お迎えの時間には帰って来られるだろう。
颯太はゆっくりと進む時計の針を恨めしく見つめた。

 (やばい???このままじゃ……本当に殺される)

 痛みのせいで眠れないまま朝を迎えた和也は、背筋を走る悪寒に震えながらぼんやりと思った。
日毎に増え続ける傷と、痛みから来る発熱が和也の体力を奪い続けていた。
(……この手首のベルトさえ外れれば……)
手首を拘束しているベルトを、これまでも何度か揺すってみたり引っ張ってみたりしたが、頑丈に巻かれたベルトはびくともしなかった。
???他に脱出する方法はないだろうか。
和也は周りを見回して思案を巡らせた。
(昼間は酔いつぶれているだろうから……当分この部屋には来ないはずだ)
(……そろそろあの女が食事を持って来る。……頼めばこの拘束を解いてくれるだろうか)
そう微かな希望を抱いたが、良く考えればあの女は父親の愛人。もし父親に心酔しているならその事を父親に告げ口するかも知れない。
そんな事を考えていたその時だった。部屋をノックする音が響き、和也は一瞬びくりと身を固めた。
「……食事よ」
その日のメグミは、いつもと違う固い表情で部屋に入って来た。
派手な化粧ときつい香水の匂いは変わらなかったが、表情が幾らか暗い様に感じる。
メグミはベット横にある小さな椅子に腰掛けると、雑炊を少しスプーンに取り、和也の口元へ寄せた。
「……食べれる?」
メグミの声に顔を向けたその時、視線の先に痛々しい跡を見つけた。
「???それ……どうしたんだ?」
頬を殴られたのだろうか。口端に赤い血の跡が滲んでいる。
和也が指摘すると、メグミは慌ててそこを押さえ、顔を背けた。
「いいのよ……私がいけないんだから」
そう笑った顔が、父親と離婚する前の母親の姿にデジャヴのように重なる。
嫌な記憶が繰り返されているような錯角を感じて、和也は思わず強く瞳を閉じた。
「……でもその跡は拳で殴られたんだろ」
「……あなたには関係ないわ。……それより自分の心配でもしたらどうなの」
メグミは会話を断ち切る様に冷たく言い放つと、皿をテーブルに置いて立ち上がった。
「???食べないならもう持って行くから……」
「いや……待って……っ」
部屋を出て行こうとしたメグミの足を、和也の枯れた声が引き止めた。
「……食べるの?」
そう言って仕方なさそうに振り向くと、和也は気だるそうに溜め息を付いた。
「???そうじゃなくて……」
メグミは訳がわからないと言うふうに首をかしげた。
だが拘束された手を突っ張ったまま、必死に身体を迫り出して話そうとする姿に、一体何を伝えようとしているのか興味が湧いた。
「何?」
「……俺の母さんも同じだったんだ。殴られても俺の前では笑ってた。……俺にはわからない。なんで殴られてまであんな奴のそばにいるんだ?」
 思わぬその言葉に、メグミのトレーを持つ指先に力が入った。
今までは愛していたからそばにいた。だが今は敬三に対する不信感と恐怖が全てだった。
一緒にいる意味なんて???
「……わからないわよ」
漏れでた言葉は本心だった。だが一度でも殴られた恐怖を植え付けられてしまえば、逃げる事さえ放棄するしかなかった。
「……母さんは逃げたよ。あんたもここにいない方がいい」
「…………」
「どうするかはあんたの自由だ。???でも俺はここで殺される訳には行かない」
「???逃げる気なの?」
メグミはその言葉を聞くと目を大きく見開いて和也を見た。
「その身体じゃ無理よ。???掴まったら今度こそ殺されるわ」
「ああ……確かに俺もそう思うよ」
体調は最低だったし、手荒に扱われた下半身は歩けるかどうかさえわからなかった。
だがこのままでいる方が危険だと言う事だけははっきりとしていた。
逃げなければ???と気持ちだけがどうしても先走ってしまう。
「……逃げれるかどうかわからない。でも少しだけ手首のベルトを緩めてくれるだけでいいから……頼めないかな」
メグミだけが頼みの綱だった。
少しでも手首の拘束さえ緩めば、僅かな可能性が生まれる気がした。
メグミは眉間にしわを寄せて何度も下唇を噛んだ。
自分がしている事は敬三への裏切り行為だ。なのに何故こんなにも悩む事があるのか。
しばらく考え込んだ後、深い溜め息を付いてこう言った。
「???少しだけ……あいつに気付かれない程度よ」
その言葉を聞いて和也はほっと胸をなで下ろした。
メグミは黙ったままベットに戻ると、手首を拘束しているベルトのバックル部分の止め具からベルトを引き抜き、頑丈そうに縛り直した。これなら何度かもがけば外れそうだった。
「???ありがとう」
和也は心からメグミに感謝したが、メグミは、もしばれてしまった時の事を想像しているのか、唇をきつく結んだまま無表情に言った。
「……多分今夜も敬三さんはこの部屋に来るわ。……悪いけど私にそれを止める事はできない」
身体に植え付けられた恐怖に思わず和也の身体が強張る。和也の身体がどんな状態であろうが、敬三はそれを毎日の日課の様に楽しんで毎晩現れた。
今夜も来るのかと思うと、癒えるはずのない傷が酷く疼いた。
「……わかってる……」
「……もうそろそろお腹を空かせて起きる頃だから食事を作りに下に降りるわ」
「???あ」
部屋を出ようとしたメグミに再び和也が声をかけた。
「何?」
少し苛立った声音でメグミが振り向くと、和也が静かな眼差しを向けて真直ぐにメグミを見ていた。
「???まだ何かやらせようって言うの?」
一瞬その視線に動揺したが、メグミは強い口調で聞き返した。
すると和也は静かに願った。
「……先の尖ったフォークを一本……頼めるかな」
その言葉に、メグミは和也が何をしようとしているかわかった気がした。
だが心は思ったよりも揺れなかった。
「???あなたが何をしても私には何も関係ないんだからね」
そう呟くと、メグミは部屋を出て行った。


第二十五章 悪魔の家


 (……和也はここに???)

 『宮本』の表札を前に、颯太はごくりと息をのんだ。
立派な門扉の奥には庭が見えたが、数年放置されていたのか、無惨な程草が伸び放題になっている。雨戸で全ての窓を閉め切られた外観からは、家の中の様子は全くわからなかった。
空家かと見間違う程の荒れ様だったが、恐らくここに和也がいる事は間違いないと、颯太の中で確信していた。
和也の両親の記憶は颯太の中にはもう残ってはいなかったが、和也の話を聞くだけでどれだけ酷い父親なのかはわかっていた。そんな父親なら尚更再び手に入れようとするだろう。
(……和也???今すぐ救ってやるから)
緊張からなのか、手の平に冷たい汗が流れるのを感じた。
 妻を失ったあの日以来、その失った半身を支えてくれたのは和也だった。
???絶対に彼を失う訳には行かない。
今度は自分が和也を救ってあげる番なのだ???。
颯太は思いきって門扉を開け、玄関前に立つと呼び鈴のブザーを鳴らした。

 暫くドアの前で待っていると、小さく鍵を開ける音がして、その扉はゆっくりと開いた。
「……はい」
顔が少し見えるだけの隙間から女が応対に出た。
「僕は???和也君の友人です。宮本和也君がここにいるはずです。会わせてもらえませんか」
颯太の言葉に、女の顔色が変わったのを颯太は見逃さなかった。
どうやら和也がここにいるのは間違いない様だった。
「ち……ちょっと……」
女はそう言うと、慌てた様に扉を閉めた。
おそらく誰かを呼びに言ったのだろう。颯太は扉の前で待つ事にした。
十分くらい経っただろうか。その間家の中からは目立った音は一切聞こえて来なかった。
(……和也……無事なのか)
和也のそばに行って今すぐその呼吸を確かめたい。
込み上げる強い想いに思わず、自らその玄関のノブに手をかけたその時だった。
「……あんた誰だ」
突然その扉が開き、低い声が颯太上の方から聞こえて来た。
大きな気配と威圧感に顔をあげると、そこにはひげ面の大きな男が立ち、颯太を見下ろしていた。
男は酒臭い息を吐きながら、気だるそうな目をぎょろりと颯太に向けた。
「???あなたが……」
颯太は言葉を失った。これが和也の父親。あの傷を付けた本人だ。
レスラーのような身体つき。この太い腕で和也を殴るのか。???想像しただけで身震いがした。
 
 敬三は突然尋ねて来たこの見知らぬ男を見ながら、うっすらと脳裏に残る記憶を探していた。
何処かで見た事がある。だが昔から知っている訳ではない。そう言えば最近見たような???。
少し考えた後、ようやくマツダが見せてくれた写真を思い出した。
「ああ……あんたが息子を誘拐してくれた先生か」
(そうだ。マツダが撮って来た和也の写真に一緒に写っていた男。
随分と親し気に見えたが、一緒に暮らしているうちに情でも湧いたか???)
目の前の細っこい男が、必死に鋭い眼光を向けている様がおかしくて、敬三は思わずにやりと口元を緩めた。
「???和也君に会わせて下さい」
颯太は自分がした事に後悔はなかった。
この男の言葉は胸に刺さったが、あの時和也をそのまま泊めずにいたら???それこそどうなっていただろう。
だが和也の闇に手を出してしまった以上、最後までこの男の手から守らなければならない。
「和也?いねぇよ。出て行ったきり???探したんだけどなぁ」
敬三はそう言いながら胸ポケットからタバコを取り出すと、火を付け、吹かした煙をわざと颯太の顔の前に吹き付けた。
「???うっ」
「???帰んな。どうせうるせぇ説教でもしに来たんだろ」
まるで煩いハエを追い払うかの様に手をひらひらさせると、敬三はそのまま玄関を閉めようとした。だが颯太は扉がしまる瞬間にその隙間に片足を滑り込ませ、無理矢理そこに身体を押し込んだ。
「???ああ?何すんだてめぇ???」
「ここにいるのはわかっているんですっ」
颯太はドアに挟まれたまま必死に身体をよじり、何とか肩まで中に押し入れる事ができると、出来る限りの声で叫んだ。
「和也っいるんだろっ和也???っ」
「???ちょっ???てめぇいい加減にし???」
「和也???っ」
「チッ???このっ」
突然わめき始めた颯太に、敬三は慌ててドアを開け、襟首を掴み上げると物凄い力で颯太を玄関の中に引き込んだ。
「???大声を上げやがってっ近所迷惑だろうが」
「和也っ…………うっ」
突然引き込まれた勢いで玄関の中に倒れ込んでいた颯太は、低く怒りを帯びた敬三の声を無視して、そのまま和也を探そうと立ち上がった。
だが、その異様な臭気に思わず息を詰めた。
 雨戸を閉め切っているせいで、まだ昼間だと言うのに家の中は真夜中の様に薄暗かった。
そして家中にこもった吐き気のするような臭い。
それはカビ臭さと汗???そして鉄の混ざった異臭。
「和也……ッ」
こんな所に???そう思うと胸が締め付けられた。
薄暗さに目が慣れると、視線の先にニ階へ続く階段が見えた。
「和也っ和也???っ」
「???なんだなんだうるせぇ先生だな」
ニ階へ駆け出そうとするその背後に、颯太の筋肉を萎縮させる低い声が響いた。
大きな影が、薄笑いを浮かべながらゆっくりと近付いて来る。
「……遊びに来たならそう言ってくれよ先生」
「……っ」
「へへっそう睨むなって」
「あなたには和也の親の資格はないっ???和也はどこですかっ」
颯太は真直ぐに敬三に向き合い、言葉を叩き付けた。
「ぷっ???親の資格???ねぇ」
タバコの灰を床に落としながら、敬三はおかしそうに笑い出した。
「……そんなものとっくの昔に捨ててるさ。あいつはただのお荷物だ」
「な……」
「丁度使いもんにならなくなって困ってたんだ。どっかに捨てて来てくれよ先生???」
???背筋に寒気が走った。
「???和也っ」
颯太は急降下するような予感に、慌てて踵を返すとニ階への階段を駆け上がった。

第二十六章 殺意


 階下から響く物音に、目覚めた和也は耳を疑った。

確かに、自分を呼ぶ声がした。そしてその声は夢にまで見た???
『颯……太さ……ん?』
何度も何度も呼ぶ声に必死に返事を返したが、枯れ果てたノドから声は出なかった。
(ああ???来てくれたんだ)
懐かしささえ感じるその声と存在に、和也の中に一気に安堵感が込み上げる。
???もうあの場所には二度と戻れない。
颯太にも光輝にも会えないままここで殺されるのだ。
???そう諦めかけていた。
(颯太さん……)
思わず涙が溢れた。
(……あ)
???だが涙を拭おうとした時、目の前に繋がれた両手があった。
一気に危機感が甦って来る。
 父親は颯太にまで危害を銜えたリはしないだろうか。
???胸の奥がざわついた。
(……いや、あの人ならやりかねない)

 今の自分にどれだけの力が残っているのかわからない。
しかし自分が動けなければ、颯太の荷物になってしまうだろう。
(颯太さんに迷惑をかけるのは絶対にダメだ)
和也は必死にベットに繋がれた手首を引っ張り始めた。
(メグミが少し緩めてくれたはずだ。もう少しやれば解けるはず???)
ギシギシと音を立てて擦れあうベルトは、和也の手首の皮膚をも削って行く。
痛みを堪えながらも、和也は何度も引っ張り続けた。

その間にも階下から颯太の声が和也の名を呼び、階段を上って来る。
敬三の足音がそれを嘲笑うかの様にゆっくりと付いて来る。
(早く……っ)
部屋に近付いて来る足音に、和也は更に引っ張る力を強めた。
そして何度めかにようやくその瞬間は訪れた。
一瞬ゆるんだ感覚のあと、ずるりと解けたベルトがベットの上に落ちた。
(は……外れた)
和也は痛みに痺れた指先をゆっくりと胸元に下ろした。
そしてゆっくりと身体を横向きに丸め、何とか起き上がろうと試みてみた。
『うぅ???っ』
身体中に打たれた鞭の傷が、動く度に激しく引きつる。
その全身の皮膚が破けてしまいそうな痛みは、とても動けるものではなかった。
それでも何とか立ち上がろうと、和也は必死にベットに手を付き、上半身を起こした。
(……よし……っこのまま???立て……っ)
だが???体力を失ったその身体はバランスを崩し、和也はそのままベットの下に崩れ落ちてしまった。???その瞬間、部屋の扉が音を立てて激しく開いた。

「???和也っ」

 扉を開け放った瞬間、颯太の視界に入って来たのは、血に染まった背中を向けてベットの下に倒れている和也の姿だった。
(そ……た)
「???和也っ大丈夫かっ」
真っ先に和也の元に駆け寄った颯太は、その身体を抱き上げて言葉を失った。
炎のように熱い身体。ぐったりとしたその身体はボロ布の様に引き裂かれていた。
「……困るなぁ先生よぉ。……今度は息子をどこに連れて行く気なんだい」
ゆっくりと部屋に入って来た敬三は、にやにやと二人を見下ろしながら後ろ手に扉を閉めた。
「こ???こんなの虐待なんかじゃない……っ」
あまりのショックに叫ぶ声が震える。
和也の喉元についた痣や身体中の傷は、間違いなく殺意を感じさせるものだった。
「……そうかもなぁ」
そう言いながら敬三は後ろ手に扉の鍵を閉めると、じりじりと和也を抱える颯太の元に歩み寄った。颯太の身体が恐怖に固まる。
和也はぐったりと颯太の腕の中に横たわったままだったが、目だけは真直ぐに敬三を睨み付けていた。
???拳の中に隠した小さなフォークを握る手に力が入る。
(もし父さんが颯太さんに危害を銜えたら???)
こんな小さなフォーク一つでは殺す事は出来ないだろう。
でも目玉の一つくらいなら潰せるかも知れない。
 
 和也は自分の中に新たな感情がはっきりと生まれるのを感じていた。
それは始めての殺意。
不思議な事にそれは今まで一度も思った事はなかった。
母親を異常な程溺愛していた父が、離婚後自分に暴行を銜え始めたのは、身替わりだから仕方がないと、ただ同情とあきらめと???恐怖だけに捕われ続けていた。
???颯太に助けを求めた時も『殺意』は浮かばなかった。
だが今は全く違っていた。
この男を殺さなければあの場所には帰れない。そんな気がした。

「おい???てめぇなんだその目は」
恐らく、今まで一度も向けられた事がなかったであろうその視線に、敬三は怒りをあらわに低い声で唸った。敬三は力なくうずくまる和也の髪をグローブのような手で鷲掴みにすると、荒々しく掴み上げた。
『うあっ???っ』
「???和也っ」
「なんだその目は。???俺が憎いってか」
敬三は和也の髪を掴み上げたまま皮肉な笑みを浮かべると、突然頬を拳で殴りつけた。
薄暗い密室に鈍い衝撃音と和也のくぐもったうめき声が響く。
「???やめろっ死んじまうっ」
『そ……た』
颯太は必死に敬三の腕を掴み、和也から引き離そうとしたが、敬三は颯太の存在など無いかの様に和也を殴り続けた。
???力でこの男を止めるのは無理だ。
だがこの男を止めなければ和也が殺されてしまう。
颯太は焦った。???どうしたらいい。どうしたら???。
その時、部屋の隅にあるテーブルの上に鋭い切っ先のハサミが置いてあるのが目に入った。
敬三の目に颯太の存在は入っていない様に思われた。
???和也を救わなければ???
あの悪夢よりもリアルに、あの夢の像が濃さを増していった。

 「てめぇもあいつと同じ様に俺にそんな目を向けやがんのかっ???」
(父……さん?)
殴られながら、和也は腫れた目蓋の向こうに見える父親の目にいつもと違う変化を感じていた。
こんな言葉を聞いたのは初めてだった。
「ちくしょう???てめぇも裏切るのかよ???ちくしょうっ???」
どこを見て、誰を殴っているのか。その目はもはや常人のそれとは違っていた。
狂っているのかわからないが、???ここで殺される訳にはいかなかった。
ただ、和也の意識は朦朧とし、再び闇に引き込まれそうになっていった。
???チィンッ
突然響いた小さな金属音に、敬三の拳が止まった。
(ああ……)
その音の正体を探すべく、敬三の目がじろりと床を這い回る。
敬三の目に止まったのは、和也の手の平から滑り落ちた小さなフォークだった。
それを見るなり、敬三の目の光は異常さを増した。
ダンッとフォークを踏み付けると、意識の朦朧とした和也の身体を床に叩き付けた。
その衝撃で、和也の意識はぷつりと途絶えてしまった。
「???こんなフォークで俺を殺す気か????」
人形の様に床に転がった和也を睨み付けると、敬三は不気味に笑いながら、倒れた和也の元へ近付き、その首に手をかけた。
「ちくしょう???殺してやる……殺してやる……っ」
うわ言の様にぶつぶつと言いながら、その手に力を込めた???その時だった。

「やめろっ……やめろ???っ」
悲鳴にも似た颯太の叫び声のあと、その身体は敬三の背後から脇腹に向かって激しくぶつかったっていった。
「???ぐっ???あぁ?」
突然脇腹に走った痛みに、敬三は呻いた。
訳がわからないという様に後ろを振り返ると、そこに自分の腹に何かを突き刺している男が見えた。
(……誰だこいつ???)
頭の中が混乱していた。???愛した妻が俺を殺そうとしているのか。
あの女の置いて行ったプレゼントが俺を殺そうとしたのか。
「ぐわぁっ……痛ぇっ???」
「……ひっ」
敬三の腹に突き刺したハサミから血がどくどくと溢れ出るのを見て、颯太はその震える手を離せずにいた。その刃先が男の身体にめり込んでいる現実に、一気に血が下がる。
???だが自分の腹から血が溢れ出すのを見た敬三が、突然大声を挙げて暴れ出した事で、その手は凶器から振り放され、颯太はその場にへたり込んだ。
「ぐぅぅっ痛ぇっ???血がっ血が止まらねぇ???」
激痛に身体を丸めてうずくまったその腹部からは、止めども無く血液が流れ続けてゆく。
「おい???あんた」
血に汚れた床に身体を沈めた敬三と目が合った。
敬三は蒼白の顔でがたがたと震える颯太に向かって、うめき声の混ざった声を絞り出した。
「痛ぇ……っ死んじまうよ……救急車呼んでくれよ……頼むよ」

 血だらけの恐ろしい形相で懇願する敬三の姿に、颯太は溺れる魚の様にただ呼吸を必死に繰り返していた。???恐怖で震える唇からがちがちと歯が音を立る。
(僕は何て事をしてしまったのだろう)
真っ赤に濡れた手の平が、取り返しの付かない事をしてしまったのだと現実を突き付ける反面、
(???早く死んでくれ)
と、心から願わずにはいられなかった。
もう???どうでも良かった。何もかも。和也が生きていさえくれれば。

恐怖に目を閉じた颯太が、短い呼吸を何度かした後、敬三はもう動かなくなっていた。


第二十七章 手をつなごう

???母さん。
どこへ行くの。早いよ。もっとゆっくり歩いてよ。
母はまるで酷く邪魔なものが付いて来る様に眉をひそめ、黙ったまま歩き続ける。
待ってよ。???手を繋いでよ???。

 夢のような、記憶のような。そんな感覚のまま、和也はぼんやりと意識を取り戻した。
(……なんでこんな夢を???)
虚ろにそんな事を思ったが、ふと鼻を付いた血の匂いに、和也ははっと目を見開いた。
(……颯太!)
???そうだ。あの後???あの後どうしただろう。
握っていたフォークが見つかって、俺は床に叩き付けられて???。
和也は全身の血が、床に吸い込まれてゆくような感覚に身震いをした。
そして部屋中が妙に静かな事に気が付いた。
悪い予感だけが脳裏を埋め尽くす。まさか???まさか。
痛みに震える身体を必死に引き上げ、和也が見た光景は???絶望そのものだった。
腹にハサミを突き刺したまま動かない血塗れの父親と、血色に染まった床に座り込んだ颯太の背中。まるで時間が止まったかのような動かない光景の中に、颯太の呼吸だけが聞こえている。
???はっ、はっ、はっ、はっ???
過呼吸気味の呼吸に肩が小刻みに震えていた。
「颯太……っ」
和也は必死に声を絞り出し、颯太を呼んだ。
その声に颯太の背中がびくりと跳ね、颯太はゆっくりと振り返った。
「か???和也……」
振り向いたその顔は青白く、見開いた瞳は恐怖に揺れていた。
???心臓が鋭い爪で切り刻まれる様だった。
その肉片が床に散らばり、もう元には戻れない絶望感が和也を押し潰した。
「颯太……っ」
???何てことを。
俺は何てことをさせてしまったのか。
和也は必死に動かない身体を引きずり、颯太の元へ辿り着くとその震える肩を出来る限りの力で強く抱き締めた。
「か???和也……ぼ???僕は、……き、君のお父さんを???」
震えてうまく舌が回らない。
ただ人間の血液にぬめる指先が、余りにもリアルで???
冷めてゆく脳裏に颯太の中に抱えきれない現実が襲い掛かった。
???そうだった。和也を殺そうとしていた大男は和也の父親だったのだ。
「か……和也」
どうしたら???どうしたらいい?
どうしたら???。
極限まで追い詰められてゆく精神が、逃げ場を見失う。
ただ???君を守りたかっただけなのに。
「颯太さんっ颯太さん???しっかりしてっ???俺を見てっ」
あまりのショックに、颯太の意識が何処かへ行ってしまいそうな危険を感じた和也は、必死で颯太の肩を抱き、強く揺すった。
「和也……ごめんっごめん??」
ただそれしかないと言う様に、颯太は和也の腕の中でその言葉を繰り返した。
「???謝らないで???あなたは何にも悪くないんだから???」
「か???和也…僕は何てことを??」
「俺が、俺が殺せば良かったんだっ???あなたは汚れちゃいけない人じゃないかっ???」
血を吐くような叫びだった。
その声に、颯太の震えが止まった。
「……あなたはあの場所に戻らなきゃいけないんだ……ッ」
「か……ずや」
「俺が殺した事にすればいい。あのハサミの指紋を拭き取って俺が握れば???」
自分がどうなっても構わなかった。光輝の待つあの場所へ。あの日常に戻さなくては。
「???だめだよ……」
颯太の冷静な声に、和也は颯太をゆっくりと見た。
その目は静かに和也を見つめ、うっすらと微笑んだ。
「君がその身体で動けるはずないじゃないか。返り血を浴びてるのも僕だ。???無理だよ」
「???でもっ」
「……僕は最低な父親だな」
颯太は和也の言葉を遮る様に言うと、悲し気に笑った。
「光輝の事はすっかり頭になくて……君を助ける事ばかり考えていたよ」
和也の目から涙が溢れた。
暖かいあの場所の記憶が、十字架の様に胸に突き刺さる。
堪え難い痛みに、胸を押さえて倒れ込みそうになる。
溢れる涙に呼吸さえまともに出来ない。???俺はこの人の全てを奪ってしまったのだ。
「そ……た」
和也は喘ぐ様に颯太の頬を撫で、唇を求めた。
謝罪でもあり、ぬくもりに飢えた唇を抱いて欲しかった。
颯太の血に染まった手の平が、それに答える様に和也の肩を抱いた。
そして青く震える唇がそっと触れた。
???何度となく夢を見た感触。
そっと離れると、涙に濡れた颯太の瞳があった。
「???さっき下に隠れていた女の人が来て、悲鳴を上げて逃げて行ったよ。……多分通報してもうすぐ警察が来るだろう……」
「……だめだ……っだめだよっ???逃げよう颯太さん」
自分が無理な提案をしている事は百も承知だったが、どうしても、???何とかして颯太を救いたかった。だが必死に颯太の手を取り、立ち上がろうとしたその身体は、和也の意に反して全く動かなかった。
「……和也……無理しなくていい。このままでいいんだ」
「???なんで俺動かないんだ……っあなたを守る事も出来ない……ただの重荷じゃないか」
悔しさに、和也は動かない足を何度も殴りつけた。
「???和也……それは違う」
颯太は静かに頭を振ると、荒れ狂う和也の拳をそっと手に取った。
「僕は???和也が来てくれて救われたよ。十分……孤独から守ってくれた」
「颯……太」
「だから???お返しをするのは僕の方なんだ」
???その時、遠くの方から聞こえて来るサイレンの音がした。
それはまるで二人の時間が残り少ない事を知らせる様だった。
「もうあと少しだけ……君といられる。……どうして欲しい?」
???息が、止まりそうだった。
こんなに愛しいと思った人はいなかった。

「手を???手を繋いでいて」

子供の様に手を差し伸べて懇願した。
ああ神様。???頼むからこの人だけは返してあげて。

指と指とを絡め合い、手の平が合わさる。
染み込んでゆく温もりに、二人は深く目を閉じた。

「光輝を???頼むよ」

束の間の温もりは、階下を駆け上がって来る第三者の侵入によって突然断ち切られた。
「う???動くなッ」
部屋へ入るなり、目の前に広がる惨状に一人の警官が声を荒げた。
血の海の中で死んでいる大男と、その横には傷だらけの全裸の男と血塗れの男。
むせ返るような異臭で充満した部屋を見渡すと、血で汚れたベットには明らかな拘束の跡があり、その現状を見ただけで、だいたいそこで何があったのかわかった気がした。
 
 二人の手の平は簡単に引き離された。
颯太は何の抵抗をする事なく、手錠を掛けられ連れて行かれ、和也は警官の持って来た毛布に包まれたまま、まるでガラスの向こうから覗いているような感覚で眺めていた。

嘘だと、まだ信じていたかった。

第二十八章  真実

 一人の老婆が和也の病室にやって来たのは、入院から三日目の朝だった。

 警察から依頼を受けて藤森颯太の弁護をすることになった河村は、この事件が起きてしまった経緯を知る為に色々と情報を集め始めていた。
その一貫として和也の入院する病院へ通うようになったのだが、???河村は病室に入るその度に、気が滅入るのを感じずにはいられなかった。

 病室の扉を開ければ、いつも白いベットの上に目を背けたくなるような現実が静かに息をしている。腫れ上がった顔や身体には包帯がぐるぐると巻かれ、昨日も一昨日も熱が下がらないまま、とても話ができる状態ではなかった。
???ここまで殴る必要があるのか。
河村は胸に込みあげる怒りに拳を強く握った。
自身は結婚もしていないし、もちろん子供もいなかったが、四十五歳という年令ならこの青年と同じくらいの子供が居てもおかしくはない。しかも彼をこの状態にしたのは実の父親であると言う。それがとても信じられなかった。
 
 今日は話が聞けるだろうか。???河村は静かに病室の扉を開けた。
河村は窓から差し込む白い光に、目を細めた。
「宮本君……?」
視界の先に映るベットにいつもと違う気配を感じた河村は、和也が目を醒ましたのかと思い声をかけた。だがすぐにそれが勘違いだと気が付いた。
後ろ手に扉を閉めて部屋の中へ進むと、そこには腰の曲がった小さな老婆が立っていた。
「あ……っ失礼しました」
「ああ……いいえ、こちらこそ……」
その老婆は背を向けたまま、顔を少し傾けてそう言うと、また黙ってベットの方に向き直ってしまった。
(???宮本君は起きているのだろうか)
河村は黙ったままじっと和也の方を見つめ続けている老婆を不思議に思いながら、そっと和也の顔を確認しようと身を乗り出して覗き込んだ。
覗き込んだ視線の先には???力なく目を開いた和也の姿があった。

「???本当に……あの女そっくりだね」
老婆は小さくそう呟くと、和也に冷たい視線を向けたまま、ベット脇の椅子に腰を下ろした。
「……明日敬三の葬儀があるんだよ。……ああ、来なくていいからね。喪主を頼める状態じゃないのはわかってるから」
(あ……確か彼の殺されたお父さんだったよな)
河村は老婆の背後に立ちながら、その年令から恐らく宮本敬三の母親なのだと推測した。
すると彼は老婆の孫に当たるはずなのだが、その彼に対する接し方には愛情の欠片も感じられなかった。
老婆は黙ったまま見つめる和也に明らかな嫌悪の表情を浮かべ、眉間にしわを寄せて叩き付ける様に話を続けた。
「???とにかく、和也もこんな事があったんじゃあの家には戻りたくはないだろうから???」
和也は一言も、何も言わないまま老婆を見つめ続けていた。
そして時折全てを放棄するような視線を向けて目を閉じた。
「???悪いんだけどねぇ、もう金輪際宮本の家には関わらないって一筆書いて欲しいんだよ」
そう言うと、老婆はひじにかけた小さな鞄から一枚の紙を取り出した。
「何にも言わないならそれでもいいよ。……とにかく???頼んだよ」
老婆はその紙をベットの上に置くと、そのまま椅子を立ち、長居を嫌う様に部屋を出て行ってしまった。
???その後には酸素を奪われたような息苦しい空気だけが残った。
「???あなた誰……」
「……あ、」
嵐の様に立ち去った老婆の姿にあっけに取られていた河村は、和也の声に始めて呼吸を再開したかの様に息を吸った。
「は???初めまして。私は藤森颯太さんの弁護を担当する事になった???河村です」
そう言って差し伸べた右手を、和也は握り返す事はなかった。
「颯太……の」
???目の色が変わる。先程の死んだ目ではない、感情の関が一気に解放されたかのような豊かな瞳が、河村を見つめた。
「……そう。私は藤森颯太さんを救う為に来たんだ。安心していいんだよ」
「???は……」
和也は緊張が解けたのか、目を閉じてほっと息を付いた。
「……君が良ければ色々と話を聞かせて欲しいんだが……いいかな」
和也から話が聞ける様になるまでの数日、河村は出来る限りの情報は集めたつもりだったが、やはり当事者に確認する必要があった。
それに先程の老婆が言っていた事が気になって仕方がなかった。
「???俺が話す事で颯太さんが有利になるなら……何でも話すよ」
「ありがとう。……でも少しでも具合が悪くなったら言ってくれよ」
「……はい」
和也は両手を腹の上で組み、落ち着いた様子で河村の質問を待った。
河村は椅子に座ると手帳とペンを取り出し、軽い緊張感を感じながら質問を始めた。
「……取りあえず気になっている事を聞いてしまうが……さっきの御老人は君の祖母かい?」
「……ええ。そうです」
和也は先程の老婆の姿を想像したのか、冷めた目つきになり、頷いた。
「……それにしちゃあ随分と冷たい言い種だったじゃないか」
「…………」
「金輪際かかわるなって???」
河村は先程言い放った老婆の言葉を思い出しながら、微かな怒りが込み上げるのを感じていた。
冷静さをとり戻す為に一呼吸置いてから、河村はゆっくりと続けた。
「???他人が口を挟む事じゃないかも知れないが、君が置かれている状況を理解するのも私の仕事なんだよ。……君のテリトリーに土足で踏み込むのを許して欲しい。……いいかい?」
河村は、出来るだけ優しく言葉をかけた。
初対面の人物にいきなり心を許す方が難しいのだから、ディープな質問をする以上、一応断わりを入れておかないといけない。でなければいつその扉が閉ざされてしまうかも知れないからだ。
「???わかりました」
和也は心を決めた様に頷くと、しっかりと河村を見た。
「では???あの君のおばあさんはどうしてあんな事を行ったのか……わかるかい?」
「……それは……俺が生まれて来てはいけない子供で、認めたくない汚点だからだと思います」
「???汚点?」

 和也はまた深い溜め息を付いて話し始めた。
それは和也が高校二年生の夏。
家出しようとした母親が、家を出る直前に和也に告白した真実???。
「……父さんは母さんのストーカーで、母さんを無理矢理レイプして生まれたのが俺なんだと言ってました」
和也は震え出す指を隠す様にシーツを握りしめ、話し始めた。
その内容に河村はメモを取るのさえ忘れたまま、言葉を失っていた。
???耳から入った情報が、ギザギザの爪を立てて脳内を駆け巡った。
あまりにも酷い話に、河村は思わず目を伏せた。

 和也が言うには母親は敬三の恐ろしいまでの独占欲の中で、孕まされた子供を産むしかなかったのだと言う。
本国へ帰る事も出来ず、実家への連絡さえも事細かに監視され続ける中、体制を異常な程気にする敬三に、彼女は軟禁状態のまま必死で仲睦まじい家庭を演じて来た。
それでも初めの頃は、レイプされた事実を敬三の両親へ訴えた事もあったが、誘惑したのはあなたの方だろうと一点張りでまるで話し合いにはならず、結果、生まれて来た和也は『誘惑して勝手に産んだ子供』として扱われ、顔が似ていなかった事から、祖父、祖母からの一切の愛情は断たれてしまったのだという。
だが妻のストーカーである敬三の狂気が、彼女に良く似た子供が生まれた事でどんどん加速して行く反面、彼女は『レイプされて生まれた子供』を愛せずにいた。
???つまり宮本和也は誰にも愛されずに生きて来た子供だった。
「……母さんは君を連れて行かなかったの」
河村の質問に、和也は遠くを見てほんの少し悲し気な笑みを浮かべた。
「……俺は母さんの身替わりだから???」
「???でも今回君が酷い傷を受けたのはお父さんの暴力が原因なんだろう?……君に対して謝罪もない上にもう関わらないでくれとは???」
「……祖母は父さんを溺愛していて……そんな事は絶対にないって信じないんです。母さんの時もそうだったって。???だから僕は……多分祖母から見れば、友人を使って息子を殺した『父親殺し』の犯人という解釈になっているんだと思います」
「???『父親殺し』?」
頭が混乱してゆくのがわかった。
ひょうひょうと語る和也を見ながら、河村は彼の心理も侵されていると感じた。

 ふと、河村はカーテン越しに差し込む光が高くなっていた事に気付き、部屋の壁時計に目をやった。正午を少し過ぎた頃だった。
「???ああ、ちょっと長居してしまったかな。???大丈夫かい?」
そう平静を装いながらも、河村はショッキングな世界に引きずり込まれたまま、何だか足下がおぼつかなかった。河村が椅子からふらふらと立ち上がるのを眺めながら、和也はそれを見抜いているかの様に小さく笑った。
「……あなたこそ大丈夫ですか。河村さん」
「いや???また明日来るよ。たくさん話してくれてありがとう」
 
 おそらく廊下で話が終わるのを聞き耳を立てて待っていたのだろう。白衣に三角巾をした厨房の職員が、折を見て「失礼します」と声をかけ病室へ入って来た。 
「ああ???お待たせしてすいません」
河村は昼食をトレーに乗せて運んで来る職員の横を通りながら、そのまま部屋を後にしようとした。だがその時、和也の声が河村を引き止めた。
「藤森……颯太さんに伝えて下さい。俺は大丈夫だから、光輝も守るからって???」
「……ああわかった。伝えておくよ」
ベットから身を乗り出す様に行ったその言葉は、多分彼の唯一の命綱なのだろう。
???仕事ではなく、彼の話を聞いてあげる事も救う手立てなのかも知れない。

河村はそう思えてならなかった。

第二十九章 命の綱

 彼と始めてあった日から約二週間が過ぎた。
その身体を被っていた白い布はほとんど取り去られ、腫れ上がっていた皮膚は正常な色を取り戻しつつあった。
だが和也の回復を喜ぶ反面、河村はこれからの事を考えると気が重くなった。 
仕事柄、現実を突き付けなければならない立場にあるのはわかっているが、それは何年仕事をしていても慣れるものではない。
 河村は病室の前に立ち一呼吸置くと、いつものように扉をノックし、病室の扉を開けた。
「よう」
「あ、河村さん」
明るい声が河村を迎える。
この和也の明るい笑顔は、ここ最近ようやく河村が手に入れたものだった。

 やはり和也の心は頑なに閉ざされていた。
初めの頃は精神的ダメージの為か、河村と馴染む事を極端に怖がっているように感じた。
一つの質問を答える度に河村の表情を伺うその姿は、親の機嫌を伺う幼子にも良く似ていた。
和也は思い出したくない記憶を一つ一つ掘り起こす作業に苛立ち、激しく河村を拒絶した時期もあった。だがどんなに拒絶しても、河村は根気良く和也の病室へ通い続けて来た。
 忘れ去りたい記憶を思い出せと言うのだから、もはや拷問に近い作業だった。
だがそれは宮本敬三という人物がいかに狂人だったかを立証する為だった。
そんな河村に根負けしたのか、ようやく和也は心を開き始めた。河村自身も、身寄りのない和也の事を息子の様に思いながら接しているうちに、『私』から『俺』と言葉遣いも砕け、それに呼応するように和也も次第に河村に懐く様になっていったのだった。

 「随分と元気になったじゃないか。……明日退院だって?」
河村はベット脇の椅子に腰を下ろすと、和也が先程まで読んでいたらしい文庫本を手に取った。
「……どんなの読んでるんだ????おっ恋愛ものか?」
「……さっき看護士さんに借りたんですよっ???もう返して下さい……っ」
和也は照れた様に河村の手から本を奪うと、その本をベットの中に隠してしまった。
「いいじゃないか。???恋愛はいいぞ。心がひと皮剥けるからな」
「???やだなぁ。みかんじゃあるまいし……」
そう笑った和也の笑顔が、一瞬、???ふと影を落とした。
「……どうした?」
先程とは違うその表情に、河村が心配になって声をかけた。
すると
「???明日どうしようかなあって思って……」
和也はそう呟くと、深い溜め息を付いて窓の外を眺めた。
窓の外には薄暗い曇天の空が映っていた。今にも降り出しそうな空模様だった。
「???明日……」
河村はその質問に思わず口籠った。
彼は自分の置かれている状況を理解した上でそう聞いたのだろう。
彼には帰る場所がない。???確かに今の彼は身寄りのない捨て猫同然だった。
「……明日退院したら……俺どこへ帰ればいいですか」
そう言った和也は、緊張した指先でシーツを強く握ったまま、伏し目がちに河村の瞳を見つめた。

「???和也君は……どうしたい?」
???これからどうすればいいのか。
そう聞かれる事はこの事件を担当した時から、予想していた言葉だった。
もちろんあの家には帰れないだろうし、彼を保護していたと言う藤森颯太の家にも今は誰もいない。身寄りのない彼にとって、これから過ごす場所はいわゆる藤森颯太を待つ『巣』になる場所だ。長い孤独に耐えうる場所である事が一番望ましい。
本人がどうしたいのかを希望が聞きたかった。
その場所を本人が選ぶ事が、一番ストレスにもならないだろうと河村は思った。
『???部屋を借りる事もできるよ』
そう河村が言いかけた時、和也は息を吸い込んで下唇を軽く噛み、小さく呟いた。
「俺???河村さんの家に行きたいです……」
「お???俺の家へ?」
予想外の言葉に、河村は思わずひっくり返った声をあげた。
「俺、これからどうなるのか何にもわかんないし???」
そう言いながら和也は不安げにシーツの上に視線を泳がせた。
「……河村さんのそばにいれば安心できる気がするんです。……ダメですか?」

『タスケテクダサイ???』
思わず和也がそう叫んだような気がした。
その背後に断がい絶壁でもあるのか?銃を持った奴が追い掛けでもして来るのか?
そんな事を想像する程その視線は必死だった。
河村は思わずその強い視線から逃げる様に顔を背けると、すっと立ち上がり、和也の頭をポンと軽く叩き呆れた様に言った。
「ああ、ああ。わかったよ。……どうせ一人暮らしだ。君が来て文句言う奴はいないだろう」
「???本当に?」
河村の言葉に、和也の瞳が一瞬にして華やぐ。だが河村はそれにストップをかける様に低い声で和也にそっと囁いた。
「その代わり???と言っちゃなんだが、これから話す事をきちんと聞けるかい?」
打って変わった河村の真剣な眼差しに、和也は黙ってしっかりと頷いた。
「藤村颯太さんが今朝拘置所に移されたよ」
河村のその言葉に、一瞬和也の肩がびくりと揺れた。
「拘置所……」
「ああ。……これから判決が出るまでしばらくそこで過ごす事になるだろう」
河村はそこで言葉を区切り、そっと和也を見た。
そこにはシーツを握りしめながら、何かに耐える様にベットの一点を見つめる和也の姿があった。
 二人の事を調べるうちに、河村は和也と颯太が互いに想いを寄せあっている事はわかっていた。
河村は同性の間でそのような感情が生まれる事実を、なるべく柔軟に受け止めようと努力したが、全てを受け入れるには少し抵抗が残っていた。
しかし目の前で不安に怯える青年は、ただ不器用に愛を求め続けているだけだった。
その真直ぐ過ぎる想いに、性など関係なく思えて来る。
ただその不器用さが不安だった。???長い孤独が続くだろう。彼に絶えられるだろうか。
「???藤森颯太さんのしたことは、……たとえ庇った上での事だったとしても、殺人には違いない」
「殺……人」
その言葉が、和也の心に刺さる。
揺らいだ瞳に激しい動揺が浮かんだのを河村は見逃さなかった。
「……続けても大丈夫かい」
「???大丈夫……続けて下さい」
和也は自分を納得させる様に二回程頷くと、改めて河村に向き直った。
「弁護士として量刑を考えると、殺人なら懲役十五年。ただ今回の事情と初犯と言う事で十年くらいが妥当じゃないかと思う」
「???十年……」
見る見るうちに和也の顔色が青ざめていった。
「法という冷めた目で見れば、藤森颯太さんは君の様に暴力を受けていた訳じゃない。それに彼は無傷で???相手方は死んでしまっているからね」
「……じゃぁ一番父さんの暴力を受けていた俺が……俺が父さんを殺していれば……」
「???正当防衛と見なされればもっと刑は軽かっただろうな……」
「そんな???」
言葉を失った和也は、両手で顔を被ったままベットに突っ伏してしまった。
「どうして……」
くぐもった和也の声が聞こえた。
ふと河村の脳裏に、いつか読んだ日本の刑に関する本に載っていた図が思い浮かんだ。
罪人の自白を引き出す為に、ギザギザの突起のある石盤の上に罪人を正座させ、その上に分厚い石盤を重ねてゆくという図だ。
(彼は罪人でもないのに、何故こんなにも重い石盤を抱えなければならないのだろう???)
頭の遠くでそんな事を思いながら、河村はそっと和也の背中を叩いた。
「???でも仮釈放っていう制度がある。うまくすれば四年で出て来られるさ」
その言葉に和也は弾かれる様にベットから顔を上げると、涙の滲んだ瞳で真直ぐ河村を見た。
「???四年?」
「ああ。???それまで君は……待っていられるかい?」

河村はそう言いながら、その手は思わず和也の肩を抱き寄せていた。
胸の中で震える骨張った身体が、不憫でならなかった。
納得のいく事例などほとんどない事はわかっている。だが何故この身寄りのない青年を更に追い詰めなければならないのか。
河村は行き場のない怒りが込み上げるのを感じていた。
「……俺待ちます」
抱き閉めた河村の胸の中から、決意にも似た和也の声が聞こえた。
「俺……光輝育てなきゃ……」
「ああ、それなら安心していい。……光輝君なら今施設に預けられているよ」
???河村は颯太を待つ期間は和也自身の修復に時間を費やすべきだと考えていた。
だが和也は河村の言葉に首を振り、怒ったような口調で言った。
「施設なんてだめだ……っ俺颯太さんに頼まれたんです。光輝を頼むって???」
シーツをめくり上げて身体を起こした和也は、今にもベットから飛び降りて走り出しそうな勢いだった。
「???光輝を迎えに行かなきゃ……」
颯太への罪悪感からなのか、和也の瞳はまるで何かに追い立てられているかのように???どこも見てはいなかった。
「……和也君っ」
「???あ」
突然強い力で肩を掴まれた和也は一瞬動きを止め、ゆっくりと河村の方に顔を向けた。
「……明日でいいんだ。明日光輝君を迎えに行こう」
「……明日……」

 窓の外からアスファルトを打つ雨音が聞こえ始めていた。遠くの方で雷鳴も聞こえる。
曇天の空から地面に叩き付けられる大粒の雨は、病室の窓をも濡らすほど激しかった。
「明日から俺と光輝君の三人暮しだ。???いいね」
河村の囁いた声が、和也の耳にそっと響いた。
そして目を閉じると、いつかの懐かしい暮らしが甦った。
(???颯太さん……)
そう呟くと、和也は張り詰めた力を抜いて河村の胸に額を寄せた。
「……お願いします」
自分が何も出来ない事はわかっていた。
和也にとって河村だけが命の綱だった。


第三十章  見えない未来

 
 
 白い壁とライトブルーの屋根が、低い鈍色の空の下で居心地が悪そうに佇んでいる。

『夕方に迎えに来るからね』
そう言い残したまま迎えにこなかった父親を、光輝はまだここで待ち続けているのか。
小さな施設を前に、和也は思わず河村の背後で詰まる胸を押さえた。
??? 一体何と説明したらいいのだろう。
本当に真実を告げていいのだろうか。幼い彼の柔らかな頬がショックに歪む画が脳裏を何度も掠め、込み上げていく緊張感に握りしめた拳が、冷たく汗ばんだ。
「……大丈夫だ和也君。俺がきちんと話すから」
和也の様子に気付いた河村は、堅く縮んだ和也の背中を軽く叩くと、意を通じ合わせる様に目を合わせ頷いた。真直ぐで強い河村の視線が、逃げ腰になっている和也の目の前に生々しいリアルを突き付けていた。
(逃げるわけには行かない???)和也は思わず息を呑んだ。

 和也が小さく頷いたのを確認すると、河村は意を決した様に門の横に付いていた呼び鈴をゆっくりと押した。
乾いたベルの音が響く。暫くすると、白髪の女性が玄関から顔を出した。
金の薄い縁取りのある眼鏡をした、白髪の???七十歳前後の優しそうな女性だった。
和也は初対面だったが、河村は何度か光輝のもとに面会に訪れていた様で、女性は河村に気が付くと軽く会釈をしてすぐに玄関から出て来た。
「すみません。急なお願いをしてしまって……」
「いいえ……お話は伺っていますわ。……彼が宮本和也さんね」
突然名前を呼ばれた和也が驚いたような視線を河村に向けると、河村は微笑んで頷いた。
「……園長の清瀬です。大丈夫。光輝君は元気ですよ。……どうぞ」
そう言いながら、園長はまだ昨夜の雨に濡れたままの鉄製の門をゆっくりと開いた。
中に入ると、そこは緑の芝生やいくつかの遊具がある、ちょっとした保育園の様だった。
薄暗い曇り空の下、案内されるまま和也は無言で河村の背中に付いて歩いた。
木製の玄関の中に入ると、黄みがかった明かりの下にいくつもの靴が雑然と石畳の上に散らばっていた。
その全てが小さな男の子や女の子の靴ばかりだった。
「……すみません汚くて。昨日降った雨で、長靴を出したら下駄箱に納まりきれなくて……」
園長は小さな靴を並べながらそう呟くと、一足の靴を拾い上げた。
「……これ光輝君の靴ですよ。……もう部屋で準備をして待たせてありますから、ここで少しお待ち頂けますか?」
園長はそう言うと、光輝の小さな靴をすぐに履ける様に向きを直し、石畳の上に置いた。
「ええ……お願いします」
和也は河村の横に立つと、じっと園長の背中がゆっくりと廊下の角を曲がってゆくのを見つめていた。

 遠くの方から子供達の甲高い笑い声が聞こえて来る。
乾いた土の匂いと子供の声が、和也の胸をゆっくりと締め付けていた。
『君のパパは僕を庇って人を殺してしまいました。あと十年は会う事が出来ません???』
???そんな事言えるはずがない。
想像しただけで罪の意識に押し潰されそうになる。
幼い彼から父親を奪った上に、そんな現実まで告げなければならないのか。
「……河村さん……俺……」
和也の呻くような声に振り向いた河村の視界に、指先が血の気を失う程きつくスーツの裾を掴む和也の姿が見えた。
「……俺光輝になんて言ったら???」
喘ぐ様にそう言った和也の声は少し震えながら、必死に救いを求めて来た。
「大丈夫だ。???いいかい、よく聞くんだよ」
河村は深く息を吸い込んだ後、大きな手の平で和也の両肩を強く掴むと、低い声でゆっくりと言った。
「もっと気を楽にしていい。……光輝君は多分君が思っている程弱い子じゃない。何度か会ってパパが光輝君を迎えに来れなかった理由や、今何故会いに来れないのかも、もうちゃんと話してある」
「……???殺してしまった事も?」
和也は皮肉を込めて呟いた。
河村は和也の自虐的なその言葉に薄く笑うと、大丈夫だと言う様に和也の背中を軽く叩いた。
「いや……さすがに殺人という言葉は重すぎるから傷つけた罪でって事にしてある。……光輝君は和也君が受けた背中の傷を見た事があるんだね?表面だけだけど虐待の事を告げたらすぐに言葉の意味を理解してくれたよ」

河村の言葉に、いつか一緒に風呂に入った時の事を思い出した。
上昇した体温に浮かび上がったケロイド状の傷に、光輝は眉をひそめながらも『痛くない?』と優しく気遣ってくれた。
「光輝君にとって君はとても大切な存在みたいだね。パパは和也君を庇ったんだと伝えたら、ほっと笑みをこぼしていたよ。
……だから大丈夫。彼には受け入れる準備が出来ていると思う」
「受け入れる……準備?」
(あの幼い小さな心に????自分がこんなに狼狽えていると言うのに?)
信じられないと言う様に頭を振る和也に、河村はゆっくり言葉を続けた。
「辛い事情を伝えるのは俺の仕事だ。和也君はただ光輝君を父親の代わりに愛してあげて欲しい。……できるかい?」
「……父親の代わり?」
「ああ。恨む対象は俺でいい。長い期間を乗り切るには嘘を付くよりその方がいいと???」

 そう言った時、廊下の向こうから近付いて来る足音に二人の動きが止まった。
河村は言葉を止めたまま冷たい和也の左手をしっかりと握ると、正面に向き直るとその時を待った。
 そこに現れたのは、園長に手をひかれ、俯いたまま歩く光輝の姿だった。
「……光輝君お迎えに来てくれたのよ」
園長に促されても、光輝は唇を噛み締めたまま、俯いた顔を上げようとはしなかった。
光輝の緊張感が和也の肌に痛い程伝わる。
揺れて揺れて保てない程の心を、曝け出しても大丈夫な相手なのか。
多分不安で仕方がないのだと、和也は自分と重ねながらそう思った。
幼い頃、怖い夢を見て不安な目覚めを迎えても、慰めてくれる暖かい胸は和也にはなかった。
大きな声で泣くと嫌がられたし、歩き疲れてだっこを求めると置き去りにされた。
「こ???光輝……」
かける声が震える。和也はまるで自分が母親になった様な感覚に包まれた。
あの母親ではない、自分が心の底から求めていた理想像に近付くように。
和也はゆっくり光輝の元に近付くと、光輝の背丈まで身体をかがめ、そっとその小さな両肩に触れた。
「遅くなって……ごめん光輝……」
言葉にした瞬間、涙が溢れた。
「……和也……にいちゃん……」
始めて声にした光輝の声は小さく震え、必死で作りあげていた静の仮面が見る見る剥がれ落ちていった。そしてくしゃくしゃに歪んだ顔のまま、光輝はありったけの力を込めて和也の首にしがみついた。
「わぁぁぁ???んっわああぁぁぁ???ん」
緊張の糸が途切れたのか、光輝は河村の姿も目に入らないまま和也の首にしがみついてずっと泣き続けた。
「……帰ろうな光輝。また一緒に暮らそう???」
和也は優しく光樹の背中を擦りながらそのまま抱き上げると、河村を見た。
「そうだな。新しい場所で……新しく始めよう」

河村は園長に深々と頭を下げると、光輝の荷物が入ったたった一つの小さな紙袋を持って玄関を出た。 
光輝は玄関を出ると安心したのか、しゃっくりをあげながらも徐々に泣き止んだ。
和也の胸に顔を埋めたままだった光樹は、頬に触れた風に顔をあげると、ふいに空を見上げた。
「……どうした?光輝」
何かを探す様に、黙ったまま空を見つめる光輝に、和也はそっと声をかけた。
「???パパは死んでない?」
光輝は自分が言った言葉に不安を感じたのか、呟いた後にぎゅっと和也にしがみついた。
そんな言葉を確か以前聞いた事があった。
光輝を抱きしめながら、和也は幸せだった懐かしい記憶を思い出した。
『???死んでない?』
そう光輝が言葉にしたのは、和也の腕の中で、疲れ果てていた颯太が気を失う様に眠りに落ちた時だった。???そうだ。光輝は母親が亡くなるのを見ているのだ。
「ああ。大丈夫だよ光輝。???パパはちゃんと生きてる」
その時も確か同じ言葉を言った気がした。
光輝は和也の答えにほっとした様に微笑むと、甘える様に柔らかな頬を和也の胸に押し付けた。
「……一緒に待とう。できる?光輝」
「???うん」

 光輝の小さな声を聞きながら、和也は深く瞳を閉じた。
自分の全てをかけて、颯太さんの大切な物を守ろう。
それが今の自分に唯一自分にできる事だと、和也は強く思った。
???そしていつか指先が繋がる距離にあなたを迎えに行こう。

だがまだ何も見えない未来に希望を抱く程、和也の溢れる涙は止まらなかった。

第三十一章  和也

 『何故お前が刺さなかったんだ???和也』

父親のその声がエンドレスに脳に突き刺さる。
『何故???』 

 いつまで経っても止まない雨が、バチャバチャと激しく音を立ててアスファルトに落ちていく。
???三日前から降り出した雨がまだ止まずに降り続いている。
雨垂れの音が耳に付いて離れない。

和也が部屋の隅にうずくまって両耳を塞いでいる。
止まない雨音は和也の中でウィルスのように増殖し、何度懇願しても止まなかった父親の凶行のように、永遠に続くような恐怖を思わせているのだろうか。
ぶつぶつと何かを言いながら???三日前からずっとあの場所でうずくまったままだ。 

(和也君???)

河村はキッチンの丸椅子に座りながら、窓の向こうに見える灰色の空に目を細めると、ゆっくりと部屋の中を見渡した。
刺激の少ないオフホワイトを基調とした1LDKのこの部屋に、河村の他に二人の人間がいる。
一人はヘッドフォンをして黙々とテレビゲームをしている十歳になった光輝と???
未だに死んだ父親の影に怯え続け、……心を病んでしまった???三十歳になった宮本和也。 藤森颯太の刑が確定してから七年の月日が経っていた。

 
 平静を保っていた和也が、心を病んでしまったのはいつからだったろうか???。
河村は和也のその背中を眺めながら思い出していた。

 『約束したんだ。颯太さんが出て来るまで、俺が代わりになって光輝を育てるって???』
同居を始めてからの数年間???和也は毎日楽しそうに食事を作り、掃除や洗濯をしながら一生懸命に光輝と日々を過ごしていた。
それは独身の河村にとって、少し気恥ずかしいくらいの、ぎこちないオママゴトだった。

 『おじちゃんがパパで、和也にいちゃんがママみたい』

河村にとって光輝が何気なく言ったその言葉は、決して嫌なものではなかった。
悠々自適だった一人暮らしに孤独を感じた事はなかったが、三人で暮らし始めて、改めて河村は一人ではない生活の温かさを実感していた。
だが今思えば、その時の幸福感が自分を油断させてしまったのだろう。
何故あの時???彼の過去や、彼が受けて来た痛みを知っている自分が、彼の精神の脆さに気付けなかったのかと、河村は唇を噛んだ。
 
 和也の中には、まだ恐ろしい父親の影が生き残っていた。
そしてそれは悪夢となって和也から睡眠を奪って行った???。

「……おじちゃん……和也にいちゃんが何か変なんだ」

二年前のある日、そう光輝に言われて河村は始めて気が付いた。
夢を見ているような虚ろな瞳。表情を失った白い顔???。
「……和也君?どうした、……和也君?」
河村の呼び掛けに、和也は虚ろに視線を向けるだけで応答はなかった。
「光輝君、和也君に何があったんだ?」
河村は、どうしてそうなってしまったのか、訳がわからなかった。
確かに、言葉少なに黙り込んだり、ぼんやりと考え込んだりと、思い当たりそうな所もあったが、河村はまさかそれが病の前兆だったとは思いもしなかった。

「……ちょっと前からだよ。何だか僕の声が聞こえないみたいになって……」
 

 光輝が言うには和也は玄関で河村を見送ると、ふらふらと部屋の隅に座り込み、ひざを抱えて右手の拳を口元に当て、ゆらゆらと揺れながら独り言を呟き始めるのだと言う。
まるでそこにいる光輝が見えていないかの様に和也は床の一点だけを見つめ、酷い時にはそのまま一日を終えてしまう事もあるのだと、光輝は泣きながら河村に訴えて来た。

「ねぇ和也にいちゃんどうしちゃったの????僕が嫌いになっちゃったの?」

河村は言葉を失った。
世話になっていると言う緊張感からなのか、和也は河村の前でだけはその状態を隠し続けていた。
だがそのせいで、光輝の告白を聞くまで全く、河村は和也の精神状態がこんな事になっているとは全く知らなかったのだ。

「???ちがう。光輝君が嫌いな訳じゃ無いよ。きっと疲れちゃったんだよ。……お医者さんに診てもらおうな」

河村は光輝を抱き締めながらそう言うしかなかった。
幸福にうつつを抜かしていた罰なのだと、河村は身震いをした。
 
 精神科の医者に言わせると、恐らく和也の中で、藤森颯太がいなくなってしまった事と父親から受けた虐待の記憶が大半を閉めており、父親が死んだ事実が霞んでしまっているのでは無いかという事だった。つまり彼の中では父親は死んでおらず、永遠に恐怖を与え続ける悪夢によって彼は不眠に陥り、ついに精神状態が崩壊してしまったのだ。
 和也がそうなってしまった事は光輝の心にも暗い影を落とした。
彼の体験して来たものがそうさせるのだろう。とても気を使う子供だった光輝は、和也の変化に敏感に気付くと、私にテレビゲームをねだった。
『僕一人で遊ぶよ。……あと音が静かなやつがいいな。大きな音をたてると和也にいちゃんが怖がるから???』

 「……和也君、和也君……聞こえるかい」
河村は和也の肩にそっと触れると、顔を近付けて和也の目を見た。
「…………河村さ……」
不安そうな視線がきょろきょろと揺れていたが、和也はゆっくりと耳を塞いでいた両手を外し、まるで霞が開ける様に目を見開いた。河村はその両手を掴み、私は静かに告げた。
「……今日、藤村颯太さんが仮出所で出て来るよ。……迎えに行こう」
その時、和也の瞳が大きく揺れた。
「……迎え……」
「ああ、そうだ。彼がこちらへ戻って来る。???もう待たなくていいんだ」
「戻……る?」
「ああそうだ。やっと???会えるんだよ」

 和也の脳裏に河村の声が、いつもよりはっきりと届いた。
確かに、颯太が戻って来ると???。
だがその瞬間、ほんわりとした喜びの感情が、真っ赤に染まった記憶に打ち消された。
颯太。颯太の手は???紅い。
「や……っだめだ……お???俺は颯太さんに会えない???」
突然そう叫んだ和也が、河村の手を降りほどいて立ち上がった。
「……和也君っ」
「颯太さんの手が???ああ……っごめんなさい、ごめんなさい???」
何度もそう繰り替えしながら、和也はふらふらと数歩歩いた所で、ひざを付いて崩れ落ちた。
和也が颯太を迎えに行ける状態では無い事は一目でわかった。
和也にとって藤森颯太を事件に巻き込んでしまった事が、相当の負荷になっているのだろう。
河村は仕方なく、隣の部屋にいた光輝を呼び、こう言付けた。

「……どうやら和也君を連れて行くのは無理みたいだ。俺がお父さんを迎えに行って来るから ???和也君を頼んでもいいかい?」
「……うんいいよ。和也にいちゃんは僕に任せて」
「ありがとう」

 河村は家を出ると、タクシーを呼び止めた。


第三十ニ章  リアル


 (この扉の向こうから、彼は本当に出て来るのだろうか???)

 堅く閉ざされた鉄の扉を前に、河村は汗ばむ手の平を握りしめた。
何度も願った瞬間がいざ訪れるとなると、不思議な事にそれさえも嘘の様に思えて来る。
河村は乾いた唇を何度も舐めた。
七年と言う長い間、外界から閉ざされたこの場所で生きて来た彼が、今日……いや今、
この扉から出て姿を現そうとしている。
(???何を言えばいい?)
ここに来るまでのタクシーの中で、河村はいくつか颯太にかける言葉を考えたが、気の利いた言葉は一つも浮かんでこなかった。
本来なら裁判を終えた時点で、弁護士としての仕事は終わるはずなのだ。
ましてや服役を終えた人物の出所の出迎えなど河村にとって初めての事だった。
???だがこの緊張感がその事だけから来るもので無いことは、河村自身が一番わかっていた。
(……なんて言って謝ればいい???)

河村は深い溜め息を付いて、雨粒の降り注ぐ鈍色の空を見上げた。
???その時、ギギィという重い音が響き、開かれた鉄の扉から彼は静かに姿を現わした。

 

(???颯太……そう……た)

 その名を繰り返すと、吐き気を感じるような血の匂いが和也の脳内に甦った。
深い沼の底のように、淀んだ和也の意識に滲んだその名は???まるで劇薬の様にじわりと和也の意識に広がり、急速な変化をもたらした。
???全身の皮膚がざわざわと震えだし、毛穴から冷たい汗が滲む。
「ぅ……ぅ……うあ……あ???」
紅い、血のイメージが和也の脳裏に張り付いていた。
あの時、紅いあの海の中にいた颯太を自分は助けてやる事が出来なかった。
あのまま???時間が颯太を和也の元から奪っていった。
 
 口元に当てた右手の指を強く噛みながら、和也は声を上げ突然震えだした。
「……和也にいちゃん」
和也の変化に気付いた光輝は咄嗟に立ち上がると、和也の震えを押さえ付ける様に、跳ねるその肩を両手で強く抱き締めた。
「大丈夫、大丈夫だよ和也にいちゃん。落ち着いて」
「ち???血が……何で???」
「大丈夫……ゆっくり息をして……」
悲鳴のような声をあげ過呼吸になる和也を、光輝はその小さな身体でしっかりと抱きしめ、その背中を優しくポンポンと叩き続けた。
「はぁッ???はぁッは……ッ」
「落ち着いて???息して。……大丈夫、ここには僕と和也にいちゃんだけだよ」
けして声を荒げる事なく、落ち着いた声でなだめ続ける光輝の声に、やがて和也の動きがだんだんと納まり始める。そしてゆっくりと、光輝の腕の中で和也は喘ぐ様に息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
 
 ???静まり返った部屋の中に、窓の外の雨音と、和也の呼吸音だけが響いている。
何もかも無くなりそうな静寂の中、和也が小さく呟いた。
「……光……輝……」
「ここにいるよ。……大丈夫?」
光輝が優しく聞き返すと、和也は光輝の胸に顔を埋めたまま、そっと光輝の手に触れた。
「……手を………つないで」
「……うん、いいよ」
 光輝は求められるままに、和也の手に自分の手を重ね、指を絡めた。
そっと力を込めて握ると、小刻みに震えていたその手は和也の手の中でゆっくりと脱力していった。
「……和也にいちゃん、落ち着いて聞いて。???話しても大丈夫?」
繋いだ手に力を込めながら、光輝は静かに話だした。
「???大丈夫」
「……今日パパが戻って来るよ」
その瞬間、光輝の手の中で、和也の手がびくりと跳ねた。
「???大丈夫?」
和也の反応に細かに気を配りながらそう言うと、光輝は少し胸元から和也の身体を離し、その顔を覗き込んだ。
その瞳には激しい動揺が見られたが、口元はきつく結ばれ、意識ははっきりと保たれている様に見えた。和也は大丈夫だと言う様に静かに頷いた。
「……河村さんが今迎えに行ってる」
「???じゃぁ……もうすぐここに……?」
そう言った和也の声は喜びではなく、怯えていた。
そして和也は今にも逃げ出しそうに、絡めた指を離そうともがき始めた。
だが光輝は両手でその手を掴み、けして離さなかった。
「???怖がらないで、大丈夫……パパは和也にいちゃんを恨んでなんかいないよ」
光輝は真直ぐに和也の目を見ながら、強い口調で言った。
和也もその強い視線に怯えた瞳を見開いた。
 
???光輝が始めて『正確に』七年前の出来事を知ったのは二年前の事だった。

光輝が幼かった事もあり、河村は精神年令が落ち着いてから真実を告げようと、それまではオブラートに包んだ説明で、何とか光輝の純粋な質問から逃れて来ていた。
だが和也が精神を病んでしまった事を期に、河村は真実を伝える事を決めた。
ショックの大きい内容なだけに、告げる事さえためらわれたが、河村は光輝に、知らない不安より知った現実を受け止めて、和也と共に過ごして欲しかった。

光輝は激しいショックを受けながらも、ゆっくりと真実を呑み込んだ。
七年前???自分を保育園に預けたまま迎えに来なかった父親に、何があったのか。
何があって自分は施設に入れられ、父親に会えなくなってしまったのか???

「パパは和也にいちゃんがいないとダメなんだ。……なのに何でそんなに不安になるんだよ。
……絶対に嫌いになんてなるはずないじゃないか」
そう叫んだ光輝の声は泣き声だった。
「……もう嫌なんだ。パパが悲しむの見たくない……ッ」
「光輝……」

 目の前で声を上げて泣く光輝を見ながら、和也の心は混乱していた。
(泣かないで???泣かないでくれ光輝。胸が詰まる???息が出来ない)
でもあの地獄のようなリアルを消していいはずがない。
自分の求めるまま差し出しても???彼が許してくれるはずがない???。

 その時、一台の車が家の前に停車する音がした。


第三十三章 再会


(???どうしよう)

 河村はそんな事を今になって考えている自分が腹立たしかった。
結局、彼には何も伝えられないまま、ここまで来てしまったのだ。
これまでも何度もチャンスはあったはずだった。
いやむしろ、どうして先程のタクシーの中で伝えなかったのか。
河村は何度も掛ける言葉を考えた。
だが???自分の目の前にいる、七年振りに家族と再開する男の、きらきらとした希望と期待に満ちた瞳を見ると、どうしても言えなかった。

「???ここに……」

そう呟くと颯太はその扉の前で動きを止めた。
あの日置き去りにしたままのイメージが、七年という長い月日に色褪せる事なく昨日の事の様に甦る。
保育園に預けたまま迎えに行けなかった、まだ三歳だった光輝。
そして生臭い血の記憶と???ボロ布のように傷つけられた和也の姿。
最後に握った和也の???あの手の平の感触が忘れられない。
いくら考えてもリアルを感じる事が出来なかった七年間???。
だが今はこうして、思う相手が手の届く場所にいる。

「……ああ、二人とも僕の事がわかるかな……こんなに年を取ってしまったし……」

 颯太は扉の前に立ったまま、そわそわとするばかりで、なかなかその扉を開ける事が出来ずにいた。
七年の間に、彼は三十九歳になった。
事件当時から彼等に関わってきた河村の目から見ても、颯太の姿は白髪の混じり始めた髪と、痩せて落ち窪んだ目元以外は、そんなに当時と変わった気はしなかった。
長い年月を経てしまったと言う負い目が、そう不安に思わせるのだろう。
「……大丈夫ですよ。それよりあなたが光輝君に気づけるかどうか……彼は大きくなりましたから???」
河村は少し微笑みながらそう言った。
大人の七年と子供の七年とでは、その容貌の変化は大きく違う。
幼かった三歳の光輝は今や十歳。……河村にとって和也の面倒を見てくれる頼もしいパートナーだった。……今は光輝と和也の立場は逆転してしまった訳だが……。
心の中でそう皮肉に思いながら、???河村はやっと覚悟を決めた。
???もう弁解の余地はない。素直に今の和也を見てもらうしかないと。
颯太に会った和也がどうなってしまうかはわからない。
だが自分を犠牲にしながらも和也をあの場所から救った颯太なら、和也を戻せるような気がした。 
 河村の言葉に、颯太は改めて自覚した様に大きく目を見開いた。
「あ……ああ、そうか。年をとったのは僕だけじゃないんだ……」
「さぁ……みんな待ってますよ。どうぞ」

 その扉は颯太が思っていたよりも簡単に、小さく軽い音を立てて開かれた。
そして開いた玄関に真っ先に振り向いたのは光輝だった。
「???パパッ?」
懐かしい響きの残るその声と同時に、部屋の奥から駆け寄って来る少年の姿があった。
「こ???光輝……?」
記憶に残っている柔らかな薄茶色の髪???。
颯太の身体に体当たりをする様に、勢い良く抱きついてきた光輝に、颯太は思わずよろめいた。
抱きついて来たその身体は信じられないくらいに力強く、背丈も颯太の腹の当たりまであった。
「パパッ???パパッ……ッ」
光輝はただそう何度も叫びながら、何度も力を込めて父親の身体を抱きしめた。
颯太の下に、夏の新芽の様に伸びやかに成長した光輝の姿があった。
「ほ???本当に光輝なのか……?」
颯太は思わず光輝の肩を掴み、腰をかがめて視線を合わせた。
そこには黒目がちの大きな瞳が、涙に濡れて真直ぐに颯太を見つめていた。
「そうだよパパ???僕光輝だよ……」
『もし光輝に会えたら???あの日迎えに行けなかった事を謝ろう』
そんな事を思っていたはずだった。???だがもう言葉は出て来なかった。
手の中に、夢に見たものが温かく存在している。
「???あぁ……」
咽の奥が熱く膨張し、呼吸の通り道を塞いでしまいそうな感覚。
颯太の口からはくぐもったうめき声のような泣き声だけが漏れた。

???『ごめ……なさい』『ご……めんそ……た』

「????」
光輝を抱き締める颯太の耳が、違和感のある微かな響きを捕らえた。
思わず颯太は顔を上げ、部屋の奥に視線を向けた。
部屋の奥???そこには丸めた大きな背中が、ゆらゆらと揺れていた。
(……和……也?)
抱き締められるその胸の中で、光輝は一瞬硬直した父親の異変に気付いた。
光輝は嫌な予感を感じながら、父親の顔を見上げた。
部屋の奥にいるそれが、何なのか。
目を見開き、眉をひそめ、必死に理解しようとしている。
だがそれが何なのか知りたくない。???そんな顔だった。
「……河村さん?」
光輝は颯太の後ろでバツが悪そうに下を向いている河村に声を掛けた。
河村はその声に気付くと、光輝に向かって両手を鼻の前に合わせ、頭を下げた。
『???言えなかったんだ……ッすまない光輝君』
そう光輝と河村の間でアイコンタクトが交わされている事に、颯太が気付くはずもない。
その胸の中に光輝がいる事を忘れてしまったかの様に、颯太はふらりと立ち上がった。
「???嘘だろ……」
そう呟くと、颯太は、ゆっくりと部屋の奥へ足を勧めた。
光輝と河村は黙ったまま、その息が止まるような光景を見守った。
「???か……和也?」
震える声でそう名を呼んでも、ゆらゆらと揺れるその背中は何の反応も見せなかった。
足の先から全身の血液が流れ出ていくようなリアルを感じながら、颯太はゆっくりとその背中に近付き、ようやく和也の真後ろまで辿り着いた。

第三十四章最終回  もう一度あの場所へ
      


「???かず……」

そう言って和也の肩に颯太の指先が触れた瞬間、和也はまるでその背筋に何かが走ったように、びくりとその背を反らせると、怯えた表情で颯太の方を振り返った。
 伸びた前髪の奥に、辛うじて残る生命の光???。
だが唇はぶるぶると震え、両腕を力一杯抱えて身体を縮めている。
それはもう颯太の知っている宮本和也ではなく、追い込まれた末の獣のようだった。

「……パパ……ごめん、和也にいちゃんは後ろから急に触られるのは凄く苦手なんだ」

光輝はそう言うと、ゆっくりと和也のそばに歩み寄った。
そしてすぐ隣に座ると、和也の背中を摩りながら静かに言った。

「……怖くないよ。パパだよ和也にいちゃん。思い出して、颯太パパだよ」
「……そ…ぅ…た……?」
光輝の声が届いたのか、その名を呟くと、力の入った和也の指先がゆっくりと弛み始めた。
そして弛んだその両手をそっと手に取ると、光輝はまるで小さな子供に話し掛ける様に、優しく囁いた。
「……ずっと会えなかったけど、……もう一緒に暮らしていいんだって」
「……一緒……?」
 
 そう言って虚ろな瞳を向け、颯太を見る和也の視線は、ふわふわと漂い、空中を彷徨いながら颯太の横をスルーして行くようだった。
(???なんだ?)
絶望に近い喪失感が颯太の全てを被い、重力のままに引きずり込まれそうな感覚が足下をふらつかせる。握りしめた拳が冷たく血の気を失う。
(???なんで……こうなってしまったんだ?)
颯太は立ち尽くしたまま、その、『和也』ではない何かに怒りの感情が湧くのを感じていた。
『怒り?』???わからない。
ただ???それはまるで置き去りにされたような孤独感。
あの日、引き離された手は、自分さえ我慢すれば元に戻れるものだと思っていた。
なのに???和也は自分を置いてまた……いなくなってしまったのか?
行き場のない怒りに握りしめた拳が震える???
(なんで???待っていてくれなかったんだ)

「???パパッ?」
気付いた時には、颯太は部屋に乗り込み、悲鳴をあげる和也の肩口を両手で掴み上げていた。
「何で???何でだよ和也っなんで……っ」
「ひっ……」
「……一緒にあの場所に戻るんじゃなかったのか……ッ?」
どんなに力一杯和也の身体を引き寄せて、どんなに叫んでも、ただ弱い者いじめをしているような和也の悲鳴が響くばかりだった。
どうにもならないのだと、冷静な神が脳の裏側で告げる。
だがそれでも???叫ばずにはいられなかった。
「なんで???何でそんな目で…っ僕がわからないっていうのか……っ」
「や……ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
込み上げる感情が暴走し、コントロールが利かなくなる。
颯太の感情を受け止める事なく、怯え、顔を背ける和也に、カッとした颯太は思わず手を上げてしまった。
???パンッ
乾いた音が響き、一瞬空気が凍り付いた。
そんなに強く殴ったつもりはなかった。軽く頬を張っただけのだったはずだが、和也の身体は、まるで芯が抜けた様にがくんっとその場に崩れ落ちた。
「???和也にいちゃん……ッ」
その瞬間、顔色を変えた光輝が、颯太の足下にうずくまっている和也の元に飛び込んできた。
「やめてパパ……ッ和也にいちゃんは、まだお兄ちゃんをいじめていたお父さんが生きていると思っているみたいなんだ……っだから……お願い叩かないで……っ」

 酸素で溺れそうになる。
頭に上った血が酸素を要求する。想いの全てが防弾ガラスを前に砕け散ってゆく。
一度も思った事はなかったが、『宮本敬三を殺してしまった罪の為に』刑に服したと嘘を付けば、少しは楽になれるのだろうか。
この場所に辿り着く為に費やした時間は、けして和也の為じゃなかったと、
???誰かがそう言ってくれれば。

「和也……っ頼むから生き返ってくれよ……っ」

その場に崩れ落ちた颯太の血を吐くような叫びに、光輝は思わず眉をひそめた。
それは河村も同じだった。
『和也がこうなってしまったのは自分のせいではないか』と何度も自分を攻めた。
 痛みさえ感じるような絶望。
灰色の壁の中で、七年の間に膨らんだ期待の穴は、途方もなく大きく深く???
颯太を呑み込もうとしていた。

「???た……たすけ……て」

光輝の腕の中で、微かな声が救いを求めた。
その声に、はっと顔を上げた颯太は、息を呑んでうずくまる和也を見た。
和也の手が、何かを求めて空中をもどかしそうに動いている。
「た???たすけて……たすけて???せんせい……」
「???和也……?」
颯太は思わず立ち上がり、空中を彷徨う和也の手を握りしめた。
「和也???大丈夫だ。助けに来たよ。???もう怖がらなくていいんだ」
その言葉に、颯太の手の中で震えていた和也の手が、ゆっくりと静寂を取り戻して行く。
そして霧が晴れる様に合ってゆく和也の焦点が、ゆっくりと颯太の顔を捕らえ始めた。
「そう……た」
「ああ……そうだ。僕だよ和也。???遅くなってごめん。……やっと助けにきたよ」

 ゆっくりと深海から浮上する様に、和也の瞳から恐怖が消えてゆく。
そして溢れた涙は、いつから恐怖の土の下で封印されたままだったのか。
「???颯太さん……?」
はっきりとした声でそう名を呼ぶと、和也は光輝の腕の中から自ら身体を起こし、颯太の胸に飛び込んだ。抱き締めたその胸の中で、随分と骨張ってしまった和也の身体は、大きな背丈のわりにはとても頼り無かった。
???だがその皮膚の感触や臭いさえ懐かしい。
遠い昔、寂しさを埋める様に求めあったあの夜が瑞々しく甦る。

 口付けを交わしあうのは自然な流れだった。


「???河村さん、僕なんだかお腹が空いて来ちゃった」

 玄関に立ち尽くしたまま二人に視線を奪われている河村に、光輝はそっと近付くと、小声でそう言った。
「……へ?」
「今日はパパが返って来たんだもん。お祝しようよ。買い物に行こう」
「えっ……でも」
「???いいからっ行こう!」

突然言い出した光輝の態度に、河村は訳がわからないと首をかしげながらも、光輝に連れ出されるまま外に出た。

 滑らかな接触面が、小さく音を立てドアが閉じた。
二人の口付けはまだ続いていた。
求めるまま、そして確かめながら???。
 
 颯太の冷たい指先が皮膚の上を這う度に、和也の慣れない肌がびくびくと跳ねる。
身体にまだ残る不安感が、和也の声を殺させ、緊張はすんなりとは解れなかった。
それでも、颯太の首にしがみつく様に絡めた和也の腕は、必死にその遠い昔に感じた感覚を取り戻そうとしているようだった。
「???うっ……んん……ッ」
「大丈夫……怖くない和也。もっともたれ掛かって……」
まだ不安定な和也の心は、その下半身へも高まる感情をぎこちなくさせた。
もどかしく腰を揺らす和也の下腹部を、颯太は優しく撫でながらそっと唇を重ねた。
「大丈夫……ゆっくり取り戻せばいい???」
 
 時間が経つにつれて、和也の身体はゆっくりとその空気に慣れていった。
まるであの世から現世に戻った様に、目覚めた皮膚が、温度が、少しづつ順応してゆく。
やがて和也の身体は触れられる感触を貪欲に求め始めた。
熱さを帯びたその皮膚に、幾筋も浮かび上がる痛みの跡???。
固く、天に向かって快感を求める和也の高ぶりを、颯太は優しく唇でなぞり、舌先で何度もなぞり上げた。
「ああっ???そこ……やだ……ッ」
波のように激しくやってくる快感に、和也の白い身体は絶えずびくびくと跳ね上がった。
汗ばんだ薄い皮膚の下で、痙攣する和也の筋肉が美しい陰影を浮かび上がらせている。
(ああ???なんて……)
逃げる和也の腰を捕まえながら、颯太はうっとりと思った。
「……和也……力を抜いて」
背中の薄い筋肉をなぞるように下りた颯太の指先は、和也の耳元にそう囁くと、ゆっくりと和也の双丘の奥にそっと触れた。
「ひ……っ……あ」
途端に固くなった身体を颯太は優しく撫で、その胸の突起に舌を這わせた。
「ぅあ……ああッ」
しがみつく和也の吐息が、不規則に乱れる。
和也の薄い胸の小さな突起は、唇で吸い、舌先でべろりと舐め上げると、赤く充血し、わななくように起立した。
やがて???固く閉ざされていたその最奥は柔らかく潤み、颯太の指をゆっくりと受け入れていった。
「は…………あ……っ」
ゆっくりと動き始めるその指の動きに、無意識にも腰が揺れる。
それを楽しむ様に、颯太の指は湿った音を立てながら、何度も抜き差しを繰り返した。
「和也……」

 始めて身体を合わせたのは???突然尋ねてきた和也と暮らし始めて、数日後の事だった。
あの時は妻が亡くなったばかりで、光輝を抱えて……見えない未来に不安ばかりだった。
寂しくて寂しくて???それを優しく包み、寂しさを埋めてくれたのが和也だった。
だから今は???

「……和也……ゆっくり腰を下ろして」
「……いや……だ………怖い……」

身体の最奥に打ち込まれる楔の記憶は、やはりあの恐ろしい父親と重なるのか。
颯太の首にしがみついた和也の声が不安定に揺れ始めた。
「和也???和也見て、目を開いて僕を見るんだ」
「や……」
「大丈夫だから……僕を受け入れて」

 颯太の優しい声に、怯えながらもゆっくりと、颯太の高ぶりを体内に深く突き刺してゆくその姿は、まるで父親の影から逃れる為の儀式のようだった。

目を閉じればいつでも現れる父親の姿に、何度も精神を左右されながら、和也は必死に颯太の顔を見た。下から叩き上げられる衝撃に体内を鋭く貫かれる度に、悲鳴のような和也の声が押し出される。
「ひ……っああっ???そう……た……っ」
「そうだ和也……良く見るんだ。今、おまえを抱いているのはあの男じゃない???」
「っ……ぁっ???う」
「???もうお前は誰の代わりでもないんだ」

身体を包む颯太の体温と、敏感な皮膚がびりびりと感じる快感の中で、颯太の声が何度も和也の耳元に囁いた。『お前は誰の代わりでもない。僕と光輝の為に戻って来てくれ』と。
 
 何度目かの追い立てられるような快感の後に、全身の神経が一気に解放を求め動き始めた。
呼吸が乱れ、心臓が内側からろっ骨を激しく叩くような???自分を保っていられなくなるような恐怖に似た感覚に、和也は必死で颯太の首にしがみついた。
「あっあ???……っ」

 まだ荒いお互いの呼吸音を心地よく聞きながら、和也はそっと肌の温もりに目を閉じた。
???温かな体温を実感した懐かしい記憶。
「……和也……」
颯太にまるで子供の様に頭を撫でられながら、和也はうっとりと顔を上げた。
「帰ろう。……もう一度あの場所で……一緒に暮らそう」
声が???涙に埋もれて出なかった。
颯太の言葉に、和也は黙ったまま何度も頷いた。
お互いを確かめあう様に絡めた指に、ぎゅっと力が込められる。

差し伸べた手にいつでも気づける様に、何度も振り返り、そして手をつなごう。
もう二度と、離れない様に。



                                             終わり。

手をつなごう

  
  最後まで読んで頂きありがとうございます!
  作品を書き上げた事のない私が、初めて迎えたラストですが、いかがだったでしょうか。
  皆様の御意見、御感想など聞かせて頂けると嬉しいです。
  よろしくお願いします。       
                                

                                             夏路殻巣

手をつなごう

妻の葬儀の日、突然十年前に教育実習で出会った教え子が、両親の虐待から助けを求めて会いに来た。幼子を一人抱えた中で奇妙な三人暮らしが始まる。 お互いの深い傷を知るうちに、ぬくもりを求め繋がりあう二人。 しかし二人の痛む心を癒す時間は、せまりくる闇におびやかされてゆく……。 苦しくて切なくて、求め続けて。 やっと触れた指先を二度と離さないようにずっと手をつないでいて。 そんな想いで書いたストーリーです。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-05-30

Copyrighted
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